m19Dm第二十三波m妈祖廟の暗き棺に始まれりm5台南天后

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

古神参道とペインティングの交感

▲1759民族路三段……を撮ってるとバイクが眼前を疾走

族路三段を東行しました。
 既に夜がおりてきております。まだ駅前は遠いんですけど……なぜかこの町は,以前も同じ安心感がある。迷う気がしない。

▲1800龍も来る?娯楽場──おそらく賭博場

西門路の南東にも開基武廟──とかメモしてるから,五條港(前頁∶古運河=舊運河+支流「五條港」)終点のこの宮を認知してません。
 このロータリー南東からなぜか「典祀大天后宮」との看板。辿ってみる。──と続けてメモってるから,この媽祖宮すら偶然に通りすがっただけでした。
▲1802路地奥への入口

美街125巷だと思います。
 上の写真の入口辺りから,既に異様な紋様が目に入ります。最初はやんちゃな落書きと思っておったけど──
▲1807闇と植物と家屋に混交して独特のイラストなのです。

れ,かなりすごくね?
 西門町塗鴉街(→m101m第十波mm晋徳宮/台北アートな路地裏を行く)に似てる。けれども,この台南の路地裏の感じ,何より古神の参道沿いの風景との渾然一体感は,台南でなければ有り得ないのでは?
*台南の人気ストリート④ 新美街・個性的なストリートアートが撮影スポットに! | ギュッと台湾
URL:https://www.google.com/amp/s/flying-tenten.com/xinmei-street/%3famp=1

これなんか凄すぎるぞ!

んな壁に見とれていたくても,現実の旅行者としては……この道,異様に交通量が多い。特にバイクがこの2mもない道を爆走していく。この暗がりの中を,です。──夜中にアートを見に行く人,轢かれないようお気をつけを。

天后の七鯤洋へやってきた

▲1808天后宮前辺りにて

809,ふと気付くと着いていた。台南天后宮。
 路地にポワンと現れるようなお宮です。
 正面匾額はやはり「天上聖母」。
 縦書きの対聯は何と9本。右から

天錫祐群黎欽母徳赫濯神霊分寳島
天帝冊封妃功著三臺澤霑赤崁
后人薺仰聖恩覃四海徳被蒼生
聖徳仰崔巍桐邑萬家同霑雨露
天道本無私護海安瀾宮殿巧彫雙鳳闕
后慈知有頼庇民衛國觚棱雄對七鯤洋
母恩瞻浩荡嵌城一角永壮觚棱
天本無乎仁賴千戴安瀾鯨鲵遠遁
后之聖救萬民出險砥柱中流
后来蘇萬頼仰慈恩輝煌聖蹟溯湄洲

▲1830正面媽祖祭壇

に面白い対聯です。
 句の数が奇数なのです。前半五句は文字数がシンメトリーになってる(16-13-13-16字)のに,後半四句の文字数はガタガタです(16-13-14-25字)。
 そこでこの後半に注目しましょう。
 この部分の最初,六句目に「七鯤洋」(一〜七鯤身∶安平城とそこからの砂州あるいは海域)に対する天后の遷化,つまり修飾をはらえば攻撃が綴られます。
「觚棱」が六句目と七句目に重なる。技術的には下手ですけど,これは「出っ張り」「片隅」を意味する。七句目「嵌城」になぜ「赤」が付かないのか分からないけれど,赤崁しか考えにくいから,安平から赤崁(≒城内)への視点の推移を表します。
 異様に長い最終句は,文学を無視して,つまり政治的に入れられた可能性がある。ここの主旨は「湄洲」が本来地なのだ,という点です。巻末で深読みします。

お供えはダイオキシンに留意して

▲1833祈る台湾人と名刺入れ(?)

輿状になった祭壇も残ります。これで町を練り歩いてたんでしょうか。
 祭壇手前はパティオ構造でロの字。かなり大きい。

▲1845祭壇手前の窪み

の祭壇前には元々池があったような窪みがあります。海の象徴として水を入れていたのでしょうか(最新学説:巻末参照→2005毛紹周)。
 祭壇手前に,やはり「平安米」が置かれる(→2頁前:開台天后)。
*紙銭を燃やす(=あの世に金銭を届ける)のが環境悪化(ダイオキシン?)に繋がるとして台湾市民政局が米に代えて,お供え後に食べるように誘導しており,旧来の伝統かどうかは疑問がある。

▲1835ところで誰だお前は?

手は四海龍王。右手は水仙尊王。(いずれも「難民」の神様:巻末参照)
 裏には三官大帝*。
*三元そのものが三官を意味し,三官大帝を三元大帝と言い換えることも。民間伝では,天官は福を賜い,地官は罪を赦し,水官は厄を解く。後世では,上元は天官の,中元は地官の,下元は水官の誕生日とされる。
 それぞれかなり古い台湾民間信仰神です。

台湾最古の媽祖に接する無謀

▲1836後殿(聖父母廳)には媽祖タッチの像が何体も

こはさらに奥がある。要は本祭壇の裏側です。
 中央「聖父母廟」。左は「月老尊神」。右は「臨水婦人 註生娘娘」。

▲1837本当に古い煉瓦壁もちらほら観えます。

──見てるうちに,何だか分からなくなってきました。後からここの古さと沿革を見るにつけ,当時の知識でこの実質台湾最古の媽祖に接触するのはあまりに無謀でした。
 外へ出ると,東隣に武廟。永福路向かいには尊義堂馬使爺廳。
 今得た情報からすると当然ながら──ホントに宮だらけの場所,ということだけはメモに繰り返し書いているのでした。

▲1847大天后宮本祭殿の媽祖とお馴染み2従神を振り返る。

■レポ:大天后宮の祀神群に見る由緒の古層

「台南の人々は、たくさんの旗で、媽祖を出迎える」と俗にいわれている。旗は奇妙な音をたて、媽祖を出迎える時、道路ごとに人馬があふれ出て、仮装行列が行われ、奇抜さを競い合う。[鍾清漢「客家の女性,歳時習俗と信仰に関する研究」川村学園女子大学研究紀要第10巻第1号,1999年]

 台南の大天后殿は東面します。入口が西で奥が東です。その水平構造(見取り図)は次の構造を取ります。

建物構造:面寬三開間の四殿兩廊式配置

大天后宮的主軸線上,依序是三川門、拜殿②、正殿③與後殿③④⑤,是面寬三開間的四殿兩廊式配置。右側建物的軸線上,依序是門廳、三寶殿⑧與觀音殿⑦。[後掲維基百科/大天后宮]
*【】付き番号は引用者(下図の番号との対照)

──大天后宮の主軸線上に沿って,(西から)三川門,拜殿【2】,正殿【3】と後殿【3-5】が並ぶ。幅は三開間*で四殿両廊(建物4つの両脇に廊下がある)式の配置である。(正殿から入口に向かって)右側の建物の軸線上には,門廳,三寶殿【8】と觀音殿【7】が並ぶ。
*2本の柱の空間を1開間と数える。大天后の場合,三川門が正面に一本,左右に各一方で,他に三寶殿側に一本あり,計4本になる。

大天后宮見取り図

 つまり,典型的な三進四合院(「ロ」が3つ連なる)の造りが,横(入口から向かって左側)に増築されています。
 なお,X進(X+1)合院(X落Y開間)の考え方を確認されたいなら次の記事をご参照。

 先述の対聯9本のうち,シンメトリーな5本は元の入口部分,非対称な残り4本は増築部分のものと推測されます。
 出来た時代が違うのです。
 主な増築は,鄭氏を降伏させた清初の施琅の後では,18C半ばから19C半ばに逐次行われており,主なものは──
①1740(乾隆5)年【鎮標遊擊*石良臣】後殿・左右廳を増築
②1775(乾隆40)年【知府*蔣元樞】構造改変(媽祖祭壇を第ニ進から第三進(現位置)に移動)
③1818(嘉慶23)年火災後【三郊】再建
*いずれも役職名。「遊擊」は緑営(清軍漢人部隊)の武将階級で明代の呼称を継承する。地方単位の部隊長。[後掲wiki緑営]「知府」は地方行政長官(近代日本の知事),宋代の「知府事」を明代以降はこう称す。士大夫層は「太守」とも称した。[後掲wiki知府]

 物理的な転機としては「嘉慶大火」(1818年)と「糖郊媽事件」(1915年)が挙がる。前者は1818年3月16日4〜6時(嘉慶23年3月16日寅刻)の大火災による内部神像全焼,事象は発生の理由・背景以外は大変明確です。対して後者は,基本的には関係人脈の改変なんですけど,現実に建物も変化している黒い事件。

維基百科キャプション「日治時期(1933年前)的大天后宮;可以注意到三川門的屋頂形式與現在不同。」
──日本統治時代(1933年以前)の大天后宮;三川門の屋根の形式が現在とは異なることに注意。

 その前提の上で,ここに棲まう神々の配置を追います。
[以下,特記しないものは後掲維基百科/大天后宮/祀神 の記載 による。
 ただし,註の内容は本文中に抜き,参考文献は関係分のみを後に転記した。

拝殿:18Cまで正殿だった場所?

 蔣元樞の改築時に,大天后宮の正殿は「第二進の位置」(現拝殿)から第三進の位置(現正殿。以下,原則として現在名称に統一する。)に移されたとの説があります。
[前掲[1]毛紹周〈臺南大天后宮的歷史與場域之研究〉.南華大學環境與藝術研究所.2005年6月,原文前掲]
 その根拠として挙げられるのは──
a)拝亭の屋根は「歇山式屋頂」。「御路」も設けられているのに対し,正殿の屋根は等級の低い「硬山式屋頂」である。
b)拝亭と正殿の間の天井は隔たっている。
c)(同じく台南最古の建築群に属する)武廟や(臺南)天壇の正殿の屋根はどれも「歇山式屋頂」(*下記基本顶参照)である。

d)「來拜亭大多應與正殿相連的作法有異」拝亭と正殿に伝わる作法が異なっている?
e)拝亭の地面よりも,正殿のそれの方が高い。
f)拝亭内部に不自然な「捲棚式架構」(*前掲基本顶参照)があり,拝亭の歇山式屋頂を無理に正殿と接続した痕跡と推測される。(結果として巻棚式屋根としては台湾最大)
 これに従うなら,18C末より前は拝殿に媽祖祭壇があったことになる。すると正殿及び後殿は,極めて広い「奥院」のようなやや秘密の空間だったか,あるいは存在しなかったかであることになります。後者であれば,大天后宮は元々は遥かに小さい,現在の1/3〜4の敷地面積だった可能性がある。
 大天后宮後方には寧靖王府*があったわけですから,その遺構との接続も行われたかもしれません。
*南明期(1663年)に台湾へ避難した明朝皇族寧靖王とその家族の居留地
▲(再掲)祭壇手前=拝殿の窪み≒拝殿と正殿の段差??

正殿:媽祖

 嘉慶大火(1818年)で古来の媽祖像は焼失し,現在の像は郊商(三郊:貿易商)が北港朝天宮からの分祀「三郊媽」を迎えて据えたもの。これ以降,伝統行事「府城迎北港媽祖」(北港から台南への巡行:三郊媽分祀を再現するものか?)が生まれています。

【正殿】
①供奉位置 ②供奉神祇 ③備註
①正殿【2】/正中 ②天上聖母(媽祖)
,從祀千里眼,順風耳
①/左龕 ②水仙尊王 ③據說原是臺南水仙宮的鎮殿神像,日治末期水仙宮中後兩殿遭到拆毀時,鎮殿神像被移往大天后宮寄祀[1]:73、74[8]:95。
①/右龕 ②四海龍王 ③其由來一說是赤崁樓海神廟的神像[8]:95,一說是來自被拆毀的龍王廟之神像[1]:75。
[1]毛紹周. 〈臺南大天后宮的歷史與場域之研究〉. 南華大學環境與藝術研究所. 2005年6月.
[8]王浩一. 《漫遊府城:舊城老街裡的新靈魂》. 心靈工坊文化. 2012年11月: 84-99頁

 正中に座す媽祖に劣らず,左龕・水仙尊王と右龕・四海龍王も不思議な由緒です。日帝期に破壊を逃れて来た「難民」なのに,大天后宮の,しかも正殿に座し,そのまま居座っている。出自の水仙宮も赤崁も現存するのに,です。
 さらに疑問なのは……左右龕は「難民」以前からあったはずだということ。そこに従前座した神は誰で,それらはどこへ行ったのでしょう?
 正殿三座は,台南諸神が熾烈な争奪を繰り返した場所なのでしょうか?

後殿:媽祖の父母

【後殿】
①供奉位置 ②供奉神祇 ③備註
①後殿/聖父母廳【3】 ②媽祖之父母兄姐。
另有寧靖王之牌位與成城、蔣元樞之長生祿位
①/註生娘娘祠【4】 ②註生娘娘、臨水夫人
①/月老祠【5】 ②月下老人、福德正神 ③府城四大月老之一[註 22]
[註22]另外三位分別位在祀典武廟、大觀音亭與重慶寺[8]:82、123。

①/拜亭 ②三官大帝

 媽祖のご家族を祀る,というのが珍しいのかな?と感じて調べると,北港朝天宮や鹿耳門天后宮にも神像や祭壇があります。
 大天后宮の聖父母庁の位階は「本菴捨宅檀樾明寧靖王全節貞忠朱諱術桂神位」となっています[後掲痞客邦]。非常に難解ですけど,寧靖王の明再興の忠節を掲げています。聖父母信仰というのは,儒教的な位相転換をした旧・漢民族王朝への忠節を表したものである可能性を持ちます。

台中樂成宮の聖父母殿

 正殿左右龕に元いた神様が後殿にそのまま単純に動いたならば,この註生娘娘並びに月下老人又は福德正神だった可能性もあります。
 特にこの月下老人は「府城四大月老」(城内月下老人ベスト4)に数えられるという。戯れにこの4箇所(大天后-武廟-大觀音亭-重慶寺)を結ぶと,次のような旧・赤崁城内を彷彿とさせるエリアが浮かんできます。
府城四大月老の位置図
GM.:経路
[A]祀典武廟[B]大観音亭[C]重慶寺[D]大天后宮

1752年臺南図 [青線]上記四大月老を直線で結んだエリア

三宝・観音殿:仏教系諸神群

 この二殿は,明らかに最も後の増築部分になります。

【その他】
①供奉位置 ②供奉神祇 ③備註
①三寶殿【8】 ②阿彌陀佛、釋迦牟尼佛、藥師佛
①觀音殿【7】 ②觀世音菩薩 ③為臺灣府知府蔣元樞所獻的三大觀音之一[註 23][8]:98。
[註23]另外兩尊位在開基天后宮與祀典武廟[8]:81、209。

 両殿とも仏教系です。
 意外にも,元々,大天后宮は媽祖崇拝を包含してきた臨済宗の僧侶が主宰してきました。

明寧靖王捨宅之後,接掌天妃宮者為宗福聖知[註 21],為大天后宮的首任住持[13]:23。宗福聖知和尚在入清後依然擔任天妃宮住持僧,後來才由「際恬勝脩」和尚接任[後掲維基/大天后宮]
*原注[註 21] 詳如前述,宗福為其法號,聖知為其字[5]。
[5] 蔣維錟. 【附錄二】〈臺南大天后宮淵源新考〉. 《全臺祀典臺南大天后宮簡史:全臺媽祖首廟》. 全臺祀典臺南大天后宮. 2012年3月: 94-97頁
[13] 毛紹周. 〈地方場域歷史的再確認:初探臺南大天后宮的住持僧侶〉. 《成大宗教與文化學報》. 2008年12月, (第11期): 1-46頁.

 開祖は「宗福」聖知という方。この人が清に「入」→った後,「際恬勝脩」という満州族っぽい名の和尚が継いでいます。
*「入」るという表現は微妙で,何らかの理由での強制連行などの可能性がある。
「際恬勝脩」さんは,「明標良準」禅師の弟子。この禅師は黃蘗宗萬福禅寺の第14代住職で,さらに遡ると「密雲圓悟」禅師の法脈に至るという。[後掲維基大天后宮/住持僧侶]
*原典[13] 毛紹周. 〈地方場域歷史的再確認:初探臺南大天后宮的住持僧侶〉. 《成大宗教與文化學報》. 2008年12月, (第11期): 1-46頁.
「密雲圓悟」禅師は長崎の興福寺を開基した隠元和尚の師です。何より隠元さんは明標良準禅師と同じ黃蘗宗萬福禅寺(福建省福清)の住職を1637年と1646年の二度勤めています。[後掲維基・wikiとも/隠元隆琦]
 長崎興福寺が媽祖を祀るのは隠元の指示に基づく。萬福寺の同系列の宗旨を継いだと思われる際恬勝脩さんが,媽祖を祀る寺を経営することは不思議ではありません。
 この「経営主体が禅寺」という側面から,大天后宮に元々仏教神像があったことは推測されます。ただこのことが,その後のこの「宮」の歴史にも影響を与えていったようなのです。

隠元隆琦(1592-1673,明末清初)喜多元規筆,1671年,萬福寺蔵 *一部

嘉慶大火後の再建と新旧媽祖信仰の交代劇

 一つは先述の嘉慶大火の際です。
 この火事で本尊媽祖像を含む宮の大半が燃え落ち,三郊を主体とする事実上の再建がなされたわけですけど──

嘉慶大火發生後,《臺灣采訪冊》提到住持僧所蓄銀錢皆鎔燬,毛紹周推論此後由於住持僧無力再出資重修大天后宮,府城三郊成為主要的出資者,可能也從住持僧手中取得了廟務的主導權[13]:17。[後掲維基,原典[13]は前掲のとおり]

 維基の前半は一次史料「臺灣采訪冊」(乾隆年間の「續修臺灣府志」を元に台湾府知府(知事)鄧傳安が1828(道光8)年に編纂を開始したもの)の記述。後半は毛紹周論文(「地方場域歷史的再確認:初探臺南大天后宮的住持僧侶」「成大宗教與文化學報」(第11期)2008年12月)の要約ですけど……短文ながらなかなか刺戟的です。
 新出のポイントは,
前者──住持僧が蓄えていた銀銭は全て燃え溶けてしまったこと
後者──住持僧が無一文で,再建費用は府城三郊が主に出資したから,「廟務」の主導権が住持僧から三郊に移行したこと
 つまり,異様な形の火災の結果,大天后宮を三郊勢力が把握することになっています。
「臺灣采訪冊」原文に探し当りましたので併記します。

嘉慶二十三年戊寅三月十六日寅時,天上聖母廟災,中殿及後殿俱燼,神像、三代牌位蕩然無存。住持僧所蓄銀錢俱鎔化。惟大門一列尚存。凡火災燒至廟宇而止。此次專焚神像,殊堪詫異。[中國哲學書電子化計劃/台灣採訪冊254]

──1818(嘉慶23)年3月16日寅の刻(4〜6時),天上聖母廟に火災が発生,中殿と後殿は共に全焼,神像も三代牌位も完全に失われた。住持僧の居室に蓄えてあった銀銭も共に溶けてしまった。ただ大門が一列なおも残るのみ。火災は廟宇には至らず止み,専ら神像のみを燃やした。殊に堪だ不思議なことである。
……媽祖と銀銭が完全焼失して,建物のみが残った。媽祖信仰の観点からは,これを,媽祖様が災厄を一手に引き受けて建物を守った,というような伝説にもしてますけど,そういう神異と説明しなければ「殊堪詫異」です。
 銀の溶解温度は960度以上。なお木材の燃焼温度は400〜460度。まず通常の火災で銀は溶けないのに,それは消失し,「火災燒至廟宇而止」建物の全焼は免れています。
 寅刻という時間も,失火でなく火付けを想像させます。住持僧が,何らかの理由で経理が合わなくなった銀銭を焼失したことにし,媽祖も燃えるべくして燃やした,あるいは焼失を装い隠した,と考えるのが自然でしょう。先の媽祖様身代り焼失伝説もこの一味が後付けで流したものと疑われます。
 焼失を待って三郊が資金を投じて北港から媽祖を分祀したのが,焼失を含む事前のシナリオ通りだったとすれば,媽祖信仰上最も霊威の高い大天后宮に,北方の嘉義(北港)圏が宗教的に進駐したと解釈できます。
 三宝宮と観音宮の増築年代は定かでない。でも仏教色が完全にない前庭・本殿に対し,仏教独占エリアであるこの二殿のコントラストからは,当初からあったてあろう住持僧の庫裏のような場所が,嘉慶大火後,三郊媽祖進駐に貢献した住持僧建築群が本殿に並ぶほど拡充されたと想像することができます。
 また,北港からの媽祖巡行はこの進駐の再現,または北港を源流とすることの示威でしょう。
 新興宗教・媽祖信仰にも当然幾つかの分派があったでしょう。北港の信徒は湄洲島信仰を重んじる傾向が強い。宮門扉の異様に長い最終句「后来蘇萬頼仰慈恩輝煌聖蹟溯湄洲」は,北港系媽祖信仰の宮であるという宣言語句と解せられます。下線三語は後から政治的に足されたと考えると,語数の異様な長さが説明できます。

2004年の「台南迎媽祖」の行進風景

日帝統治下では「台南寺」だった

 媽祖その他の台湾民俗宗教は,19C末に入ってきた「神国」日本にとっては,共産中国ほどではないにせよ,やはり邪宗でした。

大天后宮在清朝時期,一直由臨濟宗僧侶擔任住持僧,直到日治初期日本曹洞宗僧團進駐為止[13]:6。而在臺灣總督府制止臺灣寺廟成為日本佛寺之分寺後,曹洞宗僧侶退出大天后宮,但原本的臨濟宗僧侶也沒有回到大天后宮[13]:24。[後掲維基]

 元の黃蘗宗*萬福禅寺に源流を持つ住持僧は,台湾総督府が直々に入れた日本系の曹洞宗僧によって追い出されたらしい。
*臨済宗の分流。隠元も同じだけれど,黄檗宗は独自性を強調し始めるまでは「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っている。
 ただし,この曹洞宗の僧侶たちは「退出」しています。この理由を書いたものを見つけることができないのですけど……まず間違いなく,従前からの台南の媽祖信徒の轟々たる非難を浴びたのでしょう。

大天后宮總代表吳盤石、唐克紹與曹洞宗布教師陸鉞巖以媽祖宮稱號甚多且分歧,導致郵件公文傳遞與信眾參訪等方面上多有不便的理由向官方提出將大天后宮改名為「臺南寺」的申請[2]:72。[後掲維基]

 日本系ではない曹洞宗の僧侶(陸鉞巖)を,総代表「吳盤石」さんが擁立し,寺社名も「台南寺」と改名する。これは進駐に失敗した日本の総督府との折り合いをつけて,宮を存続させようとしたと解釈できます。
 大天后宮の仏教寺院としての(対面的)体裁は,この日帝統治期に固定されたものでしょう。
 1915年にはいわゆる「糖郊媽事件」が起こっています。事が細かく概要として何が起こったのか読み取りにくいけれど,とにかく日本と三郊が対立して北港媽(北港の媽祖)が台南に巡行しなくなってしまった。この期間,南下しない「三郊媽」の代行として大天后宮は「鎮南媽」を新調したという。見方を変えると,嘉慶大火時から臨済宗&三郊に奪われていた支配権を,日帝と協調し曹洞宗を冠することで奪還した,と言えるのかもしれません。
 現在,大天后宮と北港の間は相互に媽祖が行き交う形になっている。媽祖信徒間の競合を平和的に噴出させる儀礼装置です。この点は基隆中元祭(→内部リンク)や博多祇園山笠など,争闘的な祭に共通する経緯なのでしょう。

2008年の「府城迎媽祖」海報(ポスター)

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