m091m第九波m龍灯の海に一滴吾が小舟m狐尾山


本歌:群青の空に一滴夏の月〔小樽潮陵〕

福建最終日はコロンズ島でバカンス!!のはずが,色々あって裏厦門にハマります。そして新・福建島=台湾へ!!
[前日日計]
支出1400/収入1360▼14[115]
/負債 40
[前日累計]
利益  -/負債 527
§
→九月二十一日(六)
1018妙香扁食
咸干飯
扁食300
1700機内食370
2049王記府城肉粽
肉粽500
2149阿宗麵線
小250

[前日日計]
支出1400/収入1420▼14[115]
負債 20/
[前日累計]
利益  -/負債 507
§
→九月二十二日(天)



今夜のお宿は台北西門

门 – 台北 厦门航空 · MF881

2019年 9月 21日 17:00XMN高崎国際空港 T3
2019年 9月 21日 18:45TSA松山空港 T1

 この日のeチケットです。
 今回の行程を大まかに言えば,福建を回った後に台北へ渡り,やや長めのトランジット滞在をしてから帰国,というものでした。
 ちなみに上記のマンガは西門守護神・林默娘──媽祖です。
 最終日は穏やかに,コロンズ島と,昨日行き損ねた華僑博物館を考えてました。宿で落としたメモがこちら。
~~~~~(m–)m
「日光岩是明末清初民族英雄郑成功屯兵扎寨、操练水师的地方,至今犹存寨门、水操台等遗址。」
※BB./郑成功纪念馆
「1959年5月14日,华侨博物院本院开馆。
1965年9—1978年8月,因为文革动乱闭馆。」
※BB./华侨博物院
~~~~~(m–)m

 前回は思い切り観光してしまったこの島で,今回は鄭成功の痕跡を確認したかったのである。
 ただまあ,旅行は思い通りにはならないもので……。

▲0704厦禾路の歩道橋

三文の得 ないしは運の分かれ道

をまとめてロビーに預け,宿を出発したのは7時ジャスト。予定より遅くなってしまった。市街出発予定は14時と見てたから──残り7時間!!
 強行軍になるぞ?

▲0716地下鉄工事

ず厦禾路を東行。
 おやや?歩道橋前の山道から人の流れ?この南の登り道にも集落があるようです。
 ある卤肉飯屋の売り出し文句──「一勺妙卤 一碗好飯」。美味い卤(味)をちょっと入れれば美味いお椀の出来上がり!
 0716,厦門地鉄(地下鉄)1号線と書かれた工事現場の筋を右折北行。湖濱中路。

▲厦門語ご紹介広告。これが厦門語のアイラブユー(我愛你)なんだって。

圆洲仔→五龙屿→鼓浪屿

門地鉄の広告は新しいからもあるだろけど,地元愛に溢れたものが多いみたい。ここにはホントに独自文化があるらしく,上記写真の如く闽南語は使う漢字も北京語とは違うようです。
 X線検査でメガネのお姉さん,画像を見やりつつ「電池好多」──バッテリーをいくつも持ってるでしょ?
 いやこれはね,と説明しようとすると「没事」──構わない,だって。それでいいの?ちゅーか,言ってみただけかい!
 0727,ようやく文灶駅から乗車。駅前からは,こっちも結構かかるなあ。
 昨日と同じく鎮海路まで動きつつ,この見知らぬ「灶」字(巻末参照)と再訪となるコロンズを調べる。
~~~~~(m–)m
鼓浪屿
BB./gu3lang4yu3
鼓浪屿(英文:Kulangsu) 原名“圆沙洲”,别名“圆洲仔”,南宋时期命“五龙屿”,明朝改称“鼓浪屿”。
~~~~~(m–)m

 へえ,鼓浪屿(コロンズ島)の名前って明代からなんだ。それ以前は「五龙屿」(五龍島),さらに古い名には「圆沙洲」(円沙洲)がある。何れも単に形状を表現した,航行の目印程度の軽みを感じさせます。対岸の厦門が外港になるまでは,重要性を持たなかった,ということでしょう。
──と,この時点ではもう島に着いた気で書いてます。

▲厦門の古写真をピースに嵌める広告

平码头に着く。0749。ここの「和平」って何のことで,この码头(港)ってどういう港なんだろう?
 前回はここからどやどやっとフェリーで島に渡ったのどかなイメージだったので,手慣れたつもりで切符売場へ行きますと──「道の対面から51路のバスに乗れ」と告げられる。
 え?バスじゃあ島には渡れないはずだけど??聞いてると,どうやら現在,ここは島民専用の票売り場らしい。
 0804,バス停に立つ。全く分からんけど……とにかく行ってみよう。面白そうだし。
 0809,51路乗車。行き先表示には输渡中心码头(フェリー港センター)とあるから,そこがおそらく港なんでしょう。バスは鷺江路を北へ?道路にもその「码头」名の表示が見え始めました。でもそれはどこの事?

四人編成SWATチームにマークされ


らら,コロンズ島からどんどん離れてくぞ?こんなとこからどーするんだ,わし?中国カフカの薫陶ぷんぷん。いーねいーね。
 あ,左折した!湖濱西路を北行してる。右に海が見えたんでどっきりしたけど埋立なのか?道はえらくキレイです。
 河口を塞いでる格好──あ,ここは前回来たな!つまり人口沙洲の橋を渡ってしまってる。
 バス停・東渡狐尾山。まさに……狐に摘ままれてしまってます。次が終点とアナウンス。トンネルからぐるりと回り込んで?デカい港湾施設が見えてきたけど──そんな大層な!対岸の島に渡るだけだぞ?
 0820,終点だからとにかく下車。

▲0824厦門港ビル

側に厦門港というビル。その向こうは西対岸の橋です。
 東側には小高い丘。これが元々あった島でしょう。その沖を埋め立てて造ったらしきこの巨大施設──国際船路線と間違ってね?
 0829。うろうろしてると……おおっ♪完全武装のSWATがパスポート提示を求めてきたぞ!!!!作戦行動時の定石通り4人組編成の戦闘チーム,提示要求者の後ろを3人が固めてるぞ♪♪えっと──どのテロ計画が露見したのかな?

いたことに,売場はここで違ってなかった。確かに鼓浪屿行きのチケットを売ってる。上陸込みで208元とか308元とかのセット料金が書いてある。
 いや…鄭成功の山を見たかっただけの軽いお散歩のノリだったもので──SWATにも追われる身になったことだし,ここは退散しましょう。
 えっ?ここ世界文化遺産になったの?──と,この時初めて知りました。後の調べによると,巨大施設は遺産昇格に伴い設置,この時点では早朝6時半までと夜間は和平码头から人民の皆さんと一緒に渡れる。やはり寝坊が祟ったわけでした。

▲コロンゼ島へはやはりここから出るらしい。でも……さッ?300元??

仙岳の丘をぶち抜いて

て中国最終日のメインターゲットをこなして(喪失して)しまったわけで……ま……まあね。程よく北へ来たんだから,このヤケクソ・モードに身を委ね,北のXポイントを目指すことにする。
 943路というのが目的の長虹路へ行くはずだけど?上站は台貿中心。終点は……ええっ?厦門北站?いわゆる厦門とは全然違う場所だけど,己のX観(?)を信じよう。
 0901,来た。1元か2元か訊いた運ちゃん「我出去!」──出るからどけ,と怒鳴ってきた。すッ,すげえなアンタ。
 出走。西へ向かってる。
 東渡路。次は狐尾山バス停だと電光表示。あ?Uターンしたぞ?
 北行。ホリデイ・イン。東渡バス停。湖里街道という表示が多い。
 橋の東側らしい。ぐるぐる巻きの高架の下をくぐる。
 右折したのか?仙岳路。公園のような緑。
▲この時のバスルート。実際はもう少し東を通っていたような気がする・・・。

陽小区バス停。あれ?金橋路へ右折?南行しとるぞ?
 左折?体育路。よしよし,これで東行してることになる。
 左折!人才中心站バス停。地鉄3号線の工事現場。高架くぐる。ということは──0919,トンネルに入る。長い。そりゃそうか,厦門中央の仙岳の丘をぶち抜いてるわけだからな。
 出た。お?南側と何だか雰囲気が違うぞ。
 左折。華荣路。何とか東門站。
 さらに長い下り坂。工業団地だぞ?長浩路。降りきると町。あ,台貿中心。次です。

▲0932長虹路下車地点付近

933,バス停・長虹路,下車。
 かなり高層で現代的な町並みです。東西は花園。位置確認も兼ね十字路のICBCへまず進路を採る。
 ついでに預金してしまったけれど……そんな事しとる場合じゃない,残り時間は4時間半です。長浩路を渡……りかけて戻る。北へ向かうべきか。

殿前社2033

▲(百度百科)長虹路付近の航空写真。六角形か五角形に見える,あまり道のないブロックにドットの小さく不規則な赤屋根が集中しています。

直,この辺りまで心中では七割がた「ハズレ」感が漂ってました。厦門のこの辺りなんて聞いたこともないし,南の厦門港周辺と関連も薄いはずで,下車してからのこの景観も普通の淋しい中国の街並みです。
 1000,残り4時間。「殿前社」とある道を渡る。
 1005,殿前社……ってこんどは建物の名前です。
 ふう。トイレをやっと見つけた。

▲1007殿前社のお宮

殿前五街に入る。方向はほぼ東。
 え?
 町並みが一気に雑多になったぞ?
 これは……好いのではないか?南に視線を投じれば,雑踏の向こうに,その雑踏が流れ込んでいるらしき小さな市場筋が見えています。
 さらに東へ向かいつつ感覚を澄ます。住所表示は「殿前社2033」。4桁番地なんて中国にまだあるのか?

ねっとりと咸飯

▲Xターゲットへの入口

場の路地への東入口に入る手前右手で,腹ごしらえする気になった。
1018妙香扁食
咸干飯
扁食300
 ねっとりと,餅のような咸飯です。粽っぽいというのだろうか。本来の咸飯,と言ってもまだ3食目だから分からないけれど,日本の炊きこみ御飯とは隔絶したこういうのが本来だったのかもしれません。
 透明な湯の中に,やや肉団子のように丸まったワンタンの浮かぶ扁食。
 世の不幸を溜め込んだような憂いの表情を湛えた太いお姉さんが,ボソボソとお勘定してくださいました。まあそのうちいーこともあるさ,と軽く肩を叩……くと強打で殴られそうなので,さささっとお支払しまして,いざ殿前市場へ!!
 あと,昨日から不調だった微信払いは復活できた。どうやら預金残高不足が原因だったらしい。
 1035,突入。

▲ターゲットへの入口。二枚撮ってるようだけど,この間に朝飯写真があって,でもスマホがラリって消えてて…

■メモ:消えゆく「文灶」地名が分からない

 この地名は,結局,何のことやら分かりません。
 火偏に土と書く「灶」という簡体字は,日本の当用漢字では「竈」(かまど)です。でもそれに「文」が付く??

灶zao4:1.用土坯、砖或金属等制成的生火做饭的设备。 2.指灶神。
灶神:旧俗供于灶上的神。传说灶神于农历腊月二十三日至除夕上天陈报人家善恶。被尊为“一家之主”。(百度百科/灶)

 中国語でもやはりこの字は「かまど神」を指します。wiki「かまど神」には,日本・中国・その他の地域のかまど神の「活用形」が触れられていて,民俗学でも古いテーマになっている神さまです。
 百度百科の「灶神(中国传统民间信仰中的神祇)」項を見ると,日本語wikiに掲載される以上の,おなか一杯になるほどの活用形が登場します。属性も荘子に書かれる「美女」イメージから老人イメージまで様々で,とにかく変化自在。
 なお,上記百度百科引用の「农历腊月二十三日」のくだりは,この日本語wikiでは「旧暦12月23日(または年によって24日)は祭竈節(さいそうせつ,チーザォチェ,または竈王節)で,かまどの大掃除をして,かまど神に天帝(玉皇大帝)へ家庭が円満であることを報告してもらった。」と解説されてます。要するに中国では,家庭へ来る検査員のような役柄の神様で,その機嫌を損ねないようにするのが信仰の中心思想になっている。とっても現金です。
▲Google「灶神_画像」ワードでの検索結果。賑やかで楽しいのでお試しください。

 文灶は,はっきり書かれないけれど,どうも古くからの地名らしい。でもって,あまり残すべからざる非文明的なものと写っていて,やはりそれが何ゆえかと言えば「かまど神」を引きずっているからと推測できます。

文灶站位于厦门市思明区文园路与厦禾路交叉口附近,为厦门快速公交一,二,三号线的高架侧式车站,于2019年6月30日启用。该站在规划的时候称作“文塔站”,启用后改现名,原文灶站改称金榜公园站。可与厦门地铁1号线文灶站换乘。
※ 維基百科/文灶站

 一度はつけられた(おそらく改名が決定していた)文「塔」駅名が,すぐに文「灶」駅名に改められたという。さらに近隣にできる接続駅はやはり「金榜公园」という全く別の地名に改められる予定という。文「灶」駅名は,行政や統治側が常に消そうと試みるんだけれど,おそらく民側の政治的抵抗が根強くてすぐに復活させられてしまう,そういう生命力の強い地名のようなのです。
 けれどそれ以上は,皆目分からない。

▲(後掲百度百科)厦門港近景。時代・場所不詳。

■小レポ:太古碼頭から和平碼頭へ

 コロンゾ島に渡り損ねた和平碼頭(港の意。簡体字:码头)は,かつて「太古」碼頭と呼ばれていた場所らしい。

バターフィールド&スワイヤー専用港湾施設

 この太古は,昔からあった,という意味ではなくて,スワイヤー財閥(英語: Swire Group →wiki/スワイヤー・グループ)の中華圏用名称「太古(アルファベット表記:taikoo)」から来ています。現在の傘下有名企業としてはキャセイパシフィック航空があります。

太古码头原是 1880 年英商太古洋行在海后滩原岛美路头修建的太古浮桥与趸船。开埠之前,厦门没有适合轮船停靠的码头。太古码头的建立是厦门港近代较为先进的综合性码头,带动了其他洋行在厦门建立码头。
※ 谢嘉钧ほか「和平码头的历史溯源和再生价值初探」山西建築,2012

 この情報はなかなかヒットしなかった。推測ですけど,一企業の事実上の支配地域としての名称を冠されていた,という歴史は,特に共産主義下では「消したい歴史」だったからかもしれません。
──太古港は,1880年に英国商人の太古洋行(引用者注:当時のバターフィールド&スワイヤー社 Butterfield & Swire(B&S))がそれまでの浮き桟橋(浮桥与趸船)を修築して造ったもの。ここの開港前は,厦門には汽船(轮船)の停泊できる港がなかった。太古港は,近代の厦門で最新かつ総合性を備えた港となり,その他の外国資本による厦門での港湾建設を牽引した。

太古港以前:趸船について

▲(後掲百度百科)厦門港遠景。航空写真と思われる。時代不詳。

 上記写真の無数に船を浮かべる厦門港の表情を見ると,一次資料ではないにせよ,前記文中の「浮き桟橋(浮桥与趸船)を修繕して港湾施設にした」とあるところに目が止まります。
 何もなかった岸辺から太古港は造られたのではない。それ以前に,「浮桥」あるいは「趸船」,つまり港として使われていた海上浮遊物群があった。
 太古港以前には,ここにも蛋民の海上集落が広がっていて,住居兼港湾として用いられていたのではないでしょうか。
▲(後掲騰訊網)1906-1940の厦門港岸壁

「趸」という漢字は繁体字では「躉」,ピンインはdun3。
付属形態素又は動詞として「大口に(仕入れる)」「まとめて(買い入れる)」の意で用いる。※打趸儿 dǎdǔnr :まとめて買い入れる 现趸现卖:その場で大口に仕入れ,その場で売る
 この語彙は,「趸船」の名詞の方が先にあり,そこで行われる大口取引が動詞化したように推測できます。つまり,固有の漢字になるほど相当古くからあった「趸船」がまず存在した。

趸船(dun3 chuan2),无动力装置的矩形平底船,通常固定在岸边,最初仅作为浮码头使用,用于装卸货物或供行人上下,后随着时代的发展,也被用作商业、娱乐及水上学校等使用。※ 百度百科/趸船

▲趸船の形状(前掲百度百科画像による)

──動力はなく方形で底は平らな船。通常は岸に固定される。初期には浮き桟橋として使われ,貨物の積み降ろしや乗客の乗下船のために用いたが,後代にはさらに発展して商用,娯楽さらに学校として使用されるに至る。
 つまり「趸」は,水上集落のパーツです。現在使用されるものはどうやら英国由来の構造に由来するらしいけれど,漢字が存在するのは,同様の用途は近代より前からあったことを示唆すると考えられます。
 脱線しました。太古港に話を戻します。
▲(後掲騰訊網)1906-07年の「太古趸船码头」。海から陸方向,地点は現・中山路と海后路付近

1931年:固定港湾施設に再改修

 太古港は1931年に大改修されてます。

1927年夏,竣工不久的海后滩第二段堤岸发生塌方,太古公司的趸船码头也遭破坏。太古公司利用这一时机,于1931年与荷兰治港公司签订合作完成海后滩填湾筑堤。新建太古码头使之成为厦门港最为先进的综合性码头,并带动了其他洋行于此大规模建设一系列码头。厦门港20世纪20年代便号称有“大小三十二码头”。[前掲谢嘉钧2012]

 1927年の護岸工事で永久岸壁が出来上がった際に,スワイヤーの太古港も壊されます。
 ここに明確に「趸船码头」と書かれているとおり,なぜ永久海岸化に伴って港を壊さないといけなかったかというと,それまでのスワイヤーの施設が浮き船構造だったからです。
 1931年に他の会社との合弁で建造した新設太古港が,直接には現・和平港の原形です。同時に「大小三十二码头」と呼ばれる厦門港の景観もようやくこのころ形成されます。
 厦門港が「趸船」の港でなくなったのは,かなり新しい時代なわけです。
▲(後掲騰訊網)1906-07年の「太古趸船码头」。陸から海方向,遠方はコロンゾ島

国共内戦:厦門港の破壊と再生

 前章で共産軍の厦門入り直前まで蒋介石が厦門に来ていたことを紹介しました。戦略的には当然とも言えますけど──国民党軍は,厦門撤退時に港湾施設を破壊してます。

1949年,厦门临近解放,撤离前的国民党军队对厦门的码头,船舶等基础设施进行全面的破坏,其中高崎,集美轮渡码头,第一码头,航空码头,第六码头等完全损坏。但英商太古码头却例外完好幸存。[前掲谢嘉钧2012]

 ただ,太古港は破壊を免れてます。書き方からしても,実態として外国籍の港湾だったため,それからの台湾の外交上破壊しにくかったのかもしれません。
 だとすれば,この解放段階でも,なおこの港は「太古」港だったわけです。共産軍は,英国資本が投じられた施設であるために,重要な港湾を使用可能な状態で確保できた。
 ではいつ「和平」=平和の名がつけられたのかというと──

1958 年,太古码头改名为“和平码头”。[前掲谢嘉钧2012]

 この情報もなかなかヒットがなかった。もちろん,なぜ名前が変わったのかも語る記述はありません。
 唯一考えの及ぶ情報は,この改名の年──すなわちそれが,金門砲戦の開始年であることです。
「平和」どころか台湾海峡の緊張感が最高潮に達していたこの年に,こんな,ある意味トボけたネーミングをやった当局の意図は,市民の沈静化だったのでしょうか。もしくは,当時圧倒的な空戦能力で飛来する飛行機の発信元に対する隠喩的なメッセージだったのかもしれない,と思えてもきます。後者だった場合,それは状況的には,ほとんど「降参!」に近い寓意にも見えます。
※百度百科/厦门港
※騰訊網/震撼厦门,大量太古码头老照片现世!
图说历史:厦门老照片太古码头_网易订阅

▲(後掲騰訊網)1933-34年太古趸船码头,工人が忙しく荷降しをしている。

■資料:最初に在りし厦門=殿前

▲「殿前社卫星图,一个保持传统街区肌理的城中村」
※ 新浪網/古代“厦门岛内第一村”竟然在这里…你知道嘛?

「一殿二何」最初に殿前在りき,次に何厝在り

 旅行者として,今回の厦門で,ほとんど記述のないここを発見できたのは誇りです。
 殿前は,厦門の島で最初の集落でした。

殿前是鹭岛最大的村落。“一殿(前),二何(厝)”的民谚,在厦门岛的乡村中曾经广为流传。
※ 捜狐/湖里故事|殿前_楼仔

「一殿二何」──厦門島には,まず殿前村が出来たのです。
「殿前」という奇妙な地名は旧来の「店前」を改称したものという。

殿前旧称店前,社名的来历就取自“店铺之前”。有传说族人在朝廷为官,皇帝问其家居何地,答曰店前,帝嫌其名太俗,改店为殿,遂称殿前。此说不足信。清代道光《厦门志》中只有“店前”一名,说明“殿前”的出现应不早于清末。直到如今,殿前的“殿”发音如同祥店、店里的“店”(dai)而非“殿”(dian)。[前掲捜狐]

 改称の理由は「皇帝が『店前』名を俗っぽいと評したから」ということになってるけど,これはどうも眉唾っぽい。現在でも殿前の「殿」は中国語のdianではなく「店」の読みdaiで読むとある。つまり,謂れはともかく,殿前は当て字で漢字のない音だけの地名が先にあった,ということです。
▲「厦門志」中の「店前」表記

千年前に来た陳さん

 殿前に伝わる家伝が根拠らしい。集落の始まりは11世紀,北宋代に遡るという。

殿前陈姓聚居。北宋仁宗嘉佑年间(1056—1063年),陈邕所代表的颍川陈氏“南院陈”的后裔陈宝率陈从周、陈继周两子开基殿前。如今,殿前社里的上林埔、下林埔尚有陈姓先祖的墓葬。[前掲捜狐]

 開祖は颍川陈氏。というより,今も殿前に陳さんが多く住み,この歴史そのものがこの家に伝わるものしかないらしい。
 颍川陳氏は名族です。颍川は夏王朝の首都とも黄帝の生地とも言われる(→百度百科/颍川)。有名人や事跡は事欠かない。
颍川陈氏与义门陈氏:两大陈氏家族,影响了中国历史_手机搜狐网
 思い出したところでは,長崎の福済寺に唐通詞・陳冲一の建てた一族墓もある(→長崎市│福済寺の唐通事潁川(陳)家墓地,維基百科/福济寺,)。おそらく,当時は特に重要性も薄かった厦門にも一族の一部が移り住んだ,というだけの村だったのでしょう。
 そして殿前にも,長崎と同じく墓が残ります。
▲(殿前上林埔)陈宝夫妇墓

潁川陳氏 南方進出基地

陈姓先人在殿前渔稼耕读,生衍不息。从周、继周二兄弟后裔衍派众多,人口兴旺,殿前蔚为岛上最大的村子。陈姓从殿前播迁到厦岛内外的后浦、马垅、小东山、中埔、岑头、官山、山侯亭、西亭、西滨、西园、西井、灌口、俊美等处,以及漳浦、福清、安溪、南安、温州等地。[前掲捜狐]

 後続者も迎え入れて,殿前は厦門島で最大の集落に発展。一族はここを基点として島内各浦へ,さらに漳浦や安溪,温州などに進出していった。
 この後継者に「继周二兄弟」と書かれるけれど,文字通りの周王朝の遺児ということでしょうか。
 この時歩いていたエリアを階上から見下ろすと,こんな家屋構造になっていたらしい。
▲「位于殿前西池口的陈贵贱“新厝”」殿前の西池口にある陳氏の「新厝」様式の家屋

南宋末年,元军南下,殿前惨遭兵燹,村民流离四散。二十四世陈纪明召集流散各地村民返乡重建,村庄元气逐渐复兴。[前掲捜狐]

 宋から元への交代時に,村は一度破壊されてます。第24世の陳紀明さんが復帰運動をして,殿前を復興したという。この間にどれほどの間があったか語られない。厦門でも反元抵抗戦があったのでしょうか。
 殿前から再び大規模な拡張が行われたのは,やはり明清交代期。台湾のほか東南アジアへ移住してる。ためにここは著名な僑郷の一つだといいます。

明清时期,部分殿前村民渡海到金门、台湾谋生,定居。清末民初,村民远赴东南亚,拼搏创业。因此,殿前是岛上著名的侨乡。
如今,殿前有陈氏宗祠继周堂、从周堂、崇本堂、孝弼堂、地房祠5座祠堂。[前掲捜狐]

 現・殿前には陈氏宗祠继周堂,从周堂,崇本堂,孝弼堂,地房祠の5柱の祠が残る。どれも見つけれてません。

故郷に立てる小学校

1921年,陈伯甫和华侨陈清波、陈宜志、陈明珠、陈明元组成办学董事会,向南洋华侨募捐建一座二层校舍,兴办殿前小学,开启现代教育。90多年来,殿前小学不负先辈所望,成长为一所远近闻名的中心小学,上世纪70年代还是福建省重点小学。[前掲捜狐]

 集美や厦門に学校を設立した陳嘉庚(陳陈嘉)※と同じく,殿前でも,1921年に南洋華僑4人の資金提供による殿前小学が建てられてます。この民国期に還流した資金は巨額にのぼると改めて思われます。
※ 姓を同じくする陳嘉庚が潁川陳氏の一族に名を連ねるのかどうか,確証が得られる記述はありませんでした。
 さてこの辺で,歴史から戻って,かつての殿前の立地と性格を今少し掘り下げてみます。
▲「殿前,1921年华侨捐建的殿前小学教学楼」殿前に1921年に華僑出資により建てられた殿前小学教学楼。

現・殿前の形成とその原形

 殿前の西北側に旗山水库という溜池が造られたのが1971年。これが現在は物流団地に変わっていますけど──この施設によって「殿前远离了海」殿前は海から遠く隔てられた,と書かれます。

1971年,高殿大队在神山和埔仔之间筑堤建成旗山水库,从此殿前远离了海。2007年填平水库形成旗山物流园。[前掲捜狐]

 逆に言えば,それまでの殿前は海と隔てられていなかった。即ち,今は内陸の脈絡のない場所に見えるこの集落は,ほんの50年ほど前までは海沿いの町だったということです。
▲2003年の衛星写真

 さて次の一文が殿前の形状・性格を論じているようなのですけど──なかなかの難読です。

殿前的形状近似圆形,北、西、南略高,东和中间较低,所以旧有殿前像“枷箩”(如簸箕)之说,又有“‘鼎脐穴’能聚财”之称。殿前东西、南北走向的2条街正正划了个十字,交叉的地方旧时叫“物吃埕”(mi jia dia),是许多卖小吃的场所。十字街把殿前分为东西南北四个角落,又叫“四社”。四社有各自的土地庙,殿前之大,可见一斑。[前掲捜狐]

──殿前の形状は円に似ている。北と西と南は小高く,東から中心付近だけが低い。よって古くは殿前を「伽羅」「ちりとり」に例えた。さらに「鼎脐穴」(鼎のヘソの穴)又は「能聚财」(全ての財産が集まる)とも称された。殿前には東西と南北に一本ずつ道が走り,かっきり十字に交わっている。この交差点を地方の古い呼び名で「物吃埕」(mi jia dia)と呼ぶ。沢山の小吃を売る場所という意味である。この十字街で殿前は東西南北の4ブロックに分かたれており,これを「四社」という。四社はそれぞれの土地廟を持っていて,このように殿前は大きな地域であり,見甲斐がある。──
 東だけが低い地勢。海からの攻撃に耐えうる,という立地選択かもしれません。となると,円形の地域割りと十字の道割りからも,さらに古い時代には圍か砦のような意味を持っていて,ひょっとしたら元代以前は城壁があった,だからこそここで戦闘があったのかもしれません,とまで考えると想像の域ですけど。
 あと,四ブロックにそれぞれの土地廟があるのは,帰属意識の分化がなされているということで,相当長く住み継がれた土地にしか起こらない居住感情に思えます。

殿前に山・池・宫・家 七つずつ

「七山七池七宫七祖厝」という成語が殿前に残るという。語義通りだと7つの山と7つの池,7つの宮と7つの旧家屋。
 概ね,前述の西南北の小高い土地がそれぞれ山と呼ばれたのでしょうか。

殿前号称“七山七池七宫七祖厝”。
原先,殿前周边多奇岩异石。村东南有石鼓山,巨石击之如鼓,闻之悦耳;纱帽石直立高耸,赏心悦目。西北部的神山、东山、楼仔顶山,鼎足而立。[前掲捜狐]

──(略)かつて殿前の周辺には奇岩や巨石が多かった。村の東南には石鼓山があった。巨石が鼓を打つがごとく(引用者注:風の当たる音?),聞く耳を喜ばせ,紗帽石は高く直立して聳え,賞する目を喜ばせた。西北部には神山,東山,楼仔頂山が鼎の足のように立っていた。──
 南の山は出てこない。この後の記述に社南山,蚝壳山という名は出てくるけれど,大まかには北西から東南への傾斜面ということになるのか。
 鼎の例えが多いのは,感覚の古さを思わせます。
 この山々の中で最も神格に近く捉えられていたのは,名前通りの神山らしい。海に面し,殿前「港」の目印になったからではないでしょうか。
 これを一時,共産軍が「紅旗山」と改めたのも,信仰の深さを伺わせます。かつては霊山として何か祠もあったのではないでしょうか。

神山靠海,山上多石,传说内藏金银财宝,由神仙守护而得名。1949年10月解放厦门的战役,人民解放军从神山率先登陆,是第一面红旗插上厦门岛的地方,所以又称红旗山,后来在边上修的殿前水库又叫着旗山水库。[前掲捜狐]

──神山は海沿いにあり,山上には石が多い。金銀財宝が埋蔵されているという伝説もある。神仙の守護ゆえにこの名がつけられた。
──1949年10月,厦門の解放戦争(国共内戦)時に,人民解放軍はまず神山に上陸し,厦門で初めての紅旗がここに翻った。そのゆえにここは紅旗山とも称するようになった。その後,修復された殿前水库は旗山水库と呼ばれるようになった。──
 今,この人民軍の行動は理解しにくい。橋がない時代,大陸から一番渡りやすく,島内に浸透して行きやすい要衝がこの殿前,と当時の地勢では読めたのでしょうか。

东山上有巨石,上有仙脚迹,称仙石。楼仔顶山巨石累累,间有石洞。可惜50年代开采石料修建高集海堤,楼仔顶山、东山岩消失殆尽,神山也削去山尖,后来成了部队的驻地。[前掲捜狐]

──東山上に巨石あり,「仙脚迹」(引用者注:仙人の足跡?)あるゆえに,「仙石」と称す。楼仔頂山には巨石累累とし,その間には石洞あり。
──しかし50年代,石材の採取と堤防の設置のため,楼仔頂山と東山の岩はことごとく消失した。神山も山肌が削りとられ,跡地は(人民解放軍)部隊の駐屯地になった。──
 土木工事が相当入ってます。それが50年代ということは,大規模な機械力はさほど存在しないはずですけど,それほど硬い地質ではなく,採石を続けるうちに消えてしまった,ということでしょうか。

□補論1:殿前の媽祖廟 幕青宫

 興味深かったのは,殿前にも媽祖廟があることです。それも,どうも厦門中心部のような秘仏扱いのものではない。
 迂闊にして,この時には見逃してます。

殿前社边上,从南到西,分布着一系列的池塘,号称七星潭。殿前东面较低,海水可以从海中直入妈祖宫甚至到祖厝之前。社南,蚝壳山等高地上的泉水渗出从社东边流入海,因此又称“龙虾出港”,引出了一段传说。后来,社东的宫庙边筑了堤岸,留有2个涵洞过水,如龙须状,社人称此处为“龙须穴”。[前掲捜狐]

──殿前社の端を南から西へ,一連なりの池が分布している。これを七星潭と号する。殿前の東面はなだらかに低いので,海水が海から媽祖宫の前から祖厝の前にまで流入していた。社南山,蚝壳山などの高地からの湧水も滲み出しで社の東側から海へ流れこんでいて,これを「龙虾出港」と称し,一つの伝説を産んでいた。かつて社の東側の宫廟には堤防が築かれていて,そこに2つの海中洞窟があり,龍の髭のようだったので(引用者注:2つの穴をかつてそこに髭が通っていた跡と見立てたものか?)社の人はここを「龙须穴」(龍須穴:龍の髭の穴)と称した。──
 殿前の南から東へ海が湾入していた??
 今の地図からすると,とても想像ができません。湾入のイメージを画像に落として見たかったのですけど,山も池も失われている現状では,細やかな等高線の入った地図でもない限り推測もでしません。
▲(GM.)幕青宫の位置

幕青宫は殿前のどこにある?

①②③④4座土地庙,加上奉妈祖的⑤幕青宫、奉保生大帝的⑥大道公宫、奉清水祖师的⑦清水宫、奉观音菩萨的⑧静修寺、奉王公的⑨中正宫、奉白鹤仙祖的⑩东山岩,殿前社足足有10座宫庙,在禾山排名第一。[前掲捜狐,丸付き数字は引用者追記]

 殿前には,何と十柱も宮がある。この時の歩きでその一つも見かけなかったというのは,どれも裏道にあったんでしょうか?
 上記の通り,媽祖宮(幕青宫)の位置は,地図上では分かりました。これで見る限り,そんなに探さなければならないような路地裏には見えません。
 次の写真はネットから採ったその画像です。
▲「奉妈祖的殿前幕青宫,当年墙后就是大海」媽祖を報じる殿前幕青宫。当時,壁の後ろは大海だった。

 こんな湾入があったのならば,北から西を海,西から南を回って東を湾,東から北を高地で囲まれていたわけで,自然の要害の地だったことは頷けます。あまり高い壁を築くまでもない。
 そして媽祖廟が東にあるということは,そこまで湾入していた湾の最奥部が船着き場になっていて海民が乗下船していたと推測できます。
 そんな場所が,厦門島の北にあるのか??

龍信仰と重複していた頃の媽祖

 それと,前述の龍の髭の由緒です。
 媽祖伝説に龍は出現しないはずです。なぜ殿前では,2つがダブルイメージになっているのか?
──というのはワシの不勉強でした。確かに日本語wikiのレベルにはないんですけど──
世界上别名尊称代称最多的神是海神妈祖,妈祖的别名尊称代称有:林默(原名)、龙女、圣女、神姑、天后、娘妈、天妃、圣妃、神女、圣娘、神妃、灵女、姑婆、祖姑、灵妃、默娘、林夫人、天妃神、女海神、湄洲妈、林孝女、圣妃娘、灵惠妃、显济妃、林默娘,海神娘娘、天后娘娘、通贤神女、顺济圣妃、天上圣母、天后圣母、崇福夫人、天后圣姑、天后圣娘、和平女神(法国人称妈祖为“世界和平女神”)等等。
※ 百度百科/妈祖(以中国东南沿海为中心信仰的海神)

「龍女」(簡体字:龙女)という別称があります。
 百度百科にはもう一つ記述がありました。

还有民众认为妈祖是观音身边的龙女,宋代丁伯桂《顺济至妃庙记》云:“神, 莆田湄洲林氏女。少能言人祸福,殁称道贤神女,或曰龙女也。”[16][前掲百度百科]
[16] 佛教对妈祖文化的影响.知网 [引用日期2021-01-23]

──民衆は媽祖を観音に侍る龍女だと見なしていた。
──(媽祖の解説)「神。莆田湄洲の林氏の女。(略)或いはいう,龍女(龙女)なりと。」(出典:丁伯桂「顺济至妃庙记」宋代)
 宋代,つまり媽祖信仰の創初期です。その頃に観音信仰と龍信仰との融合概念があったけれど,観音本体との融合が別に始まり,すぐに本伝からは消えた。
 つまり,龍信仰と媽祖信仰の融合の形跡が殿前の媽祖伝承に残るということは,それが宋代辺りまで遡る古いものだということです。
 こうして掘れば掘るほど謎の深まる殿前なのですけど──それが晴れる目処はとうてい立ちません。

▲(何厝)「老居民说,収购商要买,我不买。要捐台博物館。」老住民曰く,収集業者が買い取ろうとしたが,私は売らなかった。博物館に寄付したかった。[後掲台海網]

□補論2:殿前の次に出来た厦門=何厝村

「一殿(前),二何(厝)」という成語を先にご紹介しました。
 後段「二何」は,厦門島で二番目の集落・何厝のことです。
 旅行者として,殿前を発見していながら,この何厝を見逃したのは,痛恨です。以下触れる状況では次はもう無くなってるわけで,現代中国歩きの怖いところです。
 何厝は厦門の島の南東岸,殿前と同じく,旅行者はまず寄り付かない一角です。→何厝辺防派出所:GM.(地点)
 百度地図の航空写真で見ると,やはり殿前同様,ドットの細かい地区が見えます。うっすらと,ここにXで目をつけた記憶はあるんですけど,行き方が面倒で捨てた記憶もあります……。
▲何厝村航空写真(百度地図)

「台海網」というサイトに唯一記事がありました。7百年の歴史を持つ,という記述がある。ただし,記事内容のメインは2019年の「旧村改造」を決定し,これに合わせ博物館を造ることを決めた,というもので,歴史については書かれておらず不明なままです。
※ 台海網/留住七百多年的何厝历史和乡愁,厦门思明这些人在努力
 また,中国哲学书电子化计划(中国哲学書電子化計画)の厦门志(1832(清朝道光12)年著)に「何厝」は「何厝」「何厝乡」(郷)「何厝社」として3箇所に書かれてますけど,この時代に既に存在した,ということが確認できるだけで,何れも地名のみの記述です。
 今すぐ歩ける方は,どうぞ歩いてみて下さい。もう時間はあまりなさそうです。

※(続編)■疑問点整理:「厦門中央湾」篔簹湾に鄭成功はいたか?
▲(再掲)图说厦门に描かれた「筼筜港」
(再掲)时代:清乾隆年间(1760年代)
来源:《图说厦门》