※素十 高野素十。客観写生の観が特色
※※アカヒゲ 沖縄本島および周辺の島に生息する留鳥・固有種で、亜熱帯広葉樹林の下層部の日陰に生息。体長14cm。1970年国天然記念物指定

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今までの宿題の残りを詰め込んで歩きました。 マニアックになっちゃいました……。 |
支出1300/収入1200
▼13.0[364]
/負債 100
[前日累計]
利益 -/負債 314
九月二十二日(四休)
1030まつもと食堂
骨汁500
1441やんばる食堂
ピーマン牛肉焼き550
2300ル・パティシェ・ジョーギ
新都市ロール(チーズクリーム)250
[前日日計]
支出1300/収入1200
▼13.0[364]
/負債 100
[前日累計]
利益 -/負債 314
九月二十三日(五祝)
目録
むーち 六日目
【謎一】中央四-八重島空白地帯問題

〇843、パークアヴェニューから入る。完全に、どこもかしこもシャッター街です。
この日は、概ねこれまで気になったまま残ったニッチな点を確認して周りました。何してるのか分かりにくいかもしれませんけど……所詮は変な旅行者なのでご容赦を。
まずは、パークアヴェニュー側の中央四丁目(→GM.)から八重島公園(→GM.)方面へ、直接抜ける道は本当にないのか、その間はどういうエリアなのか?という疑問から。1/4kmもない両地点がなぜこんなに遠いのか、どうしても地理感覚上、腑に落ちすにいたのです。

0847FM KOZAの十字で右折。大城鶏飯前を左折。ad.中央四丁目1-19。いやここから南西路は一通だった。一つ東の平行路から同じブロック内を目指します。
──この辺で何言ってるのか分からなくならないなら、土地勘のある方です。ワシは自分が何書いたのか分からなくなったので……補助のためリンクと地図を添えます。


目的の四丁目7辺りの道を登ったブロック内は──何と!墓地でした。アスファルトも途絶えました。
中央四丁目、セントラル公園と八重島公園の間のこの丘が何なのか入ってみたかったのですけど……確かに御嶽や社は公にはないらしい。何となく曰く有りげな場所なのに、何の痕跡もない。0853、引き返す。

嘉間良難民収容所
かなり後になって、沖縄市のタイムトラベル・コザに次の図を見つけました。嘉間良難民収容所に関する記述です。

14∶沖縄市最大の収容施設~嘉間良難民収容所
米第七師団は、上陸の翌日(引用者追記∶1945年)四月二日に越来村嘉間良を占領して占領地域一帯の住民を収容した。嘉間良の字民は疎開して不在だったので、当初収容されたのは、読谷山村や美里村の避難民だったという。嘉間良の収容所はその後難民が増えて越来、室川、安慶田を含めた四部落に拡大されキャンプ・コザと呼ばれる収容地区を構成するようになる。当時米兵の陣営地となっていた美里村古謝をスモールコザと呼び、嘉間良を中心とした収容地区をビッグコザと呼んでいたことから、「コザ」という地名が定着したようである。〔後掲ツナガルマップ〕
四月二日、上陸翌日です。米軍上陸碑(→GM.)から南東5km、浜から見て直上の高地を占拠する形でここを最初の拠点の一つとしたようです。そうしてここに、多分最も早い収容所を開設します。それが、嘉間良の収容所……と記されることが多いようですけど通用した呼称としては「キャンプ・コザ」。
つまりこのブロックは、記憶の下にしまい込まれた「コザ」発祥の地、ということになりそうなのです。

Koza-camp and village 1945 – 1946 【コザキャンプと村 1945年〜1946年】
嘉間良収容所。右側のテント群は米兵たちの住居、道を挟んで左側には村役場(越来村・読谷村・北谷村)や軍政府管理事務所、配給所などの公共施設があり、その周辺には公共施設が広がっている。左手奥の無数の白い標識は、民間人の墓地である。〔後掲北谷町/上画像のキャプション〕
尚、このブロックの所有(管理)関係がどのように民間に移行したのかが分からないので、現在のコザ小学校、セントラル公園及び八重島公園に至る経緯はまだイメージできません。その点に関し、糸口になるかもしれないと思っていたのが、次の「インジングシク」でした。
南の車道に戻って左折東行。0858、スクール通学路表示のある三叉路を直進。コザ小学校校門。──ここがセンター公園北側になります。

【謎二】八重島公園内のグスク址問題
◯900ジャスト、オキナカ(→GM.)の十字、尾根道、ここは何度か来て記憶してました。左折北行。ガソリンスタンドのT字から右折、左折、さらに左折。八重島公園へ。
最初にこのエリアの不思議に出くわしたこの場所です。けれど今日は、どうしても「グスク」を確認したい。

階段を登らずにトイレの方へ。
かろうじて続く野道,いや石垣の道です。古い。

全く表示も祠もないけれど──最高所。
ここしかないはずです。二つの岩場の間。


山側にはトンデモなく巨大なガジュマルの根の残存。おそらくGM.上にインジングシク※と表示される場所です。丘の中腹の岩場、条件的には間違いない。
ただし、それでもあえてですけど……前章の拝所の配置、センター・八重島両公園の配置その他の状況証拠から考えて、この辺りが土地の人が共有する霊地である可能性はやはり捨て難いと感じてます。多分、その物理的実態は、先のキャンプ・コザ敷設時のドタバタで消失したのでしょう。以上はあくまで直感的な推測です。


直ぐ西、距離にして150m先の車道向こうは沖縄自動車道と嘉手納基地。この立地が民側に残された、というのも何かの人為(政治)があると予想します。
あるいは──嘉手納基地域にもこういう土地が続いてたのでしょうか?

【謎三】八重島-越来-美里ルートはなぜ細い?問題
◯925、先の三叉路に戻って北谷竹細工(→GM.)と山城内装の間の道からY字を右へ。東行。
ここからは暫く道なりで良いけれど、この延長では美越通り(国道329号)を越えれないのです。
かやまばしで越来川を渡り直進。

この辺にはなぜか新しい家屋が多い。県立美来工科高校※。
◯939、パーラーともよせの先を左折。すぐ右折。
0942、ワクガー(→GM.)。全くチェックしてなかったポイントでした。
尚宣威王の子孫である湧川按司が使用していたと伝わる井戸。 沖縄市教育委員会〔案内板〕

北山を中興した湧川王子とは別人です。第二尚氏初代王・尚円の弟にして二代王・尚宣威の、領地・越来に存続した子孫は、五代から王族から士族に降格し越来家を名乗ったけれど、11代からさらに他氏に憚り湧川姓に転じた一党という。二代尚宣威王は、尚円没後六ヶ月の在位で尚円長子の三代王尚真に譲位、明らかに初代王の相続を巡る政治闘争の敗者の家系ですけど※〔後掲沖縄市、wiki/向氏湧川殿内〕、領地では崇められたものらしい。
で、R329を跨ぐ。不思議なことに、このポイントしか車道を信号で跨ぐところがない。左右の道があまり連接していない。──米軍接収年代の違いだと想像されます。
三つ先の右折路から侵入。美里公民館(→GM.)。この先にも古くはないけれど共同井戸の遺構。

十字路を右折。美里二丁目14。
多分古い時代の路地らしく、曲がりくねって道幅も不均一。公民館までの整然とした道と対照的で、この二種の混在が独特なリズムで、方向感覚を乱してくれます。

◯954、ヌルドゥンチャー※。
鍵を開けて女性二人が拝んでいった。強い香水臭。長崎梅園のような遊興文化的信仰があるのでしょうか?
美里村教育発祥之地碑も併設。もう訳が分からない。


社の中を覗くと香炉三つ。左手の丸い香炉の奥に三つ古い石柱。
驚くべきことだと思ったのは──こんな町中、しかも歓楽街手前なのに、奥にイビらしきスペースも残ってます。かなり本格的な祈りの場所です。

【謎四】美里祝女殿内すぐ南接の女衒問題
右折、右折で進む。スナックから目の前に出てきた。
はっきりと、ベロベロでふらつく足元のおじいちゃんが極楽顔で歩いてます。


何と……立ちんぼがいる!ハッキリ客待ちしてます。
即ち……鄙びてるけど現役の歓楽街です。美里吉原は今も立派にいかがわしい。


──この辺を「夜のディープスポット探検記」的に書いたプログが幾つかあって、情報源としては使えたけど……現・美里大通り(R329)がないものと見たここの時空を考えてほしい。
吉原になおも残る徒っぽい「余熱」は、往時の──西方・米軍基地側の発熱が如何に高温だったかを物語ります。

──早々に退散しようとして焦る。この道の複雑さと微妙な登り下りは、サクッと脱出を許してくれませんでした。
うろつくうち、当初目標にしてた吉原自治会も発見した後、何とか予定の美里大通りに出る。
──ヤバい。10時を大分回りました。松本食堂の骨を目当てにしとるのに……。

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