m19Gm第二十六波m妈祖花や明知の言葉は単純m6西門天后

▲台北天后宮の正門右手。結構,怖い。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(地点)

台北天后 西門町天后 西門町媽祖 艋舺新興

西門の三日月を見上げました。
 王記府の肉粽を買いました。
 そうしてホテルにチェックイン……する前に,すぐ手前の台北天后にお参りしまして,ここまでこだわった媽祖様に御礼申し上げることにしました。
 この天后については既に前回掘り下げましたが……台南以来の媽祖廟との比較眼が出来てしまってる。結構細部に目移りしてしまってます。

▲門左手。恐怖を倍増させるこの斧って……絶対切れ味抜群。

849,台北(臺北)天后宮。俗称・西門町天后宮又は西門町媽祖廟。原名・艋舺新興宮。
 正門左右に媽祖像あり。右の上部「身化湄洲現」。
左の上部「霊昭瀛海安」。
 現建物の建設は20C後半に入ってからです。(詳細は前掲リンク参照)

1943年 艋舺新興宮※,防空道路の建設地として撤去
※現・艋舺青山宮近く
※※撤去時,媽祖像等は龍山寺に「避難」(伝)

1948年 現在地・当時の弘法寺が媽祖宮となる。
1953年 廟後方(国際大舞庁)に出火,弘法寺全焼
1959年 媽祖聖誕千年を記念し,現・台湾式廟建設

臺北天后宮歷史年表〔臺北天后宮。ただし現行HPに掲載無〕

 艋舺三大廟門とか艋舺四大廟とかの一と数えられてるけど,結構無理やりです。ただ,確かに元の艋舺新興宮はかなり古い(巻末参照)。

空海も台湾までは来てない

▲天井提灯

こまで回ったのと違う点のみ書いていきます。
 パティオはあるけど左右は回廊ではない。
 天上の提灯は豊原・台中風に数がある。
 左右方向に廟,左右別棟はその裏になってる。右別棟には「地蔵王菩薩」,つまり仏教系です。この前に金爐がある配置も変わってる。これらはおそらく,寺を借りた(元寺地に侵攻した)ために,その敷地の基本構造を引き継いでるからでしょう。
▲弘法大師

方向は何と「弘法大師」!
 渡唐した後,日本中を歩き回った(とされる)空海さんも,さすがに台湾には来てない。日帝時代の弘法寺の痕跡です。
 ただ,どうもこの手触りは──
▲1906池

神サマ一式満遍ないのにズレている

手正門脇をよく見ると,鯉のいる池があります。右にはない。
 この池の正門側に弘法大師像がある。おそらく元の弘法寺にあった構造です。
 おそらく,弘法寺はただ侵略されるままになっていたわけではなく,基本構造や主要仏は維持しようと主張した痕跡があります。熱心な仏教徒も多い台湾です。日帝のものはブチ壊せ!というのでなく,ある程度は「弘法寺」の面影を維持しようとする人々もいたように見えます(巻末参照)。
▲弘法大師像

方向には「福徳正神」。ただし左別棟はない。右だけが空海がいるからか,特殊な造りです。中国寺院としては基本が相当にズレてます。
 ここはいくら探しても平面配置図がない。神サマの名前(正殿以外)だけ維基から転記していくと──

左龕:觀音佛祖、註生娘娘
右龕:關聖帝君、文昌帝君、孚佑帝君
左側殿:弘法大師、地藏王菩薩
右側殿:福德正神、虎爺
玉皇殿:玉皇大帝、三官大帝、太陽星君、太陰星君

 これも台湾の神サマ一式が満遍なく展開してる感じです。元の新興宮からの流れを想像しにくい。
▲1901正殿前

台北天后様は忙しい

殿へ。
 正面にはもちろん主神・媽祖様。でもその左前に見映えのいい新しい媽祖像を配置してる。係長より次席の発言権が強い,という感じです。つまり……左右の均衡より新しい像の配置を優先してる,のでしょうか?
▲1903正殿中央部

だ,この「次席」媽祖様が写ってない記事もあります。
 宮によると──
①中央奥の媽祖様∶天上聖母神像。乾隆年間に大陸から奉納された。
②右手「次席」媽祖様∶二媽神像。媽祖様巡行(出巡遶境)時に鎮座。〔後掲隨意窩〕
という役割分担をされてるとのこと。
 台北天后様は忙しいので,代行媽祖が要るのです。
▲1904香爐の前にて

いうわけで,なかなか媽祖詣で双六のアガリのコマ,というわけには行きませんでした。
 特に日本時代の破壊を避けようとして,右往左往した挙げ句にここに再集結してる神サマ群らしく,全体がとうもチグハグです。
 混乱したまま宿に荷を置き,1925,MRT台電大楼駅へ動く。

■レポ:闇に闇重ねて台北天后宮

 上の写真の「香爐」は,実は台北天后宮に存在する二番目に古い具体物であるらしい。

台北天后宮入口處虎邊則置放一座「八仙香爐」,原為新興宮神龕,為清嘉慶庚辰年(1820)由大陸師傅刻造,上面刻有「八仙香爐行宮神龕八仙蓮花木燭清嘉慶庚辰」。〔後掲隨意窩〕

──台北天后宮の入口の(奥に向かって)左側(虎邊∶後掲幸福空間参照)に「八仙香爐」が置かれている。元は新興宮の神龕(カマド)だったもので,1820 (清・嘉慶庚辰)年に大陸の大工が刻り造ったもの。上面に「八仙香爐行宮神龕八仙蓮花木燭清嘉慶庚辰」と掘ってある。──
 けれども……モノは炉です。ホイホイと運べるものじゃない。媽祖像と違い,どこかに避難できるものじゃない。
 1943年の日帝による撤去時,この炉はどこへ,どうやって避難したのでしょう?かつ1948年又は1959年に現在地に移築されたとすれば,5年又は16年,避難場所にそのまま保存され,再び移された……などという面倒な作業があり得たのでしょうか?

堂鐘 乾隆壬子 無錫鑄造

 台北天后宮で最古の物証は,鐘です。場所は入口に入って右側。これも見逃してます。

「艋舺新與宮 佛日增輝 法輪常轉 乾隆壬子年閏四月吉旦 無錫良冶許四房元和造」

台北天后宮入口處龍邊現置放一座「堂鐘」,為清乾隆五十七年(1792)由江蘇無錫鑄造,鐘上刻有「艋舺新與宮」、「佛日增輝」、「法輪常轉」、「乾隆壬子年閏四月吉旦」、「無錫良冶許四房元和造」等字樣。〔後掲隨意窩〕

──台北天后宮の入口から入って右側(「龍邊」。同幸福空間参照)に今も置きっ放しになっている「堂鐘」がある。為1792(清・乾隆57)年,江蘇・無錫で鋳造されたもの。鐘の上に刻まれた文字は「艋舺新與宮」「佛日增輝」「法輪常轉」「乾隆壬子年閏四月吉旦」「無錫良冶許四房元和造」などとある。──
 乾隆末年,しかも四月の月,造られた大陸の場所まではっきり書かれている。──清後半の無錫(→無錫編∶FC2)は四大米市の一角を占める大商都です。
 新興宮の文字も入っているから,他所のものを持ち込んだわけではない。
 分からないのは「佛日增輝」。まともに考えると新興宮時代から,つまり日本が弘法寺を強要する以前から,この寺院は仏教の寺だったことになります。

艋舺街 舊屬渡頭 乾隆十一年建

 新興宮の史料初出は淡水廳志。1746(乾隆11)年の創建記事です。

卷六47 天後宮,一在廳治西門內,乾隆十三年,同知陳玉友建。(略)淡北:一在新莊街,乾隆十八年府志作雍正九年建。四十二年,巡檢曾應蔚修。嘉慶十九年,縣丞曹汝霖重修。一在艋舺街,舊屬渡頭,乾隆十一年建。嘉慶十八年,火災,道光九年修。一在關渡門,原建山頂,康熙五十八年,移建山麓府志作康熙五十六年諸羅知縣周鍾瑄建。〔後掲淡水廳志〕※緑字は原文注釈部。番号は中國哲學書電子化計劃付番。下線は引用者。

 前章で触れた淡水県内の媽祖宮(天后宮=天後宮)の紹介記事中,關渡宮の一つ前です。情報は4つ。
①艋舺街にあった。
②古くは渡頭だった。
③乾隆十一年創建
④嘉慶十八年に火災,道光九年に修理した。
 ③が創始年で,これだと台南や北港の「開台」(≒台湾初の……)グループほどではないけれど第二グループです。台北では最古クラス。
 注意すべきは④の改修歴です。記事の前後の宮に書いてある改修出資者が書かれていません。純民間出資,ということは,当時の艋舺が,台湾中部で言えば北港のような,官からは無視されたエリアだったことを物語ります。
 もしかすると,淡水に比した時の台北広域がそうだったのかもしれません。

艋舺三大廟門位置圖。丸囲い3箇所のうち左上が新興宮推定地〔後掲台北天后宮〕

艋舺街は直街仔又は直興街にあり

 さて,新興宮が①艋舺街の②渡頭にあった,という点です。原文には「新興宮」という記述はないので,この所在地からしか同定できません。
 では,当時の「艋舺街」とはどこなのかというと,現・貴陽街の西園路から西昌街までの辺りと推定されています。

乾隆年间,妈祖庙、土地公庙、清水祖师庙出现,老街也跟着向东扩展。西园路至西昌街为直街仔或称直兴街,即新兴宫前直往东的街道。〔後掲維基/贵阳街 (台北市)〕
※原典 [3] 《臺北畫刊》貴陽街. 台北市政府新闻处. 2003-03.

 古くは直街仔又は直興街(簡体字∶直兴街)と呼ばれていたとある。語義は「まっすぐな通り」でひねりはない。位置を明定すると次のようになります。

旧・艋舺新興宮の位置∶「西园路至西昌街为直街仔或称直兴街」
GM.∶経路

 ここはさらに古くは番薯市街(台湾語:Han-tsû Tshī-kue)〔後掲贵阳街 (台北市) 〕,「イモ市場」と呼ばれていた場所。それが発展した第二形態を,淡水県志は艋舺と呼んでいます。
 つまり,「艋舺」という地名が生まれた18C初,その地名は新興宮前のこの通りを指していたわけです。
「新興宮外觀圖」と呼ばれる古写真。おそらく直興街(現・貴陽街)側入口。

 なぜここに新興宮が建ったか,という点について,地元の伝えとして複数のサイトに書いてあるのは次の文章です。
 貿易船が艋舺に到着した時に,船中の媽祖を陸揚げする,長崎で言う「ボサ揚げ」をする宮だったらしいのです。
長崎のボサ揚げ(媽祖行列)〔長崎名勝図絵〕

兩百多年前,有一條貿易船到艋舺來,到艋舺後便將船上媽祖請到陸上祭祀,但辦完業務後,船主想要將媽祖迎回船上起帆回程時,事事不如意,幾經推測,得知媽祖有意留下,因此再度將神像請上岸,一行人才順利離開,於是艋舺的行船業者,乃出錢出力於艋舺新興區的蕃薯市街入口處合建寺廟來供奉媽祖,這也就是『新興宮』的開始。〔後掲台北天后宮〕※下線は引用者

──しかし(輸出入)業務を終えた後,船主が(預けていた)媽祖を船上に迎え入れて出港しようとした時,時々予定通りにいかず,思い悩んだ上で,媽祖を降ろしておくべきと考えることがあり,再び神像を上陸させ,すぐに乗組員を引き離しておくことがある。──
 航海への恐怖と隣合わせた船乗りの信仰心は,相当複雑で微妙なものらしく,上記がどんなケースなのかよく分からない。呪術的な作戦を考える,例えばこの「この航海で船が沈めばいい」と密かに思うような事態があったのでしょうか?
 あるいは逆に,風の都合か,密かな出港に備えてか,誰にも察知されずに船を出すケースもあったのでしょうか?
 とにかく,媽祖を速やかに乗降させられる,という点は海商たちには非常にリアルな課題だったらしく,その結果として港のすぐ近くに新たに造った媽祖宮,それが新興宮だったというのです。
 後代の人からすると非合理な話が伝わっているというのは,その元の話が加工・解釈されずに口承されてきたからとも推定できます。この口承の含意は,ここで読んだ以外にもっとあるのかもしれません。

毎日の読経 年三度の巡行

 非合理な慣習という点では,台北天后宮の信仰活動にもそういう面が色濃い。ここは諸神のお誕生日以外にも,朝9時から40分間の読経があります。迂闊ながら聞いたことがないけれど,経文は仏教+道教。なぜか日曜日は行わない。

不只於神明聖誕,臺北天后宮於週日以外的每天上午9點,都有約40分鐘的誦經,包括佛教與道教經典[5]:64、65。而該廟每年有三次遶境活動,首先是農曆三月廿一因媽祖聖誕而舉行的繞境活動,範圍包括西門町與艋舺,而且會經過新興宮舊址[5]:65。另外十月二日則會在艋舺晉德宮神明聖誕時,基於交陪關係而會配合遶境[5]:65。十月廿二萬華地區大拜拜時,會前往艋舺青山宮配合遶境[5]:65。〔後掲維基/臺北天后宮〕
※[5] 王世燁、許嘉文. 《台北天后宮的歷史》. 臺北天后宮管理委員會. 2011-04-25.

 さらに不思議なのは年三度の巡行の形態です。
──台北天后宮は毎年三度の巡行がある。まず①農暦三月二十一日の媽祖聖誕の際の巡行は,西門町から艋舺までの範囲で行うが,その途中で新興宮の旧所在地を経由する。
──その他,②十月二日の艋舺晉德宮の神(助順将軍(簡体字:助顺将军)又は黄府大将軍?)の聖誕時には,神様の交友関係上(基於交陪關係)の集団巡行を行う(會配合遶境)。
──③十月二十二日の萬華地区大拜拜(行政が設定した公定祭の日)の時は,艋舺青山宮へ行って集団巡行を行う。──
 つまり,台北天后宮が現在,呪術的に重視する外地は①旧新興宮跡,②晉德宮,③青山宮の3箇所です。
 新興宮への「ボサ揚げ」華やかなりし18C当時の艋舺の港の地理を彷彿とさせる3箇所ではありませんか。

台北天后宮巡行関係図 ❲1❳新興宮跡 ❲2❳晋徳宮 ❲3❳青山宮〔台北歴史地図/1895年台北・大稲埕・艋舺略図,50%〕

 ②晋徳宮と旧新興宮は当時の海岸線の南北,おそらく艋舺と大稲埕の代表寄港地です。③青山宮は,旧新興宮の西南隣。「ボサ挙げ」役を事実上後任した廟でしょう。古くからの付き合い,言い方を変えれば意図的に同盟関係を維持していかないと流血を招く競合関係にあったのでしょう。
 さて,残るは①旧・所在地への巡行です。これは一見普通に見えますけど,考えれば考えるほど大きな謎の相を強めます。

新興宮は何を狙って移動したのか?

 シンプルな疑問として,1943年の日帝による強制収用後,2年で終戦,5年(1948年)で現在地に移動,この期間は短くはないけれど世代が変わるほど長くはない。その過程で,なぜ旧位置に復する発想が生まれなかったのでしょう?
 先に台中萬和宮について,同じく日帝に撤去された後,30年以上待って旧位置に戻った過程を見ました(下記リンク参照)。強制撤去期は実質2年ほどです。同じ場所への再建が待てないほど長期とは思えません。

 1945年から48年までの動きを書いたものを探してみると,

①至1945年臺灣光復後,帶給剛被拆毀不久之艋舺新興宮的信眾一線希望。至1948年,當時擔任市府教育局長的黃啟瑞先生(後有擔任過臺北市市長),為使該廟許多信眾所信仰的媽祖有所地點來奉祀,②因此選擇位於西門町北側之西寧南路的「法華寺」為新址,但因該廟是坐西朝東,與原位於艋舺西園路上的舊媽祖宮的坐北朝南不同,於是艋舺信眾紛紛認為不妥,因此強烈要求另外尋覓地點。③最後選擇在上述由日人撤退後所遺留下之「弘法寺」為新廟址,並於民國37年農曆6月1日入廟,從龍山寺後殿一路盛大遊行至成都路進廟。至1952年8月間,該廟的主持人林味始為配合天上聖母尊稱於是將廟名「新興宮」改稱為「臺灣省天后宮」,也就是今日所俗稱的「天后宮」。〔後掲萬華區誌541p〕※丸付数字及び下線は引用者

──①1945年に台湾解放(光復)後,破壊されたばかりの艋舺新興宮の信徒はすぐに一縷の希望を繋ごうとした。1948年当時,市の教育局長に任ぜられていた黃啟瑞(後の台北市市長)は,多くの信徒が信仰する媽祖廟をどこかの地点に用意し祀るべきだと考えた。──

黄启瑞のお写真

 キーパーソンとして黃啟瑞さんという政治家が登場します。この人は大陸系ではなく台湾本省人,それどころか現・華西街西,淡水河の料館の台北開拓最初期の家系〔後掲隨意窩/黃啟瑞家族墓園〕。つまり,以前啓天宮編で深堀りしたアールー姐さん(黄阿禄嫂∶下記リンク参照)の子孫。この後に台北市長となり,退任後に汚職で抑留。政治的な動きはしたかもしれませんけど,基本的に新興宮信徒を直接の政治基盤の一つとしてきた地元人です。

 では黄さんの選んだ新興宮再築場所がどこだったかというと……これが旧・宮地ではありませんでした。
──②その結果,西門町北側・西寧南路の「法華寺」跡地を選択した。しかし(旧・法華寺は)廟が西→東方向を向いており,元の艋舺西園路の旧・媽祖宮が北→南向きだったのと同じでない,と艋舺の信徒の間に論争が起こり,(旧・法華寺への移転案では)妥結せず,他の候補地への強烈な要求が出た。──
 先述の豊原宮(→■レポ:岸裡社文書が語る「慈濟宮前身」観音亭/豊原媽祖は回れ右したか?)では旧宮を180度回頭させてましたけど,90度の方向転換は難易度が高かったのでしょうか?黄さんの一次案は予期せぬ形で受け入れられませんでした。
──③最終的に選択されたのが,先述の,日本人が撤退した後に残っていた「弘法寺」の新廟の跡だった。1948(民国37)年農暦6月1日,龍山寺の後殿から一路,成都路へと盛大な巡行パレード(遊行)が行われ(媽祖が)廟に入った。1952年8月,廟の管理人代表・林味は天上聖母の合祀をもって廟の名を初めは「新興宮」としたが,さらに改めて「台湾省天后宮」とした。即ちこれが現在俗に言う「天后宮」である。──

パレードして移動し天后に昇格

 1948年の移動はすんなり進行したように書かれてるけれど,(a)そもそもなぜ移動したのか,という点以外に,細かい点でさらに疑問がつのります。
(b)なぜ移動を盛大に行ったのか?(「從龍山寺後殿一路盛大遊行至成都路進廟」)
(c)念願の再興で,かつ一度は付した旧名・新興宮を,なぜを改名したのか?
 (c)を先に補足すると,残っている額からすると新興宮の媽祖は「天上聖母」であって清朝に昇格された「天后」ではない。この文中でもそうだし,現在も天上聖母名です。次の額を見ると「勅封」の文字はあるけれど──なぜ改名してまで「天后」を名乗らねばならなかったのでしょう?

新興宮の額「勅封天上聖母」

 この1948年の「台北天后宮」成立劇を別のテキストで見てみます。

(参考1)同内容の維基百科記述

於民國37年(1948年)6月被當時的臺北市教育局長黃啟瑞以管理不善為由撤換,並將寺院建築轉給新興宮使用[5]:51。此外另有說法認為戰後該寺由臺北市教育局接管後,經新興宮信徒爭取才將弘法寺改為新興宮;又有說法認為是教育局長黃啟瑞為讓媽祖有所奉祀,提供「法華寺」(在西寧南路上)與「弘法寺」讓信徒選擇,而信徒認為法華寺坐西朝東與新興宮舊廟坐北朝南不同,遂選擇弘法寺[4]:32、33。新興宮信徒之後在該年(1948年)7月7日[註 3]從龍山寺後殿將媽祖送到「慈光禪寺」(弘法寺)[5]:51[4]:33。然而此一將佛寺轉由傳統信仰廟宇使用的做法,引起佛教界的不滿,中國佛教會臺灣省分會即在民國37年(1948年)年底向諸多單位寄出陳情信函,但最後在經過行政訴訟後,判決黃啟瑞勝訴[5]:52、53。〔後掲維基/台北天后宮〕
※原典[4] 王美文 編著. 《閱讀台北天后宮》 第二版第二刷. 臺北天后宮管理委員會. 2010-06.
[5] 王世燁、許嘉文. 《台北天后宮的歷史》. 臺北天后宮管理委員會. 2011-04-25.
※※下線は引用者

 下線部は新たな情報です。──1948(民国37)年末(底)に多数の陳情や投函が寄せられたが,最終的に行政訴訟により,黃啟瑞の勝訴の判決となった。──
 単に仏教側が抵抗した,というレベルではありません。相当に広範な反対があり,最後は行政訴訟にまで持ち込んだのを,おそらく黃啟瑞が政治力で強行しているのです。
 こうなると,偏向を承知で一度,弘法寺側の言い分を見ておいた方がよさそうです。

(参考2)弘法寺は日帝の傀儡寺だったか?

 日本の台湾植民地行政というのは,お人好しと言ってもいいほど善意に染められていました。「四国遍路・世界の巡礼研究センター」の文章なので,多少の偏向は否めないとしても──

台湾の日本人社会が真言宗に求めた役割は何であったのか。
 まず1つは社会事業である。真言宗による行路病者の救護や風水害援助活動は領台直後より散見されるが、弘法寺創建後は境内に無料宿泊所が開設され(1913年)、事業は職業紹介や施療も含む護国十全会附属寄宿舎・無料宿泊所へと発展した(17)。これらは、仏教の社会的有用性を示す布教上の重点事業でもあった。
 2つめは台湾人・原住民教育である。領台直後の真言宗は、浄土真宗本願寺派・浄土宗とともに台北で明倫学校なる日本語学校を運営し、また椋本龍海は彰化で台湾人女子児童を対象とする日本語学校を開設していた(18)。その後1910年代に入り原住民を対象とする「理蕃事業」の実施期に入ると、総督府では「蕃地駐在布教師Jに「簡易授業法等講習」を施し原住民教育を担当させる計画が浮上する(19)。ここで注意したいのは、本荘太一郎(台北中学校長兼台湾国語学校長)が弘法大師を引き合いに、原住民教育に必要な(宗教的)情熱を持った教育者像を描いていたことである(20)。いわば「文明化の導師」としての弘法大師像を用いて台湾人や原住民の教育を促す言説は、後述のように公学校教育や「理蕃事業」で活用されることになる。〔後掲中山〕
※原典(18)「女学開設」「台北の寺院(-)」(『台湾日日新報』1897年9月4日、1910年2月19日)
(19)「蕃地駐在布教師二対シ蕃童教育二関スル教授法講習ノ件」(『台湾総督府公文類纂』5393-4)。
(20)本荘太一郎「台湾教育問題(五)」(『台湾日日新報』1912年6月30日)。

 彼らは戦後,台湾の仏教徒に後事を託して帰国します。後任台湾仏教徒・陳宗坦(以下,俗名・陳火炎を用いる。)は,国民党の弾圧を想定して様々に弘法寺の模様替えを行ったらしい。

二次大战后,寺产由僧人吉川法城于民国卅五年(1946年)2月交给台籍弟子陈宗坦(俗名陈火炎)管理[1][2]:361。当时的寺产除了寺院本体之外,还有在西宁南路167、169号的“十善会”,为真言宗提供给失业者住宿使用的社会事业[1][2]:361。陈宗坦接手后将弘法寺改为“慈光禅寺”〔後掲維基/弘法寺〕
※原典[1] 王世烨、许嘉文. 《台北天后宮的歷史》. 台北天后宫管理委员会. 2011-04-25: 页45─50
[2] 阚正宗. 〈戰後中佛會對日僧寺產的交涉與爭取〉. 《臺灣佛教的殖民與後殖民》. 博扬文化. 2014-06.

 日本臭い弘法寺の名を慈光禅寺,護国十全会を十善会と改名までしているのは,信仰の形振りには構わず社会慈善事業の実業を維持しようとしたものと思われます。

但后来台北市政府教育局长黄启瑞以陈宗坦管理不善为由,于民国37年(1948年)6月21日将之撤换[1][2]:361。之后寺院本体被交给新管理员林味管理,并将建筑给苏谷保作为新兴宫(台北天后宫)新址使用,而西宁南路167、169号的的建物改给商家使用[1][2]:361。〔後掲維基/弘法寺〕

──しかしその後,台北市政府教育局長・黄启瑞は陳火炎の「管理不善」を理由として,1948(民国37)年6月21日に(寺からの)退去を申し付けた。その後,寺院本体を新管理員・林味の管理に委ね,蘇谷保(人名?)に新兴宫(台北天后宫)の用地の使用と建築をさせた。西寧南路167・169号の建物は商家に使用させた。──
 陳火炎への退去命令(6/21)が,龍山寺後殿からのパレード(6/1)より後である点が注目されます。農暦と現代暦が混交しているのでないならば,新興宮信徒は有無を言わさず弘法寺を占拠し,黄启瑞に後付けの行政処理をさせたことになります。
 この際の行政措置の根拠は「地方政府接收日人寺庙祠宇注意事項」,つまり弘法寺をあくまで日本人財産として台北市が接収するという立場を採っています。

然而该事引起中国佛教会台湾省分会不满,并发出陈情信函[1][2]:361。中国佛教会认为该寺是全省同胞捐资,不是日僧私产,黄启瑞将该寺借与苏谷保改作新兴宫之行为是意欲毁灭该寺所信仰之正统佛教,而黄启瑞则认为他是依照〈地方政府接收日人寺庙祠宇注意事项》之二及四之一条行事[2]:361、362。(略)学者阚正宗对此认为主要原因是中国佛教会尚未来台,缺乏主力后盾之故[2]:362。〔後掲維基/弘法寺〕

──中国仏教会(台湾省分会)は全省の同胞から寄付を募り,弘法寺が日本僧の私有ではないこと,黄启瑞が寺を接収し蘇谷保が新興宮で行ったのは寺所信仰の正統仏教の破壊であると陳情した──
 末尾で弘法寺側の要求が通らなかったのは,中国仏教会がまだ台湾に力を持っていなかったから,としているけれど……当時の仏教会は十分過激に動いている感があります。
 黄启瑞,というよりその背後の新興寺信徒群が過激過ぎた,と見た方がいい。
 が,それにしても理屈はあるでしょう。これだけの騒乱を引き起こして,新興寺側は何がしたかったのでしょうか?
 少なくとも,この加熱ぶりは媽祖信仰とか堂の方向がとかのレベルでは動いていないようです。もう少し,政治環境を考慮してみます。

政治勢力としての新興宮信徒群

 まず「媽祖信仰のレベルではない」という点を押さえます。
 巡行先として前述した艋舺晉德宮も青山宮も,これらは媽祖宮ではありません。
 晉德宮の神は,助順将軍(簡体字:助顺将军)又は黄府大将軍という謎の存在です。

 艋舺青山宮の方はというと主神・青山靈安尊王。艋舺の泉州三邑人の王爺信仰の中心とされ〔後掲維基/艋舺青山宮〕,治安上観光客が最も近寄るべきでない場所と言われています。

青山宮の暗訪(夜の市中巡回)〔後掲xiaomai/フォートラベル〕

 青山宮の例祭・艋舺青山王祭は台北三大祭事の一つです。この祭は「暗訪」と呼ばれる,夜間に練り歩く催しですけど──

八將的原型為青山宮所奉祀之枷鎖將軍,其中綠衣綠臉為枷將軍,紅衣紅臉者為鎖將軍,扮演八將的成員手持釘板、狼牙棒、虎頭鍘等各種刑具,展現出一股肅殺之氣。〔後掲臺灣宗教文化地圖/艋舺青山宮暗訪暨遶境〕

 青山王が八将を引き連れて歩く。緑レンジャー将軍は首かせを,赤レンジャー将軍は鎖をと「各種刑具」を持っており「肅殺之氣」を醸す,というほとんど新選組な暴力集団……の出で立ちです。これが元々は何を象徴していたか,特に民俗学的な推察眼がなくとも察せられます。

“青山王”が派遣した部隊は夜に地域を見回り、善を報いて悪を懲らしめていたそうで、世の中に害を及ぼす悪霊などを追い払っていたという伝説があるそうで、そこから夜間巡礼が行われているそうです。かつてはこの“青山王”の夜間巡礼は静粛に行われていました〔後掲台湾国際放送〕

鉄ちゃん必見!嘉義(北港朝天宮)→萬華(青山宮)をこの日だけ走った媽祖様及び信者専用特別列車の切符

2020.11.29北港朝天宮発青山宮行特別列車

 なお,媽祖に関係ないのに,という意味では……2020年に北港媽祖も青山宮へ巡行してます。これは1935年以来,実に85年ぶりの両巨頭の会合として台湾宗教界の大ニュースだったそうな。──一説には,青山王には疫病退散の功徳もあるので,コロナ下で特に大規模実施されたとも言われています〔後掲フォートラベル〕。

嘉義(北港朝天宮)→萬華(青山宮)の車内でふんぞり返る北港媽祖様

 こんな騒ぎを毎年やる訳にいかず,また前回というのが日本統治下での思惑(おそらく宗教間の大同団結)があったであろうことを想像すると,やはり媽祖様が非・媽祖宮を訪問するというのは尋常な出来事ではありません。それを毎年やってる台北天后宮というのは,余程特殊な因縁を青山宮に対し有しているのです。
 青山宮の話に入り込み過ぎました。次に,戦後(光復)直後の萬華周辺の時代背景を考えてみます。

もう一つの萬華・南機場と空南一村

「南機場」は,萬華地区のもう一つの顔です。
 日本統治時代に造られた軍用飛行場の名称ですけど〔後掲台湾偏愛日記〕,戦後は「眷村」──大陸から来た,蔑称「外省人」の拠点の一つになりました(下記リンク参照)。

 具体的にはここに,1949年以降「空南一村」が形成されます。

1949年,國民政府由大陸播遷來台。騰雲里成為中華民國空軍最早遷台的據點之一。(略)從小在空南一村長大的李莉茜強調,父母從昆明的空軍醫院來台,先住在岡山的空軍醫院眷舍。(略)當時另一批來台的空軍部隊,飛機直接降落在南機場(現今青年公園內),空軍的家屬就近住在機棚中。後來陸續的設置了空南一村、空南新一村。〔後掲李他〕※下線は引用者

 本稿で焦点にしている1948年頃の状況は,よく分からない。
──(下線部)当時,その他(1949年以降の大陸引揚者)以外に台湾に空軍部隊があった。飛行機は直接に南機場(現・青年公園內)に着陸し,空軍の家族が近隣の「機棚」中に住み着いていた。──
「機棚」はおそらく飛行機の格納建物と思われます。空軍が台湾進駐をする際,家族までは必要ありませんから,進駐にかこつけて早々に台湾入りした人々がいたのでしょう。
 後掲李他の記述に,1949年来台の女性のライフヒストリーがありました。

我們也訪問到住在空南一村的張愛華女士,南京人,現年97歲。精神矍矍,說起話來思緒清晰。她說民國38年,他隨丈夫來台,就住在空南一村,是當地最早的住戶。〔後掲李他〕※原典:張愛華、李莉茜口述社區歷史暨史料整理

──「是當地最早的住戶」当地に最も早く移住してきた。──
というのが1949年のことであるならば,その前から軍人又はその家族の流入が開始されていても不思議ではないのです。

空南一村の幼稚園の記念写真〔後掲李他〕※写真の「46.7」は1957(民国46)年7月と推測される。

二二八の震源地

 もう一箇所,地点をプロットします。228事件で発火点になったと言われる228公園(現・二二八和平公園,MRT台大醫院前)です。

1947年2月28日 台北市内で抗議デモ
1949年5月19日 戒厳令,に改めて発令
1987年 戒厳令解除
〔後掲wiki/二・二八事件〕

 この事件は,台北市で闇タバコを販売していた本省人女性に,取締役人が暴行したことを発端に,本省人が怒りを爆発させ市庁舎へ抗議デモをかけたもの。
 まだ大陸にあった国民政府は,3月8日に大陸から第21師団及び憲兵隊を援軍として派遣しています。
 この大陸援軍部隊がどこにいつ来襲したのかははっきりしませんが……228事件の場所とその後の空南一村の位置から考えて,南機場(南飛行場)である可能性が高いのではないでしょうか?

1912年に消えた台北大天后宮

 この228発火点ということと関係するとは思えないけれど,この場所に媽祖宮が存在したと言われています。1912年に日本が都市開発のために撤去し,戦後(光復)時点では既になかった宮です。

二二八和平公園に残る台北大天后宮の基部石造遺構〔後掲維基/臺北大天后宮〕

 1888(光緒14)年に台湾巡撫・劉銘傳が建てたとされています。勅書までは示されていないけれど,明らかな官営寺院です。
 旧・新興宮が弘法寺に入って台北「天后宮」を名乗ったのは,1948年時点で36年前に撤去された大天后宮の後掲を名乗ったため,という言説があります〔後掲wiki/台北天后宮,台北大天后宮など〕※ただし,原典記載なし。
 新興宮が持たなかった(勅命)天后号を獲得したかったのか,それとも民の新興宮と官の大天后,二つの日本に破壊された媽祖宮を共に再興しようとしたのか,その真意はどうも分からない。けれど,それまで有してきた「天上聖母」号を突然改名しているのは,やはり意識していたとしか思えない。
台北大天后宮の古写真(後方)

 これらの場所をマッピングしてみます。
関係地点の位置関係〔台北歴史地図/1952年〕

戒厳令下で媽祖パレード

 1948年6月1日の萬華宮→弘法寺へのパレードは,正常な社会生活の中で行われたと想像してはいけません。
 1949年5月に「改めて」発令された戒厳令は,それ以前にも各地で地域的・散発的に出されています〔後掲wiki/二・二八事件〕。それが現・西門町でどうだったのか情報がありません。けれど,当たり前にパレードが出来る状況とは考えられない。しかも移動先は228発火点の近くです。228の区域的広がりははっきりしないから,西門町が中心地の一つだった可能性もあります。
 同じく,法華寺への移転話が潰れたのもこの位置関係からすると予測がつきます。最も古い台北・萬華は,この時期,東南方向の南機場方面から外省人に侵されつつあるのです。法華寺案はその近隣地に,萬華の媽祖信仰の中核を移動させるものでした。
 信徒たちは,時代の必然たる外省人との妥協を断固として拒んだ。それが法華寺案の拒絶です。
 古い萬華に変わり新たに振興していた西門町,つまり宗教的な白紙地帯の真ん中に,侵食されつつあった本省人の新拠点を設ける。しかもこの場所ならば,一世代前の大天后宮を継いだという体裁も整います。碁盤の空地に新たに石を打つような漢族らしい計算を,相当に暗澹たる時代の局面で本省人媽祖信者たちは行っていたのではないでしょうか?

「1947年2月28日,民眾前往專賣局臺北分局抗議,並將專賣局臺北分局內的火柴、香菸等物品存貨堆積焚毀;1947年3月6日,二二八事件處理委員會舉辦成立大會,正式選出常務委員;在臺灣省警備總司令部發布戒嚴令後,臺北市榮町大街的人潮消失;在二二八事件中遭到槍斃者;1947年3月17日,受命前往臺灣宣慰的國防部部長白崇禧(右二)抵達臺北松山機場,行政長官陳儀前來迎接(右一)。」〔後掲維基/二二八事件〕

弘法大師はそれでも残った

 最後に,荒ぶる媽祖信者群に占拠された「弘法寺」に,仏教的要素を漂白されつつ,なおも弘法大師が立ち続けている情景を見ていきます。

後來,有信徒被弘法大師託夢,據說弘法大師神諭,此廟本為其寺,臺灣日治時期結束後雖改奉媽祖,仍應該祀奉弘法大師神像,以示紀念。〔後掲台灣好廟網〕

──後に,ある信徒の夢に弘法大師がやってきた。大師の神諭に曰く,この廟は日本統治の終息後に改めて媽祖を奉じたといえども,なお弘法大師の神像を祀り,もって記念を示すべし。──
 仏教徒が,媽祖信者にいかにして説いたものか,どうもはっきりしない。けれど,ここまで見てきた経緯からすると,媽祖側も日帝に恨みを募らせて弘法寺を「乗っ取った」わけではない。むしろ,抵抗時に君が代を歌ったという228での本省人の心性は日本時代の回顧を含んでいたかもしれません。
 この点は混乱の中の情景でもあり,各国の日帝時代への政治姿勢のバイアスが強くかかっており,おそらく永久に明確にはならないでしょう。

本省人たちは全台湾人共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と全島に呼びかけた[6]。〔後掲wiki/二・二八事件〕※[6] “【それぞれの70年 台湾から】日本の言葉、獄中の支えに”. 産経ニュース (2015年5月6日). 2020年8月14日閲覧。ただし,中国語資料には維基百科,百度百科を含めともそのような記述はない。

 1973年,つまり戒厳令解除の14年も前に,日本の高野山金剛峰寺と同東京別院から台北天后宮へ僧が渡っています。以後10〜12月にこの派遣は毎年継続され,「朝聖禮佛」法会という仏教イベントが行われているという〔後掲光明燈祈福網〕。※ただし,台湾側の中国語資料にはこの記述は多いが,金剛峯寺を含め日本側の資料には同記述は見つからない。

剣を持つ空海(14C前半)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です