十姉妹眠れリ後の更衣 開成
※「後の更衣」で一つの季語
※D 海城「後の更衣は動く?」開成「十姉妹の安らかな眠りと重なる。清らかな眠り」
※選評 季語「十姉妹」の読み方「後の更衣」が多面的かつ個性的。正解はない。自分の言葉で異論で説明すればいい。
※※夕凪(ゆうどぅい)
※※炉炭を進る(ろたんをたてまつる) 初冬
【解説】嘗て宮廷では、陰暦十月一日に役人が炉を開いて炭火を焚いた。宮廷における炉開きである。
[前日日計]
支出1300/収入1350
▼13.0[①073]
負債 50/
[前日累計]
利益 -/負債 337
§沖縄県1170人
十二月三十一日(六)
0911あやぐ食堂
ゆし豆腐定食550
1416宮良そば
赤骨汁500
1723ハイウェイ食堂
Aランチ750
[前日日計]
支出1300/収入1800
▼13.0[①074]
負債 337/
利益 163/
[前日累計]
利益 163/負債 –
§沖縄県937人
一月一日(天)
糸満漁民の国内の出漁範囲(明治中頃~昭和初期)
〔後掲日本財団図書館〕 ※上田不二夫1991『沖縄の海人』沖縄タイムス社 P48~51を元に作成
糸満漁民の海外の出漁先(昭和13年現在)
〔後掲日本財団図書館〕 ※「糸満町海外出稼者一覧表」糸満町役場1940年『糸満概観』を元に作成
0813パッキングを済ませて宿を出る。今朝の空は半ば蒼い。とりあえず県庁前へ行き荷物を手放そう。──この近さならコンドミニオマキシに3泊もありだったかなとも今は考えるけどまあご愛嬌。明日元旦は朝イチで内地に帰る。時刻は0603か0615の県庁前発に乗れればいいから5時起きでしょう。
正月を家で迎えるためかスーツケースのかなりの乗客がある。元旦にしたのはその志向のニッチだったからです。
ロッカーに荷物を入れて0843発てだこ行きを待つ。
事実上の最終日となる本日,赤嶺から宇栄原方面の歩きも考えたけれど──新しい視点を持ちたい。糸満の,前回違和感を感じたロータリー周辺の町並みを歩いてみたい。
これは昨夜,糸満の千番台番地(糸満ロータリー東南角ブロック)を見ていて気づいたのですけど,細長いブロックを拡大して見ていくとさらに細かく細路地が走ってます。閩南やシンガポールの長短冊区画に似てる。
糸満の漁民史は庶民の歴史,ほとんど分かってない。幾つかの史料からの推測が成立つだけです。三山統一劇の核になったはずの南山の交易史がこんなにブラックボックスなのです。
1380~1429:南山王統期。当時、南山王は明に進貢船を27回送っており、進貢船の発着拠点のひとつが報得川河口であった。
その名残のある地域がトーシンザキ(唐船獄(報得川感潮域上部))、トーシングムイ(唐船小堀(山巓毛の西南西1km))、ティンマーガー(伝馬井戸(唐船嶽下部))、サンティンモウ(山巓毛)(本来ミチンサンチン(海鎮山鎮)と呼ばれ、南山の祭祀や交易船の遙拝所)。 また、かつて大型船に使用された碇石が最近市内から発見されている(糸満市中央公民館所蔵)。
唐船溜まりに停留された進貢船の物資の積み降ろしには伝馬船等小型舟が使われたようである。
当時の糸満漁業の様子は不明であるが、糸満地先海域は、三山の中でも広大なイノー(礁池、ラグーン)を有していることから、漁場条件としては恵まれていた。
〔後掲糸満資料館〕
唐船獄,唐船小堀,伝馬井戸とも場所不明。山巓毛は糸満ロータリー北東角の高みの公園です。
1434 王府、進貢品に鮫皮も含める(この年4000張、1436年3000張)。
鮫皮の他に、螺殻(ヤコウガイの殻)8500個、海巴(タカラガイ)550万個も同時に送られた。
螺殻はこの3年前にも11500個が送られており、三山統一間もない王府がこれだけ大量の海産物を2,3年で調達するには王府内全域から集めたと思われる。〔後掲糸満資料館〕
漁労だけなく商品の交易も行っていたようであるが、交易の統制のため中山王府から達を受けて舟を取り上げられる事もあったと言う[2]。
(略)奄美群島などにはフカヒレを求めて出かけている。
1884年(明治17年)夏、糸満漁民の玉城保太郎によって、水中メガネの一種ミーカガンが発明された。〔後掲wiki/糸満漁民〕
[2]『白装束の女たち 神話の島・久高』宮城鷹夫、石井義治(1978年)プロジェクト・オーガン出版局
久高島の漁民も糸満漁民と同様に奄美群島や先島諸島まで出かけて漁労や交易、現地の女性との交流を生業としていた。奄美では「久高糸満人」と呼ばれていたという(『南島雑話』)。先島、奄美やトカラ諏訪之瀬島でエラブウナギを漁し、王府に献上していたようである。こちらも、私貿易について奄美群島を直轄していた薩摩藩から王府への取締の要請を受けたと言う[7][2][8]。〔後掲wiki/糸満漁民〕
※『北の平泉、南の琉球』入間田宣夫、豊見山和行(2002年)、中央公論新社 ISBN 978-4124902143
『沖縄の海人 : 糸満漁民の歴史と生活』上田不二夫(1991年)、沖縄タイムス社
廻高網を使う漁には多くの人を必要としたため、山原や奄美などから「糸満売り」されてきた少年たちがそれを支えました。年季を終えた少年たちの中にはそれぞれの故郷に戻って追込み網漁を伝える者がいて、沖縄中に糸満独特の漁法が広がることになりました。〔後掲沖縄海事広報協会〕
「勧農政策を推し進めた首里王府が例外的に漁業を認めていた」〔後掲糸満資料館〕のが糸満,というのがホントなら,対馬の曲と一緒なのです。海での特権を他主的に(吉和・二窓・幸崎は自主的に「浮鯛抄」を帯びた)付与された陸域勢力に脅かされない権限を得た一群がいるわけです。
「行脚村跡」案内板の位置。あやぐ食堂側から首里駅方向への眺め。
先に行脚村跡(アンニャムラアト)を確認。やはり碑文のみです。
首里側からやや隠れるような,けれど首里城より実は高所,という位置に当たります。
同案内板内掲載の京太郎居住家屋の画像
0911あやぐ食堂
ゆし豆腐定食550
あやぐのゆし豆腐定食
一緒に付いてくるチキンカツの,その旨いこと!早くAランチを復活させてほしい!
1024発。旭町BT1Fの飲み場は10番(那覇到着便)でなく3番からでした。たまたま振り向くと発車するとこでした。
やはり開南を通る。これがどうなってるのか分からない。でもこのバスの電光表示には糸満BTと書いてある。
1039旭橋。つまりゆいレールの旭橋からBTに降りず南東角側のローソンへ降りてここのバス停・旭橋で待てば,那覇巡回せずに糸満方面には行けるわけです。両者は20分違う。
市川英雄「戦後の奄美地方における糸満漁業の変遷」をDL
1113白銀堂前(はくぎんどうまえ)下車
バス停名だけで降りたけど行き過ぎてるじゃん。北へ戻る。
1117「一般社団法人 幸地腹門中」看板
いきなり「一般社団法人 幸地腹門中」という看板。
1123シーリンカー
1117シリーンカー。
字糸満の代表的なンブガー(産水を汲むカー)で,勢理腹の一族が掘ったので,シーリンカー(勢理のカー)と名付けられたといわれています。
元旦の朝の若水はンブガーから汲む習わしかあり,旧暦の元日の早朝には若水を汲む人でにぎわっていました。その名残で,現在でも旧暦の元旦の午前中はカーを拝む女性が多くいます。(略)「糸満」という地名は,昔,このカーに糸と繭を加えたカニが出てきたことに因むという言い伝えがあります。〔案内板〕
伝説の意味は全く分からない。
鍵を開けさえすればすぐに使えるよう青い紐が垂れ下がる。
生きてる。鍵を開けると中の青い紐で汲めるようになってる。岩肌も丁寧に手入れされてます。
1125石垣も念入りにチェックされ改修されてます。
「祈の後」片付けをここまで求めるということは,本格的祭祀までする信仰場所なのです。
1128道路沿いに風に揺れる紅白の布
1127紅白の多量の幕が見えてきた。
糸満市青年会青年部のテント。
1133「神世三代御○/辨天○○大神/卯のみふし御○」祠
トイレから出てくると東に「辨天○○大神」の祠。右の句は「神世三代御○」左は「卯のみふし御○」と読める。1132
1136青年会テント裏の石垣
何だここは……本格的に古いぞ?そのテント裏手の石垣は精度は荒いけど切込積です。
1138神体のない香炉三つ
テント右手,神体のない香炉三つ。ひょっとすると元旦など特定の日に臨時設置される祠があるんでしょうか?
1140どこでもドア
さらに右を向くと石のどこでもドアのようなところから,三角岩っぽい岩のトンネルへ。これは琉球神道の「心して……」メッセージです。一礼の上,進む。1139。
1142どこでもドア左手祠
どこでもドア左にも祠──というか収納ボックスのような岩穴。三つ穴がある。場所がここでなければ墓──にしか見えない。
1144
ドアから5mで左手に空間が広がる。上方にハブに注意看板,つまりここも神域的に意味がありそうですけど,祠の類はない。
1146三角岩右側祠
三角岩を越えると右側に祠──というか不規則に方形が織り成してるような奇妙さがある空間。1145
1148三角岩最奥
そこから先の野道は藪で通れない。金網で塞いである。1148
ならばこれはどこへ通じる通路だったんだ??
1151垂れ幕奥に……これが御本尊?
帰りに驚く。テント正面,入口からは右脇に180°向き直った場所の紅白垂れ幕の中が御本尊らしい。1151。位置が想像を絶してました。
賽銭箱向こうに拝所らしき場所
拝所らしき机
シャッターの下りた賽銭箱の向こう,一段下に机,神札の左右に清酒。その向こうにパーテーションのような木製の衝立が置かれ,その向こうをさらに降りていけるらしい。
さらに下に階段が続いてる……らしい。
糸満ハーレーや糸満大綱引など年中祭祀の中心となる拝所。地区ではイービンメーと呼ばれる。お堂の中に自然の石筍が氏神として祀られている。〔案内板〕
白銀堂の黄金言葉
で,この黄金言葉が有名だという。これも糸満やこの神とどう繋がるのか分からない。
そもそもこの神は何という神なのでしょう?名前がどこにも記されない。
ぱらぱらとだけど常に訪れる拝みを見てると,賽銭を数枚の硬貨で入れてから二拍柏手を打ったあと手を合わせて拝んでる。
元旦はとにかく混雑するらしい。
▼▲
白銀堂はその名の如く「銀」の埋蔵伝説のある聖地で,その埋蔵金がある合理的理由付けが由緒になっています。その由緒の原典史料は次の二者が主要なものという〔後掲中楯1987〕。
非常に興味深いので,以下全文を転記しました。ただし,丸付き数字は引用者によるもので,筋立ての区切り及び二史料の対応を意味しています。
(一)幸地腹門中,上原家の掛軸
(一)幸地腹門中,上原家の掛軸
①往昔之世兼城間切糸満村北有一岩名白銀岩往昔幸地村人有美殿者遷居此村②昔倭人之銀数次違限不償一日倭人来索其不在家倭人怒而偏尋竟得美殿干其岩下使要抜刀殺之美殿③哀求曰我豈敢長隠而騙汝原同下無力可償今失信心深慚之而隠焉耳懇求寛恩免死来年不敢再違矣古文有言心怒則勿動手手動則當戒其請之倭人聞之甚為有理之寛限而去④倭人帰国半夜則家暗開門戸而入只見其妻與奸夫相抱而寝即怒抜刀在手忽思美殿之戒乃挙大照視方知母之伴寝也従来其母毎子遠出恐有奸人通瀆其妻暗地扮作男粧相伴而寝伊倭人因聞其戒全母妻之命感激不已後又到琉球携酒謝之時美殿預博銀子償還各感恩⑤而倭人不肯受美殿亦固請覚其銀無所帰乃埋之岩下各表其志後人因名白銀岩遂為威部而尊焉
大要を人物{アルファベット}中心に和訳すると――
①白銀岩に住む幸地村人に美殿{A}という移住者がいた。
②この人は昔,倭人{B}から金を借りたけれど,数回に渡り償還を踏み倒したので倭人は怒って殺しに来た。
③美殿{A}は助けを請い,「心怒則勿動手 手動則當戒其請」という言葉があると諭したところ,倭人{B}はその道理を認め彼を許し立ち去った。
④倭人{B}が帰国すると,彼の妻{C}と奸夫{D:間男}が同衾していたが,美殿{A}の戒言を思い出し話を訊くと,奸夫は間男から妻を守るために男装した母親{D}だった。母親{D}は美殿{A}に感謝し,今度琉球に行ったら金を与えて謝意を伝てほしいと言った。
⑤しかし美殿{A}がその金を受け取らないので地下に金を埋めた。そこを後の人が白銀堂と呼ぶようになった。
(二)エ根人金城家の白銀岩由来記
(二)エ根人金城家の白銀岩由来記
①抑々我等祖宗義玉城按司之裔孫百名三郎卜申ス人渡世ノ為メ高嶺間切与座村江差越シテ夫ヨリ糸満西表山下二家内引移地所相求メ子供出生致シニ十余家業相営ミ候処大宗百名三郎ハ又以テ与座村江被罷帰其男馬子ハ糸満同宅二住所致彼是家業相働居候処偖馬子卜申ス人ハ年比ニモ相成リ候二付繁昌二趣折柄南山按司御子孫照屋村一貫伊扁卜申ス人之女子ヲ娶リ夫婦卜相成尤馬子事毎日ハ網打之職業ヲ以テ致渡世居候処
(一)での美殿{A}が(二)では分化しています。まず,金城家の祖先で「玉城按司之裔」の百名三郎から語り始めて「馬子」{A-1}を登場させます。このくだりは長いですが,金城家伝であるために自家祖先と登場人物の相関を語っておく必要上なのでしょう。あるいは「南山按司御子孫」を登場させる必要上でしょうか。
馬子{A-1}は網打を生業としています。
②其比首里之人引物蒲生卜申ス者当地住居致シ農業候折柄薩摩ノ人児玉左衛門卜申ス者ヨリ銭二千貫文借銭致シ弁済方ハ砂糖代二テ可致首尾方卜約諾ニテ候処以之外其年萩不作ニテ手当相違相成別ニ返済向ノ術モ不相叶如何様差延可致哉卜了簡絶果磅卜驚入終二兼城村西表岩下ニ隠レ居彼是及世話候砌薩摩人児玉左衛門ハ催促二差越蒲生ニ対面イタサレ候二付蒲生ハ児玉ニ向ッテ御方へ御返済銭ノ儀ハ当年砂糖不出来ニテ御約束通リ不行届何分ニモ可申上様無御座必至卜差迫リ十分暮居無為方次第ニ御座候間何卒来年御渡海ノ間御差延被下度左候ハバ我ガ女子鍋小身売リ致シ御方ヘ御返済申上度卜願立候処以テノ外薩摩人ニ於テハ鍋小返上ノ段間違へ僅小成銭高相当不致由ニテ怒立チ刀ヲ切果候企ニテ言語荒立候処
(一)での金銭貸借関係,
貸主:倭人{B} → 借主:美殿{A}
が,(二)では
貸主:(薩摩ノ人)児玉左衛門{B}
→ 借主:(首里之人)蒲生{A-2}
となっています。では馬子{A-1}はというと,蒲生の難を聞いて助けに来た形になっています。
後半で,返済不能の理由として「砂糖不出来」があること,代替の返済方法として「我ガ女子鍋小身売リ」の件が出てきますが,どうも本筋には関係してこない。
③糸満馬子ハ平晩ノ通リ網打チニ出立チ候折柄是ヲ聞付ケ直ニ其場へ立寄左右引止メ左候テ薩摩人二向ッテ曰ク古語曰ク心怒ル時手ヲ引ハキ手動ク時ハ心ヲ戒ムト有之候間何卒御堪忍被成度於其儀ハ私引請ヲ以テ来年ノ砂糖代銭ニテ御返済可致卜申佗候二付和談ニテ聞済児玉ハー先罷帰左候テ薩摩込帰国致
なぜ馬子が援助したのか記されませんが,とにかくここで例の黄金言葉で児玉左衛門を諭します。黄金言葉の対称関係は,
(一) 心怒則勿動手 手動則當戒其請
(二) 心怒ル時手ヲ引ハキ手動ク時ハ心ヲ戒ム
です。同じ内容でしょう。なお,前者は中国語としては文字数が対象でないのですが,(二)を参照すると,おそらく「心怒則勿動手 手動則當戒心」のような成語が原型なのでしょう。
④三夜三更ノ比宿元江共不起立燈ヲ照シテ見届候得ハ母ハ女ノ支度嫁ハ男ノ粧ニテ枕ヲ並左右ニ手ヲ打掛ケ閨門ヲ閉居リ不審二存ジ直二刀ヲ抜刀果候考相究メ候処忽琉球ニテ糸満馬子勢頭二古語ヲ聞知致候事ヲ思出シ怒ヲ相止メー先呼起候ヘバ実母妻ニテニ人共命ヲ全ウシ児玉母妻二向ッテ琉球二於テ糸満馬子勢頭卜云フ人二古語ヲ以テ戒メラレシ次第一々相談候ヘバ母妻共致喜悦右二付キ彼蒲生へ貸付二千貫文ハ馬子勢頭へ恩報トシテ相与へ候筋相語弥々翌年琉球へ渡海致サレ直二彼晩貸付取入直ニ謝礼トシテ瓶ニ酒ヲ持参致罷下候処偖テ蒲生モ右返済銭ハ全相調江児玉江差ヒ候二付キ児玉ハ馬子勢頭江行トシ候
(一)と同じく妻{C}と母{D}が登場します。男装するのは(二)においては母{D}ではなく妻{C}です。また,なぜ男装していたのかは語られません。
そこで黄金言葉で怒りを鎮めて妻と母を殺さずに済み,黄金言葉の発言者に感謝するのは(一)と同じです。ただし,「二千貫文」という具体の額が出てきます。この額が「蒲生へ貸付」けた金額で,これを馬子{A-1}へ「恩報トシテ相与へ」ようという妙な話になっています。
次の段⑤は表現は異なりますが帰結は(一)と同じです。ただ,ここには既に元々の発端だった借主:蒲生{A-2}もその女子・鍋小も全く登場しません。
⑤路中則チ其岩下二行合幸トシテ瓶ヲ持出シ御互二礼儀終リテ馬子勢頭へ向ッテ御方ヨリ古語請守候故実母妻共身命ヲ全ウシ其謝礼トシテ此返銭馬子勢頭江申上渡ノ御請受卜申渡候得バ勢頭二於テハ銭ヲ請得ヲ非理卜シ屹卜御方ニテ可然請取卜数度ニ及差帰シタレバ双方不請取其銭付届致ベキ様無之終ニ其銭瓶ーツ共則チ其岩下ニ相埋メ各其志ヲ顕ハシ候ニ付後末ノ人其ノ岩ヲ白銀岩卜名付ケ是ヨリ伊扁トシテ村中致尊敬夫故馬子勢頭子孫ハ其嶽諸木共代々被召授毎月朔日十五日掃除又ハ御節ノ御香炉相被候節ハ右馬子家流ヨリ仕立替ニテ差上候依テ永々為無忘書置候者也
道光二年吉日(西暦1822年)祢人腹門中
総評して,(一)はストーリー的によく出来ていて原型の粉飾度が高いけれど,(二)は長文の割にストーリーとして荒く,その分原型が露出したままになっている可能性が高い。またそのように性格の異なる(一)と(二)で複眼視することで,両者が何を隠そうとしたのか,さらにそこからの逆算で原型が,朧げに抽出できると期待できます。
読み:▼▲
(二)で黄金言葉と児玉妻母{C・D}のくだりがなければ,馬子{A-1:糸満}は児玉{B:薩摩}を代行して蒲生{A-2:首里}から借銭を巻き上げた,と読むことができます。
そういう目で見るならば,(一)もまた,美殿{A:糸満}が倭人{B}からの借金をうまく踏み倒した,と読めます。
また,妻{C}・母{D}の所業は,要は女しか在家していないと知られれば襲撃されるような治安環境が{B}の出自であることを意味します。男装は奸夫ではなく夫{A}に化けたのです。
金を返さないなら「要抜刀殺」殺傷してくる貸主{B}「倭人」「薩摩之人」とは,まず間違いなく海賊です。この場合,後期倭寇か江戸「鎖国」期の薩摩武装商人でしょう。前者である場合でも中国系の色彩は薄いようなので,西九州出自の海民だと思われます。
つまり,糸満人はこうした荒くれた海賊衆と首里王権との間で,虚々実々の手管と交渉経験を駆使して両者から巻き上げた収益で栄えてきた,という実態が浮かんでくるのです。
馬子{A-1}の生業は(二)「網打之職業」ではありましたけど,機を見出せばこすっからく蒲生{A-2}の返済金をそのまま懐に入れてしまう。──例えば,児玉{B}が薩摩へ去った後に遭難か何かで死去した経緯を知った馬子{A-1}が,上記のような話をでっち上げて蒲生の返済金を自分のものにした,という可能性だって考えられるわけです。そうでなくても,(一)の美殿{A}を(二)で馬子{A-1:糸満=自分たちの祖}と蒲生{A-2:首里=陸人支配層}に分化させた理由は,自分たち海人が海賊だけでなく王朝側陸人をもうまく出し抜いてやったぞ,という含意を持たせるためでしょう。
そう考えると「心怒則勿動手 手動則當戒心」という警句の真意も,「物事は慎重に」とか「短気は損気」という一次的意味だけではありません。おそらく糸満人には,この警句は先のストーリーとセットで伝えられたでしょう。「常にドライかつ柔軟に他を出し抜け」といった,まさにメティスの知の誘発剤として使われたものでしょう。
また,幼少時からの拝金主義▼▲
糸満の乾光子(いぬいみつこ)さんが志布志に現地調査をして、左衛門は志布志の廻船問屋であった児玉伝左衛門実好であることがわかった。児玉伝左衛門実好の墓は児童公園にあるが、文政8 年(1825)、81 歳で没しており、彼が海運業で活躍したのは 1764 年(明和年間)~1800 年(寛政年間)頃と思われる。〔後掲山畑/第2章1(4)②〕←m178m第十七波余波mm志布志前川withCOVID/鹿児島県
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