(@_62_@) 初日&首頁@台湾/再六訪 大風起兮(@_62_@)

▲萌えポスト
「台風13号の強風で落下した看板の重みで傾いたポストが大人気となり、現場の混雑のため移転されることが決まった。多くの人が記念撮影に押し掛け、11日には台湾セブン-イレブンのマスコットキャラクター、OPENちゃん(左)なども訪れた。」
※ TAIWAN TODAY/台風で傾いた「萌えポスト」、13日に一時撤去し移転 2015/08

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■ 目次・リンク集 ■

1005福岡→台北(泊):1 天津路まで


1006台北→基隆(泊):(基隆)1 基金公路まで→2 百年防空洞まで→3 昼の基隆夜市 4 寿山→5 夜の基隆夜市 6 コネタ集


 変な日本語side-A side-B


1007基隆→台北(泊):(基隆)1 南営路→2 基隆離脱
 (台北)3 西門→4 中崙市場
 (中壢)5 市内 6 夜市
 (台北)7 師大夜市 8 夜の西門


1008台北→福岡:(台北)1 祖師廟まで→2 祖師廟から→3 華西街(表) →4 華西街(裏)


外伝6台湾トップ ※space box
嘉義編本編トップ ※fc2
■小レポリンク集:GaKu-Den(楽田麺包屋)と台北のパン屋基隆と台湾の変貌平埔族から考える「民族」概念
日台両松山駅の交流漢数字+「堵」地名の謎銘酒・黒白切と謎の台湾茹で肉文化
実施された空襲と今後あるかもしれない空襲基隆の地味な歩き方
台湾のきらびやかな福建神廟台湾二・二八の君が代どのアプリでも漢字が書けない[金鼎]邊趖ドス赤い肉と魚
信二路と旧基隆神社楽しい基隆中元祭19世紀後半・基隆:何が起こったのか?
基隆市立仁愛小学校の125年コーツソン・オールドハウス
扶旺さんの鉄板
台湾の土地公信仰中崙市場のガチョウ・ハムとは?
林默娘=西門媽祖は日本人に祟らないのか?問題西門への托卵,よみ孵る媽祖
清水祖師は誰なんだ?撤去後60年を経た艋舺水仙宮

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原文:大風起兮雲飛揚
読み下し:大風起って 雲飛揚す
現代語訳:
激しい風が起こって、雲が舞い上がった。
(そのように戦乱が起こったが、ようやく平定することができた)
作者:漢高祖劉邦(大風歌)
[前日日計]
支出1500/収入1200
     /負債 300
[前日累計]
     /負債 831
§
→十月五日(五)

1204正福
焼き魚定食(さごし,あら汁,那須味噌ミニ)550
2000機内食500
2240総合鱿魚[火庚](不要麺)200
[前日日計]
支出1500/収入1250
     /負債 250
[前日累計]
     /負債1081
§
→十月六日(六)


久しぶりの台湾は,前から行きたかった港の町・基隆を目指しました。

鄭成功 今一度の蓬莱島

▲出発地福岡の名店・正福にて本日の焼き魚定食

岡国際空港のイミグレを抜けて右側,いつものスタバへ,いつものエスプレッソに立ち寄る。1744。
 さっき,これもいつものTravelexで台湾ドルを入手したら,日本円の手持ちが丁度5千円札と11円になってしまった。つまり小銭がない。でも日本円の重量は増やしたくない。微かに悩んでたら「WAONも使えますよ」とのこと。え?スタバってWAON使えるようになったの?と訊くとつい最近かららしい。
 このスタバ,つくづく助かるなあ。

▲その日の機内にあった台湾のスポーツ新聞。「米祭台海軍演出」──米軍,台湾海軍と合同軍事演習

京で卤味(外伝17蓬莱編-115東四北大街の卤煮店)に変な出会い方をしてから,導かれるように迎え旅に選んでしまった台湾です。
 丁度台風が,現在出発待ちしてる福岡と台湾島の間にあるはずなんだけど,どうやら飛ぶらしい。なので,席は右手窓側をキープ。久しぶりに台風を見下ろせるかもしれない。
 鄭成功が夢を託したもう一つの蓬莱島であります。そういう意味では蓬莱編からの繋ぎとしてもお後が宜しいかもしれませんです。

▲台北桃園空港で初めて見た広告「探索台湾10島」

039,台北桃園空港イミグレ行列。
 結構並んでるけど,50人の折り返しが2つと少し。台風様々なのか大したことはない。早さもタイ並みのようなので,降りたらちょうどバゲッジがというタイミングでしょう。
 指紋登録は両手人差し指。両手全指の大陸とはまだまだ違う。
 WiFiは,AirportFreeWiFiというのが繋がる。けど他のノーパス3本は全て登録できない。

日式台灣鐵路路線圖

▲MRT内の妊婦優先車両

園机場捷運,略称「航空MRT」を初利用する。
「中壢」という凄い漢字の車站(駅)を始発。高鉄桃園站を経て空港ターミナル(机場航厦),台北車站まで全24駅。
 ──と書いてるから,まさかその始発駅中壢へ今回行くとは思ってなかった。
 うちこの第二T(ターミナル)からは12駅,丁度中間です。ただし,中壢手前の2駅はまだ通じてないような書き方がしてある。
 2120,乗車。
 第一Tからこちらは地上を走ってる。ただし暗くて何も見えん。
 人の顔つきが柔らかい。刺がない。同じ漢民族とは思えない。

▲親子友善区?

の航空MRTってどこを走ってるんだろ?──と台北広域の鉄道網を検索してたら,凄いマップにたどり着いた。
※ 台北周辺の鉄道路線図 :47rail.jpの最下部「台湾」からDL可。「『日式台灣鐵路路線圖』が台湾の日系企業で採用されました(2018.6)」と同サイトも紹介してる。
 便利です!Googleマップのない時代の台湾旅行を思い出すと,まさに夢のようでした。
 台北広域の北端・淡水や九份も,南端・猫空も行った。でも西端と東端は?幸い,このマップがあれば台北の地下鉄網の延長で行けるはずなんである!
 イメージを膨らましてるうちに2205,45分経過。三重站に着く。ここからも市内MRTに接続してる。けどどっちが速いんだろ?地下鉄駅の数だけから考えると危険か──このまま行こう。
 2211台北站到着。50分か…。まあ確かにタクシーとほぼ同じ時間ではある。
 駅に降りて時刻表見て気づいたけど──あ。直達列車ってのが別にあるんやね。機能から考えれば,まあ当たり前か。

▲台北車站と台北地鉄站の位置関係マップ

定してなかったけど,航空MRTの台北站から淡水線の同駅までは結構遠かった。台北站の地下構造は前から割と複雑だったけど,この新MRTが出来てさらに磨きがかかった感じです。
 例えば,北門側へは西側から上がらんと行けないようです。

スペシャル・スルメイカ・スープ!

▲中山北路の夜のバス停

水線にて中山站に着いたのは2228。
 2233,地上へ出る。おおっ?新光三越の東にセブンなんてあったっけ?
 華やぎは一層増してる感じでした。

▲台北・一風堂の99元メニュー

宿,という訳じゃないけど,とりあえず一泊目,という際にはやはりここが利用しやすい。
 予約入れてた天津大飯店を前にして,ちょっと気になるファーストフードめいた店がまだ開店してたので,立ち寄っておく。
 なのでここの,1.5倍ラーメンみたいなカップをナイロン袋にをぶら下げてのチェックインとなりました。

▲初食!晩御飯

240総合鱿魚[火庚](不要麺)200
 このよく分からないスープは,正直まだ一度しか食べたことはありません。「鱿魚」はジンドウイカとかスルメイカのことらしい。でもそれの「総合」なんだから「スペシャル」みたいなもんで,結局「色々入ったイカスープ」みたいなもんだろう。
 とろみを帯びた汁に魚つみれ,イカゲソ,皮の唐揚げが混入。香菜はシェンツァイともやし,少量のニンニクというところか。調味は醤もおるけどやはり漢方っぽい微かな臭み。
 つみれから出てるわけじゃないだろうに,汁が美味い。メチャクチャに旨い。和食の出汁よりやはり一層上,つまり香りに近いけれど,いわゆる香りよりは一層下…という北京,天津,それから福州に共通する深度だと思う。魚系の自然な出汁が複雑に絡んだものが,地になってるらしき漢方的臭みの上に彩られてる。
 淡い味覚なのにしっかりしてる。山東で覚えた生ニンニク食をやると──何と不思議なマッチング!
 かなり確信されてきた。山東や福建に生きた化石的に残ったのが,あれが中華料理の原文化なんだと感じる。台湾には福建ルートだろうけど,それがベースにあるんでしょう。

ケダガラン,ケーラン,キールン

▲朝の天津路

初,東へ動くことに決めた。
 Googleマップでオフライン地図をダウンロードする。大陸では全くできなかったこの作業が,この島ではスルッと出来ました。
 DLした地図は,基隆。
 翌0745,退房。

▲台北にもシェアサイクルはあるらしい。ただ,大陸ほどノワッと多量に転がってはいない。

埔族という台湾先住民の種族がある(→巻末:wiki抽出)。自身の発音では「ケタガラン」族(→巻末小レポ:平埔族)と発音する。
 漢族が増えるとこの「ケダガラン」に
台湾語音が当てられ,漢字の「鶏籠」又は「雞籠」と表記し始める。発音は「ケーラン」に近いようです。
 この音に,清朝の支配が及んだ時代になって「基地昇隆」を略した「基隆」名が充てられ,漢字音の「キールン」となった,というのが今のところ定説らしい。ただ,今でも台湾人は「ケーラン」名で呼ぶらしい。

▲南京東路の小景だけど…後方の「防腐剤禁入」広告は何を言いたいんだ?

地昇隆」と名付けるからには,基地としての役目を負った場所だったわけです。
 1626年,スペイン勢力が湾口を押さえる現・和平島(→GM.)を占領,サン・サルバドル城を築く。この砦は,オランダに獲られた後,さらに1668年,明朝残存勢力にして世界史最大勢力を誇った大海賊・鄭成功の子たる鄭経の支配下に入る。
 明朝滅亡は1644年。鄭成功の台南・ゼーランディア城占領が1661年。清朝がここを陥したのは1683年。近松門左衛門作の人形浄瑠璃・国性爺合戦の初版は1715年。
 けれど,いずれの過程でも,基隆が軍事拠点として名を出すことはない。この時代には,この町はまだそれほど意味を持った土地ではなく,港湾としても淡水の方が知られていたようです。

▲地下鉄の券売機。これだけ言語が選べる。

隆が経済的に存在感を持つのは,従って日帝併合後のことです。
 1885年の下関条約で日清戦争の賠償として台湾が割譲されてから,日本陸軍を中心とする占領政策主体は,台湾縦貫鉄道の敷設とその拠点となる基隆港の整備を進める。スペイン時代に城堀代わりだった浅く岩礁の多い港は,一挙に一万トンクラスのコンテナが着岸する近代港湾に変貌する。これは南側の高雄も同じらしい。
「台湾は日本に感謝してる」論者が引用したくなる一例だけど,政略的に言えば明らかな浮沈空母化です。だから当然,終戦時までに基隆も含めて相当酷い空襲があったらしい。──けれどその後に支配階級になって恐怖政治を敷いた中華民国勢力が戦勝国側,つまり空襲した側だったために,民間伝承以外,ほとんど記録が残っていないようです。

▲松山駅のパン屋

んなこんなを今さら調べつつ,地下鉄にて松山駅へ。ここから国鉄に乗り換えて一路,東の方,基隆へ向かいました。
 国鉄は久しぶりでしたけど,このローカル感,日本の鉄ちゃんには是非堪能してほしい。ホントいいですよ。

■未開拓宣言:GaKu-Den(楽田麺包屋)と台北のパン屋

 …いや,別に宣言しなくてもいーんだけど,これは盲点でした。
 どうも最近,台北のパンが旨くなった!?というネット上の声が多いみたい。
 どう旨いのか?──というと髭パンがどうこうとか,それは香港パンだろ?と言いたくなるような評価が書いてあってどうも分からない。やはり自分で喰わなければ!と心に決めたので,次回用にメモってる次第。
 ただ,香港,韓国があれだけの独自の進化を遂げてるんだから,台湾で出てきても全く不思議はないわけで──。
※ 台北ストーリー 夫婦2人で2か月暮らす/西門町の美味しいパン屋『楽田麺包屋』
場所→GM.
 食べログ→樂田麺包屋 衡陽店(GAKUDEN)
※ こんにちは!台湾生活/台湾のパンは実は美味しい!おすすめパン屋を一挙公開

■資料集:基隆と台湾の変貌

 大陸での清朝早創期の残明勢力掃討戦の凄まじさを,揚州,北京,四川と聞いてきてたから,最後まで残った鄭氏台湾も?と予期してたんですけど,ここの最後はほぼ内部崩壊だったらしい。考えてみれば海賊勢力だから,決して地場の支援や愛着で戦ってたわけじゃない。(資料グループ1)
 代わりに見えてくるのは2点。
 清朝も領土として台湾が欲しかったわけじゃないから,かなり適当に行政してきてた。──現在,清正史編纂に乗り出してる大陸政府は,相当この点の「解釈」に苦労してるみたいです。(資料グループ2)
 もう一つは,ならば基隆を世界史に浮上させたのは?,と言えばやはり日帝によって,です。ただ,軍事拠点としての観点が主。現代のアメリカにとっての沖縄みたいな存在だったのでしょう。──奇しくも台湾は,元々「小琉球」,つまり沖縄の一部と大陸からは言われてました。(資料グループ3)
 だから,この台湾の位置づけ論は,物凄く多彩な立場があり,それぞれ政治色を帯びてて,純・知識的に紐解くのが厄介です。どれを読むにも注意が必要です。ただ,とにかく止めてほしいのは,そんな諸説の尻車に乗って「台湾は日本だった!」的に騒ぐことです。
 ──個人的な見解で言えば,台湾のプロトタイプは,海民という東アジアの海域に歴然と存在し続けながら性格的に史書にほぼ記名されない大集団,これだと思ってます。倭寇だってそうだし,鄭成功だってその一角でしょう。奴らは,陸のどの国にも属してなんかいない。何にも属さないから海民だ,とすら言えると考えてます。
▲鄭氏勢力域(赤:占領地,橙:影響地。出典不詳)
(1) 清朝と鄭氏台湾関係
※ 世界の歴史8 アジア専制帝国/11 台湾の鄭氏政権
「中国では、明代の後期である。日本は戦国時代である。
 そして明朝は、依然として民間の貿易を禁止している。
 そこで海上に出てはたらこうとすれば、どうしても密貿易にならざるをえない。
 南海や日本にまで出かけていって、交易をいとなみ、巨利を博そうとする。
 日本からも、命しらずの荒武者が出かけてゆく。
 しかも密貿易であるから、みつかれば取締りをうける。
 これに対抗するには、武力をもたねばならぬ。こうして倭寇(わかん)とよばれる海賊の登場となった。
 ただし倭寇とよばれても、このころの倭寇には、むしろ日本人はすくなかった。
 大部分が中国人で、その人びとにとって、もっとも安全な根拠地が台湾であった。」
※ wiki/鄭氏政権 (台湾)
「政権は台湾における最初の漢人政権であり、また台湾独自の政権としての地位を確立し、オランダ勢力を駆逐した後は兵糧問題を解決するために屯田政策を積極的に推進した。鄭成功は武将の陳永華の建議を採用し、中央集権的な官制を制定し台湾全島を統括する「主権」を確立する。実際イギリスや江戸幕府は東寧を独立国家として貿易を行い、東インド会社と鄭氏政権の間には通商条約も締結されている。イギリス側史料では鄭氏政権を「台湾王国」あるいは「フォルモサ王国」として表記し、鄭経に宛てた上書では「陛下 (Your Majesty)」との呼称が使用されている」
※ 高木元/鄭成功の<物語>
「三つの国に於いて、それぞれ鄭成功を顕彰し祀り続けているという現象は、第二次世界大戦後のギクシャクした隣国間の相互関係の実情から考えるに、頗る奇妙な現象であるといわざるを得ない。」
「(鄭成功は)寛永元(一六二四=天啓四)年七月十四日(同月十五日とも、二十三日とも)に日本の平戸で生まれ、幼名福松、中国名森、字は明儼、号は大木、諡は忠節。父は明の亡命遺臣である鄭芝龍、母は田川七左衛門の娘であった。」
※ MAG2NEWS/台湾人が提示する、中国が台湾を「日本の一部」と見なしていた証拠
「台湾が倭寇の根拠地だったことは、「寇民遁れて海に入りて台湾の地に向かう」(嘉靖42年、正親町天皇の永禄6〈1563〉年)という、明代の記録からも分かる。」
「慶長13年、徳川家康は日本に漂着した台湾のアミ族を駿河で引見した。このことは、『パンチア国人と今』という書物に記録されている。台湾に興味を持った家康は、その翌年、有馬晴信に台湾探険を命じる。
家康の命を受けた有馬晴信は、(略)通商を試みたが、結果は失敗に終わる。元和元(1615)年、今度は長崎代官・村山等安が高山国の朱印状を得ることができた。(略)台湾占有を狙ったのだが、有力な後援を得られずにこれまた失敗した。」

(2) 清朝の台湾統治
※ wiki/清朝統治時代 (台湾)
「漢人は番界に土地を借り開拓は続き徐々に原住民の生活域は圧迫され、その度に番界は策定しなおされたが、台湾本島における清朝の統治範囲は島内全域におよぶことはなかった。なお、現在、中華民国政府と中華人民共和国は、清朝が台湾のみでなく釣魚島(尖閣諸島)にも主権が及んでいたと主張している。
 1786年11月に中部の彰化県で、天地会の会員数名が逮捕されたことを発端として暴動が発生し、県知事を含め官吏の多くが殺害された。首謀者の名をとって林爽文反乱と呼ばれるこの事件は、翌年12月に大陸から鎮定軍が派遣され1788年に終息したが、事件を契機として台湾周辺に組織的な海賊が横行するようになった。」
「一九世紀前半には「一府二鹿三艋舺」と呼ばれるほど、台南府・彰化の港・艋舺の三大港を中心とした繁栄が見られ、林本源や陳中和などが土着した商人資本の代表だった。1885年には台湾省を置き、三府一直隷州六庁一一県の設置となった。アヘン戦争などを機に貿易港として指定された基隆、打狗(日本領有後に高雄と改称)港を中心として発展した(原田 2007)。」
「1805年には福建省の海賊蔡牽が淡水を襲撃して「鎮海威武王」を号し、翌1806年には匪賊と呼応して台湾府城を包囲する擾乱事件が起きている。」
「清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。」
※ NEWSWEEK/パメラ・カイル・クロスリー(ダートマス大学教授)習近平が仕掛ける「清朝」歴史戦争 2019年2月
「共産党があらゆる経済的・軍事的攻勢を正当化する口実に使う「屈辱の世紀」(おおむね1842年の南京条約から1949年の中華人民共和国建国まで)という概念は、国民党による「清の失敗の物語」に由来する。儒教は中国の伝統の核心だという習の主張も、同様に従来の共産党の主張とは異なっている」
「特にアメリカの歴史家は、清を世界的に傑出した「征服帝国」と位置付け、(略)中国征服前から既にかなりの規模の帝国であり、満州を統治し、モンゴル東部と朝鮮半島を影響下に置いていたと、彼らは指摘した。さらに中国征服後も発祥の地・満州の痕跡を色濃く残していたと主張した。清帝国が征服を通じて明の2倍の大きさに成長した事実も、アメリカの歴史家は強調した。」
「習は征服史の代わりに巨大な文化・経済大国という新たな清のイメージを掲げ、その魅力ゆえにモンゴル、チベット、中央アジア、台湾の住民は喜んで帝国に服従したのだと主張した。」
「清の最大版図は自然かつ平和裏に実現したという見方は、現在の中国が南シナ海、台湾、チベット、新疆の領有権を主張する根拠となっている。」
「共産党が習の歴史観を受け入れさせたい相手は外国人の歴史家や外交官ではない。中国国民だ。中国の「伝統」を重視する習の姿勢に合わせて、「ニヒリズム」批判は激化している。」
※ MAG2NEWS/台湾人が提示する、中国が台湾を「日本の一部」と見なしていた証拠(再掲)
「18世紀、乾隆帝時代の清国で完成された官定の正史『明史』には、台湾北部の鶏篭国(高山国)は「外国列伝」のなかで紹介され、「日本に属する」とも記されている。」

(3) 日本帝国の台湾経営と基隆関係
※ 基隆市政府HP/歴史沿革
「1895年、日本人が台湾を占領した一年目、基隆港では積極的に五期におよぶ築港工事が計画され進められました。」
「1916年、基隆港の貿易額はすでに淡水を超え、さらに一度は高雄港までもを超えて、台湾で最も主要な商業港となりました。 
1924年より1931年にかけて、基隆は「市」に昇格し、当時の台湾における第四の大都市となりました。 」
「海軍基地としての地位から、対戦末期において攻撃の矢面に立ち、米軍爆撃の主要標的となり、港はほぼ廃墟と化しました。 」
※ アジ歴グロッサリー/基隆築港調査委員
「台湾基隆での築港を目的として編制された調査機関である。日清戦争後、台湾駐屯を進めるため、陸軍省は台湾縦貫鉄道の建設と基隆築港を起案した。」
※ 月刊『な~るほど・ザ・台湾』/「台北大空襲」(下)「埋もれかけた歴史」 戦後70年特別企画
「全島十一市制施行地中、都市ノ機能ヲ喪失セルハ基隆、新竹、嘉義、台南、高雄ノ五市、同半減セルハ彰化、屏東、宜蘭、花蓮港ノ四市、同三分ノ一ヲ減ゼルハ台北市ニシテ僅ニ保持シタルハ台中市ノミニ過ギズ……」

■小レポ:平埔族から考える「民族」概念

 本文中には平埔族=ケタガラン族みたいな簡単な図式で書いたけれど,実はこれが,本当は,というより全然そんな簡単なもんじゃない。
 台湾に元々住んでたオーストロネシア系の人々は,当然平地にも住んでた。漢民族が増え,彼らは平地に住み,先住民に漢化を要求したから,オーストロネシア系は要求を拒み山間に逃げるか,要求通り漢化するか,もしくは絶望的に戦うか,その三択しかなかった。要するに「平埔族」とは「平地に住む先住民」,つまり要求を呑んだ集団です。── 大陸中国の越族を連想します。
 彼らは静かに漢民族に溶け込もうとしたけれど,漢民族は,呑んだ後にも区別あるいは差別をし,ために「平埔族」が生まれた。
 歴史を辿ると,これは相当酷い話です。台湾で何度か起きた反乱では,漢族側に付いた平埔族もある。つまり,漢化前の同族と殺し合った。そこまでして漢化したのである。
 彼らはごく最近になって,「民族」としてのアイデンティティを強く持ち始める。これまでそれを持つ事が許されなかったからです。
 こうして非常にナイーブな「民族」問題が,今の台湾に生まれてる。
 台湾の凄いとこは,この問題を中央研究院という政府所属シンクタンク(→HP)が「Category Archives: 平埔文化專題」というのを特設して,本気で純・知的に解決に取り組んでるところです。これは称賛に値する。少なくとも誠実です。──日本なら「差別論」の枠内,つまり政治的又は倫理的な問題に特化してしまうところでしょう。
▲2014年の原住民認定を求める平埔族のデモ
※ exite news/台湾の平地先住民「平埔族」 政府の公認求める 2014年7月
※ wiki/平埔族
「中国国民党が台湾を支配した後は、再び漢化政策が行われ、エスニックグループとしての意識が希薄化し、また政府も原住民として認定しなかった。
 民主化後、エスニックグループに関する研究が盛んになると、社会や学会などの注目を集めるようになった。現在、サオ族とクバラン族のみが政府から原住民族としての認定を受けている。その他にもケタガラン族など、認定を受けていないグループが多い。」
※ wiki/パゼッヘ族
「パゼッヘ族(Pazeh、中国語:巴宰族、巴則海族)」
「1699年には岸裡社が清朝に協力し呑霄社の叛乱に後見している(呑霄社事件)。」
※ 原住民族委員会/平埔族群(中国語)
「因此,由伊能嘉矩、粟野傳之丞首開其端,在大分類上延續清代的「高山」、「平埔」兩個範疇,其下劃出的族群將近二十支。
    平埔族群的分類,各家學者甚有出入,普遍來說,大致可分為:噶瑪蘭(Kavalan)、凱達格蘭(Ketagalan)、道卡斯(Taokas)、巴宰(Pazeh)、拍瀑拉(Papora)、巴布薩(Babuza)、洪雅(Hoanya)、西拉雅(Siraya)、馬卡道(Makatau)」