目録
以上,山頂からでした
「東方メッカ」とも自称するらしい。海上ポタラといい,もう好きに呼んでほしい媽祖祖廟山。
朝だからまだ数はすくなったけれど,どこでも見かける中国人の観光客の恥ずかしいような大はしゃぎ。
これ,少なくともこの山側は,信仰の対象じゃねーよな。
以上,祖廟山頂上・媽祖石彫巨像でした。
東側の見晴らしのきく場所から東シナを見下ろす。
案内板あり。台中まで72kmと図示してある。
ここは観光化以前は灯台だったと記述があります。周囲に岩礁は多い。確かにここに灯台は必要だったろう。ただそれよりさらに以前には,海賊の基地としても相応しい地点です。
石彫後ろの小階段
さてここからどうしよう?
祖廟山の「奥山」イメージをそれでもまだ持ってたのか,当時漠然と考えたのは──この山頂部から先の「古いエリア」最上部・朝天閣裏手に出るルートでした。
確かに地図には──
祖廟山山頂を巡る円周道から「古」エリアへの抜け道が書かれてます。それに普通は,そういう山道が全くないことはあり得ない。
でもあり得ぬことが起こるのこそ中国カフカ・ワールドたる由縁で……ここから,湄洲訪問者のほぼ誰も辿らないであろう帰路と相成ります。
媽祖石彫後方の道をたどるとすぐ,小さな階段を見つける。
登ると上部に岩の塊。それしかない。
祠はない。文字もない。切通したような痕跡があるのみ。祭壇めいた石はあるけれど,拝まれた形跡もない。
これもしかすると神体?
──沖縄感覚ならそうなる場所でした。もちろん謎のままで,後で調べても何の補足情報もありません。ただし,この場所だけのために階段を造った意図が,未だに不思議として記憶に残ってます。
重い!
「妈祖是華~♪」という歌が流れてる。
そのまま後ろの道へ。「妈祖故事群彫」と書かれた石像群が続く道でした。媽祖伝説の各説話を立体石像化する企画らしい。
これは媽祖ではなく観音菩薩かもしれない。でもとりあえず祈る童がお茶目である。
どの場面かは書き残してない。でもとにかく媽祖ストーリーは膨大なものに広がってます。かつての日本神話の集合過程を彷彿とさせます。
この辺りの場所で,古いエリアの参道方面への脇道を見つけたので入り込んでみてます。
でも……出れない!
繁みの深さもあるけれど,朝天閣らしきものは見える場所まで行けるのに高い金網で覆ってある。この厳重な囲いは……ちょっと間違えました,では突破できそうにない!
諦めて先へ進む。まさかどこにも出口がないことはないだろう?
絶対に右へ行くな三叉路
像の方は,何かとても辛くて重そうな鬼の形相のが続きます。
妈祖類似の海上神信仰は,元々は中国の各地方に散在したらしい。対馬の天童や日本の宗像,住吉,八幡,天照もその一つだったのでしょう。
それらが伝説の形成過程で,どこどこの場面で配下になった,という話の中で習合されていく。妈祖の左右に侍る順天耳,千里眼はその典型らしい。
写真の方々はそういう「鬼」の誰か。大国主や諏訪神みたいなもんですね。
「碑坊」とさっきの地図には書いてある。山頂遊歩道の円環の東北側の,中国人の好きな碑林のような場所を通って,ようやく山を抜け出てきました。
出口で久しぶりに人に会う。警備員らしい。一応道を訊くと,一応港には行けるけど……と気の毒そうな気配で説明をしてくれた。あと,強い口調で「三叉路があるけど絶対右に行くな」と言われた。
また東環北路を行く。ここは地図上では「牛头尾」とある場所。
1031,絶対に右へ行くな三叉路に着く。三叉路というか,東環北路をそのまま岬へ行くか,祖廟山の北に折り返すか,という道らしい。確かにそのまま東に進んだら岬に行き着いて行き止まりです。
無人。車も通らない。
誰かが定期的に来てる気配
地図上では港のすぐ南まで来た。人にも会わないから,港への道は勘で選ぶしかなかった。
道路脇の山道を降りる。一応舗装はしてあるけれど,山肌に沿ってゆったりと降りるだけの道。人家はない。畑すらない。
ここにも祖廟山裏と似た奇妙な階段がある。軽く登ると祭壇状の地形。断定は出来ないけど,それなら階段は要らないはず。にしてもこの階段は新しくて,誰かが定期的に来てる気配あり。
ここでようやく海までを見渡せた。港はすぐ下にある。
湄洲祖廟山は燃えているか
港にようよう辿り着いて,まだ時間はあるしもう一巡り,とも考えたけれど,帰路を選ぶことにした。
ここは今,綺麗過ぎる。台湾資本が造った新しい島だと思った方がいい。
そう考えると,ここを襲った文革での破壊の程が想像できます。ただ,ググってみても浅いところでは「全壊」といった記述しか出てこない。
湄洲祖廟惜已於文化大革命期間全毀。
※ 維基百百科/湄洲妈祖祖庙 中國福建莆田湄洲島媽祖廟<
1966年,湄洲媽祖祖廟遭到破壞,只剩下寢殿、正殿、聖父母祠(佑德祠)等建築物。
※ 毎日头条/始建北宋,毀於文革,這是應被歷史銘記的湄洲祖廟建築史 2018-06
▲民国時代の湄洲媽祖祖廟の賑わい(絵葉書:後掲毎日头条には「湄洲媽祖祖廟1930年全景」とキャプション有)
ただ,深く検索するとそれでも幾らかの記述が出てきます。
まず上の写真ですけど,今とは明らかに異なる門前町のドヤドヤぶりです。これが一度更地に戻ったと想像できます。
あと,「聖母神像」を民家に隠してた,というくだりも幾つか見つかります。つまり隠さないと壊されたわけです。
可惜於民國55年(公元1966年)文化大革命期間廟宇全被破壞全毀,聖母神像幸經島民藏於民宅,香火始能流傳,後由臺灣信眾……
※ 隨意窩 Xuite日誌/寺廟巡禮-福建省莆田市湄州島媽祖祖廟湄州天后宮天上聖母
「香火始能流傳」(社の灯のよく流れ伝わるように)という表現が,後にかかってるのか微妙な書き方で綴られます。これは全山が燃やされたことを暗示してるのか?
次の記述にも「荒煙蔓草一片」という部分があります。はだか山に戻った,という情景描写です。
看著今天香火鼎盛的湄洲祖廟,及陸續完成的寺廟建築群,很難想像這裡曾是荒煙蔓草一片。
「文化大革命」時,破除封建迷信思想,僧尼被迫還俗,神像遭搗毀。傳統戲曲改唱樣板戲,作紙紮的老師傅改糊批鬥遊街用的「高帽子」,寺廟改為學校或工廠。
(略)
「當時要上山來,得折掉一根根的樹枝才上得了」,阿八回憶當時祖廟荒廢的程度。
※ 台灣光華雜誌 Taiwan Panorama/一尊媽祖兩岸情 1995
さらに上記中段には,廟の住職たちが「高帽子」を被せられて街を歩かされたとある。それはテレビでよく見る光景なのでステレオタイプかもしれんけれど,寺が学校や工場になったともあり,こちらの真実味は疑いがたい。
最後の阿八さんの「當時要上山來,得折掉一根根的樹枝才上得了」──当時は山に登るのに,どの樹木も折れたり倒されたりしてたので真っ直ぐ登れた──という証言ももっともらしい。ブルドーザーか戦車で倒したわけじゃないだろうから,やはり燃やしたと考えるのが近いのではないでしょうか。
なお,この阿八さんという方は,現在,湄洲祖廟の常務董事長をされている女性。かの禿山に最初の祠を造ったと証言している。
けれどこれは台湾のサイトに載ってる記述でした。
湄洲帰路は海賊に注意
いやあ,ハマッたハマッた!予想通りです!
港から乗船口に向かおうとすると,検札で止められる。「この票じゃ乗れない」とか言い出しよる。普通船は満員,快速船はあと20元追加……ってそんなん聞いてねー。
さすがは妈祖の島,まさに快速船ならぬ海賊船である。おおっウマいこと言うね!
追加料金を払ってようやく検札を突破,船へ急いでると,前を行くは海兵服の男。追い越しがてら覗きこんだ厳めしい面構えが「快速船?慢慢地!」(快速船か?急がなくていい)と怒鳴る。
え?何で?と聞き返す。いや,俺がその船動かすんだから。──出た!こいつが海賊船長,もとい快速船長か。
1050,出港。
空は曇じみてきた。微かに白波。
可惜呀可惜呀
帰路のバスを探してみたけれど,やはり362路しかなかった。まあ…休もうか。
1120,海を背に北へ出走。
というわけで湄洲歩きは正味,わずか3時間ほどで切り上げたことになります。でも少し言い訳をします。
▲(再掲)湄洲島:百度地図航空写真
▲文甲码头周辺:百度地図航空写真
今現在も,この島付近でさらに深掘りするのは難しく感じてます。
最後にここの地形を読んでおくと──上の写真からは,湄洲島北,つまり祖廟山部分から文甲の南を経て大陸側北を湾曲する高みが見えてきます。外輪山……のような連なりです。
文甲港北,行き来で見えた城跡のような場所には莆囍古城とある。また港から半弧を跨いだ西には前に触れた賢良港媽祖廟がある。(第三波m十字街/島にはない媽祖生誕地)
直感としては絶対に何かがあった場所なんだけど……ここまでガッツリとリストラクションされてると,残り香を嗅ぐことしかできませんでした。可惜呀可惜呀。
帰路は,あのガタガタ道でよく……と自分でも思う。熟睡してました。
1217,莆田汽車站下車。さて?あと半日あります。
■小レポ:「牛头尾」への視覚・聴覚
小松左京の遺した世界一怖い怪談に「牛の首」というのがある。
それはさておき「牛の頭と尾」というこの奇妙な地名には,何の伝えも発見できませんでした。
ただ,この岬の小地形には同様の奇異なスポット名が沢山ある。ここは,地質学的に特記されるようなものではないけれど,4千年ほどは風と水とに晒された奇岩の集合体になってるらしい。つまりちょうどいい若さの侵食岩なのです。
百度に列記してあるものでは──神龟出巡,苍鹰戏鼠,海狮祈天,雄狮瞰海(百度は以上を「四景」とする),群仙赴会,神龟醉乐,龙虎滩,天狗吠日など大小20箇所余。
〔陈嘉明【山水福清】滨海风景——目屿岛风景区_传说〕
“自古宫商传水乐,几如风雨作龙吟。”,历代文人墨客在此留下了许多赞美的诗篇。湄屿潮音拥有大小景点20多处。其中:天狗吠日、苍鹰戏鼠、雏燕展翅引人入胜
※ 百度百科/湄屿潮音
分かる点は,生物の喩えが多いこと。それも想像力を逞しくした,しかも現場性や生活感を欠くものが多い。「その岩に座った時に……」といった類いは皆無なのです。
この視覚は,遠方から,陰影の濃い岩の形を見るものです。
これに対し,「歴代文人墨客」の「几そ風雨の龍吟を作るが如し」はこの場所特有の聴覚環境を書いてます。これに由来する名称が「湄屿潮音」。
岩と潮とにぶつかる風が共振して独特な音階を奏でているように聴こえるんだそうです。
随着潮汐吞吐,产生共振,便发出奇妙而有节奏的音响:初如管弦细奏,继如钟鼓齐鸣,再如龙吟虎啸,声音奇妙,最后似巨雷震天,骤雨泻地,组成一曲曲动人心弦的自然交响乐,远送海天,“如撞万石钟,经沧海者,叹观止焉”。是为“湄屿潮音”。
※ 百度/湄屿潮音
「如撞万石钟,经沧海者,叹观止焉」という詩句が掲げてあります(出典不詳)。万石の鐘を撞くが如し,经沧(交易)する海の者,嘆息して止むことなし,というところ。
これらの描写は,つまり陸側を歩く者の視覚・聴覚ではありません。海側に船を運ぶ者のそれです。
だから──実見していないのが説得力を欠くんですけど──「牛の頭と尾」という奇妙な表徴も,船からこの岬を見た時にそう見える,というものだと思われます。海域側からの視点なのです。
■記録:牛头尾地区のある開発補助事例
「坡屋顶」(片流れの傾斜屋根)を増やそうと,この地区は躍起になってるらしい。訪問から8か月後の行政文書です。
一、补助对象
位于牛头尾片区内进行坡屋顶建设的各栋民房户主
※ 湄洲岛国家旅游度假区管委会办公室2020年4月27日発 湄洲岛宫下村牛头尾片区屋面改造资金补助方案
この補助のやり方がまた露骨です。半月ほど毎に補助金額を傾斜させてて,期日内施工を誘導する制度になってます。こんな方法で,各地の開発はほとんど考える暇を与えず金銭で釣られて進行していくのでしょう。
按时签署《屋面改造协议书》并在2020年6月20日前完成屋面改造的予以每户奖励5000元;在2020年6月30日前完成屋面改造的予以每户奖励3000元;在2020年7月15日前完成屋面改造的予以每户奖励2000元
[前掲办公室]
■小レポ:公式・媽祖ストーリーの展開
媽祖ストーリーをまとめる動きは,明末清初,海域アジア視点だと後期倭寇期に盛んになってます。建隆元(960)年に生まれたとされる林黙娘(=媽祖)の死(28歳∴988年)後,6百年以上経過した時点。
日本神話なら記紀編纂の時代です。
まず明末,1602(万歴30)年に南州(湖北~四川の国境エリア)生まれの呉还初(吴还初)という民間人が「天妃娘媽伝」(天妃娘妈传)を出版。「神怪小说」というような区分をしてるものもあり,この50年ほど前に出てる西遊記の類の伝奇ものとして作られたのでしょう。
だからおそらく,この後の展開がなければ,媽祖ストーリーは神話には,つまり宗教化はしなかったという見方もできます。
天妃显圣录:林氏家伝から清初の出版まで
崇拝対象としての媽祖像を文書化したのが「天妃显圣录」ですけど,この編纂は酔人一個人が成したものでも国家プロジェクトでもない。
プロジェクトと言うなら,媽祖を奉ずる林一族が,自らに祖先に媽祖を位置付けるプロジェクトではあったかもしれません。
林氏は明末に興隆した一族。この中に,明が北京を追われ歴史上滅びた時,隆武帝(唐王)の福建逃亡に従った,あるいは企画したかもしれない林兰友という人物がある。
この人は,隆武帝がさらに南に追われる段では湄洲島に引退し(幽閉され?),それでも対清抵抗活動はしていたけれど墓碑には「罪臣」と彫らせた,という謎の──というより普通に考えると明と清とをコロコロと裏切りながら生き延びようとした怪人らしい。
※ 百度百科/林兰友
「天妃显圣录」という書籍は,この林兰友の前後の同一族・林尧俞,林嵋らが,当時の湄洲天妃宫の住職・照乘という人物を通じ,当時,名をあげていた丘人龙という文筆家に記述を依頼したものと見られています。というのが,林氏名の記事が多く,丘人龙が書いたと断定できる部分はわずかだかららしい。林氏に数代伝わっていたものを,丘さんが変調あるいはゴーストライトしたか,というところでしょうか。
天妃显圣录の出版は1682(康熙20)年。
ただここでは「著作権」めいた話はどうでもいい。この複雑な経緯の中で,媽祖ストーリーが清朝公認としていかに転生したか,です。
敕封天后志までの60年間
「敕封天后志」は1741(乾隆6年)に上下2巻が惠安県(泉州北隣)儒学教諭の林清标が著し,朝廷に上呈されている。
構成は全49話。うち15話が生前の媽祖ストーリーで,後は鄭和を助けたとか海賊に祟ったとかの神になった後の活躍ストーリーです。
記述はほぼ天妃显圣录そのものだという。だからまず浮かぶ疑問はこれ──天妃显圣录出版から清朝への上呈まで,なぜ60年も時を要したのか?
後掲[莆田贤良港天后祖祠官方门户]によると,中国社科院学者の叶涛さん監修による中央电视台の説明はこう。
清乾隆三十五年,莆田举人林霈,任台湾凤山县教官。当时台湾府开始兴建妈祖天后宫。而自认是妈祖后裔的林霈觉得,仅仅修建几处祭祀场所,似乎还不足以让台湾民众真正了解妈祖。于是林霈决定,在台湾传播妈祖文化,但他手头并无资料,只好向在福建莆田老家的父亲林清标求助。林清标在考察搜集妈祖的生平事迹后,编撰了《天后志上·下》两卷,上呈朝廷,经朝廷敕封,得名《敕封天后志》。志书包括了妈祖的生平事迹、神迹传说、历代皇帝敕封等内容,不仅让台湾民众全面认识了妈祖——林默,也成为今天了解妈祖文化最权威的文献。
──台湾凤山県の教官・林霈さんは,自分の祖先の媽祖を台湾民衆に知ってもらいたいので,親戚の林清标さんに助けを求めると,清标さんが資料を集めて書いてくれたので朝廷にお持ちし,台湾のみんなも媽祖の知識を得ることができました。だから敕封天后志は最も権威ある媽祖資料なのです。──
筋立てがスムーズになりすぎてて,分かりやすいけれど真実味に欠ける。大方のところは納得するんだけど,理由と結論が安易過ぎると思う。
林需さんも林清标さんも地方の教員です。なぜそんな歴史的大業を志したのか?さらにそうして成し遂げた大業を,なぜ朝廷に提出できたのか?
消極的清朝公認=媽祖興隆説
どちらも普通あり得ない。だとすると逆の事実,つまり①清朝側が政治的に媽祖ストーリーを制式化したかった,②でもその対象・天妃显圣录をそのまま昇格させたくなかった,③だから林氏の子孫が勝手に上呈した,という形をとった,という可能性が浮かびます。
清朝が媽祖信仰を海上秩序の理念として欲したのは定説通りだし,やっと滅ぼした先・明朝の臣下が著した天妃显圣录を使ったことにはしたくなかったのも分かる。林氏子孫ルートを使った内実は想像できませんけど,清初の海上治安上,林氏の協力が必要な状況下で,林氏と湄洲宗教勢力が清の海上治安当局と何らかのネゴを形成したと推定はできます。
それとも?というもう一つの可能性も浮かびます。
敕封天后志は,先に見た本土側の贤良港天后祖祠に珍藏されていたものである点です。湄洲媽祖祖廟に,ではありません。
敕封天后志を経典化する,という企みは,当時にあっては失敗に終わった。少なくとも関係者にはそう認識されたのではないでしょうか。
それが,文革後の媽祖信仰の凄まじい勢いでの復活の中,思いもよらず復活,つまり4百年の時限爆弾のように復活した。
1980年代,莆田市文化部門が「妈祖的传说」(媽祖の伝説)を発行し,これに収録それた50話が,現在は公式の媽祖ストーリーということになってます。
こんな頼りない展開の書名文献史下で,これだけの信仰の広がりを保ってる,というのは,媽祖信仰が専ら口承伝承を基礎にし続けてるものだという証左でもあります。清政府が支援した,という定説は,否定はしないけれどもう少し控え目に捉えていいのかもしれません。
※ 百度百科/妈祖传说
※ 《天妃显圣录》考订 – 莆田文化网
※ 林清标编撰的《敕封天后志》是研究妈祖最权威的文献 – 莆田文化网
※ 《敕封天后志》是了解妈祖文化最权威的文献_莆田贤良港天后祖祠官方门户
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