m085m第八波m青北風や 波打ち打てど岸を蹴れm后江埭

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.:南渓仔[土乾]街~バス停厦門博物館
GM.:バス停后江埭~厦門駅前
(ともに経路)

沙波尾まであと2百m!!

▲1641南渓仔墘街を東へ入る。

明南路からノコノコと人の流れを追って歩いて自らハマってしまった学校送迎から,逃げるように,というか逃げて東の路地に入る。工事現場の際の道になります。

▲1643南渓仔墘街の路地裏

おっ!なかなかの裏道じゃないか!
 やはりワシの足に狂いはなかったぞ,わははは。
──というか,ここはまさにこの日に歩き逃した沙波尾の港から,2百m余の場所だったのでした。僅かに鼻が効けば港まで行ってたかもしれませんけど……。
※ m082m第八波mm石坊巷/[関連データ]「沙波尾」という場所
 にしても,現在の再開発後も路地はこの程度,残ってます。港を認識して歩いてれば,もう少し発見があるかもしれませんけど……後は後続者の方々に託します!道の名は南渓仔墘街となってました。

▲1644南渓仔墘街から蜂巣山路への出口,騎楼越しの光景

路へ出かけたとこで,西への蜂巣山路というのを見つける。西行。すぐ道路へ。──ここの写真はなぜか撮り損ねてます。
 出てきた騎楼の微かに残る東西の車道が蜂巣山路でした。西行してバスを探すか。

▲沙波尾から山手までの地図

,この時はあっさり引き上げてますけど──
 上記は沙波尾のL字湾から蜂巣山路を経て山手,東北方向を上に45°ずらした地図です。
「蜂巣山」という謎の地名のほか,その突き当たりに華僑博物館を設ける都市計画イメージは,あえて言えばドイツ辺りのパティオにも見えます。さらに山手には寺院,東には厦門大学。
 風水だけでなく,近代以降に誰かがデッサンしたような町造りに見えるんですけど……穿って見すぎでしょうか。
 けれど当時は,まあ疲れてたのか,こんなん撮って帰路バスを待ってます。

厦門のダークサイド! 公共SM

▲やはり存在する?!バス停「SM公交場站」!!

ぼ17時になりました。よゐこは帰る時間です。
 華僑博物館から1路に乗車,金榜公園まで。店が増えたから気付きにくいけどこの思明路は前回歩いた道です。
漳州でなく漳浦××という冠書きが時々ある。あちらからの流入が大きいんだろうか?
「大便档」とある店は明らかに,米の本場・台湾東部由縁の弁当屋でしょう。
 中山路東端。ここから南少しが最も繁華街のようです。北側には流れが半分以下。
 厦禾路へ右折。高架下を走る。眠気が来た。
 1717,慌てて金榜公園で下車──したと思ったら后江埭でした。「下次站」(次のバス停)と聞き間違えたのか。混んでるバスはこれだから──というか初歩的なミスです。疲れてたんでしょう。てゆーかこの夕方はこんなんばっか。
 ……まあ歩きましょうか。

夕べの宝藏菜マーケットに酔え

▲厦門名物蔦まみれ高架。荒れてるんじゃなくて,故意にやってるっぽい。

れれ?結構好い界隈だぞ?
 社区の市場かな…と東に少し潜ってみる。単に道の両側に屋台が出てるだけなんだけど,意外に活気があります。
 店が段々,店舗になってきました。

▲1724市場の果物屋さん

Weibo(中国のミニプログサイト)に辛うじてこんな記事を見つけました。

2020-9-17 来自 厦门美食超话
【傲客厦门趣处推荐】
这里是厦门最早的工业集中区,也汇聚了人间烟火的宝藏菜市场。
这里有故事,也有美食,这里就是——
《旅游攻略都不会写的老社区,竟然藏着这——么多好吃的!》

──引用するほどの情報量でもないけれど……
①厦門で最も早い工業区
②「故事」がある。
③グルメで有名
という隠れエリアではあるらしい。②については巻末にて。

▲1728市場。左手の社のような,カラフルな品を並べる店は何だったんだろう。

どーしてどーしてなRe.咸飯

らに入っていくと?──えっ?ここからさらに裏の道へ抜けれるるの?
 少し道が複雑な交わり方をしてますけど,概ねのところは,文園路に出てるらしい。

▲萬恵香扁食で紫菜扁食湯と再び食べれた古厝咸飯

の調べでも美食街的な評判もぼつぼつあるらしい。当時もふらりと晩飯にしてます。
1735萬恵香扁食
古厝咸飯
紫菜扁食湯370
「古厝」が「もどき」に見えたけど……どーしてどーして!
茹でピーナッツが効いて,漬物も浅く程よい臭み,なによりおこわの炊き方の妙に箸が止まりまへん。
 扁食は久しぶりだからだろうか,飯との組み合わせからだろか,無茶苦茶味わえた。緩い白湯であとは茹で汁だと思う。本体もプルプルの皮に硬い肉塊,という取り合わせはワンタンにないアクセントになってます。
 1807,文園路を折り返して厦禾路へ出る前で裏道を見つける。文屏路。なかなかでしたけど,既に道は暗く,疲れがガッツリ来ておりまして……この夕方はヨロヨロと帰路を急いだのでありました。

▲今夜の向陽坊は再び老婆餅!

■小レポ:将軍廟から厦門駅エリアへの250年

 捜狐によると,ここの道名「将軍祠」という祠は,「靖海将军」施琅さんと「威略将军」吴英さんを祀ったものだったらしい。

将军祠,因两座祠堂和近十座牌坊得名,分别是”靖海将军”施琅和 “威略将军”吴英的祠堂,久而久之,这个地方就被称作”将军祠“。
厦门将军祠,曾辉煌一时,是靖海将军施琅和威略将军吴英的祠堂_手机搜狐网

 なるほど。で?

施琅と吴英って誰?

 有名な,というか後世に名を残したのは吴英さんの方らしいので,主にこの人の足跡をたどりますけど……これがなかなかハードです。

出自と出世

吴英,字为高,世居泉州之黄龙。清康熙二十二年(1683)奉旨入莆籍,遂家于黄石镇定庄村。
吴英幼时父母早逝,只身赴厦门谋生,曾以挑运私盐为活。吴英_百度百科

 出自は,要するに全く分からない。誰かの養子のような形で厦門に出て来た,全くの庶民だったということでしょう。

体格魁梧,膂力过人,脸方耳大。当地妈祖庙前有卖卜陈某,见其相貌俊伟,将来必然大贵,甚为称赞。有富绅遗孀郑老夫人与女同往庙中虔诚,得陈某之荐,又见英年青貌奇,怜其身世,遂收他为义子,在她家中延师教读,期其有成。[前掲百度百科]

 媽祖廟の前で「これは大物になるぞ!」と御託宣を受けた……というのはもう眉唾そのものですけど,おそらく後の台湾での媽祖廟建設後,信者が作った縁起なのでしょう。
 この人が世に出たのは,完全に海賊の仲間入りしたからのようです。施琅とともに,鄭成功の配下として頭角を現した。ということは,おそらく施琅も同様の出自なのでしょう。

吴英和施琅原隶郑成功麾下,琅降清后,吴英从之。康熙二年(1663),以平金门庆功,擢升都司。其后水陆数十战,著有功勋,旋升同安总戎,壬戌年移驻兴化。[前掲百度百科]

 官職を得たのは──神格化されてるからどこも筆が鈍ってますけど──鄭成功を裏切って清に降った「代金」としてのようです。
 けれどこの代金は,清中央も決して大盤振る舞いしたわけではなく……彼らは清初の明残党掃討戦に駆り出されていきます。

吴三桂の乱での活躍から鄭氏台湾殲滅戦へ

 1673(康熙12)年に起こった吴三桂の乱(三藩の乱)の時,浙江提标都司という官職についていて,黄岩半山嶺での戦いなどで勝利を重ね,ために康熙帝から「作万人敌」(万の敵をなぎ倒す)という語で賞賛されてます。
 この武勲を得てでしょう,台湾・鄭氏王朝の殲滅戦の将を任されたらしい。

历史上,施琅将军和吴英都曾是郑成功的部下。施琅将军是清朝初期的重要将领,为清朝解放台湾,统一中国做出了巨大贡献。吴英将军随施琅降清后,攻打统一台湾,之后率众开垦,造福一方,并积极传播了妈祖文化。[前掲手机搜狐网]

 この台湾上陸時の戦いは,澎湖島での一戦があったらしいけれど,直後に三代目・鄭克塽が降伏しており,本番は台湾本土だったのだと思われます。
 なお,澎湖戦での吴英は「都曾」職として施琅「将軍」の副官という立場です。

施琅攻澎湖时,英总陆军为副,奋勇直前,攻下八 。[前掲百度百科]

 その後18か月間台湾にいた,ということは残敵掃討をやったのでしょう。
 1682(康熙21)年),朝廷が8名の武将を表彰しており,この中には施琅の名前もありましたけど,吴英が筆頭に上がっている。つまり台湾での残忍さは吴英の方が主将の施琅を上回ったらしい。
 綺麗事としては台湾各地に屯田し,経済生活の基礎を発展させたほか,「兴建书院和天妃庙」(後掲手机网易网)──天妃廟を建設した,ともいう。
 結果,台湾民衆はその恩徳から台南に廟を建て,「台湾公」として祀り,今も線香が絶えることがない……と手机网易网にありますけど,これは今のどの宮なのか分からない。
 同じような祀りあげが厦門でも行われ,それが将軍祠だったようです。

填四川の地での11年

 この表彰式から3年後※,1685(康熙24)年~1696(康熙35)年の11年間,吴英は別地方の提督を任じられ,そこへ赴任しています。
※ 前掲百度百科では「台湾平定後4か月で」とあるから,その場合は表彰式などはなく,台湾から直行したことになる。

台湾平后,才四个月,升四川提督。他镇蜀十一年,威德并著。[前掲百度百科]

 四川です。
 同じように彼を祀った「武侯祠」という祠の所在からしても,成都にいたとするのが妥当ですけど──1685年!!
 辛决赛編で触れた「填四川」,四川大虐殺が行われた直後の四川です。

1578年(万暦6年)に人口310万2073人[2]だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった[3]。
※wiki/張献忠
※wikiの記す出典
3 嘉慶『四川道志』巻十七
※ 油煳干青∈0首頁:决赛0∋糟酸麻蒜/填四川

 これが,台湾制服の功を讃えた栄転なのか,何らかの失脚による左遷と見るべきなのかは史料がないけれど──降将ゆえか清中央も酷い使い回しをするものです。おそらく,無人の地に残り鬼のようなった残敵を掃討し,やがて増えていく移民を受け入れていったのでしょう。
 何というか……降将の運命は苛烈です。
▲将军祠牌坊群

将軍廟のあった場所

 将軍廟路という地名だけが,今は残っているということらしい。
 ただ,手机搜狐网によると「将軍路」は地名でもあり,このエリアの総称でもあるという。

将军祠是一个地名,也是一片区域的总称。
那时候的将军祠就是一片小山丘,可通万寿路、文灶、厦禾路等地方,是交通要塞[前掲手机搜狐网]

 元々,ここには小山があって四方に睨みを効かす要衝でもあった。この辺りが岸辺だった時期には,例えば鄭成功軍が厦門を占拠した時期には,小さな砦でもあった場所でしょうか。
▲「民国三年福建银行发行的银圆券,图中有厦门将军祠」──民国時代の福建銀行券に図像化されていた将軍祠

吴英祠堂则被日军烧毁,缘由是吴氏码头工人抵制日货起卸,日军怀恨在心,毁坏一切吴氏建筑。[前掲手机搜狐网]

 将軍祠は日本軍によって破壊されてます。これが「日本軍は日貨の貿易に抵抗した吴氏の港の工人に恨みを持っていて,吴氏の建築を全部壊した」と説明されてます。
 吴氏工人とのいさかいは前述のとおりですけど……すると?吴英という人は石浔吴氏の一族あるいは祖だったのでしょうか。吴英の出自伝はそういう由緒を臭わせませんけど,ひょっとしたら敢えてぼやかせているのでしょうか。
 この辺を語る史料はありません。
※ m084m第八波mm石浔巷/■メモ:石浔吴氏の仁義なき3つの闘争

解放前,将军祠变得很荒凉,属于城乡结合部,周边有西边、塔厝两个村庄。[前掲手机搜狐网]

 ともかく,日本軍が破壊した頃のこの将軍廟付近は,とても荒涼とした場所だった,とあります。次の写真などは,確かにそういう空気を感じます。
 周辺には西边・塔厝という2つの村があった,ともある。どうやら,現・厦門駅前というのは戦前までは,いわゆる厦門ではなかったようなのです。

▲明信片上的将军祠牌坊群

 では駅前エリアはいつから町になったのかというと──

解放初期,这里形成了厦门最早的工业区,建有橡胶厂、电池厂、工程机械厂等大厂。众多工厂加上文园路上的厦门一中、一七四医院,给将军祠带来了不少人气。[前掲手机搜狐网]

 何と!このエリアは,解放後は一転,工業団地に生まれ変わっている。海が近く広い平地があれば,それは確かに立地はいいでしょう。
 じゃあ駅は?というと──そうだ,ここは島でした。大陸側から橋がかからないと鉄道とは縁がない。駅が出来たのは後です。

1956年12月19日、鷹廈線が完成し、本駅も建設された。次年の1957年1月6日に本駅に初めての列車である1本の貨物列車が上海から到着した。

鉄道駅が出来るまでの厦門街区の範囲

※ wiki/厦門駅

▲解放後の厦門駅の状況
[上図]2021年現在GM.
[中図]1946年地図
※ 时代:民国战后(1946年)
来源:美国德克萨斯州立大学图书馆

[下図]1960年地図
※ 时代:解放初期(1960年)
来源:《福建省地图集》中《厦门市地图》
※ 中図及び下図の出典は(前掲)跨越450年的古今厦门地图合集,不仅信息量巨大,更是一场美学盛宴! – 雪花新闻

 海岸線が変化しているので同定しにくいですけど,鉄道が延伸された後の1960年(下図)でも,厦門駅周辺はまだ街区になっていない。それどころか46年と変化がありません。
 市街東端は中山公園(60年地図の人民公園)まで,現在の道名で言うと白鷺洲路~同安路のラインまでです。つまりこれより西が文革期=鉄道新設期までの厦門の町です。
 厦門駅~将軍廟路のエリアは,清初に何かがあった可能性は否定できないけれど,町としては完全に新市街だった場所なのでした。

※その他参照文献:“台湾公”军旅生涯从厦门起步_手机网易网