m092m第九波m龍灯の海に一滴吾が小舟m殿前

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
▲丽丽幼儿園だけかろうじて見つけましたけど……全然分かりません。番地もヒットしなかった……。

狭く怪しく猥雑に

▲1036入口からしていきなり狭い!でもって……怪しい!

035,殿前社区に突入する。
 路面は石畳。幅は2mほど。両サイドとも市場です。猥雑に暗いアーケード街。
 緩い登りになってます。
 殿前社1063。こんがらがるので右手だけ書こう。右は2268。

▲1041お姉さんが風船持ってるのではなく,持ってるのは影に隠れた子ども。にしてもこのバケツ,何が入ってんだ?

042,登りきってもまだ続く市場道。
 その道は最高点に達したらしい。けれどさらに右手へ登り道が続く。そちらを辿ってみよう。住所表示の四桁番地は2543。
──ここが,後に読んだ殿前の東西道と南北道の交差点「物吃埕」ではないかと思います。

殿前东西、南北走向的2条街正正划了个十字,交叉的地方旧时叫“物吃埕”(mi jia dia),是许多卖小吃的场所。[前頁再掲・捜狐]

 右手に登ったというのだから……東西路から南へ右折した……のでしょうか。だとしたら引き返す方向ですから,既に方位を見失ってます。

十字路:物吃埕と中王廟

▲1042殿前最大の十字路「物吃埕」……だと信じてる場所の写真

正宮という社。
 えらく電光が増えた。人混みは十字の辺りの方が多い。」とメモってるから,以下の記述とも突合します。

位于殿前社中心的十字街口的中正宫,俗称王公宫,边上立有光绪二年(1876年)的告示碑,在殿前闹市中显得有点挤迫。但是,王公宫有着不惧强权的传说:清初,清军大肆烧杀,殿前“几为平地”。一片废墟中王公宫突兀屹立,不倒的王公宫遂为殿前村民所世代敬仰。
※ 捜狐/湖里故事|殿前_楼仔

▲1044オバハン横切ってるし,まるで商店のようで,ワシ自身が今気付きましたけど……よく見ると中正宮と確かに書いてある家屋

記引用の後段は,中王宮の奇跡の物語を記してます。
──清初,清軍が大挙やってきて,平凡な平地だった殿前を焼き,殺戮を行った。見渡す限りの廃墟に,中王公宫だけが突っ立って残った。その不倒不屈の宫の姿に,殿前村民はいよいよ崇拝を厚くした。──
 要するになぜか焼け残ったらしい。とすると逆に,媽祖宮(幕青宫)を含む前掲の他の宮はこの時に焼けたんでしょうか。

▲1044何が何だか分からないほどごちゃごちゃした商店街

 それにしてもこの俗称「中王」とは何でしょう?誰かがその名を不遜と指摘して「中正」に改称させられたけれど,地元では当たり前に中王として祀られてるとすれば,本当にかつての地方王を崇拝してるのでしょうか?その王の神性が,新参の異民族,清朝の神威に勝ったと?

骨組みの中を歩く

▲1046何だか「沖縄の公設市場」と注釈を書いても,3秒くらいは間違えそうな雰囲気です。

くよく見ると,天井が無茶苦茶に荒い。これ,板切れを適当に継ぎはぎしてあるだけで,アーケードと呼べるようなもんじゃないんじゃないか?
 この上がどうなってるのか,興味は尽きないけれど──もちろんそれを見下ろせるような場所はない。
 ひょっとしたらまた別の家屋になってるのかも……という心配を,次の写真などは感じさせます。
 地震とかないのか?ないから持ってるんだろな。

▲1048何か異様な,骨組みの中を歩いてるような商店街になってきました。

049。まだだらだらと登ってる。番地は3026。
 湖里区丽丽幼儿園という幼稚園(前掲マップのプロット参照)。ここがほぼ登りきった辺りです。
 ここにも社がありました。名称不明。銭形の中に対聨。左「招進財宝」右「合平境安」。
 このお宮です。

▲1052,お宮。ただの門構えのようにも見えますけど,微妙なところでお宮です。

残り3時間 殿前の真ん中で迷ってる

もうどっちへ向かってたのか全く分からんので、この宮がどの宮とも特定できません。
 けれど,十字路からこれほど長く登りが続くというのは,殿前の暗がりの町は斜面の途中に造られている,という実感です。端的に言えば,凄く中途半端は立地で,そこが今振り返ると最も不思議な場所でした。

▲1059。最上部に近い早餐屋(朝御飯専門店)さん

100,厦門の残り時間は3時間です。
 ほぼトップに着いたようです。そろそろ裏道から帰路に付かなくては……と思ったものの?さてここはどこなんでしょう?
 左折。これが概ね東北方向らしい。番地は3060。
 おや?普通の社区だぞ?商店街の方が怪しさがあるぞ?番地は3142。
 タオルの裁縫してる町工場が何軒か並ぶ。番地3066。

▲1103。確かに普通の社区だけど,写真を見る限り台湾の裏道のような味も感じます。

行機の轟音がふいに襲ってきた。
──当たり前か。殿前は厦門高崎国際机場(空港)の用地端から2km,しかも飛行ルート方向にバッチリ重なってます。日本なら騒音訴訟が起こる場所。
 それとも,殿前を立ち退かせる前提で造ったんでしょうか?

なぜ階段があるのか?

▲1103,古びた階段

106古びた階段を10段ほど登る。ad3139
新しい階段15段。」
 わざわざメモってるとおり,この階段はどうにも奇妙です。あって悪いわけじゃないけど,殿前に入ってほとんどが傾斜面で,階段を造るような段差はなかった。それがなぜこの場所にだけ,高度の断絶があるのか?

▲1106車道へ上がる階段

108,車道に出て,自分が道に迷ってたことに気づく。番地は3188。
 どっちがどっちか全然分からん。でもおそらく殿前四路らしい。とにかく地下鉄駅にたどり着こう。残り170分。左折東行。
 さてワシは,おうちに帰れるんでしょうか?

▲(再掲)图说厦门に描かれた「筼筜港」
(再掲)时代:清乾隆年间(1760年代)
来源:《图说厦门》
背景:此图出自清乾隆中期(1760年代)编著的厦门志书 《鹭江志》。图中厦门岛轮廓清晰可见,当时的筼筜港港湾辽阔,长十多里,宽四五里,海水一直流到江头。浮屿(今思北)仍然是一个伸入水中的小岛。1683年,施琅将厦门城扩建至600丈(2000米)。同年,厦门城的中心位置成为闽台最高军事机关—福建水师提督署的驻地,即地图上标示的“提督衙”。图中的”道台衙”又称“兴泉永道署”,为省下面一级的行政派出机构,于1727年改驻厦门。厦门岛西南靠海的部分聚集了密密麻麻的“路头”,即简易码头。东边广袤的土地上则遍布了不少禾山的村庄。

■レポ:鄭成功は海上にあり──「厦門中央湾」篔簹湾考

 厦門の近代史に描かれない奇妙な2点がある,と考えています。一つは鄭成功の居住地,今一つは篔簹湾の海民の姿です。
 前者は,鄭成功が厦門を占拠したことはあちこちに書かれるのに,では厦門のどこにいたのか,となるとまるで事跡がないことです。けれど,ここではまず後者から入ります。

基礎情報:篔簹湾

「篔簹」のピンイン(発音)はyun2dang1 ユンダンです。この漢字は繁体字で,「篔」は簡体字では「笕」,日本の当用漢字では「筧」,「かけい」です。「簹」は簡体字・当用漢字の「当」。
 厦門に通じておられる方でも「篔簹」湾を知る者は少ないでしょう。この湾は現在は存在せず,湖として書かれているからです。
 場所は厦門島の中央。→篔簹内湖:GM. 上記「图说厦门」地図にも現在よりはるかに大きく書かれています。解説には「港湾辽阔,长十多里,宽四五里,海水一直流到江头」──港湾は広く,長さ(※引用者注:東西)十里(※4km)以上,広さ(※南北)四~五里(※1.6~2.0km)もあり,海水が直接江頭まで流れこんでいた,とあります。この記述は厦門志,同安県誌ともにあり,原初の出典は鷺江志に遡る。
 なぜここを取り上げるかというと,この地形ならあるはずの者がないからです。
 まずこの地図をご覧ください。
▲海東諸国紀の地図中,対馬島付近

対馬の海民観との類似

 前記倭寇に悩んだ朝鮮王朝サイドの地理学者が書いた海東諸国紀の地図には,対馬が酷く丸まって描かれます。
 左に開いた勾玉のような形状。これが当時,計量の技を持たない人々が海から見た感覚的認知だったのでしょう。
 この地図の勾玉の凹み,対馬の浅茅湾と,厦門島の篔簹湾が似ている。言いたいことはこれだけです。
 だけなんですけど,対馬の浅茅湾が前記倭寇の主要な根拠地で,最終的には李氏朝鮮はここに軍事侵攻することで倭寇を滅ぼします(1419(応永26)年 応永の外寇。糠岳戦争とも言う。朝鮮名称:己亥東征(기해동정))。
 湾入した地形で外海の風浪から守られた勾玉型の凹みが,海民にとって魅力的な棲息地だったのは当然です。なぜかどこにも誰も書いたものを見かけないのですけど──厦門の海域史で個人的に最も疑問に感じるのは,東アジア海域に股がる活動拠点を築いた対馬のこの当然の地形利用が,なぜ厦門の篔簹湾では行われなかったのか,という点です。

作業仮説:海岸線の深度の違い

 すぐ考えうるのは,リアス式海岸地形で大型船舶に利用しやすかった浅茅湾と,遠浅の度が強い篔簹湾は,平面地形は類似しても立体的には異なる,という点です。
 確かに,外洋船の停泊や貨物の荷下ろしには不向きです。けれど,小型船の停留場所としては同等の利便性を有していたのではないでしょうか。
 そうすると,やはりここには海民が棲息して当然,という推測が成り立ちます。

厦門志に記される篔簹湾

 厦門志を「篔簹」ワードで検索すると,かなりのヒットがあり,以下はその中から抜いたものです。

巻二29 大屿盘礴,近帖内地;蕴之以篔簹、辅之以鼓浪,高居堂奥,雄视漳、泉,中左之镇城也(同安县志)

「大屿盘礴」がどこのことか定かではないけれど,篔簹湾外海入口の島のどれかでしょう。ここの,おそらく防御陣地が,大陸本土に近く,篔簹湾の前衛として,かつ鼓浪島(コロンゾ島)と連携して機能する。大きく視野をとると,泉州・漳州の中間点として重要な拠点だと言っています。「中左」は厦門の防衛拠点としての古称です。
 つまり,おそらく倭寇からの防衛の後背地として,篔簹湾が構想されてます。

巻二40 又按「鹭江志」载:八景曰洪济浮日、阳台夕照、万寿松声、虎溪夜月、鸿山织雨、篔簹渔火、五老凌霄、鼓浪洞天;后人又补十二景。凡志皆有八景、十二景之名,并绘图焉。

 厦門の八景の列挙です。「篔簹渔火」が挙げられています。
 つまり,夜になると漁船が多数出ていて,その灯火が八景として好まれていた。その程度には船が湾内にいて,彼らは漁業で生計を立てていた。

巻二116 篔簹港在城北。长可十里许、阔四里有奇。中有凤屿「鹭江志」,莲溪及前后溪之水出焉。又篔簹港口有动石,潮至自动。又有浮沉石,潮至则浮、退则沉;风将起,石下有声,名石虎瞧「县志」。

「鹭江志」を原典として,篔簹港口にあった「动石」と「浮沉石」を書いてます。前者「動石」は潮の満ち引きによって移動し,後者「浮沈石」は同じく上下したとある。俄に信じがたいですけど「风将起,石下有声,名石虎瞧」,石の下からの声のように聞こえ,それが風将のお達しのように思えたとまで言うのですから本当にそうだったのでしょうか。
 もしかすると,篔簹湾は水深よりも入口が湾内への船舶航行に決定的に危険だったのかもしれません。

巻四117 篔簹港在城西北,湾抱十里许。潮涨,达于江头。小舟往来其间。

 前段は前に見たのと同じ内容ですけど,ここでは後段を読みます。──満潮時には海水が江头(江頭)まで達した。その間を小舟が行き来していた。
 ここでの「江頭」という場所は現在も存在します。篔簹内湖の最奥です。→GM.
 ここは前頁でお笑いにした「SM公交場」のエリアです。現在はかなり再開発が進んだ場所になってて,航空地図で見ても到底古い集落は見つかりそうもありません。
▲「旧城改造」中の江頭街

篔簹湾最奥に江頭あり

 江頭について,黄国富という方が「搜狐网」中に詳細な記録を残しておられました。
 江頭がSM城市エリアに再開発されたのは,それほど古くはない。

1996年江头街旧城改造
湖里故事|江头街_手机搜狐网

とあります。20世紀末です。
 上の画像で見る限り,相当徹底的な開発が行われてます。
▲江頭の開発前の集落状況

再開発直前の江頭

 再開発の前まで,集落としての江頭はまだ存在したようです。
 その形態は,大袈裟に言えば我々陸上民の度肝を抜きます。下の画像を入手できました。
▲1969年の衛星写真に写った「江头街」(Amoymap)

 陸地によすがを持っていない形状です。前掲の写真にもその痕跡はありますけど,おそらくこれは,周囲が完全に水域だった場所の中洲に寄り集まるように家屋が密集して,それが陸地化した生成過程を経た集落です。
 先に「赖厝埕湾」を想定しましたけど,まさにあのイメージです。※ m083m第八波mm夏商市場/■レポ:厦門海水上に開元路が立ち上がるまで
▲(80年代初め)江頭小学部の生徒の集合写真

江頭の文革

 前述の何厝も金門砲戦時に英雄談が幾つかあり,「英雄小八路」というイデオロギー映画の舞台にもなってて,大躍進から文革の時期には猛烈だったらしい。
 江頭の文革時期も,同様に激しかった痕跡があります。
▲《厦门日报》1953.6.11报道

 上記は金門砲戦から5年後,まだ文革前の時期の志願兵を激励する新聞記事です。
 江頭街は1967年に何と「前線街」に改称しています。それが1995年には「台湾街」になっている。30年でいかに歴史が動いたかを物語ります。

1967年江头街改名为前线街。1993年江头街改造,1995年改名为台湾街[前掲手机搜狐网]

▲60年代初に江頭を掘削して貯水地「六角池」を造成する工事現場写真

 20世紀末より前のこの段階でも,江頭は地形を改変せられています。貯水池を江頭北方に2つ造っている。機械力のまだない時代,共産主義のドクトリンに従って人民のマンパワーをフル動員して,新農地を開発しようとしたようです。

60年代在公路左右开挖莲花池和六角池。莲花池的位置即今福音堂边的桃源大厦和仙岳路中;六角池相当于今之天地花园、开明电影院一带。
(略)江头街北,六角池边,沿着通乌石浦的马路(略)再往西行,旧时临海,有小岛叫鸟屿,海退后,海滩成了大片的“海仔埔”。[前掲手机搜狐网]

 この蓮花池と六角池は,現在は完全な埋立地になっています。記述によると,その西も海だった。
 2つの池の現在位置として黄さんが書いている地点は──
・蓮花池→現・桃源大廈GM.
・六角池→現・天地花園GM.
 従って,この両地点と江頭比定地の三点の関係はこうなります。
▲江頭及び桃源大廈(旧・莲花池),天地花園(旧・六角池)位置図

 さらに南側では次の記述もある。

50年代,福厦公路改从沿吕厝修堤岸到乌石浦后,堤岸中留有大涵洞,吐纳海水,大概在今牡丹大酒店一带。[前掲手机搜狐网]

・牡丹大酒店→GM.
 この海水に洗われていたという洞窟の位置を前記2点とともに地図で見ると──
▲旧・莲花池,旧・六角池と牡丹大酒店(旧・「大涵洞」)位置図

 黄さんの記録する江頭よりずっと奥まで,かつての篔簹湾は広がっていた。現在の地形からは想像し辛いほど「厦門内海」は広かったのです。そこに,先に想定した「赖厝埕湾」と同様に水上生活者がおり,まだ堆積の進まない水深上で,その家船から上下船と荷の積み降ろしが行われたとしたら──現在想像しにくい規模の船が停泊し得た可能性があります。
▲日本軍の厦門占領

WW2以前

1938年5月10日中午,日军占领江头街。[前掲手机搜狐网]

 ベクトルがかかっている可能性はあるけれど──日本軍は侵攻前に江頭へ空爆を行った。江頭住民50人が死んだとあります。
 江頭にどの程度の人口が居住していたのか?
 黄さんは,1956年の統計数字として,江頭街道約1km上に178店铺,700余人の経営者がいたと書いています。
 また,日本はここに「汪偽政権の領事館」を置いたという文章もありました。

叫银行坪,其位置在今金盛大厦对面。此坡近浦园,右侧旧有振川车行,又叫浦园坪、振川坪。解放后,江头银行曾是禾山唯一的一家银行,其建筑风格特殊,前身是日据时日本人所建的驻汪伪政权的领事馆。[前掲手机搜狐网]

 推測できるのは,共産政権による再開発以前から,江頭が相当大きな街区を形成していたこと,「偽」とは言え中国政府の領事館が設置されていた,つまり厦門の一つの中核都市の位置を占めていたということです。
 黄さんの見聞に基づく一次記録はこの辺りが限界になりますけど,以下はいよいよ,黄さんが指摘する最も重要な2点に触れます。
▲(方舆搜览)大英博物馆所藏中国地图のうち「厦门舆图」(道光4年)。朱書補助線は引用段階で引かれたものと思われる。

近代厦門内陸交易の要地・江頭

 上記「厦门舆图」に描かれた江頭の位置を見ると,ここが対内陸の水路への結節点になっていることに気づかされます。
 篔簹湾──まさに外海と島内を結ぶ「かけい」のような水路を西に持ち,北に陸路で,まだ橋のない北沿岸と結ばれいた。
 対外交易拠点としての厦門の顔は確かに和平码頭の厦門港だったけれど,淮水以降何度か触れたように,実際の交易ネットワークにおいて重要なのは内陸水路と外海航路の接点です。
 文革での過激さ,徹底的な再開発,どれも江頭に蓄積されていた旧時代の財と社会を刷新する動きに見えます。つまり統治側にとって江頭は,それだけ巨大な旧時代の残存に映っていた。
 そしてまんまと消されて,今に至る。消えた以上,統治側はそれを「なかったこと」にする。
▲江頭広福寺(江头广福寺,別称:佛祖宫,伝・清代乾隆年間創設)。元は江頭街の仔内街にあったけれど,日本軍によって破壊され,再建されたものがさらに1996年の旧城改造時に江頭公園南側に移転。主神は観音菩薩で,媽祖信仰を含有する可能性もある。

鄭成功が隠元禅師を送り出した江頭港

隠元は(略)鄭成功が仕立てた船に乗り、承応3年(1654年)7月5日夜に長崎へ来港した。月洲筆「普照国師来朝之図」にこのときの模様が残されている。 ※ wiki/隠元隆琦

 いんげん豆を日本へ持ち込み,長崎・崇福寺や京都・萬福寺に入ったあの隠元さんです。
 この人が日本に渡ったのは鄭成功支配下の厦門からだったことまでは,隠元さんの伝記(隠元語録)や書簡,さらに詩文などから,確からしいものとされてます。
 この「厦門から」というのが,詳細には江頭からだった,というのが通説になってます。

史料1:隠元詩文にある江頭

 隠元の漢詩の中に,江頭を唄ったものが数点あり,その中に次のものがあることから,1654(永歴8)年6月21日の出港は江頭からだったとされています。

江头把臂泪沾衣
道义恩深难忍时
老叶苍黄飘格外
新英秀气发中枝
因缘会合能无累
言行相孚岂可移
暂别故山峰十二
碧天云净是归期。
(中左江头别诸子,甲午六月廿有一日)

 江頭の光景は隠元さんの脳裏には焼き付いていたらしい。日本に渡った翌年(1655年)8月の詩にも登場します。長崎から京都へ行く途中,諫早湾で詠んだとされるものです。

我是支那老比丘
随缘应化赴东游
相知唯有江头
一夜清光伴客舟
(八月初十夜渡谏早江)②

 ルート的には諫早湾(→GM.)の景観は江頭に似ています。
 もっとも,この「江頭」が後の江頭街道の同名の町である,というのは,確かに俄には信じがたく,学界では否定的な見解も多いようです。

厦门地方史专家洪卜仁认为,如今的江头当时是内港,水很浅,停不了大船。“江头”应指江边,是古人送别作诗时惯用的地点表述。厦门大学哲学系副教授、京都黄檗文化研究所研究员林观潮曾著有《隐元隆琦禅师》一书,对隐元禅师有深入研究,他也赞同洪卜仁的说法。因隐元禅师一行是乘郑成功军队的商船东渡,他猜测,出发点或许在今天和平码头一带,距鼓浪屿郑成功屯兵点较近。
东渡日本弘法的高僧,从“江头”起航?

──(厦門地方史の専門家)洪卜仁:今の江頭は当時は内港だったから,水深は大変に浅く,大船は停めようがなかった。「江頭」とは多分,水辺(江边)のことで,古人が送别の詩を作るにあたり慣用的にその地点を表現したのだろう。
──(厦門大学哲学系副教授,京都黄檗文化研究所研究員,「隐元隆琦禅师」著者)林観潮:洪卜仁の見解を支持。隐元禅師一行は鄭成功の軍隊の商船に乗って東渡したのだから,察するに,今日の和平码頭一带から出発したと考えるのが適当。そこならば鼓浪屿(コロンゾ島)や鄭成功の屯兵地点に比較的近い。──
 けれど,単純に文学的に見ても,同じ慣用表現を文学者がこんなに多用するものでしょうか。

史料2:鄭成功の「备舟护送」

 鄭成功が隠元禅師を日本にお連れした,という話の根拠は「普照年譜」。正式名「黄檗開山普照国師年譜」,隠元禅師の生涯を年代順に綴った一次史料です。

六月初三至中左,寓仙岩,藩主送斋金供养。建国郑公暨诸勋镇絡繹参谒,师以平等慈接之,各尽欢心而去。……二十一日,藩主备舟护送。[普照年譜]

 鄭成功の名は出てこない。代わりに「藩主」と「建国鄭公」の名前がある。前者からはお布施を頂き,後者は手厚く御接待頂き,禅師は大変喜んだ。21日には藩主が船を準備して送り出してくれた。
 研究者はここに言う「藩主」を鄭成功,「建国鄭公」を鄭芝龍(成功の父)配下の武将・鄭彩と解するらしい。

其中的“藩主”即郑成功,因他在顺治三年(1646)从隆武帝受封“忠孝伯”,顺治六年(1639)从永历帝受封“延平公”,后受封“延平郡王”;《黄檗隐元禅师年谱》称之为“国姓公”,是因为他曾从隆武帝受赐朱姓。“建国公”即郑彩,原为郑芝龙部将,郑降清后与其弟郑联在浙、闽沿海抗清,迎明宗室鲁王监国入闽,受封“建国公”,后被郑成功收编。现存郑成功致隐元的一封信提到此事
隐元东渡和日本黄檗宗——杨曾文-学术论文-佛教在线

 この辺りから,隠元さんが鄭成功が江戸幕府への援兵のために送った密使ではなかったか,という説も具体性を帯びるんですけど──その話はここでは保留します。ただ,それならばなおさら,隠元さんに鄭成功又はその側近が膝をつめて会っていた必然性が高まる。
 さらに「郑成功致隐元的一封信」鄭成功が隠元に送ったお手紙がある。これは萬福寺に残っていたものです。

所以拨船护送者,亦以日国顶礼诚深,不忍辜彼想望之情也。……法驾荣行,本藩不及面辞,至次早闻知,甚然眷念,愈以失礼为歉。(陈智超等编《旅日高僧隐元中土来往书信集·隐元所收中土来信之六》)

──だから「拨船护送者」船を都合して(禅師を)お送りした者ども大変感謝感激およよおよよ……
 と後段はやはり語学力が追い付かないけれど,とにかく鄭成功が隠元禅師の日本行きをコーディネートしたのは疑いにくい。

 要するに,①隠元さんが江頭から出港し②その船は鄭成功が手配した。③江頭での禅師滞在中,鄭成功は手厚くもてなした,というのは事実らしい。
 先に見たように,江頭が後代から想像しにくい規模と重要性を持ち,水上生活者の住むところだったと仮定すると,その漢詩にある江頭が現・江頭でないとする論拠も崩れる。
 そうすると,最後に沸いてくる疑問点はこれになります。

鄭成功はなぜ隠元を江頭に置いたか?

 隠元さんが厦門にいたなら,通常は禅寺に滞在するはずです。江頭には広福寺(广福寺)という古寺があり,ここを隠元滞在地と比定する記述もありますけど,「始建于清代乾隆年间」[前掲手机搜狐网]──この寺の創建は清乾隆代:1736~95年と伝えられ,隠元出港の1655年にはまだ出来てません。
 隠元側の理由で江頭にいたとする材料は見当たらない。そうではなく,鄭成功側の理由があったと考える余地が出てきます。
 藩主・鄭成功や建国公が,苦闘を続ける明残党軍の最後の望みかもしれない江戸幕府の援軍の重要任務を託し,隠元さんを歓待するという時に,その場所はどこにするのが効果的でしょうか?
 自分の政権中枢のお膝元です。
 つまり,鄭成功は江頭水上集落を本拠としていた。──これが本稿の結論になります。
 鄭成功が現・厦門港,和平码頭やコロンゾ島にいた,とするのは,あまりに現在の状況,特に観光情報に頼り過ぎてます。前述の洪本部渡头(→m083m第八波mm夏商市場/裏道に遺る鄭成功軍本部)は練兵場だし,(行けなかった)コロンゾ島の日光石は砦跡です。
 かといって厦門城内にいたとするのも,それなら史料に何か残るはずだし,延平公などの名称をまともに正規官職と捉え過ぎてます。
 鄭成功の生地・平戸※でも,転戦した漳州※※や,おそらく死亡地泉州でも,海民の棲息地は陸上ではなく海上でした。彼らのコモンセンスを考えると,おそらく当時最大の水上集落のあった江頭を本拠とするのはむしろ当然の選択だったのではないでしょうか?
※ 幸ノ浦に家船集落があった。
※※ m075m第七波mm龍眼营再訪/■レポ:新橋の子どもはなぜ水に驚かないか[蛋民総論]

 以上,殿前の話から初めて,調子に乗って何厝,江頭まで書いてしまいました。
 観光地や繁華街ではないながら,いずれも歴史上相応の要地,なかんずく海域アジア史に重要な影を落とす場所です。
 厦門の郊外は,かくも豊かな時空を持ちつつ,戦争と革命の前線で,また潤沢な海外資本の投資によって,他の中国以上に早々と消えていこうとしています。