m035m第三波m闽星の毛虫に突かるる倭虫かなm十字街

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※実際はこの辺一帯をうろうろしてます。

難解なる場所:雪ダルマの腰

▲1524文献路

献路へ出てみたもののパッとしない。莆田で初めて見る繁華街ではあるけれど,あまり風情を感じない。
 東へ進んでみる。ごっつい赤煉瓦の建物が見える。──とこの時点でもメモってます。上の写真奥にも写ってます。
 これが文峰天后宮:GM.地点 でした。翌日,ここは再訪することになりま……いや行ったのかな?記憶が薄いので,まあ請うご期待!
 ということで1534,頂務街へ右折南行。少しこの辺りをうろついてみます。

▲1538頂務街

行してて,入った途端に感激する場所がある。けれど初見ではピンと来ない場所もある。後者の中のほんの僅か,なのに深層意識のどこかにひっかかる場所がある。
 実はこの最後の群こそ,意識にとって未知の,本当に訪れるべき難解な場所です。
 うーん。パッとしないよなあ。──というのがこの初日の印象でした。なのに翌日再訪してます。
 ここが難解な場所だったからです。
 
▲莆田新旧老城位置図
凡例:上向き矢印 南門乡
   下向き矢印 広福路

応,Xとして目を付けてた地点でした。
 ここは莆田旧城南門,新城がそこから接続する地点。正解にはその城外すぐに当たります(上写真:上向き矢印)。
 これに対し前々章(広福路)の馬巷や広福路の場所は旧城西の,やはり新城と城壁がT字に交わる地点の外側すぐ(上写真:下向き矢印)。
 それがどうした?──というのがはっきり言えないけれど……軍事要衝だった莆田城は特に城内に商業区が設けられず,二系統の城が作る「雪ダルマの腰」の位置に市井の賑わいが自然発生した,というようなことじゃないかと推定するわけです。

▲1546白亜の橋の前で

初日は十字街到達まで

城路,といういわくありげな地名を目指してみました。
 1544,南の道に出た!と思ったんだけどここでいーの?古城路?全然それっぽくない。
 少し西に歩いてみると,地図ではっきりしない,観光用文化街だか庶民派商店街だか分からない妙な雰囲気の南北道が現れました。

▲1549十字街を初日はちょっと覗いとく

あなるほど。南のこの白亜の二重橋と,北のごっつい赤煉瓦の間を十字街という道が南北に結んでる。そういう構造なわけか。
 下の写真の指差し地点が「二重橋」。そもそもこれが二重なことすら地図では分かりません。
 初日に押さえれたのはこの程度でした。繰り返しますけど,この地点は本当に難解でした。

▲十字街付近地図:百度地図

553,バス停十字街口。──1と8が市公交東站まで帰るようです。明日は早い。早目に帰るか。1556,8路が来たので乗車。
 古城路を東行。ここの川沿いに道がついてる。決してキレイな道じゃなく生活の道っぽくて好ましい。
 北大南街に左折した。バス停実験小学。
 バス停歩行街。この辺りにも小店多し。八二一街の西側です。この道を渡ると一気に新市街になる感じ。
 さて?それはそうと飯屋がないぞ……。

炝肉!炝肉!炝肉!

▲1620亜文炝肉の炝肉

むを得ず,という感じでバス停脇の店を物色する。良さそうなのはここしかなかった。
1610亜文炝肉
炝肉+米飯15元370
 入店直前に,このメニューの漢字の読みが推測すらできないことに気付く。炝海蠣とか猪脚灌というのもあるらしいけれど,「炝」字が読めないんである!
 とりあえず百度を引いて,それで入ったのでした。読みは「チャン」(4声,方言では1声)でした。

炝肉,是福建莆田民间特有一道特色传统名肴。肉质细腻,味道鲜美,制作原料主要有猪里脊肉等。名曰“炝(qiàng )肉”,而大多数莆田人喜欢把炝读成chāng。

※ 百度百科/炝肉

▲1630チャン肉どアップ

肉──豚背肉のつみれにも感激はあったけど,たまげたのは豆腐!
 というか厚揚げと絹豆腐の間みたいな……とにかくそういうものの中に炝肉の肉汁がブクブクに吸い込まれてる。
 無茶苦茶だ。無茶苦茶に美味い!
 調べる限り,コレに豆腐は一般的に入るものらしい。

炝肉里加入特制的豆腐丸,出锅后,炝肉爽滑美味,豆腐丸吸收了汤汁的精华,芳香鲜美。[前掲百度]

 ちなみに,ここに入っちゃったので宿の隣の,実は今朝入りかけてた莆田卤面の店はスルーしてしまった。
 その名は妈祖飯店でした。

莆田二日目。
媽祖への感染日
とも言える日に
なりました。
[前日日計]
支出1400/収入1240▼14[115]
    /負債 160
[前日累計]
利益  -/負債 827
§
→九月十六日(一)
1226亜文炝肉
炝海蛎米粉400
1359箸楽米中式快餐
虫草花老鴨湯
牛肉ピーマン玉ねぎ炒め
卵豆腐の辛い漬物のせ500
1430向陽坊sunmile
虎皮珈琲250
1656天久王炝肉
炝肉+米飯300
[前日日計]
支出1400/収入1450▼14[115]
    /負債 50
[前日累計]
利益  -/負債 777
§
→九月十七日(二)



本歌:浮見堂霧に囁くもののあり〔灘〕

曙の台湾人観光客


発,6時4分やがな!
 0612,ターミナルの乗り場に来て昨日確認したのと別の時刻表を見つける。まあ……よしとせい。バスは既にいるし0616には出発した。大体予定通りです。
 湄洲島への船着き場まで13元。運ちゃんに「台湾吗?」
「自己×××」と言われたのは自分で島まで行き着け,ということか?このバスはツアーじゃないぞ,と。
 分かったよ,台湾人観光客としては自力で行きついてやるよ。車内,乗客は3人きり。
 ちなみに,昨夜は本気で疲れてたらしく,シャワーを浴びてちょっと横に……と思ったら朝になってた。1時間ほどで泉州の予約やら所用をこなして飛び出してきてここに到ってます。

▲百度地図の莆田汽車站→文甲码头(船着き場)公交(公共交通)路線検索結果。361と362路(往路と復路)が結んでるけど,2時間?距離も40kmはある。

莆田汽車站→文甲码头:1h

627,高速に乗るとすぐ,大きな川を渡る。行く手右にとんがり山。
 0635その山が後方になる。もう火車站は過ぎたはず。速いぞ。片側四車線を爆走しとります。
 祠があちこちに見える。ここ文革はなかったのか?
 0637,永福家居。
 0640。右折?荔港大道を辿るのではないらしい。0642,また右折?莆永高速だと思うけど?
 バス停・陳厝。すごい高架を上がる。でも路面,ガタガタ過ぎね?お,おお~こりゃほとんどジェットコースター!
 バス停・瑶后。
 バス停・月坑。──地名がカッコいい。陳厝-瑶后-月坑か。
 あれ?道がいきなりまともに?塘边村と表示がある。

▲身近の文明,便利に近い(港にて)

およそ半分来た。
 0654。え?左折~?バス停月埔。
 おお~!完全に整備された車道になったぞ!右手に赤屋根の集合住宅。バス停・忠門。半島の狭あい部にあたるようです。
 U字にたわんだ屋根がいくつか。あれ結構作るの大変じゃないか?
 おお天后宮!ってまあ,あるだろなここにも。
 0702,町。漢■東路。
 バス停・西埔口。
 バス停・山亭。
 残り10kmほどか。モバイクが見える。ただそれほど華やいではいない。バス停・莆禧。地名だけは雅。
 あら?また原野?港と町とは集落が繋がってないらしい。
 K06路バスと並ぶ。終点のアナウンス。右手に城壁のある古城。歩いてみたい雰囲気だけど,港からはかなり遠いな。
 その先は高層マンション。開発区らしい。
 海。
 0715文甲码头到着。ほぼ1時間でした。

福建省莆田市秀屿区湄洲岛


速0730の切符を港にて購入。入場と帰り込みで105元でした。というかそれしか種類がない。帰路を先に買わせるというのが中国カフカな経験的に,どうも悪質な予感はするけど……。
「第三届世界妈祖文化论伝」という横断幕。媽祖信仰と言わずに「文化」と表現する辺りが共産主義への配慮か。
 乗船。船の座席の背もたれの後ろに「妈祖文化 海洋文明 人文交流 Mazu Culture Maritime Ciilization Cultural Exchange」と,考えたら大きく出てる標語。
 客は30人もいない。船内がらがらです。
 港の船は隅っこの砂浜に乗り上げてる。動いてる雰囲気なし。漁村としては動いてない。

▲湄洲島:百度地図航空写真

港,というより船が旋回し始めた。本土側岬に塔。
 湄洲島は……視認すると改めて,かなりデカい。こちらから見えてるのは東北側のごく一部のはずです。祭祀関係はそっちに固まってるはずだけど。
 浜は少ない。高くはないけど崖が覆う。しかも一つの大きさが大きい。最も東北部に丘。これが信仰対象だろうか?いや,信仰というよりむしろ──

▲愛媛県今治市能島:GM.航空写真

洲島は,莆田の南まで入り込む湄洲湾の入口を塞ぐ位置に,水平方向へはヒトデのように,垂直方向にはそそり立つ崖状に形作られてます。
 上に写真を掲げた能島とは,水平面積は遥かに小さいけれど,位置と形状は通ずるものがある。
 現・湄洲の中間部の平地は,最近まで浅瀬の海だったでしょう。北の小島状の天后宮側と南のやや大きな山塊は別の島です。とすると湄洲湾に入る船は,今渡し船が移動してる天后宮側の崖下を通るしかない。
 元の鄭成功本拠地としての立地には,なるほどと頷かせるに十分な島の相貌です。
 0740,上陸。

M総本山への長き坂道

▲0742湄洲の港から朝日を見る。

749,まず右手,島の西岸沿いに歩く。
 港の裏手はすぐに山。これが南に造る鞍部に向けて,西岸の道は登りに入りました。
 緩い傾斜には土産物屋らしき店の列があるも,流石にまだ開いてない。

▲0800ロータリー

ぐに登りは終わり,平坦地になった。
 0754,ロータリー。左に妈祖祖廟,天后広場とある。ホテル多数。バス停・妈祖祖廟。いずれも次が終点で,さっき下船した轮渡码头となってました。
 そうして北を振り抜けば──来たぞ!天后宮総本山への長い階段!

※ 何度も使ってるので断っておくと,これは西門観光振興のための台湾市長の媽祖装である。決してワシの個人的趣味ではない。

■記録:2019年鳩山元首相,湄洲でツイート

 こう湄洲入りの記録をまとめてるとこで,この2チャンネルまとめを見てうんざりした。あんまりその反応がニッポン的なので,それ自体を記録しときたくなった。
 鳩山さんはこれを呟いただけです。

2019/11/11(月) 11:50:36.72 ID:MRllUhYb0●鳩山由紀夫
福建省の莆田市の外れの湄州島で行われた媽祖フォーラムに参加してきた。この小さな人口4万人の島で、なんと運転手もハンドルもない無人カーに試乗してきた。この離れ小島に5Gが張り巡らされていたのだ。米中AI戦争が激化してきているが、残念ながら日本は完全に未来に乗り遅れてしまったようだ。

※ ツチノコ速報/ 2019-11-11 1:02 PM
鳩山元首相「ここは中国、5Gが張り巡らされ車は全自動。日本は完全に乗り遅れた」→日本人発狂w

 当たり前のことしか言ってないと思います。
 これ自体は,ワシ自信が現代中国を歩いてて嫌というほどどこでも感じる事実です。金盾のAIのビビッドぶりには常に完敗してますし……。
 で,皆さんの反応がコレ。

日本人の反応
・で、だからどうした?
(略)
・それは何よりです。その島で幸せに暮らして下さい。
(略)
・もう我が国に戻らず、その地で骨を埋めて下さい!
・残念ながらと言いながら嬉しそうですね。
・鳩山先生には中国がお似合いかと存じます
・たまには日本の素晴らしいとこを呟いてみては???
・何でも無人化が、最先端と勘違いしてるようですが?
・もしかしてチベットウイグル問題とかは捏造やと洗脳され済みですか?
・どうぞ中国で暮らして下さい
 私ら庶民は天皇陛下と共に日本の歴史を紡いで行きますんで、遠慮要りませんよ
災害もあるし原発の問題とかありますが、私は日本を愛しています。日本の国土そして日本国民を大事だと思ってますから鳩山さんには暮らしにくいと思いますよ〜(^-^)
[2019ツチノコ速報]

 感情的,というレベルを超越してる。
 事実を認めない,というより,目に見える狭い半径の批判をされることに,条件反射的に噛みついてる感じです。
 何よりヤバさを感じたのは,一応最後まで読んでみたんだけど,この湄洲という島の地理も歴史も行政も信仰も,そうしたリアルな場所感覚が語られた言説が皆無だったことです。鳩山さんの「小さな島」という記述が,人によっては無人島に置き換えられてる。
 発想は大きく飛ぶけれど,今この国の島人として,海域アジアを考える必要性がズシンと大きな感覚として胸に落ちました。
「天皇陛下の日本」が原初的に含まれていたであろうあの「くに」のリアルは,現代ニッポンと最も対極にある,途方もなく濃いものです。
 その一つの核心であろう湄洲が,かくも軽薄な「小さな島」イメージでもってネット上を転がされてるのは,ある意味で象徴的な光景に見えたので,以上,スケッチしてみた次第です。南無阿弥陀仏。

■資料:媽祖信仰で語られる媽祖関係基礎データ

事実らしい事実

・湄洲の読みは莆仙語で「Bí-ciu-dô̤」
・兴化府莆田湄洲岛湄洲妈祖庙(朝天阁)としての創建は987(北宋・雍熙4)年で世界一古い媽祖廟と推定される。
・浙江省の舟山群島(舟山市)普陀山・洛迦山を中心に渡海祈願の神としての観音菩薩との習合が進んだ。
・インドネシアに伝わり現地の女神「ラトゥ・キドル」になった。
・共産中国下では文革期にはほぼすべての廟祠が破壊され、信者も迫害されたが、80年代末頃から廟祠復興が黙認
・香港・佛堂門天后廟(俗称号:大廟):いまだ船で行かないと容易に近づけない海辺に所在。1970年代まではビクトリア湾上で生活する蛋民の参詣で賑わった。
・台湾:日本統治時代末期に台湾総督府の方針によって一時規制(ex.台北最大規模だった「天后宮」は1908年に台湾総督府により撤去)
・主に台湾:日本統治時代の台湾で神道系の新宗教として天母教発祥。日本の天照大御神と媽姐が同一のものであるとするもの。戦後壊滅。

信じられてる事実

 つまり大いに偏向がかかってると思われるデータを,あえて検証せず(信じられてる内容として)そのまま並べてみます。
・妈祖の原名は林默娘
・960年農暦3月23日,湄洲島で誕生。
・987年農暦9月初旬,海難を救助しようとして28歳で没す。
[異]父が海難に遭い行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ神となった。
[異]父を探しに船を出し遭難した。
[異]媽祖島(福建連江県馬祖列島,(伝)現在の南竿島)に遺体が打ち上げられた(さらに巻末残照)。
・現在,湄洲祖廟から分祀した28の国と地域の6千余の妈祖庙(天后宫)があり,2億人余の信者がいる。
・台湾を中心に海外からの参拝は毎年20万人。2006年には,台湾妈祖联谊会の団体旅行が4300人余あった。宿泊施設も充実し,2010年までに旅行客は156万人に達した。
・千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)の二神を脇に従える。
[異]二神はもともと悪神で,媽祖に調伏され改心し随神となった。
・マカオの地名由来:媽閣廟(広東語 マーコッミウ)近くで「ここはどこか」と尋ねたポルトガル人が地名と勘違いした。
※ wiki/媽祖
※ 莆田市人民政府/湄洲岛

■小レポ:もう一つの媽祖の島

 莆田市湄洲島は媽祖の生誕地として自称二億の信者の総本山になってる。
 これに対し,中華民国(台湾)連江県馬祖島(大陸中国の名称:南竿島)は前述の媽祖の遺体の漂着場所で,こちらはこちらで聖地化されてます。ただし──

馬祖島は、1949年の中国-台湾の分裂後、天然の要塞として整備され、長らく最重要の軍事拠点となっていました。台湾は李登輝時代の1992年に同島の戦時体制を解除し、現在は観光地化が進んでいます。

※ 探検com/東シナ海を制覇した航海の女神

 場所はここです(→GM.:地点)。この位置の物凄さはGoogleマップで直接見てみてください。大陸中国がわずか15km先に見える,よくこんなヤバい場所を実効支配してこれたものです。

▲馬祖天后宮本殿中央

 ただ,このヤバさゆえにでしょう,馬祖島の馬祖天后宮は1992年以降,やっと入域が許された,島民の信仰対象としての性格が強い場所のようです。

ここは島における媽祖信仰の中心地で、連江県の大きな宗教文化イベントはほとんどここで行われています。
毎年旧暦の媽祖の誕生日には盛大な祭事や巡礼が行われるのですが、その時には台湾本土や中国各地からもたくさん信者が訪れて賑わいます。宮前に入りきれなくて、港の広場にまで人があふれます。媽祖様の御神輿を担いで島中を練り歩く巡礼では、多くの人が神輿の下をくぐろうと長蛇の列を作ります。

※ 台北ナビ/馬祖天后宮(南竿・馬祖)
 仏舎利を尊ぶ仏教の感覚だと,遺体を祀る馬祖島の天后の方が優先される気もするんですけど,台中両立以前にも,清王朝が旧・鄭成功本拠だった湄洲島を祀ってきたように,やはり湄洲側が信仰の中心だったように推定できます。馬祖島への漂着譚自体が馬祖側に残る媽祖ストーリーの「異説」になっている感もある。
 ここの感覚の違いは,仏教と習合する前の独自の海神信仰の性格を匂わせるようにも見えます。
 けれど,「漂着した女神」というモチーフと考えるなら,対馬の天道の母親がうつろ船に乗って豆酘に流れ着いたとされるように,むしろ海民の普遍的イメージにも通じます。
※ exiteプログ/対馬の神様
 この辺をどう評価したらいいのか分からない。海峡を挟んだ二つの媽祖宮の存在は,様々な夢想をかきたてます。

 最後にトリビアっぽくなりますけど,この馬祖宮の御本尊はエベレスト登山をしたことがあるそうです。正解には,2009年3月に馬祖出身の書家・画家で登山家の李小石さんが背負って登ったという。なぜヒマラヤなんだ???というのは……一笑にふすには,けれど物凄い難事だったことは想像できるから……何か重い信念があってのことだったのでしょう。

▲今や馬祖宮の媽祖像は観光地で,GM.にはファンキーな写真もいっぱい!

島にはない媽祖生誕地

 莆田県忠門鎮港里村。ここは湄州島の大陸側対岸にあたる。この土地に賢良港媽祖廟という宮がある。
 媽祖の生誕の地とされているそうです。
 生誕地,幾つあんねん!という苛立ちはごもっともですけど,媽祖が著名になった後,色んな町が生誕地の名乗りをあげて争奪戦を繰り広げたらしい。──邪馬台国みたいなもんですけど,史料性は薄いんだからそれよりもっととりとめのない論争です。
 そもそも媽祖信仰は,海民がそれぞれ持っていた無数の神や信仰が複合的に結合したものと見られてて,ストーリーも異説は多い,というより何が本筋なのかも決めがたいし,決めても意味がない。
ただ,この島にない宮は,他と同等以上に古い。

廟内には宋代の木製の媽祖像および1786(清・乾隆51)年の『重建天后祠記』・『歴朝褒封徽号』の石碑がある。廟のそばには古代(宋代か)の八角井と埠頭がある。

中国における琉球史跡(ビ州島)
 古代の港があった場所です。改めて場所を見るとここ→賢良港媽祖廟GM.。媽祖の実体はともかく,そのストーリーは陸上で形成されたらしき要素が多いのですから,この場所辺りが信仰の起源として相応しい。
 通説の由緒はこうなってます。

宋代の創建で、1421(明・永楽19)年に勅を奉じて修築された。さらに清・乾隆年間に台湾の安平鎮の官民が資金を募って修築した。文革によって破壊されたが1988年に復元された。[前掲琉球史跡]

 当時は決して経済的優位に立ってはいなかったであろう台湾・安平の募金で,清代に修築された,というのもこの宮の格式を傍証する沿革です。

「m035m第三波m闽星の毛虫に突かるる倭虫かなm十字街」への2件のフィードバック

  1. Reading your article helped me a lot and I agree with you. But I still have some doubts, can you clarify for me? I’ll keep an eye out for your answers.

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