016-0堅田\滋賀県onCovid


~~~~~(m–)m堅田蠢動編~~~~~(m–)m
2021.12.18COVID間氷期の京都から──

石楠花(かいつぶり)咲く親郷の湖族かな

さら網野善彦でも無いんですけど、堅田を訪ねたくなったのは、「無縁・公界・楽」※を読み返してからのことです。同書補論で中世にアジール※が形成されたと記される場所の一つです。

※網野善彦「増補 無縁・公界・楽」平凡社,1996 補論「都市のできる場──中州・河原・浜」「ニ 中世後期の環濠都市堅田」
※アジール:アサイラムとも。独: Asyl 仏: asile 英: asylum (語源)ギリシア語:aσυλον(侵すことのできない、神聖な場所)
 歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリア。
堅田の位置図〔後掲大津市歴史博物館〕

 近江一向一揆の重要な拠点として周知の堅田については、戦前から特異な漁村として注目されており、戦後には、いわゆる「ワタリ」という漂泊民の集住地という見方も主張されてきた
* 網野善彦「増補 無縁・公界・楽」平凡社,1996 補論「都市のできる場──中州・河原・浜」「ニ 中世後期の環濠都市堅田」


琶(びわ)湖の最狭部の西岸に位置し、宮切(本切・北切・北浦)・東切(東浦)・西切(西浦)・今堅田の堅田四方と呼ばれる屋敷地が湖岸に沿って集中しており、環濠に区切られて西方に条里遺構の耕作地が開けている。〔角川日本地名大辞典/堅田〕

「条里遺構の耕作地」については、あまりレポートされたものがない。ただ、下図(詳細不詳)によると条里池割は湖東には多いけれど、湖西の例は少なく、堅田(野洲)のものは珍しいようです。

室町末期の堅田の町並み:大津市歴史博物館〔後掲NOBUSAN〕
近江国の条里池割分布〔「近江の条里と古道」滋賀県立大学〕

賀郡のうち。鴨御祖社(下賀茂社)領。11世紀後半「堅田網人」を主体に成立し(平遺1287)、保安3年に朝廷から同社へ改めて施入された(鴨脚秀文文書)。建久5年、賀茂社相嘗祭の神饌としてコイ・フナ等の供御を備進したのをはじめ(賀茂皇太神宮記録)、永禄年間に至っても小鮒のすし・料足を納入し続けており(堅田伊豆神社所蔵文書)、ほぼ中世を通じて存続した。同社社領御厨供祭人には一種の自由通行権が認められており(堅田伊豆神社所蔵文書)、隔地間交易に携わる堅田商人を輩出したり(本福寺跡書)、近世において「諸浦之親郷」(堅田小番城共有文書)と呼ばれた堅田の歴史的起点となった。〔角川日本地名大辞典/堅田御厨(古代)〕

「諸浦之親郷」という成語もあちこちで見かけます。──その地形的背景をもって「諸浦の親郷」として中世において湖上支配権を有していた〔後掲国立国会図書館/レファレンス協同データベース 提供館 滋賀県立図書館 管理番号:滋2011-0790〕、という類です。ただこの尊称を堅田独占のものでなく、琵琶湖岸を三分割した①堅田・大津・八幡vs②湖北四ヵ浦vs③彦根三湊のうち、①の湖南の総称と扱う論者もあります〔杉江進「近世琵琶湖水運の研究」思文閣,2011〕。
 情宣レベルの問題だから何が正しいということはないだろうけど、斯様に湖上の勢力争いは激烈だったことは分かります。

堅田、内湖の風景

琶湖のくびれた最も狭い水道に位置する堅田には、古くから渡があったが、このころ(引用者注:今堅田という単位ができた13C後半)それは関の機能をあわせ持つようになっていた。通行権を持たぬ船がそこを通ることを、特権(引用者注:自由通行・漁撈の権利)を保証された網人・釣人たちはたやすく認めようとしなかったのであり、十四世紀以降、彼等がしばしば海賊といわれたのは、この特権を武力で貫徹しようとしたからにほかならない。このころの堅田の人々、とくに番頭クラスの殿原衆とよばれた人々は、多くの船を持ち、湖上の廻船を業としていたが、もとよりそれは直ちに海賊─水軍にも転化しえたのである。[前掲網野1996]

禄3年には佐々木信綱が堅田荘地頭職に補任され、嘉吉元年には管領細川持之より山門使節護正院兼全に堅田奉行職の当知行が安堵された(護正院文書他)。さらに堅田浦には延暦寺領の湖上関が設置されていた。以上のような領有関係を背景として、中世前期においては日本海側各地に及ぶ交易を手がける堅田商人の基地として、また後期には周辺諸村とともに形成された地域的経済圏の中心地として繁栄し、中世末にルイス・フロイスをして「甚だ富裕なる町」(耶蘇会士日本通信)と呼ばしめたほどの町場として発展した。(続)〔角川日本地名大辞典/堅田(古代)〕



内湖北岸の枯木の木の実

寸遠出するつもりで行ったので、記録も残してません。

~(m–)m 本編の(粗い)行程 m(–m)~
GM.(経路)
内湖南岸の水辺に休む白い鳥

湖の領主 堅田の脅威と虚像

 ただし、堅田が海上法規に基づく正統な特権を得ていたという説は、史学的には疑問視するのが通説化してます(詳細展開参照)。高知・中村の廻船大法や広島・能地の浮鯛抄、さらに対馬・曲海人が宗氏より付与された八海御免特権(→009-5豊玉(帰)\対馬/曲集落に伝わる沿革)など、在地海民が新来者の進出を阻むために、おそらく実在した安堵状を拡大解釈して振りかざした例の一つと考えるべしでしょう。

内部リンク→m17fm第十七波残波mm014-1一條御所\中村\高知県/■小レポ:幡多遣明船と土佐海民の幻/[付記]廻船大法奥書に記す「土佐浦戸篠原孫左衛門」
廻船大法奥書(写真は「諸御書付二十八冊」 毛利家文庫 40 法令 135(17)のもの。ピンク部:土佐浦戸篠原孫左衛門)

→m19Pm第三十五波mm忠海二窓&幸崎能地(上)/付記:能地の浮鯛抄
浮鯛抄(風早のものらしい)




うした堅田の脅威を避けるため、湖辺の浦々は堅田の人を自らの船に乗せ、関の無事な通行をはかるようになる。十五世紀、上乗職といわれたこの権利は、堅田の番頭たちの重要な収入源であったが、やがてそれは浦々に対する賦課と同じ意味を持つようになっていく。このように、名主として保持する田畠に加え、浦々に対する支配権を持つ堅田の人々を、さきのように「湖の領主」ということは決して言いすぎではなかろう。
[前掲網野1996]

内湖南の農地の道に迷い込む。この辺りが今堅田城の跡らしい。

際訪れてみても、瀬戸内海程度のまとまった水域ではなく、水深や海流を読みにくいとは思えないこの単なる地峡に、それほど財に繋がる水利権が存立したものだろうか──と疑問は湧きます。ただ、湖上特権はともかく、えらく「美味しい地峡」だったことは、比叡山から信長までの有象無象が触手を伸ばして取り込もうとしてきた歴史から確かなので……よく分かりません。
 簡単に言うと、少し南の琵琶湖南岸の陸路へ少し遠回りするのが、なぜそんなに嫌がられたのでしょう?

全人(まろうど)の陰に隠れて水軍衆

今堅田の集落風景

野は、これは面白い見方と思うんですけど──堅田水軍層と分離したものとして「全人」衆を描いています。

 これ(引用者注:堅田水軍衆)に対し、全人(まろうど)衆とよばれた一般の供祭人─網人・釣人たちも、漁撈に携わるだけでなく、むしろ商工業の分野に進出し、広く山陰・北陸・東山道諸国にまで足をのばし、「有徳」─富裕になっていく人々も現れてきたのである。
[前掲網野1996]

今堅田の集落道

です。葵祭前日の5月14日の「献饌供御人行列」※で有名な伊豆神社は、殿原衆と全人衆の自治組織(宮座)が置かれた神社と伝わります〔後掲都草〕。堅田漁港から南西500m、本堅田の完全に湖岸の社です。
 海民衆と対峙する商人ギルドが本拠を置く場所でしょうか?何より、この地理環境で海民と連携せずに、どんな商利を追求できたでしょうか?

※下鴨神社に奉納する琵琶湖のフナを運ぶ儀式。
堅田漁港脇の「貝殻置場」

五世紀後半、その海賊行為の罪を問われ、堅田は幕府の委任を得た山門による「大責」の対象となった。殿原衆と全人衆、宿老と一般市民は一致して濠を「木戸」として激しく戦ったが敗れ、町は一旦焦土と化した。しかし堅田の市民は全員で山門と和解するための費用を負担し、堅田に還住する。堀─濠で囲まれた宮の切・東の切・西の切などとよばれるととのった区画は、そのとき実施されたと私は考えているが、いずれにせよ計画的な町割を施した堅田に、全市民による自治がこのとき確立したことは間違いない。宣教師が堺と比べたほどの富裕さを誇る自治都市堅田は、こうして菅浦をはじめとする他の小都市を圧倒し、湖の覇者となっていったのである。
[前掲網野1996]

 大げさに言えばキリスト復活めいている、山門(比叡山)による「大責」(おおぜめ)と、「山門と和解するための費用を負担」、つまり賠償金支払による堅田への復帰劇は、前掲本福寺史料の語り継ぐところです。
 史料性に疑問があるとは言え、その記述を「自画像」的物語と捉えるとしても、様々に噛みごたえがあります。

堅田大責・礼銭譚 原典 ▼展開

堅田→沖島エクソダス行程図


市町浦浜野山道 皆無縁

堅田漁港と琵琶湖と空

戸期の港別船舶保有数(丸子船:木造船)のデータがあります。

【1677(延宝5)年】〔『観音寺文書』の「江州湖水諸浦船員数帳」←後掲NOBUSAN〕
舟木215 塩津125
大津102 海津 75
今津 74 堅田 47隻⑥
※堅田「丸子船」内訳
 大丸子(100石以上積)
  14隻
 小丸子(数十石積程度)
  33隻



【1716~36年(享保年間)】〔「大丸子」のみ集計:『近江輿地志略』←後掲NOBUSAN〕
塩津 84 大津 82 
長浜 67 今津 61
海津 58 舟木 34
松原(彦根) 32
堅田 23隻⑧

 つまり、17Cには琵琶湖の諸港の一つに落ち着いています。

16世紀に入ると湖東六角氏の湖上流通路支配の強化によって、次第にその実質的権能を失っていった(堅田旧郷士共有文書)。〔角川日本地名大辞典/堅田浦〕

「湖東六角氏の湖上流通路支配」というこの語はかなりあちこちに転載され、これを織田信長が受け継いだとされます。しかし、具体にそれがどういう意味なのかは判然としないと感じています。
 文化財建造物の専門家間では「古代の奈良、中世の滋賀、近世の京都」という語があるといいますけど、史書分野でも湖東地域は、中世の民衆が直接残した古文書の残存密度が濃い地域らしい〔後掲東近江市〕。山に惣村、海に開港都市が乱立したこの土地を、六角氏や織田氏が「掌握」したというのが具体にどういう内容を指すのか、どうも像を結ばないのです。

道に小社が連なる。覗いて撮ると背景と自分を撮ってしまってた。

浦も堅田も、その集落は浜──湖の水際に集中していた。こうした立地は、港町といわれてきた中世の都市には、当然ながら多く見出しうる。小浜、桑名、尾道等々、事例はいくつもあげることができよう。もちろんこれを非農業民──漁撈民や廻船民の生業と関連させて理解するのが常識であろう。しかし「市町・浦浜・野山・道路」などが同じ性質を持つ場──私の流儀でいえば「無縁」の場であったことを明瞭に示す史料のあることを考えれば、これを都市的な場の特質に結びつけることもできるのではなかろうか。
[前掲網野1996「三『無主』『無縁』の場の特異性」]

 網野がサラリと書いてるこの文章も、切れ味は凄まじい。海民の歴史を、海と交差する港・荷揚場・航路・目当山稜などに係る無縁性≒都市性としてアプローチすることも出来る、という発想です。
 ただ、個人的には──この「無縁」の概念がどうもリアルに咀嚼出来てません。

光秀は海から陥とす堅田城

禅寺前にも小社

(続)た、その住人は「殿原・全人・マウト・タヒウ人・譜代下人・下部」などから構成されていたが(本福寺由来記)、応仁2年山門による堅田発向(堅田大責)から文明2年の還住を契機として、居初氏・猪飼氏等の堅田諸侍と呼ばれる在地小領主層が成立した(堅田旧郷士共有文書)。この堅田諸侍は、永禄12年織田信長より諸活動の保障を受けたが、その内容は金融・船運・他所知行など多岐にわたるものであった(堅田旧郷士共有文書)。一方、真宗の教線も拡大・浸透し、本福寺・一家衆寺院慈敬寺を拠点として近江門徒の1中心地となり、元亀元年・同4年には一向一揆が信長軍と戦闘を交えている(信長公記・浅井三代記他)。なお、本福寺諸記録中に見える地名のうち堅田内と推定されるものは、馬場・新在家・今在家・中村・中村浜・大道・渡崎(唐崎)・宮浜・北浜・尼御前が浜である。〔角川日本地名大辞典/堅田(古代)〕

 堅田宮座の置かれた本福寺が本山・本願寺から破門されたのは、蓮如・六男(実如・弟)の蓮淳が入った顕証寺(現大津市札の辻󠄀・本願寺派近松別院→GM.)と布教地域が重複していたけれど、真宗門徒は本福寺にのみ爆発的に増え続けたためとも伝わるらしい〔後掲墓場放浪記/本福寺〕。「堅田門徒」と呼ばれる「堅田を盟主に一向宗を紐帯とする都市連合」〔世界大百科事典(旧版)内の船木北浜←コトバンク/船木北浜〕が形成されたという見方もあるけれど、信長・秀吉による徹底的な弾圧で壊滅したとされます。
 だから当時の記録は、史書の豊かなこの土地にも見当たらない。滅ぼした側の記録のみです。

信長公記 巻三(十)志賀御陣之事 巻六(三)石山今堅田被攻候事

(再掲)内湖南の農地。この辺りが今堅田城の跡らしい。



堅田漁港にて

襟巻のあたたかそうな黒坊主

の文章は、後掲網野さんが同じ琵琶湖西岸の船木庄(現・滋賀県高島市安曇川町北船木→GM.)について述べている論です。

 安曇川は河口近くで北川と南川に分れ、再び合流して琵琶湖に流れ込むのであるが、とくに注目しなくてはならないのは、船木北浜の集落が、この北川と南川にとりかこまれた、いわば安曇川の中洲ともいうべき地にびっしりと集まっている点である。
 居住条件がよいとは決していえないこうした場に、都市的な集落が立地する理由は、単に生業上の経済的動機からだけでは説明し難いのではなかろうか。それは中洲という特異な場の特質と深く関連しているように、私には思われるのである。
[前掲網野1996「三『無主』『無縁』の場の特異性」著者注:「日本中世都市をめぐる若干の問題──近江国高島郡船木北浜を中心に」(『年報 中世史研究』七号)

(上)船木庄:現・滋賀県高島市安曇川町北船木 地理院地図 (下)堅田:室町末期の堅田の町並み〔(再掲)大津市歴史博物館←後掲NOBUSAN〕

り返しになりますけど、堅田の旧集落は他より利便性があったとは、少なくとも瀬戸内海の人間にはとても思えないのです。
 網野さんはそこを「中洲という特異な場の特質」と説明しようとしています。けれど、重力や放射線を発する訳じゃありませんから……リソーサーあるいはナッジのような心理学的な誘因を持つものなのでしょうか?
 旅行者の感覚的には、それもあながち否定し難いのですけど……。
祥瑞寺山門より〔GM.〕

れてませんけど──堅田漁港から南西500m、祥瑞寺(臨済宗大徳寺派)という場所があったらしい〔後掲墓場放浪記/祥瑞寺〕。一休禅師が長く逗留したと伝わる寺です。
 一方で、一休は琵琶湖畔に入水自殺を試み、その時に湖岸で烏の声を聞いて大悟したという伝承もあることから、一休が悟った寺として名を知られます〔後掲墓場放浪記/祥瑞寺など〕。
襟巻のあたたかそうな黒坊主 こやつが法は天下一なり(一休)

※蓮如上人主催の親鸞聖人二百回忌の節に本願寺に参拝しお馴染みの親鸞聖人の黒漆木像を見て詠んだ句

 同寺には又、芭蕉の句碑もあるといいます。
朝茶飲む 僧静かなり 菊の花(芭蕉)

堅田の落雁(歌川広重)