喜界の島ゆより 金の島ちちょうち
[伝・喜界ノロ「田名のテルコ□」(神歌)伊平屋島]
※金雀花∶(季語∶初夏)五月から六月にかけ,葉腋に黄色い蝶の形の花を咲かせる。日本には江戸時代オランダから渡来。和名「エニシダ」は、属名Genistaのオランダ読みが「エニスタ」に転訛したとされています。
※「ちちょうち」∶意味不明の沖縄古語
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AM∶阿伝より北行 PM∶小野津へ北行 ジタバタと 貌を擦ってます。 |
支出1300/収入1350
▼13.0[244]
負債 50/
[前日累計]
利益 -/負債 302
五月五日(四祝)
0700(喜界町蒲原)旬菜きずな
ふくれかん250
目録
放置チャリへのバスは雨の中行く
バス停・喜界第一ホテルにて0819。島内巡回バス・南本線を待つ。
小雨。雨雲レーダーでは昼からヒドく降る。即ち、昨日自転車を放置した阿伝から湾への引き上げは、午前中の出来るだけ早くが吉。その後は空を見て考える──というプランとします。
既に……スマホの画面の水滴を拭ってる。カッパ代わりのフード付きウィンドブレーカー装着。自転車だけど一応……傘も持ってる。
実見する限りでは、東の雲は薄い。けれど西が濃い。あと雲の動きが速い。
喜界島離陸は明日1740。明日に回せる分は回せばよい。ならば今夕は……喜界島図書館の出番かな?
覚えたばかりの地名で「あでぃんまで」と言ってみたら、「え? 阿伝(あでん)?」と蛭子さんみたいなムッスリ顔の運ちゃんに聞き返されました。0819、定刻乗車。
うーむ。どこを走ってる?スナックストリート。集落内部を一度回ったらしい。
車内には両替機はありません。ちゃんと両替しときましょう。今、財布の小銭をかき集めてお支払いしました。
0824、空港。
今見えたのが湾の保食神社だったらしい。0826。結構大きな鳥居と段差がある。ただ一目で新しい。
この保食神社それぞれの個性の多彩さは何だろう。教義はもちろん様式的な統一感がまるでない。
0830。おおっ、初めて乗客が乗ってきたぞ?おばさん、なぜか傘を持たず。
荒木の集落は、疎らながらかなり面積がありそうです。
0833、右に展望台。左にゆったりとした墓地群。
手久津久は、朝戸神社より南が集落の中心。それほど大きくはないみたい。
0837、左手に学校。
上嘉鉄から北への道路は、切通しを抜ける。そんなには高度はなさそう。つまり、この山の向こうが畑地の広がる台地になってます。
「あの……」と胡屋さん、もとい運ちゃんが訊いてきました。0849。「阿伝、どこらへん降ろしたらいいの?」「うーん、バス停でいいですよ」
良かった、自転車は盗られずにありました。
それだけ確認してから、0852。まずはお借りしたトイレ(集落中央)の裏から、阿伝の家並みに入ってみます。
雨中、というのも手伝ってでしょうか──。
凄いぞ!何だこの、いわば抜き身の石垣は?現代の加工を経てないホンモノ感が凄いぞ!
地図のE字は刻々に薄れゆく
下のように、この土地では、植生、風雨など自然がこれを突き崩す力は強いはずです。
だから住む者による補修が常時なされてるはずなのに、なぜか継ぎ接ぎの痕跡が窺えない。これは、技術力ゆえなのでしょうか。
え?行き止まり?
道筋は、何と水路になって消えました。暗渠の道だったらしい。水路はコンクリで新しい。
──当時は「???」のまま迂回しました。でもこの状況は、考えてみると非常に属地的です。何を言ってるのかというと──次のほぼ同域の地図3枚をご覧ください。
上図GM.では「E」型の道が描かれます。けれど中図・地理院地図では、E字の西側しかありません。ではどちらかの地図が誤りかと言うと、下図・地理院地図航空写真でうっすらとE字が窺えますから、E字は朽ちて自然に呑まれようとしてるとされます。
水路は、E字の中道の元々の暗渠が、道が朽ちた後も奥の集落の用があるのでそれだけに現代的な補修を施したのでしょう。
つまり阿伝は、古石垣を奇跡的に今に伝え、かつその奇跡の相のまま、自然に還っていこうとしている集落です。人間界にひととき浮上した、という風でしょうか。
なお、後掲漆原・羽田(2003)の公園付近地図ではGM.以上に道はクッキリしてます。ここ二十年ほどの急激な変化かもしれません。
阿伝の道に迷ってるだけ五月雨
阿伝ふれあい公園トイレまで引き返す。
出来るだけチャラチャラしたWEBの観光マップを探し確認。「観光ルート」はこの西側の筋らしい。そちらから時計回りで行こう。0902。
え?これも行き止まり?0906。
ただ……まあ道に迷ってるだけのこの行程だけれど、石垣は、凄い。
「観光客ルート」はもう一つ西……なんでしょうか?雨天下、石垣見れるならどうでも……何となく自暴自棄にもなりつつ、路地を抜けてそれらしき道へ出る。
阿伝の雨 石垣と蔦 墓地と森
〇909、「観光通り」北T字から右折東行。
畑地の北にあるのは墓地か。右手の茂みが聖地っぽいけど……近寄れず。
この離れ方は──かつては集落背後すぐにあった墓地が、集落の縮小に伴い距離が開いた……と考えるには、間の畑地に家屋の痕跡がなさすぎます。元々離していた、と考える場合、墓地側に管理建物、寺などがないと便が悪いように思えます。不思議です。※巻末の推定からすると、戦災前の元の阿伝集落の可能性あり。
どうも……行き止まり道の石積みの方が本来的に見える。コンクリなど現代工法で補修してないのでしょう。
居住性は低いんだろうけど。
阿伝発つ雨中を走りゆくダウナー
雨はむしろ強まってますけど──濡れる身を無責任に抜けてしまえば、大変宜しい風情です。
朽ちかけて、さらに朽ちていこうとする気配の雨降る阿伝は、何というか、ダウナー系のドラッグのようでした。
天気予報的には先述のように、無体に時間を投じるわけにはいかない状況です。
海へ出る最後に見た下の湾曲。何気ないけれど、道、垣、緩い傾斜、湿る路面、酔うような美しさでした。
〇922。
さて走らねばならぬ。自転車に跨る。雨は止まないけれど、道は昨夜と今朝の二度既にバスで通った道です。
花良治 なる村のガジュマルの苫屋
地形は基本なだらか。でも自転車で通ると、それがある箇所でガクンと段になっている様が見えてきます。
テーバルパンダ(→GM.)というの展望台がこの時のルートの北にある。この地点を、喜界島サンゴ礁科学研究所という団体が重視し始めてるらしい。曰く──
単純化したこのストーリーを信じるならば、喜界島の東岸は崖というよりも階段だということになります。サンゴ礁が二万年毎に隆起を繰り返して出来た、とんでもなく若々しい地形。
〇938、小字名・花良治。集落はポツポツ。こういう家の絶えるゾーンがこの島には時折ある。台風の被害からか?
0945、小さな港。ガジュマルトンネルの家。
この、今となってはとこか特定できない地点に器用にハマってしまいまして──上下はここで撮った写真。
例えば瀬戸内海では、絶対にない土地利用だということが伝わるでしょうか?
■レポ:サンゴ石垣を透かして見よ阿伝
阿伝の石垣の原材料はサンゴ礁です。喜界島そのものが隆起サンゴ礁の塊ですから、それを珍重してというより身近な素材として使ったんでしょう。下記「ビンドゥン様」のように、この素材を拝する気分も島内になくはないけれど、これはサンゴというより海からの引き上げ石材を拝んでる、というだけの可能性もあるから──ここでは素材としてのサンゴの神性には、当面こだわらずに進めていきます。
阿伝もまた、音が先で漢字は後の地名。かつ音の由来は定説がない、喜界島の他地名同様の地名です。
ノロのおわした阿伝
「アデイン」ともいう。奄美諸島北端,喜界島南海岸に位置し,北に百之台・阿伝びらをひかえる。隆慶3年(永禄12年)正月5日付阿伝ノロ職補任状が残されており,それによれば,この時阿伝のノロには前ノロの妹エクカダルが補任されている(辞令書等古文書調査報告書)。〔角川日本地名大辞典/阿伝【あでん】〕
「阿伝びら」というのは、百之台へ登る坂の間道(「たかびら」)のことらしい(後掲)。テーバルパンダ(→前掲図)の階段を想像すると、段から段への縦通路を見つけさえすれば、崖を直登するよりは相当容易に高低差はクリアされてきたものらしい。
より興味深いのは後段の、1569(明・隆慶3=日・永禄12)年、つまり薩摩侵攻十年前の阿伝ノロ職補任状です(→原文)。前章(→■レポ:喜界島の琉球神道色はなぜ薄いか?)に見た通り、喜界島は琉球神道的に奄美大島の傘下に入ってます。ところが、阿伝には在地のノロがいたらしい。しかも補任状が出てるということは、首里王府に任命されてる。宗教的に喜界島を抑圧するのが目的なら、そんなブレた施策はあり得ません。ただ阿伝ノロが喜界島を統括した記録も、またない。早町サイド≒東海岸の宗教組織は、また違っていたのでしょうか?──分からない。
この件は、下記日本歴史地名大系により実証的に記事があります。「あてんのろ」(阿伝ノロ)の実在は疑いようがない。
2006年県指定・喜界島ノロ関係資料
これと関係するか否かは、定かではありません。2006(平成18)年に「大朝戸の新山林氏と蒲生の栗島イク氏の家に代々伝えられていた」ノロの祭具が県文化財に指定されてます。──両家の字の位置は各GM.リンクから確認していただけますけど、阿伝の西と北です。
うち、古鏡とギィファーを以下に紹介します。このような文化財が最近に登録されたことに鑑みると、喜界島でノロ文化が希薄だった、と単純に片付けるのはやや早計な感を覚えます。従来は秘されてきたか、あるいは意外なほと地域差がある、という可能性はあると思います。
寸 法:直径7.5/厚み0.35 小型の銅鏡
紋 様:外縁は平緑をなし、外周は複波紋帯で、その内側に鋸歯紋帯がある。内区はまず画紋帯があって、その内側に櫛歯紋帯がある。鈕との間にも画紋帯があるが、紋様まではよく分からない。
製作時代:中国の秦から前漢のきわめて古い鏡の様式を伝えるもので、全体の鮮明度が今ひとつという状況から見て、踏み返し鏡と判断でき、時代はくだっても唐代もしくは宋代が想定されている。
栗島家に何故伝わったのかは不明とされているが、羽衣伝説を伴う旧家でノロの家柄であることから奄美群島のグスク成立やノロ制度成立の時代にかかわり、入手したものではないかと考えられている。〔後掲広報きかい〕
紋様:竹質部には、両家とも紋様を施し、新山家のA1・A2は2本とも黒塗りで、丸と三角などの紋様を刳り貫いてある。
栗島家のB1・B2は、黒塗りが少し脱色し、また、はげた部分もあるが、重ね二つ丸の刳り貫きともうひとつ小さい刳り貫きが見られ、間にも朱色の草芽紋様を描いてあり、股部分には、波状線を朱で入れてある。〔後掲広報きかい〕
阿伝の「選択」
嘉鈍村との間にマチナアと称されるシマ(村)があったが、両所に移住して廃されたと伝える。
東 間切のうちで、アディンともいう。隆慶三年(一五六九)一月五日の琉球辞令書(伊波普猷全集)に「きゝやのひかまきりのあてん」とみえ、「あてんのろ」が「もとののろのおとゝゑくかたる」、つまり元のノロの妹の「ゑくが樽」に任じられている。元禄五年(一六九二)の喜界島帳留(列朝制度)に東間切与人の噯として「阿伝村」とみえる。享保一二年(一七二七)四月の畑方検地帳(奄美郷土研究会報)があり、八五筆を記す。〔日本歴史地名大系 「阿伝村」←コトバンク/阿伝村(読み)あでいんむら〕
上記の冒頭、マチナアの伝承はある意味凄まじい。WW2初期の独ソによるポーランド分割の如き無体ぶりです。嘉鈍と阿伝で分割占領したということですから、相当に激烈な闘争があり、結果的にそれが中間の村を消滅させたことになります。
さて、そろそろ石垣に話を移していかなければいけません。詳細が分からないけれどサンゴ礁科学研究所によると、喜界島の石垣は「戦争で失なわれた」という。これは、沖縄本島のような「鉄の暴風」によって、ということではなく、戦後の混乱又は米軍政下の施策によって──ということでしょうか?
阿伝の石垣に関し、何が何故失われ、如何にして、何故復旧できたのか、明確に書かれたものが見つかりません。
喜界島のサンゴの石垣は、戦争で一度は失なわれたものの、戦後に積み直されたものが多くあります。昭和50年代には、集落内の道路を拡張する工事が進められました。その際に、幅のあるサンゴ石を積み上げる石垣に代わり、ブロックやコンクリート造りの壁が増えていきます。
強風や潮風から家屋を守ってきた大切な石垣です。阿伝集落はサンゴの石垣を残す選択をしました。〔後掲喜界島サンゴ礁科学研究所〕
研究所の記述は何か後ろに含むものがあるように感じますけど──阿伝の「サンゴの石垣を残す選択」が具体的に何を指すのかは、分からないし、秘されているのなら暴く気もありません。ただ少なくとも、「戦後失わ」れるか石垣を残すかどうかは、集落の主体的選択だった、と研究所は書いています。
阿伝は燃えたか?
喜界町誌によると、WW2での島の被害は死者119人、負傷30人、焼失1910戸(全3931戸中)。どうも他と係数の傾向が違うけれど、これが公式数値になってます。
阿伝で後掲後掲漆原・羽田が聴取したところでは、阿伝のほとんどの家屋は焼失したと伝えられているという。石垣について言えば、焼かれた家屋のサンゴは生石灰化して使えない。だからごく一部を除き、阿伝の石垣は戦後新たに積まれたものという。
阿伝の政井平進氏によると、戦争中は、阿伝の集落は戦火で焼かれた。阿伝では約130戸のうち、焼け残ったのは約10戸であったという。喜界町誌によると、当時の焼失戸数は、総戸数146戸のうち、被災戸数128戸で、80%の被害率であると推定している。当時の屋根はほとんどがワラ屋根だったので、母屋が焼けて、さらに石垣に火がかかった場合は、サンゴ石灰岩はボロボロになり、生石灰となって崩れてしまうので、石垣としての用をなさなかった。ボロボロになった生石灰は、道路に敷いた。従ってほとんどの家は、戦後改めて海岸から採石をし、石垣を組みなおした。戦前の石垣が残っている幅の狭い道路と石垣を写真1に示した。この石垣は集落の北にあり、今ではほとんど通る人がいない。〔後掲後掲漆原・羽田〕
漆原・羽田が撮影する戦前からの石垣は、もしかすると本編で北の墓場付近で撮った石垣のことだったのかもしれません。
下記(展開内C)によると、戦後の石垣再興期の主体はユイ(集落内互助組織)が担ったという。上記を前提にすると、その時代に石垣を積んだ技術的リーダー層の人々が、喜界島の時空上で最もサンゴの石垣の築造経験を有した集団のはずです。漆原・羽田はその、多分最後の生存者の声をフィールドワークしています。──やや古建築学的に難易度が高くて理解が及びませんけど、以下デジタル化して保存しておきます。
阿伝はどう傾いているか?
そこまでは力及ばす本編では感知できてませんけど──阿伝の石垣には集落内でのトレンドがある、というのが通説らしい。
海沿いの石垣は、より高く積まれていたり、大きな切り石を積んだガッチリ大きなサンゴ石の門構えは当時の有力者が作ったもの、ちょっとした段差は馬に乗るための踏み台など、石垣の形状から想像できることが多くあります。(喜界島では、昭和30年頃まで馬は身近な存在でした。)〔後掲喜界島サンゴ礁科学研究所〕
なお、馬についてはこく近年最注目されてるらしく、古くからいた喜界島の馬は体格は小さいけれど骨やひづめが丈夫だったといい、後掲の百之台への崖道を登っていたと伝わります〔後掲喜界町/崖の急な坂道を馬が通る。〕。一度は喜界島からいなくなっていたのを、最近他の島から逆輸入してきた……のが下記の馬。してみると、程度はともかく喜界島が馬の供給元だった時代があったことになります。
話を石垣に戻しますと──海側ほど高い、というのは、風の正面だから、という点に加え、中ほどの平地面の海側の傾斜面たから、というのもあるようで因果関係は複雑みたいです。
海(東)側の石垣が高い、というのは下記断面画像を見ると、海側の地盤が高い、というだけではなく、その高さが海岸砂丘によるものなので相当重量で押さえないと崩れるから、ということに思えます。また、下記のモクマオウなど植生による防風を相乗的に計算していることから、砂丘地には樹木が根付きにくく防風効果が期待できるのが石垣一本にせざるを得ない、という状況からとも考えられるのです。
隆起したサンゴ石灰岩の上に、海岸に近い循環道路沿いは砂丘砂が覆っているが、その砂層の厚さは少なくとも2mある。2003年7月18日に撮影した道路工事の写真(写真4)で、砂丘砂と石垣の構造を見ることができる。しかし、内陸側にむけて砂層は薄くなっていると思われる。(略)屋敷の断面に見るように、中島家の石垣の内側にさらに防風効果の高いモクマオウを植えている。モクマオウは偏形して、偏形のグレードは3~4に達している。〔後掲漆原・羽田〕
つまり、阿伝の石垣は単独の家屋を囲う又は守るもの、あるいはその量産として捉えるには多様過ぎます。集落総体の被害を最小化するようなインフラとして、
石積みの技法はどう伝わったか?
後掲漆原・羽田は阿伝の石積のほとんどを、乱層野石積(上記Ⅳ)と認めています。──これは喜界島の標準(ケンチ積∶上記Ⅰ(b)?)と異なっており、戦後の再構築で選択された新トレンドだった可能性もあります。
喜界島には、整層樵石積み亜型として次の型がある。樵石の約30cm角の石をケンチ石といい、これを、くの字型に積んでいく方法をケンチ積みとよんでいる。しかし、阿伝の集落には、樵石ケンチ積みはみられなかった。Ⅰ、Ⅱともにほとんど阿伝の集落で見ることができないが、門の付近にⅠ(b)のタイプが部分的に使われる場合がある。Ⅲと、Ⅳは野石積みであり、Ⅲ(a)はきわめて強固であるが、技術を要するので、阿伝ではごくわずかの家で石垣の一部に利用されているのみである。また、サンゴ石灰岩は自由な形状をとるので、Ⅲ(b)の形にしにくいためと思われるが、この形状の石積みは阿伝に存在しなかった。Ⅳは阿伝の集落ではきわめて一般的であり、これらは、海岸から集めたサンゴ石灰岩の天然の石塊を用いて乱層積みにしたものである。そして、阿伝の石垣の約95%は、Ⅳのタイプであった。Ⅴは整層乱石積みで、コンクリート枠などで雑石を囲わねばならない。道路や河岸の工事で用いられるが、民家では一般に用いない。Ⅵは乱層乱石積みである。この型は阿伝では存在しなかった。阿伝では、樵石の雑石は、ほとんど野石積みの間に雑石として詰めてしまうためと思われる。また、海岸から近い阿伝の石垣は十分な高さを必要とするため、雑石では高度を高くすることができないことも理由の一つと思われる。〔後掲漆原・羽田〕
素材∶サンゴ化石の質から考えても、この石垣は何百年と使用に耐えるものではありません。数世代のうちに新しいものに建替えていくもので、逆に、だからこそ最も近場にあり調達しやすい素材としてサンゴが選ばれてきた、と考えるのが自然だと思います。
つまり、厳密には石垣や家屋そのものの保存というより、この「型」とそれへの拘りが維持して行かれるべきなのだと思います。そう考える時、下記のヒンプン構築の発想法こそが、むしろ阿伝家屋群の粋なのかもしれません。
ヒンプンの形から言えること
ヒンプン(障子門)のカギ型(片方閉鎖型)については、本喜界編で既に見ました。粟国でも同様の形式があるとの意見を紹介したところです。
ヒンプン (ひんぷん)
中国語の語の屏風(ひんぷん)に由来しているとされている。沖縄の古くから伝わる建築様式で家の門と内壁の間に設置された目隠し(壁)のこと。通りからの目隠しの役目だけでは無く、魔物は角を曲がることができず直進しかできないと信じられており、家に直進して入ってこないように属除けとしての役割もあった。通常はヒンブンの左右両側から入ることができるが粟国の家の多くでは左側が閉ざされていて右側からしか入れないようになっている。〔後掲粟国アーカイブス〕
後掲漆原・羽田は、ヒンプンの形状をパターン化し、喜界島には琉球型(左右開通型)と粟国型(片方閉鎖型)が入り混じっていることを報告してます。その上で、粟国型が薩摩発祥の形式であるという立場に立ってます。
阿伝の門の形式をFig.5に示すように(a)、(b)、(c)、(d)型に区分した。阿伝集落では、(d)型の他に、段々になっている(b)、またはカギ型に曲がって入る(c)の門か、あるいは、沖縄で見られるヒンプンの形式(a)型を用いる家も若干ある。この島では(a)、(b)、(c)は、いずれも区別せず、“障子垣”と呼んでいる。この障子垣は多くの民家で、門部分のみ樵石を積んでいる。写真2には(c)の障子垣の例を示した。すでに空き地になっているが、門の角の部分を整層樵石積みにしている。〔後掲漆原・羽田〕

(続) カギ型の(c)は、鹿児島県でもみられる型であり、薩摩藩の文化の影響を推測させる。従って石垣の門の形式からもこの島は薩摩藩と琉球王国の文化の影響を色濃く残すところといえる。〔後掲漆原・羽田〕
後掲漆原・羽田はこれを、結語で「歴史時代に琉球王国と薩摩藩の両文化圏の接点にあった喜界島」と解釈してます。
ただ、薩摩側のヒンプン研究ではこれを薩摩独自の特徴であるとはあまり認知してないらしく、ほとんど記された研究がありません。ヒンプンそのものを設置する工事に比べれば、そのいずれかの通路を塞ぐのは割と軽微な工事でしょう。住んでいる者の側からは、後者の通路については結構フレキシブルに対応していたものであり、あまり大仰に取り上げるべきではないのかもしれませんけど──。
この点は今少し、実証データを重ねていきたいと思います。
Tさん石垣ヒアリング
武田秀伸さんは、阿伝サンゴの石垣保存会でご活躍の、阿伝の住人。阿伝の石垣に関する利点は上記説の集合でしょうけど、「阿伝に石垣を再興出来たのは僥倖だった」という意味の発言をしてます。
武田:阿伝は海からの距離が近く、台風の影響を受けやすい厳しい場所に思われます。しかし、台風の度に海岸に打ち上げられるサンゴの石が
あることや、石を積む職人が集落にいたことで、高い石垣を作って風を防ぐことができました。集落の石垣は、暴風から家を守るために海に近い民家ほど高く積まれていたり、集落に入る風を弱めるために緩やかな曲線を描いて積まれていたりと、いろいろな工夫が見られます。〔後掲嶋田〕
もう一つ、阿伝の背後の崖は、様々な趣旨で良い生活環境をもたらしているのだと語ってます。証明はなかなか難しいけれど……地下構造のために、飲水が確保しやすいというのです。
(同・武田)海に近い集落ですが各家庭には井戸があり、簡単に真水を得ることができました。それは、集落の地下がすき間の多いサンゴの化石でできていて、地下水が溜まりやすいためです。一方で、集落の西側にそびえる
崖の下からは、常に水が湧き出しています。(略)集落に崖が迫っているということは、実は生活をするためにはとても便利だったかもしれません。崖の林からは、煮炊きするための薪を拾うこともで
きました。さらに、海岸沿いの道路が整備される前は、崖を上って山越えを
して島の反対側と行き来して高校にも通っていたんですよ。〔後掲嶋田〕
実際に暮らさないと分からない感覚です。
「高校」は1957年に赤連に移転した喜界高等学校※しかない。阿伝から崖を登って赤連の高校に通っていた、ということです。確かに直接距離からすると不可能ではありませんけど……(→GM.)。

城久の下にあった阿伝 阿伝の上にあった城久
「あるはずのない崖道」の存在を前提にすると、この場所が城久の下に当たることに気付かされます。つまり、城久の裏口としての阿伝の可能性です。
サンゴ礁がもり上がってできた喜界島は、プリンのような形をしています。プリンの上の部分は平らで、その周りは崖(左下の写真 )になりました。
この崖に下から上まで続く急な坂道 (右下の写真の赤丸の中に見えるくねくねした道)が、阿伝集落にあります。(※現在崖くずれのため通れません。)
〔後掲喜界町/崖の急な坂道を馬が通る。〕
この崖道は、秘密通路とか健脚自慢の衆のみのものではなかったらしい。次によると道の名もあり、唄まであったというのです。
かつてこの坂道を阿伝集落の人々や馬が、崖の上にある畑へ行くときに利用していました。そうです、この急な坂道を馬が通っていたのです。そのことを唄った「阿伝たかびら節」という島唄があります。「たかびら」とは坂道のことです。〔後掲喜界町/崖の急な坂道を馬が通る。〕
「太宰府に匹敵する」国際貨物が出る城久には、一般に港がないと見られてます。けれど、
やや関連がありそうな史料としては──成化二年(一四六六)に中山国の兵船(琉球の尚徳王の軍勢)が湾湊に襲来した時、喜界島守将とされる勘樽金は、荒木間切の
類似の位置にある集落を挙げるなら、奇異に感じられるかもしれませんけど──首里です。那覇港の国分側からすると細い急坂(真珠道)を登らなければ至れない、海賊の攻撃しにくい場所に設けたのが、あの琉球王府です。
阿伝の宗教的・考古学的な古さと、前述の鏡の城久遺跡との同時代性などを考慮すると、決して無体なデッサンではないように思うのですけど──如何でしょう?