m19Dm第二十三波m妈祖廟の暗き棺に始まれりm3安平古鎮

牡蠣殻の向こうを覗く

▲ファミマに掲げられた観光気分の安平マップ

を出て,門前を歩く。
 目が慣れてなかったのかもしれないけれど,あまりここの老街にはピンとはこないままウロウロと歩きました。

▲牡蠣らしき貝殻の山

樹木の陰を抜けていく

▲1632裏道

通りは何とも半端な観光通り。
 やはりどうも本当に古い町には感じられない。裏の道に入ってみる。
 1631。観音街45。こちらも家並はそう古みはない。

▲1630裏道

だ,樹木や道の配置の節々には,奇妙に趣きがある。
 この感じは……一度捨てられて,しばらく荒れた町が,かなり後の代に象徴的に見直されて観光化された,という気がします。

▲1632裏道

音亭とある祠に至る。
 なるほど,今辿ってきた路地裏の観音街というネーミングはこのお寺からきたものか。

パティオを幻視する

安平観音亭と観音街付近(GM.)

一般に「安平観音亭」(→GM.)と呼ばれるこのお寺に,まあ明らかに由来すると思われる道・観音街は,先述の安平路の北を徘徊するように伸びてます。GM.の表示によると,縦の道は港仔里と呼ばれるらしい。
 都市計画のなされていない、自然発生的な道の配置です。

安平観音亭 (上)外観 (下)祭壇 *ネット掲載より

音亭の建物は何とも豪華絢爛。造りが凝ってます。凝り方がタイのお寺みたいで……これもやはり昔からの造りではなく,最近,開台のシンボルとして,古くて(台湾からして)エキゾチックな感じの演出でしょうか?

▲1634観音亭祭壇。こちらは両脇にスモール媽祖の円柱が2基据えてあります。

壇の主神・観音像はどことなく媽祖っぽい。
 焼却炉はさらに凝っててトーテムポールみたい。これは……どうも台湾っぽくないぞ。

▲観音亭のトーテムみたいな焼却塔

般的に古みはないけれど──後から建ったものだとすれば,この位置にはパティオのような空間があったように思えます。安平路が海に面した時期を想像すると,荷揚げ場だったのではないでしょうか。
 ただ,ここについての歴史記述は一切ヒットしませんでした。信仰的には,開台天后から締め出された仏教系の人々の拝みの場,交易上はサブ又は裏の荷揚場だったのかもしれません。

▲あちこちに出来てた「茶の魔手」

平路を少し歩いて1638,ようやくバス停を見つける。
──先述の推測からは,この道が古道のはずです。
 2路のバスで帰路につく。今度は南の川沿いを東行。
🚌

暴走バイクの行き交う

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

総合医院というバス停で下車。1648。
 四安境神興宮というお宮前。戻ってみよう。西行して国華街という道へ北行。

▲1653国華街
🛵🛵  🛵 🛵
▲1702懐かしき臭豆腐の看板に惹かれつつ……
🛵🛵  🛵 🛵
▲1701国華路に暴走バイクが行き交う

魚酥飯に震える

民的な飯屋街だけどピンとこないまま──
1703水仙宮三兄弟魚湯店
魚酥飯
骨肉湯300
四神湯もあったんだけど「魚」を看板にしてるから飯は魚,湯を肉にしてみた。

水仙宮三兄弟魚湯店の魚酥飯と骨肉湯

口で固まる。
 凄い…。
 飯は魚の粉をかけてあるんだけど──これが「魚酥」?──飯には軽く醤油煮した魚汁がかかってる。ホント,それだけなんである。……でもこれが飯はまちろん,胡瓜ともぴったり合う。
──似ているものとしては,松山の冷や汁ですかね。あれに汁をほとんどかけずに食べてる感じ?

▲スープどアップ

肉湯は……鶏肉?と迷うほど(おそらく豚)肉が淡く誇り高く変質してる。意米(ハトムギ)とかの穀物も入ってるように感じる。味が真っ白いというか,四神湯の純白さを持ってる。
──後から調べるとかなりの有名店で,かつ台南小吃の最たるものみたい。
 半日の成果としては,もうお腹いっぱいなんですけど……この日の宿までの道はまだまだ続くのです。

■レポ:魚酥≒田麩(でんぶ)?

 というわけで全くの謎,しかもこの後も類似の品には出会うことがありませんでした。
「ゆがいた魚の身を細かくほぐして砂糖,みりん,しょうゆなどで味付けしながら水分がなくなるまで煎ったもの」(後掲「気まぐれ食いしん坊の台湾ごはん」(以下「台湾ごはん」と略))とのこと。
 台湾クッキーのことを魚酥と言うことも,あるというかそっちの方がメジャーらしい。これは中国の「桃酥」(≒沖縄のちんすこう)と同じ語感だと思うけど……でも台湾で言う「魚酥」はかっぱえびせん(≒四国・東海の蝦煎餅)に近い。こっちも謎が多いけれど,当面は除外して考えます。

呼称

 大陸中国では「魚鬆」の用字がメジャーだけれど,台湾ではこの字を使う,と主張する台湾人もいるという。身の大きなものは「魚脯/yu2 fu3」とも[後掲台湾ごはん]。
 wiki(後掲)も「台湾の肉田麩」の項に「台湾語では、『肉酥』(バーソー、bah-soo)または『肉脯』(バーフー、bah-huh)と呼ぶ。」と書きます。
 この曖昧さは,宴席の料理とかの主役にはならない,つまり正式に命名されたことのない料理ゆえでしょう。その一方で,かなり庶民的で歴史の長いものに思えます。

食用地域

「肉鬆」の方は──

豚肉や牛肉の肉鬆は惣菜パンの定番の具にもなっている。台湾の寿司では、肉鬆の軍艦巻きが定番メニューになっている。台湾風の肉田麩入り惣菜パンやおにぎりは上海などでも一般的になっている。[後掲wiki]

という広がりを見せており「まれに魚肉の肉鬆も存在する」[後掲wiki]。解明したいのはこの,まれに存在する方です。
 ただ,多く食される「魚酥肉飯」とは,魯肉飯と合体して「半分がトロトロのお肉で,半分は魚のデンブ」という状態のものを指すようです。[後掲今日のりんご日報]
 だから,おそらく魚酥と魚髭は混濁したバリエーションとして分布してると見ていい。また,原材料に魚を使うのは台南辺りに確かに色濃いらしいけれど,魚か肉かというのも混濁してる気配があり──そうなるとこの加工法というのが普及してると考えた方がよさそうです。

魚酥肉飯

東南アジアの魚酥

 と考えると,東南アジアに残る次の料理も類似してます。
【cơm chiên chà bông】(ベトナム∶コムチエン・チャーボン)炒飯に肉田麩を載せたり入れたりしたもの
【cơm cháy chà bông】(ベトナム∶コムチャイ・チャーボン)揚げお焦げに肉田麩と調味料を載せたもの
【バインミー】(ベトナム・ラオス・カンボジアなど旧フランス植民地国)パンのサンドイッチ。具にでんぶを使う場合が多く,これがフランス本国にもない食感に繋がる。

日本の魚酥

 多くの台湾サイトは魚酥=「魚のでんぷ」だと紹介します。
 日本語でいう「田麩」は

江戸前寿司の店ではおぼろと称するほか、一部では力煮(ちからに)ともいう。北海道の一部の地域などでは、単にそぼろと呼ぶ場合もある。[後掲wiki]

と考えるなら,チビッ子のお弁当にも浸透してる「そぼろ」もそうなのです。
* 愛知県(師崎港)の事例では

湯がいた身をほぐし、醤油、塩、砂糖で味付しながら水分が無くなるまで煎ったソボロ

のことを「ちからに」と呼ぶらしい。[後掲すずえい丸船長]
 日本の地方料理も追いかける必要はありますが,海域アジア的にそれよりさらに気になるのは──

との繋がりでした。何となく食感が似てる。魚酥をひとまとめにすると炝肉,という感じがするのですけれど──これは全く根拠や同意意見が見つかりません。
 というわけで,やっぱり全く分かりません。裾野が広すぎて,範疇さえ掴めないのです。

17C半ば(鄭氏台湾成立前夜)の東アジア海域の勢力図
[赤]スペイン(マカオ)圏 [青]オランダ(バタヴィア・VOC)圏 [緑]日本(江戸幕府・薩摩)圏 [黄]明清漢族(浙江・福建人等海民)圏

■補記:ゼーランディア城の群像──サブ・プレーヤーたち

[群]マニラのスペイン・ハイブリッド集団

 西洋人海民から見た17Cの東シナ海は,上図のように碁の中盤戦のような様相を呈しています。東シナ海から明清朝も李氏朝鮮も江戸幕府日本も,国家的関与を縮退させた空白地帯が形成されていたことが大背景にありますけど──その辺りは既に別記しました。

 まず先攻はスペインです。
 ハプスブルク家のスペインは,ヌエバ・エスパーニャ副王領(現・メキシコ及び南部アメリカ)産の銀を懐に,太平洋をまたぎフィリピンに至るマニラ・ガレオン貿易路を構築。マニラに総督府を置きます。

1684年のマニラ描画

 はるばるこの海路を開いたのは,中国海商勢力との交易ネットワークを築くためです。
 だからスペインと言っても,呂宋壺を秀吉が珍重した16C末のマニラは,おそらくアジア最初の混成人種都市でした。

マニラは1590年代には数千の中国人、数百を数える日本人やほぼ同数のスペイン人を集めて、いわばアジアにおけるEuro-Asian co-colonialism とでも呼べるハイブリッド(混成)植民の様相を呈していたと言えよう。そこでは軍事、経済、技術において西洋の圧倒的優位は明白ではなく、ヨーロッパと中国人交易商の間では共通の経済的動機が支配していた11)。[後掲堀江]
*原典11)Birgit Tremml-Werner, ‘Friend or Foe? Intercultural Diplomacy between Momoyama Japan and the Spanish Philippines in the 1590s’ in Sea Rovers, Silver, and Samurai, p.69.

 要するに,現実のマニラにあったのはスペイン王権下の海民グループです。
 これがポルトガルになると,もう少し海賊に近くなります。スペインとモルッカ諸島の領有を争った後,1557年にマカオに交易基地を設け,マラッカ-マカオ間の通行料を徴し初めます。
 ところが,より本格的に海賊に近い西洋陸上国家勢力がアジアにやってきます。ポルトガル船と中国船からの強奪品を売り捌いて販路を拡大したオランダです。

 オランダVOC自体については後に譲ります。──今一度,冒頭の東アジア地図をご覧ください。17C初頭のスペインは,1609年に自国から分離独立したオランダの,同年に日本・平戸に商館設置,1619年に現・インドネシアのバタヴィアに要塞を構え,さらに台湾・赤崁(狭義の=台南)に進出するという怒涛の勢いに,恐怖を覚えたはずです。
──フィリピン領は,オランダに包囲挟撃されるのではないか?
 さらに,自国が入り込めないのにオランダが通商を結んだ日本が,1609年に琉球に侵攻。当時世界有数の軍事大国でもあった戦国直後のこの国(実際には薩摩藩島津)が,もしさらに台湾に入れば──北からの脅威は耐えがたいものにならないか?[後掲堀江]
──たとえマニラが直接の危機に晒されなくても,マニラと福建との交通を台南勢が遮断するのではないか?
 衰退期のスペインが,1626年,あえて老骨に鞭打って基隆に要塞を建設したのは,こうした最悪のシナリオに備えた不可避の一石だったと考えられます。
 これに対し1941年と翌1942年にオランダは台湾北部に遠征し,42年に基隆を占領。基隆スペイン陣は16年の徒花と散ります。

[人]サルバドール・ディアス,「西六左衛門」,「佐藤友永」

 以上が斜陽のスペインによる杞憂でなかった証査として,実際にオランダ支配下の台南に抑留されたマニラ在住スペイン人の記録があります。

オランダのタイオワン及び澎湖諸島統治の実態については、1626年4月にマカオ出身のメスティーソであったサルバドール・ディアスによってスペインに伝えられていた。ディアスはマニラに向かう船上でオランダ人に捕えられ、澎湖諸島と台湾島に2年ずつ拘留される中で、通訳としても働き、当地でのオランダ人、中国人、日本人の活動の状況に精通する。その後数人の中国人とともに台湾から逃亡したディアスはマカオに赴き、当時同君連合でスペインの支配下にあったマカオの初代総督フランシスコ・マスカレナス(Francisco Mascarenhas)の保護のもと、台湾で見聞きしたことを証言し、それが文書に残されている。また、ディアスの供述に基づいてペドロ・デ・ベラによるタイオワンの地図が作られており(略)[前掲堀江]
*原典:Ibid., pp. 62-70.
*Ibid:Andrade,How Taiwan Became Chinese,pp.81-3; José Eugenio Borao Mateo et al.,eds., Spaniards in Taiwan (Taipei, 2014 revised ed.) vol.1 (1582-1641)

 このサルバドール・ディアスに関する記事は,堀江論文以外でヒットがありません。また,その証言に基づいたペドロ・デ・ベラの地図も見つからない。
 ただ,ディアスのように人材として使用され,かつ本人としても経歴や見聞を売り込んで生き永らえた人たちがあった,ということです。
 ディアスはメスティーソ(おそらくスペイン人とアジア系の混血)ですけれど,はっきり日本人と書かれる人もスペインの台湾史料にあります。

スペインの北部沿岸上陸時に、当初から敵対的であった原住民との融和を実現させたのは、遠征軍に同行したドミニコ会士であり、その後 16 年にわたるスペインの北部沿岸支配期に、宣教を通してスペインによる統治を側面から支えたのも彼等であった。このような宣教に関する記録の1つに台湾での最初の洗礼者の話があるが、それによれば、日本人キリスト者と現地の女性との間に生まれた2人の娘に最初の洗礼が施された。洗礼式はなるべく盛大に行おうとの方針で進められ、アントニオ・バルデスが代父となっている。この日本人は原住民とスペイン人の間に立って色々と協力したようである。ドミニコ会士の原住民に寄り添う姿勢は、原住民のスペインに対する信頼を獲得する上で大きく貢献している。このようなドミニコ会や台湾管区長マルティネスの台湾での働きに対しては、マニラに駐留するシルバの信頼を得たのみならず、マニラ大司教のミゲル・ガルシア・セラーノ(Miguel García Serrano)の信任も厚く、大司教はスペイン国王フェリペ4世宛の書簡で、成功裏に進む台湾北岸植民と宣教を考えるとドミニコ会に今後の活動も委ねるのが最善として、ドミニコ会士のさらなる補充を要請している31)。[前掲堀江]
*原典:31) Ibid.,pp.71-3,79-80,86.
**Ibid:前掲28)Andrade

 アントニオ・バルデス Antonio Carreño de Valdésは1626年にマニラを発したスペインの台湾遠征軍団の指揮官です。1603年にマニラで中国系居住者を2万人虐殺し植民地統治の技量を疑われていた総督府が,いかに新拠点・台湾で住民感情を重視したかを示す逸話です。
 この日本人の素性は,スペイン系史料に直接ないらしい。ただし,ほぼ同時期に平戸・Nishi Rokuzaemonと大村・Sato Tomonagaという日本人宣教師の名が伝わっており,前掲Andrade記録が「キリスト者」と記すことからも,両名のいずれかが台湾先住民の女性と基隆に家庭を築いたとも思われます。

スペインの北部台湾領有期間はオランダ人に駆逐されるまでの16年間と短かったが、4,000人以上が天主教に改宗したという。この期間に29人の宣教師が派遣され、その中には2人の日本人の名前が見られる。1人は平戸出身のNishi Rokuzaemon、もう1人は大村出身のSato Tomonagaである。2人ともマニラのドミニコ会神学校に入り、卒業後すでにキリシタン禁制になっていた日本に戻れず、台湾伝道のために派遣されたのだった(牧尾 1912:19-20、井上 1960:182183)。[後掲金子]
*金子注:牧尾は疑問符付きであるが、Nishi Rokuzaemonに「西六左衛門」、Sato Tomonagaに「佐藤友永」という漢字を当てている。両者ともその後、日本に渡り、国禁を犯した者として長崎にて刑死した。
**牧尾1912:(引用者:年は誤記と推定)牧尾哲(1932)『臺灣基督教傳道史』私家版
井上1960:井上伊之助(1960)『台湾山地伝道記』新教出版社

[人]拱柱のマニラ第二鄭氏王朝構想

 マニラ(呂宋)に関し,閩海紀要末尾の鄭氏王朝滅亡時の記述に凄い文章がある。真偽も定かでなく,ほぼ論じられていないようなので特記するに留めます。

504 明建威鎮黃良驥、水師鎮蕭武、中提督中鎮洪拱柱等謀奉公子鄭明奔呂宋,不果。
505 拱柱恐世孫投誠,有意外之患,乃議奉公子鄭明往攻呂宋,再造國家,以存鄭祀;世孫從之。輜重已移在船,會有傳其欲大掠而去者,國軒止之;不果行。[後掲夏琳「閩海紀要」504・505 *三桁番号は中國哲學書電子化計劃のID]

 つまり,鄭氏三代・鄭克塽の降伏前後,徹底抗戦派らしき武将たちが「公子鄭明」を奉じて呂宋に攻め入ろうと企てた,と書いてあるのです。
 結果は「不果」(果たせず),「不果行」(実施されず)とあるので軍事行動には至らなかったらしい。でも「再造国家」しようと「以存鄭祀」(氏神を奉じて?)「世孫従之」(公子の賛同を得て?)「輜重已移在船」(武器を船に積み込む)ところまで準備した,ということは実施直前まで行ったことになります。
 そんな密議を外部の語り手が記述できるのも変だから,噂話の類を書き留めたのかもしれませんけど──南明の滅びを見て台湾に転戦した彼らからすれば,台湾と同じく中国人居留民が鄭氏の襲来を待ちわびていたと言われるフィリピンに,最後の希望を託そうと企てたとしてもおかしくない気がします。
 この武将たちの中で「拱柱」という人だけが二度書かれています。ただし,この人名を調べようとしても,建築用語しか出てきません。

オランダVOC「国旗」

[群]オランダVOC=海の乞食団

 先にオランダ勢力の「海賊度」を書いたけれど,もちろんそれだけでは語弊があります。オランダ植民地経営の主体となったVOC(連合東インド会社,蘭:Verenigde Oost-Indische Compagnie)という組織は「世界最初の株式会社」と呼ばれることがあります。

バタヴィアの東インド会社は世界でもやや異質な組織集団であったと言われる。一部の例外はあるがオランダ・カルヴァン派の影響は総じてあまり強くなく、オランダ語よりポルトガル語を好んで話す者もいた。会社にはオランダの名門家族の厄介者や破産者、ヨーロッパ北部の港ではやくざ者扱いされた者達で溢れていた。カトリック諸国の船舶を拿捕し、カトリック教会を襲撃したワーターフーゼン(海の乞食団、ドイツ語のヴァッサーゴイセン)の雰囲気を醸し出す組織体であった。一方で、17世紀では最も近代的でユニヴァーサルな組織体でもあった。オランダ東インド会社が、株式会社の起源とされる企業形態であるジョイント・ストック・カンパニーであったこともその1つである。[前掲堀江]

「ゴイセン」はドイツ語のGeusen。(蘭:Geuzen フーゼン),仏:Geux股はGueux グー)は,原義はスペインへの抵抗を目する現・オランダ地域のナッサウ伯ルートヴィヒら貴族による同盟の呼称[後掲wiki/ゴイセン]。いわゆる「乞食党」で,転じてオランダのカルヴァン派,オランダ独立前夜の反スペイン抵抗勢力の総称となります。。
 これに「海の」を関すると(独: Wassergeusen:ヴァッサーゴイゼン 蘭: Watergeuzen:ワーターフーゼン),この対立下で生じたネーデルラント人の国外亡命者を指します。約10万人,カルヴァン派貴族を核とする私的軍隊。スペイン船の拿捕,海岸部のカトリック教会の襲撃の他,イングランドの支援を受けホラント州・ゼーラント州の諸都市を攻略。
 VOCは,この流動人口を吸収して1602年に成立。「勅許会社」(≒王立企業?)とも書かれることがあり,他に例えようがない。大使館が独立企業化したような感じでしょうか。あるいは漫画ですけど「沈黙の艦隊」が公認された感じ?
「株式会社」論としては,①全社員の有限責任制,②会社機関の存在,③譲渡自由な等額株式制,④確定資本金制と永続性(継続性)の4点はともかくも具備しています。ただし,社員総会(≒株主総会)がない取締役団(17人会)による「専制型」(=オランダ型)株式会社です。
 また,会計論としては,連結決算ではない。アジア地域の支店では複式簿記が導入されていたけれど(主に仕訳帳と元帳を使用,日々の財務は日記帳に記録。支店には主力商品の香辛料帳と現金出納帳を置いた。),ネーデルラント本国ではハンザ商人伝来の旧式簿記が踏襲されています。従って会社全体の経営を評価しうる簿記はない。決算は10年単位で非公開制だったけれど,帳簿は毎年本国に集められ精査されており,外部(株主)の評価用というより内部統制用の会計だったようです。[後掲中野・橋本]
 海賊が会計制度とこれに立脚した会社組織を持つ,という違和感は,VOCの事例からも,むしろ海賊的集団こそが複式簿記を必要とした,という風に思考する必要が感じられます。

 さて,そのように当時の世界で最も合理的経営を誇ったVOCは,台湾で交易の支配権よりも一参加者としての利益を求めます。ここが同インドネシア支配やイギリスのインド支配と異なる点でした。

オランダが政治的支配をある程度実現させていたバタヴィアや台湾でさえ、実際の交易の多くは福建からの中国船が行い、オランダが貿易全体を支配する可能性は低かったと言えよう。オランダにとっては、自身の交易に不可欠な福建出身の海上交易商達とどのような関係を維持するかという問題が常に脳裏にあった15)。現在の台南市安平区(安平Anpingは清朝期に福建省泉州市の安平橋に因んで移民によって名づけられた)にゼーランディア砦を築いたオランダであったが、植民の実態はオランダ人と中国人によるハイブリッド植民であった。co-colonialism の言葉が当てはまるような植民地形態であり、オランダ東インド会社単独ですべてを賄うような、また本国から植民のために自国人を連れてきての植民地政策ではなかった。オランダの台湾南西部支配のためには、福建からの多くの中国人の植民が必要不可欠であったからである。[後掲堀江]
*15) Ibid.,pp.61-3.
**Ibid:10) Leonard Blussé,‘No Boats to China. The Dutch East India Company and the Changing Pattern of the China Sea Trade, 1635-1690’,Modern Asian Studies,vol. 30, no.1(Feb.,1996)

鄭成功議和園:鄭成功に降伏するコイエットの像

VOC・ゼーランディア城降伏の謎

 VOCの1660年代はその全盛期です。オランダ・ポルトガル戦争の結果としてセイロン(現・スリランカ)がオランダに割譲されたのが1658年。長崎を東北端とする彼らの交易ルートは,ユーラシア大陸の海を網羅していました。
 なのに,台湾だけは失われている。

繁栄しオランダに利益を生み出していた台湾を、総力戦を挑まずして比較的簡単に鄭成功に渡してしまったことは理解に苦しむ。上記のような会社内部の人間関係が災いしたのか、鄭軍の大軍を前に徹底抗戦しないオランダ艦隊司令の中途半端な対応か、あまりに大きな海域、地域に影響を持つオランダ東インド会社の軍事力、補給力が伸び切ってしまい、一地域において鄭軍規模の軍隊との戦いには対応できなかったのか、敗北には様々な要因が考えられ結論は出ない。[後掲堀江]

「会社内部の人間関係」とは,前章でも触れたように行政長官フレデリック・コイエット Frederick Coyettがかねてより鄭成功軍の台南侵攻をVOC本社に警告してきたけれど,バタヴィアに多くいたらしい政敵がこれを臆病と決めつけたのみならず,実際に鄭軍が攻め寄せた1661年には即座にコイエットを更迭,後任のヘルマン・クレンケを送った経緯を指します。このクレンケは台湾には上陸せず長崎に逃げる。代わってヤコブ・カーウ Jacob Caeuw率いる艦隊が派遣されるけれど,これも少数の陸兵を上陸させただけで鄭海兵に追い散らされ,バタヴィアに帰還する。[前掲 フレデリック・コイエット、生田滋訳「閑却されたるフォルモサ」『オランダ東インド会社と東南アジア』岩波書店、1988年;‘Taiwan in Time: The Swede who lost Formosa’, Taipei Times, Jan. 28, 2018]
 ゼーランディア城失陥後にVOCはコイエットを反逆罪に問うけれど,その罪状は──

来襲するかどうかも分からない鄭軍を待つよりマカオに進攻した方が会社にとっては利益になったのに、コイエットはファン・デル・ラーンの艦隊がタイオワンに留まることを要求したこと、鄭軍の侵攻に対する準備と称して台湾の華人商人を軟禁したり、華人農民の稲を焼却したりして、これまで会社に大きな利益をもたらしてきた華人社会を苦しめたこと等が指摘されている49)。[後掲堀江]
*原典(49)Andrade,How Taiwan Became Chinese, pp.238-9.
** Andrade,How Taiwan Became Chinese,pp.81-3;José Eugenio Borao Mateo et al.,eds.,Spaniards in Taiwan(Taipei, 2014 revised ed.) vol.1(1582-1641)

と本当に理解しにくい内容です。コイエットはどちらかと言えば背中から刺された形ですけど,それにしてもVOCはそんな内部事情で台湾をみすみす喪失したのでしょうか?
 戦略的には鄭成功を追っていた清朝と結ぶ選択が当然視されますけど,それも実現していません。

42)Andrade,How Taiwan Became Chinese, pp.237-8. バタヴィア当局自体は、鄭軍が実際にタイオワンに攻撃を仕掛けた場合、オランダ軍が鄭軍の上陸を阻止する力を持っていないことを認めている。そのような判断の結果、オランダが清朝との協力関係を模索し鄭氏集団の動きを牽制することで鄭成功の脅威に対抗しようとしたかというと、必ずしもそうとは言えない。清とオランダの対話は実際に行われたが、対鄭共同軍事作戦の具体化の話しには至っていない。林田芳雄『蘭領台湾史』250-1頁。 [後掲堀江,注42]

 どうにも脈絡がない。オランダ,なかんずくVOCらしい合理が全く感じられない。ある種のアリバイ作りをしているだけに見えてくるのです。
 そう考えると,コイエットの訴追理由の二つ目「華人社会を苦しめた」罪という項が,意味を持ってきます。──以下,ゼーランディア城陥落前後の政治・軍事史からではなく,陥落後の交易史からの状況証拠を求めてみます。
 まず問うべきは,丸1年死闘を繰り広げた(ことになっている)オランダと鄭氏台湾は,ゼーランディア戦後も争ったでしょうか?
 否。
 VOC地域からの生糸が,鄭氏関連海商により日本に持ち込まれるに至っています。言い換えれば,VOCは鄭氏と清朝の対立を利用して,明代に独占的だった中国(主に浙江)から生糸供給地の地位をトンキン及びベンガル湾に奪うことに成功しています。オランダは既に長崎に日本への購買窓口を確保していますが,バタヴィア方面から長崎への交易は鄭氏に遮断されるどころか,むしろ活性化しています。
 これは,明らかにVOCと鄭氏の経済提携によるものです。

日本で高い需要のあった生糸に関しては、中国に代わってトンキンおよびベンガル製の商品が、鄭氏と強いつながりを持つ華人商人とVOCによって長崎(略)にもたらされた。VOCによるトンキン生糸の輸出は1640年代に本格化して50年代には減少するが、世紀後半は華人商人がそれを長崎へ運んだ。[後掲nippon.com,ただし下線は引用者]

 ここで言うベンガル湾の生糸とは,具体の商品名で言えばコルマンデル織物です。

VOCはコロマンデルの地方領主や染織技術集団と契約を結び、更紗その他の染織品を、主に日本銀と引き換えに購入した。[後掲nippon.com]

 ここから臭うVOCの戦略は──スペインが採る古い植民地方式ではなく,日本と東南アジアの中継を鄭氏に委ね,そこで中間利益を渡してでも,なお供給地たる東南・南アジア側に大きな利益が還元されるという計算だったのではないでしょうか。
 この算段を,仮に明清交代期からVOC(本社)が持っていたとすれば,台南は「忘却された」のではなく「移譲された」あるいは「売られた」というのが実態だった,という可能性があると思います。
 コイエットは局所的には正当な知見を持っていたけれども,VOC上層のアジアにまたがる交易ルートの再編構想を察することは少なかった。結果的に(清朝の視線を意識しての)鄭氏王朝創設なる演劇の供物にされることになった……ということになります。
 即ち,ゼーランディア城が陥ちたのは,VOCがそれを鄭成功に渡すことにしたから,だと思うのです。
 これは陰謀史観ではありません。VOCと鄭氏海商群は,清朝の遷界令期に東シナ海の交易パターンを再構築してしまいました。

1683年に鄭氏政権が降伏すると、清朝は翌年遷界令を解除して商人の往来を許可した。これにより長崎に来航する中国船の数は一時的に急増した。しかし既に遷界令に対応していた地域では、17世紀の貿易パターンは復活しなかった。[nippon.com]

 東南アジアから南アジアの多様なプレーヤーを交えた大航海時代は,VOCが台湾に鄭氏という中間勢力を擁立することで開幕した,と言えるのです。

コロマンデル織物(インド更科)

[人]宣教師アントニウス・ハンブルークとその娘

 上記推測が当たっていたとすれば,それは反面非常に冷徹な戦略だったと言えます。結末の酷さもあって当時のヨーロッパで有名になったハンブルークのような逸話を生み出しているからです。

鄭軍来襲時に自身の宣教担当地区であった麻豆にいたハンブルークは鄭軍に捕えられ、勧降使として鄭成功の書簡をゼーランディア城のコイエットに渡し、返信をもらってくる役割を任じられサッカムを発つ。コイエットは投降を拒否し、ハンブルークは2人の娘をゼーランディア城に残し、報告のために死を覚悟して鄭成功の陣に帰っていく。どこまでが真実か詳細は分からないが、後にオランダでは、この史実を題材として劇作Antonius Hambroek, or the Siege of Formosaが1775年に発表されている。この劇の中では、ハンブルークがコイエットに対して、自分の身に何があっても構わないから徹底抗戦を呼びかけるとの設定になっている。そして、ハンブルークの2人の娘が父にゼーランディア城に残るように懇願するが、妻やその他3人の娘等が人質になっているとして、父は2人を振り切って城を後にする。[後掲堀江]

 ハンブルークという人は他の史料に見当たらないから,傍証しようがない。戯曲という性格上,劇的なストーリー付けがされているとは予想されますけど──

記録によると、その後ハンブルークを始め多くのオランダ人が首を斬られ、妻子達は中国に売られていったとのことである。ハンブルークの娘の1人は鄭成功の妾になっている47)。[後掲堀江]
*原典(47)Tonio Andrade,Lost Colony: The Untold Story of China’s First Great Victory over the West (Princeton & Oxford, 2011),pp.166-70, 178-80.

 このハンブルークの娘も名前が分からない。ただ,鄭氏軍団の海賊という出自を考えると,十分にあり得たことかと推測されるのみです。

鄭成功自身もハンブルクの10代の娘を妾にし解放することはなかった。[10-12](略)鄭成功が十代の少女だったアントニウス・ハンブルクの娘を妾にしたという話題は、ヨーロッパで有名になり、ヨアネス・ノムシュの劇で取り上げられた[18]。[後掲wiki/ゼーランディア城]
*原典
[10]Moffett, Samuel H. (1998). A History of Christianity in Asia: 1500–1900. Bishop Henry McNeal Turner Studies in North American Black Religion Series. 2 (2, illustrated, reprint ed.). Orbis Books. p. 222
[11]Moffett, Samuel H. (2005). A history of Christianity in Asia, Volume 2 (2 ed.). Orbis Books. p. 222
[12]Free China Review, Volume 11. W.Y. Tsao. (1961). p. 54
[18]Ernie. “Koxinga the Pirate”. China Expat. 2012年6月1日閲覧。なお,劇名は劇のタイトルは「Antonius Hambroek, of de Belegering van Formoza」で、英語では「Antonius Hambroek, or the Siege of Formosa」

台湾水鹿:シカ属。サンバー(水鹿=スイロクとも)の一種。台湾固有種

[群]鹿皮輸入大国・中近世日本

 台湾開闢(漢人にとっての)期の交易史を見ていると,意外な日本向け商品が登場してきます。最初は珍品めいた品かと思ってたら,かなりシェアは大きい。

福建からの商人は、既に16世紀末から磁器、塩、鉄を台湾に持ちこんで鹿製品と交換しており、台湾原住民の鹿製品は一番の人気産品であった。鹿の皮革は日本で、鹿肉や薬用としての角や生殖器は中国において高値で取引された。[後掲堀江]

 中国での漢方薬としての使用(鹿茸:鹿の袋角。補精強壮剤)はよく聞きますけど,日本でのものはあまり知らなかった。
 弥生時代から武具に使われた例があり,鎧,兜,刀,矢筒の紐・飾り・クッションなど武器装飾として好まれ,そこから日用化して煙草袋,巾着,鼻緒,蹴鞠,革足袋,手甲,革羽織,火事装束,半天などにも使われるに至る。中世に菖蒲革としての加工が流行り,「勝負」に通ずるとして総じて武士層に愛用された模様です。
 ただ,乱獲ゆえか輸入に頼るようになったのが16C半ば。産地はフィリピン・台湾・インドシナ・中国・ニュージーランドなど広く,アジア一の鹿皮輸入国だったらしい。[日本鹿皮革開発協議会]

実は、オランダ東インド会社が台湾に到着する前から、日本や中国の交易商達は台湾原住民と鹿製品のバーター貿易を行っていた。オランダの台湾侵入後も、鹿肉の交易は中国船(ジャンク)だけで行われ、オランダは彼等から通行税を徴収するのみであった。それでも、台湾鹿皮は東インド会社のほぼ独占状態にあり、彼等にとっての一番の収益源であった。一方、同会社が独占の確保のために一番手を焼いた事例としては、中国人交易商や猟師による密輸行為が挙げられる。彼等は、嘉義と台中の中間辺りにある麻豆(Mattau)の北に位置する虎尾(Favorolang、現在のHuwei)を中心に活動していた。 [後掲堀江]

 台湾の梅花鹿が絶滅したのは,江戸時代初期の日本とのシカ皮交易による乱獲が原因とする説も,近年登場しています[後掲赤坂]。
*原典:川島茂裕「日本企業による海外の生態系破壊はいつから始まったのか—シカを中心に日本人の海外活動の源流をさぐる—」『帝京史学(第9号)』帝京大学文学部史学科,1994
 もちろん継続的な統計数値はないけれど,先の川島さんは複数の史料をつなぎ合わせて数量の概略をあぶり出してます。1625年には「年々二十万枚」という数字がある。原文は──

聞くところによれば鹿皮は年々20万枚を得べく、乾燥したる鹿肉および干魚は多量にあり
*原典:村上直次郎抄訳・中村孝志校注(1970)バタヴィア城日誌

 またこの前年の記録にも──

タイオワン港には、毎年日本船が鹿皮を買い入れるために来航するが、それは同地でかなり多量に産出するものである。…日本船は、18,000枚の鹿皮や、その他若干のシナ商品を…積み込んで、再び日本に帰航した。[後掲赤坂:1624年1月3日付けで記されたオランダ東インド会社の一般政務報告]

とあり,数値は毎年2万頭分と推測していい。
 オランダは鹿の禁猟年を設けるなど対処を講じたけれど,1645年3月11日の「バタヴィア城日誌」には鹿猟の免許状400通のうち36通が売れ残った記事があり,17C半ばまでの極めて短期間に台湾鹿は乱獲のため数を減らしたことが推測できるとします。
 また,前掲の安平入港日本船の積荷記述「鹿皮や、その他若干のシナ商品」というのは,鹿皮が積荷のメインを占めたことを感じさせます。

鹿皮革の羽織・火消し半天

日本に送られる鹿皮の中には、資源枯渇の恐れのある台湾産だけでなく、タイやルソン島から台湾経由で送られるものもあった。実は、鹿皮は 15世紀末以降、スペイン、ポルトガル、中国、日本の交易商によってマニラから輸入されており、当時ルソン島は日本市場向け鹿皮の集積地であった。しかし、17世紀にカトリック諸国との友好関係が途絶えると、マニラに代わって台湾が日本向け鹿皮の提供元となる17)。一方、鹿を中心とした「商品経済」の興隆は、台湾原住民の農業離れを加速する側面もあった。[後掲堀江]
*原典:17) Hui-Wen Koo, ‘Deer Hunting and Preserving the Commons in Dutch Colonial Taiwan’, Journal of Interdisciplinary History, XLII:2 (Autumn, 2011),185-203; Ryuto Shimada, ‘Siamese Products in the Japanese Market during the Seventeenth and Eighteenth Centuries’ in Yoko Nagazumi, ed., Large and Broad: The Dutch Impact on Early Modern Asia (Tokyo, 2010), pp. 152-3.

 交易拠点としての台湾に先立ち,鹿の供給地としての台湾が発見され,僅かな期間に生態系と先住民の生活を激変させていった,と考えられるわけです。それが中国人の移住地としての台湾の助走期間になった,とも言える。
 オランダが植民したり中国人が大挙して入る前に,日本と日本人,なかんずくそこから出た海民が深く──台湾の生態系を破壊するほどに──関わったその前史があったことが見えてくるわけです。

[人]末次平蔵と浜田弥兵衛

 こういう事実を踏まえて見ると,有名なタイオワン事件も少し性格を変えてきます。

1628年のタイオワン事件(浜田弥兵衛事件)も、そのようなオランダの強硬姿勢に起因する事件である。朱印船による交易を行っていた日本の船は、冊封国としか交易を認めなかった明の港に入港することはできず、アユタヤやベトナム、そして台湾での中継ぎ貿易に頼っていたのであるが、日中交易の中継から得られる利益を享受していたオランダは、中国人と日本人の貿易を締め出すためタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけ始める。中国人商人は関税の支払いを受け入れたのであるが、長崎代官末次平蔵配下の浜田弥兵衛等の日本人商人は、オランダ人より古くから当地で交易に従事していることを理由に支払いを拒否したため、台湾行政長官がプットマンスの前任者ピーテル・ヌイツ(Pieter Nuyts)の時代に、いわゆるタイオワン事件(浜田弥兵衛事件)が勃発する23)。[後掲堀江]
*原典等 23) 事件の詳細は、永積洋子『朱印船』吉川弘文館、2001年及び永積洋子訳『平戸オランダ商館の日記』第1 輯を参照。1628年5月に末次平蔵が派遣し浜田弥兵衛を船長とする2隻の船がタイオワンに入港すると、ヌイツは弥兵衛達を拘留し日本へ帰国する出港許可の発行も拒絶する。怒った弥兵衛達はヌイツに飛びかかって彼を縛り、抵抗するオランダ人2人を殺害している。この事件の余波で平戸のオランダ商館が閉鎖され、日蘭関係は悪化の一途をたどるかに見えたが、1630年の対蘭強硬派末次平蔵の死によって、両国関係は好転の兆しを見せている。

 浜崎さんは単に騒動を起こしたと語られることが多いけれど,その言い分は「オランダ人より古くから当地で交易に従事している」から新設関税を拒否した,つまり既得権の主張です。浜崎さんの中には,自分たち(海民)がオランダに先んじて台湾経済を形成してきた,という観念がある。
 幕府が幕政下の初代長崎奉行に任じた(初代)末次平蔵の影響下には,こういう海民集団がいたということです。
 事件の1628年の2年後に,平蔵は死去しています。この点を偶然と考えるのは,あまりに幕府に都合が良すぎる。「鎖国」体制の対西洋交易の仲介国にオランダを据えようと構想していた幕府が,何らかの非公式な手法で「消した」と見るのが妥当でしょう。
 1675(延宝3)年,唐人屋敷完成直前に,末次家そのものも密輸を口実に廃絶されています。

 インテリジェンスに長けた江戸幕府は海民が海外に得ていた既得権を,相応に認知してはいたでしょう。他方で長期の利益も冷徹に計算していた幕閣です,その上で内国経済の拡充の方に目があると踏んだのでしょう。

[群]シンカン・サウラン・マタウ・バカラウワン族⊃原住民

 台湾に浸透した中国人たちは,村を造り,周辺の先住民の生活圏を侵すとともに,次第に少数支配層のオランダに抵抗を示してついに駆逐するに至ったわけですけど,この過程の前段はオランダ側の記述では相当長期に渡っていた感覚で書かれています。

中国人交易者は必要に迫られ現住民の言葉を、また原住民は中国語を話す状況が一般化していく。このような情景は、スペイン人やオランダ人が台湾に足を踏み入れる以前から見られ、中国人交易者の影響力が既に大きくなりつつあることを示唆しており、さらにオランダによるハイブリッド植民は必然であったことを物語る。福建地方が旱魃で苦しんだ時に、鄭成功の父で元海賊から福建の武装海商グループの指導者となった鄭芝龍は、何万人もの旱魃被害者を台湾へ移住させることを提案し、当地で開拓事業を進めようとする18)。[後掲堀江]
*原典(18)奈良修一『鄭成功 南海を支配した一族』山川出版社、2頁

 16〜17Cにどれほどの福建人が台湾海峡を渡ったのか実数は分からない。でも鄭芝龍は,このムーブメントのモーセじみた存在でもあったらしいのです。
 ただその前段で,中国人と先住民の間に融合あるいは相互変化の地道な過程があったらしい。現在,漢化した先住民という意味合いで「平埔族」(「熟蕃」とも)と総称される「民族」は,清時代以降の政策に先んじてこの時代に形成されたという見方もあります。
 平埔族が「独木舟」(→邊架艇:アウトリガー)を有する海洋民族だった可能性には先に触れました。

 台湾の海民というのは単純に中国人海商というのではなく,台湾原住民を含む広域-福建系の人々あるいはその再融合した層が構成あるいは下地を成した可能性はあると思います。
 ……まどろっこしい表現になるのは,ではどの民族がいつ祖を成したのか,というのは断言できるようなものではないだろうからです。相当に多様な民族が,海上を奔放に行き来し,文化的に反発しながら混交していった,という姿が実態でしょう。
 漢民族が文化的大勢を占める現在のような状況は,特に中世までの南部中国ではまだなかったのです。

 だから,台湾に原住民が優勢を占めた時代というのは,特に局所的には,南部中国の一般的な状況だったのであり,東海の孤島だから,ということではありません。現代漢族は長い時間をかけて,彼ら周辺諸民族と融合した末に構成されたものです。
 ただ,この民族の融合というのは「仲良くする」という意味からはほど遠い。

サッカムを中心としたオランダ支配地域の4つの原住民族と言えば、平埔族の一支族であるシラヤ族(西拉雅本族)のシンカン(新港、Sinkan)、サウラン(蕭壠、Soulang)マタウ(麻豆、Mattau)、そしてバカラウワン(目加溜湾、Bccluan)であるが、その中でシンカンとマタウは互いに対立関係にあり、バカラウワンはマタウと同盟を結び、サウランは窮屈な中立を守っていた。この中でシンカンは数が最も少ない原住民族であったが、オランダ東インド会社とは最も親しい間柄にあった。一方、4つの村の中で最強を誇ったマタウはオランダに反抗し、しばしばオランダと小競り合いを演じている。その1つの背景には、マタウが敵視するシンカンとオランダが親密な関係を維持していたことが挙げられるが、さらにマタウがオランダの交易の障害となる中国人海賊をかくまっていたことも、オランダとマタウの抗争の原因と見られる25)。 [後掲堀江]
原典25)Tonio Andrade, How Taiwan Became Chinese:Dutch, Spanish, and Han Colonization in the Seventeenth Century (New York, 2009), pp. 64-5.

 おそらくは外部の軍事的優越勢力と結びつくことで,従来不可能だった隣接部族の軍事統合が可能になり,かつ勝者の得る利益が桁違いに増えたことで,部族闘争が苛烈さを増したのでしょう。
 四部族中,マタウ族が中国人海商──おそらくは日本人を含む後期倭寇残党と,赤崁の名の由来であるシンカン族がオランダと連携してます。これはおそらく,基本的には四部族の抗争に蘭・中が代理戦争的な色彩を加えつつ,自勢力の優位を高めていったものと推測できます。

現在はとっても観光地な小琉球のスポット・花瓶岩

[人]ピーテル・ラメイヤー

 鄭成功来襲の一世代前,高雄海上のラメイ島(→GM.,小琉球)で発生している島民虐殺は,そうした四つ巴,六つ巴の絶え間なき闘争の延長に起こったものらしい。

1633年10月、海盗劉香と組んで戦った「料羅湾の戦い」で鄭芝龍に敗れたように、海盗の暗躍する福建海域を含め台湾周辺での支配権確立も順調ではなかった。しかし、オランダは鄭芝龍と和解協力して、中国との交易を安定化させる政策に方向転換する。その為にも台湾南部における支配の確立は重要であった。その一環としてオランダが行ったのが、「料羅湾の戦い」敗戦直後のラメイ島(略)侵攻である。当時1000人以上の原住民族が痩せた土地で暮していた。そこにオランダの一方的理由によって、原住民に対する殺戮が繰り返され原住民が島からほぼ消滅した事件が起こっている。(略)オランダ兵士の他にシンカン、サウラン、マタウ等の原住民協力隊員も加わって島民に対して殺戮、投降の呼びかけがなされた。[後掲堀江]

 1633年の「料羅湾の戦い」の結果,中国系海民勢力はほぼ鄭芝龍(鄭成功父)が独占し,旧敵・オランダはこれと休戦する反面で威勢を保つ感覚でラメイ島を平定したらしい。これに本島陸地側の先住民も加勢しています。
 この「虐殺」については,事実がよく分からない。──鄭氏政権も清朝[1685年台湾府誌]も「琉球嶼」を無人島と認識していたらしいことから,1662年段階で住民がゼロと推定できること。1640年まで繰り返しオランダによる侵攻が記録されること。この両者の「引き算」で,1630年以後のジェノサイドが推定される,というのが実証的な言い方になる。

[史料]ラメイ島ジェノサイドの記録

 ラメイ島の先住民がどんな人たちだったか,それすら不鮮明です。例えば,次の伝えによると「烏鬼番」族だったことになる。

伝承によれば昔、烏鬼番と呼ばれる部族がここに集団をなして住んだ場所である(略)。後に泉州人が彼の地に渡って開墾しようとしたところ、衝突が起こり、泉州人が夜に乗じて火を放ち、彼らは一人残らず焼き殺されてしまった。[1894年「鳳山県采訪冊」内「小琉球」(巻2・地輿2・諸山)記述。なお,同島の現況としては村落6ヶ所400戸,人口2〜3千人と記載]

「烏鬼」は「カラスの妖怪」みたいな語感です。「番」(=蕃,蛮)は蛮族。wikiは,殺戮後に島に放置された多数の骸からの連想を記述するけれど──この「烏鬼伝承」は日帝統治下では通説化されていたようですけれど,現在学術的には否定されます。「泉州」を強調する辺りからは,18C以降の械闘時代に漳州など泉州に敵対した勢力が創作した物語かもしれません。
 では,事実として何が起こったのか?
 wiki(ラメイ島虐殺事件)が後掲林田2007を原典に記すもののうち,根拠の明記された部分を列挙してみます。ただ,島人たちに実感を持つべく,あえて仮に「烏鬼番」と書いていきます。

1633年侵攻

フォルモサ(台湾)から約3マイル離れた場所に現地人がトゥギン(Tugin)と呼ぶ一小島がある。(略)ヨーロッパ人はガウテン・レーウ(Gouden Leeuw)と呼んだ。これはかつてこの島に漂着して補給を求めて船長らが上陸したところ、現地の島民(原住民)に全乗員を殺害された船の名である[ジョージアス・カンディディウスが当時の台湾行政長官ピーテル・ノイツに充てた書簡(1628年12月27日付)]

 ただし,同書簡以外にこの記事内容は確認されない。後述の3年後・1636年侵攻時に,島でオランダ船以外のイスパニア他ヨーロッパ船の難破の痕跡が確認されたとの記録もあるけれど,予想を越えて泥沼化し自己の行為に震撼したVOC側が(おそらく本国や本社に対し)自己の正当化のために,後付けで強調した事実のように思われます。
 けれどこの最初の侵攻は──

300名の白人兵士と現地住民であるシンカン(新港)・サウラン(蕭壠)両社(集落)の人々若干をラメイ島に派遣することを決定し、4日後に彼らは2艘のヤハト船と4艘のジャンク船に分乗してラメイ島に向かった。(略)原住民が洞窟に洞窟の奥に逃れてしまったため、やむなく島の集落を焼き払って家畜の豚を殺害したのみで帰還した(略)ラメイ島とも交流があるパングソィヤ(放索仔)社の頭領を仲介者として連れてラメイ島に派遣して和平協議に当たらせようとした。[ゼーランディア城日誌1633年11月8日条]

 要するに,烏鬼番はそう広くもないけれど見渡せる狭さでもない*島内に巧みに身を隠してオランダ兵を翻弄し,少なくとも一次侵攻時には完全に弄んでます。合目的思考のオランダ人に対しては,これが仇になったとも想像できます。

ラメイ島GM.航空写真

*ラメイ島の面積:6.8km²は,日本の離島の面積ランキングでも100位超に辺ります。93位以下の8km²クラスの以下7島から,その広さが想像できます。
岩城島(愛媛県越智郡上島町)
佐木島(広島県三原市)
椛島(長崎県五島市)
弓削島(愛媛県越智郡上島町)
田島(広島県福山市)
大島(宮城県気仙沼市)
興居島(愛媛県松山市)
馬毛島(鹿児島県西之表市)

 さて,パングソィヤ(漢語名:放索仔)社という地名又は集落名が出てくる。現在の東港付近らしい。ここには侵攻軍の本島側前進陣地として「下淡水」という地名も出てきます。北の「淡水」の南部版という語感から言って,重要な港湾だったと思われます。
 このパングソィヤ村民が,烏鬼番との交渉窓口になっている,というのは,彼らが烏鬼番に極めて近い部族で,かつ何らかの経緯で対立していた集団だったことを予想させます。パングソィヤ村勢力もやはりVOCを弄んだとも言える。次の侵攻では烏鬼番を追い詰める役も演じていますから,おそらく烏鬼番に威を示したけれど屈しないので,再度オランダを動かし侵攻させたのでしょう。

1636年侵攻

 3年後にオランダは再侵攻。4月末,烏鬼番が逃げ込んだ洞窟を金土は発見します。──ただこれも,現地に通じたシンカン及びパングソィヤ族の同行集団が見つけたものです。オランダ側は洞窟の3ヶ所の出入口のうち2ヶ所を土砂等で埋め,残る1ヶ所から煙を流し込んだ,というけれど,これも内部の構造に周知した者しか成功しない手法です。烏鬼番の中でも前回ここに隠れた者の一部が寝返ってVOCに流した情報があったように思えます。
 結果──

ラメイ島の推定人口を1000人、うち捕虜になったのは500名で、現時点で生きているのは男性134名、女性157名、子供192名でその他は死亡した可能性が高い[1636年6月2日付ゼーランディア城日誌 リンガ中尉 J.Linga報告内容]

 捕虜五百と「現時点で生きている」五百弱が重複するか否かによるけれど,文意通り重複しないとすれば,これだけ大がかりにやっても死者はジェノサイドと呼ぶほどはなかったことになります。
 この5月にVOCは駐留兵30名を置きます。ところが同6月末に,そのうち3名が烏鬼番に惨殺。そこで7月と9月にさらなる軍兵派遣が行われ──

554名の原住民を連行し、残り300名余りが殺害された
[1636年12月28日付「東インド事務報告」。同年11月26日付「バタヴィア城日誌」にも同等の記載があり,これが公式数字だったと考えられているが,学術的には実数はさらに多いと推定されている。]

 どうやらこの「戦果」の性格は,VOC本社報告用の業務成果係数です。かつ,つなぎ合わせると全然,つまり端数や把握漏れの規模以上に母数が照合しません。集団規模から考えて,これほど未把握の部分が大きいとは思えない。
 また,中世の島嶼人口としてこの面積の島にこの人口は多すぎます。先に挙げた面積8k㎡超の弓削島の現人口が27百人(平28年3月)。
 このパターンは,島人の多くが海民で陸上生活への依存度が低い西瀬戸内海の島や浦のそれに非常に近い(例えば吉名(広島県尾道市)など)。

 それを確認するような事態が,上記侵攻翌年の1637年にタイユアン(台南)行政長官ヨハン・ヴァン・ディア・ブルフによって確認されています。長官様は,先のラメイ島侵攻に協力したパングソィヤ社との関係が悪化したため,自らその討伐船団を率いて南下したのですけど──11月27日,その進路にあったラメイ島に立ち寄りますと……前侵攻から1年余りを経,無人のはずのラメイ島で烏鬼番63人と会見することになります。烏鬼番は「これ以上濫妨を働かないように」と慈悲を求めた,とwikiは書きますけど,事の推移からして徹底抗戦の意思を淡々と表明した,ということだとと思われます。

1640年末〜41年侵攻

 wikiは「第四次侵攻」として──

12月27日にはリンガ中尉が60名の兵士とともにラメイ島に乗り込み、翌年1月2日には改めて16名の兵士を駐留させ、38名の原住民を連行してタイオワンに帰還した。その後も20名程の住人がいた可能性がある

とする。
 先の会見の「63人」≒38名+20名程+@ としてほぼ数は合います。なお,この段階でも虐殺の数値的形跡はない。
 VOCも事の性格をよくやく見抜いたのでしょう。陸上の烏鬼番をゼロにした上で,別の住民を移入する策に出ています。

(ラメイ島は)ココヤシの栽培のために、300レアルで中国人に賃貸した[1636年12月28日付け東インド事務報告]

 報告時点は最後の軍事侵攻から半年後です。当時の物価係数として,パウルス・トラウデニス行政長官就任時の月俸210グルデン=70レアルという数字が残っているため,かなりの高額と知れます。困窮した福建人移民が支払える金額ではないから,「中国人」とは富裕資本のはずで,当時唯一勝ち残った海上勢力だった鄭芝龍しか考えにくい。
 ただし,10年後には賃貸価格は70レアルと大幅に引き下げられており[1645年4月28日付ゼーランディア城日誌],ラメイ島の農場経営が苦境に陥ったための救済策とみられています。あるいは,購入者の撤退・交代があった可能性もある。
 次に史料に登場するのは,鄭成功来襲の1661年。この頃にはラメイ島経営が安定化したことを示唆します。

鄭成功によるゼーランディア城攻撃に備えてラメイ島から大量のヤシの実やヤギ、野菜などの物資を調達した[1661年暮れ バタヴィア城日誌]

 以上を総合すると,ラメイ島は海上交通の結節点として,海民が拠点としていた場所で,陸上住民を一時は根こそぎ強制連行しても知らぬ間に住民が帰ってきてしまっていたことが想像できます。
 つまり,烏鬼番は福建以南に存在した蛋民(水上生活者)に類する海上集団だった可能性が高い。

「ラメイ島虐殺」戦争とは,蛋民と陸上勢力によるかなり稀有な絶滅戦争だったのではないでしょうか。──この要素を度外視するから,ラメイ島で虐殺が起こったような誤認をする計算が成り立ってしまうのです。
 東アジアの陸上国もひょっとしたら,過去のどこかでこうした蛋民との直接対決を経ているかもしれません。ただ,おそらく16C前半のVOC同様の惨憺たる泥沼戦を経験し,以後,鬼門視してきたのではないかと想像されます。
 さて,ラメイ島の「戦後」ですけど──VOCからの借受主が鄭芝龍など海上勢力だったなら,海上に逃げて(彼らの感覚的には還って)いた烏鬼番は,その配下に緩く組み入れられたと想像できます。
 ならば強制連行された人々はというと──

捕えられた全ての女性と10歳以下の男子をシンカン社に与えるが、奴隷扱いすることは認めないとする[ゼーランディア城日誌 評議会決議(日時・号数など未詳)」

 ギニアでは奴隷貿易に参画していたオランダです。かなり優遇された状態で移転していったとも読める史料です。ただ──

シンカン社の居住地(現在の台南市新市区)においてラメイ島の人々が半ば奴隷扱いされ、オランダ人もこれを黙認していたことを伺わせる記述も残されている。[ゼーランディア城日誌 1637年7月11日。他史料にも同様の記述有]

とする史料もある。
 けれど,事実として──シンカン社の指導者の中にラメイ島出身を意味するラメイヤー(Lameyer)を名乗る人物が登場するようになったとされる。その戦歴から英雄視されたか,あるいは実力でか,「奴隷」にした集団のエリート層に入りこんでいるのです。
 1645年頃の長崎オランダ商館長のピーター・アントニスゾーン・オーフルトワーテルの下僕に,ピーテル・ラメイヤー Pieter Lameyer なる人物がいたことが史料に残るという[後掲wiki]。この史料がどれなのかついに確認できなかったのですけど……史料に残るのは,相当に働きの良い「下僕」としてその後も活動したことが想像されます。
 wikiは,バタヴィアに連行され本格的な奴隷労働に酷使された烏鬼番の姿も描いており,どちらが真実なのかは定かでない。また,ラメイヤーと言えば他にポルトガルの著名なイラストレーター,フランシスコ・ラメイヤー Francisco Lameyer y Berenguer(1825〜1877年)が想起されるけれど,彼の出自が台湾に繋がる根拠は見つからない。
 ピーテル・ラメイヤーは名前だけが伝わる存在です。だから,彼が仕え,おそらく重用したと目される海人オーフルトワーテルの姿から,その活動の「海賊性」を幻視してみましょう。

オーフルトワーテルと思われるペン画
(1644年頃,オランダ国立公文書館蔵)

[人]ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル

 ピーテル・ラメイヤーが仕え,その姓を冠せられたオランダ商館長Pieter Anthonisz Overtwaterは1682年没。生年は1610年頃とされるけれど定かでない[後掲wikiland。以下同じ]。
 1640年以前は故郷のホールンで学校に勤務,商売の経験は無かったのに,1642年に出島のオランダ商館長に就任。それから1643年まで,さらに1644〜1645年までの2回,この職を務める。[wikiland原典(1)Hesselink, R.H. (2000) Gevangenen uit Nambu. Een waar geschied verhaal over de VOC in Japan, p.113]。ホールンは現ホラント州,マルケル湖に面した港町ですから(→GM.),その不思議な経歴は「ワーターフーゼン」(海の乞食団)の一味を疑わせます。
 2回目の商館長になった1644年は清朝が北京に入った年です。この年にオーフルトワーテルは江戸に参府,大目付井上政重と長時間面談の上,将軍にも面会しています。
 この行動が,実に不審です。

 一六四四年十一月二十四日、前任の商館長ヤン・ファン・エルセラックを見送り、二度目の商館長の任に就いたオーフルトワーテルは、直ちに参府の準備を行ない、十二月一日に長崎を発った。一六四五年一月四日に江戸へ到着する(……略……)江戸での用務を終えた商館長は、二月七日に江戸を離れ、三月九日に長崎へ帰着した。[後掲東京大学史料編纂所]

 如何に二度目とは言え,就任一週間で江戸へ向かい往復各一ヶ月,江戸滞在一ヶ月と三ヶ月を充てています。これは,前任商館長ヤン・ファン・エルセラックが「留守番」めいて見える。さらに,商館長の肩書を帯びて幕閣に会わせるのがVOCの目的だったように推せます。
 最終目的だったてあろう将軍拝謁は,けれども江戸滞在期間のほぼ最後頃にやっと行われます。

将軍家光への拝礼は一六四五年一月二十五日に行なわれ、その際閣老たちは、ブレスケンス号乗員の釈放が如何に特別な恩恵であるか念を押した。[後掲東京大学史料編纂所]

 ブレスケンス号事件と呼ばれるオランダ船盛岡漂着は,その前年1643(寛永20年)6月が一度目。二度目の翌7月に騙し討ち的*に捕縛されています。──オーフルトワーテルは,この時は後任に当たるヤン・ファン・エルセラックと共に江戸参府,幕閣に説明して船員釈放の成果を収めています。
*遊郭から女郎を呼んで乗組員を歓待し,油断したところを捕縛
 翌年のこの将軍御前でも,幕閣はこの「ブレスケンス号」カードを見せて優位を保とうとした訳ですけど──あまり重視されないのは,ブレスケンス号の「漂流」地が盛岡だったことです。これは公式には日本北海にあるとされた「金銀島」*探索中の遭難と説明されます。
*平戸オランダ商館職員ウィレム・フルステーヘン(後・商館長)がオランダ領東インド総督アントニオ・ヴァン・ディーメンに宛て報告した「日本の東方北緯37度半,海岸からおよそ380-390マイル」[3]にあると聞いた金銀島の情報による。
原典:[3] ウィレム・フルステーヘン、永積洋子訳 「北緯三十七度半の太平洋上にある、豊かな、金銀島で大きな宝を得、または新たな貿易を開始することについての意見書または短い提案」 『南部漂着記――南部山田浦漂着のオランダ船長コルネリス・スハープの日記』 キリシタン文化研究会〈キリシタン文化研究シリーズ 9〉、1974年9月25日、125頁。

 時系列は逆転します。以下は将軍御前に至る前の大目付レベルの「事前折衝」概要です。

一六四五年一月四日に江戸へ到着する(以上再掲)と、前任者同様大目付井上政重の屋敷に呼ばれ、東インドに於けるヨーロッパ諸国の勢力、前年南部に入港し捕縛され江戸で商館長に引き渡されたブレスケンス号乗員のその後、またタルタリアヘの再度の航海の計画の有無などについて問われた。オーフルトワーテルはタルタリア航海の補給基地ともなる南部に寄港地を置きたいと提案しようとしたが、通詞には反対され、井上もそれを黙殺した。[後掲東京大学史料編纂所]

 幕閣に「呼ばれた」と書くから穏当に読めますけど,オーフルトワーテルの前記行動は受動態のものとは思えません。彼への尋問とその要求の順序を入れ替えると,オーフルトワーテルは,VOCから江戸幕府への至急の要求を帯びていた,と見ることも可能です。
 もう一つ注目すべきは,大目付が「タルタリアヘの再度の航海」を訪ねたこと。これは,商務長を一時退いた一年間,オーフルトワーテルがタルタリア(=主に北京入り前の清朝支配域を指す)に赴いていたことを示唆します。一片石の戦い後,順治帝が北京入りしたのがこの年の9月,平戸商館長再任の3か月前です。
 オーフルトワーテルが南部の寄港地を要求したのは,金銀島への航海のためのそれではなく,「タルタリア航海の補給基地」としてです。つまり平戸から消えていた1年の間に,如何なる方法を持ってか,清朝との交易の目処を立て,清と日本との交易港として南部(≒盛岡*)を開港する企画を幕府に持ちかけた。ブレスケンス号事件はその強行,あるいはプラフだったと推測できます。
*江戸期の南部藩と思われる。藩主が南部氏だったことからの名称。居城は盛岡城なので,ブレスケンス号「標治」地と同じと捉えてよい。
 江戸幕府は清朝の息のかかった海商としてのオーフルトワーテルと「交渉」していたのです。清から見ると,VOCを仲介して日本を交易網に取り込む目論見があった。

井上は商館長の江戸滞在中さらに三度にわたって、直接あるいは用人を通じて東インド情勢、特にマカオまで来ていると噂される日本貿易再開を求めるイギリス船、イギリスとポルトガルとの関係等について詳細に聞き質し、オランダがこの船を阻止することを暗に求めたが、商館長はオランダの政体やヨーロッパの政治情勢の解説を織り交ぜつつその要求の非現実性を説明するのに腐心した。[後掲東京大学史料編纂所]

 けれど,江戸幕閣はまだ清朝の将来性を見くびっていたのか,当時,西欧の旧海上及び旧宗教勢力を一手に敵に回していたオランダに,南蛮からの防波堤の機能を求めるのみ。
 現実の東アジアの海で,ユーラシア国家・清朝の新興を見たばかりのオーフルトワーテルの言をまだ──清朝が現実の驚異として姿を現す17C後半までは,咀嚼できずにおりました。逆に言えば──大目付井上がそれでも,相当しつこく聞いたアイシンギョロ(ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ
ᡤᡳᠣᡵᠣ, 愛新覚羅)勢力の最新情報は,幕府最大の外交的難問(=世界史最大の中華帝国と如何に対峙し続けるか)の最初の雷鳴ではあったはずです。
 1648(慶安元)年=オーフルトワーテル参府の3年後に,将軍は商館長拝謁を拒否します。この拒否された商館長が,後にゼーランディア城で鄭成功と闘うフレデリック・コイエットです。

▼内部リンク▼ [発展]異質な陸上国境群の周縁に棲む海民群
(再掲)中国型世界秩序-日本型華夷観念との間における琉球王国並びに薩摩系及び福建・浙江系の海上勢力のイメージ図

迎王平安祭での燃える王船

[群]「小淡水」東港にも集った漢人

 さて,ラメイ島の烏鬼番討伐に繰り返し派遣されたオランダ船団は,本島の東港から出撃しています。ということは,ここが17Cの重要港湾であったわけで,ラメイ島虐殺関連記事内には「小淡水」とも呼ばれたのは先述のとおりです。
 東港の地形は典型的ラグーン(潟湖)。かつての台南-安平間の内海を思わせる。
 東港の廟に東隆宮がある。「王爺廟」とも呼ばれる東港最大の信仰の中心で,三年に一度,「迎王平安祭」と称する伝統行事が行われます。王爺神を迎える「王船」を建造,最終日の巡行後に浜辺で燃やして神を見送る。[後掲行きたいわん]
 厦門南方の古港・沙坡尾の「閩台送王船」と同種の祀りです。沙坡尾の場合は海上で燃やすのだけれど,この王爺の座す王船というモチーフは福建南部から台湾への移民行動と何かの意味で一体的なものらしい。

 ここまで,台南・安平の他にも北の虎尾・麻豆,そして南の東港・ラメイ島と海民が出入りしていたであろう土地が複数出てきました。福建からの海上航路は,16〜17C当初はこのようにほとんど面的に海峡両岸を結んでいたのでしょう。

オランダ船は、インドとインドネシアに設置された在外商館を行き来していたのであるが、オランダは明・清朝によって中国沿岸部の港への出入りが禁止され、対中国交易については、海禁政策の不備を突いてインドネシア諸島と密貿易を行う中国人船舶に実質物資輸送を頼ることになる。禁を破った中国人商人達は、南シナ海を取り囲む地域で交易活動を続け、明朝による密貿易撲滅の努力にもかかわらず、明代中期以後は、日本からインドネシア諸島に至る密貿易ネットワークが形成されることとなる。(略)16世紀後半には厦門近くの九竜江デルタにある月港(Yuegang、後のHaicheng 海澄)がこのような密貿易商にとっての隠れ家且つ海洋交易ネットワークの中心となった10)。[後掲堀江]
*出典10)Leonard Blussé, ‘No Boats to China. The Dutch East India Company and the Changing Pattern of the China Sea Trade, 1635-1690’,Modern Asian Studies,vol. 30,no.1(Feb., 1996), pp.51-8.

 1603年にスペインのマニラ総督府は同地の中国人居留者の反乱に際し,2万人規模とも言われる虐殺を行います。けれど当時の明朝がこれに特段の抗議じみた言動をした形跡はない。
 この点は,江戸幕府以上に冷徹です。北京は中国人の海民又は移民を,棄民と見ています。清に至っては,後期倭寇の末裔を含む彼らを「敵」とすら認識していたでしょう。
 だから,彼ら中国人移民集団は台湾先住民と一体に,当時の陸上国家勢力の外部に置き去られた人々と捉えた方が正確な理解です。
 鄭氏政権に至るまでの半世紀ほどは,台湾の少なくとも南部は大変な群雄割拠の中にありました。小説があったら読みたいほどですけど──この混沌を描くには相当な構想力が必要でしょう。
 福建から流れついた人間集団は,台湾南西岸の各所に拠点を散発的に造っていった。安平も最初はその一つに過ぎなかったでらしい。

[群]鄭氏海上勢力の実体=鄭氏五商

 鄭成功勢力と連携した海商として,史料に朧に名を表すのが「五商」です。

厦門や金門を根拠地とし、清朝と一進一退の戦いを繰り返すが、その戦費を支えたのが海外との交易であった。そのような交易の基礎となったのが、鄭氏五商と呼ばれた貿易運営組織である。鄭氏から借りた資本で交易を行い、山五商が購入した物資を海五商が海外で販売して、利益を鄭氏に渡すかたちであった。[後掲堀江]

 もちろん実態は明らかではない。金・木・水・火・土の「五行」と,仁・義・禮・智・信の「五常」に分われていたとも,堀江さんの書くように「山五商」(批發:売買組織)と「海五商」(船隊:輸送組織)に大別されたとも伝わる[後掲維基/五商]けれど,そんなに綺麗に序列立っていたとも思えない。その性格は各派が独立した系統で,互いに隷属していなかったともいう。鄭氏と直接に連携した商人勢力で,子孫会社のような組織構造は持っていなかったことは想像できます。

叛將黃梧向滿清告密,鄭成功的五商,他以「鋤五商以絕接濟」中說:「成功山海兩路各設五大商,行財射利,黨羽多至五、六十人,泉州之曾定老、伍乞娘、龔孫觀、龔妹娘等為五商領袖;近且其子弟鑽營舉人、生員,陰通犯禁百貨,漏洩內地虛實,貽害最大…」[後掲taiwanus.net]

 これは鄭氏から清に寝返った黃梧向という人が,清側に提供した情報らしい(一次史料未確定)。この密告情報が僅かに残る五商の具体的史料です。その領袖格には泉州の曾定老・伍乞娘・龔孫觀・龔妹娘といった名が連なる。
 この実働商人群とは別に,資財を管理する部門が大きく二系統あったという。国営銀行と民間銀行に当たるらしい。
 前者は「裕國庫」と称し,張恢という人が主管。文武官の給与もここから支払ったとある。土木工事などはまだなかった時期だからでしょうか。 
 後者は「利民庫」,林義さん主管。五商に1%利息での貸付を行ったとある。
──と,かなり体系的かつ機能的なのですけど,ここにもう一つ,見方によっては驚くべき機関が設けられた記録がある。

[謎編]日本長崎唐通事處は鄭成功の金庫番だったか?

 残念ながら原史料が何なのか,たどり着けてません。

鄭氏船運,出超甚多,東洋航線在回程中,少帶回程貨,大都帶回銀子(日本是知名金銀產地)。船所盈餘的錢,有一部份寄存在日本長崎唐通事處。累積數量頗多。[後掲維基/五商]

──航海に際し財貨が重いので,余剰の金銭を「長崎唐通事所」に保管した,その量はすこぶる多かった,というのです。
 維基の筆が先走ったのではなく,他の資料にも書かれてます。

因此船隊將貨品販售出洋後,回程只帶回白銀,很少換購貨品。自銀寄放在日本長崎的唐通事處。[呉密察監修「台灣史小事興 三国-荷蘭時代〜戰後」遠流出版]

 色々と謎が深い記録です。まず,なぜ長崎なのか?生まれが平戸とは言え鄭成功の勢力範囲からするとかなり北辺,しかも「鎖国」体制を強化しつつある国にです。また,清を恐れ,援兵要請は反古にした江戸幕府が,長崎通事に機関としてそんなことをさせたとは思えません。通事個人の所業でしょうか?さらに──この点が最重要かもしれないけれど,そんな微妙な国際関係の中のヤバい事実を,誰がなぜ書き残したのでしょうか?
──陰謀論を疑えば,かなり多様な想像が可能です。例えば,この鄭成功マネーの譲渡と引換えに江戸幕府が清と不可侵を約したとか,島津が運用したとか──
 あるいは,その規模が隠し難いほど巨大だったのでしょうか?

唐通事会所跡・活版伝習所跡石碑(長崎市万才町1)

五商はどこまで行ったのか?

 だから,「鄭成功が○○をした」という伝えの経済的な部分は,実際は五商のいずれかが鄭成功の看板で挙行したものが相当あると想像できます。

「五大商」は、一つの組織が大体数十人で構成されて各地に存在し、貿易だけではなく諜報活動や工作活動も行っていました。 また、貿易において、鄭氏は、貿易船に渡航許可証である「牌」というものを持たせ、これを持たない、ないしその牌の有効期限が切れている船舶に対しては、その船を拿捕して貨物を没収していました。[後掲久礼]

 五商はいわゆるカルテル又はギルドでもあったわけで,船の拿捕・貨物没収──海賊そのものの行為を行ったのは鄭成功の官警というのではなく,五商そのものてしょう。

1640年代以降には、鹿皮の取引を通じて、南部ベトナムの広南阮氏、またカンボジアを経由した形でシャムとも貿易を行っていきます。また1640年代後半以降になると、今度はシャムとの直接の貿易を大規模に展開し、さらには北部ベトナムの陳氏政権とも貿易を展開していきます。
 1650年代前半以降には、スマトラ島のパレンバンと貿易を行います。また、1660年代後半には、マレー半島の東岸にあるリゴールとも活発に貿易を行うようになります。[後掲久礼]

 五商の版図は東南アジアに及んでいたというのです。
 マレー半島のリゴールというのは,現ナコーンシータマラート(→GM.:地点)。オークヤー・セーナピモックこと山田長政を国王として興った貿易国家です[後掲wiki/リゴール王国]。ここはシャム湾の要地であるとともに,ベンガル湾を商圏に見据えることも可能な立地です。
▲(再掲)東山島(福建省東山県)海底の鄭成功船隊遺跡で発見された「鳞甲残片」

 実はこの前段階として、1654年に鄭氏は、シャムなどに加えてカンボジアやリゴールにも一度自らの貿易船を派遣しています。そこで関係をつくった上で、この1660年代に大規模な貿易を展開していきました。
また台湾鄭氏は、1665年以降、特にカンボジアにおいて活発に貿易を展開しました。1667年には、カンボジアにあったオランダ東インド会社の商館を襲撃して、商館閉鎖へと追い込んでいます。 [後掲久礼]

 これを五商の仕業と置き換えていくと,東アジアの海の覇権を争っていたのはオランダ・VOCと鄭成功・五商だった,という絵も描けてきます。ただし──

[解決編]鄭泰事件と「日本存銀」

西元1663 年五商十行的重要領導者鄭泰被鄭經殺害後,五商十行漸漸與鄭氏王朝疏離。[後掲翰林雲端學院]

 1663年というから鄭成功の死後すぐ,鄭氏二代目の地位を確かにするや否や,鄭經は五商の「領導者」(≒リーダー)だった「鄭泰」という人を殺害し,五商十行を鄭氏王朝から「分離」したとある。
 これもよく読めば微妙な書き方です。先述通りなら五商各グループは独立して鄭成功直轄だったのだから,「領導者」などいないはずです。
「鄭泰」は(1612年-1663年),鄭芝龍の甥,鄭成功の従兄弟に当たる近親者。けれど鄭成功死後の後継者争いの中で鄭経に軟禁された後,自害した,というのが多くの伝えです。[後掲維基/鄭泰(明朝),鄭泰事件]
 そこはどうせ分からない陰湿な世界でしょうけど,この鄭泰と先の「長崎金庫」が密接に繋がっていたらしい。

鄭成功北伐失敗之後,鄭泰對明鄭事業失去信心,開始把資金匯到日本,以備萬一,寄存在日本長崎唐通事辦事處。(根據郭弘斌著的《台灣人的台灣史》,寄銀總共307,032兩3錢4分,亦即丁銀3,070貫323匁4分。然而《閩海紀要》所記載的這個數據是40萬。)這件事鄭成功、鄭經父子都不知道。一直到鄭泰死後,鄭經派人細查帳冊才發現。[後掲維基/鄭泰 (明朝)/日本存銀]

 時点は鄭成功北伐後。万一に備えて「日本長崎唐通事辦事處」(長崎の唐通事の事務所)に保管せしめた金銭は30〜40万両,銀三千貫,現代に換算して90〜120億円相当。
*当時の1両(テール)が約3万円[後掲yahoo知恵袋]
 面白いのは,この資金を鄭成功も鄭経も知らず,鄭泰死後にその帳簿を調査して判明したとされていることです。
 この財を巡り,1663(明:永曆17・清:康熙2・日:寬文3)年以降,鄭経側と鄭泰遺族がいずれも長崎に返還を求めます。長崎は1674年になって鄭泰遺族への返還を決定したけれど,三藩の乱の発生により北京に居た遺族が日本へ受領に来れないので,一転して鄭経へ一時譲渡することにしてます。けれども──

1675年,鄭經派員往日本拿回存銀。原本的30萬兩白銀,日本扣開支銷(部分是因為1663年的一場大火燒黑或燒鎔成塊),只發回26萬。
這一項索回寄銀的事件,前後12年,鄭經方面派人交涉4次,鄭泰遺族則有6次。[後掲維基]

 1675年に鄭経の使いが長崎へ来ると,長崎はこの財を差し押さえ,26万両(85〜65%)しか渡さなかったという。そのため以後12年に鄭経から四度,鄭泰遺族からは六度の交渉が行われています。
「埋蔵金」めいたトンデモ伝説かと思いきや,維基の出典を辿ると確かに史書に記述がある。

295 乙卯、十四年(明永歷二十九年)(略)
314 十一月,鄭經遣龔淳取回日本銀。
315 故戶官鄭泰所寄也。泰先事芝龍,隆武立,加宮傅;成功起兵,以為居守戶官。有心計,善理財,積貲百餘萬;別以四十萬寄日本國,以備不虞。癸卯泰死,弟鳴駿來降,使人往取;適鄭經亦遣蔡政至,力爭之;倭首居奇,乃兩不聽載還。至是,經入泉州,而泰原委寄銀之人龔淳持獻勘合,乃令淳往取;倭人混開支銷,僅得二十六萬而回。
 [後掲中國哲學書電子化計劃「閩海紀要」*
*夏琳著。明末清初]

 ここには鄭泰が,総資産百万両(300億円)余のうちから長崎に保管したとされます。3〜4割です。
 長崎側史料にはこの資金の存在はおろか,経緯やその後の北京と台湾の両鄭氏との交渉も記述が見つからない。だからやはり,この資金が交易の基本資本のような運用がされたものなのか,単に眠っていた蓄財なのかは判然としません。
 この後紹介するゼーランディア城横領金と,金額が妙に近いことも引っかかります。ゼーランディア城から奪取した「隠し財源」のようなものがあった可能性はあります。

[人]悪人ピンクワ 何廷斌

そこで同会社(引用者注:VOC)が注目したのが、台湾南西部、今日の台南にあった砂嘴であり、そこに彼等は営舎(後にゼーランディア砦と称された要塞)を建設する。この砂嘴はこれまで中国や日本の密輸者達が取引に使っていたところで、明朝の管轄地の外に位置していた13)。 [後掲堀江]
*出典13)Blussé,‘No Boats to China.’, pp.59-61.
10)Leonard Blussé, ‘No Boats to China. The Dutch East India Company and the Changing Pattern of the China Sea Trade,1635-1690’,Modern Asian Studies,vol.30, no.1 (Feb.,1996)

 おそらくは澎湖島やラメイ島と同様,陸上国家の統制外の海上交易の結節点として,安平は歴史に見出されていきました。
 さて以下は,堀江論文中の鄭成功来襲部ですけど,注釈を先にご紹介します。

43) 在台湾漢人の頭領の1人であったピンクワは、鄭氏の代理人となって漢族商人からの輸出品に課税した問題が発覚(代理課税問題である所謂ピンクワ事件)、ピンクワはあらゆる特権と名誉を剥奪された後厦門に逃亡し、やがて鄭軍の台湾侵攻の指南役となる。『台湾外記』によれば、ピンクワは台湾行政長官コイエットの公金数十万両を横領したので、長官の追及を恐れ、厦門に逃亡し鄭氏側に身を寄せたとある。林田芳雄『蘭領台湾史』251-8頁。[後掲堀江 注]

 漢人ピンクワは台南の顔的存在で,鄭氏の徴税代理人の権利を得ている。この事とオランダからの公金横領の関係がどうも分からないけれど,横領金を携え厦門に逃亡した「悪人」です。
「数十万両」は先のレート(1両(テール)≒約3万円)とすると約百億円。
 日本語では他の史料がヒットしないのですけど,中国語では完全に鄭成功の経済的先制攻撃の先兵だったように書かれます。
▲(再掲)オランダ兵士が描いた鄭成功-オランダ戦闘スケッチの中の「鉄甲部隊」

何廷斌回到台湾后,按郑成功的指示,秘密开展活动。他征收船税,并给船户发放郑氏税收执照,每年为郑氏代征税银达18000余两。此外,还代征从台湾出口的鹿皮、砂糖、鱼虾等货物的关税,为郑军提供大量军饷。永历十三年,何廷斌的征税活动被荷兰殖民者发现,荷兰殖民者将他解职,以“侵吞王银”罪下令通缉他,没收其在台湾的家产。他决计离台投奔郑成功。密遣手下通事郭平化装成渔翁,实地探测从鹿耳门到赤嵌城的水道,绘成海图。[後掲名人简历]

 この記事では年間18千両(≒5億円)の他に軍需物資を,鄭成功に送り続けたことになっています。──ただまあ,そんな良い海賊はいないでしょうから,もっと遥かにオランダからたんまり汁を吸いつつ,当時の海上独占支配者にも十分な献金をしていたのでしょう。
 また後掲名人简历では部下に「装成渔翁,实地探测鹿耳门到赤嵌城的水道,绘成海图」──漁師に扮して鹿耳门から赤嵌城までの実測を行い,海図に落として──厦門に逃れた後,これを鄭成功に献じたことになっています。──実際には,こうした資料に加え,水先案内人としての経験値を鄭軍は宛てにしたでしょう。

鄭成功のゼーランディア城来襲図

 1662年にはマニラで中国人が再度虐殺されており,この原因も鄭氏勢力を手引きしようとした中国人を抑えようとしたものという[後掲久礼]。東シナ海各地に鄭成功を待つ中国人居留民がいたと考えられます。
 ともかくも,かくして鄭成功は台南に襲来します。

61年4月30日、突如海上に現れた鄭軍船団にオランダ守備隊は驚愕する。『バタヴィア城日誌』はその状況を、「朝九時頃四百より少なからざるジャンク船、ワンカン船およびさらに小なる船、北方より来航せり。右の船は皆兵士を満載し、聞くところによればその名を知られたる中国人ピンクワ(斌官、ピンクワの漢字名は何廷斌)これを率いて官人国姓爺が中国より派遣したるものなり43)。しかしてさらに六百艘のジャンク船、後より来たる由伝えられたり。右の艦隊がタイオワンの北の錨地に近づくや、約百艘各百人または二百人の兵士乗り込みて、まず北線尾に上陸せり。」と描写している44)。[後掲堀江]
*原典44) 村上直次郎訳注、中村孝志校注『バタヴィア城日誌3』224頁

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