016-0堅田\滋賀県onCovid

2021.12.18COVID間氷期の京都から──

 近江一向一揆の重要な拠点として周知の堅田については,戦前から特異な漁村として注目されており,戦後には,いわゆる「ワタリ」という漂泊民の集住地という見方も主張されてきた
* 網野善彦「増補 無縁・公界・楽」平凡社,1996 補論「都市のできる場──中州・河原・浜」「ニ 中世後期の環濠都市堅田」

堅田,内湖の風景

琵琶湖のくびれた最も狭い水道に位置する堅田には,古くから渡があったが,このころ(引用者注:今堅田という単位ができた13C後半)それは関の機能をあわせ持つようになっていた。通行権を持たぬ船がそこを通ることを,特権(引用者注:自由通行・漁撈の権利)を保証された網人・釣人たちはたやすく認めようとしなかったのであり,十四世紀以降,彼等がしばしば海賊といわれたのは,この特権を武力で貫徹しようとしたからにほかならない。このころの堅田の人々,とくに番頭クラスの殿原衆とよばれた人々は,多くの船を持ち,湖上の廻船を業としていたが,もとよりそれは直ちに海賊─水軍にも転化しえたのである。[前掲網野1996]

内湖北岸の枯木の木の実
内湖南岸の水辺に休む白い鳥

 こうした堅田の脅威を避けるため,湖辺の浦々は堅田の人を自らの船に乗せ,関の無事な通行をはかるようになる。十五世紀,上乗職といわれたこの権利は,堅田の番頭たちの重要な収入源であったが,やがてそれは浦々に対する賦課と同じ意味を持つようになっていく。このように,名主として保持する田畠に加え,浦々に対する支配権を持つ堅田の人々を,さきのように「湖の領主」ということは決して言いすぎではなかろう。
[前掲網野1996]

内湖南の農地の道に迷い込む
今堅田の集落風景

 これに対し,全人(まろうど)衆とよばれた一般の供祭人─網人・釣人たちも,漁撈に携わるだけでなく,むしろ商工業の分野に進出し,広く山陰・北陸・東山道諸国にまで足をのばし,「有徳」─富裕になっていく人々も現れてきたのである。
[前掲網野1996]

今堅田の集落道
堅田漁港脇の「貝殻置場」

 十五世紀後半,その海賊行為の罪を問われ,堅田は幕府の委任を得た山門による「大責」の対象となった。殿原衆と全人衆,宿老と一般市民は一致して濠を「木戸」として激しく戦ったが敗れ,町は一旦焦土と化した。しかし堅田の市民は全員で山門と和解するための費用を負担し,堅田に還住する。堀─濠で囲まれた宮の切・東の切・西の切などとよばれるととのった区画は,そのとき実施されたと私は考えているが,いずれにせよ計画的な町割を施した堅田に,全市民による自治がこのとき確立したことは間違いない。宣教師が堺と比べたほどの富裕さを誇る自治都市堅田は,こうして菅浦をはじめとする他の小都市を圧倒し,湖の覇者となっていったのである。
[前掲網野1996]

堅田漁港と琵琶湖と空
道に小社が連なる。覗いて撮ると背景と自分を撮ってしまってた。

 菅浦も堅田も,その集落は浜──湖の水際に集中していた。こうした立地は,港町といわれてきた中世の都市には,当然ながら多く見出しうる。小浜,桑名,尾道等々,事例はいくつもあげることができよう。もちろんこれを非農業民──漁撈民や廻船民の生業と関連させて理解するのが常識であろう。しかし「市町・浦浜・野山・道路」などが同じ性質を持つ場──私の流儀でいえば「無縁」の場であったことを明瞭に示す史料のあることを考えれば,これを都市的な場の特質に結びつけることもできるのではなかろうか。
[前掲網野1996「三『無主』『無縁』の場の特異性」]

禅寺前にも小社
堅田漁港にて

 安曇川は河口近くで北川と南川に分れ,再び合流して琵琶湖に流れ込むのであるが,とくに注目しなくてはならないのは,船木北浜の集落が,この北川と南川にとりかこまれた,いわば安曇川の中洲ともいうべき地にびっしりと集まっている点である。
 居住条件がよいとは決していえないこうした場に,都市的な集落が立地する理由は,単に生業上の経済的動機からだけでは説明し難いのではなかろうか。それは中洲という特異な場の特質と深く関連しているように,私には思われるのである。
[前掲網野1996「三『無主』『無縁』の場の特異性」著者注:「日本中世都市をめぐる若干の問題──近江国高島郡船木北浜を中心に」(『年報 中世史研究』七号)