m19Dm第二十三波m妈祖廟の暗き棺に始まれりm2開台天后

鯤鯓を鎮める

▲拝壇

聯の書写を,お祈りとお布施の代わりに,この旅行から続けるようになりました。
 1540,開台天后宮。篇額は「聖母安瀾」。
 対聯は何と8本。右から──

天宇早顕威霊禮楽冠裳同参聖母
天地仰深思神祐臺澎金厦
后妃膺厚爵霊著宋元明清
開疆著聖勳霊護王師登鹿耳
臺島昭神恵功安民族鎮鯤鯓
聖徳配天浩蕩神恩昭古堡
母儀稱后崔巍廟貌繼湄洲
后宮重瞻侖春秋蘋藻合祀郡王

 4行が2セット。13文字で11文字を挟む。湄洲の文字もあり,そこから来たりて台湾を開く。具体には5行目,「臺島」(台湾)に「神恵功」を昭(あきらか)にして民族を安んじ「鯤鯓」を鎮める。──「鯤」(冥海の巨大魚)とはここでは,漢民族移住前の混沌全般か,それとも原住民族のことでしょうか。

千年の媽祖に眩む

本殿中央には媽祖連合艦隊

央本殿には御神体が……これ幾つあるんだ?
 如何に賑やかな台湾神殿とは言え,これもまた特異です。後から媽祖像が幾つも入居した,という例は他にもありますけど,その場合でもメインを決めて,他神は従神扱いで脇に置いてる場所が多い。
 本来の従神の千里眼や順天風が端っこになって見えなくなるほど,媽祖だらけです。
 同格扱いしなければいけないような諸勢力が,それぞれの媽祖を持ち寄った,というような情景が想像されます。

▲祭壇左手から

次像は千年以上前のものと言われています。[5]鄭成功によって個人的に台湾に持ち込まれた3つのうちの1つであると言われることもありますが[2]、寺院自体は「成功大学」**が1661年に台湾に持ち込んだと主張しています。
*wiki(英語)/Tianhou Temple (Anping) 天法寺(安平) →wikiによる和訳
(2)キーリング、スティーブン(2013)、「安平古堡とその周辺」、台湾のラフガイド、ラフガイド。
(5)Crook、Steven(2014)、「Kaitai Tianhou Temple」、台湾、第2版。、Chalfont St Peter:Bradt Travel Guides
**英語原文は”Cheng Cheng-kung”なので,おそらく鄭成功の機械誤訳

 この伝えなら,媽祖信仰のごく初期の像があることになります。当然そのころに宮はなかったはずだから,中国沿岸のどこかから鄭成功軍の誰かが携行したことになる。

諸神に目移りする

▲居並ぶ4柱の四海竜王
▲1559長髭の神様(水仙尊王)。ここだけ切り取ると黒い人面魚にも見える……などと思ったアナタはこいつに呪われます。

手祠は四海竜王。
 右手祠には水仙尊王。
 どちらも水の神様らしい。鄭成功が媽祖一辺倒だった訳ではないから,他の海の諸神を奉ずる一味もいたのでしょうけど──どうも正直,厳かさからして,この左右祠の方が中央媽祖殿より信仰の匂いが濃い。

▲米入れ

安米」と書かれた透明ケースには,信者が一塊の米を投入してるらしい。
 天井も凄い。でも媽祖宮独特のものではないと思われます。

▲天井の細工

あと,この建物は今は天井がプラスチックでついてるけど,元々はロの字の中庭になってた模様。普通にある形だろうか?
 別棟左手には文昌帝君。二柱,えらく土偶めいた神像。あと手前には,オペラ座の怪人みたいなマスクした神様。

▲土偶めいた何だかアートな文昌帝君

元辰殿に吸われる

さな像はこの文昌帝君の部屋に納めてありました。なぜ文昌側を使うのでしょう?
 数はすごい。しかも全部に手書きで奉納者の名前が書いてある。──日本の絵馬感覚だろうか。
 ちょっとマトリックスの機械の国みたいな,円柱型です。

▲小妈祖の並ぶ円柱

手別棟は日章旗模様の千手観音三柱。何か御前会議の映像みたいである。「元辰殿」とある。こんな神様もいるんだ。

▲日章旗めいた元辰殿の祭壇

──当時は軽くスルーしたけど,この神様は結構メジャーな闇の神。香港の黄大仙祠の地下に「寶用資料」100香港$を払うと,お会い出来る。この地下は撮影禁止が厳しく,映像は一切ありません。

▲同元辰殿祭壇。下がって見るとなお冥界っぽい。

安平湾があった時代(17C初頭?)想定の絵図

[地図帳]鄭-蘭一年戦争の地・安平湾が消えるまで

 台南の元々(16C以前)の地形は,分かりやすくは上図のような「湾」として描かれます。
 上図では「安平湾」と記されるこの内海は,しかし実感的には遠浅の海の沖に小島と砂洲が並ぶ形のものです。つまり自然堤が出来ていた。記録上はこの内海は「台江」と呼ばれていたようです。
 上図の上側・湾最奥が台南市街に当たるわけですけど,ここに平埔族の新港社の集落がありました。これが漢族からは「赤崁」と呼ばれたとされ[後掲BTG],「新港」も漢語音は似ているので,おそらく「チーガン」「シンガン」に似た音で平埔族からは呼ばれていたのでしょう。
 なお,考古学的には蔦松文化と呼ばれる鉄器出土があり,これが現・西拉雅(シラヤ Siraya)族の祖と推定されていることから[後掲維基百科/鐵器時代],「赤崁」に居住していた平埔族とはこの民族の人たちと推測されます。
 ここを16C以降,「倭寇」が侵し初めた。上図の左端(現・鹿耳門付近)に記される「日本集落」は,このことを指すものだと思われますが──その前にもう少し厳密に海岸線の推移を押さえましょう。

a 海岸線の変遷

a-1 19C→20C海岸線

19C→20C海岸線変遷
(黄線)19C海岸線 (青線)20C海岸線[安平古堡の台江遊客中心の說明板より]

 19Cの自然堤防ラインまでを,20Cに一気に埋立てています。従って,台南海岸側辺の風景は一変しています。
 ちなみに,下の図は,BTGが「日本統治時代初期」と紹介しているので,20C初頭と推定(1895年下関条約以後)されるものです。
日本統治時代初期の安平鎮,億載金城エリアの様子

 安平と台南の間には,水域が広がっていますけど,完全な海ではなく条理状の道が出来ており,おそらく埋立の準備段階のものです。

a-2 18C海岸線

18C海岸線[同じく安平古堡の台江遊客中心の說明板より]

 18C→19Cの海岸線には当然ではあるけれどあまり変化はない。
 先の19C地図と細かく比べるなら違いがあるのですけど,どうも安平湾というのは,戦前までの広島湾などと同様に,干満により浮いたり水面下に沈んだりを繰り返すような半陸地状態のエリアだったのではないでしょうか。
(上)「この世界の片隅に」序盤で江波から草津へ浜を歩く三兄妹 (下)昭和初期の古写真

 とすると,安平湾の正確な二次元の形状を追うよりも,遠浅という三次元の状態を理解した方が事実に近い。
 堆積の進行はあれ,おそらく17Cにもそれほどこの状況は変わっているとは思えません。
 台南(赤崁)は遠浅の湾の奥にあり,漁撈用の小型船舶の往来には便利だったけれど,近世以降の外航船は入れないから,それらは自然堤防側を使うしかなかった。そこで都合よく,先住民が湾奥に,侵略者群が自然堤防側の沖に,という棲み分けがなされた,と推定されます。
鹿耳門側から安平城方向を見た絵図(推定17C前半)

b 17C海岸線

 上の絵図は出典不詳ですけど,この景観について後掲udnは次のように書いています。

下圖(引用者注∶本稿上絵図)請注意荷蘭人站立處是北線尾島,是荷蘭人來台落腳的首站[後掲udn]

──この図でご注意頂きたいのは,オランダ人の立つ場所が北線尾島であること。ここをオランダ人は台湾逗留の基点にした。
 また,この絵図とほぼ同アングルのものの解説として

隔著內海相對的遠方山丘插旗處是赤嵌樓[後掲udn]

──内海を隔てた対岸遠方の丘に旗が指してある所が赤嵌樓である。
とするけれど,画像では確認できません。位置的には対岸の左端隅の集落(らしきもの)を指すと思われます。
 さて,以上から17C時点の安平湾地域の人間居住地が3点抽出できたことになります。

①赤崁
≒[蘭]プロヴィンティア城
≒[漢]現・台南市街
②安平
≒[蘭]ゼーランディア城
    故・大員(後掲)
③北線尾島
 (南)[蘭]17C前半居住地(首站)
 (北)[?]後期倭寇居住地
   [漢]現・鹿耳門

 次の2枚は17Cの地図です。この時代のはあまり数がヒットしません。

推定17C西洋版地図に漢字追記したもの [udn解説]鹿耳門港道(紅星處)在北線尾島北方,荷蘭人曾在北線尾島南方(今天的四草)建了一個小堡(藍星處),橘星為安平古堡和赤嵌樓

──赤星③北∶鹿耳門の港道
  青星③南∶オランダ人が曾て居た北線尾島南方(現・四草)
  橙星∶安平古堡②と赤嵌樓①
*丸付き数字と南北は引用者追記
 イメージとしては,安平湾はV字に湾入した海岸線を成していた,と考えたら分かりやすくなります。

③ 安  |
 \ 平 |
  ② 湾①
   \ |

 これを基にしたと思われる「鄭成功収復台湾要図」──鄭成功の台湾奪還要図が次のものです。上のV字で言えば,かの軍は③→①→②という行程を辿っています。以下,しばらくこの地図を眺めます。

鄭成功収復台湾要図
(赤線)鄭成功軍 (青線)オランダ軍

鄭成功軍と行く17C安平湾仮想紀行

 残念ながらこの鄭成功軍進路の原典を確認できていませんけど,wiki(中国語版維基百科含む)及びBTGに依ります。
 1661〜2年に最晩年*の鄭成功が辿った同進路から見た風景により,この時代の安平湾の様子を復元していきましょう。
*ゼーランディア城の攻防戦で受けた傷が元で,鄭氏政権創建初年の1662年に鄭成功は死去したとされる。

③北線尾島

 南明・永明王(永暦帝)がビルマで捕らえられ清側に送還,昆明で殺害された1661年に,その客将格として中国南部海岸域で抵抗を続けていた鄭成功は,自ら抗清王権化する必要から台湾攻略を志向します。(詳細は上記リンク参照∶状況から見て,南明客将「国庄爺」又は「延平公」たる位置を捨てての台湾転進とする立場を本稿では取ります。)
 鄭成功は当時の根拠地・厦門から金門島→澎湖島→北線尾島(鹿耳門)→赤崁城と動いています。

2月3日 金門料羅湾発
・軍艦数百隻,兵士25千名
4日早朝 澎湖八罩島
同 夕方 媽宮駐屯
6日 海山を祭り列島を巡視
8日早朝 澎湖発鹿耳門着[後掲澎湖県政府]

「鹿耳門海峡を通過し」(BTG,wiki)と書くものもあるけれど,プロヴィンティア城攻略が4月(wiki)とか12月(澎湖県政府)とする経緯や,同じ北線尾島の南方がオランダ人居住地であること,9月にはバタヴィア(ジャワ∶オランダVOC根拠)からのオランダ艦船を台江內海での海戦で迎撃していることからも,ここでも相応の戦闘があったと予想されます。
 北線尾島には,冒頭の絵図にあるとおり(日本村落∶正確には島対岸に描かれる),既に中国人*が相当数居住していたと考えられます。
*後期倭寇と同質の人々だと考えるのが自然。だとすれば,日本人もいたかどうかは不明ですけど,後期倭寇は「倭」の文字を冠するだけで,南部中国人が主体だったとするのが通説。

広東省、福建省沿岸部の貧しい農民、漁民や不法者、また漁業や商業等の目的の者などが、台南エリアへ移住するケースも後を絶たず、一鯤鯓や北線尾などの沙洲小島一帯には、すでに中華系移民による一定規模の集落が形成されていたという。

 時代としてはいわゆる後期倭寇より後ですけど,状況的にはその背景となったのと同質の人々が流れ着いていたと考えるのが妥当でしょう。また,その規模は──

台南に立ち寄ったスペイン人の記述によると、台南の地には 中華系移民や海賊らが5000人規模の集落を形成していた、と指摘されていた。[後掲BTG]

當時西班牙船員描述此處為「漢人與盜賊」的一處聚落點[後掲維基/台南的歴史]

「5千人」という数字が出る。ただこれも出典を確認できていません。
 また維基は,その人々が「漢人與盜賊」(漢民族と盗賊)であったと書く。漢民族以外の「盗賊」がいた,漢民族の移住者は盗賊ではないけれど,とも受け取れる微妙な漢訳ですけれど──どのみち国籍や出自は捨てた,あるいは語られない人々の集住が既にあった,という程しか今後も分からないでしょう。
 また,北線尾島北側から湾西部にかけては,1823年の大規模台風で曾文溪が氾濫し相当な地形改変が起こってしまっています。集落の痕跡もともに流されているはずです。

1823年台風前後の航路変更と海岸線移動[對渡口岸説明板]

「青瞑蛇」曾文溪在1823年的大颱風,以及之後發生多次氾濫,導致大規模改道,才新生了鹿耳門溪。[後掲udn]

 ただ,逆に言えばこの台風でこの幻の集落が堆積下に眠った可能性もあるわけで,今後考古学的発見があるかもしれません。

①赤崁

 1661年内には,鄭成功軍は現・台南を掌握しています。その本拠地としたのが,オランダの構築した赤崁城だったことから,この年内にはオランダの守備城のうち湾奥の赤崁を陥としていたと考えられています。
 赤崁は,先述の平埔族の居住地・新港社と同じ場所です。ただここを拠点として,1617年に趙秉鑑という漳浦県の名士が占拠し,明朝から反乱と目され滅ぼされている。このことから,この17C初め頃には漢人の集落があり,おそらく平埔族の居住域を侵食して,軍事施設を築くに至っていたと推測されます。

明代張燮在《霏雲居續集》記載,明朝水師軍官趙秉鑑聚眾於1617年在台南赤崁首次築城,意圖謀反。[後掲維基]

集落地に、反明朝で挙兵していた趙秉鑑が乗り込み、自らの城館を築城したと、『霏雲居続集』の中で張燮が記しているが、その真偽は 定かではない。しかし、趙秉鑑はもともと 福建省漳浦県 出身の地元名士で、科挙一次試験に合格し、役所に出仕して水軍指揮官を務める人物であったが、後になって自身を南宋朝皇室の末裔と自称し、20,000人の民衆を動員して 挙兵したことは事実で、その活動の中で、台湾島の台湾島を本拠地に独立を図り、1617年ごろに赤崁の地に寄った、という伝説が残されている。

 中国人による台湾独立政権,という構想は,鄭成功に受け継がれたであろうことは想像に難くありません。
 鄭成功来寇以前に,赤崁ではもう一つ反乱が発生しています。1652年の郭懐一の乱です。
 1648年にオランダ入植者らが組織するFormosa議会(台湾自治のための議会)が,中華系移民の入植募集の開始を決定。同時に「赤崁」がオランダ式地名「荷恩 Hoorn」へ変更されています。これは同地を厳しい管理下に置く意思の表れで,実際にも入植中国移民へ厳しい統制・制限が行なわれたことから,中華系移民らの不満が爆発したと説明されます。
 わずか4年で反乱を起こすような連帯組織が形成されたとは思えず,1648年の公式募集以前にも相当数の移民が既に住み着いていたのでしょう。
 この反乱の連続に対応してオランダが治安上の観点から再構築したのが,赤崁城(プロヴィンティア城)でした。だから対外防衛基地というより「警視庁」です。
 この門前町として赤崁街が形成されます。場所は現在の民権路(GM.∶地点)。──即ち、本文でこの日に訪れた水仙宮三兄弟魚湯店のある道です。

(推定∶清代)安平湾周辺絵図

 1661年9月にバタヴィア・オランダ艦隊が湾内に入ったのは,赤崁城のこうした位置付けから考えて,赤崁城がまだ陥落せずこれを救援,具体的には城を封鎖する鄭成功艦隊を排除しようとしたと考えるのが自然です。赤崁城が陥ち安平城だけが存続している状態ならば,湾内にまで入る必要はない。逆に言えば,鄭成功軍は艦隊を湾内に置き水域を制圧続けなければいけないほどの長期の苦戦を続けた2年を過ごした,と推測できます。
 これら位置関係から,BTGは現在の地図上の台南城の位置を次のように推定しています。
現代地図と推定∶台南城域[後掲BTG]

 海岸線を頭の中で書き加える必要がありますし,それは実際はこの尺度で明示しにくいですけど──東の城壁ラインがほぼ現在の勝利路*,北門と小南門を繋ぐ南北の大道が鉄道ライン*,西城壁ライン中央の西門から入ってすぐが赤崁城です。つまり趙秉鑑からオランダを経て築城された赤崁城を内城化した,中国式の外城を構築している。これは鄭氏政権期に着手された可能性もあるけれど,清朝時期に完成されたものでしょう。
*大陸中国でよく見られるように,城壁撤去後の空地を勝利路に,南北道を鉄道用地に転用したらしい。
 なお,現在も残る地名としては東門圓環(→GM.∶地点),南門公園(GM.∶地点)があり,城壁ラインを物的に実証しています。

②安平

 ゼーランディア城は1662年2月,鄭成功が厦門を出た1年後に陥落したとされます。鄭氏の戦果情報なのでおそらくこれは信頼できるとして──
[鄭]兵員25千人中死者12.5千人
[蘭]1.2千人(+VOC艦隊?)中損害1.6千人
とwiki[後掲/ゼーランディア城包囲戦]は戦況を数値化しています。
 赤崁城の収容人員が100人とされるので,12倍規模の城塞で,しかも海上の軍艦島的位置です。さらにwikiは先住民や旧市民がオランダと共闘し,鄭成功軍の死者中2.2千は先住民の襲撃によるものと書きます。
*wikiの挙げる参考資料
・Andrade, Tonio (2011), Lost Colony: The Untold Story of China’s First Great Victory Over the West (illustrated ed.), Princeton University Press
・Clodfelter, M. (2017). Warfare and Armed Conflicts: A Statistical Encyclopedia of Casualty and Other Figures, 1492–2015 (4th ed.). Jefferson, North Carolina: McFarland.

 鄭成功軍は全くのアウェイの環境で,兵の半分を失いながら1年近く戦ったことになります。
 鄭軍は蘭守備兵の20倍ですけど,オランダ側に「10人の中国人相手に1人のオランダ人で十分」という,どこかの大帝国軍チックな敵勢軽視を抱かせてます。実際に持ちこたえたからには……本当に近代兵と海賊のガチの戦闘だったのでしょう。
▲オランダ兵士が描いた鄭成功(オランダ戦闘スケッチの中の「鉄甲部隊」)

 
 ゼーランディア城自体については前頁で触れたので,ここではその環境・周辺について見ていきます。
 まず,赤崁城に赤崁街が形成されたように,安平城には大員街という門前町があったこと。
 現在の「延平老街」,住所で言うなら延平街・中興街・效忠街を含む観光繁華街一帯がこれに当たる[wiki,BTGなど]。
「延平」即ち鄭成功の封土名で消される前の「大員」は,「台員」「大湾」「臺窩灣」「大宛」「埋完」「埋冤」など多様な漢字が当てられ,要するに漢字文化圏の感覚ではなく音だけの地名です。──もちろんこれが現・大地域名「台湾」の元とするのは定説です。
*読みは次のとおり。
「大灣」Tayouan/Teijouan
[臺窩灣]Tai-o-wan/臺語音Tâi-oân/Tâi-uân

〔福建漳泉一帶走私商人、海盜或漁民稱之大員/臺員(周嬰,〈遠遊篇〉:「其地為蟒港、打狗嶼……沙八里、雙溪口、伽老灣、加哩林、臺員港。」)/大冤、大宛(石川俊之,《萬國総界図》:臺灣島呈橢圓型,島名「大冤島」/《華夷通商考》)/臺灣Taiwan/埋完、埋冤Tâi-uan、Miouan(連橫,《臺灣通史》:「明代漳、泉人入臺者,每每為天候所害,居者輒病死,不得歸,故以埋冤名之。」)/葡萄牙人稱大員為Lamang,即大員灣Teyouwan/臺窩灣/今臺南安平〕[後掲shihhung]

 上記後半に紹介される「埋完」「埋冤」の表記を連橫「臺灣通史」が説明する説(漢字語彙での由来はこれしかない)は──明代の漳州・泉州からの入台者は,続く悪天候のせいで居住すると間もなく病死していき,帰らぬ人となる。そのため「冤」(あだ,恨み)を「埋」めると書く。──音の由緒としては違うでしょうけど,この漢字を当てた当時の人々の気分は伝わってきます。
 次に,ゼーランディア城の環境です。
 離れ小島ではあるけれど,北で北線尾島,南で島孤と近接しています。鄭成功軍がここを攻めるルートとして,地図上は既占拠地・赤崁から湾をまたぐラインが書かれるけれど,城塞正面の内海を渡るのは至難でしょう。だから多くは南北から接近する,狭い正面での戦闘が一進一退で続いたと考えられます。ほぼ一年の間。
 この南の島弧ですけど,漢数字を冠した島の名が書かれています。一から七まで,そして二文字目は「鯤」,本文冒頭で触れた北海の伝説上の大魚です。

(再掲) 鄭成功収復台湾要図
(赤線)鄭成功軍 (青線)オランダ軍

 確かに,この七島の連なりは,外洋から接近する船からは七体の巨大魚が列を成しているように見えたでしょう。冥海の「鯤」は海民の目には実在の地形だったわけで──鄭成功軍はこれを一つまた一つと占拠しながらゼーランディア城に近づいたはずです。
中国人画家による「鯤」イメージ

 1662年2月に,ゼーランディア城はついに陥落。その4か月後(6月)に鄭成功は急死しています。承天府(赤崁城)の軍兵は鄭成功の弟・鄭襲を後継にします。けれど5か月後(11月)に鄭成功の子・鄭経がは思明州(現・金門及び廈門)から安平城へ進軍,鄭襲を破って王位を簒奪する。
 終戦から急死までの短さ,後継者を決めていなかったこと,鄭経がまだ大陸側にいたことなどから考えると,鄭成功は激戦中に陣死し,軍はこれを秘して辛くも戦勝にこぎつけた,とも推測できます。
最後の蘭台湾提督フレドリック・コイエット Frederick Coyett画像(出典不詳) *Spieler: 馬騜為ECFA扯鄭成功,何不從荷蘭時代說起? URL:http://drspieler.blogspot.com/2010/04/ecfa_18.html?m=1

鄭軍はゼーランディア城を攻め落としたか?

 台湾行政長官コイエット(後掲)は,鄭軍から物資の補給を受けてバタヴィアへまで生還しているから[後掲wikiland],ゼーランディア城は陥落したのではなく自ら鄭軍と休戦して生還を約したような成り行きです。
 コイエットは,ジャワのVOCで死刑判決を受けたけれど,3年間の幽閉後にバンダ諸島へ生きたまま永久追放。9年後(1674年)恩赦で釈放,帰国後の出国を禁じる条件付きでオランダに送還され,同地で亡くなった。この成り行きも,VOC外交筋はコイエットの自主降伏を知っていた気配を感じさせます。
 1675年にオランダで「無視された台湾」(‘t Verwaerloosde Formosa 和訳∶生田滋訳 「閑却されたるフォルモサ」『オランダ東インド会社と東南アジア』 岩波書店〈大航海時代叢書 第II期11〉、1988年)が出版されており,著者名は匿名だけれど一般にコイエットが関与した書物と見られています。
 同書はVOCの援助不足が台湾喪失の理由とする批難を内容とする。
 そもそもコイエットは,1653年に将軍徳川家綱への拝謁時,出島商館長(二度目)としてバタヴィアに鄭成功の台湾攻撃の可能性を報告したとされるが,この際にもVOC総督府に無視されている。

鄭成功は鄭氏王権初代を名乗ったか?

 そうすると,鄭氏台湾創設のイメージを鄭成功本人はあまり持たないまま,戦闘に死んだ。台湾独立を構想・実現したのは,鄭成功の意を受けないままそれを後継した鄭経だった,ということになります。
 鄭成功はついぞ政治家ではなく,戦場で果てた海賊でした。織田信長に似てます。
 結果──地理的には,前期倭寇の流れを汲む琉球王朝の南隣に,同後期倭寇の鄭氏台湾が並立したことになります。

ゼーランディア城の降伏(ヤン・ファン・バーデン画,1675年)[wikiland/フレデリック・コイエット]

 最後に,本文冒頭の開台天后宮対聯を再読してみます。上記1661-2年の鄭成功軍の行程ポイントが,一通り織り込まれている(朱書)ことが分かります。

天宇早顕威霊禮楽冠裳同参聖母
天地仰深思神祐臺澎金厦
后妃膺厚爵霊著宋元明清
開疆著聖勳霊護王師登鹿耳
臺島昭神恵功安民族鎮鯤鯓
聖徳配天浩蕩神恩昭古堡
母儀稱后崔巍廟貌繼湄洲
后宮重瞻侖春秋蘋藻合祀郡王

 八句中四句の末尾が行軍地の地名です。第七句末尾のもう一つの地名は湄洲(媽祖信仰本山)。第七・八句末尾だけ読むと,(台湾が)「湄洲を継ぐ」べく郡王(鄭成功)を合祀する,と読めます。

 さて,ゼーランディア城攻略の1661-2年の台南は,上記以外のさらに多様なプレーヤーがとりまく中にありましたけど……お時間が参りましたので,これらサブ・プレーヤーたちの動きは章を改めてご紹介します。(→次章巻末)

「m19Dm第二十三波m妈祖廟の暗き棺に始まれりm2開台天后」への2件のフィードバック

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