目録
海邊に大池ある故に
GM.(経路)
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六倉庫のラインが気になる。大船を着けていたならここのように感じます。基部に古い石積みのようなものも見える……けれど侵食が酷く見定めにくい。1436、一枚。
エンジン音。開口部を通って、今、一艘のボートが外へ出ていきます。
平良港は、「C」字が二つ組み合わさった、知恵の輪のような構造です。
水神社が「平良港がまだ池だったころの水神様」であると推測する記述を、後日、一つだけ見つけました〔後掲古代文化研究所〕。三国名勝図会の「海邊に大池ある故に、其池を以て港を開かんとし」〔後掲原文参照〕に、確かに漢字は「池」と記されてますし、水神社の方向はそれらしく見えますけど──やや確証に欠けます。「池」を離れる。
1444。湾の西側裏手道に右折して入ってみる。
やはりこのラインに道筋かある。元の海岸線……のはずです。
ただし、やはり何も見つかりません。1447。諦めて左折。
一段高い石垣がある。垣そのものは新しいけれど、地盤が高いのです。
この地盤には、薩摩川内市上甑生活館がありました。多分、この公民館を造る際に造成した面でしょう。
歩かされる時間は吉 榎の道
生活館の先に公園。「榎の由来」と書かれた案内板。樹齢5百年以上とあるから、室町末期にはあった樹です。先の生活館の嵩上げも併せて考えると──元は古い土地だったものの上に、一部土壌を盛った、ということになります。
1457、バス待合所に戻ってきた。帰路のバスまであと80分あります。
このパターンで「歩かされる」時間は、吉です。いや結果が吉とは限らないけれど、ゼロベースで実力を試される歩みになります。
先のお寺前から……今度は右折西行してみる。するとまっすぐに……鳥居? 行ってみよう。ただ、奥の石垣の道から回ろうか。
一目散に走り去る影。太った白猫、だったと思う。
それは吉事なんてすけど──この町のあちこちに貼ってある網、あれは猫よけでしょうか?
なるほど。行きにも感じたけれど、筆の縁取りが緩い、のではないかと思う。総有感覚、と決めつけるには材料不足ですけど──野原に直に家が建ったのを、一応囲ってみました、という感じ。
青い自転車 えべっさんの丸石
その分、少なくと散策者には公園のようなゆったり感が感じられるのです。
と──視界に社が入ってきました。何と鳥居まで備えた完全武装です。
道が山下にぶつかり、その屈曲部に建ってる。そういえば先の池の水神社や愛宕神社も、単なる屈曲部に建ってた感じです。もしかすると沖縄の石敢當めいた風水感覚が基底にあるのでしょうか。
恵比寿神社でした。1509。
ぐるりを回ると、向かって右手脇にに小さな祠。茶碗と花瓶が供えてある。恵比寿本体にはナニもないのに、です。
三島社と同じく丸石が群れる。甑島の丸石信仰……なんて聞きませんけど……。
う〜ん。何て言えばいいんだろう?
何か独特な感じのする集落なんですけど、どうしても特徴を言葉にしにくい。のっぺりしているというか、村っぽいというか。
コミュニティバスが走っていくのでドキリとしたけど──平良に一旦入って島の西側へ寄って来るバスらしい。それしかない交通機関なので、複雑な厳格さがあるみたい。
歩けども平良の港は紺碧に
残り57分。やはりここで80分は潰しにくいなあ。
旧平良港の施設には幸い灰皿付き。タバコを一服。
ここから湾を見ても、どこから船が出てきたのかまるで分からない。外海からならさらにそうでしょう。
つまりここに船が入っても、どこに行ったか分からないような配置になったいるのです。平良の場所自体が分かりにくいのに、通りがかりの船はここに湾があることに気づかない。
開口部が狭いということは、いざという時はここを塞ぐことも出来たはずです。
そういう場所を、薩摩藩は意図して造ったのでは──と確実視する材料もやはりありません。
岸壁で釣りをしてる制服姿。傍らに南国交通と書かれたミニバス車両。あれじゃないだろけど……どういう状況の人なんでしょう?
夏の潮 恵比寿かつぎて弁慶島
バス待合所内に、何と次の古写真(年代不詳)が貼ってありました。以下はその案内文です。
平良港開港200年記念
平良港は当時湖沼であったが島津家直轄事業で港口を開く工事が始まり三年の歳月をかけて寛政十一年三月に完成しました。
以後、貿易港漁港となり内外の船舶の出入りも多く又台風時の避難港として非常に繁盛しました。(略)
平成十一年十一月吉日
村制施行百十周年記念事業 上甑村
もう一つ、「恵比寿かつぎ」という行事の記事が同待合所内に貼られてます。島の南方、船で15分の「弁慶の浜」(義経と弁慶が住んだという伝承の地)に赴き、海に入る二組四人を抽選。白ふんどし組と赤に分かれ、足で丸く形よい石を足で探す。見つけたら運び手に渡し、これを祠に飾って大漁祈願とするのだという。[屋原昌一「かごしまの祭り」]
社にあったあれらの丸石は、そうした行事で集められたものかもしれない。
ただし,ネット上ではこの祭りも弁慶の浜もヒットはありません。
あと19分。
──という時間になって気付いたけれど、開口部の湾から見て外側辺りには、かなり古い石積みが残っているようです。上部には船を繋げるような石柱も見えます。
釣り人はハンドル握る きびなごん
──唯……湾外に係留するとは思えないよなあ。そうだとすれば、なぜそこに船繋ぎ石があるのか想像できません。
ここの海岸の高みの家の前に、エプロン姿のおばあちゃんが、来た時から延々と立っています。家の外に出たり入っだり、時には海まで出たりしてるらしいけれど、とにかくずっとそこにいる。
1619、港際で魚を釣ってた例の謎の制服姿のオジサンが、ふいにミニバスに乗って目の前にやってきた。
このバスかい!てゆーかオジサン、勤務中だったんかい!
里港の売店には──タバコ売ってないの??
そこの売り子に訊くと,「港の対面を左に曲がってすぐを右に降りると正面にタバコの自販機がある。そこに店もある」と謎の案内をされた。分からんだろそれじゃ……と行ってみると──ここではそれで十分分かりました。「おみやげ店 我夢」のことでした。もはや公共的使命を帯びた店なので、個人商店ですけど特に位置を表示しときます(→GM.)。
ここでセブンスターついでに買ったきびなごの一夜漬けが……凄まじく美味かった!あんまり旨くて写真も撮ってません。──生々しいのに臭みもなく、イギイギ(骨骨)しいのに身のプリプリを感じる。醤油も何も要らん。ただワサビがあればベターか?
デタラメな旨さでした。
■レポ:光と影と平良の虹と
公式の史料としては唯一平良を記す三国名勝図会の記述原文から、まずお話を初めていきましょう。
平良港 上甑村の南面、平にあり、往古は此村を矢島と稱せしと可、人家漁釣を以て業とす、此所港なき故、風濤の時、土人患へとせしに、本府士長崎八右衛門隆近、當島に祗役す、此海邊に大池ある故に、其池を以て港を開かんとし、是を官に啓して報可を得、寛政十一年春三月、嵓を碎き、地を鑿て港を作る、三年にして、その功竣る、港口横十歩、深さ一丈三尺、港周廻十町四十歩、港内の深さ五丈餘、舟船の出入自在にして、風濤の患を免る、隆近が功勞永世に及ぶ、此港人煙頗る繁庶なり —三国名勝図会第三〇巻〔後掲Weblio辞書,wikiland/平良など〕
「嵓を碎き」の「嵓」とは、山稜の下にある岩、平易には岩壁を表す「岩」字の古語ですけど、「神様がお座りになる台座」を指します。何か含意があるとも覚しき表現ですけど──ここでは素直に、長崎八右衛門隆近の偉業を讃える大仰な用字と解すべきでしょうか?
三国名勝図会は、ほぼ「長崎さんは凄い」としか書いてません。
ただ、郷土史が掲載する工事施工の願書書付写を読むと、長崎さんが登場しないだけでなく、トーンが全く異なるのです。
平良池湊船通り岩有之小船は出入仕候得共,大風波之節大船引入相調不申候。依之汐掛仕候諸船相対百文位ツツ心落受,右岩試切仕度奉願候処ニ去々已三月御免被仰付置,当午正月より同十二月迄之間心落人數別紙横折帳ニ相記差上申候。(略)
午十二月晦日 浦役 和田直右衛門 郷土年寄 小幡与左衛門
御船手
[郷土史,原典∶「上甑島平良村池湊口普請ニ付願書並御書付写」中「午十二月晦日文書写」]
「岩有之小船は出入仕候得」「右岩試切仕度」ということは、港の入口に岩があり、あれがなければ大きな船も通れるのに、という状況だから、この岩を退けてしまおう、という程の話に聞こえるのです。
三国名勝図会に「寛政十一年三月末岩を砕き地を盤て港を作る。三年を以て其功竣る。」とあるのといくらか時日のくいちがいがあり,また長崎八右衛門隆近なる人物についての記述が見当たらない[郷土史]
後者の書付写の成立理由に確証が置けず、これ以上の推論、あるいは真偽の断定はし難いと思う。けれど、性格的には後者がやや堅実な内容である可能性が高いでしょう。その観点に立つならば──長崎隆近の偉業譚は恣意的なもの、多分島津氏による創作の色彩が強く疑われてきます。平良湾の工事が池に開口を設け湾にした、というのでなく、単に大船が入れるようにしたというのであれば──江戸期に島津が隠そうとしたのは、
もう一つ、これも印象に近くて恐縮ですけど──どうもいずれの史料も、1799(寛政11)年の
平良港開発基金の中小出資者たち
郷土史によると、横折帳「寛政九年已四月九日,平良村池湊岩試切ニ付心差員数名前帳」というものが存在します。上記史料と整合する、「平良村池湊」の岩の試し切りをするための募金活動の帳面です。
郷土史はこの募金者を、次のように層別分化してます。
うち
寛政9年 18貫600文
10 24貫400文
11 21貫※
12 13貫800文
13 3貫400文
※郷土史解釈に沿い,百文の誤記を訂正後
「古文書ネット」の銀一貫=125万円
81.2貫✕125万円=1億125万円
総計81.2貫を負担した人数は702人。
1貫 3人
500文 13人
300文 4人
200文 10人
100文672人
このマネーフローは、まず長崎譚の竣工年・寛政11年に停まってない点が注目されます。また、小口、具体的には100文(上記換算なら現・12万円)の出資者が数百人も応援して開港されてるのです。
突出した高額出資者がない、つまり豪商や藩がパトロンになった事業ではない。となると、実質的に中小の海民、中には「海賊」的勢力らのムーブメントで平良港は開かれた可能性が高い。
出資者の地域別には、藩内は種子島なども含めほぼ全域。
九州諸地域
島原平・
天草大江・同高浜・同牛深・同崎津・同久玉・同冨岡・
肥後八代・同宇土・同植柳・同佐敷・同日奈久・
平戸領田助浦・
肥前脇津・同竹崎・
柳川新田 等。
九州以外
長州赤間崎・播摩・筑後・紀州宮崎・大阪布施・小豆島等 [郷土史]
郷土史も次の観測に立ってます。即ち、長崎氏、つまりは島津氏の影響下に入る前から、平良港は機能を有していた。それが19Cに入る直前頃、つまり島津氏が裏経済を統制し始める時代から、急に藩経済圏の一画を占めるに至った──という経緯のバックには、何らかの大変化があって然るべきなのですけど──。
前項平良港工事の史料でもわかるように,当地の港ができる以前から,相当な船の出入りがあったことがはっきりわかる。工事中の寛政十年,同十一年の寄附金台帳によると,一年に百八十隻から二百隻以上の外来船が寄港した際,工事に寄附をしている。県内各地の船は,いうに及ばず,熊本県,長崎県,遠くは大阪府や和歌山県方面の船まで,寄港していたのである。[郷土史]
平良出る時きゃ涙で出たが
ただし、残念ながら上記の大変化は、わずかに次のような小唄に残るばかり。なお、この唄の名前などは不詳です。
甑島では 平良が名所
名所なればぞ 浮船(ウキミナト)
[郷土史p19,御縁節]
「浮船」の読み「ウキミナト」は、「浮港」──あたかも海上に浮かんでる港のような語感に感じられます。
◯ 平良港には 錨はいらぬ
三味や太鼓で 船つなぐ
◯ またもおじゃれよ 平良の港(かわ)に
小波立たねば 名も立たぬ[後掲上甑誌]p266
平良の歓楽街の情報は、今のところノーヒットです。上記の小唄からは、それが存在したと思われるのですけど──
◯ にくい茅牟田 平良の矢崎
おむた彼様の 影かくす
◯ 平良出る時きゃ 涙で出たが
矢崎回れば 唄で行く[後掲上甑誌]p266
茅牟田、矢崎両氏の正体も、長崎氏と同様に分かりません。ただし伊能忠敬e史料館(後掲横溝)が次のように掲げる測量日記によると──
瀬上村字キスコより、中甑村字中河原を歴て縄立ノ帆より中島北側迄渡、東側を中島南側迄測る。それより平村小池鼻迄渡、それより平村本陣を歴て矢崎迄測る。〔後掲横溝/7次 測量日記第16巻文化7年8月7日(1810年9月5日)〕
──北から南へ測っていった伊能忠隊が平良(平)村本陣の後で至ってるのが矢崎ですから、平良集落より南の海岸線のどこかです。ここまでは「涙」、感傷に浸ってても結構だけれど、ここからは「唄」、気力を要する外海が南方遥かに広がってる……という感覚でしょう。
中甑の「村中割山」
近世までのどこかの段階で、港町として拡大してきた平良の経済規模は、自前の田畑の作物で養えるレベルを超え、交易により維持される段階に入ったものらしい。──前章で見た移民団(→九州の南米・笠野原台地)も、多分この文脈の中で発生したものでしょう。構造的には泉州・漳州など、福建南部に似た状況だったと推測します。つまり、交易により二次・三次産業のマネーが入るため、一次産業、なかんずく農業のキャパを遥かに超えた人口を擁してしまっている状況です。現代を先取りしてたとも言えます。
次の郷土史の記述は、平良の一次産業状況を的確に記していると思われました。
旧幕時代の門割制時代,千兵衛門一門しかなかった時代から,畑というような土地は,非常に少なかった。そのうえここの土地は,中甑の持分であったものが多く,また江石の畑もあった(江石に平良の田がいくらかあった時代もある){。}
当地は,藩政時代から,明治時代まで,相当遠いところで,東山は鍋倉,木ノ口から藺牟田瀬戸側,西山は山の中腹から上,西海岸方面を開墾して,作物を作っていた。これが村中割山である。このような土地は,だいたい十年目ごとに割り替えている。割った年およびその翌年までに開墾して,五年間作付し,五年間は荒らして,十年目に割り替えるため,こんな土地を畑とはいわず,◯◯山というていた。半漁半農の生活で,漁のあるときは漁に出,漁のないときは山に行き,荒地を開拓して麦や甘藷を作り,これを主食にしていたのである。[後掲郷土史p46,{引用者追記}]
複雑な土地所有です。北東対岸の江石を含め通常の占有形態の農地を有したけれど、それだけでは不足する事態は島全体で共有されており、プラスアルファ分が地割されていた。地割の標準期間は10年、しかも半期は「荒らし」て、多分地味を増やしてから割り替えた。──総有的な地割の制度だけをとれば、沖縄のそれに似てるけれど、「こんなものは畑ではない」という感覚で「山」と呼んでいたという馴染みの薄さは、沖縄から伝わったか島津家から強いられたかだったからかもしれません。
【史料】地割帳簿(明治代・平良)
明治代の例が郷土史に転記されてました。貴重なものなので、本稿でも転記しておきます。
明治八年六月十五日改
宇戸ヨリ勘吉所迄
士族在方山割人数調帳
壱番組◯◯人
弐番組◯◯人 役所
参番組◯◯人
注 ここは明治十七年に割替えてある。
明治十一年八月五日
士族在方山取調帳 正副惣代
善左衛門 味納建 黒瀬
注 ここは明治二十年,三十年割替
明治十六年旧六月十五日
山取人名帳 平良村人民世話人
字平場
注 平場,大鹿は明治二十年割替
全部の山を五方限ぐらいに分け,十六年,十七年,十九年,二十二年,二十四年,二十六年,二十八年とニ年目ぐらいごとに割替えてある。[後掲郷土史p46]
山を五方限に分けるということは、沖縄のように短冊型にはしていないと思われます。また、個人名が出て来ない書き方からして、◯番組、江戸期の五人組か薩摩藩の門中かの小集団単位が、地割の主体だったように見えます。短冊状でないのは、個人単位で分割しないために必要以上に筆が切り刻まれはしなかった、ということかもしれません。
「一国をもって……肥料をべんず」
ここで農業生産の薄さを補充し得た一次産業として、漁業、それも農業用堆肥としての干鰯が大きな位置を占めていた、という伝えがあります。
京都大学発行の「甑島の人文地理」によると,甑島は「一国をもって近隣数ケ国の肥料をべんず」といわれ薩摩干鰯の主産地の一つであった。
天和二年(江戸時代)頃,天草から八田網が入り元禄,宝永,享保にかけて,イワシ漁業の最盛期があり,当時イワシ世間といわれ,他国からの入漁船も相当あったといわれる。[郷土史編集委員会「郷土史 上甑村平良」平良小中学校PTA会長,昭45。以下「郷土史」という。p6]
八田網は、以前の牛深で探ったことがあります。でもこの漁法は、牛深の伝承では明治に入ってからの創始だったはずです。上記の文脈では17C末には甑島に伝わっていたことになるので、不整合です。
碑文 荒木七一
書 石橋青波」〔案内板〕
ところが、次の室津での伝えにも、薩摩産干鰯が
室津には、西国から多くの船舶が入り、早くは薩摩産干鰯の陸揚港として繁栄し、近世後期には北前船が寄港した。一七世紀後半とされる記録で(((は、家数五五八軒、人口三四七〇人、船数二五一艘だったとされる(4)。〔後掲白川〕
甑・平良産の干鰯は、かくして、どうも重宝がられたらしいけれども、時系列がしっくりと特定できません。少なくとも江戸期を通じて甑島経済を救った、というほどの万能薬ではなかったようなのですけど──。
■レポ:平良を巡る宗教・民俗
すんなり繋がるお話がなかなかありませんけど、残念ながら後半となる本節ではもっと散らかしたままになると思いますけど、旅は道連れということでお付き合い下されば幸甚です。
三島神社の縁起とデータ
まずは平良・池の手前にあった三島神社について(前章参照)。
三島神社 もと平良東ノ町にあったが,今は池の南岸,字池平に移転した。祭神事代主命。祭日旧九月十九日。小松重三氏によれば,旧三島神社境内には,六王大明神社という文字を刻んだ鳥居があったというから六王大明神社が名を変えたものが,三島神社であると考えられる。元禄十己※年九月、泉州国村、河内屋善十郎の寄進した手洗水鉢がある。三島神社の本社は静岡県三島市にあって、祭神は事代主命と大山祇命である。[後掲上甑誌]p201
後掲古代文化研究所〔/上甑村郷土誌:三島神社〕がかなり徹底してやっつけてるけど、三島社は駿河と伊予大三島の双方にルーツを持つし、事代主(蛭子)を祀ることは通常ありません。だからつまり本来形の「六王大明神」が大切で「三島」は何かの理由での変形に過ぎない、ということになりそうですけど──
これと関わるのかどうか、廃仏毀釈時に避難した「神社」名義のシェルターだという伝えもあるようです。
六王大明神 もと中甑の宮屋敷(今の発電所の所)にあったが明治初年廃社。祭神不明。中甑のウブスナ神であった。なぜ廃社になったのであろうか。神社明細帳に「正体木像,剃髪,両手膝ニ置」とあって,御神体は仏像{原文は木篇}か僧形であった。また六王大明神という名称も仏教風で,神仏混合であったから,廃仏毀釈のあおりを食って廃社になったものと思われる。ただし,完全になくなったのではなく,三島神社(御島神社)と名を変えて,明治四年平良の三島神社に合祀された。江石にも六王大明神があったが,これも平良の三島神社に合祀された。[後掲上甑村郷土誌編集委員会「上甑村郷土誌」上甑村,昭50。以下「上甑誌」という。p198]
「ウブスナ神」なのならば普通に分類すれば神道なんでしょうけど──甑島の廃仏毀釈は何かで極端なところがあったのでしょうか?
六王神祠の存在は、次の角川にも記されてました。
「九州東海辺沿海村順」では,文化7年の家数172軒。村高は,「旧高旧領」62石余。宝永9年東海岸の湖沼を改修して平良港を築き,のち屈指の良港として密貿易の中継地ともなった(上甑村郷土史)。神社には六王神祠があった。〔角川日本地名大辞典(旧地名編)/平良村(近世)〕
さらに複雑なことに、郷土史に曰く、次のような中甑村人民惣代発→平良村人民世話人宛の請合証が存在するというのです。
これらのことは,明治十九年十月二十九日,中甑村人民惣代から平良村人民世話人へ提出した請合証に「平良の三島神社へ合祀した中甑の三島神社は,今後また中甑へ引き取るかも知れないが,もしその時にめんどうが起こったら,その責任は一切中甑にあって,平良には迷惑はかけない。」という意味のことが書いてあるので,察することが出来る。江石からも同文同日付の請合証が提出されている。[後掲上甑誌]p198
「察することが出来る」とあるけれど、部外者にはなかなか察し得ません。要するに、中甑側が懇願する形で平良に避難し、なぜかその後も平良に立地し続けているのが三島社であるらしいのです。中甑に戻す際に想定された「めんどうが起こ」ることとは、果たして何のことだったのでしょう?──この書き方は、引き取り側の平良が、「◯◯が想定されるから責任は平良にない旨の一筆を書け」と要求したために残った書面だと思われるのですけど……。
その他の神社のデータ
三島神社以外のデータに移ります。
次の小池社は、今回行ってませんし、地図上でも位置は確認出来てません。ただ平良港北部(鹿の子大橋側)のトンネルが「小池隧道」(→:GM.:位置)のため、現・平良集落の北、中甑島の北側のどこかと思われます。また、「小」池という名称は「大」池が存在し、これと差別化しようとしたものとも想定できる。
二,小池権現
祭神金姫命,神体木造,神鏡自然石四十五体。当社ハ前代梶原七郎兵衛ト云ウ人,此島ニ渡リ小池ト云ウ所ヘ社ヲ建テ此神ヲ祭ル。同姓伝左衛門系譜ニ梶原七郎兵衛嫡男梶原宗古ト云ウ人在リ,小川氏当嶋領主ニテ,平良村ハ右宗古ノ為,私領其時之在名矢之嶋ト唱フ。彼人之系譜二矢之嶋ヘ被相渡ト記セリ,右小池権現寂所之勧請ハ社山之内ニ為崇也,其宮地ニ今伝テ宮跡ノ印ニ岩石ナセリ。其後淵加山之内ニ社ヲ造敬崇シケルト也。於テ今梶原家筋ヲ以テ神宮司ト定メ祭祀無怠事矣。
(注)勧進=神仏のミタマのワカレを別の場所に移し祭るえと(ママ)[後掲郷土史p83]
※引用者注 原典等の表記がないが,上甑誌の抜粋(p201)から「神社明細帳」の記述と思われる。
梶原という家が創始し、代々の「神宮司」≒神主?を務めたことに加え、この家が、史実上の甑島旧主と伝えられる小川家と対峙していたらしいことが分かります。また、この社の神体が「神鏡自然石四十五体」で、やはり自然石崇拝らしいこと。さらに祭神は「金姫命」、古事記には金山毘売神(かなやまびめのかみ)と記される鉱山神で、当初は鉱物資源を求める集団が関係していたであろうことも推測できます。──と色々と情報は浮かぶのに、焦点を結んでくれません。
次に、帰路のバス停すぐにあったエビス社です。
三,恵比須神社
神体木造恵比須二体,現在の神殿は昭和四十年鉄筋ブロックで建立したもので,祭祀{原文「杞」字}は旧暦十一月三日である[後掲郷土史p83]
あまり情報はないけれど、恵比須が

次に水神社。ここの郷土史記述にも「池」という名称が用いられてます。
水神社 平良部落の大きな池(今は港)のほとりの,崖の中腹にある石柱。六月中に祭りがあり,この祭りがないうちは海に泳いではならないといわれている。[後掲上甑誌]p201
ここの御神体は、崖から生えた石柱であるという。ここの祭りが六月にある。海開きに類する祭りは多くが七月にあり、かつそこに遊泳の禁忌はよく含まれる。でも特定日、または特定日以後の禁忌のみで、特定日より前のタブー(=特定日以後は遊泳解禁)というのは、近現代の行政的な海開き以外に例を知りません〔後掲国際日本文化研究センター〕。
さて最後の愛宕社のデータは──これを信じ得るなら驚くべき内容です。
四,愛宕神社
神体木像,右手に玉をかかえた像である。某考古学者の説によると,彫刻の衣などから考えて,日本のものではなく,外国の神で,海上航海安全を祈願するために,祭られたものであるという。台座に安永八年と刻まれているのからみると,平良港が開かれる二十年ぐらい前のものである。ここにも石の鳥居があり,天保十四年四月吉日,平良村仙兵衛氏が寄進したものである。[後掲郷土史p83,下線引用者]
「外国の神」とする根拠を具体に示してほしいけれど、それは不明のまま申し上げると──その神像が長崎開港譚より一世代ほど早い、という事態は、既に推測した想像を超え、長崎開港以前から平良が対外国際港として機能してきたことを実証するのです。
民俗/丸石と恵比寿
後掲吉留は響灘※のエビス神信仰事象を収集したものですけど、「表1 響灘沿岸漁業地域のエビス神一覧」としてフィールドワークのナマデータに近しいものを掲載します。
前掲の、平良バス停で見かけた「恵美須かつぎ」(→前掲)に似る、のみならず方法論が底通してるように感じるからです。
区分/名称・祭神/(略)/場所・仕様/内容/(略)
事例22 蓋井島/恵美須
//集落西側の浜 現在は公園のなかに小さな社が建ち、そのなかに石があるC この石をエビスとして祭祀する。南西向
木造銅板葺祠 御幣・珊瑚・流木・エピス像・祇園太鼓の像・ワンカップの酒・神鏡等様々なものが社祠のなかに置かれている。
/(エビスの神体である)石は11〜12歳位の両親兄弟が揃った少年のなかから選ばれ、目を閉じたまま潜水して石を海底からとりあげ、若者頭は目を閉じたまま「ひとふごも」(祭事に使用する菰)に石を包み祠のなかに安置する。エビス籠(恵比須籠)といい、餅を作り、休日、漁協組合広間で酒宴がおこなわれる。不漁が続くと海底から石をとりあげ、過去の神体は祠の片隅によせられ多くなると祠外に重ねられる。」との報告(『蓋井島村落の歴史的、社会的構造』 p34-35) があり、神体を更新していく。現在も祭りは実施されているが、カギョウドメ(漁休日)といい、エビスさんに酒をかけ、刺身・大根鱠をあげる程度。
事例23 六連島/恵美須社
//波止場(北のエビス)、馬島側の山の中腹(南のエビス)、西海岸の「赤ナメラ」の三箇所あったといわれる。いずれもエビスは海からあがった石を積み重ねたものといわれるが、波止場のエビスは現在石祠になっている。南南東向
石祠横に「三界万霊」の地蔵を祭祀した社がある。
/漁協中心に酒、肴を持っていき、北と南のエビスにお参りする。不漁が続けば新しい石を海底からあげて祀るといい、綱持ちの家の両親揃った家の17〜18歳の青年が目隠しをされて潜水し、最初に手にふれた石をあげてくるとされている。 (『六連島村落の社会と生活』 p7) しかし、現在ではその伝承について確認できなかった。 (▲祭り主 鳴中 神体(骨豊)石 石之小洞二祭有之)〔後掲吉留〕
手法は様々だけれど
ここで選ばれた石を、捨てることもできずに取り置いた場所が、三島社や恵美須社にあった丸石の山だったのでしょう。
けれど、この「信仰」形態はあまり聞いたことがありません。海に物を投じるルーティンは聞くけれど、定期的に拾ってきて拝む、というのはかなりプリミティヴな漁撈海人の正業を反映してます。──韓国映画「密輸1970」を彷彿とさせる。
ただ「神が少年によって海底から揚がる」というストーリーは、類型を思い付けません。
民俗/甑島の寝宿婚
現代日本の民法が法律婚として前提とする婚姻形態、つまりあなたがメジャーな性観念を持ち、かつ現代ニッポンの町なかに住んでいるとした場合における普通の結婚が、「嫁入り婚」と呼ばれるものです。──ここでは、同性によるパートナー婚などの小さな差異を言おうとしているのではなく、一夫多妻制や冥婚(死者との結婚:中国)を含めた根本的な多元性を問題にします。
上甑誌は、この地域の婚姻の基本形を寝宿婚であると記しています。現代で言えばラブホテルで婚前にいたすようなもんだけど、この民俗の場合は、それが密会とか非行ではなく集落が黙認してたというのが大きな違いです。
男女交際 昔は若者組(ニセー組)にも,娘達にも,それぞれトマイ宿があった。トマイ宿のニセー達は夜になると,一人あるいは数人で娘宿(ワッカモンヤドともいった)に遊びに行った。これをヨバナシとかヨベーといった。娘は意に合ったニセーでないと寝せなかった(ママ)。恋人をナジミとかチカといった。トマイ宿は結婚の前提となる男女交際機関であった。
トマイ宿は結婚媒介機関としての機能をもっていた。婚姻史上,寝宿婚という婚姻形態があったと考えられていた。
[後掲上甑村郷土誌編集委員会「上甑村郷土誌」上甑村,昭50。以下「上甑誌」という。p187]
寝宿婚の状態から正規の結婚への接続は、何と寝宿婚の現場の管理者が仲人になることで行われたようです。──この接続儀式を呼ぶ「門入り」という名称は、島津支配下の「門」(かど)への入門という意味を伴ったということでしょう。ただし、その際に結婚式も披露宴もなかったということは、寝宿婚の状態の間に両者に対する集落側の評価や認知は終了するということだと推測されます。
婚約と結婚式 トマイ宿でナジミが出来ると,トマイ宿の主人が仲人に立ってくれる。あらかじめ娘の親の意向はわかっているので,焼酎三合と魚をもって,娘の家にゆき,話がまとまると,これで婚約が成立する。婚約がまとまると,仲人は男を娘の家につれてゆき,先方の親に挨拶をさせ,盃の交換がある。その後,娘はつき添い人と共に男の家にゆき,男の親と盃を交わして「おやこの名のり」をする。これを門入り(かどいり)といった。以上で結婚の手続きは完全に成立したのである。現在みられるような,いわゆる結婚式もなければ,披露宴もなかった。[後掲上甑誌]p187
ちなみに、現代人がこのような状態に対し下すであろう「淫ら」な評価は、明治後半頃の日本人には既に共有されていたものらしい。1898年の民法公布(親族・相続2編※)に伴う政府方針だったのでしょうから、もしあなたが「淫行」と感じるなら、あなたも維新政府の情宣の掌中にあることになります。
ブライダル中甑のみ三杯茶
上記のような寝宿婚は、明治後に「なかったこと」にされた経緯からややぼんやりとしてるけれど、日本全国に割と普遍的だったらしい。甑島の場合は、位置的に琉球に残るアシビナー(遊び庭)などとの関連も考えてよいでしょう。
ところが、これが中甑の場合は全く異なるという。地域的な厳密さは分かりませんけど、当面、平良とその北対岸の現・中甑を想定します。
中甑の結婚式 今までのべたのが,本村の在来の一般的婚姻の方式であったが,中甑部落だけは,別種の婚姻方式があった。俗にサンベーカイ(津元ではサンビャーカイ)という複雑で盛大な結婚式があった。結婚式は二日にわたった。
一日目。まず仲人と[知/耳]方の親類と合わせて十人位の人が,嫁方へ嫁迎えにゆく。その時刻は必ず夜ときまっていて(略)嫁を[知/耳]の家へつれてゆき,[知/耳]の家で三三九度の盃があり,終わって祝宴がある。この時,見物人が庭から縁側まで大勢おしかけ,サンベーカイカイ,カサネテカイカイとはやしたてる。(略)
二日目。嫁は[知/耳]の家に入る。昼,前日三三九度の式にもれた[知/耳]方の人達が,嫁方の家へゆき,祝宴がある。夜,[知/耳]の家では親類・知人を大勢呼んで,披露宴を催し,嫁方の親類も出席する。(略)この夜も見物人は大勢いて,サンベーカイカイ,カサネテカイカイとはやしたてる。
以上二日間で結婚式はようやく完結する。(略)これがすんではじめて嫁は[知/耳]の家に入って同居することが出来る。
[後掲上甑誌]p188
個人主義の度合いが全く失われ、完全に家対家の儒教的に正しい結婚形態です。これもはっきりしませんけど──中国の風習で「サンベーカイ」という読みのものとして、中国福建地方の風習「三杯茶」の福建読みがあるようです。福建では嫁入り時の他、単に客を迎える儀礼のことも呼ぶらしいので、単純に移入された文化と言い辛いんですけど──熊本の「太平燕」位の薄い関係性はありそうです。
また、上甑と中甑がこれほど隣接していながら文化的なモザイク紋様を呈する理由も、単純には語りにくい。ただ、恐らく実際の生活者の感覚では、両地域の間には観光客が見る以上の狭間があるらしいのです。
角川によると、その他にも幾つかの点で平良は、甑島における特異点であるらしい。甑島自体に土地勘のないままで先に平良、というのは難易度的には失敗でした。
現地では中甑島という呼称はなく,単に平良というのが普通で,ときに平良島という。昔,上甑島といえば上甑本島と中島と平良(平良島)の3島からなっていた。ところがこの3島は干潮時に陸続きとなるところから1島とみなされていたのであろう(上甑島郷土誌)。(略)甑島列島のうちカノコユリが自生するのはこの平良島で,かつての土地割替制度の「共用切替畑」がその採取地である。毎年火入れ(11月)を行う慣習が残っているのもこの島だけである。また「磯割り」「嗣子別居制」(隠居)が残存する。〔角川日本地名大辞典/中甑島〕
さて、最初に書いた通りだけれど、予想を超える散らかり様のまま平良編を終えさせて頂くことになります。一言で「密貿易の港でした。」と句点をつけてしまえない、何か途方もないエリアだったので──もう無理、ホールドアップです。