目録
坂嶺 なる保食社は人を招かず
さて、まだ湾から5キロも離れてません。初日とは言えいい加減、スピード上げないとマズいでしょ。1339バス停・先内から東へ。
1345、坂嶺小学校の東から右折。
喜界「坂嶺」は「サンミ」とも読み〔角川日本地名大辞典/九州地方/鹿児島県/坂嶺〕、多分元の音はそれでしょう。意味については定説なし。
※※噯∶(通常は「おくび」「あいき」と読み、げっぷの意だが歴史用語として「あつかい」と読み)中世・近世の紛争解決のための仲裁・調停。別名 取扱、扱。つまり平たくは、中近世の民事判例。
「岩下正面」と看板。
何でしょう、この古道は──その「岩下」にかなり古くから詣でる者があったのでしょうか。
恐らく、構造的に隠してある場所です。──帰路によく考えてみると、これは少し大規模なだけで、
大きい。1351、保食神社(坂嶺)。
本殿のラインは横に長く、本殿右手に崖面があります。──と書くより、下航空写真を一見して頂きたい。▲の上が保食神社地点です。
沖縄、特に北山だと墓を造るような場所です。けれど埋葬の痕跡は見受けられません。ただ、本殿敷地に要する面積の4〜5倍も石段を造ってる。見方によっては、この斜面又は崖そのものが神域になってるが如き状況から考えて、何かがあったはずですけど……。
今登ってきた階段部を含む本殿正面の左右に巨岩があり、おそらく本来の参道はこの二岩の間を「鳥居」にしていたのでしょう。──これは斎場御嶽や前田高地の玉陵にも典型的な、「心して入るべし」という象徴の岩間です。
それぞれの岩の基部、沖縄と同じ箇所に祭壇のように見えなくもない場所がある。一枚目、向かって左岩(上)。
二枚目右岩(上)。こちらにはなぜか梯子がかけてある。──ということは上部に視認できない何かがある、のでしょう。
喜界島循環線を遮る尾根
保食本殿建物自体は、マッ黄色。
本殿左手の段の上面はさらに三段に分かれてる。何があったらこんな床面が残るのでしょう?
そしてこんな場所の中核を、なぜドス黄色で塗ってしまうのか?──多分、この黄色は敬う心の薄さを明示してます。拝みの対象は、建物ではない。日本神道を装った時代にそんな体をとっただけで。
1414、退去。
坂嶺郵便局。
行く手の地形を眺めると──東から迫ってきた尾根と道が交差する。そんなポイントが近付いて来ました。地図上では、伊砂(→GM.)付近の段差のことです。
右手に「長嶺」と行き先を示す看板。1434。
位置と方向からは、南への尾根越えはこの道に間違いない──けど?このマイナーな雰囲気は……どういう道なんだろう??
とにかく右折、南行開始。
魔女の木が「たるよ?」と訊けばトラクター
──酷い坂道でした。
S字に尾根越えをする車道。けど、登り切った先には碁盤目の平原が広がる。下からは、あるいは内地の地形に慣れた人間には想像がつかない地勢です。
謂わば、地形自体が階段状なのです。──それも薩摩のシラス台地のように、ズレ落ちて出来た段ではなく、元の構造に段差がある。
1450、鉄塔。平坦な畑地。風。かつむしろ──緩い下り?
魔女の木。1453。
言っとくけれど、別に目指してたわけじゃないけど、何か有名らしい。曰く「木に触れると心が落ち着く」「この周辺は雰囲気が違う」〔後掲カゴシマカジン〕。へえ〜、というとこですけど、確かに空気が違う一帯ではあります。
シュガーロードの藪中に保食神
次の東西ラインが、これも何か有名なシュガーロードだったらしい。
してみると、結果的に物凄く観光客をやってるようで自己嫌悪に陥るけれど──
探してるのは保食神社です。今日の行程での保食社から分かるのは、控え目に隠されてること。ましてこんな農業地帯では、もう位置から勘を働かせるしか方法がない。適度な野道を入っていくと……え?これ?あったよ?
位置情報はここ(→GM.)ですけど、こういうランドマークのないとこではむしろ迷いの元かもしれません。
供え物あり。
賽銭もある。
やはり墓型。やはり正面に凹み。前面にはコンクリートブロック。周囲に環状の石垣。
震洋を五十艘ほど入れた洞
背後は熊笹。ただし最低限の刈取り、その他の手入れはされている様子。
奇妙に人の気配があり、かつ、妙に神気の強い藪中。
右手の鉢植えから、ユリが一輪。後方に飛び出、あたかも日の光を求めるように、頼りなさ気にも強力な意志で伸びる。
藪を出て、1508さらに南へ。
1514。大きな車道に出た。これを下れば島東岸の早町。
通りがかりですけど一応寄ろう。1517、「特攻隊『震洋』格納庫跡」と矢印のある脇道に右折西行。──奄美大島の加計呂麻島に第18震洋隊の震洋格納庫跡は残ってるけれど、海に近い場所が多い。こんな高台に、というのがやや疑問を残します。
案内板のある震洋格納庫の、左手上方へ坂道を登ると──あった。観音堂。1525。※位置→GM.
観音の顔もモアイ像
本殿は全くもって新しい。ただ周囲が──
左手に献納碑。コンクリで上塗りされ見えないけれど、おそらく大正四年表記。像の相貌はモアイ的。
右右手後方のは、中央凹みからして保食神の祠にも類推できます。記名無し。供え物もないけれど、かなり古い。
右手前に、昭和49年建立と記された奉納碑。さらに手前にも同様の何かが建っていたようだけれど……根本から折れて壊れる。でもそれが、そのまま配置されてる。
本殿右すぐには、金炉のような八角柱。位置が中国的ですが、それ以外は材料がなく断定し難い。
更に右手に──広場。何もない空間。
この重要な位置にそんなはずは……と丹念にみても、本当に空き地しかない。ただ周囲の木々は荒れているから、誰かが特にこの空間たけを保持しているとしか考えられない。
破茶滅茶です。
どんな時空が、こんな場所を創ってしまったのでしょう?想像すらできません。
早町集落を見下ろしつつ下る。西行。1543。
目的地・勝連親方館へ。
■レポ:喜界島に湾と早町あり
早町については、外部からは断片的な情報しかヒットがありません。
でも流石に角川は、そのポイントを抽出します。
北は平家森,南は太平洋に面する。地名の「そうまち」は潮待ちを意味するという(喜界島の民俗)。早町港は瀬玉湊ともいった。〔角川日本地名大辞典/早町【そうまち】〕
ます、地名「瀬玉」との重複性又は共義性。
次に、「早町」という妙な用字は、「早町港」の用例からも分かるように「ソウマチ」が一語で、「早」という町名ではありません。かつ、この語は固有名詞と言うより「潮待ち」港の機能を指すと伝わる。
最後に、その発祥は後部の平家森に連なっている模様です。
1202年、平盗盛を主将とする平家の残党200余名が志戸桶の「沖名泊」に流れ着きました。上陸後は源氏の追っ手に備えて陣地を作り、現在の早町港の監視と海上の見張りをした場所が「平家森」と言われております。〔後掲喜界島ナビ/源平〕
北の平家森と南の早町は隣接してますけど、ここまでで見たように喜界島の場合、水平距離に加え上下の段差を考慮する必要があります。平家森は早町の段上に位置します。つまり、居住民が平家関係者かどうかはともかく、早町の港への着岸者に怯えていた、もしくはその攻撃に備えていた、と予想されます。
湾-早町並立行政時代
現在の喜界島の中心は明らかに湾に一極集中してますけど、昭和30年頃までは早町がこれに並び立つ状況だったらしい。長文になりますけど、一連の行政史として喜界町の沿革を掲げます。
早町の行政中心としての歴史は、明治期に喜界島の6間切が、どういう政治的経緯からか東西に二分、うち東の中心が早町に置かれたことに始まります。
藩政時代には代官所が置かれ、代官の下に六間切に分け大親役(後に与人役~横目に代る)をおいて島政がおこなわれました。明治2年、代官所を在番所に改め喜界島六間切は三間切になり、それぞれ戸長をおきましたが、明治19年、間切制度を廃し湾方、早町方の二村に改め戸長をおくことになりました。
明治41年、島しょ町村制の施行によって両町村が合併し喜界村が誕生。しかし大正8年に再び喜界村、早町村の二ヶ村に分村し、昭和16年には喜界村は町政を施行した。
昭和21年米軍覚書によって本土と行政分離されましたが、祖国復帰の悲願達成を叫びつづけました。そして遂に昭和28年12月25日完全祖国復帰が実現しました。同年施行された町村合併促進法に基づき、昭和31年9月10日両町村が合併、喜界町が誕生しました。〔後掲喜界町/沿革〕
何と、昭和28年の米軍からの返還時期にすら喜界島の行政区は二つ、日本に返還されたのは喜界村と早町村でした。つまり、約70年前まで早町は行政区・喜界の外にあったのです。
早町の戦争と占領
だから、本土決戦への準備作業も、喜界村とは別に早町において進められた、と考えるのは自然なことです。
震洋隊による米軍迎撃態勢は、早町において次のように進みました。
(略) 海軍設営隊(宮元郎隊)と共に大島中学3年生により構築され、24時閻2交代体制で短期閻のうちに完成させた。
完成直後の昭和20年2月11日、安藤末喜 大尉率いる第40震洋隊187人が配置された。安藤隊は塩道グスンガアー山中に拠を構えて出撃命令を待ったが、米軍上陸部隊が接近することはなく終戦を迎え、ついに1艇も出撃することはなかった。(略)〔案内板〕
震洋隊は早町第40隊とは別に、西岸の小野津にも第111隊が同規模で配置されてます。
第40震洋隊(喜界島早町基地)の隊員は192名(187名説あり)。終戦まで連合軍上陸部隊の艦艇が現れることが無かったため震洋の出撃は無かったが、空襲で隊員3名が戦死した。
なお喜界島の小野津港にも同年2月25日、第111震洋隊(隊員190名)が配置されていた(空襲で隊員5名が戦死)。こちらは格納壕は現存していないとのこと。
第40震洋隊の基地がある早町は、連合軍による沖縄攻略作戦「アイスバーグ作戦」の中で、喜界島計画の上陸地点だった(エイブル計画)!〔後掲はるさんの戦跡巡礼記〕
米軍が本当に喜界島を攻撃した場合、この二地点の水上特攻隊をどう機能させようとしてたかを想像すると、湾その他南部への上陸開始後に、早町・小野津から密かに出撃した震洋隊が米海上部隊を奇襲する、というところでしょうか。沖縄本島でも慶良間に陸軍・水上特攻「マルレ」※を配置したのと類似の「伏兵」的発想だったのでしょう。 ※映画「沖縄決戦」では「青蛙」と呼ばれる兵器
上記作戦上の要点は、両震洋隊の存在が秘匿されてることでしょうけど、前述の特攻機補充基地機能を含めてなぜか米軍は情報を把握していたと見られ、空襲期間106日間の米軍機飛来は延べ約720機。これによる死亡119人、負傷30人〔後掲読売新聞、出典∶喜界町誌〕。前掲「はるさん」が記すようにこれに震洋隊8人が含まれるわけですから、ある程度は軍事施設を狙った爆撃を行ってます。
戦後8年間の占領時代を含めた重い戦史の半ばは、早町において展開されてる訳です。
グスンガアーは城久 ガアーか?
ところで後掲ハイヌミカゼは、前掲案内板の「塩町グスンガアー」を「塩道にある嶺城久か城久山のことであろうか?」と類推してます。この「城久」とは、西方の城久遺跡の付近のことではなく、平家森から伊砂付近辺りを指す地名のようなのですけど──土地勘に乏しいワシには漠然としたままです。
また、瀬玉と早町では、前者の方が古い、又は広義であると解されるらしい。語義的に考えると、瀬玉という固有名詞の土地が「早町」=潮待ち港として用いられるようになった、ということかもしれません。
これについて日本歴史地名大系には、こんな記述かあります。
(略)集落はやや深い入江に臨み、湊津の機能をもつ
瀬玉 湊がある。ソゥマチの地名は潮待ちの意であるという。瀬玉湊早町ともいわれることから瀬玉が早町より広く、またはより古い地名であったと考えられる。北西の丘陵にある長嶺 に瀬玉と称する豪族がおり、その勢力下にあった一帯を瀬玉と称したと伝える。同じく北西にある平家 森は志戸桶 間切の七 城とともに瀬玉湊に入ってくる敵に備えた要地で、近くに平家一族の練式跡という地がある。〔日本歴史地名大系 「早町村」←コトバンク/早町村(読み)そうまちむら〕
上記で紹介される伝承は、「瀬玉」を古代豪族名とする類推です。かつその本拠と平家森が重複しており、この勢力は「七城」と呼ばれる山城群の防衛陣地を構築した。
だとしたら訳が分かりません。その時代の早町≒瀬玉は、そこまでして固守・防御するべき土地だったのでしょうか?
喜界島全体としても、より謎が深まります。それは現代に旅行しての雑感でもあるんですけど──どうにも喜界島は、どこが中心でとちらが正面なのか、見当が付かないのです。軍事的にも、どちらに向いた防衛線なのか、点の記述としては一見まとまってるように見えても全体として想像しにくいデータ。
次章で見るように勝連館の位置は、この早町の港を前提にしていたはずです。それはむしろ整合的なのですけど──何よりも、早町が表の港だった状況を基本にするなら、城久遺跡付近の勢力と港との政治的又は地理的な関係が、どうにもストーリー化し辛い。早町と城久(遺跡)との間には百之台の高地があるからです。
平家森北西の伊実久(いさねく)には、地に降りて湯あみしていて空中浮遊の道具・羽衣を地上男に奪われ已む無く結婚する「はごろも伝説」があります〔後掲喜界島ナビ/民話・伝説(天女の羽衣)〕。やや類型化されたストーリーながら、宜野湾の察度王の出生譚に類似します〔後掲宜野湾市〕。