目録
貝汁風炝肉
中国旅行で次の町へバス移動,というのは物凄く楽に感じる。切符が楽に,ことによっては乗車時に買えるからです。
1217,湄洲から莆田汽車站に帰り着き,明朝0730発の泉州直達票を購入。33元。
さて昼どきだけど……と危ぶみながら赴くと席は何とか残ってました。
1226亜文炝肉
炝海蛎米粉400
昨夜食べた炝肉に加え,「海蛎」つまり牡蠣です。どちらもが入ってるんだろな,と淡く思ってたら──
何と海蛎だけ!
しかもあの豆腐もない!がっくし…と空振りを確信しつつ口に含む。
!
意外なことに海蛎が炝肉のようにぷっくりしてる。なるほど,メニューの文字は嘘や略じゃない。「炝海蛎」なんである。
「炝」というのは,つまり料理法らしい。けどこれ,どうやってぷっくりさせるんだろう?
独特のぶよぶよした歯応えと貝汁のような出汁が相まって,結局,かつて中国で食べたことのない九州的な旨味に酔いしれたんでありました。
仪门:電線と木々のトンネル
街歩きを再開しよう。1259,96路バスを選択,東圳路口へ向かう。
延寿中街へ右折北行。川を渡る。
市街北にあたるこっちの方面は高層ビルが林立。金茂大酒店。体育運動学校。老樹白茶という店がある。
もう一本川?
左折。これで道は東圳路街に入った。少し町が落ち着いてきた。
1311,バス停・東圳路口に下車。この南のX地点には,地図に道がない。勘で進むしかないんだけど……どう行くか?
▲1317南北の細道(東平路辺り)。空中の電線管はどう配置したらここに出来るものやら。
1314,バス停対面辺りの南への小道を有望と直感。ここから入る。
すぐ交わる東西道には東平路とあるけれど,この南北道には名前なし。
続いてた。細い道を南行続ける。「仪门」とあるのが地名表示だろうか。
後から見たら,ホントにここを歩いたんだろか?という不思議な道を歩いてます。
上の写真の草木のもぐれつき方なぞ,どうなってるものやら想像できません。
燈籠は屋根から垂れる草木に映える。
決して古いまま放ってある地区ではない。生活感はあるし,インフラや建材もやや新しい。
この軒の真正面にバイクが停めてあるのも現代中国です。
電信柱が道の真ん中
中国では門構えは古いままにする気風があるんでしょうか。
上部の煉瓦のラインは不整形に傾いてるのに,あえてその周りだけコンクリート施工してる。
下水の通り道も小さいながらキチンとついてます。
電信柱が道の真ん中というのも凄い。
この祠の前面道側の小さな囲いは,正面軸とぶれており,線香を置く拝壇ではなくて焼香壇でしょうか。
古樹には見えないけれど,わざわざ周りをコンクリで囲ったまま生かしてる。
古くはなくとも威厳のある幹です。ローカルにはランドマークのような存在でしょう。
ランタンと内山理髪店
出口の近づいた辺り。
この辺りになると地筆の不整形はあまりなく,現代的なかっちりしたラインではないけれどキレイな弧を描いてます。
外から向かって右側だけになった対聯。
ランタン,門,対聯の配置と古式ゆかしい形態で,中の雰囲気からも生活感は濃いのに,なぜ片側だけなのか。古式が置いていかれつつある情景なのでしょうか。
右端の木板の看板には「内山理髪店」とある。日本名……としか思えないけれど,どういうことかはよく分からない。
しかしこれだけの数のバイクが並ぶのは?中国でも違法駐車しやすい場所があるんでしょうか。
異様な熱気のトランプ賭博軍団
1325,北出口に聖中堂とある祠。それが左手で,中が太師廟,右が廬山閣とある三連の祠でした。屋根も傾いでかなり年季もの。
出た道は…どこだ?
城門街?左折東行,車道に出る。南北の幹線道,八二一路だろう。
110路で南行。1339。
道は,何度か渡った八二一路ですけど,この北辺りは控え目な町並みです。工場が多いか。
「魚炝」を掲げる店もある。それと別に牛肉専門とうたう店は何だろう?あと「牛杂」とある店は?
莆陽路へ右折。南門公交站。この辺もいい雰囲気です。
あれ違ったか?南門西路を進んでる。かなりいい道になってきたぞ?
バス停・沟头園圏(全然読めんけど)下車。1355。降りた対面に異様な熱気のトランプ賭博集団!
■小レポ:「仪门」域はどこだったのか?
当時は,なかなかの雰囲気だったので見惚れるばかりで通り過ぎましたけど……一体ここはどこだったのか?
前掲の莆田城域図と付き合わせてみましょう。
仮説1:清代莆田城には漢族は住めなかったのでは?
▲再掲:莆田城図
※左部右向矢印:広福路
下部上向矢印:十字街
上部下向矢印:「仪门」域
やはりここも城門外すぐの場所です。
3つ目,しかも反対方向から見つかると,先に述べた「軍事色が強く民間は城から追われた」という程度とは思いにくい。清代には北京城の「满汉分城居住」と同様,「城内に住めるのは八旗のみ」といった分住政策が行われ,その結果漢族は各門前に町を作らざるを得なかったという情景があったのではないか。
※ 外伝17(蓬莱編)-103/胡同1/10=瑠璃厂街前へ迷走/■小レポ:琉璃厂の沿革から見た北京胡同の位置付け
仮説2 莆田城外の市場は船着き場の賑わいか
それならば莆田旧城門前にはなべて古い町が残ってる,のかと言えば到底そうではない。
特に東門側,この時もバスで通ってる八二一路沿線は,幾ら目を凝らしてXしても面白そうなエリアは浮かんでこない。
城壁のラインとして残存してるのは,これも迂闊にも見落としてるけれど──この時の仪门エリア,先の地図でいう北門辺りの壕跡の池だけだという。
莆田市中心部にあった莆田県城跡(興安州城、興化府城)であるが、南宋末期には一時、対モンゴル戦の勝利の地として漢民族のシンボルとまでなった城跡も、今では全く城壁も城門も残されていない。北門側にわずかに堀川跡が公園池として残るのみである。
※ BTG『大陸西遊記』~福建省莆田市
もちろん東門側は開発が早くていち早く壊された,という見方も自然です。ただもう一つの可能性として──北門と南門辺りには木兰渓に流れ込むかなり幅の大きな川が通ってる。城門とこれらの川辺の船着き場を結ぶ各ルートに市場が自然発生したけれど,東門にはそれがなく,元々民家が少なかった,とも考えられます。
莆田城は水から離れるどころか「水族」と対決するために建てられた。その城外の民間市は,けれど水に少しでも近い場所に自然形成されていったということだろうか。
謎:「仪门」域はどこだったのか?
以上の推論を前提にしても,なおかつこの土地は分からない。
まず,門から伸びたと思われるこの「城門路」なる道がほぼ北東に伸びている点。
莆田城の建設資金の主は,風水を全く重んじていない。莆田城全体の雪ダルマ構造にも通じるけれど,東に傾いでいる。
第二点。東に傾いだ城門街の北西側だけに老街があったように見える点。
南東側には老街の痕跡がない。先に開発された,というだけでは追い付かないほど,徹底的にXを欠く。その見方が正しければ,元々北西にしか老街はなかった可能性が高い。
南東側には漢族を近づけないような何かの規制があったのでしょうか?
さらに一つ。この北西側「仪門」地区にはその中を抜ける道が一切ない。自然発生でも自律的にもう少し太い道は出来るもの。ましてここが北の門の市場だったなら,客の導線となるようなラインが,城門街の方向と位置ではなく「仪門」地区を縦貫するそれになるはずです。
結果として,上記のようなまるでインターチェンジのロータリーのような三角形が出来上がってる。これの一辺として壕が残ってるということは,壕を建設した資金元がこの三角形を意図的に作った可能性があります。
でもなぜ?
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