FASE77+@deflag.utinaR312withCoV-2_Omicron#北山入り/【特論】硫黄の王権

目録

中国史書に残る「山北王」

 北山は沖縄側の史書には記されません。そこで中国側の史書に頼ることになりますけど、このアプローチでは怕尼芝・みん・攀安知の三王の名が浮かびます。

中国の史書『明実録』に登場する山北の王は、怕尼芝(はにじ)・みん・攀安知(はんあんち)の三王で、各王の交易記録を見ますと琉球国山北王怕尼芝(1383年~1390年)は7年間に6回、琉球国山北王みん(1395年)が1回の交易、琉球国山北王攀安知(1396年~1416年)が19年間に11回の交易を行っています。[前掲今帰仁村]

 出典が明実録と分かっているので、試しに中國哲學書電子化計劃を検索していくと何とか全件を確認できました。もちろん全て漢文なので下記に展開で収納しましたけど、なかなか味わい深いです。

明実録原文/帕尼芝⑥in大明太祖高皇帝實錄

 中國哲學書電子化計劃は全史書の横断検索が出来る驚異的なものですけど、三王ワードだけでは攀安知(はんあんち)王しかヒットしません。史料は大明太宗文皇帝實錄※。──太宗は永楽帝です。

※中國哲學書電子化計劃の書名検索上はなぜか「明實錄太宗實錄」

 明・清実録は皇帝毎に分割されています。上記今帰仁村が怕尼芝(はにじ)在位とする1383年~1390年は、明を建国した朱元璋=太祖の在位(1368(洪武元)年-1398(洪武31)年)に含まれます。だから、中國哲學書電子化計劃書名では大明太祖高皇帝實錄を探すと──「山北王」ワードでヒットしました。

※北山王の誤字ではなく、明実録上は「山北」で統一されてます。南山も「山南」。中山だけが「山中」とは書かれずそのままで、この点にも何か明朝側の含意があるように思えますけど、仮説すら見つけることが出来ず、個人的にも思いつきません。

 怕尼芝(はにじ)王の朝貢記事は、中國哲學書電子化計劃上はなぜか「帕」尼芝の用字になってます。先に言えば、「みん」(珉)王は「氏」字、これは完全に誤変換と思われます。
 なお「みん」・攀安知両王の明実録記事は、太「宗」分に掲載されます。二代明帝は建文帝(恵宗)ですけど、朱元璋(太「祖」)没後の建文帝による粛清に抗して永楽帝(当時・燕王)が帝位を得る靖難の変を経ており、実録は建文帝分無しに太祖→太宗と接続してます。
 ……と大変疲れる以上の歴史を前提に、太祖分の怕尼芝王記事と、太祖・太宗分の「みん」・攀安知両王記事を見ていきましょう。

❝怕尼芝①❞
 1383(洪武16)年1月

828 洪武十六年春正月(略)
830 ○詔賜琉球國中山王察度鍍金銀印並織金文綺帛紗羅凡七十二匹山南王承察度亦如之亞蘭匏等賜文綺鈔帛有差賜貴州宣慰使靄翠鈔百錠錦十五匹金帶一黎州安撫使芍德等各賜鈔帛及織金綺衣有差時琉球國三王爭雄長相攻擊使者歸言其故於是遣亞蘭匏等還國並遣使敕中山王察度曰王居滄溟之中崇山環海為國事大之禮不行亦何患哉王能體天育民行事大之禮自朕即位十有六年歲遣人朝貢朕嘉王至誠命尚佩監奉御路謙報王誠禮何期王複遣使來謝今令內使監丞梁民同前奉御路謙齎符賜三鍍金銀印一近使者歸言琉球三王互爭廢農傷民朕甚閔焉詩曰畏天之威於時保之王其罷戰息民務修爾德則國用永安矣諭山南王承察度山北王帕尼芝曰上帝好生寰宇之內生民眾矣天恐生民互相殘害特生聰明者主之邇者琉球國王察度堅事大之誠遣使來報而山南王承察度亦遣人隨使者入覲鑒其至誠深用嘉納近使者自海中歸言琉球三王互爭廢棄農業傷殘人命朕聞之不勝憐憫今遣使諭二王知之二王能體朕之意息兵餋民以綿國祚則天必佑之不然悔無及矣〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百三十四至五十一〕※算用数字は中國哲學書電子化計劃付番。以下同じ

 いきなりの長文です。残念ながら、これをいきなり読んでも意味不明でしたので、十年遡って前史を確認する必要があります。

❝察度①❞
1372(洪武5)年12月

61 洪武五年十二月(略)
88 ○杨载使琉球国中山王察度遣弟泰期等奉表贡方物诏赐察度大统历及织金文绮纱罗各五匹泰期等文绮纱罗袭衣有差〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之七十六+七十七〕


 1372(洪武5)年のこの記事が、初めての琉球の中国王朝への朝貢です。建国混乱時につけ込んだ倭寇の被害から、1368年に太宰府征西将軍府・懐良親王に朝貢を餌に倭寇取締りを要請した四年後。これには後世の尚氏王権による編集はかけられてませんから、新生明王朝が倭寇抑制策の希望を繋いだのは北山ではなく中山●●●●●●●●だったことになります。
 その後、上記1383年北山王までの推移を後掲長濱により確認すると──

① 1372年、明の皇帝が楊載を使い、中山王察度を「招諭」した。察度さっと王は弟の泰期たいきを遣い「表奉り方物を貢す」、明皇帝は中山王察度に大統暦と絹織物を授与した。
② 1374年、中山王察度は「貢馬」を明の皇帝に贈り、皇帝から大統暦を授かった。明の皇帝は琉球から馬を購入するため、対価品(絹織物、陶磁器、鉄釜)持参で使者・李浩りこうを派遣した。
③ 1376年、李浩は40頭の馬と硫黄5千斤を購入しで帰国した。
④ 1377年、1380年、1382年に、中山王察度は泰期と亜欄匏あらんぼうを使い、「馬と硫黄」を明の皇帝に貢ぐ。明の皇帝から見返り品(回賜品)として絹織物を受け取った。
⑤ 1383年、明の皇帝は路謙ろけん梁民りょうみんを派遣して中山王と山南王①に鍍金ときん銀印を授けた。中山王、山南王、山北王にお互い争わないよう平定勧告した。そして、983頭の馬を購入して帰国した。
⑥ 1385年、明皇帝は山南王②と北山王に鍍金銀印を授けた。また、中山王と山南王に輸送船を提供した(歴代宝案には永楽代1425年までに30隻を提供し、船長や船員、通訳などの人材も派遣したことが記録されている)。
⑦その後、三山王は競い合って貢馬と硫黄を明皇帝に贈った。
中山王は 察度と武寧
である。
山南王は 承察度・汪英紫・汪応祖•他魯毎
である。
北山王は 伯尼芝・珉・攀安智
である。
〔後掲長濱〕※末尾ゴチック及びスペース・改行は引用者

 まず注目すべきは、明建国直後の安定化の一貫としてなされた周辺慰撫・服属の一方面だったことです。琉球への朝貢要請は「貴州宣慰使」や「黎州※安撫使」(→原文 ※黎州:現・四川省)と並列に記されてます。
 けれどその三地域の中では、「琉球國三王爭雄長相攻擊」と琉球三王が最も争いの絶えない状態だったこと。中華思想的に一番野蛮な争乱渦中の三国に和を求めた訳ですけど、本音は、倭寇抑制の最後の希望の政権には安定してて貰わないと困る、という所でしょう。
 ただ漢朝以降千年ぶりの漢族王朝・明朝は、「仲良くね♡」との大義と並行して、もちろんクールな戦術的外交も行ったはずです。朝貢要請や金銀印授与、船舶下賜を三山平等にはしていません●●●●●●●●●●●●。特に、中南部の交易を興隆させたと言われる船舶下賜から北山だけが漏れているのは注目すべきです。──理由は分からない。明側が中南山にテコ入れした……ということは北山を仮想敵、もしかすると倭寇と同一視していたのか?あるいは単に、強く反抗的な北山に拮抗する勢力を育成したのか?
 琉中交易史になぜかあまり描かれないことですけど──清ではやや後退するにせよ、漢族王朝・明朝は相当にクレバーでスニーキーな商売相手で、だからこそ琉球の外交術は高度化したのです。
 ただその意味で言えば、三山の異色性はさらに際立ちます。尚氏の久米三十六姓のような外交顧問エリートが、三山時代には姿を現しません。これは伝承される同集団の由緒「明の洪武帝より琉球王国への下賜」というのが、実は正確だった可能性を秘めます。「尚王朝」が明朝派遣の顧問団を核とする傀儡貿易国だった可能性です。

❝怕尼芝②❞
 1383(洪武16)年11月

1 洪武十六年十一月(略)
22 ○甲申琉球國山北王帕尼芝遣其臣摸結習貢方物賜衣一襲〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百五十八〕

 この時の使者・模結習の他、この後に見える甚模致、善佳古耶、恰宜斯耶、亜都結制、赤佳結制などの個人名称は、中国名としては妙で、沖縄名と考えられていますけど、個人の特定はなされていません〔wiki/北山王国〕。
 明の対応は「賜衣一襲」。一年も経たない初回の記事に比べ、「あ、そう?」という感じで異様なほどに簡素です。
 さて、次の記事は159巻の記事だけれど上記前巻158巻の内容とダブるようです。1384年1月の内容は11月から滞在したもののように読めますから、これは上記と一連のものと考えるべきでしょう。

❝怕尼芝②(再)❞
 1383(洪武16)年11月
 1384(洪武17)年1月

1 洪武十六年十一月(略)
22 ○甲申琉球國山北王帕尼芝遣其臣摸結習貢方物賜衣一襲
38 洪武十七年春正月(略)
39 ○琉球國中山王察度山南王承察度山北王帕尼芝暹羅斛國王參烈寶毗牙<娍謁跡玖ǘ(ママ)唄蘼患霸頗纖拇ê廣諸蠻夷酋長俱遣使進表貢方物賜文綺衣服有差〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百五十九〕

 39後半部は誤変換が多いらしくよく分からん。でも「暹羅斛」は伝説国・暹(せん)国が羅斛(らこく)を併合して生まれた由来による、タイの古名〔後掲香雅堂〕なので、各地の「酋長」が「賜文綺衣服」──中華文明の恩恵を享受する儀式が大々的に行なわれ、三山はこれに参加させられたようです。
 裏読みし過ぎかもしれませんけど──この前々月にわざわざ時を違えて訪れた北山使節は、中山南山を含む「酋長」と同格と見なされるのを拒む姿勢を見せたのかもしれません。いずれにせよ、北山使節は、おそらくその意に反し2ヶ月も金陵(現・南京:明首都)に待機させられたと思われるのです。

❝怕尼芝③❞
 1385(洪武18)年1月

1 洪武十八年春正月(略)
7 ○河南府知府(略) ○賜琉球國朝貢使者文綺鈔錠及以駝紐鍍金銀印二賜山南王承察度山北王帕尼芝又賜中山王察度山南王承察度海舟各一〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百七十〕

 翌年の交易でも、三山は揃い踏み。1月の時期の重なりは季節風の関係によるのでしょうけど、同一船団を組んだ可能性もあります。
 三回目の明朝は、なぜか金銀印と交易船供与の大盤振る舞いをしてます。けれどここでも、不均一対応をしてます。双方とも受けた南山は、当時明側の最もご贔屓だったのでしょうか?また印も「金銀印」ですから、北山・南山に金印と銀印の何れかが与えられた可能性もあります。
 次の北山の入貢は三年後。もしかすると三年一貢の制が了解されたのかもしれません。

❝怕尼芝④❞
 1388(洪武21)年1月

70 洪武二十一年春正月(略)
90 ○戊子琉球國山北王帕尼芝遣其臣貢方物〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百八十七至九十〕

 この回も極めて簡素な表記です。明実録の手抜きでなければ、三年振りの来航なのに、です。
 次の半年後の北山・怕尼芝王五度目の入貢は、期間も短く態様も異なる。1388.1入貢で、明朝外交筋から苦言を呈されたのではないでしょうか?

❝怕尼芝⑤❞
 1388(洪武21)年8月

1 洪武二十一年八月(略)
52 ○丁亥琉球國中山王察度山北王帕尼芝遣其臣甚模結致等上表賀 天壽聖節貢馬賜來使鈔有差〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百九十三〕

 中山・北山が揃って入貢すると、記事の温度が一変してます。「天壽聖節貢馬賜來使鈔有差」──「天壽聖節」は現世皇帝のお誕生日、現代日本の天皇誕生日です。「鈔有差」は何か分からんけど、明実録の賜り物として何箇所も出てくる。「鈔」は交鈔≒紙幣です。「有差」は「特別な」でしょうか?とにかく、誕生パーティーで琉球側は馬を貢ぎ、返礼品を受けてる。
 1388(洪武21)年の2回の進貢の過程からは、明朝が対中南山を優遇し、北山は親中南山の顔を繕わざるを得なくなったことが想像されるのです。
 なお、琉球馬を明朝側が有難がったか?という素直には否定したくなる点については、様々な論考があります。その中で、最も硬い考古学的知見によると本島北部に馬は稀●●●●●●●●だったらしい。

※中南部で馬が対中交易に用いられたことは、次の沖縄側民謡(おもろ)から、かなり確実視できます。
「1117 一 おざの、たちよもいや、
たう、あきないはゑらちへ
あんしに、おもわれれ
又 いちへき、たちよもいや(略)
1119 一 おざの、たちよもいや、
いちへき、たちよもいや、
かかみ、いろの、
すてみつよ、みおやせ
又 おざとけす、うまた
しけち、かめ、はわて
又 おざとけす、あすた、
御さけ、もち、はわて」
▷現代語訳:1117 宇座うざ泰期様たいきさまは、       
唐商とうあきない 流行はやらせて         
按司あんじに おもわれて
意地気いじき泰期様たいきさまは、 (略)
1119 宇座うざ泰期様たいきさまは、
意地気泰期様いじきたいきさま
鏡色かがみいろ巣立水すだつみずを 差し上げよ
宇座うざ 渡慶次とけし 御馬みうま、         
御神酒おみき かめ つらねて
宇座うざ 渡慶次とけし 長老等あすら
御酒おさけ 餅 連ねて
〔後掲おもろさうし〕
※宇座:読谷村内。読谷半島西北端、座喜味城跡から北西3km

表2 馬の遺骨が出土した遺跡〔後掲長濱〕
凡例:◎カムイヤキ ▲滑石製石鍋 △滑石製品 ★玉緑白磁碗 ☆白磁

 この点を執拗に掘り下げているのは、馬をメイン商品とした琉中交易は、北山を売り手としなかったという点を明らかにしたいからです。
 この点を前提に、1年半後の次回進貢の内容を確認します。

❝怕尼芝⑥❞
 1390(洪武23)年1月

1 洪武二十三年春正月(略)
41(略) ○琉球國中山王察度遣使亞蘭匏等上表賀正旦進馬二十六匹硫黃四千斤胡椒五百斤蘇木三百斤王子武寧貢馬五匹硫黃二千斤胡椒二百斤蘇木三百斤山北王帕尼芝遣使李仲等貢馬一十匹硫黃二千斤而中山王所遣通事屋之結者附致胡椒三百餘斤乳香十斤守門者驗得之以聞當沒入其貨詔皆還之仍賜屋之結等六十人鈔各十錠〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百九十九〕

 メイン商品である馬と硫黄だけを抽出します。
中山:馬26匹 硫黃4千斤
北山:馬11匹 硫黃2千斤

 両商品とも中山が2倍。かつ、中山は胡椒・蘇木・乳香など東南アジア産の福産物を貢いでいます。
 馬の産地を地勢緩やかな中南部、後で触れる硫黄産地を琉球列島北部と想定したとしても、要するに中山は1390年段階で三山中最も総合商社化に成功していることが明白な数字です。
 逆に言えば北山は、1390年段階までに対明商戦で敗北してます。対中山でシェア半分にまで落としてる。
 別の視点を採ってみます。明実録上、「硫黄」ワードで最初に出現する記述は大明太祖高皇帝實錄卷之十二。处州(處州:隋-元呼称、現・浙江省麗水市一帯)翼总制胡深※が1363年(癸卯=明建国1368年の5年前)閏三月に物資不足を訴えた文章の中に、硫黄があります。

※おそらく役職=「翼总制」、姓名=「胡深」

 二つ目のヒットが琉球中山に係るものでした。上記の胡深さんの訴えからは15年経ってますけど、前記中山察度①初入貢の4年後、北山怕尼芝①初入貢より7年前です。

❝察度❞
1376(洪武9)年3月

30 洪武九年三月(略)
49 夏四月甲申朔刑部侍郎李浩还自琉球市马四十匹硫黄五千斤国王察度遣其弟泰期从浩来朝上表谢恩并贡方物命赐察度及泰期等罗绮纱帛袭衣鞾袜有差浩因言其国俗市易不贵纨绮但贵磁器铁釜等物自是赐予及市马多用磁器铁釜云〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百四至一百三十三〕


 中山国王察度は、初回1383年と同様に弟の泰期を使いとし、馬40匹と硫黄5千斤を貢いでます。先方の需要を憎いほどに汲んでます。北山の進貢が始まる前から、はっきりと北山を出し抜いているのです。

明実録原文/珉①・攀安知⑤in大明太祖高皇帝實錄

 前記の六回目が怕尼芝入貢の最後です。続く「氏」(珉)名での入貢は、次の一件きり。

❝珉①❞1395(洪武28)年1月

1 洪武二十八年春正月丙申朔 上御奉天殿受朝賀大宴群臣是日朝鮮國李旦琉球國山北王氏貴州宣慰使安的並金築等處土官各進方物馬匹〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之二百三十六〕※「氏」は「みん」(珉)の、中國哲學書電子化計劃による漢字変換誤りか、誤記と推定

 北山の5年ぶりの進貢は、朝鮮・貴州のそれと併せ、宴会の肴に供されたような書き方です。
 翌年からが三人目の北山王・攀安知(はんあち)の11回分。

❝攀安知①❞1396(洪武29)年1月

1 洪武二十九年春正月(略)
7 ○己巳琉球國山北王攀安知遣其臣善佳古耶中山王察度遣其臣典簿程複等各奉表貢馬及方物詔賜來使三十七人鈔二百四十七錠〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之二百四十四+二百四十五〕

 両山を記載するのに、北山から記述してます。
 北山王・攀安知は善佳古耶を、中山王・察度は典簿程複らを遣わした。「典簿程複」の後ろの「等」が、善佳古耶にもかかっているのかどうか微妙です。でも37人というのは北山+中山の数でしょう。つまりいずれにせよ明側は、37人を一団と見ている気配です。

❝攀安知②❞1396(洪武29)年11月

(前巻:大明太祖高皇帝實錄卷二百四十七 1 洪武二十九年九月)
1 十一月(略)
15 ○戊寅琉球國山北王攀安知遣其臣善佳古耶等中山王世子武寧遣其臣蔡奇阿<娯秒叮疽等貢馬三十七匹及硫黃等物並遣其寨官之子麻奢理誠志魯二人入太學先是山南王遣其侄三五郎亹入太學既三年歸省至是複與麻奢理等偕來乞入太學詔許之仍賜衣巾靴襪〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之二百四十八〕

 この記事も、北-中-南山の順です。
 北山の使いは善佳古耶らです。ただ後半、中山王子・武寧は、蔡奇阿らの大学入学を求めてます。南山の侄三五郎亹もこれに同調し、入学を許されている。文脈からして、この入学者の中に北山出身者は含まれていないようです。

❝攀安知③❞1397(洪武30)年3月

1 洪武三十年三月(略)
2 ○丙戌琉球國中山王察度遣其臣友贊結致山北王攀安知遣恰宜斯耶山南王叔汪英紫氏遣渥周結致各貢馬及硫黃〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之二百五十〕

 中山の派遣元は再び察度王、使いは恰宜斯耶。
 北山・攀安知王の使いは恰宜斯耶。
 南山は代替りして叔汪(英紫)王、使いは渥周結致。
「各貢馬及硫黃」──馬と硫黄を貢いだ、という淡々とした記述です。この記事だけ中山が一番手に記されてますけど、半年後の次の記事は北山が最初です。もしかすると物量順なんでしょうか?
 あと、この辺りから「各」が付き始めてます。一団ではなく、各王がバラバラに入貢し始めたのかもしれません。

❝攀安知④❞1397(洪武30)年9月

1 洪武三十年九月(略)
46 十二月己卯朔
(略)
49 ○癸巳琉球國山北王攀安知遣使恰宜斯耶中山王察度遣使友贊結致各上表貢馬及硫黃〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之二百五十五〕

 北山・攀安知王
 →使・恰宜斯耶
 中山・察度王
 →友贊結致
 貢ぎ物はやはり馬と硫黃です。

❝攀安知⑤❞1398(洪武31)年1月

1 洪武三十一年春正月(略)
6 ○丙辰琉球國山北王攀安知遣其臣進表貢馬〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之二百五十六〕

 半年後、これは北山単独で馬を貢納してます。使いの名すら記さない、淡々とした記述です。
 ここまでが明初代皇帝・太祖=朱元璋部分の実録です。淮河流域の流民の末子から身を起こした朱元璋は、上記記事の半年後・1398年6月に没。最後の四半世紀は功臣と知識人の粛清を繰り返したけれど、ここで生き残った四男・朱棣が、太宗・永楽帝として事実上の後継者となります。

明実録原文/攀安知⑥in大明太宗文皇帝實錄 

 北山・攀安知の進貢は5年間途切れますけど、これは名目上の二代皇帝・建文帝の駆逐戦を永楽帝が戦った靖難の変の期間です。革除と呼ばれる朱元璋以上の大粛清の中、建文帝の下で既に完成していた太祖実録も改訂され、建文帝時代の存在の痕跡を消し去ろうとした──ために明実録は太祖→太宗と接続してるのでした。
 以下三回は、北山単独で記述されます。

❝攀安知⑥❞1403(永樂元)年3月

1 永樂元年三月(略)
17 ○琉球國山北王攀安知遣使善住古耶等奉表朝賀貢方物賜鈔及襲衣文綺善住古耶致攀安知之言丐賜冠帶衣服以變國俗 上嘉之命禮部賜其國王暨陪臣冠服〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太宗文皇帝實錄卷十八〕

 攀安知王の派遣した遣使・善住古耶さんは、「攀安知之言」として「丐賜冠帶衣服以變國俗」──冠帯衣服を乞い賜り、もって国俗を変えたい──と奏上しています。
「国俗」は暗に、かつての海賊≒倭寇の風のことを表現したように思えます。これが書き留められているということは、明朝側にそれなりの衝撃を与えたということです。
 太宗(永楽帝)実録の「琉球」ワード初出を確認します。即位前の1402(洪武35)年9月に、次の記事があります。

1 洪武三十五年九月(略)
17 ○丁亥遣使以即位詔諭安南暹羅爪哇琉球日本西洋蘇門答剌占城諸國 上諭禮部臣曰 太祖高皇帝時諸番國遣使來朝一皆遇之以誠其以土物來市易者悉聽其便或有不知避忌而誤乾憲條皆寬宥之以懷遠人今四海一家正當廣示無外諸國有輸誠來貢者聽爾其諭之使明知朕意〔後掲中國哲學書電子化計劃/明太宗文皇帝實錄卷之十二上〕


 この時期、永楽帝は「諸番國」=野蛮な周辺国に使いを送っています。行き先は安南(ベトナム北部)・暹羅(タイ)・爪哇(ジャワ)・蘇門答剌(スマトラ)・占城(ベトナム南部)と手広い。この並びで、日本と琉球にも使者が派遣されます。──再確認ですけど、別に琉球にのみ派遣された訳ではないのです。
 発案者「禮部」は皇帝官房たる三省:中書省・門下省・尚書省のうち、尚書省帰属の六部中の「礼部」のことらしい。礼制・祭祀を所管する役所〔後掲世界史の窓〕ですけど、中華思想上は「外国贡使及翻译等事」を業務に含んだようです〔維基/礼部〕。
 県議内容は物凄く儀礼的表現ですけど──太祖(朱元璋)が既に入貢させた諸番国に「四海一家正當廣示」世界平和(の理念?)を広く示して「明知朕意」永楽帝の意志を明らかに知らしめるべし。即ち、ゼロクリアで臣従・交易を求めたのです。
 朱元璋から蔑ろにされてきた北山にとっては、チャンスです。逆に依怙贔屓して貰ってた中山にはピンチなので、中山王察度は北山の前月(1403(永樂元)年2月)に子・三吾良疊を駆けつけさせてます。

1 永樂元年二月{略}
39 ○己巳琉球國中山王察度遣從子三吾良疊等奉表賀且貢方物賜鈔文綺表裏及r(ママ)絹衣各一襲
〔後掲中國哲學書電子化計劃/太宗文皇帝實錄卷十七〕


 北山の記録より遥かに簡素です。皇帝か礼部かが、北山優遇に傾きかけた気配を感じさせます。
 元々、北山を明にとって無害にするのが目的だったとすれば、北山が臣従すれば、対抗する親明・中山を育成するより楽、という発想はむしろ自然です。あるいは政敵・建文帝を滅ぼしたばかりの永楽帝には、朱元璋に媚びへつらった中山を遠ざける、あるいはその敵の北山を近づけたい感情があったかもしれない。敵の味方の敵=味方という政治的感覚ですけど──次回以降の北山記事は、淡々としたものに復します。

❝攀安知⑦❞1404(永樂二)年3月

94 永樂二年三月(略)
110 ○琉球國山北王攀安知遣使亞都結制等貢方物賜錢鈔文綺彩幣〔後掲中國哲學書電子化計劃/太宗文皇帝實錄卷二十七〕

 使いは亞都結制ら。貢物は書かれず、返礼品は錢鈔文綺彩幣。
 さて、いわゆる「琉球王朝」がその権力の源泉と自認する中国皇帝による冊封の、通説で、初回とされるのがこの1404(永楽二)年です。察度王からの代替りを武寧が明・永楽帝に報告。これに対し明帝が冊封使を派遣、武寧が中山王に封じられる、という「儀礼」は、次のように実録に記されていました。
 つまり、琉球王の「冊封」とは原文ベースではこういうことなのです。

❝武寧❞
1404(永楽2)年2月 ❴初冊封❵

43 永樂二年二月(略)
75 ○琉球國中山王世子寧遣侄三吾良亹等以其王祭度卒來告訃命禮部遣使祭之賻以市帛遂詔武寧襲爵詔曰聖王之治協和萬邦繼承天之道率由常典故琉球國中山王察度受命 皇考太祖高皇帝作屏東藩克修臣節暨朕即位率先歸誠今既亡歿所宜有後爾武爾乃其世子特封爾為琉球國中山王以承廒世惟儉以循身敬以養德忠以事上仁以撫下克循茲道作鎮海邦永延世祚欽哉〔後掲中國哲學書電子化計劃/太宗文皇帝實錄卷二十七〕


 なお、この二ヶ月後に山南王が「山北王の例により」冠服を賜わっているとあることから、中山・南山(山南)に先立ち北山(山北)が入貢していたとの説もあります。

1 永樂二年夏四月(略)
16◯壬午 詔封汪應祖為琉球國山南王應祖故琉球山南王承察度從弟承察度無子臨終命應祖攝國事能撫其國人歲修職貢至是遣使隗穀結制等來朝貢方物且奏乞如山北王例賜冠帶衣服 上諭吏部尚書蹇義曰國必有統眾必有屬既能事大又能撫眾且舊王所屬意也宜從所言以安遠人遂遣使齎詔封之並賜之冠帶等物而偕其使俱還〔後掲中國哲學書電子化計劃/太宗文皇帝實錄卷三十〕


 察度王の子ゆえに冊封されたのだから、察度も冊封されていたはずだ、だから初冊封は察度だ、という議論が姦しいようです。でも以上見てきたような流れを頭に置くと、論点はそこじゃないことがご理解頂けるでしょう。
「三山」を称する実体的な交易主体は、緩やかな商人連合体でしょう。「神輿」の王権は、進貢の正統性を得るラベルに過ぎません。
 先に押さえておくと──明実録には「冊封」用字は頻出します。太宗代だけでも11例あります。けれど、この武寧の世襲記事には用いられていません。「以循身敬以養德忠以事上仁以撫下克循茲道作鎮海邦永延世祚欽哉」──礼儀正しくて海の平和「鎮海邦」のために「欽」良いことだよね、と賛同してもらってるだけです。
 素人として敢えて言うと──これを冊封と解釈してよいのでしょうか?
 本稿の発想では、中山は、北山に対する牽制者として存立した政治勢力です。牽制者として明朝から強力な支援を受けなければ存在できない。冷徹な中国皇帝とそのマシーンは、この構造をより徹底させようとしたでしょう。特に北山に追い風が吹く永楽帝即位直後、中山は属国化してでも明朝の歓心を買おうとし、明朝──特に礼部(≒外務省)はその構造を見透かしていた。
 琉球側が「冊封」と捉える──あるいは自主的に「冊封」と解する、代替りの度に中国皇帝の賛同を得なければならない仕組みは、現行日本国憲法下で国務大臣を天皇が認証したり、香港の行政長官が選挙で選出された後に中央人民政府(国務院)から任命されるのにそっくりです。中山王側の外交ブレーンは、この、求められてもいないのに行う王の交代の自主的な認証行為の特異性を、十分に理解していたのではないでしょうか?かつ、この認証を経た事を、三山の国内でたっぷり情宣したのではないでしょうか?
 つまり──1404年に中山は独立を放棄して三山中最も「中国ウケの良い」政体になりました。北山の追い落としという意味では、これは壮挙だったでしょう。というか、壮挙になるようにセッティングした認証儀式だったでしょう。
 武寧の在位は1396-1405年とされ、上記「売国」は王位について8年後。翌1405年には尚巴志・思紹により攻撃され、1406年には滅ぼされるのですから〔wiki/武寧〕、察度王に由来する王権授受自体が尚王統又はそのパトロン集団の演出──と判断できる状況証拠はバッチリです。
 15C初の沖縄中南部で争われたのは、琉球王権ではなく、最も明朝ウケの良い「北山≒倭寇牽制者」役だった、と考えるべきです。

❝攀安知⑧❞1405(永樂三)年4月

 北山の進貢はあと4回続きます。うち2回は中山「冊封」の翌年。つまり尚巴志の中山侵攻年です。

1 永樂三年夏四月丙寅朔享 太廟△琉球國山北主攀安知遣使赤佳結制等貢馬及方物賜以鈔錠襲衣彩幣表裏〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太宗文皇帝實錄卷四十一〕

 使いは赤佳結制ら。貢物は馬など、返礼品は鈔錠襲衣彩幣表裏。
 信長時代の戦国大名らと同じく、三山時代の感覚からは沖縄統一政権という事態は想像されなかったでしょう。中山が混乱しているチャンスに北山が交易を独占しよう、という発想があったかもしれないけれど、明側の体温はかくのごとくでした。

❝攀安知⑨❞1405(永樂三)年12月

1 永樂三年十二月(略)
33 ○琉球國中山王武寧山南王汪應祖山北王攀安知西番馬兒藏等簇四川貴州諸土官各遣人貢方物賀明年正旦〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太宗文皇帝實錄卷四十九〕

 この回は中山・南山・北山が揃い踏み。加えて西番はチベットでしょうか?四川貴州と併せ元旦のパーティーの肴に供されてます。
 あえて言えば、ここでの三山の席次では中山が一番、北山が最後。
 中山は尚巴志に滅ぼされかけている時期で、明朝進貢の主宰者が本当に武寧王だったか否かは疑われてますけど──いずれにせよ北山からの進貢は、これ以降10年間途切れます。

❝攀安知⑩❞1415(永樂十三)年4月

1 永樂十三年夏四月(略)
21 ○琉球國中山王思紹並山北王攀安知俱遣使貢馬及方物 升吏部左侍郎陳洽為兵部尚書賜鈔二百錠彩幣四表裏仍往交址參贊軍務〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太宗孝文皇帝實錄卷一百六十三〕

 1406年に中山を滅ぼした尚巴志が、1416年に北山侵攻、北山王攀安知をも滅ぼした、というのが尚王朝側の正史です。1416年という年は、前後に掲げた1415年の明実録上の進貢記事との整合に配慮したものでしょう。
 北山侵攻の前年に、中山と北山が合同で進貢するはずがありません。
 この時期の北山が、既に中山の経済圏に完全に組み入れられた状態で、何らかの理由から「看板」だけを貸していたのか、何か別の実情があったはずですけど──想像する材料がありません。

❝攀安知 ⑪❞1415(永樂十三)年6月

1 永樂十三年夏六月(略)
6 ○遣官祭中溜 琉球國中山王思紹山北王攀安知使臣辭悉使鈔幣〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太宗孝文皇帝實錄卷一百六十五〕

 1415年の上記2回の進貢には、南山の名がいずれもありません。南山は、正史上は1429年、北山侵攻から13年も後に滅びたことになっている。中山武寧王への攻撃から23年、約四半世紀も「沖縄本島統一戦争」が続いたことになります。
 沖縄本島にあった三山とは、ほぼ3つの経済圏に等しかった。経済圏の統合は武寧王「冊封」と同時代に速やかに成り、三山の統一戦争は実態としてほぼ無かった、と考えるのが自然に思えます。
 それでも1415年に「山北攀安知」の名が一応使われているのは、その時代に至ってもなお北山という経済的看板が威光を有していた、という証しなのかもしれません。

今帰仁(北山)文化圏〔後掲(FASE79-2)グスク交流センター展示〕

三山交易の全体的推移【A】

 今帰仁村の掲げる「今帰仁」「北山」の地域範囲は、結論的に根拠に乏しい仮定のようです。
 ただ仮に、少なくとも奄美まで勢力を伸ばしていたとすれば北山の交易圏は三山随一だったはずです。けれども、明実録による交易回数を集約すると次のようにカウントされます。
 14Cの回数は概ね中山:南山:北山が2:1:1。北山がずば抜けてはいない。ただ中山にとって、北山・南山が交易利潤を半減させる障害になっていたとは言うことができる、という程の数字です。

三山による明通航回数積上グラフ〔後掲岡本〕

 なお、品目や年代から岡本さんが分析されたものは次のとおり。
品種別交易数量〔後掲岡本〕

* 岡本弘道「明朝における朝貢國琉球の位置附けとその變化 一四・一五世紀を中心に」東洋史研究,1999
**回数の元データは明実録に基づく赤嶺誠紀「大航海時代の琉球」(沖縄タイムズ社,1988)中「進貢船一覧表」、品名別数量は小葉田淳「中世南東通航貿易史の研究」(日本評論社,1939)「附搭貨表其一」(298-303p)から岡本調製

「琉球馬」神話の時代が15Cの早い段階で終わってからは、より実利的な、つまり軍事利用が容易い硫黄にモノカルチャー化したようです。
 沖縄県教委によると、その量は、三山時代から尚王朝時代にかけて、一桁上になっています。

もっとも古い硫黄輸出の記録は、1425年に中山王尚巴志しょうはしが20,000斤(約12 t)の硫黄を献上したという文書(1-12-01)で、これ以降、三山時代よりも1桁多い数万斤単位の硫黄が頻繁に輸出されるようになります。ちなみに、琉球の対外交流史の研究者としても著名な小葉田淳氏は、主に『歴代宝案』の記録に拠りながら、1425~1588年の約160年間に琉球から明王朝に献上された硫黄の総量を、約4,000,000斤(約2,400 t)と推計しています。また、『歴代宝案』には、同じく1425年以降、琉球国王から暹羅せんら(タイ)国王へも1回につき2,500斤(約1.5 t)程の硫黄がしばしば贈られたことが記録されています(1-40-01)。〔後掲沖縄県教委〕※ただし、1-12-01出典については後記1-16-01が正と思われる。後掲参照。

 繰り返しになります。沖縄本島の三山時代から尚王朝への統合は、内部の軍事・政治的な過程ではありません。北山よりも中山、中山よりも尚王朝の方が、中国王朝に安全かつ有益だったという事です。短期的に見れば、より多量かつ安定した硫黄を供給できる交易相手が、明王朝から選ばれた。具体的には交易用船舶と交易機会(ex.◯年一貢)、外交人材を付与された。つまり外部の外交・交易的過程が、三山統一の実態です。
 この点をより分かり易く、かつ実態経済を想像しやすくするために──試みに、上記積上げグラフに次のように補助線を引いてみます。

三山による明通航回数積上グラフ+補助線〔後掲岡本〕

 内乱と粛清に明け暮れた元末明初の時代の中国で、当時の最新軍需・火薬の原料※=硫黄の需要は常に一定量あったと仮定します。

※初期の黒色火薬(英:black powder)は、反応としては燃焼よりも爆轟、性状としては火薬というより爆薬であり、燃焼ガスの圧力で弾を圧し出す火器の装薬には燃焼反応速度を緩和させた褐色火薬(brown powder,cocoa powder)の発明を待たなければならなかった。黒色火薬の標準的な比率(化学量論的組成比)は質量比で硝石:硫黄:木炭=75:10:15〔wiki/黒色火薬〕。褐色火薬は硫黄比がより低く、硝石:硫黄:褐色木炭=79:3:18〔wiki/褐色火薬〕。なお、成分比上主原料の硝石は、天然産地が乾燥地帯一般(発明地・中国の内陸部を初め、スペイン・イタリア等南欧、エジプト・アラビア半島・イラン等西亜、インドなど)に広がるほか、効能が発見されてからは北西ヨーロッパ・東南アジア・日本等湿潤多雨地でもバクテリアによる酸化生成法(主に人畜の屎尿を原料とする。北西欧では糞尿が浸透した家畜小屋の土壁から)で抽出した〔wiki/硝石〕。

 上記グラフの積上げは明実録に基づきますから、要するに表経済分です。従って需要との差が、不足分ではなく裏経済からの入手分と仮定できます。裏とは、明側から見た密貿易、つまり民間交易を意味し、この部分のうちAを北山経済圏の倭寇に準じた集団が担っていたと推定します。
 しかしながら、北山が正史上も滅びた後のB部分については、別系統の準倭寇集団が担ったはずです。これは後述します。

補論1:硫黄交易量の典拠=歴代宝案

 後掲山内には、次のとおり、出典と硫黄交易量を対比させたものがありました。左辺は琉球側外交文書集「歴代宝案」※の集・巻・号番と時期です。

※歴代宝案の性格と史料的意味については次を参照→内部リンク:m10sm第十波mm変な日本語&中世福建船史料/■小レポ:史料・歴代法案写本について

1 集-巻43-02号 洪熙元(1425)年12月17日付 山南王他魯毎の礼部宛咨文
     5,000 斤
1 集-巻16-04号 洪熙元(1425)年12日17日付
中山王尚巴志より礼部宛咨文
    15,000 斤
(30,000斤小〈粗鉱〉)
1 集-巻16-01号 洪熙元(1425)年閏7月17日付 中山王尚巴志より礼部宛咨文
    20,000 斤
   (40,000 斤小)
1 集-巻16-03号 洪熙元(1425)年閏7月17日付 中山王尚巴志より礼部宛咨文
    20,000 斤
1 集-巻16-05号 宣徳元(1426)年
中山王尚巴志より礼部宛咨文
     5,000 斤
1 集-巻23-01号 宣徳元(1426)年3月11日付
中山王尚巴志より使者阿蒲察都等宛符文
    10,000 斤
1 集-巻16-06号 宣徳 2(1427)年4月17日付
中山王尚巴志より礼部宛咨文
     5,000 斤
1 集-巻16-07号 宣徳 3(1428)年正月14日付
中山王尚巴志より礼部宛咨文
     8,000 斤
1 集-巻16-10号 宣徳 3(1428)年9月2日付
中山王尚巴志より礼部宛咨文
     7,500 斤
1 集-巻43-06号 宣徳 3(1428)年12月13日付
山南王他魯毎より礼部宛咨文
     3,000 斤
〔後掲山内〕

※X斤(Y斤〈粗鉱〉)記載は、原文では「硫黄Y斤、今報ずX斤」と記される。採掘した不純物を含む硫黄Yは、溶融等で純度を上げなければ火薬原料Xとして使えない。現在は1891年に発明されたフラッシュ法が主流(石油精製時の脱硫法としてはクラウス法)だが、古くは焼取法を用い、中国取引上はこれを「煎熟」と呼んだ。硫黄を琉球で煎熟して貢するのは、薩摩侵攻後の1638年からで、それ以前は琉球から粗鉱Yを中国に運び、それを煎熟して得られる硫黄Xの推定量で貢量を換算した。
※「◯斤小」は「約◯斤」又は「◯斤弱」の意味と考えられている。
※ゴチックは年と量のみ。ただし、同一時期のものと思われる記録は数値の小さいものを採った。

 確かに、例えば1390(洪武23)年1月:怕尼芝⑥の硫黄二千斤と比べると一桁違います。
 残る問題は、なぜ尚巴志らにこんな仕入れが可能だったのかと言う点です。ただ、もう一点遠回りをしておきます。

硫黄の道 (上)11-13C (下)14-16C〔後掲沖縄県教委〕

補論2:明実録から消える琉球進貢硫黄

 軍用黒色火薬の初記述(1045年成立の武経総要)〔wiki/黒色火薬〕から褐色火薬使用の鉄砲が普及する16Cまでの五百年間、硫黄の需給マーケットが世界史の基調だったとする議論があります。
 ただ、どうもそれほどシンプルな事態ではないように思えます。
 最も不思議なのは、前掲山内の多量の硫黄交易は全て歴代宝案、つまり琉球側の史料のみであることです。三山統一まで、正確には北山滅亡まではあれほど丹念に記載していた明実録に、尚巴志が硫黄を運んだ記事がほぼ無い。──明朝は三代太宗・永楽帝の後、四代仁宗・洪熙帝(在位1424年9月-1425年5月)→五代宣宗・宣徳帝(1425年6月-1435年1月)→六(八)代英宗・正統帝(天順帝。1435年2月-1449年9月、1457年2月-1464年2月)と続きます。明実録も各皇帝代のものがありますけど、これらを「尚巴志」「硫黄」ワードで検索しても、二つのワードが同時に出現する記事は次の1426(宣德元)年一件しかないのです。

1 宣德元年冬十月(略)
10 ○賜琉球國使臣模都古等鈔彩幣表里襲衣靴襪有差
58 ○賜琉球國使臣郭伯祖每等鈔彩幣表裏有差
67 ○琉球國中山王尚巴志遣使者佳期巴那等進馬及硫黃佳期巴那等初與模都古等同來海道遇風相失故後至
86 ○十一月(略)
89 ○賜琉球國使臣佳期巴那等鈔彩幣表里襲衣靴襪有差〔後掲中國哲學書電子化計劃/明宣宗章皇帝實錄卷之二十二〕

 この記事(67)は、後段にある「遇風相失」──暴風のため積荷を失った一事を重視しているようです。
 検索対象期間は40年間。ヒット数の絶対量は以下のとおり、のべ77件ある中での1件です。

▷仁宗在位9か月中
【尚巴志】5【硫黄】2
▷宣帝在位11年中
【尚巴志】39【硫黄】1
▷英宗在位通算23年中
【尚巴志】20【硫黄】10

 これをどう解釈すればいいのか?あまり問題にした論文がありません。
 当時から現代に至る沖縄側の大掛かりな反応に関わらず、同時代の明朝関係者は尚巴志の硫黄輸送にあまり興味を示してない、と考えざるを得ません。
 かと言って軍需物資としての硫黄の必要性は、その期間にも繰り返し記述されていることから明らかです。例えば1439(正統4)年には次の記事があります。

1 正統四年秋七月(略)
31 ○大同總兵官武進伯朱冕奏大同要害之地止有神銃一千五百把大炮二百八十個乞添神銃二千五百把二樣銅炮一千個硫黃二千斤火藥五千斤焰硝五千斤 上曰炮銃不必添其硫黃火藥焰硝各與一半〔後掲中國哲學書電子化計劃/明英宗睿皇帝實錄卷之五十七〕

 琉球からの硫黄大量搬入は、それが安定的になった時点で政治的なニュースバリューを失い、純粋な経済事項になった、とする解釈が最も順当なのでしょう。
 この点でやや参考になるのが、前記1426(宣德元)年宣宗実録です。進貢硫黄の忘失にだけ●●これほどナイーブになる明朝側の感覚は、単に安定的搬入が失われるリスクだったのでしょうか?「遭難」を装っての密輸は、この後にも多数事例のある常套手段です。要するに明朝を震撼させたのは、尚巴志新王権が「北山化」する可能性だったのではないか、と想像させられるのです。
 実際、尚王朝の進貢は次第に正規進貢の周辺での民間交易を伴うようになっていった気配があります。
 前掲の尚巴志による硫黄2万斤献上記事の訂正を兼ねてですけど、沖縄県教委が歴代宝案「1-12-01」としているのは「1-16-01」が正しいらしい。

1-16-01 国王尚巴志より礼部あて、永楽帝への進香の事、冊封と先王への賜祭に対する謝恩の進貢の事の咨と目録(一四二五、閏七、一七)
琉球国中山王、謝恩等の事の為にす。(略)
一件、謝恩の事。洪煕元年六月二十七日、欽差の内官柴山・行人司行人周彝、勅諭を齎捧して王爵を襲封し、紗帽・束帯・衣服・礼物を頒賜し、并びに先父王思紹を諭祭す。此れを欽む。(略)今、使者実達魯等を遣わし、表箋文各一通を齎捧し、金結束等様の、長短斉しからざる刀・各色の紙扇・屛風・硫黄・螺殻を管送し、随いで京に赴き謝恩せしむ。咨して施行を請う。須らく咨に至るべき者なり。
今開す
(刀6種72把 略)
五等各色摺紙扇四百把
屛風二対、内
金箔紙屛風一対
銀箔紙屛風一対
硫黄四万斤少、今報ず二万斤正
螺殻八千五百三十三個、今報ず八千個
右、礼部に咨す
洪煕元年(一四二五)閏七月十七日
謝恩等の事
咨〔後掲沖縄県教委/琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ | 琉球_詳細 1-16-01

 進貢の趣旨は「……に対する謝恩」です。永楽帝により琉球国王に冊封して頂けた尚巴志が、感激に打ち震えてお礼をしたのです。朝貢の本来の理念形ですけど、まあ冷めて言えば琉球国王位を二万斤の硫黄で買ったわけです。
 次の進貢例は、二百年後の明末でちょっと時代が離れ過ぎてますけど──琉明の硫黄「交易」のスタンスの移行をまざまざと見せつけてます。

琉球国中山王尚豊、進貢の事の為にす。
照得するに、崇禎七年(一六三四)十一月十九日、聖旨を奉ずるに、三年両次に朝貢せよ、とあり。(略)
査するに称すらく、進貢の生黄は煎煉するに銷耗過多にして、因りて往年の貢額に充たざるを致す。(略)
此れを准け、今、常貢の生黄二万斤を将て煎して餅塊と成し、天朝官煎の定額の斤数に依遵し、除去し篩浄せる泥沙・石砕并びに煎銷の火耗等の項の外の実在の熟黄一万二千六百斤は生黄二万斤に抵彀するに拠り、相応に崇禎十一年分の貢額を充足すべし。続いて前年の貢額の煎銷して耗損せる斤数の熟黄七千五百一十斤を補足し、彙斉して装載し、官を遣わして管解し前来して投納せしむ。(略)〔後掲中國哲學書電子化計劃/歴代宝案訳注本 1-20-06 国王尚豊より礼部・布政司あて、硫黄は自ら煎熟して、崇禎十一年分の定額および前年の不足分を貢するむねの咨(一六三八、一〇、二〇)〕

 この時代の琉球は、征服者・薩摩の強引な交易拡大により、明側からの厳しい密貿易嫌疑を受けています。同時に薩摩から流入したらしい硫黄煎熟技術(→前掲参照)を前提に、「進貢の生黄は煎煉するに銷耗過多」──進貢量の不足は粗鉱納入だったからで、「今、常貢の生黄二万斤を将て煎して餅塊と成し(略)相応に崇禎十一年分の貢額を充足すべし」自前で煎熟するから過年度の進貢不足分を相殺してくれ、と言ってます。簡単に言えば、節税の交渉をしてるのです。

内部リンク→m132m第十三波mm川内観音(破)/■小レポ:援明軍要請拒絶と鎖国令の因果関係/1-4 琉球が綱渡りした「等距離外交」/[対明]王銀詐取事件

督促ムシムシ漫画

 毎年「生黄二万斤」は、まさに琉球が明から課せられた「年貢」感覚の品なのです。尚巴志の「謝恩」の建前は明末にはもうない。おそらく明礼部は「崇禎十一年分の貢額」が足りない、と琉球に難癖を付けてたはずです。これに対し琉球は、過年度「滞納額」の相殺操作を提案する。
 どの位の時代からかは分からんけれど、琉球▷明の硫黄輸送は、政治行為から経済行為に移相し、さらに明末には事実上の「公課」になった。明実録からの記載消滅は、実は薩摩代並みの「重税」に喘いでいた「独立国琉球王朝」の実相を映し出しているように思うのですけど──いい加減、北山に話を戻しましょう。
(再掲)三山による明通航回数積上グラフ+補助線〔後掲岡本〕

琉球の硫黄輸送を引き継いだ者【B】

 前掲三山グラフに話を戻します。上記再掲のグラフ中、B部分の供給者は、明らかに薩摩です。
 以下は14C前半成立と見られる庚辛玉冊の記事で、既に「琉球山中硫黄」が認知されてます。

硫黄に二種有り。石硫黄は南海琉球の山中に生ず。土硫黄は広南に生ず。之を嚼かむに聲無き者を以て佳となす。舶上する倭硫黄もまた佳なり。今人消石と用配し烽燧・烟火を作る。軍中の要物たり。
硫黃有二種。石硫黃,生南海琉球山中。土硫黃、生於広南。以嚼之無聲者為佳。舶上倭硫黃亦佳。今人用配硝石作烽燧煙火。為軍中要物。
〔李時珍『本草綱目』(1596年刊)巻11・石部5・石硫黄の項に引用されている朱権(朱元璋の第17子、1378-1448)の本草書『庚辛玉冊』←後掲山内〕

 ただし、「琉球山中」と「広南」の硫黄に「舶上倭硫黃」が併記されています。これは何でしょう?

沖縄・硫黄鳥島vs鹿児島・硫黄島

 琉球山中に硫黄はありません。辺戸岬から真北へ100km、徳之島西方65kmの海上にある現・島尻郡久米島町鳥島(→GM.)が琉球進貢硫黄の産地と目されています。

硫黄鳥島 (上)西南側断崖 (下)硫黄鉱山 ともに山内晋次撮影(2018.11.18)〔後掲沖縄県教委〕
正保琉球国悪鬼納島絵図(17C)写の鳥島 地名の他「人居有 嶋廻廿四町」と記載〔後掲東京大学史料編纂所〕

 中国からすると、産地の情報はさらに不確かだったのでしょうけど──硫黄が移送される態様に、同じ船でも琉球進貢船が運んでくるもののほか、その他船舶が運んで来る「倭硫黃」があった。これには豊後で産したものも含まれるのでしょうけど、より多くが現・鹿児島県三島村硫黄島(→GM.)の産とされます。琉球から500km北北東。
硫黄島〔後掲鹿児島県三島村〕

 なおここは、「鬼界カルデラの中央火口丘」〔後掲三島村〕、即ちBC53百年頃に超噴火を起こしたK-Ah噴火口の中心地です。

内部リンク→m17em第十七波余波mm金峰/■レポ:準・超噴火跡としての阿多カルデラ/九州における鬼界アカホヤ噴火前後の縄文遺跡の動態〔桒畑2020〕関係記述 ▼展開
火砕流堆積物の分布範囲とテフラ等層厚線〔後掲桒畑2020〕

 つまり明朝側は「琉球硫黄」と「倭硫黃」の産地を知らなかったのです。琉球も薩摩も、中国政府筋には位置を秘した可能性も高い。最悪、軍事制圧が恐れられたからでしょう。

属性データ:沖縄・硫黄鳥島

 この二つの島のデータを比較してみます。まずは沖縄・硫黄鳥島。

沖縄・硫黄鳥島

霧島火山帯に属し、沖縄で唯一の活火山島。南北3km・東西1km、面積2.17km2・周囲7.3kmの、北西から東南に横たわる細長い小島。北に噴煙をあげるトリノトコヤギーノ山と硫黄岳がそびえ、南端に前岳がある。全島熔岩や火砕岩からなり、海岸は切り立った海崖で、船が接岸できる港はない。噴気から昇華した硫黄が採掘される。〔角川日本地名大辞典/硫黄鳥島〕

 琉球列島は、日本列島の地学的標準からすると比較的大人しい島弧です。活火山はここだけで、その分海岸は荒く船着と言えるような場所がない。
 史料は、外国船のランドマークとしてのものしかない。従って、ここが琉球進貢硫黄の産地だというのは、状況証拠しかないようです。

 航海者にとって好目標になったらしく、「バジル・ホール探検記」にサルファー島(Sulphur Island)と見え。「常に白煙を吐き、火口の風下にはいつも硫黄の強い臭気が漂っている」とある。バーニーの海図にはルンホアンシャン(Lunhoangchan)と見え、ゴーヴィルの「琉球覚書」では硫黄山(Montagne de soufre)ともある。〔角川日本地名大辞典/硫黄鳥島〕

 現在は南部の段ノ浜と端ノ浜に小さい桟橋があるけれど(上記地図参照)、中世にはこれらがもちろんない。ここから硫黄を沖縄本島に搬送するには、辺戸岬から100kmの海中を小船で命懸けで渡って沖合に泊めて、少量ずつ運びこんだと想像されます。
 地理的位置からだけで空想しますと──第一・第二尚氏共通の由緒と伝わる伊是名島。硫黄鳥島から今帰仁城への直線上にあります。硫黄鳥島で硫黄を掘る時の最前線基地、かつ一次集積場として最適の位置です。……ただそれならなぜより近い沖永良部や徳之島でなかったのか?という疑問は残るので、やはりピンとは来ないから蛇足の思い付きとして話を進めますけど。

属性データ:鹿児島・硫黄島

鹿児島・硫黄島

 対する鹿児島・硫黄島は、まず大きい。面積比で沖縄・硫黄鳥島の5倍です。

鬼界ケ島ともいう。枕崎市の南約50kmの東シナ海上にある島。周囲18.5km・面積11.8km2。最高地点は硫黄岳の703.7m。安山岩と溶結凝灰岩からなり,霧島火山帯に沿って噴出した海底火山の1つで,鬼界カルデラの中央火口丘に当たるといわれ,今も噴煙を上げている。〔角川日本地名大辞典/硫黄島〕

 島はその名の通りの硫黄岳から西に低地が広がり、南西には長浜浦という港がある。近隣島への航路もここから出る。西にはより小さい大浦港も擁す。
 つまりここからの硫黄は、中型船を接岸しての搬出が可能だったと推測されます。

鬼界ケ島の別称は硫黄で黄色に染まった海面の色から「黄海ケ島」が変じたという説がある。硫黄島の硫黄採掘は藩政時代から行われ,対琉球貿易の主要輸出品の1つであり,昭和39年価格の急低落で中止されるまで,この島の唯一の産業であった。〔角川日本地名大辞典/硫黄島〕

 ただし、硫黄の採掘記録は藩政時代、つまり江戸期以降とある。原典が確認できていないけれど、これは記録されるものでは、という意味でしょう。
 より重要なのは、ここからの硫黄は「対琉球貿易の主要輸出品」だったということです。遅くとも江戸期、島津琉球侵攻以降には、琉球の進貢硫黄は鹿児島・硫黄島産を多く含んでいた可能性があります。

鹿児島・硫黄島産硫黄のトップシェア化

 硫黄産出における薩摩の台頭理由は簡単です。鹿児島・硫黄島硫黄の方が、沖縄・硫黄鳥島硫黄よりはるかに搬出し易いからです。規模が大きく船着きがある。
 鹿児島・硫黄島は後の鹿児島市内も百km弱、坊津や山川からなら50km強です。陸上薩摩勢力がこの位のレンジで海上に進出※してくれば、先述の沖縄・硫黄鳥島よりはるかに有利です。

※古くは在地の日高氏が支配。確実な統治記録としては、1334年千竃氏(島津氏配下)が黒島郡司任用、1412年種子島氏が島津氏から竹島・硫黄島・黒島に領地付与[4]。〔wiki/黒島 (鹿児島県)〕※原注4 野中哲照「薩摩硫黄島の境界性と『平家物語』」『国際文化学部論集』第13巻第2号、鹿児島国際大学国際文化学部、2012年9月、234-212頁

 室町時代に島津氏は日明勘合貿易の常連であった。理由は硫黄。薩摩産の硫黄は跳びぬけて上質であった。大正時代まで口永良部島は1ヶ年150万斤(900トン)産出していた。硫黄島は言うまでもあるまい。1451年日明勘合船の天龍寺第1船の積み荷ほとんどが硫黄であった(4万3800斤)。中国や朝鮮に産しない鉱物が薩摩のエース(切り札)であった。近世鹿児島藩は佐渡金山を上回る産金銀量を誇っていた。この時代はSulfur(硫黄)とGold (金) Rush の時代であった。
 戦国時代、薩摩商人は石見銀山で銀を買い付け、琉球に運び、琉球商人が中国へ輸出した。中国の銀本位経済はこの交易で成り立っていた。石見銀山が世界文化遺産に登録されたのはこの銀が中国経済を支えていたからである。〔後掲原口〕

 薩摩は、鉱物資源で外資を得る旨味を覚えるようになります。その端緒は、金銀時代の前に取引された硫黄からだった、と考えられます。
 もう一つの利点は、陸上国家・日本≒室町幕府の軍事力です。その歴史を通じて中央との太いパイプを持った島津は、幕府の勘合貿易に連動してます。具体的には、少なくとも初期には幕府の中国輸出品の原産地として幅を利かせます。

 朝鮮の申叔舟が1471年に完成させた『海東諸国記』にも「薩摩州 産硫黄」とある。15世紀、朝鮮には島津氏や伊集院氏が三千斤から五千斤程度の硫黄を進貢して正布などを得ており、朝鮮でも薩摩が硫黄の産出地であるという認識があったものと思われる。(略)
 また硫黄は日明貿易においても日本側の主要商品であったが、この多くは島津氏の調達によるものだった。例えば永享四年(1432)の遣明船派遣では、二十万斤の硫黄が幕府から島津氏に命じられて調達された。宝徳三年(1451)の派遣の際は、前年十月に幕府から天龍寺船のみの硫黄調達が島津貴久に命じられ、翌年八月に平戸停泊中の遣明船へ薩摩船が硫黄を搬入している。「大乗院日記目録」によれば天龍寺船三隻の硫黄の総計は九万四千斤に達したという。〔後掲戦国日本の津々浦々〕

 硫黄移送量は、前記の千斤単位の三山、万斤単位の尚王権に対し、薩摩が十万斤単位とさらに桁を増やしてます。──尚氏が沖縄・硫黄鳥島採掘集団出身だったなら、鳥島の最大稼働率が万斤単位。それを一桁上げるには、産地そのものを鹿児島・硫黄島に転ずる必要があったということでしょうか?
 中世薩摩の対中交易は、勘合貿易相乗り、またはその僭称だけでなく、直接にも行なわれています。その部分は史料に残らない形と考えるべきです。
 1453(景泰四年)の明実録に、次のような礼部の不思議な報告があります。

1 廢帝郕戾王附錄第五十四(略)
2 景泰四年十二月(略)
7 禮部奏日本國王有附進物及使臣自進附進物俱例應給直考之宣德八年賜例蘇木硫黃每斤鈔一貫紅銅每斤三百文刀劍每把十貫槍每條三貫扇每把火筯每雙俱三百文抹金銅銚每個六貫花硯每個小帶刀每把印花鹿皮每張俱五百文黑漆泥金灑金嵌螺甸花大小方圓箱盒並香壘等器皿每個八百文貼金灑金硯匣並硯銅水滴每副二貫折支絹布每鈔一百貫絹一疋五十貫布一疋當時所貢以斤計者硫黃僅二萬二千蘇木僅一萬六百生紅銅僅四千三百以把計者袞刀僅二腰刀僅三千五十耳今所貢硫黃三十六萬四千四百蘇木一十萬六千生紅銅一十五萬二千有奇袞刀四百一十七腰刀九千四百八十三其餘紙扇箱盒等物比舊俱增數十倍蓋緣舊日獲利而去故今倍數而來若如前例給直除折絹布外其銅錢總二十一萬七千七百三十二貫一百文時直銀二十一萬七千七百三十二兩有奇計其貢物時直甚廉給之太厚雖曰厚往簿來然民間供納有限況今北虜及各處進貢者眾正宜撙節財用議令有司估時直給之已得旨從議有司言時直生紅銅每斤銀六分蘇木大者銀八分小者五分硫黃熟者銀五分生者三分臣等議蘇木不分大小俱給銀七分硫黃不分生熟俱五分生紅銅六分共銀三萬四千七百九十兩直銅錢三萬四千七百九十貫刀劍今每把給鈔六貫槍每條二貫抹金銅銚每個四貫漆器皿每個六百文硯匣每副一貫五百文通計折鈔絹二百二十九疋折鈔布四百五十九疋錢五萬一百一十八貫其馬二匹如瓦剌下等馬例給紵絲一疋絹九疋悉從之〔後掲中國哲學書電子化計劃/明英宗睿皇帝實錄卷之二百三十六〕

 商品と数字ばかりです。礼部が何を進言したのか明瞭でない。ただし、この時代の日本国王が室町幕府の将軍であることは周知の通り。1453年の足利将軍は義政(初め義成)、応仁の乱の一方で、交易実態は各有力大名だった時代です。
 礼部は、要するに日本本体との交易が琉球を含む周辺小国より規模が大きく種類も多く利が多い、と言いたかったのでしょう。
 15C半ばの交易ルートについては次のとおり。

応仁二年(1468)の遣明船舶載の硫黄四万斤が大友氏と島津氏によって調達され、門司や博多、赤間関、平戸、奈留などで積み込まれた。最後の遣明船となる大内氏派遣の天文十六年(1547)度遣明船では坊津で硫黄一万斤が積み込まれている。従来、硫黄島で採掘された硫黄がいったん坊津に集積されて、船運で各地に運ばれていたことがうかがえる。〔後掲戦国日本の津々浦々〕

 幕府(大内)への委託販売から直接販売へのルート移行に伴い、坊津が後者直接販売港として浮かび上がったことが推定されます。
 かくして生産地に近く搬送力・経済力など基礎体力のある九州南西部に、中国への硫黄搬出港は15C頃に移行していきます。これを数値・グラフ化している研究があれば多分整合すると思うのですけど──B部分の正体は、そうした対中国交易市場への日本参入だと考えられます。総括的に言うと、北山→中山(尚王朝)→日本(大内・島津)という硫黄搬出元の推移を、上記岡本グラフは示しています。

(再掲)三山による明通航回数積上グラフ+補助線〔後掲岡本〕

三山硫黄共同搬送から推定される背後者

 さて、三山の交易競争時代に視点を返します。原文を読む限り、沖縄本島内では明らかに商売敵だった三山が、明帝の前では仲良く振る舞っていたのは確かです。前掲のように、例えば1383(洪武16)年11月〜翌1384年1月(→前掲原文)の例※では、出し抜こうとしたらしき北山は最大2か月留め置かれてます。

※再掲「1 洪武十六年十一月(略)
22 ○甲申琉球國山北王帕尼芝遣其臣摸結習貢方物賜衣一襲
38 洪武十七年春正月(略)
39 ○琉球國中山王察度山南王承察度山北王帕尼芝暹羅斛國王參烈(略)廣諸蠻夷酋長俱遣使進表貢方物賜文綺衣服有差〔後掲中國哲學書電子化計劃/大明太祖高皇帝實錄卷之一百五十九〕」

 
 上記例では「暹羅斛國王」(タイ国王)まで併記されますから、明帝・朱元璋にとっては周辺蛮国が自分を囲んで仲良くひざまずいてくれれば満足だったのかもしれないけれど、とにかく三山は平和を強要●●●●●されてました。逆読みすれば、三山を統一した尚巴志が硫黄交易を一桁拡充させたのではなく、一桁上の硫黄交易を公約するからこそ三山統一を明に許された●●●●●●●●●●●と考えられます。
 尚王朝の政治組織形態が船舶運営体に似る、と指摘されるのは当然です。尚王朝は明朝により効率的搬送をノルマとして課された、硫黄搬送経営体だったのですから。
 倭寇根拠(の一つ)だった南九州〜琉球海域は、基本的に明には不要の、征服するに値しない地でした。その経済が、明側経済秩序を乱さず、かつ自国有利な物資搬入元でありさえすれば、誰が支配しても関係なかった。──後代の日帝と違い、明朝は、割譲地のインフラ整備に非常な労力を投入するような浪花節の政治体ではありません。台湾(後掲リンク参照)と同様に「得之無所加 不得無所損」(得ても得なくともプラマイゼロ)な地だから、尚王朝に「委託統治」させたのです。

内部リンク→m19Em第二十四波mm2嘉義から西行/之に無所加うる所無きを得て、損ずる所無きを得ず

康熙二十二年冬十月初十日(丁未),九卿、詹事、科道以海寇底定,請加尊號。
上曰:「加上尊號,典禮甚大。台灣屬海外地方,無甚關系;因從未向化,肆行騷擾,濱海居民迄無寧日,故興師進剿。即台灣未順,亦不足為治道之缺。……治天下之道,但求平易宜民而已,何用矜張粉飾!」。
尋,大學士等奏:「……皇上功德,實越古昔帝王。非加上尊號,無以慰臣民仰載之願」。
上曰:「海賊乃疥癬之疾,台灣僅彈丸之地。得之無所加,不得無所損。若稱尊號、頒赦詔,即入於矜張粉飾;不必行」。〔大清聖祖仁皇帝實錄、Medium 康熙說台灣「得之無所加,不得無所損」是什麼意思?. 被誤解的史實 by 江偉廷 | 星星與雨
URL:https://x.gd/jRXlR *短縮後掲〕

 内部リンク→m113m第十一波mm中山地下街/■小レポ:清領台湾最後の10年間は徒労だったか?

清朝は、鄭氏政権を滅ぼした後、台湾を放棄するつもりであったが、清軍提督の施琅の提言によって、清朝の支配下におさめることとした。(略)台湾の重要性を認識するようになったのは、清末になってからである。※ 三尾裕子「王爺信仰の歴史民族誌-台湾漢人の民間信仰の動態」東京大学レポジトリ

 だから明には、琉球硫黄と倭硫黄を判別する必要すらなかった。けれど、三山が少なくとも外見上は共同進貢させられていたことは、硫黄産地が現・沖縄硫黄島島だったとすれば非常に奇妙です。
 前述のとおり今帰仁城から100kmに硫黄島はありますから、明朝側の認識とは異なり、琉球は単に中継者です。この場合、硫黄鳥島がもし北山の支配域にあったなら、中南山が北山と同等以上の硫黄を中継するのを拒むか、少なくとも妨害するはずです。
 第一尚氏はその末期・1466年に奄美大島東方の喜界島をようやく勢力下に加えていますから、15C後半になるまで奄美近海を抑えていません。だから、その西の硫黄鳥島を支配したのは少なくとも同時期以後のはずです。

内部リンク→FASE79-3@#今帰仁から\ぢぢーうゎーぐゎー/北・北山征服戦争

1416年❴A+0❵第一尚氏が北山王国を滅ぼす
→その領土・与論島と沖永良部島が中山に服属
1447年❴A+31❵第一尚氏四代・尚思達王,奄美大島征服[李朝実録]
1450❴A+35,B❵〜1462年 第一尚,喜界島をほぼ毎年攻撃[李朝実録]
1458年❴B+8❵護佐丸・阿麻和利の乱
1466年❴B+17❵尚徳王,兵3千(2千とも)で喜界島に親征,制圧
(略)
1469年 第一尚氏,第二同氏に交代
〔喜界島をゆく(2005年4月30日~5月2日)
URL:https://yannaki.jp/kikaijima2.html〘▶現在リンク切〙〕

 同等の問題意識を後掲山内が整理していました。少し長いですけど一連の論理なので、転載させていただきます。

 まず注目されるのは,明朝と琉球の三山王権との間で朝貢・貿易関係が結ばれた当初から,琉球から明に「トン単位」の硫黄が継続的に送られている点である。この点は,1370年代においてすでに,三山王権の所在地である沖縄島で「トン単位」の大量の硫黄が確保できるほどの硫黄流通ネットワークが確立されていたことを前提にしなければ理解し難い状況であろう。(略)
 私が注目したいもうひとつの点は,若干の時間差があるとはいえ,中山・山北・山南のすべての王から硫黄の進貢がおこなわれている点である。この点に関して,もうすこし詳しく史料をみていくと,山北王・山南王(および王淑)が中山王(および世子)と共同で遣使し,硫黄を貢上している事例がいくつもみられる(『明実録』太祖・巻199・洪武23年正月庚寅条,巻231・洪武27(1394)年正月25日条,巻236・洪武28(1395)年正月是月条,巻245・洪武29(1396)年4月20日条,巻248・洪武29(1396)年11 月24日条,巻250・洪武30(1397)年2月3日条,巻255・洪武30(1397)年12月15日条)。上述のように,沖縄島周辺地域における硫黄産地は硫黄鳥島のみであり,三山の王たちが入手した硫黄もおもにこの島で採鉱されたものであったと推定される。そうするとたとえば,3つの王権が,硫黄鳥島そのものあるいはそこで採鉱される硫黄の権益を分有し,それぞれが独自の集荷ルートを確保していたという形態を想定することができるかもしれない。しかし,南北約2.7km,幅約1km,周囲約8kmのごく小さな島で,なおかつ硫黄が生成されている火口が北端の1カ所のみという硫黄鳥島の内部において,沖縄島で覇権を争っていた3つの王権による権益の分配がスムーズにおこなわれていたとは考え難い。それよりはむしろ,三山王権の間を立ち回って硫黄鳥島の硫黄の供給を請け負っていた,共通する交易勢力が存在した可能性が高いのではなかろうか。この点に関してはすでに上里隆史が,「三山の政治対立とは別個の商品流通経路と,三山と一定の距離を保った運び手の存在を考えざるをえない」と本稿と同様の指摘をし,さらに踏み込んで硫黄の貢上を含めた朝貢活動を仲介していた勢力として「久米村に代表されるような外交・交易のノウハウを有する那覇の専門集団」を想定している[上里2010:145-146]。また,高橋公明は,複数の人物が山南王・中山王両方の遣明使節として記録されている点に注目し,当時は使節と王との間にいまだ強固な主従関係がなく,王朝が使節を委託するというような方式があったことを想定しているが[高橋1994:307],このような使節たちも私や上里が想定する交易・仲介勢力の有力な候補のひとつであろう。しかし残念ながら,そのような交易・仲介勢力の実態を具体的に明記した史料をみいだすことはできない。〔後掲山内〕

※原注 上里隆史2010  「琉球の大交易時代」荒野泰典・石井正敏・村井章介編『日本の対外関係4 倭寇と「日本国王」』吉川弘文館
高橋公明1994 「琉球王国」朝尾直弘他編『岩波講座日本通史10 中世4』岩波書店

 三山の背後にいた硫黄生産者について、上記上里の推定はやや焦点を欠いています。
「三山王権の間を立ち回って硫黄鳥島の硫黄の供給を請け負っていた,共通する交易勢力」──請負契約のような近代的観念が中世琉球には無かったろうし、何より他の硫黄供給元がないわけで、硫黄鳥島側の完全な売り手市場です。三山からの受託による独占的下請業者●●●●●●●というイメージは自己矛盾しています。
「三山と一定の距離を保った運び手」──このイメージが最も近いけれど、「運び手」輸送専門業者ではどう考えてもあり得ません。煎熟≒焼取法等の精製法は知らなかったのでしょうけど採掘はしていたでしょう。ただそれだけなら、山内の書くように三山の採掘団が来訪していたはずで、この集団は攻撃性・排他性の程はともかく、現・三島村付近を海域支配していたと思われます。
「久米村に代表されるような外交・交易のノウハウを有する那覇の専門集団」──上里の示すマルチ技術集団のイメージには賛同するけれど、久米や那覇はこの時代にはまだ存在してません。久米三十六姓は、前述のとおり明朝の信託統治領化した後、中国側と琉球の政治を接続する専門行政官です。硫黄を掘り、海域を占有し、おそらく三山に恐喝的に売り付けていた集団は、そのような陸上王権の洗練されたスタイルのものではなく、もっとプリミティブな集団に思えます。
 根拠はないけれど、多分、A集団とB集団は主宰者は異なるけれど、実働者は同じ海民層が場所を移したものでしょう。

背景集団の時間的創始期

 次に、この集団がいつ頃から存在していたか、という点です。先に言うと、この点を実証する材料は皆無です。

 以上のような,琉球から明への硫黄進貢開始期の状況をめぐって私が注目するふたつの論点に関しては,どちらについても直接的・具体的にそれらの状況を記録した同時代史料は残されていない。しかし,これらふたつの点は,1370年代以前においてすでに,硫黄鳥島での硫黄の産出が発見され,それが中国王朝向けの進貢品(交易品)となりうることが認知され,さらにはその硫黄を採鉱・集荷するシステムがある程度の継続性・安定性をもって確立されていた,というような歴史状況を前提としなければ理解できない状況であろう。つまり,琉球の三山の王たちが明に対して硫黄の進貢を開始する以前にすでに,何者かが硫黄鳥島での硫黄の産出とそれが対中国向けの交易品となることを発見・認知し,それを組織的に採鉱・交易していたと考えざるをえないのである。硫黄の交易史をめぐるこのような可能性については,吉成直樹も同様な歴史状況を推測しており,薩摩硫黄島・硫黄鳥島という優良な硫黄産地を有した「南島路」は「硫黄ルート」とも呼べると述べている[吉成2018:111]。とはいえ,くりかえしになるが,そのような1370年代以前の歴史状況を明記する史料は残存していない。〔後掲山内〕

※原注 吉成直樹2018 『琉球王権と太陽の王』七月社

 個人的に咀嚼します。歴史の年代として──[緑]元末明初に千年ぶりの純・漢族王権が確立される過程の軍事的混乱は大粛清を経て永楽帝政権樹立まで継続しました。この同時期に[赤]前期倭寇の被害が記録されますけど、これは史書に記載のある高麗側から仮に年代推測しましょう。これらの動きにやや遅れて[青]前記琉球尚王朝成立に至る硫黄進貢競争がありました。

1351(至正11)年紅巾の乱
  1368(洪武元)年明建国(朱元璋、南京を根拠に長江流域統一)
 1376(王禑12)年高麗・鴻山で崔瑩が初めて倭寇制圧
 1372(洪武5)年中山・察度王初進貢
1389(王昌10)年高麗・朴葳が対馬国侵攻(倭寇船300余隻撃破)
 1402(建文4)年靖難の変
   1406(永楽4)年尚巴志中山を滅ぼす
1416(永楽14)年北山滅亡

 この三つの動静は、時期的に因果関係を有すると考えられます。かつ、硫黄進貢競争は、この因果関係の原因ではなく結果です。
 背後にあった事象として、1372年の察度王初進貢に先立ち、琉球海域から中国沿岸部への民間レベルでの硫黄輸送が加速した、と考えるとこの因果が理解できるようになるのです。元末明初の戦乱に当時の最新軍需=硫黄が多量に求められ、沿岸商人がその購入に血眼になった結果、大陸沿岸に琉球海上勢力が出没するようになった。新制・明王権はこれを倭寇と呼んで規制した。それとともに、根源である硫黄の「密貿易」を正規化、つまり進貢ルートに載せようとした。即ち琉球王権の朝貢を促し、より効率的な朝貢相手を求め競争させた。

硫黄の王権

 こうした明朝の動きは、琉球海上勢力にとって危険だったので、彼らは中南山に対する「北山王」を立てた。つまり裏経済が王権の顔を得て、表経済化しようとした。
 けれど最終的に、三山より一桁多い硫黄ルートを持つ尚王朝を明朝は選択した……ということになります。後掲岡本が「硫黄の王権」と称するものですけど、これは網野善彦の「異形の王権」を文字ったものでしょうか?

沖縄における三山や琉球国の王権が,ひとつの側面として,軍需物資(火薬原料)としての硫黄の安定供給という,「硫黄の王権」とでも呼ぶべき役割を明王朝から期待されていたという解釈も可能なのではなかろうか。このように考えてくると,三山と明王朝との朝貢関係の形成当初において貢物の主軸とされた,軍需物資としての馬と硫黄のうち,やがて馬の貢上が停止され,その他の貢物も種々変化していったいっぽうで,硫黄が「常貢」として清朝期になっても貢進され続ける背景には,このような琉球の「硫黄の王権」としての歴史的役割が存在し続けていたのではなかろうか。〔後掲岡本〕

 察度王が流通した硫黄が通説通り沖縄・硫黄鳥島のそれだったと仮定すると──北山より地の利の薄い=輸送路の長い条件下で、一次集積港と目される伊是名島に好条件を示し過ぎたのかもしれません。仲介者の中から尚王権が形成され、中山を簒奪するに至る。この場合の仲介者は、少なくとも三山より琉球海上勢力に近い勢力だったでしょう。
 だとすれば、北山沖に展開した海上勢力は、明朝側の目論見通りの姿に変容して朝貢王権を形成したことになるのです。

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