FASE86-2@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#平明な根の榕樹たり草いきれ\ 田港根神屋

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
∶大宜味塩屋湾岸のみ


1149大宜味集落道。郵便配達が走り去る。

宜味塩屋海岸から大宜味集落の路地へ、概ね東行。1149。
1150大宜味集落脇道と,北だけ晴れて青い空

?(記憶と異なり)天空が物凄い蒼です。
 神の日もいい加減にしてほしい、という荒天。これもまた沖縄です。
1150電柱に絡まり登るハイビスカス

……て、ハイビスカスにはロバツスなどごく少数の種を除き、蔓はないはずです。多分蔦の植物の下から他の花が顔を出した……のかな?
大宜味海側から見る塩屋湾

くに湾に出てしまった。
 舟影がゼロです。
──別日に来て塩屋大橋を歩いて渡った時にも、やはり見なかったから……漁で出払ったのではなく、本当にいない。素人には良い港に見えるのに……なぜ?

大宜味湾岸道北側
1202森川子の宮

校跡※らしい。頭上のラッパから正午のオルゴール。目的地・森川子の宮。 

※GM.表示では現・大宜味ユーティリティー センター。GM.クチコミには「大宜味村立旧塩屋小学校の廃校舎を利用した施設」とある。

鳥居前の広場

居前の広場が、モーアシビなどのためのパティオでしょう。
 鳥居の左手にガジュマル。
手前祠の祭壇

途、左に柵のある祠。奥に庇の片方欠けた祠。
 祠内には石一つ。
 後方は学校,イビはない。おそらく(校地が出来る前の)海がイビです。──と当時決めつけてますけど、細かく言えば湾の内側出口を向いており、境界神の色彩もあります。
奥の祠の祭壇

祠には石が沢山。ただし形もバラバラ。
──巻末で触れますけど、まさにこの塩屋湾の文化状況を表すような、脈絡のないバラバラぶりです。
こども会館横手の祠

ども会館前右手隣の空地にも小さな祠。1209。
 供物なし。ただ燃えカスあり。
 不思議な感触を受けたのを、記憶しています。天も少し微笑んでるし、塩屋湾を回ってみる気になりました。共同店から右手湾奥側へ。1213。
共同店の三叉路

川共同店。天に急かされ先を急いだのか、この時はスルッと通り過ぎてますけど……勿体なかったなあ。
 いかにも味のある、好い外観の共同店です。
大川共同店〔yass←GM.転載〕

古、1215。
 蝉時雨のみ響く。
「チョウの採取禁止」看板。
──この集落もこれだけでスルーしてます。勿体ないお化け続出です。巻末参照。
なぜか「チョウの採取禁止」


港(たみなと)、1219。
 ここには仮目標の拝所を見つけてました。入ってみます。
田港の湾岸光景

港根神屋
〔日本名〕国頭郡大宜味村田港
〔沖縄名〕たみなとにがみや
〔米軍名〕- ※
※塩屋白浜(渡野喜屋)では、1945年5月12日夜、日本兵10人が婦女子を主とする住民50人を死傷(うち35人殺害)させ村落指導者四、五人を連れ山に戻る事件が発生。日本兵は第32軍第44旅団第2歩兵隊国頭支隊の敗残・山中潜伏者とされる。「渡野喜屋集落の避難民は米軍から食糧を支給され日本兵の動向を米兵に通報しているスパイ集団である」と認識していた、などの記録が米軍記録(G-2 レポート)や読谷村史(女性証言)に残るけれど、詳細は不明のまま〔後掲Thoughts About Peace〕。なお、同G2レポートには、1945年4月13日時点で米軍は1万3000名から尋問を終えたと記録されており、情報収集活動が行われたことは確からしい。

奥、田港根神屋(→GM.)。
 本屋の前に、まず東屋を目指す気になりました。だけと……右脇から奥に道。奥へ進んだけれど本当に果樹園(シークァーサー?)だけしかない。

シークァーサー畑の中を伸びる山道

屋──に見えます。拝みや供物、壇はない。
 ただ、後から写真を見ると……神アサギっぽい場所にも見えます。ここで祭事をしてるのかどうか、確定できないけれど……。
集落を見下ろす東屋

。周囲の低い石積みは、田港集落にとって、この場所が古くからの何かであったことを……疑わせます。
 塩屋湾の時空は、なべてこのような手触りでした。限りなく淡いけれど、確かに在る、とでも言うのでしょうか。
東屋周辺の低い石積み

神屋について言えば、ピュアな意味で、湾と集落を見下ろしている。ただそれだけの神サマなのです。
 これが本物、だと感じられる態様です。
東屋から見る田港集落

田港集落光景1

岸道路へ戻る途中、ウフエ屋と記す拝所ひとつ。
「ウフ」は「親」「大」の蓋然性が高いですから、根屋(村の創始に関わる拝所)かもしれませんけど──これまたスッキリしてます。
ウフエ屋碑と広場

と上に設置されてるビニールハウスの骨みたいなのは、日除けをして宴会をするためでしょうか。
町の標語と石敢當

湾奥の青いクレーン

屋湾最奥には二機のクレーン。「大保」という地名はまさに香港です。1244。
──何のことか普通は分からんけど、香港大埔(→GM.)のことです。ただし、漢字「埔」は「広い平地」という以上の含意のない、ややアバウトな字義です。
 地形が違うのか南湾岸は山道ばかり。おそらく最近まで、大きな道は北湾岸だけだったのでしょう。またこの南岸道が、本島東岸・東村との連絡路入口にもなってるらしい。1253。
塩屋湾南岸の道

波T字路でようやくR58に戻る。1255。左折西行。
 1308、源河。ここも気になるけれど……雨が迫ってる気配。
稲嶺三叉路から入った道。名護側の空が再び暗い。

嶺三叉路を左に入る。1315。
 北の天は晴れてるけど……南は真っ黒。その境目が頭の上にある。要するに、今にも降り出しそうです。
1320やっぱり北側は晴れてます。

この日1330現在の雨雲レーダー

井等の交差点辺りの道幅は、ほぼ百メーター道路状態。……ここが収容所敷地跡だと推測する。
 名護に入ると、路側が水で溢れてる。どうやら局所的な集中豪雨が、名護にはついさっき降って、今はほぼ上がった──という不可思議な状態らしい。とにかく雨にはかからずにすんだけど……35km亀さん運転のまま進んでると、チラリと雨。いや、結構降ってきた!おおおっ!!
 名護東江にたどり着きまして──あ!開いてた!!
オリエンタル食堂の骨!

ギナーズラックというのはまさにコレ、という訪問でした。骨を選んだのも店内に入ってからです。
1344 オリエンタル食堂
ほね汁550
 後から調べると──沖縄人うちなんちゅもここの骨は濃過ぎて、賛否両論らしい。けど個人的には、コテコテ感がここまであるのが個性として気に入ってます。山原で食えるのはここだけじゃないだろか?これだけそば屋があるのに……なぜなんでしょう?そばなどの味付けを考えると、豚骨への依存度はむしろ中部より強い感があるのに。
 逆に言えば……山原のこの店がなぜ中部由来のこの料理を供するようになったのか、どうも想像がつきません。でもメニューの並びでもスミにあるから、店側も、おそらく隠れた名物として売出してる感じです。
オリエンタル食堂の骨汁のスープどアップ!

こから3時間ほど──記録を残してません。
 確か、もう一度雨に降られて、かなりヒドい目にあったまま、連泊なので昼寝と洒落込みましたら、実は結構疲れてて寝過ごしてしまった……と記憶してます。沖縄は、ルートとスタンスによって、何かよく分からない疲れがドッと出ることがあります。ワシだけか?
1837名護の夕暮れ空1

下の二枚は、宇茂佐の近辺から見た黄昏時の雲。「神の日」の夕方らしい空の貌です。🛵
1845名護の夕暮れ空2

茂佐の森三丁目(→GM.)の「まるふく」へ行ってみたけれど,コロナ対策かGM.上の閉店時間より早く既に閉まってました。そば屋も同じと思われる。どうしよう──と帰りかけてたら。
 二回目位の名護で通りがかりの弁当屋で買った弁当に無茶苦茶に感動した記憶があります。それ以来、沖縄でしばらく弁当にハマっていたほどですけど──買ってみるか? ※多分、ふぁみりー弁当 名護店……だったろうと思う。
名護の弁当屋さんのひじきイリチー

後に一つだけ残ってたヤツをゲット。ついでに隣にあった唐揚げ屋にも寄ってみる。
 この唐揚げも結構有名らしく、他の客は全て予約して受け取りに来てました。
福まんの唐揚げ

福まん家名護本店
「元祖長崎 発祥の店 県民 あご出汁から揚げ」
「アゴだしと椿油でサクサク,つやつや」なんだそうだけど──
 宿での実食結果。唐揚げは中津とかとは全然別物の爽やかな揚げ心地。変な言い方だけど、上品な天ぷら屋の鳥天みたいな歯応え。折角そうしてあるのにこれに、ニンニクむんむんの(宿でエレベーターの中に臭いが残ったほど)ソースがどっぷり。確かになかなか例はない。面白い創造をするものです。

当は──なぜでしょう?記憶以上に旨かった。特に(写真手前の)ヒジキのイリチャーみたいなのがトンデモなかった。ハンバーグとか洋食系は和食のフワフワさはない。何か味覚のコントロールが名護は微妙にズレてるのでしょうか。
 最後の屋部川を闇の向こうに感じつつ帰着。川音を聞きながら(階が高いし窓があるから,もちろんそんな気だけしながら)過ごした名護の最終夜でした。

■レポ:塩屋は平明なる迷宮▼▲

 本文では、この素人目に見た「良港」・塩屋湾に船陰がない点に首を捻りました。でもこの湾は、それどころじゃなく、とにかく分からない。見た目、あっけらかんと平明な風光なだけに、その謎の深さがより際立ちます。

沖縄本島北部,国頭(くにがみ)山地の西側で,塩屋湾北岸に位置する。地元ではサーといい,「ペリー訪問記」の地図でも,塩屋湾をシャーベイ(Shah Bay)と記している。地名は,この地にかつて塩田があったことによるという。旧盆明けの初亥の日に,豊年を祈願するウンジャミの行事が行われる。〔角川日本地名大辞典/塩屋〕


ャーと言ってもアズナブルてはないけれど、音からすると類似する「塩」(シオ)から来てるかどうかは、とうも不確かです。沖縄語では塩はマースだし、「塩田」を何と言うのかは未確認。でもとにかく、下記の宮城島(湾口)及び大保(湾奥)何れにも入浜式塩田があったことは、画像から推定されます。つまり「塩屋」は古音「サー」に似た漢字表記が求められた時代に、たまたまそこに塩田が多かったから「塩」に因んだ用字を選んだ、というところでしょう。

7-96・97 宮城島の風景 右側は塩田(後の村営宮城団地付近)1954(S29)年9月5日〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 13枚目p242〕
7-91 埋立前の大保(塩屋湾東奥∶塩田光景) 1962(S37)年〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 12枚目p241〕

 下記角川/塩屋湾からすると、元の音は「サー」に近かったかもしれません。──雑感ですけど……ペリーらアメリカ人が「シャー」と書いてるように、日本語の「サ」発音は実は結構稀です。2014年頃、サッカー日本代表のW杯メンバー発表でザッケローニ監督が大迫選手を「オザコ」と言ったのが話題になったけれど、「SA」の発音ができず悩んでる日本人もいる位です。現代中国語には「三」のようにsa音はなくはないけれど、塩は「盐」yánなり「鹾」cuo2なりであって、「sa」ではない。中国語の「sa」音は少ないからそちらから当たると、「薩」sa4字が該当します。この字は、サンスクリットの表音文字として「菩薩」で用いられるほかは、特定の人名、あとは地名としてまさに「薩摩」を意味するのみです。
 従って、長くなりましたけど──塩屋の古読音らしき「サー」地名は、やや特異です。仮説は浮かびませんけど──韓国語には「四」や「寺」などSA音は割と多いとは思います。

塩屋港 入船出船絶え間無く

方言ではサーインナトゥという。サーは塩屋,インナトゥは港の意。「ペリー訪問記」ではシャーベイ(Shah Bay)と見える。東シナ海に面し,湾口をふさぐように宮城(みやぎ)島が浮かぶ。最奥部に大保川(大保大川)が流入している。湾岸の地質は,湾口が中生代砂岩,奥の方は古生代石灰岩と一部沖積土質からなっている。組踊「花売の縁」に「まこと名にあふ塩屋港,入船出船絶え間無く,浦々諸船の舟子共,苫を敷き寝に梶まくら」とある。王府時代の塩屋村には17世紀末頃から大宜味間切の番所も置かれ,首里王府への貢物や薪炭を運ぶ山原(やんばる)船や諸方の船が出入りしたようである。「花売の縁」の主人公,森川之子は塩屋で塩を焼いていたといわれ,同劇の最初でも「宵も暁も馴れし俤の立たぬ日や無いさめ塩屋の煙」と謡われており,塩焼きの跡には今日小祠が立てられている。(続)〔角川日本地名大辞典/塩屋湾〕

 してみると今は船陰絶えたサーの湾に「入船出船」が「絶え間無」く行き交っていた情景が、「花売の縁」を信じるなら首里王権時代にはあったわけです。また「浦々諸船の舟子共,苫を敷き寝に梶まくら」という描写は、交易船「入船出船」の他に舟子、多分交易船への揚げ荷、降ろし荷に従事した港を拠点とする海民衆の、水上生活のデッサンのように思えます。
 なお、「塩焼きの跡」の小祠というのがどこの事かは不詳。

「花売の縁」ポスター 左手∶夫・森川の子 右手∶妻・乙樽〔後掲国立劇場おきなわ〕

※【あらすじ】 首里の下級士族・森川の子は、色々な不幸が続き生計が立ちゆかなくなってしまったため、妻・乙樽と幼子・鶴松を首里に残し、単身で山原の大宜味へと出稼ぎに出たきり音信不通となります。12 年の時が過ぎ、良家の乳母として働き安定した生活を得た乙樽は、成長した鶴松を連れ夫探しの旅に出ます。旅の道中、猿回しの芸を楽しみつつ、薪木取の老人から夫の消息を聞いた母子は、田港村で花売に身をやつした夫と再開を果たします。森川の子は、落ちぶれた姿を見られた恥ずかしさで芦屋に隠れてしまいますが、乙樽の説得により心を開き、夫婦、親子の再会を歓び、ともに首里へと戻るのでした。〔後掲国立劇場おきなわ〕
※この日に訪れた宮は、だから少なくとも一柱はこの花売旦那のものです。
7-79 ハーミンジョーのぼり口から見た塩屋の集落 戦前〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 10枚目p239〕
※「ハーミンジョー」はどうしてもヒットがないけれと、位置から考えて、塩屋海岸側、現在展望台のある塩屋ウフンチャ(→GM.)しか考えにくいと思います。

(続)咸豊3年(1853)にペリー一行は沖縄本島の資源調査を行い,塩屋湾には石炭層があると報告している。「水路誌」には「此の湾は全く陸地に囲繞せらる。然れども湾港方面に礁脈あるを以て和船より大なる船を入るゝ能はず。湾口付近は距離半浬若しくは一浬の処まで浅水なり」と記す。現在も大型船は入れない。湾岸には塩屋のほかに屋古・田港などの集落があり,塩屋には間切番所,のちに役所もあったが,一帯は交通不便なところであった。昭和37年に宮城島の南側に現在の宮城橋が完成,また昭和35年塩屋大橋の架設工事が始められ,同38年に開通。同橋は橋長308m,橋幅8m,構造型式はゲルバーダンガー鈑桁橋で,工費約60万ドル。昭和50年に本部(もとぶ)大橋が完成するまでは沖縄第一の大橋であった。塩屋大橋の完成により,湾岸約7kmを迂回しなくても,津波(つは)から塩屋へ行くことができるようになった。橋から眺める湾岸の風光は,ウンジャミのハーリーとともに知られ,沖縄新観光名所の1つとなっている。〔角川日本地名大辞典/塩屋湾〕

※「明治五年に航路・港湾確保などのために海洋調査が開始され、海図とともに海軍省水路部(東京築地)によって編纂作成された水路書誌。現在まで海上保安庁水路部が改訂を重ねている。南島・沖縄海域に関しては、初代水路部長の柳楢悦(柳宗悦の父)による『台湾水路誌』(明治五年刊、英国海軍水路誌の翻訳書)、『南島水路誌』(明治六年刊)がある。これは日本でも最初期の水路誌で、明治政府が明治五年に宮古島漁民が殺害された牡丹社事件を契機に、同八年に西郷従道軍を台湾派兵するために急遽測量調査され、編纂されたものである。」〔日本歴史地名大系 「水路誌」←コトバンク/水路誌〕
「場所は現在の塩屋漁港より北よりのニンガマ(念蒲)付近の国道58号で、塩屋から安根へ向かう最初のカーブのところ。」〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 6枚目p222〕
※原キャプション推定「1940年代の風景」 現在地 →村営結の浜団地付近と推定∶GM.

 つまり、現在の整備状況からは想像できないほど、大宜味は名護・本部方面から隔絶されていた上に、塩屋湾が交通の妨げになっていたらしいのです。下記の記録からは、南から自動車が入って来れるようになったのは昭和も二桁になってからのようです。

国頭街道は、1920(大正9)年、指定県道となり、その後道幅を広げていきました。
 国頭街道開設後に 伊差川 いさがわ ― 源河 間、 塩屋 ― 辺土名 間が、それぞれ郡道として工事が進められ1921(大正10)年には辺土名まで郡道が開通しました。 しかし、全線車が通れるようになったわけではありませんでした。のりあい自動車が辺土名まで通るようになったのは 1937年(昭和12)、バスが運行を始めたのは1933(昭和8)年からでした。〔後掲北部国道事務所〕

 塩屋大橋以前には渡しもあった(下記参照)。ルートははっきりしませんけど、宮城島で中継ぎはしなかったとすると直線500m程度でしょうから、結構半端に長い距離です。──地図を見ていると、沖縄本島は明らかに塩屋湾-(東村)福上湖のラインで分断されてます。大宜味塩屋は特に近代以前、一種の海峡の町、あるいは山原最南端だったと捉えることができるのです。
 そう想像するなら、塩屋側の渡船の船着きこそ、この時訪れた森川子の宮の神域だったような気もします。根拠はないけど何となく。

1958年頃撮影「渡し番」写真。左の学生は(前)宮城久和国頭村長〔後掲琉球新報 2016〕

 1963(昭和38)年、米軍が当時沖縄最大の橋を架けたのは、山原の統治上必須と見たからでしょう。──陸の最強国家には、狭い島内に自動車で直行できないなどナンセンスだったのでしょう。
ウンジャミの日、歌いながら集まる各集落の女たち〔後掲DEEokinawa〕

 しつこく交通の不便を言いつのったのは、この土地の民俗の意外なほどの独自性が、それを前提にするとすんなり消化できると思うからです。
 塩屋のウンジャミは、(知らなかったけど調べて観る限り)自然に神聖なのです。古式を明るく淡々と遂行してる感じです。
神ウスイで背中を叩くノロ〔後掲沖縄クリップ〕

神ウスイ(ハミウスイ)では、山の神様に向かって深く拝みます。
海の豊かさは山とも深く関係があるから、すべてに感謝ですね。
後方からは、ノロがススキの束で背中を祓います。
これらの神ウスイやヨンコイも、
塩屋のウンガミの行事でしか観ることができない光景です。〔後掲沖縄クリップ〕

 これもさらりと書いてあるんだけど、「神ウスイ」※という霊的イベントは特異なものに思えます。霊的に既に上位にいる者に背中辺りをタッチされることで、祭祀の主宰者たる地位を得る、という類型です。

※後掲大宜味村/国指定文化財等によると、「ハミウスイ」と読む。wiki/海神祭によると、呼び名だけでなく、ウンジャミにこの段階があるのは塩屋湾のみ※※。
※※最も類似例と見られるもの 大宜味城∶神人になる者の就任式「ハンサガの式」で神人の責務と秘密を守ることを誓い、洗礼を受けるが、この洗礼の祈願では、祝女のうち洗礼を受ける者は髪を後ろに垂らして座り、周りで神人がハンサガのオモイを歌いながら背をさすったり肩を叩いていく

歌いながら海中に入り各集落の舟を応援する女たち〔後掲DEEokinawa〕

 インスタ映えする画像としては有名な、女たちが海に腰まで浸かってハーリーを出迎えるシーンは、全体は次のような運び。これは……何の情景の再現でしょうか。

 ファーリーははじめにフギバン(ファーリークワーとも言い、比較的若い者たちが二十人乗る)が屋古のフルガンサを出発し、続いてウフバーリー(比較的ベテランの者四十余人が乗る)がそれぞれ三艘ずつ出発する。おのおののファーリーにはファーリーガミが二~三人乗って、こぎ手の「エイサーエイサー」の掛け声に合わせてクバ扇を打ち振る。(略)
 対岸の塩屋では各ムラの婦人たちが藁鉢巻姿で腰元まで海水につかり、ティサジ(手拭い)を打ち振り太鼓を鳴らして迎える。
 ファーリーが対岸に着くと、乗組員も櫂を持って海に飛び込み、櫂と櫂を互いにたたきながら勝利を誇り、ウンガミも最高潮に達する。その頃、陸路ヌルの行列(ウマンザ)が通ると、今までにぎやかだった婦人たちやファーリーの乗組員たちも一斉に鉢巻を取り、櫂を横にして敬虔な気持ちでヌルの行列を手を合わせて拝む。沿道の人々もひざまずき手を合わせて拝む中をシマンホーが太鼓をたたきながら〈ヌール ヌ メーカラ ニシンマンニン アシズーク チマズーク ウトイミソーリ ウーサレリー〉と唱えながら通る。そのときは一瞬水をうったかのように静まり返る。〔後掲大宜味村/国指定文化財等〕

 シマンホー(島方)とは祭祀を担当する男性神人

塩屋のゴール地点で海に浸かってハーリーを迎える女たち〔後掲沖縄クリップ〕

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塩屋湾内で行われるハーリーのゴール地点が塩屋で、
スタート地点は、田港と屋古の間にあるフルガンサという場所になります。
まずはじめにスタートするのは、御願バーリー。
3集落(田港・屋古・塩屋)のハーリー船が競い合うのですが、
船の漕ぎ手となる男性だけが熱くなるのでなく、
各集落の女性たちもゴール地点で熱い声援を送りつづけます。
それも海に浸かりながら。
こんな光景、ほかでは見たことがありません。〔後掲沖縄クリップ〕

ハーリーを迎える女たち 横顔アップ〔琉球新報2024〕

山原船と水深▼▲

(続)咸豊3年(1853)にペリー一行は沖縄本島の資源調査を行い,塩屋湾には石炭層があると報告している。「水路誌」には「此の湾は全く陸地に囲繞せらる。然れども湾港方面に礁脈あるを以て和船より大なる船を入るゝ能はず。湾口付近は距離半浬若しくは一浬の処まで浅水なり」と記す。現在も大型船は入れない。湾岸には塩屋のほかに屋古・田港などの集落があり,塩屋には間切番所,のちに役所もあったが,一帯は交通不便なところであった。昭和37年に宮城島の南側に現在の宮城橋が完成,また昭和35年塩屋大橋の架設工事が始められ,同38年に開通。同橋は橋長308m,橋幅8m,構造型式はゲルバーダンガー鈑桁橋で,工費約60万ドル。昭和50年に本部(もとぶ)大橋が完成するまでは沖縄第一の大橋であった。〔(再掲)角川日本地名大辞典/塩屋湾〕

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国頭郡水深図〔後掲釣りナビくん〕

「水路誌」※が「和船より大なる船を入るゝ能はず」という時の「和船」とは、沖縄では山原船(マーラン船)
玩具「山原船(やんばるぶに)グヮー」1930年代 沖縄県/木・布〔後掲日本玩具博物館〕

(再掲)7-86 段畑が美しい田港の集落 1950(S25)年頃「停泊しているのは山原船か」〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 11枚目p240〕

たまたま、2024(令和6)年に大宜味村企画観光課が塩屋湾水質改善事業で調査船を出した時のデータがありました。

 海底地形(測深)に使用した機器は音響測深機(PDR-1300)、堆積層厚(シルト分の層厚)に使用した機器は、音波探査機(SH-20 型)である。
 調査の結果、塩屋湾内の最大水深は 15m を超え、10m 以上の水深帯が広がっていることが明らかになった。また、広範囲にシルト分が堆積していることも明らかになった。〔後掲大宜味村企画観光課プロジェクト推進室 11枚目p5〕

※シルト分∶「土粒子には、粗なもの(粗粒分)と微細なもの(細粒分)があり、大小粒子の混合の割合を『土の粒度』といいます。土の種類は、粒径別の名称によって区分され、粒径0.005mm以下の粒子を『粘土』、粒径0.074~0.005mmの粒子を『シルト』、粒径2~0.074mmの粒子を『砂』、粒径2mm以上の粒子を『レキ』と呼んでいます。
 現実の土は、粘土分・シルト分・砂分・レキ分などがいろいろな割合で混じっています。」〔後掲住宅地盤品質協会〕
地形計測結果(水深図)〔後掲大宜味村企画観光課プロジェクト推進室 20枚目p12〕

 図Ⅱ-1-(2)-4には、地形計測結果(水深図)を示す。
 塩屋大橋及び宮城橋より西側の湾外は、航路部を含めて-3m 以浅である。それが両橋から塩屋湾内に入ると急激に深くなり、-15m 付近となる。また、-10m の水深帯は湾奥部まで広がっていた。
 なお、宮城橋付近は、調査船が侵入できないほどの浅瀬となっていた。〔後掲大宜味村企画観光課プロジェクト推進室 20枚目p12〕

塩屋橋の潮見表・タイドグラフ〔後掲釣割〕
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7-114 山の頂上まで畑として利用されていた 砂浜にはビーチロックが見える
終戦前の様子が分かる貴重な一枚 津波 1945(S20)年4月3日〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 14枚目p243〕

7-116 美しい長い砂浜と山の頂上まで続く段畑が特徴的な津波 1945(S20)年4月3日〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 14枚目p243〕

方言ではタンナといい,隣接する屋古とヤフュ・タンナと併称される。沖縄本島北部,塩屋湾北岸に位置する。集落は段丘崖下のわずかな平坦地に形成されている。地名は,昔から多くの船が出入りしたことによるという。今帰仁(なきじん)城落城後,北山(ほくざん)の落人が隠れたところともいわれる。旧盆明けの初亥の日に行われる塩屋のウンジャミは,まず田港アシャギで祈願をし,その後屋古・塩屋へ移動する。集落のはずれにある田港御願の植物群落は,国天然記念物。〔角川日本地名大辞典/田港〕

王府時代の間切名。国頭【くにがみ】方のうち。田港郡とも書く(球陽)。康煕12年(1673),国頭間切の渡野喜屋・田港・屋古・前田・城【ぐすく】・屋嘉比・塩屋・根路銘・饒波【ぬうは】・喜如嘉【きじよか】・根謝銘の11か村と,羽地間切の平南【へなん】・津波【つは】の2か村,計13か村で成立(南島風土記)。田港間切は向象賢・向日躋の領地となった(球陽尚貞王5年条)。のち屋古・前田を合して屋古前田村とし,さらに大宜味【おおぎみ】・親田・見里の3か村を新設し,合計15か村となり,17世紀末頃大宜味間切と改称。〔角川日本地名大辞典/田港間切(近世)〕

王府時代~明治41年の村名。国頭方,はじめ国頭間切,康煕12年(1673)田港間切,17世紀末頃からは大宜味間切のうち。「高究帳」には国頭間切たみな村と見え,前田村と併記され,高頭83石余うち田78石余・畑4石余。「由来記」では大宜味間切田湊村と見える。田港間切の時代は,諸国廻船の港として船の出入りも多かったことから,田港村が間切の主邑であった。(続)〔角川日本地名大辞典/田港村(近世)〕

(続)ダチガー(滝川)のほとりにある寺屋敷は,王府に仕えていた定水和尚の隠居所とされる。定水和尚は,康煕4年北山監守の存廃について尚質王と意見が対立し,官職を辞して仏門に入り田港に隠居したという(大宜味村誌)。乾隆18年(1753)港として重要な地であった田港村でも構いの検者が材木を積んだ船の荷改めを行った(地方経済史料9)。(続)〔角川日本地名大辞典/田港村(近世)〕

7-86 段畑が美しい田港の集落 1950(S25)年頃「停泊しているのは山原船か」〔後掲大宜味村/むかしやあんしえったん 11枚目p240〕

 大きな集落は山原船を所有し、前の浜のタムンザー(薪炭の集積所)には、収入源である木材・薪・木炭などが山のように積まれ、それを積んで那覇や与那原まで売りに行った。
 大人は日々の糧となる米やいもをつくり、山で木を伐り出し、海で魚を追い、或いは村外に出て大工の仕事をしたりと、生活を支えるために必死で働いた。幼い頃からそんな姿を見て来た子どもたちも、学校から帰ると、水くみ・草刈り・薪取り・子守りなどをしてよくお手伝いをした。
 やんばる大宜味村の原風景としてよく語られる情景だ。〔後掲大宜味村/写真集〕

(続)拝所に底森があり,大宜味間切他村の御嶽と同じく毎年四度・四品・百人御物参の祈願に,公庫から御花米が出されている(由来記)。なお田湊ノロが祭祀する田湊ノロ火の神は,屋古前田村にある(同前)。田港村の伝説上の人物に,武芸の達人といわれる田港ペークー,孝女として名高い田港乙樽がいる。田港乙樽は村の旧家根謝銘家の出とされ,同家は今帰仁城主弟の家系で,村を開いた思徳金がその祖といわれる(大宜味村誌)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。屋取に大保原がある(各町村字並屋取調)。明治24年頃から,ダチガーの水を利用した水車による製糖が行われた。明治36年屋古前田村を編入。戸数・人口は,明治13年の「県統計概表」に,田港【たんみ】村と見え64・272(男136・女136),同36年には屋古前田を含めて114・710(男359・女351)うち士族44・269。(略)〔角川日本地名大辞典/田港村(近世)〕

方言ではヤフュといい,隣接する田港とヤフュ・タンナと併称される。沖縄本島北部の西海岸,塩屋湾の北岸に位置する。旧盆明けの初亥の日に行われる塩屋のウンジャミは,田港に続いて,屋古の神アシャギで祈願が行われる。〔角川日本地名大辞典/屋古〕

王府時代の村名。国頭【くにがみ】方,はじめ国頭間切,康煕12年(1673)からは田港間切のうち。「絵図郷村帳」に国頭間切やこ村と見える。17世紀末頃,道ひとつ隔てた前田村と合併して,屋古前田村となる。〔角川日本地名大辞典/屋古村(近世〕

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〉〉〉〉〉参考資料 

大宜味村
/大宜味村史 写真集
PDF URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/material/files/group/1/08_syasinsyuu-1.pdf
/国指定文化財等
URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/soshiki/kyoiku_iinkai/gyomu/rekishi_bunkazai/bunkazai/334.html
/むかしやあんしえったん─懐かしい昔の風景─
PDF URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/material/files/group/1/08_syasinsyuu-2.pdf
大宜味村企画観光課プロジェクト推進室令和6(2024)年6月「塩屋湾水環境再生事業業務委託報告書」
※「令和6度塩屋湾水質改善事業業務委託」に係る公募型プロポーザルの再実施について/大宜味村 URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/soshiki/kikaku_kanko/gyomu/kankyo_hozen/919.html
/PDF URL:https://www.vill.ogimi.okinawa.jp/material/files/group/1/sankousiryou_compressed.pdf
沖縄CLIP|あなたの沖縄旅を豊かにする体験予約サイト・観光情報メディア/塩屋のウンガミ(海神祭) | よみもの
URL:https://www.okinawaclip.com/post/1707351790/
国立劇場おきなわ – 公演情報詳細/組踊公演 「花売の縁」
URL:https://www.nt-okinawa.or.jp/performance-info/detail?performance_id=988
▼▲ さ
(じゆう)NPO 住宅地盤品質協会/土の知識
URL:https://x.gd/9hgh5 (短縮)
(たうと)Thoughts About Peace/少年飛行兵 と 私 第二幕〜
URL:https://ameblo.jp/thoughts-about-peace/entry-12905129197.html
釣りナビくん(運営∶マリーンネットワークス株式会社) アプリ URL:https://tsurinavi-kun.com/
釣割/潮見表・タイドグラフ 全国の潮見表・タイドグラフ(2025年最新版・完全版)/沖縄県/大宜味村/塩屋橋
URL:https://tide.chowari.jp/47/473022/20174/
(でいお)DEEokinawa/2010.10.19 やんばるたろう 大宜味村塩屋のウンジャミにいってきた
URL:https://www.dee-okinawa.com/topics/2010/10/post-25.html
▼▲ な
日本玩具博物館「山原船(やんばるぶに)グヮー」
URL:https://x.gd/IygmX (短縮)
(ほくぶ)内閣府沖縄総合事務所北部国道事務所/やんばる国道物語 – 近代沖縄の道(1879年~1945年):やんばるロードネット
琉球新報社 2016/架橋前の「渡し」再現 親川さん夢かなえる
URL:https://ryukyushimpo.jp/photo/entry-318922.html
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