堅田蠢動編
2021.12.18COVID間氷期の京都から──
石楠花(かいつぶり)咲く親郷の湖族かな
今さら網野善彦でも無いんですけど、堅田を訪ねたくなったのは、「無縁・公界・楽」※を読み返してからのことです。同書補論で中世にアジール※が形成されたと記される場所の一つです。
※網野善彦「増補 無縁・公界・楽」平凡社,1996 補論「都市のできる場──中州・河原・浜」「ニ 中世後期の環濠都市堅田」
※アジール:アサイラムとも。独: Asyl 仏: asile 英: asylum (語源)ギリシア語:aσυλον(侵すことのできない、神聖な場所)
歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリア。
堅田の位置図〔後掲大津市歴史博物館〕
近江一向一揆の重要な拠点として周知の堅田については、戦前から特異な漁村として注目されており、戦後には、いわゆる「ワタリ」という漂泊民の集住地という見方も主張されてきた
* 網野善彦「増補 無縁・公界・楽」平凡社,1996 補論「都市のできる場──中州・河原・浜」「ニ 中世後期の環濠都市堅田」

琵琶(びわ)湖の最狭部の西岸に位置し、宮切(本切・北切・北浦)・東切(東浦)・西切(西浦)・今堅田の堅田四方と呼ばれる屋敷地が湖岸に沿って集中しており、環濠に区切られて西方に条里遺構の耕作地が開けている。〔角川日本地名大辞典/堅田〕
「条里遺構の耕作地」については、あまりレポートされたものがない。ただ、下図(詳細不詳)によると条里池割は湖東には多いけれど、湖西の例は少なく、堅田(野洲)のものは珍しいようです。
室町末期の堅田の町並み:大津市歴史博物館〔後掲NOBUSAN〕
近江国の条里池割分布〔「近江の条里と古道」滋賀県立大学〕
滋賀郡のうち。鴨御祖社(下賀茂社)領。11世紀後半「堅田網人」を主体に成立し(平遺1287)、保安3年に朝廷から同社へ改めて施入された(鴨脚秀文文書)。建久5年、賀茂社相嘗祭の神饌としてコイ・フナ等の供御を備進したのをはじめ(賀茂皇太神宮記録)、永禄年間に至っても小鮒のすし・料足を納入し続けており(堅田伊豆神社所蔵文書)、ほぼ中世を通じて存続した。同社社領御厨供祭人には一種の自由通行権が認められており(堅田伊豆神社所蔵文書)、隔地間交易に携わる堅田商人を輩出したり(本福寺跡書)、近世において「諸浦之親郷」(堅田小番城共有文書)と呼ばれた堅田の歴史的起点となった。〔角川日本地名大辞典/堅田御厨(古代)〕
「諸浦之親郷」という成語もあちこちで見かけます。──その地形的背景をもって「諸浦の親郷」として中世において湖上支配権を有していた〔後掲国立国会図書館/レファレンス協同データベース 提供館 滋賀県立図書館 管理番号:滋2011-0790〕、という類です。ただこの尊称を堅田独占のものでなく、琵琶湖岸を三分割した①堅田・大津・八幡vs②湖北四ヵ浦vs③彦根三湊のうち、①の湖南の総称と扱う論者もあります〔杉江進「近世琵琶湖水運の研究」思文閣,2011〕。
情宣レベルの問題だから何が正しいということはないだろうけど、斯様に湖上の勢力争いは激烈だったことは分かります。
堅田、内湖の風景
琵琶湖のくびれた最も狭い水道に位置する堅田には、古くから渡があったが、このころ(引用者注:今堅田という単位ができた13C後半)それは関の機能をあわせ持つようになっていた。通行権を持たぬ船がそこを通ることを、特権(引用者注:自由通行・漁撈の権利)を保証された網人・釣人たちはたやすく認めようとしなかったのであり、十四世紀以降、彼等がしばしば海賊といわれたのは、この特権を武力で貫徹しようとしたからにほかならない。このころの堅田の人々、とくに番頭クラスの殿原衆とよばれた人々は、多くの船を持ち、湖上の廻船を業としていたが、もとよりそれは直ちに海賊─水軍にも転化しえたのである。[前掲網野1996]

嘉禄3年には佐々木信綱が堅田荘地頭職に補任され、嘉吉元年には管領細川持之より山門使節護正院兼全に堅田奉行職の当知行が安堵された(護正院文書他)。さらに堅田浦には延暦寺領の湖上関が設置されていた。以上のような領有関係を背景として、中世前期においては日本海側各地に及ぶ交易を手がける堅田商人の基地として、また後期には周辺諸村とともに形成された地域的経済圏の中心地として繁栄し、中世末にルイス・フロイスをして「甚だ富裕なる町」(耶蘇会士日本通信)と呼ばしめたほどの町場として発展した。(続)〔角川日本地名大辞典/堅田(古代)〕
フロイスの堅田記述については──
「坂本より2レグワの甚だ富裕なる堅田と称する町」
(「耶蘇会士日本通信」41 1571年10月4日 附都発パードレ・ルイス・フロイスより印度地方区長パードレ・アントニオ・デ・クワドロスに贈りし書翰)〔後掲湖西堂〕
とする記述もあれば──
浅井・朝倉軍が織田信長に相対するために、今堅田城に甲賀武士団の磯谷新右衛門を主将として守備させたが、明智光秀・丹羽長秀らに湖から攻撃をうけ落城した。このときの戦況をポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、「坂本より二レグワ(二里)の堅田(今堅田)の城を攻めたり、同城は一向一宗徒に属し・・・・・・」と述べている。〔原典:『日本城郭体系 11』←後掲国立国会図書館/レファレンス協同データベース 提供館 滋賀県立図書館 管理番号:滋2011-0788〕
ともある。
原典は同じ文だとしか思えないけど色々な訳が飛び交っているようです。
原文又はそれを引用した論文が見つからず、真偽は確認できてません。二つの訳文から推測すると、フロイスは堅田の戦闘記述のもう少し先で「富裕な町だったのに」といった表現を入れている、というに留まるのではないでしょうか?
どうも、堅田の紹介記述にはこうした「湖族の里」たる結論ありきの不誠実な論が多いようです。もう少し落ち着いて歴史的事実を積み重ねた方が、長い目で見るといいように思います。

内湖北岸の枯木の木の実
一寸遠出するつもりで行ったので、記録も残してません。
~(m–)m 本編の(粗い)行程 m(–m)~
GM.(経路)
内湖南岸の水辺に休む白い鳥
湖の領主 堅田の脅威と虚像
ただし、堅田が海上法規に基づく正統な特権を得ていたという説は、史学的には疑問視するのが通説化してます(詳細展開参照)。高知・中村の廻船大法や広島・能地の浮鯛抄、さらに対馬・曲海人が宗氏より付与された八海御免特権(→009-5豊玉(帰)\対馬/曲集落に伝わる沿革)など、在地海民が新来者の進出を阻むために、おそらく実在した安堵状を拡大解釈して振りかざした例の一つと考えるべしでしょう。
内部リンク→m17fm第十七波残波mm014-1一條御所\中村\高知県/■小レポ:幡多遣明船と土佐海民の幻/[付記]廻船大法奥書に記す「土佐浦戸篠原孫左衛門」
廻船大法奥書(写真は「諸御書付二十八冊」 毛利家文庫 40 法令 135(17)のもの。ピンク部:土佐浦戸篠原孫左衛門)
→m19Pm第三十五波mm忠海二窓&幸崎能地(上)/付記:能地の浮鯛抄
浮鯛抄(風早のものらしい)
堅田の「湖上特権」に関する先行研究の層は極めて厚い。前掲網野以前の主なものだけでも、次のとおり。
【1969年:新行紀一③】堅田住人の権益を廻船・漁業・関務・上乗の四つに整理した上で「湖上特権」と評価
【1977年:水戸英雄⑧】本願寺、六角氏、織田氏との関わりの中から堅固における一向一撲の性格をまとめる上で、「湖上特権」を下鴨社の御厨となることで得た自由通行権に起源を持つと論ず。
【1981年:網野善彦氏⑨】竪田御厨、堅田庄の成立や内部の自治的運営を検討
※原注
③新行紀一「中世堅固の湖上特権について」(『歴史学研究』三四九号、一九六九年)
⑧水戸英雄「堅固一向一撲の基礎構造」(『歴史学研究』四四八号、一九七七年)
⑨網野善彦「中世の堅田について」(『年報中世史研究』第六号、一九八一年)
水戸1977が既に「湖上特権」論批判の立場を採っているようです。従って水戸の「下鴨社の御厨となることで得た自由通行権」が、おそらく海民衆の法務担当だった本福寺が、同寺文書中で多分に政治的な拡大解釈をしてきたのが実態と考えられます。
新行氏が論じた「湖上特権」は、これまで無批判のまま堅田研究の根幹とされてきたが、他の湖岸集落との比較検討や社会背景などを考えると、再度基礎から見直す必要があると考える。また『本福寺跡書』や『本福寺由来記』といった十六世紀前期に堅田本福寺の住持が記した史料は、これまでの堅田研究で多く用いられてきたものであるが、そのまま利用するには注意が必要だとする研究者もいる⑪。〔後掲渡邉〕
※⑬水戸氏前掲論文。田口綾「中世後期の堅固とその実態l竪岡本福寺をめぐる二つの記録から|」(『悌教大学大学院紀要』文学研究科篇第四十一号、二〇一三年)。
後掲渡邉は、堅田の「湖上特権」が少なくとも他集団及び統治側の共通認識にはなっていなかった点を、14Cいっぱい続いたと推定される湖北・菅浦(→GM.)との紛争史料から以下のように明示しています。
十四世紀になるが、湖北の菅浦との間で漁場相論が起きたことが『菅浦文書』※からわかる。菅浦は湖北の漁村であり、三方を山に囲まれ田地がほとんど無かったため、漁撈を主として生活していた。その菅浦の漁場を堅田住人が荒らしたのである。これに対し菅浦住人は建武二年(一三三五)以前に、「堅田浦漁人等、動致二違乱一之間、為レ断二絶彼煩一」という理由で内蔵寮の供御人となった※※。しかし堅田側は「違乱」は止めず、朝廷に訴えられたことが以下の史料からわかる。(続)〔後掲渡邉〕
※原注・原典 菅浦文書 上下巻、有斐閣、一九六〇年
※※同上巻、三九八号
「堅田浦漁人等、動致違乱之間、為断絶彼煩」──堅田浦の海民らが違法な悪さに及ぶので彼の煩わしさを断ち切るために、菅浦は内蔵寮に服属してます。即ち、琵琶湖沿岸集落間の激しい紛争から身を守るため朝廷権威の庇護下に入る集落は、堅田だけではなかったわけです。
下記は1396(応永3)年に中山満親(1371(応安4年/建徳2)年生-1421(応永28)年)による沙汰書。この公卿は前年の1395(応永2)年に蔵人頭に昇進しており〔wiki/中山満親〕、内蔵頭は供御人としての菅浦が属する内蔵寮(中務省の機関)の長ですから、正確には機関長→機関長の調整文書です。この時期の蔵人所は天皇家の家政機関一切をまたぐ部署ですけど、平安代末には訴訟には関与しなくなっていたはずで、なぜ沙汰者が蔵人長だったのかはよく分かりません。
【史料一】かたゝの御沙汰
(続)
【史料一】
内蔵寮領近江国菅浦供御人申、乱二入而当寮守護并近隣地頭御家人一、背二先規一、致二狩猟漁以下悪行一、禁制之処、堅田浦者共乱入事、為二事実一者太不レ可レ然、任二先例一早可下令二下知一給上之旨、天気所レ候也、俯執達如レ件、
応永三年八月日
(中山)満親(花押)
内蔵頭殿
〔後掲渡邉〕※原注・原典 菅浦文書 下巻、七〇九号
「天気」はこの場合、(後小松)天皇の意向です。「堅田浦者共乱
入事、為事実者太不可然、任先例早可令下知給」──先例に任じ御沙汰され給うを早かるべく、つまり従来通りになるよう早く調整しろ、という身も蓋もない指示ながら、堅田の所業を「共乱」と認定、「不可然」(然るべからざる≒そんなんじゃダメだ)に「太」(Very)を付してるのは天皇にしてはかなり強く堅田を叱ってるのでしょう。

これを受けて、さらに翌年、両者の聞で「四至[片旁]示の設置」──境界設定に至ります。まさに現代の相互立会の元での境界認定と、それが厳密な場合の覚書の取り交しと同等の作業です。
【史料二】かたゝの証文
【史料二】
近江国堅田与菅浦海上相論事
伝右契約趣者、海津之地頭所之御媒介仰申、潮上のすなとりのししはうし※を定申処如レ此、然塩津口西東并大崎同海津前不レ可二子細一者也、就中小野江・片山・ほうちゃう被レ直レ差候条、殊更以喜悦候、然間此上者、海上すなとりによて、聊雖レ為二子々孫々一、違乱妨成申、更々不レ可レ有者也、仍為二後年証拠一明鏡四時はうし状如レ件、
今堅田 道賢(花押)
西浦 妙願(花押)
次郎左衛門(花押)
惣領 道寂(花押)
道信(花押)
道満(花押)
道観(花押)
道忍(花押)
応永四年十一月廿四日
〔後掲渡邉〕※同菅浦文書 上巻、三九七号
※渡邉は「ししはうし」及び「四時はうし」に「四至[片旁]示」とルビ
この事例を、渡邉は次のように総括し、自明のものとしての堅田の湖上特権を否定しています。
つまり鎌倉期から南北朝期にかけての湖岸の村々は、自身の権益を守るため上部権力との結びつきを必要としたのであり、ここにおいても両者は対等な立場にあったと言える。〔後掲渡邉〕
堅田-菅浦紛争は、堅田-高島郡音羽庄紛争※など渡邉は他にも発見した事例の中で、やや後期ながら最も史料に姿を残しているものです。
※原注:賀茂御祖皇太神宮諸国神戸記 建久七年二月日条
明官軍と戦う倭寇 「明仇十洲台湾奏凱図」(倭寇図巻)東大史料編纂所蔵(一部)
それでも、さらに問題は残ります。最も顕著なのは、天皇までが裁定に乗り出して、いかにも遠慮がちな玉虫色の判定しか出来ていないこと。1397(応永4)年契約は、前年1398(応永3)年の裁定の半端さを補うものとして結ばれた実務的解決に見えます。
また、1397(応永4)年契約はあくまで対等者の合意書であり、判決を受けて堅田が無理やり結ばされたもの、という形式ではありません。実際の境界認定のご経験のある方なら理解されると思います。数十年揉めた後、境界を設定する作業が最大でも一年余で合意に至るとは思えず、その数十年の間に「落とし所」の境界がほぼ設定されていたと推測されます。
その上で、1397(応永4)年契約を再度見直してみます。末尾の記名押印(花押)欄の名前に、菅浦の者の名前がないのです。「西浦」は前掲のとおり堅田の小地名。「惣領」の属地は不明ですけど五名とも「道」字、今堅田の「道」賢と同じなので、確実ではないけれど堅田側の関係者のように見えます※。つまりこの「契約」は、天皇まで担ぎ出した紛争に形式的に解決したような体を持たせるために、堅田側が半ば偽装した契約ではないでしょうか?
※後掲渡邉は、本福寺開祖善道※※の門徒がその名の二文字目を偏諱したものと推定する。
※※同寺HPによると、本福寺の開基は、正和年間(1312~1317年)に滋賀県野洲郡御上神社の神職であった善道が、本願寺第三代門主覚如上人の教化で浄土真宗に帰依、念仏の道場を開いたことによる〔後掲夕陽山本福寺〕。
「湖上特権」が確固たる法的実態を伴わなかったことは確かでしょう。かつ、菅浦紛争では終始堅田の所業は「違乱」と理解されてる。ただ、にも関わらず天皇まで担ぎ出してなお、強制力のある「判決」を行えなかったこの経緯からは──堅田側の政治力又は潜在的軍事力が、少なくとも南北朝期の朝廷には抑え切れないほど脅威を成していたことが推定されます。
中世の複雑に絡み合った権益で、通常の政治勢力では手をつけられない「湖上の比叡山」「水上の興福寺」のような存在。
関東軍的に言えば、「湖上特権」は堅田海民衆が「自主的に認定」した特権であり、そのような意味で実在した可能性を感じるのです。
こうした堅田の脅威を避けるため、湖辺の浦々は堅田の人を自らの船に乗せ、関の無事な通行をはかるようになる。十五世紀、上乗職といわれたこの権利は、堅田の番頭たちの重要な収入源であったが、やがてそれは浦々に対する賦課と同じ意味を持つようになっていく。このように、名主として保持する田畠に加え、浦々に対する支配権を持つ堅田の人々を、さきのように「湖の領主」ということは決して言いすぎではなかろう。
[前掲網野1996]
内湖南の農地の道に迷い込む。この辺りが今堅田城の跡らしい。
実際訪れてみても、瀬戸内海程度のまとまった水域ではなく、水深や海流を読みにくいとは思えないこの単なる地峡に、それほど財に繋がる水利権が存立したものだろうか──と疑問は湧きます。ただ、湖上特権はともかく、えらく「美味しい地峡」だったことは、比叡山から信長までの有象無象が触手を伸ばして取り込もうとしてきた歴史から確かなので……よく分かりません。
簡単に言うと、少し南の琵琶湖南岸の陸路へ少し遠回りするのが、なぜそんなに嫌がられたのでしょう?
全人(まろうど)の陰に隠れて水軍衆
今堅田の集落風景
網野は、これは面白い見方と思うんですけど──堅田水軍層と分離したものとして「全人」衆を描いています。
これ(引用者注:堅田水軍衆)に対し、全人(まろうど)衆とよばれた一般の供祭人─網人・釣人たちも、漁撈に携わるだけでなく、むしろ商工業の分野に進出し、広く山陰・北陸・東山道諸国にまで足をのばし、「有徳」─富裕になっていく人々も現れてきたのである。
[前掲網野1996]
今堅田の集落道
唯です。葵祭前日の5月14日の「献饌供御人行列」※で有名な伊豆神社は、殿原衆と全人衆の自治組織(宮座)が置かれた神社と伝わります〔後掲都草〕。堅田漁港から南西500m、本堅田の完全に湖岸の社です。
海民衆と対峙する商人ギルドが本拠を置く場所でしょうか?何より、この地理環境で海民と連携せずに、どんな商利を追求できたでしょうか?
※下鴨神社に奉納する琵琶湖のフナを運ぶ儀式。
堅田漁港脇の「貝殻置場」
十五世紀後半、その海賊行為の罪を問われ、堅田は幕府の委任を得た山門による「大責」の対象となった。殿原衆と全人衆、宿老と一般市民は一致して濠を「木戸」として激しく戦ったが敗れ、町は一旦焦土と化した。しかし堅田の市民は全員で山門と和解するための費用を負担し、堅田に還住する。堀─濠で囲まれた宮の切・東の切・西の切などとよばれるととのった区画は、そのとき実施されたと私は考えているが、いずれにせよ計画的な町割を施した堅田に、全市民による自治がこのとき確立したことは間違いない。宣教師が堺と比べたほどの富裕さを誇る自治都市堅田は、こうして菅浦をはじめとする他の小都市を圧倒し、湖の覇者となっていったのである。
[前掲網野1996]
大げさに言えばキリスト復活めいている、山門(比叡山)による「大責」(おおぜめ)と、「山門と和解するための費用を負担」、つまり賠償金支払による堅田への復帰劇は、前掲本福寺史料の語り継ぐところです。
史料性に疑問があるとは言え、その記述を「自画像」的物語と捉えるとしても、様々に噛みごたえがあります。
従来研究で根拠とされてきた、というかこの史料があるから
民の歴史でしかない堅田中世史が議論の俎に乗るわけですけど──本福寺由来記(以下「由来記」)と本福寺跡書(以下「跡書」)です。
由来記が1507年、跡書が1541年の成立と推定されています。
記されている出来事のうち、それが起きた年代が推定できるものを参考に、『由来記』は永正四年(一五〇七)から同六年までの二年間、『跡書』は天文十年(一五四一)の前後数年の間に成立したものと推測できる。(5)
原注(5)『由来記』は、記事内容の時代が判明するものの中で、最も時代が降るものが永正四年の記事であり、また、永正六年の本福寺第四世明顕の死亡記事が存在しないことなどから、永正四年から二年間の間に成立したとされる。(村上學「「本福寺由来記」から「本福寺跡書」へ」〔『名古屋工業大学学報』四〇号、一九八八年〕) 一方『跡書』は、天文九年の出来事と推定される明宗の死亡に関する記事があることや、明誓が破門中に記したものと考えられる点から(破門は天文十年十一月以降に解かれている)その前後の成立と推測されている。(永井隆之『戦国時代の百姓思想』第一章第一節、東北大学出版会、二〇〇七)〔後掲田口〕
由来記:1507年と跡書:1541年は、堅田大責の年次として両書の記す1468(応仁2)年から39年・73年を経ており、一次資料性をやや欠きます。加えて、両書成立の間では政治的な本福寺の位置が異なります。──1491(延徳3)年の寄進など同寺を庇護した蓮如が1499(明応8)年に死去、子・蓮淳は本福寺と対立を深め同寺を三度破門(1518・1527・1532年)〔後掲夕陽山本福寺、wiki/蓮淳〕。
つまり跡書時点では、本福寺は自律的に政治力を確立する必要に迫られる状況にあります。あるいは跡書自体が、その目的で記されたとも考えられます。
以下、大責と礼銭(賠償金)についての由来記と跡書の原典を見ます。
なお、大責については、跡書に由来記と対応しない外記的な記述があります。田口はこれを(a’)として併記するので、本稿でも並列させました。よって以下は5件の史料となります。※後掲田口原注( 4 )本執筆稿にあたり参照・引用した『由来記』および『跡書』は、全て『本福寺旧記』(千葉乗隆編、同朋社、一九八0年)所収の影写および翻刻史料による。
まず大責に関する最も古く、同時代性の高い由来記史料から確認します。やや長文ですけど、カタカナであること以外は幸い表現の難度は低く、ほとんどが現代人にもそのまま読めます。
【大責 × 由来記】
応仁二年三月廿四日堅田大責卜廻文マワリテ、同廿九日城ノキワヘ敵ツメテ、ヲメキサケンテセメタリケリ、山門ヲテキニウケテンケレハ、東西南北ミカタスル里モナシ、ワレモくト海ノ中ニオキニユカナントヲカキテヨロツサイホウアシヨワヲオキタリケル、(中略)、ウミナルユカニヲキツルモノトリ入テ、ソノ日オキノ嶋ヲサシテ舟ヲオシイタシ、ヨキシユン風ナレハホヲアケテオチ行、ヤカテシマヘソトツキタル、東ウラノ将監方オチハヲチラルヘキニ、地下ノハタヲトリニモトリテ、テキニアヒ下ハゝニシノウミハタニテハラヲキラル、サテアクル四月一日カタゝノサイ礼ヲオキノシマニテハヤシタテケリ、力ゝル乱劇モミヰ方ノモノ京ヘツクヲトリチラシ、剰人ヲ多クコロシケル故ナリ、モミヰ方ハ公方様御蔵奉行ニテ山門へ相フレテ如此成敗ヲナスナリ、サテ文明元年ニ山門へ詫言シテ文明第二ノ暦十一月九日二堅田ヘナヲル、〔後掲田口〕
大筋では、時系列に並べると次の七項が語られています。
①多く殺害
②敵の策謀(「モミヰ」・山門(延暦寺))
③大責
④沖島移動
⑤祭礼
⑥詫言(礼銭)
⑦堅田復帰
この史料では、③→④の段階で「東ウラ」(東浦)の「将監」※※だけは逃げ損ねて自害してます。「地下ノハタ」を忘れ物して取りに戻ったため、とある。
※「御蔵奉行」=室町幕府の職名。酒屋・土倉・日銭屋等の役銭・棟別銭等や幕府への進納物の財務管理のほか、公的文書の保管も所管。実態は複数の土倉業者から成り、その中から納銭方(のうせんかた)が任命。代表家系に籾井氏の名があり、「モミヰ」はこれを指すと思われます。
[初出の実例]「此折紙注文自二御蔵奉行籾井方一進レ之云々」(出典:大乗院寺社雑事記‐寛正三年(1462)五月一三日)
〔精選版 日本国語大辞典 「御蔵奉行」←コトバンク/御蔵奉行(おくらぶぎょう)〕
※※将監:近衛府三等官。武家官位なので殿原衆だった可能性有。
次は同じ筋の跡書aです。
【大責 × 跡書a】
応仁二(年:引用者追記)三月廿四日ヨリ、堅田大責トアヒフレテ、敵ノ諸勢堀ノキハマテトリヨルヲ、雄琴・ナウカマテ追払コト度〃ナリ、ツ合ノ勢百八里ノ軍勢手ニタマラストハイヘトモ、湖上海賊ノソノ罪ノカレカタキトイヒ、剰多ノ人ヲコロセシ重料トイヒ、公方様ノ御蔵奉行モミ井方財物ナレハ、山門ヘアヒフレテ、如レ此御成敗ノ旨(ママ)シノキカタクテ、衆徒モセチカクト当所ヲ調伏セシコトイフニ及ス、(中略)、オキニハイカヲカキテ、万ノモノヲヲク二、ノキサマニミナ船二入トリノリくカタゝ惣庄ノ旗ヲソノマゝステタルナリ、モンハアヲエナリ、順風ナレハホヲアケテ、奥ノ嶋ヘオチユキケリ、トキノマニハセック、(続)〔後掲田口〕
一旦切ります。
①→②の敵方形成の因果は、海賊の強奪対象が公方・籾井(モミ井)の財物たったから、という整った説明になっています。
また、戦記物として修飾やリズムなど体裁が整ってます。なべて物語としての完成度が高い。34年(1507→1541年)の間に、伝承し易いよう尾ひれが付いたことが分かります。
逆に言えば、山門らの攻撃に確たる統率はなく、有象無象の勢力による堅田憎しの念がたまたま重なった、というのが実態に近いと考えられるのです。
かと言って、続く部分からは堅田側も一枚板では到底なかったことが窺えます。
(続) 同廿九日小ノツモコリナレハ、アクル四月l日カタゝノ祭礼ヲハシメノマツリナレハ、ハヤシタテタリ、
今堅田ハカタタニ同心スマシキトテ、セメ衆ニ一味シテセムルトハイヘトモ、カタタノヤクルトヒ火二、今堅田ノイヘコトくクノコサスヤキタリ、〔後掲田口〕
今堅田は「セメ衆二一味シテセムル」、つまり筆者側の敵になった。筆者側の言う堅田とは、ここでは本堅田=旧集落を限って言っているらしい。今堅田の「イヘコトくクノコサスヤキタリ」──家は尽く残さず焼いた。「ヤキタリ」の主語は筆者側に思えますし、この憎憎しげな表現は、本堅田が今堅田に報復したのでしょう。
先の西浦の記述も合わせて考えると、本堅田は後の堅田四方=広域堅田集落を統率する立場にもない。それどころか内紛を起こしてます。
ところが同じ跡書の「外伝」a’では、全人衆と殿原衆を核とし「命ヲチリアクタニカロンシテ」──命を塵芥のように軽んじて、つまり死を厭わぬ果敢な抵抗戦を戦ったような筆致になってます。
【大責 × 跡書a’】
応仁二年、花ノ御所ノ御材木上ル年ヨヲミナミタマハル并公方ノ御蔵奉行モミ井方財物二海賊ヲカクル、ソノ罪科故、延暦寺へイキトヲリアリテ、山門ヨリ成敗ニヨテ関上乗ヲ途津三浜馬借等陰憐堂ニタテヲキタリ、其已後又三院ヨリ途津三浜ヲ発向ノトキ、堅田衆手ヲクタキ退治ヲ加ヘキ一義有レ之間、堅田四方ノ兵船ノテツカイヲモテ、命ヲチリアクタニカロンシテ、セメ入コミツクシ、焼ハライ、本意二落居ス、仍関上乗ヲ取返処也、(中略)、カゝル惣庄ノ大慶二上ノ関ヲ全人衆へ殿原衆出ノ靭、一両年知行ノ処二、本福寺ノ明顕異見二関ヲトルニ、万端カマフ儀多キカルヘシ、夕ゝコノ関ヲ斟酌シテ、公儀国方ノマカナイ、家別屋別トキナラヌ出銭クゝリ事、何シラスニナリテ、コノ上ノ関二テセラルヘキナリト、返テヨカルヘキトノ義ニテ、ソノ理ニテ
上ノ関屋ヲカヘシタリケリ、〔後掲田口〕
この変化もやはり、16C半ばに至って「祖先は斯くも奮戦して堅田を防衛した」との伝承過程がもたらしたものでしょう。
さて、もう一つの由来記と跡書の根本的な違いに、お気付きになられたでしょうか?そもそも発端となった①の海賊行為について、由来記の筆は非常に鈍い(主語なしに「剰人ヲ多クコロシタケルユエ」)。対して跡書は、その行為を「海賊」による「重科」と明記し、自身とは別の集団として「海賊」がいたように書きます。伝承の過程で堅田は、自身を、海賊のとばっちりを受けた「被害者」に置き換えているのです。
この点と合わせ、③→④沖島への脱出行に焦点化してみます。
堅田→沖島エクソダス行程図
琵琶湖最大の島、現・近江八幡市に属す沖島。その人的規模は、1880(明治13)年で63戸320人、舟64隻。人口が多かったとされる1996(平成8)年で150戸580人。現在は過疎・高齢化等で人口は約250人〔後掲京都北山の昔話〕。
堅田からの「難民」数はここまでの史料に書かれていませんけど、伝承では約四千人。現・本堅田が3,974世帯9,148人〔人口統計表/男女別・町丁別人口統計表:大津市 (2019年)←wiki/堅田〕なので、妥当な数字ではあるでしょう。
沖島側からすると島を占拠される規模の難民を「受け入れ」ています。期間は二年。なおかつ、この後「礼銭」(賠償金)を払って堅田復帰するのですから、相当な財貨を携えた「難民」です。
沖島はこれだけの難民を強要させられるほど、従来から堅田の強力な支配下にあったとしか思えません。沖島対岸にも移住したのではないか、攻撃を予知し逃げ準備を整えていたのでは、といった記述をよく見ますけど、瀬戸内海の家船を比較対象とすれば、そんな補論の必要はないでしょう。
堅田の脱出者は当時「湖水に住んで」いた。財貨一切を運ぶ船を大多数が有し、経済基盤も湖水域そのものだった。──そういう前提に立たないと、大責で滅びず復帰してより一層の繁栄をみた、という歴史は成立しえないでしょう。
ここからシンプルな結論が得られます。海「賊」かどうかは見方によるけれど、堅田集団の原型は海民だったという点です。
【礼銭 × 由来記】
一 殿原・全人ニヨラス其時料足過分二出ス人還住ス、サナキ人ハフタゝヒ地下ヘナヲラサルナリ、(後略)〔後掲田口〕
「料足過分二出ス人還住ス」、つまり厳密に言えばこの金は集団単位の賠償金ではなく、個人単位の「復帰登録税」とでも言うべきものだったことになります。「サナキ人」(支払わなかった人)は復帰できなかった。二年の亡命後も財貨豊富だった資産家だけが、帰還できました。
ここの修飾に「殿原・全人ニヨラス」とあります。これを信じるなら、復帰に殿原・全人の如何は関係なかった。つまりこの時期、現在の論で重視される殿原・全人の身分階層は意味を持っていません。
【礼銭 × 跡書】
文明二年堅田逃ノ衆、挙テ環住ノ談合ト云、地下ハスナ三合ノ所ヲ、過分ノ礼銭礼物ヲモテ、山門ヲトゝノヘシニ、惣次ニマシテナヲ法住ハ三百八十貫文、弟法西ハ八十貫文、大北兵衛ハ百二十貫文、塩津兵衛入道法円ハ百貫文、堅田庄内へ引違如此歴然也、(後略)、〔後掲田口〕
当時の一貫≒現・十万円〔後掲渡邉〕と換算すると、大北兵衛や塩津兵衛入道法円のハ百貫文とは8千万円。「惣次ニマシテナヲ」の意味が不明瞭ですけど、この一億弱の金銭は礼銭に追加して支払われたような書き方です。
上乗の権限が他に奪われたような表現(跡書a’「途津三浜馬借等陰憐堂二タテヲキタリ」)もあるけれど、湖水面のこれほどの利権を持つ人々から、延暦寺や馬借等は本当に水上権益を奪取できたのでしょうか?
この点は簡単な仮定で解明できると思います。もし上乗権益を完全に奪えたのなら、なぜ二年ほどの短期で堅田にそれを返還したのでしょう? 法的に権益を得ても、陸上勢力は誰もそれを運用する技術もツールも持たず、湖南経済は崩壊しかけた。そこで権益を、ある程度は自尊心と戦費負担を埋められる礼銭を義務づけて、運用可能な者に返還せざるを得なかった。
山門ら陸人側は、その事態を予想できないほど堅田での交易内容に無知だったし、堅田側は敵方が権益返還をせざるを得なくなる事を予想したから、近隣の亡命地で待機したのでしょう。
「堅田水軍」を畏怖する陸人集団は、そのくらいにかの水軍の実態認識から遠かった。「海賊」呼称も、他地での「蜑民」「海仔」と同様の異種経済者を指すものだったと思われます。
市町浦浜野山道 皆無縁
堅田漁港と琵琶湖と空
江戸期の港別船舶保有数(丸子船:木造船)のデータがあります。
【1677(延宝5)年】〔『観音寺文書』の「江州湖水諸浦船員数帳」←後掲NOBUSAN〕
舟木215 塩津125
大津102 海津 75
今津 74 堅田 47隻⑥
※堅田「丸子船」内訳
大丸子(100石以上積)
14隻
小丸子(数十石積程度)
33隻
【1716~36年(享保年間)】〔「大丸子」のみ集計:『近江輿地志略』←後掲NOBUSAN〕
塩津 84 大津 82
長浜 67 今津 61
海津 58 舟木 34
松原(彦根) 32
堅田 23隻⑧
つまり、17Cには琵琶湖の諸港の一つに落ち着いています。
16世紀に入ると湖東六角氏の湖上流通路支配の強化によって、次第にその実質的権能を失っていった(堅田旧郷士共有文書)。〔角川日本地名大辞典/堅田浦〕
「湖東六角氏の湖上流通路支配」というこの語はかなりあちこちに転載され、これを織田信長が受け継いだとされます。しかし、具体にそれがどういう意味なのかは判然としないと感じています。
文化財建造物の専門家間では「古代の奈良、中世の滋賀、近世の京都」という語があるといいますけど、史書分野でも湖東地域は、中世の民衆が直接残した古文書の残存密度が濃い地域らしい〔後掲東近江市〕。山に惣村、海に開港都市が乱立したこの土地を、六角氏や織田氏が「掌握」したというのが具体にどういう内容を指すのか、どうも像を結ばないのです。
道に小社が連なる。覗いて撮ると背景と自分を撮ってしまってた。
菅浦も堅田も、その集落は浜──湖の水際に集中していた。こうした立地は、港町といわれてきた中世の都市には、当然ながら多く見出しうる。小浜、桑名、尾道等々、事例はいくつもあげることができよう。もちろんこれを非農業民──漁撈民や廻船民の生業と関連させて理解するのが常識であろう。しかし「市町・浦浜・野山・道路」などが同じ性質を持つ場──私の流儀でいえば「無縁」の場であったことを明瞭に示す史料のあることを考えれば、これを都市的な場の特質に結びつけることもできるのではなかろうか。
[前掲網野1996「三『無主』『無縁』の場の特異性」]
網野がサラリと書いてるこの文章も、切れ味は凄まじい。海民の歴史を、海と交差する港・荷揚場・航路・目当山稜などに係る無縁性≒都市性としてアプローチすることも出来る、という発想です。
ただ、個人的には──この「無縁」の概念がどうもリアルに咀嚼出来てません。
光秀は海から陥とす堅田城
禅寺前にも小社
(続)また、その住人は「殿原・全人・マウト・タヒウ人・譜代下人・下部」などから構成されていたが(本福寺由来記)、応仁2年山門による堅田発向(堅田大責)から文明2年の還住を契機として、居初氏・猪飼氏等の堅田諸侍と呼ばれる在地小領主層が成立した(堅田旧郷士共有文書)。この堅田諸侍は、永禄12年織田信長より諸活動の保障を受けたが、その内容は金融・船運・他所知行など多岐にわたるものであった(堅田旧郷士共有文書)。一方、真宗の教線も拡大・浸透し、本福寺・一家衆寺院慈敬寺を拠点として近江門徒の1中心地となり、元亀元年・同4年には一向一揆が信長軍と戦闘を交えている(信長公記・浅井三代記他)。なお、本福寺諸記録中に見える地名のうち堅田内と推定されるものは、馬場・新在家・今在家・中村・中村浜・大道・渡崎(唐崎)・宮浜・北浜・尼御前が浜である。〔角川日本地名大辞典/堅田(古代)〕
堅田宮座の置かれた本福寺が本山・本願寺から破門されたのは、蓮如・六男(実如・弟)の蓮淳が入った顕証寺(現大津市札の辻󠄀・本願寺派近松別院→GM.)と布教地域が重複していたけれど、真宗門徒は本福寺にのみ爆発的に増え続けたためとも伝わるらしい〔後掲墓場放浪記/本福寺〕。「堅田門徒」と呼ばれる「堅田を盟主に一向宗を紐帯とする都市連合」〔世界大百科事典(旧版)内の船木北浜←コトバンク/船木北浜〕が形成されたという見方もあるけれど、信長・秀吉による徹底的な弾圧で壊滅したとされます。
だから当時の記録は、史書の豊かなこの土地にも見当たらない。滅ぼした側の記録のみです。
1570(元亀元)年6月に姉川の合戦があった。以下はその五ヶ月後・11/22の信長公記の記事です。
同年9月には石山本願寺の顕如が挙兵。ほぼ同時に長島願証寺で一向一揆が発生(長島一向一揆)。けれど堅田は信長に恭順しています。
1570(元亀元)年 巻三(十)志賀御陣之事
霜月廿二日 佐々木承禎と被成御和睦 三雲 三上志賀へ出仕申上下満足候し也
霜月廿五日 堅田之猪飼野甚介馬場孫次郎居初又次郎両三人申合御身方之御忠節可仕之由候て 坂井右近安藤右衛門桑原平兵衛右之趣申越被得上意人質を請取其夜中に人数千計にて堅田へ申入仕候処越前衆時刻移候てかなはじと存知多勢を以て口くへ攻込也爰かしこへ差向前波藤右衛門堀平右衛門義景右筆之中村杢丞 其外宗徒之者数多雖討捕或手負或討死次第く無人に成り既落去候〔wikisource/信長公記〕
十一月二十二日、信長は六角義賢と和睦をした。三雲勢・三上勢は六角方を離れて、信長の志賀の陣に出頭してきた。信長方では上下みな満足であった。
十一月二十五日、堅田の猪飼野正勝・馬場孫次郎・居初又次郎の三人が協議して「お味方となリ、忠誠を尽くします」と申し入れてきたことを、坂井政尚・安藤右衛門・桑原平兵衛が報告してきた。信長はこれを承認し、人質を受け取った。
その夜のうちに兵千人ほどを堅田の部隊へ増援に派遣したところ、越前方は時を移してはよくないと考えて、多数の兵をもって諸方面から攻撃してきた。各所で応戦し、前波景定・堀平右衛門、および朝倉義景の祐築中村木工丞、そのほか主だった者多くを討ち取ったが、味方にも負傷者や討ち死にする者が出て、しだいに手薄となり、ついに敗退した。〔後掲中川(原・太田牛一)〕
この段階まで堅田は浅井・朝倉側に与したらしい。上記記事は普通、堅田の織田家内通、浅井朝倉への裏切りとして語られます。織田の進駐、浅井朝倉の素早い反撃もその結果でしょう。「堅田反乱軍」は潰えて終わります。
猪飼・馬場・居初のうち、猪飼野正勝だけは略歴がはっきりしてます。別称・定尚又は猪飼野昇貞、通称:甚介。生年没年とも不詳ながら猪飼野佐渡守宣尚の子(「猪飼家系譜之図」,高島幸次「近江竪田の土豪猪飼氏について」所収)。元は近江国志賀郡堅田水軍の棟梁で、はじめ六角氏に仕え、のちに浅井氏に属す〔wiki/猪飼昇貞〕。上記堅田合戦で敗退後は明智光秀麾下。1582(天正10)年以降の記録がなく、本能寺の変前後に没したと推測されています。なお子の秀貞は遅くとも変時には父と袂を分かち、近江潜伏の斎藤利三を捕縛。丹羽長秀家臣を経、徳川家康に仕えて遠江国・駿河国で490石の知行を得る。
次の記事はその三年後。信長への反感を強めた義昭の挙兵に、堅田は今度はこれに呼応。結果として信長に滅ぼされます。
1573(元亀4)年 巻六(三)石山今堅田被攻候事
(巻六(2)末)辺 躰の者内々被加御詞※彼等才覚にて今堅田へ人数を入石山に取出之足懸りを搆候則可追払之旨 柴田修理亮 明智十兵衛尉 丹羽五郎左衛門尉 蜂屋兵庫頭 四人に被仰付(略)
(巻六(3))二月廿九日辰剋今堅田へ取懸二明智十兵衛囲舟を拵海手の方を東より西に向て被攻候 丹羽五郎左衛門 蜂屋兵庫頭 両人者辰巳角より戊亥へ向て被攻候終に午剋に 明智十兵衛攻口より乗破訖数輩切捨 依之志賀郡過半相静〔wikisource/信長公記〕※この部分は、下記現代語訳に対応しない。
結局、将軍は山岡景友・磯貝久次・渡辺昌などの者に内々に褒賞などの約束をして※、彼らのオ覚で今堅田へ軍勢を進め、石山に砦を築きはじめた。
そこで信長は、これらを撃退するよう、柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四人に命じた。(略)
二月二十九日辰の刻、今堅田へ攻め掛かった。明智光秀は囲い舟を造り、湖上を東から西へ向かって攻めた。丹羽長秀・蜂屋頼隆の二人は、東南から西北へ向かって攻めた。ついに午の刻、明智の攻め口から敵陣に突入し、多数の敵を切り捨てた。これで志賀郡の大半は鎮圧され(略)〔後掲中川(原・太田牛一)〕
織田の攻将は柴田・明智・丹波・蜂屋というドリームチームですけど、今堅田の城は根強いものだったらしい。明智光秀軍だけが攻城に成功し、かろうじて攻略が成ったという雰囲気です。
光秀軍は囲い船で「東より西に向て被攻」してます。現在の泉福寺(→GM.)付近だったと推測される堅田城は、当時はクリーク内にあったのでしょうか。陸側から攻めたと思われる柴田・丹波・蜂屋の三軍には耐え得たようです。落城は、西から海路攻め入った明智の水軍によるものでした。
ここだけを見ると、堅田城構築上の仮想敵は陸からの侵入者で、海からの攻撃は未想定に見えます。小谷城のような準山城はともかく、湖岸のどの城の立地も、能島のような瀬戸内海の対海戦用海城には見えません。湖岸各都市間の武力闘争は稀だったのでしょうか?
堅田漁港にて
襟巻のあたたかそうな黒坊主
次の文章は、後掲網野さんが同じ琵琶湖西岸の船木庄(現・滋賀県高島市安曇川町北船木→GM.)について述べている論です。
安曇川は河口近くで北川と南川に分れ、再び合流して琵琶湖に流れ込むのであるが、とくに注目しなくてはならないのは、船木北浜の集落が、この北川と南川にとりかこまれた、いわば安曇川の中洲ともいうべき地にびっしりと集まっている点である。
居住条件がよいとは決していえないこうした場に、都市的な集落が立地する理由は、単に生業上の経済的動機からだけでは説明し難いのではなかろうか。それは中洲という特異な場の特質と深く関連しているように、私には思われるのである。
[前掲網野1996「三『無主』『無縁』の場の特異性」著者注:「日本中世都市をめぐる若干の問題──近江国高島郡船木北浜を中心に」(『年報 中世史研究』七号)]
(上)船木庄:現・滋賀県高島市安曇川町北船木 地理院地図 (下)堅田:室町末期の堅田の町並み〔(再掲)大津市歴史博物館←後掲NOBUSAN〕
繰り返しになりますけど、堅田の旧集落は他より利便性があったとは、少なくとも瀬戸内海の人間にはとても思えないのです。
網野さんはそこを「中洲という特異な場の特質」と説明しようとしています。けれど、重力や放射線を発する訳じゃありませんから……リソーサーあるいはナッジのような心理学的な誘因を持つものなのでしょうか?
旅行者の感覚的には、それもあながち否定し難いのですけど……。
祥瑞寺山門より〔GM.〕
訪れてませんけど──堅田漁港から南西500m、祥瑞寺(臨済宗大徳寺派)という場所があったらしい〔後掲墓場放浪記/祥瑞寺〕。一休禅師が長く逗留したと伝わる寺です。
一方で、一休は琵琶湖畔に入水自殺を試み、その時に湖岸で烏の声を聞いて大悟したという伝承もあることから、一休が悟った寺として名を知られます〔後掲墓場放浪記/祥瑞寺など〕。
襟巻のあたたかそうな黒坊主 こやつが法は天下一なり(一休)
※蓮如上人主催の親鸞聖人二百回忌の節に本願寺に参拝しお馴染みの親鸞聖人の黒漆木像を見て詠んだ句
同寺には又、芭蕉の句碑もあるといいます。
朝茶飲む 僧静かなり 菊の花(芭蕉)
堅田の落雁(歌川広重)