目録
❝二日目❞二番→一番→船津・岡
久保電気北路100m西行
「1007久保電気北路に西行して入る。一見続いてないように見えるけれど少しZ字に折れて奥へ続いてます。」
とかメモってます。
うーむ。我が筆ながら何を書いとるのか分からんぞ!
……久保電気さんはグーグルアースすると見つかりました。牛深漁港沿いの次図の地点です。
昨日、南へ折れた防火水そうのパティオ地点に出ました。ここでも道はZ字に折れてる(上図◯地点)。
通常Z字は道を造る際、既設の家屋を無理に避ける場合に出来ます。水路との関係は暗渠部があり明確でないけれど、つまりこの道は集落より後に出来てます。
それ故になのだと思う。この二番・三番隣接部には「家の隙間」、地図に落ちていない路地がまま存在します。この感じは確かに浙江福建の下町に似ます。
昨日は一〜三番の骨格を追うアプローチを、知らず知らずに採ってました。それがある計画性によるものだとすれば、三集落の接合部は、おそらく後期に比較的「乱開発」された家並なのだと思います。即ち既定集落間を埋めるように家が建ち、その隙間が道になってる。
水路沿い路地100m東行
「1013その先の左折路に惹かれるけど直進」とメモしてます。この左折路(前掲写真)も「隙間」でしょう。地図にはない。
すぐ右折。これが横断道──二番「H」字の横渡し路地のはずです。
1015、ああこれか?昨日撮影だけしてスルーした水路の道へ右折。
先の、水路が北に僅かに折れる地点に通じてました。
そのまま抜けれた。真浦公民館とその南の公園に出ました。
単なる空き地ではなく、何か元々あったパティオに思えます。周囲の筆が自然過ぎる。廃屋の敷地跡とも想定できますけど──二番H字の渡し部にも同様のパティオが想定できる隙間があります。いずれも大きな家屋跡と見るのは不自然で、二番海側と山側の二つの住民群があり、それぞれのコアとなるパティオを持ったのではないかと想像します。
真浦公民館路地30m西行
1026、真浦公民館東路に入りすぐ右折。
このラインを連写してしまう。
位置は多分次の図のとおりです。
道の横ブレや路面の凸凹はあまりない。家の隙間ではない、つまり初期の計画性が感じられる路地ですけど、雰囲気が尋常ではなかった。
一番近くの壁まで真っ直ぐ伸びる、素晴らしい路地です。
路地出口付近で、不覚にも全く方向感覚を失ってしまいました。おそらく二番出口付近に出たと思うんですけど……。
1033、「トマレ」の黄文字のある路地へ右折すると公民館前公園の入口。なるほど……パティオから放射円状の路地か。
一番から「せどわ」を出る道
戻って、昨日の最初のルートを逆行(東行)。
1036。なるほど!平野碑のL字の向かいが、看板はないけれどどうやらお寺のようです。ただこれは網戸だったから仏壇が見えただけで、そこにも供え物はない。崖面にあるお墓の管理を主にしているのかもしれません。
罰当たりながら裏の墓地に入る。
ここに官軍の墓とパンフレットにある。確かに古い墓は多そうです。
視認できたものに天保年間がはっきり確認できるものがありました(上記画像)。
1045、せどわを出る。車道を東行。
船津の道
船津付近の商家跡の痕跡は、ごく僅かしか残っていないようでした。
下記画像の家屋は、おそらくかつての離れの蔵と本屋の間の渡り廊下(塀?)だけを残したものです。元は相当規模の邸宅だったでしょう。
船津の集落は現・車道の両側に家並が連なるだけに見えました。(正確には海側は家屋の列がニ列あるようにも見えます。)
ただ山手に、急階段を一ヶ所みつける。この山手に何があり得るのか想像がつきませんでした。
同じく船津海側には、どれも行き止まりの路地が何本もあります。
その先には、今は通れない箇所も含め、かつては港への階段があったようでした。ただ──
フナムシだらけで長くはおれんぞ!
居れんけれど……各蔵脇に船を着けて荷降ししてた私港であることは確かでしょう。
1111 うしぶか海彩館レストランあおさ
ミニ海鮮丼と煮魚(ぶり)550
皆が皆、最高額の南風(ハイヤ)膳をガンガン頼んでます。皆さん写真撮ってるから観光客のたまり場っぽい。こりゃちょっと味は期待……
ごめんなさい。謝ります。
狂っちょる。
狂ったように旨い魚肉です。新鮮度が半端じゃない。一般には海鮮丼がベストチョイスなんでしょうけど……ここの魚をあえて煮魚にしたこのお膳は、個人的に大満足でした。あんまり箸が進んで、写真を撮り忘れたほどでした。
資料館等訪問記

年表
バスの時間を気にしつつ……1158、道の駅うしぶか海彩館の附属資料館へ入ってみると、なかなか凄みがありました。
牛深には、地誌が発行されてないのと同様、専用のミュージアムがありません。現在はここだけが文化財を展示する場所らしい。
まず年表。
厨(くりや)の制度(干物の集荷場)や魚座(オザ)の制度が宮崎郷や船津郷にできたと伝えられる
伝承ですから不詳ではありますけど……厨(くりや)や魚座(オザ)が
河内浦城主天草大夫資種、久玉城を築城する
1580(天正8)/
七月、久玉にレジデンシア(キリスト教駐在所)を置く
出典は定かでないけど、おそらく宣教師側資料でしょう。前掲のキリシタンによる攻略後の時代だと思われます。
牛深市内の「久玉」は古くから「玖玉」「玖珠」と書かれていた例があります。その地名の由来は「古くは王の地」という意味があり、久玉が隼人の乱鎮圧のための大和大王の拠点の1つとして、重要な役割を果たしていたと考えられます。

久玉
久玉の地名の由来だけで大和朝廷の隼人鎮圧拠点と断言できるか否か、疑問は残ります。唯一実証的だったのは既に触れた久玉神社ですけど──これも、ある程度大きな神社とか客観的な括りではヒットはなく、無理にカウントした感はあります。
鹿児島県には久玉神社、または興玉神社が多数分布している。その事は隼人の乱後、大和朝廷の力が猿田彦大神を祭る信仰とともに、隼人の地に及ぶことになったのにともない、広められていった足跡と考えられないだろうか。
久玉城(現牛深市久玉)は天草七人衆の一人、久玉氏の居城で、14世紀後半の室町時代に築城されたもので、県内最古の海城と言われています。
久玉城の築城は外敵からの防衛が大きな理由となっていたと思われます。
1301年11月、この牛深の沖の甑島周辺に約200艘の正体不明の異国船が出没し、島津氏をはじめ、天草氏、菊地氏なども色めき立った事件が起こりました。(略)
──久玉が対馬のような対外防衛拠点だったとする説は、現在のところ異説とされるいわゆる「正安の蒙古襲来」だけを根拠にしており、正直単独では弱い。
いま一つ「併せ技」として、戦国末、キリシタンと反キリシタンの争奪戦の舞台になった、というのは史実らしい。ただこれも「宣教師を尖兵にした西欧に狙われた」とする立場なら、長崎はもちろん天草一円にある程度一般的な情勢です。
仏教の荒廃を危惧した反キリシタンが、天草南部に僧侶とともに久玉城を拠点に戦いを起こしました。数年にわたる争いの末、キリシタン側の攻勢に久玉城は落城。
焚海鼠
この点は、事実ならば牛深に「輸出品」があったことになります。そこでかなり調べてみましたけど、天草ではもちろん海産物は採れたようです。ただ、それが「中国料理に最高」「第一級品として高値で取引」の辺りの情報は見当たらない。
上記史料「水産小学」は、1882(明治15)年頃の小学校の職業学科用教本です。大日本水産会という業界団体が「水産」を小学教科に加えるための試行的教科書です。ただ、10歳前後で職業教育と普通科がルート分けされる仏(職業リセ)・独(レアルシューレ)に習った、かなり偏った主義に基づく主張です。
水産ノ夥多ナル陸産ノ及フ話声アラス……然ノミナラス水産ノ事業ハ又海兵ヲ練習セシムルノ捷径タリ夫ノ仏国政府カ毎年……補助金ヲ与ヘテ此業ヲ補助スル者ハ漁夫ヲシテ兼テ水兵ノ義務ヲ負担セ シ而メ海軍ノ費用ヲ省減スルニ在リ……然レハ四囲環海ノ我国ニ於テハ海軍ノ備最モ切要ナルカ故ニ倘シ此法ニ倣ババ海軍ノ強盛ヲ画ルノー端ナラスヤ〔後掲内山〕
※原注30 大日本水産会報告 第1号(15年3月) (略) 31 同前 P.4~8
これをもって史料性がないとまでは言わないけれど、描写の客観性には一定の疑いを挟むべき史料です。
明治
「牛深鳥瞰絵図」というもののレプリカが「牛深市公民館所属」として掲げてありました。1799(寛政11)年作、作者不明。原画と解説はこちらのHPでご覧ください。→連載:牛深御番所てんこ盛り!:牛深御番所絵図 ①
「せどわ」にはほとんど家並が描かれていません。船津や岡、久玉にはかなり町並みがあるのに、です。18C末ですからそんなことは考えにくいけれど──作者が興味のないエリアだったのでしょうか?
明治30年代初期の牛深の中心地(久玉)とのキャプションの写真。かなりの喧騒が感じられます。停泊船は所狭しという感じです。
鰹の納屋・問屋は「せどわ」をまたぐ位置に存在したようです。ただどちらかと言えば「せどわ」西の宮崎エリアに多い。「せどわ」は漁業の中心ではなかった可能性が高いのです。
1307。牛深港より本渡BC行き乗車。車窓の向こうに、蔵之元行きフェリーの出港の汽笛を聞く。
古久玉のあったのは現・大池田、ゆめマートからベスト電器の台地辺りだろうか。確かに牛深で最も郊外タウン化している辺りで、だから古代からの痕跡は完全にないと思われます。
この裏手の山辺りに遠見番があったことになります。立地上、牛深で唯一東西の港が見回せた場所でしょう。
牛深高校の背面山手の集落ベルトも気になるけれど、これも何度かバスから覗いてもあまり味がない。
謎の飛び地。
下浦石
本渡に帰着。レンタサイクルがあるようなので、中心部で下車。
方原川には「楠浦眼鏡橋」というのがありました。これの修復作業をしてる解説中に──
橋は、天草の下浦で産出する砂岩「下浦石」(しもうらいし)で造られています。下浦石は、国指定重要文化財祇園橋など天草各地の石造物に使われているほか、世界文化遺産となった長崎のグラバー邸やオランダ坂、軍艦島、宇城市の三角西港などでも使用されており、九州の近代化遺産を支えた存在でした。〔案内板〕
足を得たので1512、本渡歴史民俗資料館へも寄ってみました。ここにも「下浦石」の展示はあり──
二階部に、「島内おおかたの地蔵・恵比須像は下浦石で作られた」とキャプションを付す展示がありました。
下浦石は「ガブリイシ」と読む。
「下浦石」は、新しいうちは、淡い灰色や黄色の光沢をもち、洗練された素朴さを醸し出し、年月を経るほどにさび色となり、実に文化的で落ち着いた深い趣がでてきます。
一見木材のようにも見える柔らかさもその特徴です。〔後掲STONEX〕
産地は、本渡中心街から南東5kmほどの下浦町(→GM.)。
下浦に石工が根を下ろしたのは宝暦10年(1760)元肥前の国藩士松室五郎左衛門という浪人が故あって下浦石場に移り住み、村人に石工技法を伝えたのが始まりだと言われ五郎左衛門翁の墓碑も下浦石場地区に現存している。
五郎左衛門翁の石工技術は地元石工に受け継がれ、明治、大正、昭和から平成と時代と共に盛んになり、最盛期は300人の石工を数える程の隆盛を見た。天草、熊本県内は勿論、九州一円の石工の大半は下浦出身で占められている。〔後掲天草探見〕
近年、下浦石工の歴史がまとまった「熊本・天草 石工の里下浦ガイドブック」(天草市 2017発行)という書籍が出ているという。
この注目の新しさからしても、先行研究自体はそれほど多くないけれど、鳥居だけに限ると「天草下浦石工の銘がある砂岩製の鳥居」という条件付きでは次のような広範囲に存在することが分かっています〔後掲時松〕。ただ年代は近代以降のものばかりで、近世にどうだったのかを直接語るデータはないらしい。
船玉
日本の海域全般に広がる「フナダマ信仰」は、天草にも存在したらしい。ただ上のお膳を見ると、専用のちゃぶ台に飯・茶とおそらくは漬物かおかずに見立てたものを置いていたようで、これはあまり他で聞きません。ちゃぶ台という装置から考えて、船内ではなく陸上の家屋内に置いたのでしょう。
場所は五和町二江(→GM.∶地点)、前章(→[事例2]通詞島「せどや」:プレ牛深集落状態)で「せどや」の集落配置を確認した通詞島とその対岸です。
銀主
歴史に関する記述もいくつかメモしてます。前述と重複はありますけどご容赦を。
天草の歴史(原始~中世)/
中世の天草は、大矢野氏をはじめ、天草氏、志岐氏、上津浦氏、栖本氏の「天草五人衆」と呼ばれる土豪が割拠する時代が続きます。上津浦氏と栖本氏が争った棚底城(国指定史跡)からは、建物跡のほか、中国産やベトナム産の陶磁器が出土しており、海外との交流もうかがえます。〔案内板〕
上記は、「黒漆地金銀高蒔絵簾に牡丹文料紙箱」外箱に「天保五年八月十一日島津侯ヨリ拝領」と記載があるものです。同天草市立本渡歴史民俗資料館所蔵。天保五年は1834年。薩摩が裏経済を牛耳り荒稼ぎした時代です。
天草の銀主(ぎんし)たちと石本家/
島で徳者は大島さまよ、御領じゃ石本勝之丞様、富岡町では大阪屋、島子で池田屋、三木屋さん、西に廻れば牛深の助七様※の家作りは、あじな大工の作りかけ、海の中までかけ出して、よるひる酒盛絶間なく、それでも身上は栄えます。
天草に伝わる俚謡ではこのように唄われています。(略)江戸時代中期以降は、人口の増加と耕地の不足によって各種の産業がおこり、商業活動などによって大きな富を得る人々が現れまして。こうして富を貯えた人々は、困窮した百姓に金を貸すようになります。これが銀主です。
〔案内板〕※引用者注 牛深村:万屋助七
他で調べると色んなことが書いてあり混乱するし、実際属人や組織風土もあったでしょうけれど、少なくとも「銀主」には末尾にあるような地域に利益還元する親方という「大善人」イメージも強かったことは確からしい。
ほか、昭和代で注目すべき事項を拾ってみてます。
天草史談
・郷土史家元田重雄ら、機関誌「天草史談」を発刊
元田重雄さんは1890生〜1942没の郷土史家ですけど、天草政友会の重鎮でもあったという〔後掲徳富蘇峰記念館,国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス〕。雑誌「天草史談」は1974年に22巻までが確認〔後掲国立国会図書館〕されます。この流れは、末期の同会代表・鶴田文史(1936生〜2014没:立命館大学文学部史学科日本史学専攻)さんに引き継がれ、この時期に俄に学術的に立脚された多展開を見せてます。鶴田さんは天草史談会代表であると同時に、天草歴史文化遺産の会顧問、天草文芸会代表、西海の乱史研究会・西海文化史研究所主宰〔後掲Webcat Plus,HMV&BOOKS〕。
現在は杉井健(1965生。熊本大学文学部准教授)さん〔後掲杉井〕らの世代に、研究のバトンが引き継がれています。
キリシタンの怨念の地でもあり、なかなか冷静な論議が難しいことが、ただでさえ史料を破壊されている天草史研究をより困難なものにしてきましたけれど、これらの外部研究者の知的蓄積が徐々にその姿を浮かび上がらせているところです。
震洋
さてWW2後半。連合軍本土上陸の可能性が一番高いのが南九州中、天草方面を守備する独立混成第126旅団(通称・肥後集団、第16方面軍所属)が編成されたのは、通説では昭和20年4月とされます(資料館の把握年代と差が大きく、何か理由がある可能性有)。熊本・人吉での陸上決戦準備と並行し、天草での中九州作戦(=睦作戦第3号)が準備されました。〔後掲はるさんの戦跡巡礼記〕
本土決戦にそなえ、有明海八代海を守るため、牛深の大ノ浦と長島、鬼池の亀島と口の津、富岡と樺島の六カ所に、それぞれ15センチ砲二門(明治時代の旧式)の砲台が築造された。
・五月一日、牛深の漁船10隻が陸軍に徴用され、「暁部隊」に編入。フィリピン戦線へ外地勤務。終戦までに全隻沈没。
七月
・牛深沖で日本海軍の巡洋艦「長良」が、米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。乗組員三四八人死亡。残り二三五人は地元漁師らに救助される。
肥後集団は歩兵7個大隊、砲兵・工兵各1個大隊で計約七千人の体を成しつつも、火力は大砲2門のみ。この砲は40口径11年式14センチ砲で、1926(大正15)年竣工の海軍伊1型潜水艦の艦載砲を取り外したもの。WW2当時の軽巡洋艦主砲相当の潜水艦には破格の巨砲でしたけど、数と性能は桁を疑うしかない。
この2門が、牛深東北東5km、久玉小松崎海面砲台(→GM.∶地点)に設置。駐留部隊は独歩第757大隊第107分隊と推定されています〔後掲はるさんの戦跡巡礼記〕。位置からして、天草灘への侵入路だけを狙って、とにかく存在を秘し造られたのでしょう。
五月
・牛深茂串の基地へ移動中の特攻艦「震洋」隊、アメリカ攻撃を受け多数戦死。
昭和21年
七月
・牛深大火
牛深北北西3km・茂串(→GM.∶地点)には、海軍特攻艇・震洋の5型隊第110震洋隊が置かれています〔後掲特攻隊戦没者慰霊顕彰会〕。上記の資料館記録のほかは、船数や被害数の情報は皆無です。
昭20.7「牛深大火」の四文字にも、無性に不穏なものを感じました。他なら空襲なんですけど、原因の記載も全くない。なぜ終戦前月に牛深は燃えたのでしょう?
■レポ④:東シナ最東奥に天草海人
前章までの3つのレポで、以下の推認をしました。
[レポ②]江戸期の牛深「せどわ」の居民は、ある程度裕福で、かつ頻繁に移動していた。
[レポ③]牛深「せどわ」の居民は、後期倭寇以降に陸上がりした海民で、小口交易も業とした。
本章では牛深から視点を広げ、一般論として総括してみたいのですけど──そうすると途端に、②③を総合して裏返すなら、「せどわ」居民と同様の人々が周辺、少なくとも天草にはいたであろうことが推測されます。既に久玉や宮崎、河浦や通詞島には部分的に類似の状況を確認してきました。
また、彼らが牛深に集まったことは、廻船業者と接続した業を営んだからだと推定できます。
天草海域を拠点とした海民を、仮に「天草海人」と呼んでおきます。これらの内容を前提として、史料を補てんしながらその全体像をまとめてみます。
時系列を逆転させて現代から綴ります。
1 天草人の雄飛
船舶は徴用の対象になり、昭和13年(1938)に18隻、19年(1944)には12隻が外地での物資輸送に従事し、19年(1944)の12隻はフィリピンで全隻沈没、船員は65名中53名が戦死する牛深漁業の悲劇を生むのである。
※(前掲)山下義満「牛深港の『みなとの文化』」
資料館の記述(→前掲:10隻)にもあった徴用記録です。
太平洋戦争時、特に後半、牛深は沖縄方面に対面する海事上の最前線でもありました。海に面したこの土地からはまさに眼前に起こり、印象をとどめたのは、上記徴用船舶の被害に加え、本文末でも触れた以下の3事件があるらしい。
・天草6地点に(明治・大正代の骨董ながら)砲台設置、うち2つが牛深(昭19)
・牛深沖で日海軍巡洋艦「長良」が米潜魚雷攻撃で沈没。乗組員583人中、235人を地元漁師らが救助(同年)
・牛深茂串の基地へ移動中の特攻艦「震洋」隊、米の攻撃で多数戦死(昭20)
ほぼ全滅していた日本海軍が最後の意地を繋ごうとしていたのが、牛深海域だったらしい。「愚かな戦争の犠牲」と片付けるにはあまりに生々しいし、牛深にはこんな事例もあります。
昭和14年頃から漁獲に恵まれ、牛深漁業組合はその余剰金から昭和18年に海軍に8万円を献納、献納機1469号牛深漁業号の艦上戦闘機が誕生した特異な事例がある。[前掲山下]
この「牛深漁業号」に関する記述はほとんどなく写真も出てこないけれど、いわゆる「献納機」リスト※を見ると、昭和19年末に6千番手前まで行き着くものの相当早い段階です。「牛深漁業号」以前にも、郡市町村単位の入った例は横須賀號(12号,S7.12),佐世保號(31,S8.06),湘南號(神奈川県湘南地方住民,32,S8.05)から多くあるし、漁業関係の例も南洋真珠號(アラフラ海出漁真珠貝採取全日本船舶主並船員一同,165号,S13.03)以下あるけれど、郡市町村の同業組合の寄付例は大阪實業組合號(大阪実業組合連合会,219号,S13.09)など大都市を除き希少です。
※後掲 陸軍愛国號献納機調査報告 付録 1000~
天皇家のルーツかもしれない天草の海事関係者は、太平洋戦争をかなり自分のものと捉えていたと考えられます。左翼的な言い方で「戦争に協力的だった」というよりも、次の例も念頭に入れれば、明治以後の拡張主義への同化度が高かった、と捉えた方が近いように思えます。
バルチック艦隊の第一通報者 赤崎さん
司馬遼太郎「坂の上の雲」にも描かれる知られた話ですけど──明治37年末か38年初にバルチック艦隊のマダガスカル島入りを通報した日本人がいます。この人が、天草・高浜(→GM.∶地点)出身の赤崎伝三郎さんです。
島に住むただ一人の日本人である自分に与えられた使命であると考えた彼は、五十余隻の艦隊の艦名、艦種、数量などを詳しく調べあげ、すぐさま印度ボンベイにある日本領事館駐在武官の東乙彦少佐に知らせた。こおどりした東少佐はさっそくこれを日本に緊急報告したのである。これが日本人の手による「バルチック艦隊現る」の情報第一号であった。※後掲田中昭策「天草歴史談業─田中昭策遺稿集─」昭57
それにしても、なぜこの人はマダガスカルにいたのか?艦隊発見までの略歴を見るとこうなります。
明治22年 長崎にてホテルのコック
明治23年~ 上海へ渡海。さらに香港、サイゴン、ボンベイ、ザンジバルを放浪の末、仏領マダガスカル島の軍港ジェゴスワレズに至る。
明治37年1月 仏軍人相手の酒場を開業
明治37年2月 日露戦争開戦
明治37年12月27日 バルチック艦隊、ノシベ※入港
※現在はマダガスカル最北端のディエゴ・スアレス港との見方が強い。
相当に流れ歩いてのマダガスカルです。
調べてみると、確かに、熊本は移民県でした。海外又は国内未開拓地への移民は、沖縄や広島とある時期には匹敵する規模ともとれます(下記別項参照)。天草ルーツの海外経済人もはっきりと見つからないのですけど、こういう志向が、特に女性に相当数あった、と郷土史家の田中昭策さんは書き残しています。
天草女性の海外進出の歴史は古く、あまりにも有名である。時には「天草女」という呼称を生み、そのすべてがあたかも賎業に従事していたかのように誤解され、さげすみの目をもって見られたこともあった。しかし、当時の国策であった海外進出に果たした役割りは実に大きいものがあった。そしてそれはひとり女性のみではなく、天草の男たちも同様にぞくぞくと海外に雄飛したのである。北はシベリアから南はアフリカ、さらにハワイ、米本土へと日本人の行くところ必ず天草人の足跡があると言われるくらいだった。特に今の五和町から苓北町を経て天草町に至る天草洋の沿岸一帯に、それが著しいのはどういうわけであろうか。耕地が狭くて生活が貧しいからだといわれるが、それだけではあるまい。
生まれ落ちるとともに天草洋をながめ、「あの水平線のはるかかなたには中国大陸があるのだ」と教えこまれた幼いころの夢がよみがえるのか、怒涛の中を八幡船に乗り込んでシナ海を疾駆した祖先の血が呼ぶのか――――。赤崎伝三郎はこうした天草からの海外進出の先駆者の一人であり、もっとも代表的な人物である。[前掲田中]
客観的に残っている史料を見る限り、この通報の事実と帰国後の建物群しかないし、経歴にも不確かな点が多い。日露戦時の「美談」としての誇張も疑えます。でも、帰国後の邸宅は今も残存する一部を見ることが出来るようです。これらを元にした研究を見る限り、かなりの成功をおさめた人であることは否定し難いらしい。
「和僑」としてマダガスカルに根付くということはしていません。この点は、破産に至るような事業の失敗があったとも思えない。よく分かりません。また、天草出身の海外成功者としての記述も以上の紹介以外にはあまりありません。
軍港の近くにホテルを建て「ホテルジャポン」と名づけるとともに、映画館も開業、いずれも大当りで次第に財を積み、やがて”マダガスカル島随一の富豪”といわれる程の地歩を築いた。
(略)多くの事業はすべて二人のフランス人とイギリス人に譲り、帰国することになった。昭和四年夏のことである。(略。昭和)20年5月、75歳でなくなった。[前掲田中]

数字に出にくい移民県・熊本
熊本は総数でも、確かに移民数の多い県です。ワシは広島人なので、自県と沖縄は移民県と認知したけど、正直、熊本のことは数字を見て驚きました。
移民の出身地域(郡)においては、1885~94年のハワイ官約移民の段階では下益城・上益城・菊地の三郡に集中していたが、1900年代になると上記三郡に加えて天草郡からの移民が激増するようになり、外国に在留する郡別人数で第一位となっていた。これは天草から中国やロシア方面への出稼ぎを多数輩出していたからであった。
※後掲 坂口満宏「日本におけるブラジル国策移民事業の特質─熊本県と北海道を事例に─」史林(京都大学学術情報レポジトリ),2014
※※原典:児玉正昭「日本移民史研究序説」渓水社,1992 496・500p
特に凄まじいのは、八代郡の開拓地域を経たブラジルへの流出人口です。「1927年から36年の(略)10年間の累計で町村の人口の5%から10%あまりをブラジルに送り出していたことになる」[前掲坂口]。※ 国立国会図書館「近代デジタルライブラリ」海外興業取扱『伯喇西爾行移民名簿』各回より前掲坂口集計
もちろん、南米移民の実態が惨憺たるものだったことは周知の通りです。天草灘の向こうの八代で地獄を見た後、さらに太平洋の向こうで七転八倒した天草人は、多分大多数を占めるのでしょう。
ブラジル行きには、天草からも相当(例えば1933年:158人、熊本県計1362人の12%)を送り出しています。けれど、坂口さんの書くとおり、どうも八代郡とは傾向が異なる。
八代郡の転出背景は開拓事業の全般的失策があったらしいけれど、天草からは既に明治初期から近くは人吉地方、遠くは北海道への移民が始まっています。
※ 柳田利夫「明治初期における天草郡の名望家と地域─天草郡人の人吉移住を通じて─」三田史学会(慶應義塾大学学術情報レポジトリ),1998
天草移民は移民会社の事業として行われており、北海道浦河への移民は牛深の資本家冨川清一を社主とした誠求社が企画しています。この会社は、潜水海人が活躍した伊豆半島沖沈没船(ニール号)の引き揚げにも携わり、全国的・多角的な展開をする地域振興会社のようなものだったらしい。人吉移住も同系列の人脈で実施されてます。
どうも遣り口が、中国華僑のそれと似てる手応えはあります。ただ、「天草僑」のような人名を赤崎伝三郎以外には探し当てることはできませんでした。「近世中期以降、幕政下の制約のもとにあっても、天草の人々は様々な移動の経験を積み重ねてきて」[前掲柳田]いるという実証例は、中国出稼ぎ組に隠れた成功者がいるものなのか、ここは今後の課題に抱えておきたいと思います。
最先端漁業技術を有した天草海人
曰く──「海は不漁の時もある。備えとして少しは田畑を持っておかないと」と忠告を受けた漁師が、カッカと大笑。「西の海の潮水を嘗めてみろ。あの水が塩辛いうちは鰯が獲れるのだ!」と言い返した。
この伝説を残した漁師が、天草富岡の伝説の漁業者・鮫島十内(1852生-1904没)です。同町岡野屋旅館の裏に今も碑が立つ。
明治二十六年、アメリカ、シカゴの万国博覧会に出品した八田網模型(MODEL OF THE HATTA-NET)は優賞に選ばれ天草漁民の為に万丈の気を吐いたが、この栄光を讃える英文の大きな賞状が、今も苓北町漁協に保存されている。[前掲田中]
「八田網」は日本の漁業では既に固有名詞化してて、創始者の名前の方が埋もれつつあります。鮫島十内の碑の日本語部分全文を次に転記しておきます。
鮫島小七郎は嘉永五年富岡生れ。明治十七年十内を襲名。三十六年没す。享年五十二歳。天草漁業の偉大な先駆者なり。鰯網を苦心改良八田網を案出。世に十内網と称す。この漁具の模型は明治二十六年、シカゴ万国博にて金杯を受領、内外に注目さる。昭和四十三年秋、明治百年記念に当たり、西村農林大臣より大臣賞を受く。ここに、先達の偉業を讃え、昭和四十六年陽春佳日、岡田正枝この碑を建つ。
碑文 荒木七一
書 石橋青波
とにもかくにも明治の頃の天草漁業は、その水準において全国的に突出した存在だったらしい。これは、造船の分野でも顕著で、前掲のように長崎から請われた例もある。ただ特定の船大工の名が伝わっていたり、銘として残ってるわけではないようです。
勝海舟たちが幾度か乗った幕府御用船の建造に、牛深からも一団、造船技術が買われて長崎へ行っており・その労に対する恩賞も受けている。[再掲天草学研究会]
※後掲 天草学研究会「評伝天草五十人衆」弦書房,2016
肉体的な漁法という意味では「潜り」があったらしい。日本で普通「海女」は女性がやっていたけれど、天草では男性の潜水が行われたようです。これが古風なのか、何らかの発展形なのかはよく分かりません。
天草の漁業の中で忘れられないものに五和町二江の潜水漁がある。明治初年の統計によれば壮年の潜水業者五百三十名を数え、そのすぐれた技術を駆使して、対馬や壱岐、五島等の各地に出漁し、荒稼ぎしたものである。中でも島田金五郎という潜水の名人は、明治十九年十月、紀州沖で沈没した英国船ノルマントン号の引き揚げの際、特に招かれてこの難事業を見事なしとげ、妙技を絶賛されたという。[前掲田中]
紀州沖まで招集されたということは、明治半ば時点で牛深の潜水技術の高さが全国的に名を成していたことになります。
2 天草の資本形成
以上のように天草の人々は、明治以後、特に漁業においては光芒万丈の感があります。
ただし──現代の行政側はそのイメージ一色で天草海民史を語りたがる傾向があるようですけど──これをもって天草を、枕崎などと同様の「漁業王国」、つまり住民の大半が漁業を主業とするような状況と見るのは誤りのようなのです。
例えば、先に引用した大網元鮫島十内の決め台詞を言わしめた「田畑を買っておけ」というのは、誰の口から出たのでしょう。──天草では通常、十内のこの台詞を漁民の逞しさを表すものとして用いるらしいけれど、よく考えれば漁村でそんな問答は聞いたことがない。実はワシ自身、以下のチャンティーさんという人の論文を読むまで気付きませんでした。
この台詞の背後にあるのは、農業以外を生業とする生存形態への、絶対的な不信感です。
※ チャンティー・マイ・ホア「江戸時代~明治時代における天草漁民の生活―富岡 を中心として―」 周縁の文化交渉学シリーズ2 関西大学レポジトリ,2011
1755年には、漁師たちは海が静かで安全な港である[富岡(引用者追記)]村東部の海岸線に沿った一町目から五町目にかけて住んでいたと記録されている。漁師の家は村の373世帯のうち、90分の1でしかなかった。1950年には人口4.059人のうち246人が水産業を専業としていた。これは人口の6%以下である。これらの統計は水産業を専業とする人口と世帯が非常に少ないことを示している。これは著者が2010年7月の天草フィールドワークでみたものと完全に一致している。[前掲チャンティー]
チャンティーさんの漁村観がどういう標準像を持っているか分からないけれど、瀬戸内海を中心に他の日本の漁村を見てきたワシのイメージでも、天草の漁村はどうも
そして、それはそのまま、牛深「せどわ」の
当時もそして現在においても、漁村であるなしにかかわらず、全体の人口に占める漁業世帯が予想外に少ないことは実に驚くべきことである。「天草の歴史」によれば、水産業を専業とするものは人口の9%に過ぎなかった(本渡市ー1961)。農家と比較しても、この数字ははるかに小さい。例えば、漁業が盛んであった富岡町の1951年(昭和26)における農業人口と比べても、この数字はその3分の1でしかない(角川ー1987)。[前掲チャンティー]
「天草の歴史」本渡市教育委貝会,1961年
田中昭策「天草歴史談叢」私家版,1982年
「天草海人」が天草上下島の各浦を専有していた、というような時代は、少なくとも江戸期以降はあり得ない。恐らくそれ以前にもなかったでしょう。
天草海人の規模はその歴史を通じ、多分、天草人口の一割を越えないシェアです。
この数字を持って前章の牛深「せどわ」を振り返ってみます。
加世浦 711 366
船津 230 117
※ 熊本県天草市牛深町真浦 (43215037007) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット熊本県天草市牛深町加世浦 (43215037008) | 同
熊本県天草市牛深町船津 (43215037006) | 同
※※数値はいずれも2015年国勢調査ベース
牛深人口7千規模があまり変化しないと考えると──約15%。1割よりは多いけれど、牛深でもそんなものなのです。
なぜか?
まずチャンティーさんの説を引きます。
漁業世帯が少ない状況を説明するものとして、以下のようないくつかの仮説がある。
一つに、天草における漁民の大半は、漁師というよりは農民であったとするものである。天草における漁村の形成と発達は、幕府が地域住民に対して沖合漁業に従事する許可を与えた1645年(正保2)以降になってからようやく見られるようになることが明らかにされている。中村正夫によれば、当時の天草漁民は水夫役及び漁方運上を反対給付として自ら他村の地先まで拡げていた(中村一1961)。当初七ヵ浦として成立した定浦は、以後数次の変遥を経て最終的には二四ヵ浦に増加したのであるが、この定浦以外の村々は臨海村落であっても「魚不仕」村であり、「無海無株」の村として漁業に従事することができなかった。[前掲チャンティー]
漁民と農民の生活を併せ持つ半農半漁の人口が多く、この層を農民にカウントするから漁民が過小に見える、とするわけです。
けれど、その物証はない。幕府が、他地と同じく漁民を浦に縛りつけた場所が少ないから、という演繹です。つまりそれは、何もかも「合法」であれば、という前提に立っています。
牛深漁民が少数勢力であることが、なぜ矛盾を生むのか、もう一度整理しましょう。それは、天草の歴史上、海上勢力が行ってきたことの影響力が大き過ぎるからです。その影響力から逆算したシェアの大きさと、矛盾するからです。
そうすると、考えられることは2つしかありません。
①天草海人は、大多数の「天草陸人」と連携する少数派の別勢力だった。
②天草海人の多くは、江戸期初めに陸上がりして「天草陸人」たる姿を紛しつつ、なお漁に携わり、時には外航船からの荷も受けた。つまり何にでもなりすませる存在だった。
あるいは
②’うち少数は、家船上で水上生活を続けた
ということも考えられるけれど、天草に家船がいたという記録は見つからない。当面、②’の可能性は捨てて話を進めます。
幕府-少数派銀主-多数派農民
天草の多数派である陸上農民が、自ら海人と差別化した社会的位置を採ったなら、海上交易から生まれる利益は少数派の海人に集中したでしょう。
天草の地域支配は、実質的に「銀主」と呼ばれる庄屋層によって行われていました。江戸期の他地では、他所から移ってきた資本家がこの位置にあり、自然、出自が伝わっていることが多いけれど、天草銀主の出自はどうも定かでない。
島で徳者は大島さまよ
御領じゃ石本勝之丞様
富岡町では大阪屋
島子で池田屋、三木屋さん
西に廻れば牛深の助七様の家作りは
あじな大工の作りかけ
海の中までかけ出して
よるひる酒盛絶間なく
それでも身上は栄えます
[再掲:天草に伝わる俚謡]
彼ら銀主が「海の中までかけ出して」富を築いた層だとすれば、つまり天草海人に祖を持つと考えられます。
大小の資本を有する少数派・天草海人と、無資本に近くそのあてがない多数派・農民層。──天草天正合戦と天草の乱の2度のジェノサイドを敢行しないと肥後島嶼を掌握できなかった統治側の幕府は、この社会をどう支配しようとするか。
江戸幕府でなくとも、分断支配を構想するはずです。そのために天草は天領とされ、武家の代官でなく島民の銀主が支配層とされた。実際、江戸後期の一揆で攻撃されたのはこの銀主(のうち悪い奴ら)でした。
台湾での清朝統治と同じく、幕府は抜け荷や経済発展などは二の次で、まずは第三の大反乱が起きなければよかった。少数派の支配層と多数派の農民というファクターは、幕府には願ってもない組み合わせだったのではないでしょうか。
かつ銀主にとっても、それは同じでした。
幕府直轄統治を望んだ銀主層
明治維新直前の慶応3年(1867)正月に、天草郡の大庄屋・庄屋たちは代官所に対して嘆願を行っている。当時、天草郡は幕府領で日田郡代の支配下にあったが、近隣の大名家(島原藩)の預所支配(幕府領ながら大名へ支配を委託される)に切り替えられるのではないかという噂が流れ、大庄屋などの地域有力者たちはその回避(幕府領のままでありたい)を願った。
※ 荒武賢一郎「総論 天草諸島の歴史と現在─周縁プロジェクト『天草フィールドワーク』を終えて─」「周縁の文化交渉学シリーズ『天草諸島の歴史と現在』」関西大学学術レポジトリ,2012
※※出典:「当時、大矢野組大庄屋であった吉田家には、この嘆願に関わる文書が5点残っている。それを筆者の考察によって作成順に並べると、①吉田家文書44「乍恐御嘆願奉申上候書付」(卯〈慶応3年〉正月 作成者未詳)、②吉田家文書61-1「乍恐御嘆願奉申上候書付」(慶応3年正月 作成者未詳)、③吉田家文書61-4「乍恐御嘆願奉申上候書付」(75もほぼ同文、慶応3年正月 卯〈慶応3年〉天草郡大庄屋・庄屋→)、④吉田家文書18「乍恐御嘆願奉申上候書付」(慶応3年正月 天草郡大庄屋・庄屋→富岡御役所)となる。」
結果として全く見当違いの嘆願だったわけですけど──とにかく、銀主ら支配層は、天領でかつ大名に委任されていない※現行支配のままの状態にはっきりと肯定的でした。単なる保守主義とは思えない能動的行為です。
※ 前掲橋村(同注17:原典①本渡市教育委員会「天草の歴史」1962,138-146p ②苓北町史編纂委員会編「苓北町史」1984,443-456p・851-853p・1057-1072p)には、次のように江戸後期には預所支配に転じた旨の記載があるけれど、この事にも関わらず銀主の実質的支配が続いた理由はよく分からない。
寛永18(1641)年秋から正徳4(1714)年6月まで天草郡の天草代官による専任統治が行われるが、以後、日田郡代(役所)、島原藩(享保5(1720)年6月~明和15(1768)年3月。天明3(1783)年9月~文化9(1812)年)の預所となる。以降は長崎代官と日田郡代の交互支配となっている。
継続した一元的統治が行われず、実質は銀主支配が継続した、ということだろうか。
なお、石本家や萬家が取り沙汰され、石本家などは三井・住友と並ぶと評されることが多いけれど、史料的に残ったものが多いためとも思えます。石本家は政変で潰れたから、また萬家は明治の政治活動で目立ったから史料が多いけれど、先の民間俚謡からは並び立つ銀主は幾つもあったことになる。この農民側の評がどれほど正しいかは疑わしいけれど、他の銀主も石本家並の財力をもって繁栄していた可能性もあります。
3 天草=倭寇拠点仮説 の淡い輪郭
天草に海上民が群れていた、という情報は、決して多くはありません。次のものは再掲です。
入寇者薩摩肥後長門三州之人居多 [鄭若曽「籌海図編」1562(嘉靖41)年]
──(大陸へ)海賊として来る者は薩摩・肥後・長門の三地域に居する者が多い。
1570年「(高瀬に向かう)この十四里(の海上)では、絶えず海賊が徘徊しているので、右の各舟には多数の鉄硲を携え十分に武装した口之津の人々が乗っていた。1574年「口之津を出発して、島原へ向かった。(略)彼らのうちの幾人かが武装して肥後の国の高瀬まで供をしてくれた。海では海賊船が出没するからである。」
[イエズス会日本報告集]
※ 再掲:中山圭「天草における中世の交流―天草の遺跡出土貿易陶磁から―」『周縁の文化交渉学シリーズ4 磁器流通と西海地域』2011
いずれにも「天草」の字はありません。天草が浮上してくるのは、次のような推論からのみです。
環有明海一帯で、比較的自由に船を隠しうるという条件に天草諸島は十分適合している。(略)八代海あるいは有明海一円の歴史的背景から検討すると、天草では私貿易あるいは海賊行為両面とも盛んであったと思われ、貿易陶磁比率の高さや希少種の出土はこのような天草を取り巻く環境に裏づけされたものと見ることができよう。[前掲中山]
加えて言えば──表交易のメインルートからある程度離れ、この位に「丁度好いマイナーさ」の場所なら、裏交易は可能だったろう、という事まではまずは同意頂けると思います。
牛深海人は異国船と接触できたか?
では、天草の漁民が遠見番の目の届かない場所で交易を行うなら、どういう形があり得たでしょうか?
港近くではなく、外海で接触していたとしか思えません。
天草の住民が外海へ出るのは、けれど実は当然ではありませんでした。当時の天草で遠海に出て漁をする集落は、富岡と牛深しかなかったのです。
元来、牛深の鰹釣りは、旧幕の頃から盛んに行われており、遠く平戸五島方面にまで出漁していた。もちろん、専ら帆と櫓に頼る小舟で、天草洋を股にかけての仕事であり、しかも、荒天の日が漁獲がよいというのであるから、危険極まりなかった。久玉町正光寺の過去帳に散見するところでも、文政四年八月十四日、八之助外十七人大風、五島にて溺死、天保七年七月十一日、長吉外十七人五島にて溺死などの記事があり、また、船津や宮崎の墓地には、遭難者の名を列記した供養塔が、いくつも残されている。[前掲田中]
上記は天草各浦の漁場を地図に落としたものです。
※ 出典:後掲 橋村修「水主浦漁場の階層性とその形成過程一近世期肥後国天草郡において一」歴史地理学,2001
『熊本県漁業誌』には、船について「堅牢風波二堪ユヘキモノト信スルハ天草郡富岡町ノ八田網船牛深村ノ鰹釣船及二江村ノ潜漁船ノ三種二過キサルモノノ如シ」54)とある。富岡と牛深は沖漁業の八田網と鰹船が中心であったことが示されている。これらの漁法には、ある一定の海面が必要である 55)。(略)富岡は、野母崎ヘ、牛深は甑島や薩摩方面へ出漁していたことが近世史料からも確認されている 56)。[前掲橋村]
※ 同元史料 54)熊本県農商課『熊本県漁業誌』第一編,1890 25~30頁
55)秋道智禰『なわばりの文化史』小学館,1995 137頁
56)「野母村水産史料」(野母崎町編『野母崎町郷土誌』,1986)39~80頁。鹿児島県編『鹿児島県史』第二巻,鹿児島県,1940年,471~474頁
どことのどういう取り決めだったのかまでははっきりしないけれど、牛深海人には五島・甑島方面の広域の漁場での操業が認められています。先に触れた江戸期天草が意外に非漁業の社会だったことも考え合わせるなら、「鰹漁のために」遠出した牛深海人が「偶然」外航船と遭遇する形しか想定できそうにないのです。
明治七年マデハ其慣行ヲ襲ヒ漁場区域トスルハ東宮野河内村八幡瀬二到ル五里西北ハ魚貫崎二到Iレ凡三里南ハ鹿児島県薩摩国甑島同阿久根川内地方ト入會稼ニシテ廣調ノ区画ナリシニ[前掲橋村,熊本県水産史,明治16年 牛深の項]
他に可能性が残るのは、富岡の遠海漁です。同熊本県水産史の富岡の項には「長崎県肥前沖高来郡近海迄大凡五里余入會稼」と同様の遠海入会漁の記述がある。「通詩島」の存在からも皆無とは言えないと思うけれど、(前章の繰り返しですが)ここはあまりに長崎、つまりメインルートに近い。目立ち過ぎる気がします。長崎入港船と「偶然」遭遇して小口の取引をしていた位ではないでしょうか。
※ 同橋村引用の熊本県水産誌中、甑島方面への出漁慣例として唯一、砥岐組大道の項に「鹿児島縣甑島沖ニテ漁ス」と記述がある。ただ、ここでは「入會」の語が使われておらず、大道が甑島側と地域間協定を提携していないことを匂わせる。これは、同橋村が注57に次のように書く他村の使用料支払による参入容認を指すのかもしれない。
牛深では、万治2年以降、毎年の漁業運上銀を崎津浦、大江浦とともに、他国漁民にも支払わせていたように、支配としての漁場の範域を維持しながら、漁業権のない村の利用を許容した海面支配を進めていた。
※万治2年=1959年
(原典 天草古文書会編「天草郡村々明細帳」『大江村明細帳』『崎津村明細帳』中巻,1990,365p 下巻,1993,410p)
牛深「せどわ」の人口が継続する寄進者がほぼ無い程度に流動していたことは既に推論しました。天草海人は牛深を中心地の一つとしつつも、実質的には職にも家屋にも拘束されない非定住の集団だった──という程度の押さえで、彼らの空間的活動形態の把握は十分だと考えます。
「天草産の俵物」
本渡の資料館で先に触れた展示の紹介は、「天草も俵物を産出してたのか!」と胸を突かれて転記したものです。
唐貿易の花形・俵物
唐貿易の花形・俵物/
天草産の俵物は品質の点でも中国料理に最高との評判が高く、第一級品として高値で取引されました。
前述のとおりこの「水産小学」図は、純粋な一次史料ではなく、将来の漁業学科のため啓発・試行のために作成された教科書です※。
※ 国立国会図書館蔵書では明治15年、銀森閣出版。責任者は明治期の水産官僚・河原田盛美。
当時の俵物の生産地シェアのデータを探してみると、松浦さんが整理されてました。品は、水産小学の画に書かれるところでは「煎海鼠」のはずです。
※ 松浦章「江戸時代に長崎から中国へ輸出された乾物海産物」
「華蠻交易明細記」『長崎県史 資料編第四』389p
※※時点について、松浦さんは18C半ばから19C初めと推定。
天草が生産地としてリストはされてはいますけど……何か見方がおかしいのかと思ったほど、シェアは小さい。──一応、下に別の俵物、現在も天草名産である(干)鮑のデータも確認しましたけど、これもそう大きくはない。
そもそもの「中国料理に最高との評判が高」かったという点も、展示の水産小学原典を含む史料上、探せませんでした。でもそういう評価が中国側にある、又は天草側が自認していたとすれば……史料未確認のままながら、次の可能性があるように思えます。
① (薩摩?)北前船が長崎が受入れない北辺の俵物を天草に降ろしていた。
② 天草での生産量がゼロではないために、半ば以上の北辺産俵物が「天草産」の名で中国へ売られた(≒天草産としてロンダリングされた)。
③ そもそも北前船輸送の俵物が中国に直売されていた(天草は全く関わりない)けれど、万一の発覚時を恐れ、近場の生産地「天草」名を冠するのが慣習化した。
西九州の海人の総本山としての天草
画いた補助線の概略をまとめてみます。
A 薩摩-高瀬間に海賊が出没していた。
B 牛深漁民は五島・甑島に出漁した。同方面への出漁は、天草の他港では稀だった。
C 北前船経由の俵物が天草産とされた可能性がある。
イメージを明確にするために、B出漁方面を中心に位置を南北を逆転させた地図に落とすとこうなります。
ここでA「薩摩-高瀬間の海賊」の観点を交えます。
Bの領域で活動する海民が、倭寇の被害者側:中国・朝鮮から見るとどう見えるか?とういことです。さらにもう一歩、視点を引いてみます。
倭寇は、甑島、薩摩や五島から来る、と概ねの「方面」としか把握できないでしょう。
その後背地があることを想像し得たとしても、肥後と長門(前掲鄭若曽「籌海図編」)という位の漠然とした捉えをするのが精一杯だったでしょう。
また、西南九州の陸上政治勢力の統合度が低かったことも挙げられるでしょう。何とか松浦氏や宇久氏(江戸期の五島氏)、島津氏のもとにまとまりかけていた平戸・五島・薩摩と異なり、戦国末期でも五人衆が乱立割拠していた天草は、陸人による陸上国家の歴史意識を基本とする漢人からは「何と呼べばいいか分からない」土地だったと想像されます。
漢人及び朝鮮人の視野に映る天草は(おそらくは瀬戸内同様に)、倭寇の来る方角の可視域外にある不気味な「背景色」でした。原理的に陸人記述の史料にはこれ以上跡を残さないであろう暗景。
C「天草産偽装」は、実産地を秘したい海産物を一度、又は仮想的にこの背景色に潜らせる、いわゆるロンダリングだったと想像できます。
もう一手、アプローチを民俗学に転じて、以下取り組んでみます。
4 宮本常一の「天草海人」論描写を辿る
以下は、宮本常一の「海に生きる人々」中の第21「家船の商船化」に書かれる記述で、単純に読むとまさに題名通りに読めてしまいます。
※ 宮本常一「海に生きる人々」河出書房新社,2015
けれどもこれを、以上見てきたような事象を念頭に読むと、天草海人そのものの歴史に読めてきます。
[ワード①イサバ]家船の進化形:大分県臼杵市諏訪津留
少し天草から離れ、ぐるりと九州を回った瀬戸内側、津留から宮本さんの話は始まります。
大分県北海部郡の臼杵湾にのぞんで津留という部落がある。周囲の農村の人びとからはシャアとよばれて、やや軽蔑されて来たが、津留の人は平家の子孫であると自称していた。しかしそこにのこる由来書を見ると、広島県豊田郡の能地から来たものらしい。船を家にして洵上を漂泊し、テグリ網漁をおこなって来たのであるが、いつの頃からかこの地に定住したもののようであった。(略)その海で得た魚を女たちは桶に人れ頭にのせて付近の村々を売りあるいたものであった。津留の部落は仮住居から発達したものであるからその家は粗末でひしめきあっていた。[前掲宮本]
以前、能地(現・三原市幸崎町)の枝村の圏域で最も西のものとして取り上げた「都留」がこれに当たります。
m19Pm第三十五波m鬼城忌や空新しく貼られけりm忠海二窓&幸崎能地(上)能地・二窓移住居留地図(原典)
牛深「せどわ」も、同様の成立経緯をたどった可能性があります。家船で来た海上生活者が仮住居を造った。ただし、津留の集落配置を見ると、瀬戸内型の横道のある構造で、やはり西九州とは別系統の、能地から来た人々が造ったものと思わせます。
けれどもここに「いさば」という生活文化が存在しているのを、宮本さんは記録・指摘しています。
この部落の人たちで明治の終り頃小さい運搬船を持った者があった。イサバと言った。イサバというのはもともと魚の塩物や干物のことであり、またそれを商う店をもイサバと言っている。そこでとって来た魚を乾したり塩物にして売りある<船をもイサバと言ったのであろう。[前掲宮本]
後に触れるように、イサバの歴史の方はどうも天草の方が古い。内容と名称の一致する以上、明治までに九州の東海岸まで伝播していたものと想像されます。
津留のイサバは運搬の用から発展し、能地ほか瀬戸内海各地で模倣されるようになったと想像できます。例えば広島の牡蠣船も、この延長にあるのではないでしょうか。
津留の運搬船が成功したのは夫婦共稼ぎで船の中に一家の者が寝泊リして、別に船員をやとうことがなかったためである。経費が節約できる上に無理な航海をすることが少ないので海難にあうことも少なかった。こうして漁船から運搬船へと発展して来るが、家船の形態を保持していることには変りがない。[前掲宮本]
長く引用したのは、日本の商業活動拡大に伴い家船→イサバという進化がみられた、という動態の確認のためです。イサバは家船なのです。
津留漁民を通じて、イサバは瀬戸内海に普及するに至りました。ではその源流、西九州ではどうだったか?
──と、論理的に点と線を結ぶ工程を採ると像が薄っぺらくなります。先に、宮本さんがこの前段で紹介している、瀬戸内海での船の商業・物流運用の開始について、膨らませておきます。
[ワード②商船乗]海人生業の可変性:塩飽諸島・小豆島
塩飽島の海人たちは其後次第に商船乗に転じていく。この傾向は室町時代に入って強くなったようである。(略)讃岐と京都を往来すること多く、両者の間には貨物の輸送、人の往来がきわめて頻繁であった。その往来のことを司ったのが小豆島、塩飽島の海人たちであった。半ばは海賊をはたらき、半ばは年貢輸送などもおこない、時には商売にもしたがっているというのがその姿であった。[前掲宮本 一五 海人の陸上りと商船の発生]
江戸期に瀬戸内トップレベルの船大工技術を誇った塩飽海人は、室町期には海賊兼物流兼商業を生業としていた。上記にない記述ですけど、元の漁民時代の後、白村江戦までの水軍徴用時の水主官村の歴史が疑われています。
海人の歴史は単線ではありません。時代と環境によって如何様にでも姿を変え、時には信州安曇族のように海人たることを止めさえしました。
陸人ほどには、既存の生活形態に未練がない。海人が貧しくて「変わらざるをえない」からではなく(明らかに海人は何をしてでも生き長らえたから)、現生活への固執がない。
以下は、文面には地理情報の記述がないけれど、古代の海人集住地と目される東瀬戸内海の小豆島、播磨、淡路のことのようです。[前掲宮本 八 船住い など]
主として海によってのみ生きていたものは、陸地に耕地をもつものも少なくなかったし、したがって地名が生れなかったかもわからない。
そこで海人の中には採取経済時代から海岸に住んでいて、だんだん海へ依存する比重の強くなっていった者と、いま一つ農耕民とは別に、海上を漂泊して移動している者との二通りがあったのではないかと思われる。
しかし移動漂泊する者もその頃は船が小さかったから船を家とすることは少なく、適当な漁場を見つけると、その近くの海岸に小屋がけして魚介をとったものであろう。[前掲宮本 四 安曇連]
「地名が生れなかった」居住地。これは、まさに牛深「せどわ」の状況に整合します。
海人の感性にとって、地名が実質的にないこと、さらに宗教施設がないことは、それほど致命的なマターではないのかもしれません。陸上居住地への愛着がないのは海上への郷愁の裏返し、陸に祠を置かぬのは海がまさに神だから。
「へっちん町」が牛深の本質?
そう考えるなら、前章で触れた牛深「せどわ」の部分名称「へっちん町」が案外本質的かもしれない……と思われてきます。
生口島瀬戸田のような例も見られる。生口島は江戸時代の中頃から盛んに棉をつくるようになる。しかし土がやせているので多くの肥料を必要とした。ところが沖でテグリ網をひいている能地の家船たちは糞尿をすべて海にたれ流している。もったいないことだと考えて農民たちは海岸に小屋をたて、そこへ定住させるようにした。瀬戸田の福田浦はこうして発達して来るのである。[前掲宮本 二六 零細漁民の世界]
このケースでの海人の陸上がりは、肥料を頂くために農民が求めたものだった。以下、へっちん町由来説を再掲しますけど、要するに海人にとって陸上住居はその程度の副業を兼ねた「仮住まい」だったのではないでしょうか?
・一番加世浦公園側の筋 「へっちん町」
へっちんとはトイレ・かわや・便所のこと。雪隠(せっちん)が訛ったものとのこと。
以前は農作物の肥料用に野菜を売りに来られた農家の方が帰りに船で汲み取りしたものを運んでいたそうで、特にこの通りはその汲み取り口が筋に集まっていたためそういう名前がついたということです。[前掲牛深八景]
※ m17f3m第十七波濤声mm熊本唐人通→牛深(転)withCOVID/熊本県
012-3唐人通→牛深\天草\熊本県 /へっちん町
※※※ 連載:はじめての「牛深八景」:牛深のが特別じゃない!?・・・牛深第二景
[ワード③バイセン]半漁半商から半交易半物流への流れ
イサバに話を戻すと、それだから海人が商業や物流を生業とすること自体は古くからあることなのです。天草で起こったこととして特筆すべきは、それに時代と技術が追い付いて、生業形態として完成してしまったという点らしい。
宮本さんは、天草・二江と八代側の2地点の描写を記しています。
熊本県天草郡の二江などもその一つである。二江も潜水海人の漁村であった。ここは有明海の入口で島原半島と向いあっている浦で、今日では天草で唯一の潜水海人部落である。ここにも古くからイサバがあった。とれた魚やアワビを方々へ売りあるいていたものであっただろうが、その船がいつか、筑後大川の酒を積んで行商するようになった。[前掲宮本]
潜水海人と海産物行商と物流。関連はしているけれど、業種としては極めて手広い。イサバの運用は行商・物流兼用という形です。
これが八代側ではまた異なる。イサバ運用は網漁・物流兼用です。
おなじ天草のうちでも八代海に面したところには潜水海人はいなかったようだが、網漁や釣漁をいとなむ海人は多かった。とくにテグリ系の漕ぎ網が多かった。(略)これが明治になると漁船を大型化して打瀬船になる。(略)天草打瀬の名は西日本の漁民の間にはつよく印象づけられたものであるが、テグリ網船が打瀬に大型化しなかった頃から、この地方の漁船は冬分はテグリ網をひき、漁閑期には薪など積んで八代や三角・熊本へ運んでいた。漁船であるとともに商船であったわけで、八代や熊本からかえるときは島の者にたのまれていろいろの生活品を買って来ることもあった。中には生活用具を積んで浦々を売りある<船もあった。こうした商船もイサバとよばれ半漁半商の生活が長くつづけられていた。これらの船も一家族の者が乗っているのが特色で、天草ではそうした船を亭主船とも言った。[前掲宮本]
これが、漁業の要素をさらに薄め、交易と物流に特化するものも出る。これは江戸末期以降の動力の革新によって可能となったものです。
イサバの大きくなったものがバイセンである。売船とでも書くか。バイセンになるともう漁業に使用することはなく、商業専門になる。イサバがバイセンにかわったものは多かったが亭主船であることにはかわりはない。それが明治中葉から炭坑がたくさん開かれて、たくさん坑木を必要とするようになると、その坑木の運搬にイサバやバイセンが利用せられることになる。そして運搬専業に転じたものはきわめて多い。いま有明海沿岸を航行する機帆船の運搬船のほとんどは家族乗組で与一浦や御所浦島などの古い海人部落の出身者が大半をしめている。
西日本で小型の商船をイサバとよんでいるところは、もうほとんどが水産物の運搬を行っていたとみてよいのである。[前掲宮本]
ただ、このバイセン段階に至ってもなお、水上を家族で主たる住居とする「家船」の性格を失ってはいなかったと宮本さんは見ています。
バイセンの中にも家族で乗っているものを少なからず見かけるのはイサバの大きくなったものであると考える。但し、このようなことについては私自身もなお十分につきとめていないので今後の調査に待たなければならない。
なおまたイサバの中には男のみ乗るものもないではなかった。水産物運搬を兼ねて商船化したものであるが、そういう船はもともと魚問屋の持っていたもので、家船からイサバになったものではなかった。[前掲宮本]
網漁船の交易・物流への転用
それでは、漁業のツールとしての船が、交易・物流に転用できる可能性を、いかにして持つに至ったのか。
かつ、なぜそれが主たる活動圏を西九州に移行したのか。
この点を、宮本さんは、天草では八代側に残った網漁船からの発展と見ています。──何と大坂湾からの進出に端を発するとしています。
たとえば和泉佐野は古くからの漁浦であるが、ここの漁船は十五世紀の中頃にはもう盛んに九州西辺の海に出漁していたようである。
しかしそれは単に漁業をいとなむのみが目的ではなく、そこから海をこえればシナ大陸があるのであって、ここまで来て大陸への進出をねらったものであろう。[前掲宮本]
なぜ網漁船にそれが可能だったか。網を載せるために、大型かつ船足の速い船が、大阪の恵まれた海底地形から工夫せられたからだと言います。
それには彼らの乗る漁船が大型でなければならぬ。漁船の中で大型のものは網船であった。網を積みこむためには胴もひろく、また船脚も早くなければならぬ。網で魚をとることは釣によるよりははるかに能率的であるが、海底がなるべく岩礁でないことが必要である。と同時に網をひきあげるために多くの人力も必要になる。
大阪湾沿岸はそうした漁業に適していた。そこには砂浜が長くつづいていたし、魚の来遊も多く、また海人の部落も多かった。だから十世紀の初め頃にはこの海岸には網引御厨が成立していたのである。この御厨は後に近義(こぎ)とよばれたところで近義供御人として朝廷に魚菜を奉っている。 [前掲宮本]
この大型網漁船は、大阪で交易・物流船への転用が成されるようになったらしい。これが、西九州での間大陸航海のニーズから、はるばる天草や、おそらく五島までも技術移転されていった、というのです。
魚の廻遊には周期があって一年中同一の魚がやって来るものではない。また冬になれば海があれて漁携もできなくなる。(略)そうした漁閑期を利用して、漁船を商船にきりかえて行商をおこなうこともあったようである。
天正の頃(一五七三-九二)の記録であるからずっと新しくなるけれども、淡路岩屋の岩屋船の記録によると、六反帆ほどの船が淡路、播磨、阿波などの間を往来して商売をいとなんでいたが、この船はもともと網船で、日ごろは岩屋浦で網引きをしており、漁閑期になると商船として本土と四国の間をつなぐ行商にしたがっていたという。これは漁船が大型であったが故に可能になったのである。佐野の船が九州西辺へ出漁していったのも同様な事情によるものであろう。
しかも瀬戸内海の海賊船について見ると西と東では東の方が形が大きいことがいろいろの資料でうかがわれる。漁船が網漁を主体にすることによって大型化し、大型化したことによって商船化していったためであろう。こうして日本の一般商船は漁船の中から徐々に発達していったものと見られる。 [前掲宮本]
こうして、漁船-家船-商船(交易・物流船)の転用可能性を海人は持つに至ります。
時代と政治・経済環境に応じ、海人は家船を漁業・交易・物流に柔軟に転用するようになる。あまりに柔軟過ぎて、特定の時代や場所、職業の視点からは史料に残りにくいほどに。
宮本さんの言う「半漁半商」は、「商」の中に現代的には交易・物流、さらに海賊・密輸など多様な意味を含んではいるけれど、そうした変態可能性を指しています。
そして、その総合力が最も発揮できた時空の一つが江戸期の西九州海域だったと考えられるのです。
※「晩寄り 土堂海岸」1961(昭和36)年5月宮本常一撮影(周防大島文化交流センター・宮本常一記念館蔵) 尾道商工会議所記念館「宮本常一とあるく・みる・きく」展示解説
[ワード④沖ウロ]半漁半商の生業
多用途転用可能な家船を有する海人は、そのツール以上に、生業の可能性を多様化させていたわけです。それを最も如実に具現化しているのが、宮本さんの紹介する「沖ウロ」です。
瀬戸内海地方では家船の仲間は帆船の寄港地へ魚を売りにいったり、魚以外の食料品や日用品など持って売りにいくようになる。港につけている船へ小船を漕ぎよせて商売するもので、このような船を沖ウロと言った。沖ウロはたいてい船着場の近くの漁民がおこなっていたが、中には海峡などにまちうけていて通りすぎる帆船に小船をこぎよせて日用品や食料品を売るものも少なくなかった。来島海峡の来島はこの沖ウロの重要な根拠地の一つであったが、そのほかでも大下、小大下、興居島、大崎下島、睦月島なども沖ウロの多かったところである。[前掲宮本]
この場所の列挙から、別の血なまぐさい存在を連想された方も多いと思います。
船をはしらせていると、瀬戸の流のややゆるやかな所に浮んでいる小船が急に漕ぎ寄せて来て、走っている船の胴へぴたりとつける。そして船の必要とするものはないかと聞く。必要なものを言えばそれを籠に入れ、竿のさきにつけて差しあげる。運搬船のものは籠の中の品物をとり、かわりに代価を人れる。金をうけとると小船は運搬船からはなれて、また待機すべき場所へ漕ぎもどっていく。[前掲宮本]
アジアの道路で少し渋滞があると、車の間をすり抜けるように走り回る者が出てきます。小腹に入れる飲食売りだったり、大抵訳の分からぬ物売りだったりします。
あるいは、一昔前までの富山薬売に代表される行商なども連想されます。家族の構成や病状に合わせ、適宜の常備薬を補充していく。
このような風景は昭和の初めまで芸予叢島の各瀬戸に見られたものでそれは江戸時代以来ずっとつづいて来た習俗であった。そしてそれらの船は男女がいっしょに乗っているのが特色であった。中世における海賊はこれらの船が物を売るのでなく、逆に大きい船から物を奪ったのである。[前掲宮本]
おそらく、現在我々が聞く「〇〇に海賊がいた」というのはこの沖ウロが多数浮遊していた、という海域のことでしょう。それは、近世までの航路海域の常態だったのです。
そろそろ天草に話を戻します。瀬戸内海で言う沖ウロは、呼び名は違えども香港や福建にもいました。
天草海域にも同様にいたはずです。
彼らが半ば廻船の水主として、半ば小口交易者として、さらに肥料提供者としてと多彩な顔を持ちつつ仮住まいした場所が、牛深「せどわ」でした。おそらく崎津「とうや」、通詩島「せどや」、その他の浦の伝わらない──地名のない仮集落は恒常化する方が珍しいと思えます──同様の場所も無数にあったでしょう。
天草海人が家船を物流に特化運用するなら、小口運搬船になる。ただ運搬物が禁制なら密輸になる。商業に特化運用すれば、行商船にもなった。ただそれが積込の荷やルートによっては、公法上の解釈では抜荷にもなった。同じく取引の強行度によっては、海賊と呼ばれることもあったのでしょう。
海人の行為がかくも多様に見えるのは、全て陸人の尺度からのことです。海人自身は、単に家船という資産を機に応じて運用しているだけです。
甑島ヒアリングで多数聞かれる牛深イサバ
牛深に家船はなかったのではないか?という点に戻りますけど、宮本さんの言うように漁船-家船-商船が海人の目からは一元的なものと見れば──前述のイサバが牛深にあった、という証言は幾つも見つかります。
牛深に、家船は主に商船「イサバ」として存在したのだと思います。
イサバという船は知らない。帆をつけた運搬船というのもしらない。運搬船は牛深から買い付け船(鮮魚船)が来ていたのを覚えている。戦前は朝鮮の船が寄港して、イワシと野菜を交換したりしていたこともあった。
※後掲 薩摩半島民俗文化博物館(以下同)/甑島調査日誌(上甑・小島) – 鹿児島の民俗 [聞き書き(2)]上甑島小島(おしま)集落 T.Yさん S6生まれ・70歳・男性 2001.9.7調査
「イサバ」という語ではなく、何か別の呼び名が西九州で存在したのか、それともこの海域の小舟がほとんどそれだったから名称が必要なかったのか、この呼称もそれほど多くは史料に登場しません。
昭和のはじめ、自分の小さいころ7、8間の小さなイサバという舟が桑之浦にも合った。2本帆の帆船。マルカワという屋号の船主がいた。薪を切り出して、下甑の鹿島へ運んでいた。向こうからは何もつんでこない。
※後掲 甑島調査日誌(上甑・桑之浦)-鹿児島の民俗 [聞き書き(5)]上甑島桑之浦(くわのうら)集落 S.K.さんT11.2.21生まれ女性・A.H.さんT10.8.18女性 2001.9.9調査
上の方の証言からは、甑島列島にも固有のイサバがいたことになります。
ハンズ・水がめ・陶器を積んで天草・本渡のほうからイサバという船が入っていた。帆が2本ぐらいある帆船。中国の船のような形だった。瀬上で荷揚げをして、品物を売りさばいていた。こちらから何か積み出すことをしていたかどうかは知らない。
※後掲 甑島調査日誌(上甑・瀬上) – 鹿児島の民俗 [聞き書き(3)]上甑島瀬上(せがみ)集落
R.Kさん 69歳・男性 2001.9.7調査
天草海人のイサバの写真がどうしても見つからないのですけど……この方の「中国の船のような形」というのはジャンク船のことでしょうか。
東瀬戸内で形成された大型汎用船が中国を視野に入れて西九州に出ていったのなら、それが東シナ海で標準化した可能性もあるわけで、もしかするとジャンクと同系列だったかもしれません。
船形の点は、次の方の証言にも出てきますが、専門知識がなく判定できません。
30歳の時、漁師を続けていくなら飼い付け漁だと思い立ち、1年間天草の牛深に行って修行をした。(略)
平良ではすべてサツマ型の船だった。こぎ舟ばかりで帆掛け舟はない。天草で見る鼻の丸いのもなかった。(略)
運搬用の船のことをイサバという。天草のほうからいろいろなものをつんで、各港を回り、品物を売りさばいていた。瀬戸物が多かったように思う。他には反物や、福岡の柳川や大川から家具なども持ってきた。港に入ると品物を荷揚げして販売する。特に来る日にちは決まっていなかった。春と秋に1回ずつぐらい。戦後が一番多く、昭和40年くらいまでは来ていた。
昔はエンジンと帆と両方ある機帆船だった。一番前に三角の帆があり、その後ろに帆が2本あったように思う。
(略)終戦当時は、天草から鮮魚船が平良にも来て、値段を即決で決めて魚を牛深や阿久根へ持っていった。
※後掲甑島調査日誌(中甑・平良) – 鹿児島の民俗 [聞き書き(1)]中甑島平良(たいら)集落 I.H.さん・76歳・男性 2001.9.6井上調査
上下の方の話には柳川の地名が出ます。天草のみでなく、西九州一円をイサバが網目のように結んでいた様子が伺えます。
下の方の自家のイサバの話からは、まさにイサバのバイセン化が西九州でも進行したことが分かります。津留への伝播もこの過程でなされたものでしょう。
柳川から肥前瓦・仏壇・家具を積んできた。大正頃までは茅葺や藁葺きの屋根だったのが、イサバで運んだ瓦で瓦葺に変わっていった。(略)自分の家もイサバをやっていて、船は金毘羅丸という一人乗り、3つ帆の帆船があった。後に小さな3トン~5トンくらいの船でやっていた。
※後掲 同意上/[聞き書き(3)]上甑島瀬上(せがみ)集落つづき
T.K.さん 84歳 2001.9.8調査

[類推画像]長崎港口戸町浦に停泊するイサバ船画像
※ 長崎大学附属図書館 幕末・明治期に本子写真超高精細画像 3813 高鉾島(20)撮影者:未詳 撮影地区:長崎港周辺 撮影年代:明治中期
ジョーダンアルバムの中に含まれる1枚で、A201TAKABOKO AT NAGASAKIの印字がある。中央に長崎港口の高鉾島を配した典型的な長崎写真。この写真では明治20年代後半頃における戸町浦の様子が詳しい。左下の集落の浜では造船中か修船中の中型イサバ船が丸太で陸に引き上げられている。

対岸の浜でも3艘の中型イサバ船が引き上げられているが、中には造船中の船も含まれているように思われる。入り江には多くの中型のイサバ船が繋留されている。この時期、戸町浦は石炭やその他の荷役船の基地であったことがわかる。ここは入り江が深いため風除けの場所として最適であった。そのような理由から、江戸時代にはこの長崎港口にあたる戸町と、対岸の西泊の入り江に長崎港警備の陣屋が置かれ、通称「1000人番所」と呼ばれた。中央左からの岬は女神、対岸の岬は神崎(その先端は神崎鼻)、後ろに重なっているのが神ノ島、高鉾島の背後は伊王島である。

[ワード⑤いさばや]日本式商業の原型
「いさば」は宮本さんも言うように、船だけを指すのではなく、魚の売り物自体から職業としての行商までを意味する言葉になっています。家船そのものではなく、家船の商業行為、こうなると「家企業」のようなまのになりますけど──
行商の魚屋。
いさばやさん、イワシ少しまげでけさいん
(魚屋さん、鰯を少し値引いてください)
※ 古語「いそば(五十集)」から。
※ goo辞書/いさばや(宮城の方言) 用例
そうした船企業体又は行商という商業形態が、しかしそれほど全国的に伝播されているのでしょうか?少し想像を絶するものがあります。まして西日本や東シナ海はともかく、東北地方まで行っていたとは気候・距離など様々な障害を考えると……とても考えにくい。
ただ、海人の本質が船というツールではなく生業の可変性にあると考えるなら──水主として薩摩密輸船に乗り東北に至った天草海人が、その地に降りて逞しく行商で身を立てたことも考えられなくはありません。
そもそも、日本的な商行為の原型が「いさば」又は全国用語で言う「いざばや」であった可能性もあるわけです。それは、世界史的に簿記会計の原型が多国間海上交易から始まった※のと同様です。海人の可変性、平たく言えば「持てる資本からどういう方法でもいいから利益を生んでやろう」という発想が、商業行為の原点だからでしょう。
それが大阪(湾)を源流とするかもしれない──などと迂闊に口走りましたら大阪人は小躍りしそうですけど。
※ 蕪湖:Phaze:揚子新村も征収地■レポ:南京からの底知れぬ中国固有会計への沈降記