m40_10第四十波mめにかかる雲やしばしのわたり鳥m看法Vission_mメタ認知 ★断章

皆さん。
全ては偶然の集積でした。
しかしその偶然を巧みに
筬(おさ)にかけ一つの筋を織り上げていくには並々ならぬ知恵が要る。
青沼静馬はそういう知恵を軍隊時代に習得したものだと思います。
戦場ではきっと必要だったんでしょう。〔市川崑「犬神家の一族」角川,2006〕

理念編

めにかかる雲やしばしのわたり鳥 芭蕉

域史を辿るうち、陸上の政治史を主軸とした既存の歴史学はもちろん、知識や文化へのアプローチそのものに転換を加えないと対処できない状況が増えてきます。
 この章(四十波)では、発想法というか戦略というか、海を行き交った彼らの眼差しの「周波数」みたいなところをまとめてみます。

なぜ眼差しを語り直すのか?▼▲

民がなぜ陸にない知性を持ったかと考えると、偶然に内発的な新しい知性が創造されたとするより、必然に外発的に、即ちその生活環境に必須なのでそういう知性を有するに至った、と考えるのが自然です。
 予想不可能な海洋環境と理解不能な他文化との交易は、動かぬ陸上に比べ本質的に困難な知性の活動場所でした。要するに、未知を包含する環境に慣れないと生き延びられなかった。──というのは、現実の危険に晒される海人にとって、理屈ではなく極めてリアルな出来事です。後掲藤喜はこの点を、海女へのフィールドワークで生真面目に追ってます。
 海民が、陸人とは別の人種だとか知能指数が特に高いとか、そうした先天的な差はなかったはずです。我が拙き旅行者の観点から予想するに、海民はその生活の中で──嵐に遭い、異郷に流れ着き、未知の言語の異俗の社会と折衝するうち、A)自らの知識や理解を超える事物への接し方を身に付けた。加えて、それをB)次世代のOJT──実航海での訓練の形で伝承する組織機能を稼働させた結果だったと思えます。

▼▲

──者の要素∶組織知の側面も必ずあると信じる。本稿が追っているような海民の文化というのは、まさにそれであるはすだからです。
 けれど、それは禅宗の公案のようなもので、個々人が命がけで習得するタイプのものだと考えられます。陸人が学校で習うような知識ではない。多分、祭や宗教はそうした教育的側面を持ってると予想されますけど……ここでの論考に包含するには、今はちょっと材料不足。ひとまず除外し、個人知に絞って考えます。

だし、組織知を前提とせずとも、学校的な知性の集団の中で海民的な、つまり「未知に対する無知の我」というスタンスを保つのが難しいことは、何となく理解されうると思います。例えば、ちょっとした教育ママさんをご想像いたたければ、そのお子様が「未知に対する無知」の位置、つまり学校教育的には「バカ」であることを、ママさんは許さないはずですから。

バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片づいた」かどうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。〔後掲内田〕

(復習)メティスの知

田さんの十八番の無知論のついでに、メティス論の復習をしてから進みましょう。

分析能力の高い古代ギリシャ人は,タコやイカのような海洋生物に備わっている知性を,言語的ロゴスと区別して『メティス(metis)』と呼んで関心を持っていた。メティスは海の女神である。陸上のロゴスは言語の意味を確定しようとする。ところがメティスは言語の秩序を乱して,意味を多様性の渦に引きずり込むのである。それはタコのように変幻自在に姿を変え,周囲の環境にまぎれて自分を見えなくしておいて慎重に近づいていき,いきなり相手に襲いかかるなど,策略にみちた行動を可能にする知性である。この知性は人間にも動物の世界にも見出される。〔後掲中沢〕

 中沢さんのチベット仏教的な実践主義の宗教論もまた十八番の響きかありますけど、この表現か思考ではなく行動だと置き換えるなら、まさに海賊的と言ってもいい。

 人間の世界でこのメティスの知性の持ち主と目されるのが,c-man職人(彼らは一様でない素材の変化に合わせて繊細に道具や筋肉の使用法を変化させていく),ソフィスト(哲学者のように真理の表現を目指すのではなく,ソフィストは相手を説得するために表現を自在に変化させていく。(続)〔後掲中沢〕

 哲学者・中沢さんの書くソフィストは、古代ギリシャの現実のソフィスト像というより、科学論の基礎的論考としてのアリストテレスの詭弁論駁論──正しさを求めない論理はいくら強くても邪道だ、という議論を前提にしてると想像されます〔後掲納富〕。中国の諸子百家は元々「ソフィスト」的で、「正しさ」などを追求する派はなかったし、現代の弁護士業界の感覚にも通じます。
 ただし、先行研究が繰り返し検証されることでより「正しい」理解が構築されていく、という科学的思考プロセスは、アリストテレス的な正邪感覚を抜きにはあり得ません。だからこそ西洋で科学は起こったわけです。また、現代の司法体系における「正しさ」とは、ソフィスト的なディベートの結果としての判例の蓄積の上に成立していきます。
 つまり、ソフィストの「詭弁」のみで科学の構造が完成することはない。けれど「詭弁」の飛躍力や自由度は新しい構造や解法の創出に欠かせず、それらを含めて再統合することで科学に知見がまた一つ加わる。
 この関係は、太陽系生成のニース・モデルにおけるトロヤ群微惑星と大惑星の関係に似ています。微細で自由で、根源的なカオスのデーモンたちと、巨大で秩序立ったコスモスの主神の間の相互作用。

▶〔内部リンク〕【19Cm唐の船御嶽】(沖縄,①ジャイアントインパクト(大衝突)+②暴走(的)成長+③寡占成長,(③の反作用)微惑星の惑星形成阻害,NICE MODEL,トロヤ群)レポ:具志頭と雄樋川流域の呈示する微細なるものの史観/[異分野参照]太陽系惑星成長過程:原始惑星系円盤(京都モデル)とニース・モデル
(木星)トロヤ群の小惑星
凡例(図上、木星は反時計回りに回る)
緑:トロヤ群(うち木星進路方向はギリシャ群、後方はトロヤ群と区別)
白:小惑星帯(メインベルト)小惑星群
褐:ヒルダ群小惑星

(続)彼らは真理を語ることよりも,演説によって状況に変化がもたらされることのほうが重要と考える),政治家(彼らも真理を語ることには関心がなく,嘘をつくのも平気で,そんなことよりも発言ができるだけ効果的であることにこころがける),海洋民(動き変化を続ける洋上で安全に航海を続けるための知性に富んでいる)たちである。たえまなく動き変化している実在を,厳密な論理命題によって取り押さえるのではなく,みずからを多数(multiple)多様(polymorphe)に変容させながら世界に変化をつくりだしていくのが,メティスの知性の特質である。〔後掲中沢〕

 これが、メティスの知性を通常の、例えば学校知と並置した時の差別化でしょう。ただそれは、比較されるメジャーな知性(ex.学校知)の側からの見かけでしかないはずで、メティスの側からは相手は断面的にしか見えてないと思います。つまり知性のあり方の次元が違う。本稿で「メタ認知」として捉えておきたいのは、そちらの話になります。

メタ認知∶▼▲

 自己の認知活動(知覚、情動、記憶、思考など)を客観的に捉え評価した上で制御することである。「認知を認知する」 (cognition about cognition) 、あるいは「知っていることを知っている」(knowing about knowing) ことを意味する。〔後掲wiki〕

 情報化社会論的に解釈するなら──書籍から始まり電子頭脳に至って記憶の外部化が進むと、個体内へ保持される知識は重要度を失い、知識の持ち方を知っていることが大事になります。データベースよりインターフェイスが、サーバより検索ウィンドウが焦点化される。

メタ認知とは、記憶の監視と自己調節、メタ推論、意識/意識、自律意識/自己認識の研究を含む一般的な用語です。実際には、これらの能力は、自分の認知を調整し、考え、学び、適切な倫理的/道徳的ルールを評価する可能性を最大化するために使用されます。〔後掲wiki(英語)/Metacognition メタ認知〕→和訳

 一読して分かるとおり、研究者も概念化の途上にあります。ただ、感覚的に理解されるのは、メタ認知はメタでない認知に真摯に向き合う中で自然に習得され先鋭化して行くものであって、それ単独で取り出して論ずると空論になってしまうであろうことです。

MSK{引用者注∶メタ戦略的知識}は、特定のインスタンスで使用されている思考戦略のタイプを認識しており、次の能力で構成されています。思考戦略に関する一般化とルールの作成、思考戦略の命名、そのような思考戦略の時期、理由、および方法の説明使用する、使用すべきでない場合、適切な戦略を使用しないことの不利な点、および戦略の使用を必要とするタスクの特性は何か。〔後掲wiki(英語)/Metacognition メタ認知〕→和訳

 なぜかその辺りは、日本語wikiほかには記されるものが少ない。下記は割としっかりした英語wikiの論考を、原文と翻訳で抽出したものです。

事例イメージ▼▲

The term metacognition literally means ‘above cognition’, and is used to indicate cognition about cognition, or more informally, thinking about thinking. Flavell defined metacognition as knowledge about cognition and control of cognition. For example, a person is engaging in metacognition if they notice that they are having more trouble learning A than B, or if it strikes them that they should double-check C before accepting it as fact.
メタ認知という用語は、文字通り「認知を超えた」を意味し、認知についての認知、またはもっとくだけた言い方をすれば、思考についての思考を示すために用いられる。フラベルは、メタ認知を認知についての知識と認知の制御と定義した。例えば、A を学ぶのが B を学ぶのより難しいと気づいたり、C を事実として受け入れる前に再確認すべきだと気付いたりする場合、その人はメタ認知を行っている。
〔後掲wiki(英語)/Metacognition メタ認知/定義 Definitions 原典∶後掲J H Fravell1976,p232〕→和訳 

 メタ認知は認知よりエラいわけではありません。定義的に考えても分かる通り、それどころかある意味、認知の下部構造です。上記の場合には、ほとんどエクスプローラーの「フォルダ」管理に近い。「認知」ファイルの容器、あるいは整理法に過ぎません。
 ところか、これを認知の制御 Metacognitive controlとして捉えると、その重要度が顕在化し始めます。

Metacognitive control is an important skill in cognitive regulation, it is about focusing cognitive resources on relevant information.[25] Similarly, maintaining motivation to see a task to completion is also a metacognitive skill that is closely associated with the attentional control. The ability to become aware of distracting stimuli – both internal and external – and sustain effort over time also involves metacognitive or executive functions. Swanson (1990) found that metacognitive knowledge can compensate for IQ and lack of prior knowledge when comparing fifth and sixth grade students’ problem solving. Students with a better metacognition were reported to have used fewer strategies, but solved problems more effectively than students with poor metacognition, regardless of IQ or prior knowledge.[26]
メタ認知制御は認知制御において重要なスキルであり、認知資源を関連情報に集中させることです。[ 25 ]同様に、タスクを完了するためにモチベーションを維持することも、注意制御と密接に関連しているメタ認知スキルです。気を散らす刺激(内部および外部の両方)に気づき、時間をかけて努力を維持する能力も、メタ認知機能または実行機能です。スワンソン(1990)は、5年生と6年生の問題解決を比較したところ、メタ認知の知識がIQと事前の知識の欠如を補うことができることを発見しました。メタ認知の優れた生徒は、IQや事前の知識に関わらず、メタ認知の低い生徒よりも戦略は少ないものの、問題をより効果的に解決したと報告されています。[ 26 ]
A lack of awareness of one’s own knowledge, thoughts, feelings, and adaptive strategies leads to inefficient control over them. Hence, metacognition is a necessary life skill that needs nurturing to improve one’s quality of life. Maladaptive use of metacognitive skills in response to stress can strengthen negative psychological states and social responses, potentially leading to psychosocial dysfunction. Examples of maladaptive metacognitive skills include worry based on inaccurate cognitive conceptions, rumination, and hypervigilance.
自身の知識、思考、感情、適応戦略に対する認識の欠如は、それらを効率的に制御することにつながります(ママ)。したがって、メタ認知は生活の質を向上させるために育成する必要がある必要なライフスキルです。ストレスへの反応としてメタ認知スキルを不適応的に使用すると、否定的な心理状態や社会的反応が強まり、心理社会的機能障害につながる可能性があります。不適応的なメタ認知スキルの例としては、不正確な認知概念に基づく心配、反芻、過剰警戒などが挙げられます。([ 27 ])〔後掲wiki(英語)/Metacognition メタ認知〕→和訳

原注 25)Meidinger, Paul; K. Vijaykumar, Kausalya (18 October 2006). “Interrupted cognition in an undergraduate programming course”. Proceedings of the American Society for Information Science and Technology. 42 (1). doi:10.1002/meet.14504201168. ISSN 0044-7870.
26)Swanson, H.L. (1990). “Influence of metacognitive knowledge and aptitude on problem solving”. Journal of Educational Psychology. 82 (2): 306–314. doi:10.1037/0022-0663.82.2.306.
27)Wells, Adrian (12 December 2019). “Breaking the Cybernetic Code: Understanding and Treating the Human Metacognitive Control System to Enhance Mental Health”. Frontiers in Psychology. 10: 2621. doi:10.3389/fpsyg.2019.02621. ISSN 1664-1078. PMC 6920120. PMID 31920769.

「不正確な認知概念に基づく心配、反芻、過剰警戒」──船乗りが海難に怯え迷信深くなる感じに似てます。海民、あるいは流転する事業環境に揉まれる職業では、認知のための認知のあり方は形式論ではなく具体のリスクです。

精神医学におけるメタ認知

 次の記述は精神医学分野のものです。自閉症スペクトラム症について語られる「心の理論に深刻な欠陥」a profound deficit in theory of mind の「心の理論」とは、専門用語では他者の心理をその言動から想像・理解する能力、つまり忖度する力を指すらしい。これがメタ認知の文脈で語られるとき、他者情報を適切に参照する認知スタンス、という意味で──のようです。つまり、自閉症者をコミュニケーション能力不足ではなく、他者情報より自分のそれを重視しすぎるバランスのメタ認知の保持者として見ます。

Metacognition brings many unique insights into the normal daily functioning of a human being. It also demonstrates that a lack of these insights compromises ‘normal’ functioning. This leads to less healthy functioning. In the autism spectrum, it is speculated that there is a profound deficit in theory of mind.[74] In people who identify as alcoholics, there is a belief that the need to control cognition is an independent predictor of alcohol use over anxiety. Alcohol may be used as a coping strategy for controlling unwanted thoughts and emotions formed by negative perceptions.[75] This is sometimes referred to as self medication.
メタ認知は、人間の正常な日常機能に関する多くの独自の洞察をもたらします。また、これらの洞察の欠如が「正常な」機能を損なうことを示しています。これは、より不健康な機能につながります。自閉症スペクトラム症では、心の理論に深刻な欠陥があると推測されています。[ 74 ] アルコール依存症であると自認する人々において、認知をコントロールする必要性は、不安よりもアルコール使用の独立した予測因子であると考えられています。アルコールは、否定的な認識によって形成された望ましくない思考や感情を制御するための対処戦略として使用されることがあります。[ 75 ]これはセルフメディケーションと呼ばれることもあります。〔後掲wiki(英語)/Metacognition メタ認知〕→和訳

原注74)Lysaker, PH & Dimaggio, G. (2011). 「重度の精神疾患を持つ人々のメタ認知障害:理論、精神病理との相関、そして心理療法モデル」心理学と心理療法:理論、研究、実践. 84 (1): 1– 8. doi : 10.1111/j.2044-8341.2010.02007.x . PMID 22903827 .
75)Spada, MM; Zandvoort, M.; Wells, A. (2007). 「問題飲酒者におけるメタ認知」.認知療法と研究. 31 (5): 709– 716. doi : 10.1007/s10608-006-9066-1 . S2CID 8935940 .

 最後部のアルコール中毒者も、似たような理解の転換です。不安だから病的に飲む、とする既存通説から、その者なりに認知を制御しようとしたメタ認知のツールが、たまたまアルコールだった、という理解法です。
 精神病が「汚染」から「変化」と捉え直されるようになってきたのは、差別論以前に、その方が「精神病」の「治癒」に有効であることが明確になってきたからです。韓国ドラマの中でも、次のようにメタ認知の語は用いられました。この場合は「否定的な感情」の発見ツールです。──海民についてふと思うのは、自らが圧倒的な自然の恐怖に襲われた時、「恐怖する自己」を(単なる客観ではなく)一つ上の高さの認知から捉え直す、というある意味のセルフ・メディテーションを選択する「癖」がつくのではないか、ということです。

チャ・ミンソ医師「メタ認知です。書くと自分がなぜそう思ったのかを客観的に見ることができます。自分の心を見る力が重要です。”感情の筋肉”を鍛えるんです。体のように心もトレーニングで鍛えましょう。」
パク・ビョンヒの母「感情にも筋肉が?」
チャ・ミンソ医師「黄色(引用者注∶否定的な感情)をなくせるよう頑張りましょう。記憶力や集中力も戻るはずです。」
(略)
パク・ビョンヒの母(自分の幻影に向かって)「そんなに頑張るな。つらくなるよ。精一杯尽くしてもダメな親だと思うようになりいつも自分を責める。きっとそうなる。身を削ることになるよ。
人生が真っ黄色になっていく。
心が黄色信号になっても気づかない。子どもの幸せのために自分の幸せは諦めて暮らす。よく考えて。自分が不幸なくせに人を幸せに出来る?」
パク・スヨン主任(実際はパク・ビョンヒの母に手を握られ語られている。)
〔韓国ドラマ「今日もあなたに太陽を 精神科ナースのダイアリー」5.心の黄色信号〕→内部リンク∶ことばぐすい

 先の、中沢さんがメティスの知の所有者類型として挙げた一つに「職人(彼らは一様でない素材の変化に合わせて繊細に道具や筋肉の使用法を変化させていく)」という文章かありました。彼らは多分、認知の質や量ではなく、使い方が異なっているのです。また、精神病者とは、同じく使い方の点で、一般人の分布域から一定程度以上外れたケースを漠然と呼ぶ呼称です。

 最後の「病的」心理をメタ認知の理解に置き換えるところまでくれば、21C前半の世界潮流になろうとしてると言ってよい反知性主義についても、同等の「社会的病」として把握できる可能性があります。
 次に取り上げる内田・反知性主義論は、「論理性」「客観」より「シンプル」に「納得しやすい」解釈に「フライング」するようなメタ認知が、20C前半の欧州で社会的に共有された事態──ユダヤ人ホロコーストを語っています。※内田自身は、この主張中でメタ認知の語は用いてません。

内田∶メタ認知としての反知性主義

代という時代は,反知性主義(原語【米語】Anti-intellectualism)と近年呼ばれるムーブメントを繰り返し起こしてきました。海民がマティスの知を本当に有し、それが絶えず激変する自然環境によるものとすれば、反知性は過度の社会化の中央部、特に平等な民衆が形成する社会環境の中に生成されます。なぜなら、本来的に混沌たる自然の中では知性を欠くことはそれだけ死のリスクを高めるタブーですけど、本来的に「安心安全」装置の社会の中では知性を欠いても生存でき、かつそれか管理社会になるとむしろ知性を欠く「労働力」の方が歓迎されすらするから──だと思います。

近代の陰謀史観は18世紀末のフランス革命を以て嚆矢とする。革命が勃発したとき、それまで長期にわたって権力と財貨と文化資本を独占してきた特権階級の人々はほとんど一夜にしてすべてを失った。ロンドンに亡命したかつての特権階級の人々は日々サロンに集まっては自分たちの身にいったい何が起きたのかを論じ合った。けれども、自分たちがそこから受益していた政体が、自分たちがぼんやりと手をつかねているうちに回復不能にまで劣化し、ついに自壊に至ったという解釈は採らなかった。〔後掲内田〕

ランス革命は,当時,「衝撃」というより「理解不能」な現象だった。おそらくヨーロッパにとって、二度の大戦もそうだったでしょう。──人類の知性の先鋭として近代を創出してきた欧州が、なぜ、はっきりと自ら「自爆」「自傷」しようとしているのか?
──上記下線部は、現代の我々が、当時の欧州人が「フライング」した結論を逃れる歴史解釈を、現代の歴史学から教えられているもの、に過ぎません。「制度疲労」だなんて……よく考えると、分かりにくい。特に、渦中の人々には理解し難かったでしょう。
「分からない」状況で、知性が迫られる選択は、「合理性は保証されなくとも直ぐ・シンプルに分かる『認識』」に飛び付くか、合理的な認識に至るまで分からない状態に耐える(ネガティブ・ケイパビリティ negative capability)かです。経験した人には分かるけれど、後者は大変辛い。──現在の「メタ認知」はあくまで認知の一形態ですけど、認知と認知の「間」を扱う認知とは、認知「以前」、要するに認知されていないことをもターゲットにした認知活動である──と考えるのが自然ではないでしょうか。
 そして、そのような超・認知は、近代合理主義をまだ信じて20Cに入っていた西欧人には、到底認め難い時空だったでしょう。

(続)彼らはもっとシンプルに考えた。これだけ大規模な政治的変動という単一の「出力」があった以上、それだけの事業を成し遂げることのできる単一の「入力」があったはずだ。自分たちは多くのものを失った。だとすれば、自分たちが失ったものをわがものとして横領した人々がいるはずである。その人々がこの政変を長期にわたってひそかに企んできたのだ。亡命者たちはそう推論した。〔後掲内田〕

Covidの時代の日本世論とあなたの周囲の反応を思い出して頂ければ,この情景はリアルだと思います。何でも噛み砕いて説明してくれるマスコミ慣れして、これを信じてるような社会化した人間は、「不可知な現象」「理解の及ばぬ複雑系」という事態が、有り得ることそのものを(メタ)認知できないのです。
 そこに、彼らが求めたとおりの入力の形が、ついに提起されます。

「ユダヤ的フランス」Affiche de Jules Chéret pour l’édition populaire illustrée de La France juive d’Édouard Drumont. Bibliothèque nationale de France, ENT DN-1 (CHERET,Jules/45)-ROUL.1892 表紙〔wiki/France juive (affiche édition illustrée)〕

19世紀末にエドゥアール・ドリュモンというジャーナリストが登場して、「フランス革命からの100年間で最も大きな利益を享受したのはユダヤ人である。それゆえ、フランス革命を計画実行したのはユダヤ人であると推論して過たない」と書いた。この推論は論理的に間違っている(「風が吹いたので桶屋が儲かったのだから、気象を操作したのは桶屋である」という推論と同型である)。だが、フランス人たちはそんなことは気にしなかった。ドリュモンのその書物『ユダヤ的フランス(la France juive)』は19世紀フランス最大のベストセラーになり、多くの読者がその物語を受け容れ、著者宛てに熱狂的なファンレターを書き送った。その多くは「一読して胸のつかえが消えました」、「頭のなかのもやもやが一挙に晴れました」、「これまでわからなかったすべてのことが腑に落ちました」という感謝の言葉を書き連ねたものだった。〔後掲内田〕

ovidについて拡大初期にマスコミなど世論で言われていたことを──マスコミ自身も恥ずかしくて振り返りすらしませんけど──思い出してみてください。「ドリュモンの物語」に近い、後から考えたら嘘八百でしかない「解説」を、どれだけの人間が信じこんで吹聴してたことでしょう。

ドリュモンのこの物語は、同時期にロシアの秘密警察が捏造した偽書『シオン賢者の議定書』とともに全世界に広がり、半世紀後に「ホロコースト」として物質化することになった。フランス革命とユダヤ人を結びつけた陰謀史観の物語はおそらく人類史上最悪の「反知性主義」の事例としてよいだろう。
 600万人ユダヤ人の死を帰結したこの物語の最初のきっかけがはげしい「知的渇望」だったということを私たちは忘れるべきではない。(略)その知的渇望はどこかで反知性に転じた。どこで転じたのか。(略)彼らが自分程度の知力でも理解できる説明を切望したからである。
 実際に、フランス革命は単一の「張本人」のしわざに帰すことのできるような単純なものではなかった。(略)強いて言えば、「いろいろな原因の複合的効果によって」というのがもっとも正直な回答なのであろうが、そのようなあいまいな説明を嫌って、人々は「ずばり一言で答えること」を求めた。〔後掲内田〕

実より「納得感」「シンプルさ」を優先するようになったら,知性としては終わりです。海民の環境に照らして言えば、そんな「納得」では圧倒的な外部に全く対応できない。
 それは科学と同様に、個人の技能ではなく集団知として存在したはずですけど……さすがにそこまではほぼ残らない。(例外として日本の「廻船大法」があるけれど)──なので繰り返しですけど、本稿では個人知に絞ります。

科学および的客観性はひとりひとりの科学者の『客観的』たらんとする個人的努力に由来するものではない(由来するはずもない)。そうではなくて、多くの科学者たちの友好的-敵対的な協働に(friendly-hostile co-operation of many scientist)由来するのである。〔後掲内田 限定版∶Karl Popper, The Open Society and Its Enemies, Vol.II, Princeton University Press,1971, p.217〕

田さんの言う知性は、だからマティスの知に非常に近い。陸人よりも、海民の環境が次のような真の「知性の発動」を必要とする機会が多かった、ということだと思います。

 私たちの知性はどこかで時間を少しだけ「フライング」することができる。知性が発動するというのはそういうときである。まだわからないはずのことが先駆的・直感的にわかる。私はそれが知性の発動の本質的様態だろうと思う。〔後掲内田〕

 ユダヤ陰謀説の歴史は、メタ認知を欠く認知集積としての反知性主義の危険を既に十分立証してます。でも某大国で明確に知性を欠き、Covidの仮病まで吹聴する虚言癖を二度もトップに選ぶようなメタ認知の衰亡症候群は、21Cの今も続いてます。
 そこで、現・学説としてのメタ認知の範疇から、中沢さんの言う「レンマの知」のレベルで、マティスの知を捉え直していく必要が生じてきます。ただこの世界は──今のところ「確かに存在する」ことしか分かりません。一応、以下それを掲げてみますけど……ワシ自身、全然理解できてません。

▼▲▼▲

「南方マンダラ」は南方本人の命名ではなく、「7月18日図」を、南方熊楠の研究者である鶴見和子に見せられた仏教学者の中村元が名付けたものである[11][12]。「8月8日図」については南方本人が「予の量陀羅」と名付けており、中沢新一によりこれも敷衍して「南方マンダラ」と呼ばれるようになった[13]。〔wiki/南方マンダラ〕

※原注11)^ 環 2017, pp. 25–26.
←6?)^ 環栄賢『密教的世界と熊楠』春秋社、2018年、10頁
12)^ 鶴見和子『南方熊楠』講談社、1981年、82頁。ISBN 978-4061585287。
13)^ a b c d 日野, 裕一郎「南方熊楠の思想―「南方マンダラ」から「南方哲学」へ―」『文化環境研究』第2巻、2008年3月21日、20–29頁。
いわゆる「南方マンダラ」。土宜法龍に対する1903年7月18日付書簡からの抜き出し。〔wiki/南方マンダラ〕

其捗りに難易あるは、図中(イ)の如きは、諸事理の萃点故、それをとると、色々の理を見出すに易くしてはやい。(ロ)の如きは、(チ)(リ)の二点へ達して、初て事理を見出すの途に着く、それ迄は先は無用のものなれば、用要のみに渋々たる人間には一寸考及ばぬ。(二)亦然り、(ハ)如きは、さして要用ならぬことながら、二理の会萃せる処故、人の気につき易い。(ホ)亦然り、(ヘ)殊に(ト)如きは(人間を間の中心に立として)、人間に遠く又他の事理との開係まことに薄いから、容易に気付ぬ。又実用がさし当りない、(ヌ)如きに至りては、人間の今日の推理の及ぶべき事理の一切の境の中で(此間に現するを左様のものとして)、(オ)(ワ)の二点でかすかに触れ居るのみ、(ル)如きは、恰も天文学上或る大彗星の軌道の如く、(オ)(ワ)の二点で人間の知り得る事理にふれ居る(ヌ)、其(ヌ)と少しも触るる処ないが、近処にある理由を以て、多少の影響を及すを、纔かに(オ)(ワ)の二点を仲媒として、こんな事理といふことは分らぬながら、なにか一切ありそうなと思ふ事理の外に、どうやら(ル)なる事理がありそうに思はるといふ位のことを想像し得るなり。乃ち図中の或は遠く近き一切の理が、心、物事理の不思議にして、(動かすことはならぬが)道筋を追従し得たるだけが、理由(実は現像の総概括)となり居るなり。扱これら途には可知の理の外に横りて、今少く眼境を(此画を)広して、何れかにて(オ)(ワ)如く触れた点を求めねば、到底追従に手がかりなきながら、(ヌ)と近いから、多少の影響より、どうやらこんなものがなくてかなわぬと想わる、(ル)如きが、一切の分り知り得べき性の理に対する理不思議なり。扨て総て画にあらはれし外に何があるか、それこそ、大日、本体の大不思議なり。
—『7月18日付書簡』、南方 (1951, pp. 273–275)〔wiki/南方マンダラ〕

ついで『華厳経』はすぐさま、純粋レンマ的知性の働きを幾何学化して、空間の広がリとして描き出すことにとリかかる。レンマ的知性は「レンマ的空間」の構造に姿を変えて、わたしたちの前にあらわれてくる。それはあらゆる種類の純粋物質でつくリあげられた「宮殿・楼閣」の姿をしている。
 プッダやヴァイローチャナ(毘慮遮那)やマイトレーア(弥勒)などが説法をおこなうこの人楼閣は、宇宙と同じ広がりを持っている。広々として精妙な荘厳に飾られている。大楼閣の内部には、無限の数の楼閣が包摂されている。どの楼閣も同じように広大な広がりを持ち、精妙に荘厳されている。
 一つ一つの楼閣はそれぞれが独自性を保ち、それぞれが固有の響を発している人間の聴覚には美しい和音が嗚リ轡いているように聞こえる。しかし、どの楼閣も他の楼閣となんの障害もなく、自由無碍にコミュニケーションをおこなっている。一つ一つの楼閣が個体性を保ったまま、妨げるもののない状態で、相互に行き来して、そのまま全体の調和が保たれているのである。
 そのために、一つの楼閣の中に立っていると、他のすぺての楼閣の中にも自分の姿を見ることになる。どんなに微細な楼閣に起こる出来事も、すぺての楼閣に瞬時に伝わっていき、楼閣の巣合のそのまた集合へと、この出来事の情報は知られていくことになる。他の楼閣から異なる利音に所属する「出来事」が入り込んでくると、もとの楼閣に響いていた利音には「ゆらぎ」が生ずるであろう。その「ゆらぎ」によって、楼閣の構造には微細な変化が作られるが、その変化を飲み込んで微妙に構造を変化させても、全体の調利は保たれていく。全体の調和を保ちつつ、個体性を保持して変化していくのである。
 プッダが説こうとしていた「縁起の理法」を、レンマ的知性の働きとして純粋な形で取り出すと、『抱厳経』に描かれているこのような幾何学的表象になる。〔後掲中沢〕

法界を満たすこのような楼閣の描写から、わたしたちはレンマ的知性の内部で起こる、力や情報の伝達の模様を次のように推定することができる。Aという事象とBという事象との間につながりがあると思われるとき、そこには表面に源在化していないCやDやEという事象も潜在的に影響を及ぽしている。このときロゴス的な因果律に立つ思考は、A→Bという変化を考えて、この変化をもたらす作用を「演算子」や「微分」として計算し予測する。ところが実相では、顕在化している部分と潜在化している部分とが、緑起的に互入しあいながら全体運動をおこなっているのが現実である。レンマ的知性は、そのような縁起の全体運動と同じ構造を備えた知性形態として、人間の心(脳)に内蔵されている。大乗仏教ではそれを「一心法界」と呼んでいる。
 このような無限数の楼閣の巣合する「広がり」の中で、説法という形を通して真理の伝達がおこなわれる。それは何段階ものステップを踏んでおこなわれる。人間の理解する言語の構造に到達するまでに、純粋レンマ的知性の「言語活動」は、何段階もの「変換」ないし「翻訳」をへなければならないからである。〔後掲中沢〕

▼▲▼▲

すなわち四曼陀羅のうち、胎蔵界大日中に金剛大日あり。その一部心が大日滅心(金剛大日中、心を去りし部分(力))の作用により物を生ず。物心相反応動作して事を生ず。事または力の応作によりて名として伝わる。さて力の応作が心物、心事、物名、名事、心物心、心物名、……心名物事、事物、心名、……事物心名事、物心事、事物……心名物事事事事心名、心名名名物事事名物心というあんばいに、いろいろの順序で心物名事の四つを組織するなり。
例。熊楠(心)(物)見て(力)、酒に美趣(名)あることを、人に聞き(力)しことを思い出だし(心)、これを飲む(事・力)。ついに酒名(名)を得。(中略)
—『8月8日付書簡』、中沢 (2006, pp. 90–91)〔wiki/南方マンダラ〕

「唐澤は、この『酒名』は単に酒の名称という意味であるようにも思えるとして、南方自身の論理に混乱や不徹底さが感じられるとしている」〔wiki/南方マンダラ〕

※原注[16]唐澤太輔「南方熊楠による「世界認識構造図」の解読と考察」『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』第2巻第8号、2017年、1–20頁、doi:10.32257/kfa.2.8_1。

▼▲▼▲

ハウジング編

…と、このまま行くと抽象論の列挙で終わってしまいそうです。そうならない方が面白いので、あえて議論を荒らしてみます。
 本稿は、そもそも非定住者の「メティスの知」に惹かれて論を起こしたものです。その知性の「質」を追うと抽象化してしまうならば、その知性が生まれるところに時空を焦点化してみましょう。換言すれば--なぜ非定住という行為体系又は認知状態から「メティスの知」は生まれ得るのでしょう?
…理屈の連鎖から脱するためのやや実証的な素材として、TPJに関する最新研究を手掛かりにしましょう。

≪Halten1≫TPJの脳神経科学研究

 以下は、理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター 思考・実行機能研究チームの宮本 健太郎 チームリーダーらの国際共同研究グループが解明を進めている側頭頭頂接合部(TPJ:temporo-parietal junction)に関する研究成果です。

私たちは自分が知覚し、理解し、記憶したことを、第三者的に評価し、行動に生かす。この能力は「メタ認知」と呼ばれる。メタはギリシャ語の「meta」に由来し「高次の」という意味がある。大きな脳を持つ人間ゆえの営みだ。アリストテレスの大師匠、ソクラテスが説いた「無知の知」もその一例で、自分が分かっていないということを自覚する、というものだ。〔後掲理化学研究所2025.9〕

 そんなものをどうやって?というのは、純粋論理では到底到達できないと思えますけど、宮本チームはTMSという電気的手法によりこれをデータ的に解明していきつつあります。

※原注8.経頭蓋磁気刺激法(TMS) 電磁誘導を用いて、頭蓋の外から脳の表面を高い空間解像度で非侵襲的・安全に刺激する方法。うつ病治療など臨床的にも用いられている。TMSはTranscranial Magnetic Stimulationの略。本研究では、シータバースト刺激(continuous Theta-Burst Stimulation; cTBS)と呼ばれるパターン化された反復刺激シーケンスを用いて、脳の特定の領域の活動のみを短時間継続的に抑制した。

脳活動を経頭蓋磁気刺激法(TMS)で一時的に阻害する〔後掲理化学研究所2025.9 図3〕

 これにより、まず、「無知の知」を生み出す脳の部位は判明しています。それが前掲のTPJです。

自己よりもパフォーマンスの高いパートナー(エキスパート)のパフォーマンスを予測する場合には、メタ認知に基づいた推定が困難なため、過去の成績の履歴や信念に基づいたヒューリスティクス[3]が用いられ、従来の研究で「心の理論[4]」との関連が示唆されてきた側頭頭頂接合部(TPJ)[5]が、知識に基づいた他者の理解に特化した役割を果たしていることが分かりました。(略)
社会的メタ認知を適用することができない、エキスパートの成績も、ある程度は正しく予測できるのはなぜでしょうか。国際共同研究グループは、機能的MRI実験結果から、TPJがパートナーの問題の難易度に応じて活動を強めることを見つけました。(略)
〔後掲理化学研究所2025.1〕

※原注 3.ヒューリスティクス 発見的手法に基づいた人間の思考方法。特に、複雑な問題解決などのために、何らかの意思決定を行うときに、暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則のことを指す。これらは、経験に基づくため、経験則と同義で扱われる。判断に至る時間は早いが、必ずしも正確とは限らず、判断結果にバイアスを含むことが多い。
4.心の理論 他者の行動に心を帰属させ、他者の心の状態を類推しようとする能力。心の理論の働きにより、他者は自分とは違う考え方や物の見方をする可能性があることを理解できると考えられている。メンタライジングとも呼ばれ、特に発達心理学において、乳幼児を対象に社会性の成長の観点からさまざまな研究が行われている。
5.側頭頭頂接合部(TPJ) ヒトの側頭葉と頭頂葉が接する部分の大脳皮質領域で、下頭頂小葉(縁上回と角回)の下部と上側頭回の後部に位置する。これまでの研究で、「心の理論」に基づいた他者理解において普遍的な役割を果たすと考えられてきた。ヒトの他者理解の能力が、他者視点と自己視点を置き換え、自他を同一視し、他者の心の状態をシミュレーションするTPJの機能の範囲にとどまるのか、TPJ以外の脳領域の働きによって、他者の心的モデルに基づいて他者の心の状態を想像することが可能になっているのか、これまでに分かっていなかった。TPJはtemporo-parietal junctionの略。

 もちろん、TPJがなぜそんな機能を持ちうるのか、はここではエポケーされています。でも当面それで問題はない。
 ここまでは実験的に検証できてはいないようですけど、宮本チームはTPJの「無知の知」の延長線上の一類型として、コントラリアンをイメージしているようです。

≪Halten2≫逆張り戦略 コントラリアン

 未知の分野上にABの選択肢があるとき、大多数がAを選ぶ場合、それが大多数であるという理由で無知の主体はAを選択するのが論理的です。けれども、実際には、人間は「ひらめき」に動かされてBを選択する場合がある。イメージ的に言えば、それがコントラリアンです。

自己と他者との協同的な認知の調整を行う「社会的メタ認知」は、複数の行動主体(エージェント)が同時に参加する社会的な場面における集団的意思決定のプロセスを説明する、基本的な心理機能の一つと考えられます。ヒトや他の動物が集団になった場合に、あえて人気のない選択肢を選ぶ逆張り行動(コントラリアン[9]行動)が出現することが知られていますが、この社会的メタ認知は、中でもヒトに顕著な場面状況に合わせた柔軟な逆張り行動を生み出す原動力となるのではないかと考えられます。本研究で社会的メタ認知の神経基盤として同定された47野は他の動物と比べて特にヒトでよく発達した、進化的に新しい脳領域として知られています。この脳領域にさらに着目することで、ヒトの高度な社会性の起源の解明への発展が期待されます。〔後掲理化学研究所2025.1〕

原注9.コントラリアン 人間や動物の集団の中で他の個体とあえて違う行動を取る、逆張り屋・あまのじゃくのこと。

 コントラリアンは、その解説の多くがマーケット投資行動についてのものですけど、前掲宮本チームのようにこれを人間行動学として捉えるアプローチ、さらには生物学的なアプローチを採る研究分野も存在しています。
※ コントラリアン Boidモデルを用いた思考実験(アニメーション)〔後掲コントロリアン生物学〕 同内容元サイト画像 URL=https://x.gd/Ath9N(短縮)

私たちは群れ形成におけるジレンマを解消する重要な存在としてコントラリアンに着目しています。一見、反集団的なコントラリアンですが、その存在は集団内の潮流をリバランスし、魅力的な資源への一極集中を解決する可能性を秘めています。またコントラリアン自身にも競争を避けるがゆえに低コストで成果を得られるMinority advantageがあります。コントラリアンがいる集団では空きニッチが活用されることも重要です。つまり、集団内で起きる一極集中に対して自然とコントラリアンが発生する仕組みがあることで、利己的で独立した個同士であっても集合的均衡が可能となり、個および集団レベルで適応的となり得えます。
Boidモデルを用いた思考実験(アニメーション)。Agentの一つをコントラリアン(橙)として集団の進行方向(水平軸のみ)が揃うと反発させている。みんながHigh value rewardにつられて右の餌場に向かうので、コントラリアンはLow value rewardの左の餌場に向かう。〔後掲コントロリアン生物学〕

 さて、コントラリアンの一見反集団的でありながら構造的な形では集団を維持しているような性格を、既に我々は何度か見てきました。なかんずく以前、原始太陽系の小惑星にその機能を例えたことがありました。(内部リンク:m19Cm第二十二波mm2唐の船御嶽(ニライF68)/■レポ:具志頭と雄樋川流域の呈示する微細なるものの史観/https://yanben.sakura.ne.jp/d-yuki/2019/12/12503#i-14

ムラブリのキャンプの様子(Trier 2008: 22)〔後掲二文字屋 写真1〕

※Trier, Jesper 2008 Invoking the Spirits: Fieldwork on the Material and Spiritual Life of the Hunter Gatherers Mlabri in Northern Thailand. Aarhus University Press.

住居社会学(完善住房供給論)

 非定住民が海に出たものがいわゆる「海民」ですけど、それよりやや可視的で記録されやすい集団として、陸上非定住民があります。人類学の二文字屋さんは、タイ国境のムラブリについて稀有な研究をしておられ、併せてその構造主義又は社会学的な解釈を果敢に試みられています。

ムラブリ※は世界の根本原理である不確実性を飼いならそうとする定住民的態度とは異なる、不確実性を躱しながら柔軟に生きようとする基本的態度を前提にしていること、そしてそこには「身を引く」という遊動性に根ざした「遊動民的身構え」が認められることが示される。〔後掲二文字屋〕

※同著者記載 ムラブリ:「様々な民族集団が暮らすタイ北部で唯一の狩猟採集民として知られる」

 不確実性に対する対処法として、それを量的に減退法としての定住に対し、それから退避する回避策としての非定住(遊動)を、合理的行動として見ています。

 ムラブリ自身は蔑称だとして嫌うものの、「黄色い葉のお化
け」というミステリアスな呼称には、奇しくもゼノフォビア(引用者追記:よそ者嫌い)と遊動の関係が極めて巧みな形で表現されている。つまり「黄色い葉」とは風除けの屋根材であるバナナやヤシの葉が乾燥して黄色く変色した状態を、そして「お化け」とはよそ者にその姿を見せようとはしなかったことを指している。よそ者の存在を察知した時点で、ムラブリはすぐさま家財道具一式を抱え
て森の奥深くへと逃げていた。そのため森に入ったよそ者がそこで目にするのは、黄色く変色した葉が垂れさがった風除けや急いで消された焚き火など、人間が暮らしていたであろう僅かな証拠だけで、肝心の人の姿を目撃することはなかった。つまりそれが本当に人間の残した痕跡であるのか不確かだったことから、タイ人らはムラブリを「黄色い葉のお化け」と呼ぶようになったのである。〔後掲二文字屋〕

※原注9 ムラブリが従来から主な生活圏としてきたナーン県は、共産ゲリラとタイ国軍との武力衝突が度々起きた地域の一つであった。

 コントロリアンの研究を敷衍すれば、このような「お化け」的な「身を引く」行動様式は、「無知の知」を惹起する知の根源的機能の惹起と、本質的に似通ったものと考えられると思うのです。

ゾミアの地図〔後掲アルツハッカー〕

※原注「青い部分は、ファン・シェンデルが後に提案した地理的範囲の拡張部分を表している。」
※ファン・シェンデル:「研究者のウィレム・ファン・シェンデルは2002年に、ゾミ語に由来する「ゾミア」という用語を提案した。ゾミは、多くのチベット・ビルマ語派の言語で高地民を指す一般的な言葉であり、東南アジアマッシフの一部を形成する複数の国々で使用されている。「ゾミア」という名称は、10カ国にまたがる広大な地域の多様性と、高地に住む人々というこの地域の主要な特徴の両方を捉えている。」

ゾミア:山地遊動民の戦略

 上記ゾーン図を、ほとんどの人は見慣れないと思います。人口5百人と推定されるムラブリに対し、論者によっては人口1憶と数える非定住民の「世界」・ゾミアです。

ゾミアは世界で8番目に大きな国であり、その面積は25億平方キロメートルを超える。日本やメキシコに匹敵する1億3000万人以上の活気あふれる多様な人々を抱えている。(略)現代の世界地図にはゾミアは記載されていない。歴史的な地図にも、もちろん記載されていない。ゾミアが地図に載っておらず、聞いたこともないのは、ゾミアがあなた方に知られたくないからだ。実際、ゾミアの人々は根っからの無政府主義者であり、市民であるという概念を拒絶し、無国籍の状態を守ることに人生を費やしてきた。つまり、ゾミアは「非国家」の空間であり、国家のあるべき姿とは正反対の存在なのだ。〔後掲アルツハッカー〕

 既知の国家の地図上は、次の諸国の間に広がるゾーンに該当します。

国家による支配を受けずに生きるという集合的な戦略がどのように可能であったのかを、ゾミア――ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の5か国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の4省(雲南、貴州、広西、四川)を含む広大な丘陵地帯――に住む少数民族の歴史から紐解いている。〔後掲佐藤2014 1枚目p145〕

「ゾミア」著者スコットの認識によると、文明は少し高い山、500mほどの高地は、もう登れません。つまり、遊動民の側からすると低い山が十分に有効な障壁になるのです。--これは海についても連想の原型になります。一定規模の海域があれば、もう文明から「身を引く」ことが可能(だったの)です。

スコット タイトルはウィスコンシン大学のクラウズナー教授が教えている講義の題目から借りたものです。しかしこのタイトルを選ぶにあたっては、フェルナン・ブローデルの『地中海』を意識していました。『地中海』の第2章でブローデルは、文化と文明は平坦地を移動することはできるが、山を登ることはできないと述べています。つまり、山岳部と平坦地を比べると、そこには文化の違いがあるというのです。文明はおよそ標高500メートルを境に、山を登れなかったと彼は言いました。彼の指摘をさらに的確にするために、私は「文明」の代わりに「国家」という言葉を使ったわけです。
 本が出版される前、この研究について話をする時には「文明はなぜ山を登れないか」と少しおどけたタイトルをつけていました。しかし私の本の主張は、文明には山登りができないという点ではなく、人々は国家から逃げるために山を登る、という点にあるわけです。〔後掲佐藤2023〕

→その他、スコットの発想法 (内部リンク)文明はなぜ山を登れないか@ことばぐすい

文明と定住

 少し視座を整理します。西田正規さんは「人類史のなかの定住革命」の中で、定説としての農業開始→定住という時系列を逆転させ、「定住→農業開始」説を唱えました。
 これは単なる順序の問題ではありません。人類史における定住は、農業開始以上に重要な契機だった、と主張しています。換言すれば、人類にとっての自然状態は非定住、いや「Not A」表現での否定的な用字ではない「遊動」だった、ということです。

サルや類人猿などの高等霊長類は、互いに認知している100頭ていど以内の社会集団(単位集団)を形成し、その集団に固有な一定の地域(遊動域)を、毎日のように泊まり場を移りながら生活をしている。そして人類もまた、出現してからの数百万年を、遊動生活者として生きてきた。遊動生活の伝統は、人類が人類となるはるか以前から、実に数千万年の歴史を持っていることになる。
 人類は、出現の初期の段階で二足歩行を始めるとともに、ヒト以前からの伝統であった樹上生活を捨てた。人類を特徴づけている道具の使用や狩猟採集経済、大脳の大型化、言語の使用などは、すべて直立二足歩行の出現に伴って派生した一連の進化史的出来事と考えられている。そして人類は、今からおよそ1万年前頃、人類以前からの伝統であった遊動生活を捨てて定住生活を始めた。〔後掲西田←Bakersfield〕

 さらに言い換えてみます。人間は、自然状態では遊動した方がメリットが大きい。定住する方がデメリットが大きい。
 一方、定住民が必須であり、その人口に比例して強力になるのは国家などの統治体です。この統治体は、人間が集団的に自己を防御する仕組みとして選んだ形態ですけれど、ここでは模式的に「法人」として擬人化してお話を進めます。

定地農耕や賃金労働といった定住的な経済システムの把握・支配を得手とする多くの国家にとって、永住地を策定しながら遊動的な生活を送る人々を一定の土地へと定住させることは、野蛮な彼らを文明的かつ勤労な国民へとつくり変え、自国の管理下に囲い込むことと同義であったからである。ジェームズ・C・スコットが端的に述べるように、「「文明化」すること…(中略)…は、実質的には、国家に完全に統合され登録され、課税対象になることとほとんど同じ」(スコット 2013: 100)だったわけである。〔スコット2013←藤川2020 2枚目p107〕

 第3章「労働力と穀物の集積――農奴と灌漑稲作」では、余剰人口と穀物の地理的集積に着目する。国家形成の基礎となるのは収奪である。その一方で、山地民の移動耕作は中心から「読みにくい」。そのため、強制移住と定住化推進策がとられる。灌漑農業を基本とする均一的な農業生態系は、「水稲国家」でもある東南アジアの前近代国家が労働力の集積と収奪を目的として作られた。そして、国家による人口支配を担ったのは商品としての奴隷と捕虜、地籍図による課税対象の把握であった。このような国家には民族的・言語的背景が異なる集団が包摂され、同化し、混合していったため、血統ではなく実利の問題を通じて国家のアイデンティティが創出されていった。
 第4章「文明とならず者」では、「野蛮人」を国家の産物として位置づける。水稲国家の低地エリートは独自の文化をもち、文明化したカテゴリーを規範として創りあげた。ゆえに国家に組み込まれない、または編入を拒否する者を「野蛮人」と呼んだ。辺境におけるこの民族的分類の発明は、文化ではなく行政による支配に起因する。国家権力にともなう税、徴兵、人口稠密による貧困や疫病から逃れようとした人びとは、税制と階級制のおよばぬところに分散して暮らし、分節化した社会組織を保っていた。このように、民族/エスニシティという概念は、創られた国家の内部と外部のはざまに生じるのである。〔後掲佐藤2014 2枚目p146〕

 ちなみに、遊動民がほとんど史書に文字化されて残らないのも、同じ理屈上です。庶民の娯楽としての出版物が登場するまで、史書はほとんど統治側の装置であり、それに準ずる伝承も定住民によって同じ土地で別の時間に継がれるものだったからです。

 第6章+1/2「口承、筆記、文書」では、低地国家の隙間に入り込むように暮らしている国家なき山地民に共有されている、口承の伝統の特徴とその力が描かれている。筆記の伝統は政治と行政を恒久的に集権化させる道具として地位、英雄、領土を主張する。それに対して、口承伝承は国家そして「歴史」なき集団が描く物語で、旅程、敗北、移住、風景を強調する傾向にある。この伝統は低地社会との接触の際にその日和見的な力を発揮することがある。口承伝統で説明される習慣、系譜、歴史が他集団との利害関係に応じて戦略的に再構成される点がそれに該当する。〔後掲佐藤2014 2枚目p146〕

 以上は「国家の収奪」といった、庶民側を被害者とする表現でのものでしたけれど、構成員の側からすると、一定のメリットを計算して「収奪されてやっている」ものだったはずです。なぜならば、「遊動」を基本体とする前記立場からすると、我々構成員は放っておけば戸籍から蒸発し、税金を滞納する「不良定住民」だからです。つまり、我々は、収奪される対価をある程度して定住しています。--この場合のメリットとは、最古のステージでは集団防衛と集団衛生、最近では行政サービスと交通・情報インフラなどです。
 ただし、このうち交通インフラの充実は、我々の潜在的「不良定住民」度をより高めてしまってます。例えば、21世紀の我々は、(ある程度の財布を痛める覚悟をすれば)明後日には地球の裏へ行ってしまえます。ゾミアは全球的になったのです。

『ゾミア』の中心は、東南アジアの山岳地帯です。しかし重要なことは「ゾミア」は世界中にいくつもあるという点です。例えば、アフリカの一部にも似た地域を見つけることができます。またインド洋と大西洋に広がっていた奴隷貿易ネットワークの外に逃げた人々が集まった地帯もあります。いずれはアフリカ、ラテン・アメリカ、中央ヨーロッパでも「ゾミア」を見つけたいと思っています。〔後掲佐藤2023〕

 逆に言えば、統治体にとって厄介な時代になりました。相当の対価を具体的に約束しなければ、滅多なことでは定住してくれないのが現代のホモサピエンスなのです。

(非日本国内向け)ハウジング論

住房城郷建設部副部長董建国在8月23日国新董挙行的新聞発布会上,就完善住房供給体系、増加保障性住房建設和供給方面,発表了重要観点和政策尋向。以下是対其発言内容的詳細解読:
一、完善住房供給体系的重要性
 董建国副部長指出,完善住房供給体系是当前房地産市場発展的重要任務之一随着城市化進程的加快和人口結束的変化,住房需求呈現出多元化、差導化的特点。因此,建一個科学、合理、高效的住房供給体系,于満足人民群衆的住房需求、促進房地産市場的平穏健康発展具有重要意義。〔後掲騰訊岡〕

 長らく経済発展を牽引してきた不動産市場の崩壊傾向を受け、2024年に中国中央の住宅供給責任者が発した声明です。十分に良質な住宅の供給体系構築は不動産市場発展の重要な任務である。それは都市の効率的な進化に伴い、より多元的な要求になってきているが、それは「一個科学、合理」自然で合理的な傾向であると受容して、結論的に「保障性住房」(福祉的住戸)を増設すると言っています。
 21世紀に入ってからの世界各国の住宅行政のコモンセンスは、劇的に変貌しました。それは、粗く言うと「住む権利」の自明化です。例えば、ある国の路上にホームレスがいたならば、それはその国が義務を果たしていないことを意味するのです。もしあなたが、明日、住むところがなくなっていたとしたならば、国又は自治体を訴追することが可能です。
 これがナンセンスに聞こえるならば※、まず住生活基本法をお読みください。

○ 住生活基本法(平成18年法律第61号)
(公営住宅の供給)
第三条 地方公共団体は、常にその区域内の住宅事情に留意し、低額所得者の住宅不足を緩和するため必要があると認めるときは、公営住宅の供給を行わなければならない
(居住の安定の確保)
第六条 住生活の安定の確保及び向上の促進に関する施策の推進は、住宅が国民の健康で文化的な生活にとって不可欠な基盤であることにかんがみ、低額所得者、被災者、高齢者、子どもを育成する家庭その他住宅の確保に特に配慮を要する者の居住の安定の確保が図られることを旨として、行われなければならない。
(国及び地方公共団体の責務)
第七条 国及び地方公共団体は、第三条から前条までに定める基本理念(以下「基本理念」という。)にのっとり、住生活の安定の確保及び向上の促進に関する施策を策定し、及び実施する責務を有する。〔e-gov〕

※2025.7.24に某・米トランプ大統領は「全米でのホームレス対策を一新する大統領令」を発令し、これにより従来の米住宅施策の基本だった「ハウジングファースト」(まず住む場所を)施策※※は否定されたと評されているので、この国の影響下にある属国的政権下では、暫くの間、逆行トレンドが生ずる可能性は高い。だから、前掲の訴追をしたとしたら、属国内では敗訴する可能性が高い。
※※1979年「キャラハン対キャリー訴訟 Callahan v. Carey 判決」は、「ビッグルーム」(ホームレス用冬季収用施設)のベッド提供が十分でなかった点につき、ホームレスに代わって州に対して市民が訴訟を起こしたもの。勝訴判決に基づき、市は避難所の状態を原告側の弁護士に定期的に報告することも義務付けた〔出典:wiki/Callahan v. Carey 及び同GOOGLE翻訳
URL=https://en.wikipedia.org/wiki/Callahan_v._Carey〕。

 ただ、この権利を獲得したのは、残念ながらアジアの人々ではありません。パリの市民です。パリのホームレスは、自分たちが「屋根の下に暮ら」していないのを行政の義務不履行として追及したのです。

フランスでは2007年1月,ホームレスや母子家庭などで居住困難に陥っている人々が,パリのサンマルタン運河沿いに200のテントを張り,「屋根の下で暮らす権利」を主張するデモンストレーションを行ったのに対し,シラク大統領は「繁栄のそばに極度の貧困がある現実と闘うために居住権を国民の基本的権利にすえる必要がある」と演説し,ドビルバン政府が3か月を経ずしてDALO法(住宅人権法)を制定している.〔後掲本間〕

 この結果成立したのがDALO法(Loi sur le droit au logement opposable 住宅人権法)です。

 この法律は第一条で「フランス国内に居住し,品格があり,独立した住宅を自らの資力によって手に入れるか,あるいは維持できないすべての人々に対し,住宅への権利を国が保障する」としるし,フランス全土で約10万人いるといわれるホームレス,母子家庭に対しては2008年から,一般国民に対しては2012年から公設のシェルター,社会住宅への優先入居を認めている.それらの人々には訴訟権が付与されており,自治体などが彼らの入居希望を断ると訴訟を起こすことができる.したがって自治体は入居を断れない仕組みになっている.
 ついでながらフランスでは昨年,都市住宅省の機能のほとんどを社会福祉省に移管し,住宅行政を社会政策として位置づけ展開する行政改革を行っている.〔後掲本間〕

初っ端で道を踏み外した日本公共住宅

 2025年現在、東京都が「アフォーダブル住宅」(購入可能な適正価住宅)政策を稼働させて「正常化」の一歩を踏み出しましたけれど、都が実質的に施策を牽引しなければならなくなっているほど、日本の公営住宅行政は既に暗礁に乗り上げています。
 上記引用でフランスの公営住宅は社会政策として明確に位置付けられ、その時点で社会福祉省に全面移管されました。日本での失敗の根本原因は、戦後の住宅行政の立上げ時点で、福祉政策ではなく建築行政としてのフレームが出来てしまったからです。

日本には戦後の混乱期、住宅が社会保障政策になったかもしれない分岐点がありました。
 1951年、厚生省(現・厚生労働省)は低廉な公的住宅を建設するため「厚生住宅法案」をまとめていました。住居に困っている人を対象にした住宅だけでなく生活支援をも含む福祉政策でした。
 その動きに対抗したのが建設省(現・国土交通省)。中所得層向けに住宅供給を促進する「公営住宅法案」をつくり、住宅産業への支援に傾いていきます。
 両省の激しい駆け引きを経て、建設省の公営住宅法案に軍配を上げたのが、後に首相となる田中角栄氏=写真=でした。自ら推す建設省の案を、厚生省が口出ししづらい議員立法で法案化し、成立させたといわれています。
 公営住宅法は、厚生省案を一部盛り込み、憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活を営む」権利である生存権の実現を目的としてはいますが、社会保障政策としての理念は、時代の地層に埋もれてしまったのです。
 その後、田中氏は不動産・建設業界との連携を強め、民間による土地・住宅開発を推し進めます。それは「日本列島改造論」へとつながっていきますが、列島改造論は不動産業界の土地買い占めで地価高騰を招き、庶民の住宅確保はますます遠のいていきました。〔後掲中日新聞〕

 現在、基本法と位置づけられている住生活基本法は、趣旨的に明確に福祉行政基点のものです。けれども、上記の建設省(現・国土交通省内)時代に林立された公営住宅とこれに伴いバラまかれた巨額の経済循環が、現実のパワーとして「田中角栄の亡霊」たる建築行政からの脱却を阻んでいます。ただし、ここから日本の低所得層がある程度の率と数を占めるようになれば、やむを得ず、この亡霊は成仏し、日本の公営住宅は世界のコモンセンスである福祉住宅に合流していかざるを得なくなるでしょう。

理想論では済まなくなった社会権規約

 上記のような「過激」な居住権議論は、「日本では(まだ)通説化していない」という議論があります。この点は、2025年6月の生活保護訴訟敗訴で法的に論点になりました。具体的な法令類で言えば、国連の「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)が日本の福祉等施策までに効力を及ぼすのか、という点です。
 これは明確です。下記は原文ですが、現在の国際法制に誠実な立場をとる以上--明らかに効力が及びます。

PART II Article 2
1.Each State Party to the present Covenant undertakes to take steps, individually and through international assistance and co-operation, especially economic and technical, to the maximum of its available resources, with a view to achieving progressively the full realization of the rights recognized in the present Covenant by all appropriate means, including particularly the adoption of legislative measures. General comment on its implementation
第2部第2条1.この規約の各締約国は、立法措置その他のすべての適当な方法によりこの規約において認められる権利の完全な実現を漸進的に達成するため、自国における利用可能な手段を最大限に用いることにより、個々に又は国際的な援助及び協力、特に、経済上及び技術上の援助及び協力を通じて、行動をとることを約束する。〔UnitedNations←後掲日本弁護士連合会〕

 まず上記2部2条1は、「利用可能な手段を最大限に用い」て「行動をとる」ことを、日本を含む各締約国が既に約していることを示しています。

PART Ⅲ Article 11 General comment on its implementation
1.The States Parties to the present Covenant recognize the right of everyone to an adequate standard of living for himself and his family, including adequate food, clothing and housing, and to the continuous improvement of living conditions. The States Parties will take appropriate steps to ensure the realization of this right, recognizing to this effect the essential importance of international co-operation based on free consent. General comment on its implementation
第3部第11条1.この規約の締約国は、自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善についてのすべての者の権利を認める。締約国は、この権利の実現を確保するために適当な措置をとり、このためには、自由な合意に基づく国際協力が極めて重要であることを認める。〔UnitedNations←後掲日本弁護士連合会〕

 3部11条1は、その約束の内容です。すべての者に、次の権利が認められています。--自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善。

「まずは住まいを」という当たり前

 定住の対価の高額化は、人間生活の要素の中での「住」のバランス上の傾斜も意味していると考えられます。
 近代以前の人類と現代人が並んで座っていると想像してみましょう。
 両者とも、食うものは同じでしょう。現代人の方が、柔らかくて美味又は刺激的なものを望むかもしれませんけど、その程度です。
 同じく、着るものも質的には似ているでしょう。現代人の方が、彼らにとって「センスの良い」ファッションを求めるかもしれませんけど、まあ自己満足の問題です。
 けれども、住む面では全く異なります。19世紀後半には、いくら冒険的な金持ちでも世界一周に80日かかった訳ですけど、インフラと交通用具の進歩は、我々がふと「住みたくなくなった」ら移動できる範囲を格段に広げてしまいました。また、経済基盤その他ツールの進歩は、全く異国の文化圏内で我々が生活できる可能性を格段に高めてしまいました。
 つまり、前掲社会権規約が同じ「相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準」という表現を行っても、現実には「住居」の要求水準がバランス上大きくなっている、と考えられるということです。前掲「ハウジングファースト」(まず住まいを)という発想法は、この現実的な「住」要求のバランス増高を基礎にしている、と想像します。
 現在のハウジングファーストの水準は、次のようなものです。

1 居住者は、治療受入れや治療コンプライアンスを前提とすることなしに、路上やシェルターからすぐさま住宅に入居する。
2 住宅の提供者は、ロバストな支援サービスを居住者にもたらす義務がある。これらのサービスは、強要ではない、アサーティブな関与を前提とする。
3 借家の継続は支援サービスへの参加に左右されてはならない。
4 本アプローチの対象は、当該地域において、様々な障害を持ち様々な意味で脆弱なホームレス状態にある人である。
5 依存症に対してはハームリダクションアプローチを採用し、完全な節制を義務とはしない。そして同時に、住宅提供者は、居住者のリカバリーをサポートしなければならない。
6 居住者が法律の下で賃借の保護を得られるようにする。
7 このアプローチでの住宅提供は、集合住宅型で行うことも地域散在型で行うこともできる。〔Downtown Emergency Service Center←後掲「日本におけるエビデンスに基づく政策の推進」プロジェクト ハウジングファーストの原則〕

 社会権規約では、「完善住房供給」水準が各国に求められたわけですけど、我々個々の人間にとっては、必ずしも訴訟して各批准国と法廷で戦う必要はありません。それは前記の文脈から明確なことです。
 住環境を整えてくれない国からは、いつでも離脱すればよいのです。それによって、「完善住房供給」上不完全な国は、一歩だけ滅亡に近づく。--国ベースでもそういう時代ですから、自治体サイズであれば、例え過去「三大ニュータウン」(千里・多摩・高陽)と呼ばれた土地であっても、イチコロで滅びます。産学官連携で進化を続ける府、アフォーダブル住宅を掲げファイナンス化する都のような、国の代わりに住宅行政を牽引し始めた次世代ハウジング主体とは、既に施策の次元が違ってしまってます。

ハウジングエリア

「ハウジング」という語を安易に使ってしまっていますけど、日本語では適当な言葉が見当たりません。前記の、不動産供給に本当に悩む中国が使っている「完善住房供給」が、アジアの言葉としては一番近いと思い、標題に用いています。
 長く経済をけん引してきた不動産マネーが滞ることによって、中国経済は根本的に潰れる、という未来予測は、中国自体が早くから意識しています。
 漢民族圏では、シンガポールの「完全国営」住宅の成功がよく知られており、中国は最終的にその姿に回帰しつつあるのではないか、という観測もあります。

シンガポールでは、人口の80%以上がHDB(Housing and Development Board=住宅開発庁)の下にある団地1)に居住する『総団地化社会』が築かれて久しい。団地居住率は、1988年度から1992年度にかけて87%に達し(鍋倉2011: 142)、2020年度は80%である(HDB年報2020/21: 8)。
 総団地化社会では、華人・マレー人・インド人・その他から成る多人種2)による共住社会を実現するために多人種共住政策が行われているほか、PAP(People’s Action Party=人民行動党)による一元管理社会を実現するにあたって、団地が格好の手段となっている。〔後掲鍋倉 1枚目p4〕

 シンガポールの住宅政策は、イギリスに類似した住宅購入方式で、これに強制貯蓄制度を組み合わせたところが特徴的です。そういう意味では、日本型の仮入居・間借の方式と、最初から完全に決別しています。

シンガポールでは,定年退職後の生活に必要な蓄えを積み立てる目的から,1953年に中央積立基金令(Central Provident Fund Ordinance)が制定され,1955年にCPFの制度が開始された。1968年には,国民の生活改善と国への帰属意識の強化のため,住宅開発庁(Housing and Development Board,HDB)が建設するHDBフラットと呼ばれる公営住宅を購入する際に,CPFの積立金を充てることが認められた。〔後掲北野 2枚目p89〕

 実際にバスで回ってみるとよくわかりますけど、あのシンガポール島は、半ば公営住宅の塊と言ってもいい。

Location of HDB Developments シンガポール全土を覆うHDB公営住宅エリア〔後掲HDB〕

 こうなってくると、ハウジング論は、単体の住居の問題ではなくなり、「住宅圏」あるいは「住宅環境」の問題になってきます。

ベルリンのDWE:再公営化運動

2018年秋に、旧東ベルリン地区にあるカール=マルクス=アレーという大通りの680戸もの賃貸アパートがドイチェ・ヴォーネン社に売却されることが発覚した。カール=マルクス=アレーの住人たちはドイチェ・ヴォーネン社が必要のない改築などをして大幅に賃料を上げ、自分たち住民は賃料が払えずに追い出されるだろうと予測した。この典型的な家賃値上げの戦略はおそらく世界共有だろう。カール=マルクス=アレーの住民たちは追い出される前に闘うことを選んだ。住民はこの売却を見直し、妥当な家賃が維持されるようにベルリン市に介入を求めた。
 驚いたことに、2019年2月ベルリン市はこの要求に合意し、ドイチェ・ヴォーネン社に代わって、市が316戸のアパートを、フリードリヒスハイン=クロイツベルク区が80戸のアパートを購入することを決定した。これで680戸の賃貸アパートのうち過半数が公的所有となった。その購入価格の合計は1億ユーロ以上(約125億円)と言われている。
 これは象徴的な出来事ではあったが、突然でもたまたまでもない。ベルリン市長のミッシェル・ミュラーは先駆けて2019年1月、ドイチェ・ヴォーネン社の5万戸のアパートを買い上げると発表している。ベルリンの現市政は住宅市場の投機やジェントリフィケーション(都市開発による低所得地域の高級化)で、ベルリンが「住めない街」になっていくことを真剣に止めなくてはいけないと考えているのだ。このような経過もあり、賃借人協会などの組織と市民グループが連合して、3000戸数以上のアパートを所有する家主から市がアパートを買い上げることを求める「ドイチェ・ヴォーネンキャンペン」へと発展した。〔後掲岸本〕

 最終的な経営形態として、ドイツの運動が行きついたのは日本の国交省が「都市公社」と訳す、いわば「公営住宅単位の自治体」です。

独シュタットベルケの概念図〔国土交通省2021〕

シュタットベルケによっては、都市の駐車場経営、港湾・運河管理、地域住宅会社の運営、病院や文化施設の維持など、多様な業務を担う場合もあります。これらは都市ごとに事情が異なりますが、要はシュタットベルケという仕組みが「地域のニーズに応じて何でもこなす」柔軟な公企業として機能していることを意味します。例えばフランクフルト市のシュタットベルケ(Mainova)は図書館やプールなど文化施設の管理も行い、シュタットベルケ・ケルンは地域住宅会社を傘下に持つなど、サービス分野は多岐にわたります。
 このように、シュタットベルケの組織・制度・財政・事業は千差万別ですが、それぞれの地域事情に合わせた形態で住民サービス提供の役割を果たしています。法制度的には各州の自治体法の下で運営されますが、重要なのはその使命が一貫して「公益(ffentlicher Zweck)の追求」にあることです。〔後掲P-Cross-P〕

ベルリン戦略2030の方針別目標提示〔後掲菊地〕
※2030のハウジング戦略づくりで、ベルリン市は、参加のプロセスを大事にし、市民をはじめ企業・行政・議員を含め600人参加の議論で作成した。結果、15年後に向けて、①活力、②環境スマート、③創造的都市、④緑の豊かさ、⑤都市性、⑥市民参加、⑦教育・研究、⑧総合性ある都市を掲げることとした。基本姿勢として、低所得者層のアフォーダブルな住宅確保と、新しいニーズへの対応。コンセプト、マスタープランを作成し、手段をつくる。また、住宅供給は、政策に準じた条件付けでPPPなど民間活用で実施。また市助成により、公益企業体の再生を強めていく。その他、・市では低所得者の地区モニタリングシステムをもっており、ある地区に失業・貧困者が偏らないか集積していないかを調査する。

公共住宅経営体によるハウジングコントロール

 2026年に訪れた広東省中山では、多くの町が「15分鐘生活圈」を掲げ、その圏域内で生活必需品が入手できる設計に苦心していました。--昔、京都人が標榜していた「半径2百m」生活論は、唱えられ始めた頃は京都人らしい偏屈な論理と見られてましてけど、既に世界潮流化しつつあります。特に大陸中国は、良くも悪くも共産主義がちがちの時代に造られた自治組織が基盤になって、そういうことを良くも悪くも推し進められる形態になってます。
 その京都人は、最古の公営住宅の一つ・堀川の再構築にあたり、もっと過激な「時空可変住宅」を構想し始めています。

未来に対し選択肢を残すシナリオ・アプローチ〔後掲高田〕

 団地再生ためのハードな技術提案は進歩していますが、ソフトな技術提案はまだまだ不十分な状況です。 住まいや まちづくりの計画を専門家だけでやるのではなく、住まい手自身が行う、住まい手が参加して生活空間を作っていく方法を確立しないと、 いくらハードな技術を用意しても役立ちません。
 シナリオ・アプローチは、「未来をどう予測するか」ではなく、起こりうる可能性のある複数の未来を描き、「その未来が来たらどうするか」という、不確実性の高い未来に対する問題解決を図るものです。つまり、単なる未来予測の手法ではなく、起こりうる可能性のあるどの未来が到来しても、それらに対する対応力を向上するための方策であり、意思決定を支援するものです。〔後掲高田〕

 10年ほど前から賛否両論が出ている韓国ソウル市のソンミサンマウル  は、やや日本人が騒ぎすぎの面もありました。けれど、住宅問題や経済問題の範疇から出て、町全体を育成していくという意味では、例えばイデウォン・クラスなど韓国ドラマにも普通に描かれる手法になってきています。元のソンミ山村の基本フレームは、入居25世帯の出資金による協働組合が町を運営する、というものでした。
 話が飛びすぎました。要するに、既に「ハウジング」=住環境の適正化という課題は、部屋の中の次元を超えたものとして、我々の種に突き付けられている、ということです。この段階の「ハウジング」が、果たして近世以前に定住vs遊動というような対立軸上に描かれるものなのかどうか?多彩な定住者のかたちの一つが、遊動民でもある、というような、「メティスの知」に開かれた住み方を包含するコンセプトは、思いがけないほど近くまで来ているように思えるのです。
 ここまでお話して、より根源的な転換をお求めしなければならない認識は--このハウジング論というパースペクティヴが、現日本人のコモンセンスを遥かに超えて、ポスト現代の人間にとって重要な課題になるであろう、という点です。

住みながら天邪鬼コントラリアンはメティスの知

 最後に思考実験です。人間の基本姿勢を遊動と捉える立場は、自然には統治体に属さない●●●●●●●●●●●●ということを意味します。これはアナーキズム(=統治体に何が何でも属さない)ではなく、いわば停止条件付構成員、という立場です。
 この時の停止条件は、国籍や戸籍や生活保護・医療受給権ではありません。単純な話で、遊動を一時的に停止する条件は適切なハウジングの供与●●●●●●●●●●●です。なかんずく、遊動性を回復するに至ったポスト現代人にとって、ハウジングを提供しない統治体には、経済法制や関税率が幾ら有利でも、法人設置はともかく、生活者としては帰属しなければよい。これは、例えば、香港返還時に同地で起こった離脱運動などを振り返れば分かりよい。
 さて、この点は宮本チームが実証したものではありませんけど…農耕社会から山へ身を引いた群れ、陸上の騒乱から海へ離脱した群れ、劣悪な住環境国家(又は自治体)から脱却した群れ、これらは各定住社会内よりも未知で狂暴で不確実な事象に遭遇することが多いでしょう。ために、これらに対応する「無知の知」を発動させる経験が多く、結果的に(どういう脳科学的経緯によるかは未解明ながら)それら現実に対する有効性の高い「メティスの知」を得ていくでしょう。
 まずは「エクソダス」(脱出)ありき、という風に最初は始まるのかもしれませんけど、多分すぐに、大多数がエクソダスしている状況が訪れるのではないかと想像します。大多数がエクソダスする、という前提条件は、--トランプの米帝国とその属国群の姿からは程遠くても、近い将来常識化されると信じますけど--「いつでも家が提供されるハウジング・ファースト」社会装置が多数を占めるということとイコールです。
 この見方が間違っていなければ、本稿で扱っている知性とは、過去の、遠方の海に漂う海民が持っていた伝説上のものではなく、明日、我々が纏うことを余儀なくされるスペックだということになります。即ち、ごく近い未来人の「普通コモンセンス」です。もし万一、あなたが骨の髄まで定住者だったとすれば、その時代の感性に耐えらない、かもしれないことを覚悟した方がよいでしょう。

▼▲