(@_66_@) 第二日@台湾/再六訪 鶏籠美麗/寿山(@_66_@)

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
Googleマップ(経路)

長崎感覚で高みへ向かう

▲田寮川から港方向を見る。

ぜこの北側に興味が向いたんだろう?
 一旦宿に帰った後,1606,再出発して川沿いへ出ました。
 どう見てもドブ川で,あまり美しくはない。だけど驚いて振り向いたほど魚が跳ねまくってる。

▲橋を渡る

五路を進み,田寮川の橋を渡る。
 北側,行く手に山。結構高いなあ。
 何となく,坂道の多い町並みがないか?と──長崎感覚(→やまと編/茂木街道)で探してみたくなったんだと思う。

暗がりに重なる植木:義三路

▲植木だらけの義三路4巷

木だらけの路地」とメモしてる。1613。義三路4巷に右折したようです。
 いやにしっとりした路地です。記憶の中の台北の路地の,あの投げやりな感じがない。

▲同じく義三路4巷。同じく植木まみれ

に言えば,この辺りは日本統治時代の神社の門前町(→巻末小レポ:信二路と旧基隆神社)。信二路の表通りも洋館のやや多い風情ですけど,この裏道には日本の昔の路地裏っぽい空気が化石のように残ってるみたい。
 そこを植木で彩ったのは,おそらく台湾人のセンスだと思います。居住者の愛着が感じられます。

▲一本北の義三路12巷

車だったら楽しい?山並ハイウェイ:寿山路

615,信二路が見えてるけど,あえて出ずに右折して義三路12巷へ。
「台湾の路地です」と少し安心したメモを取ってます。確かにこの裏道は台北でよくある路地っぽい。
 信一路141巷へ左折北行。ようやく信二路に出ていきます。

▲信二路と横断歩道

に基隆医院を見て東へ進む。
 広い道で閑散としてきた。官庁街みたいな場所か?
 1624,南東に基隆市警察局のある交差点。左の寿山路に入るか。そっちの方向には,中山公園のほかに主普壇史跡館との表示もある。

▲寿山路から南を眺める。

寿山路はぐんぐん上がって行きました。でも長崎っぽい家並みは絶え,山並ハイウェイっぽくなってきて…正直全然楽しくない。しんどいだけでした。
 巨大な建物が見えてきた。これは?──へえ!基隆の市議会って,こんな山の上にあるのか。

▲でもこんな議長さんらしい。

道がなかなか見つからなかった。これ以上登ると頂上に着いちゃうぞ?
 1635,ヘアピンの先から西の小道が見つかった。抜けれるのかやや不安だけど,とにかく入る。

▲公園からビル

再び膨らむ小レポ,でも当時はカフェでアメリカーノ

烈祠という廟に着く。南行して階段を降りる。」
とサラッと書いて,写真も何も写してません。
 忠烈廟は旧基隆神社。この奥にあったはずの「主普壇」を中心とする中元祭に,後からどっぷりハマってしまいます。→巻末小レポ:①信二路と旧基隆神社,②楽しい基隆中元祭

▲降り口のカフェ

段を降りきると基隆市防災大楼,消防署に出ました。1642。
 やれやれ一安心…と坂道のコーヒーショップに入る。
1647COMME COFFEE
美式珈琲
 いいカフェです。
「この辺にはやけに古い洋館っぽい造りが目立つ」とアメリカーノを舐めながら書いてます。その眺めこそが,基隆神社の門前町,そして中元祭ではメイン会場になる場所とは,当時全く知るはずもなく。

■小レポ:信二路と旧基隆神社

 祭神から見ても完全に日本神道の押し付けです。「能久親王」の名前が珍しいですけど,この人は1895年に台湾に渡った皇族で,その年のうちに台南で死亡。当時,外地で死んだ初めての皇族として神格化されてたらしい。
 また,最初はこの宮は金比羅宮だったそうです。純粋な海の神様が,どんどん皇国化していったわけです。
 それはともかく,この神社前,現在の信二路は,当時「義重町」と言われ…までは分かったけど,どんな界隈だったのか資料が出て来ない。ただ現在まで洋館がこれだけ並んでるので,コロニアルな街並みだったことは推測できます。下記サイトがわずかに「基隆的商圈之一」(基隆商業地の一つ),「巴洛克及現代主義的折衷式建築」(バロック・当世建築の折衷様式)と伝えています。
 ただ日帝の植民地支配の一角で,敗戦後すぐに壊されてるのは事実。
※ wiki/基隆神社
「社格は県社で、能久親王・大国魂命・大己貴命・少彦名命・天照皇大神・大物主命・崇徳天皇を祭神としていた。」
「1912年(明治45年)3月9日、基隆金刀比羅神社の社名で創建された。」
「戦後、社殿が取り壊され、跡地には基隆市忠烈祠が建てられた。」
※ Tony的自然人文旅記(631)/基隆市] .中正公園.忠烈祠(基隆神社遺跡).主普壇
「後來知道中正公園曾是日據時代的基隆神社」
「中正公園入口高大的牌坊,原是基隆神社的鳥居位置,這寬闊筆直的石階路,正是昔日的神社參道, 隱於山腰樹林間的忠烈祠就是基隆神社的舊址了。」
「信二路附近,是基隆的商圈之一,路口轉角處,還可看見幾棟昭和年間的混和了巴洛克及現代主義的折衷式建築, 透露出一股日本時代的風味。」
※ 随意窩/基隆街道的日治街屋
(2013年のもので中国語ですけど,写真をイヤというほど撮っておられます。)

▲往時の基隆神社。残念ながら参道の写真は見つからなかった。

■小レポ:楽しい基隆中元祭

「うわ~い♥️」的な紹介サイトが多い中,大変心苦しい話になってしまいます。
 少し詳しい記事には必ず書いてあるのが,この祭は「漳泉械鬥」の死者を祀るものだということ。
 具体的には老大公廟という祠が市街南西山頂にあり(→GM.),ここの「地獄の扉」が開く7月に,市内北東山麓の主普壇(→GM.)をギンギラギンにして死霊を呼び寄せる,という宗教儀式。
 地図を見ると分かる通り,市内中心部をモロに縦断させるわけです。これを何と,霊が帰るまで1ヶ月やるのが基隆中元祭。
 問題の械門が1851年,祭の始まりは1855年。氏族が持ち回り,というのも,宗教的というより現実的な相互牽制です。何より,150年前に明らかに起こった殺し合いを端緒にしてる訳で,フォークロアというより切実な贖罪儀式でしょう。
 ただ,町内連合による祭って,こういう現実的な紛争緩和機能を持つものなのかもしれません。
 また,主普壇が旧基隆神社の神域に建てられてることも注目に値する。侵略者のものでも神威は神威としてチャッカリ利用しているのでしょう。
※ 4travel/台湾 「行った所・見た所」基隆の極楽寺から旧基隆駅へ
※ wiki/鶏籠中元祭
「台湾基隆市で毎年、鬼月(亡霊の月)と称される旧暦7月頃に盛大に行われる普度活動(盂蘭盆)。」
「咸豊元年(1851年)8月、ついに漳州と泉州の人々との間で「漳泉械鬥事件」が多くの人々が死傷する騒ぎが起こり、これを鎮める為民間武術で競うこととなり、今日神々に武術を奉納する元とになった。」
「咸豊5年(1855年)、基隆の十一氏族(張廖簡、呉、劉唐社、陳胡姚、謝、林、江、鄭、何藍韓、賴、許など)の宗親会(のちに十五氏族になる)からの申し出で交代で供養を主催することとなり、今日に至る。」
※ TAIWAN TODAY/中元祭、霊を供養し善を積む
「中元は道教の最高神である玉皇上帝の次に位置する三元神のうち、地獄をつかさどる地官が霊を贖罪する日だ。」
「1855年から続く「鶏籠中元祭」では、旧暦7月1日から12日間、開基老大公廟に灯される灯篭が圧巻だ。」
※ 台湾宗教文化地図/鶏籠中元祭(行事・信仰) 初めて台湾の「重要民俗」国家文化財に指定された祭り
「(機門で)多くの死傷者が出ました。そのため、双方の大老が話し合いの場を設けて争いを鎮めることとなり、死者の遺骨が合葬され、「老大公廟」と呼ばれる廟が建てられました。また、話し合いにより、出身地の代わりに苗字による当番制や宗親の血縁概念を取り入れ、交代で中元普渡(供養)を執り行なうことにし、「陣頭」の競技の開催により紛争を収め、社会の調和が図られました。清朝時代から日本統治時代まで、主会、主醮、主壇、主普の「四大柱」が共同で基隆中元祭を取り仕切り、地元の宗親が交代で主普を務めており、1929年には主普壇が建てられました。」
「旧暦6月29日23:00開灯夜:夜明け前に起灯脚を灯して、無縁仏をこの世にお供養に迎えます。(場所:開基老大公廟)」
「旧暦7月12日19:00主普壇点灯:「老大公」(漳州人と泉州人の対立・衝突や疫病によって基隆で命を落とした無縁仏)を現世に迎え供養します。」
※ 台湾再び/リアル体験談!基隆中元祭を思いっきり楽しめた8つのポイント


■小レポ:19世紀後半・基隆:何が起こったのか?

 中元祭という台湾有数の祭を催しながら,基隆械門というものの実態はほとんどのサイトが口を濁してるように感じられました。
 何が起こったのか?
 下記「基隆旅游網」にサラッと書かれてました。死者108人と。
 えらく具体的な人数です。
 基隆三大廟中,奠济宫は漳州系,庆安宫は泉州系の主神を祀る。この2社はいずれも市内中心部,2百mの距離で向かい合ってます。そして今は,両側の神様を合祀する形で和合してる。
 維基百科「奠济宫」によると,基隆中心部は元々漳州系の勢力下にあり,泉州系は南方の暖暖区に根付いてた。狮球岭(→GM.)が境界だったと伝えられてます。
 ならばなぜ漳州系勢力下の港近くに,泉州系の庆安宫があるのか?
「旅游網」曰く,械門が激しくなる中で,1853年,漳州系108人が泉州系に「奇襲」を目論んだ。けれどこれを読んでいた泉州系が「埋伏」,つまり待ち伏せして「全部殲滅」した。
 皆殺し,ということでしょう。
 維基百科「基隆庆安宫」は,この宮は18世紀初めには漳州系の妈祖庙だったと伝えてます。ということは,おそらくこの奇襲の返り討ちによって,泉州系は基隆市内へなし崩し的に短期間で進出した。そうして市内西側,庆安宫のエリアを手中に収めた。
 その時点で,つまり泉州系が勝勢を確実にした形で双方は和合した。事実上の降伏だったかもしれませんけど,とにかく──市内でジェノサイドが繰り返されることはなく──戦闘は終結した。その終結形態が,双方の宮に双方の神様を合祀すること,そして中元祭の(出身地ではなく)氏族による持ち回り開催だったのではないでしょうか。
 この最後の段は,やはり不思議な感触です。なぜ唐突に戦闘を終えることが出来たのか?ただ,現在の宮の配置と状況から考えて,泉州系による基隆占拠,という帰結は考えにくいです。
 古傷をめくる趣味ではなく,事実に近付きたいので,以上推測してみました。
※ 基隆旅游網/老大公廟
「咸豐初年,基隆的漳州人和暖暖的泉州人以魴頂(今南榮公墓)為界」
「咸豐3年(西元1853年)基隆的108位漳州人一起去襲擊暖暖的泉州人,但事前被暖暖的泉州人知情,在魴頂設埋伏,將108人全部殲滅,此事件成為基隆史上最慘烈的械鬥傷亡事件。」
※ 維基百科/奠济宫
「“后殿”清甯宫原为道光年间泉州人所建以奉祀水仙王的殿宇,日治时期因故与奠济宫合并。」
「在同治年间,经过百年的开发与分类械斗,漳州府移民取得了基隆港一带,而泉州府安溪移民退守至七堵、暖暖。两方械斗,争执不断,甚至抬出己方的守护神示威,泉州安溪人信仰双忠尊王(俗称尪公),漳州人崇奉开漳圣王(俗称圣王公,简称圣王、圣公)。」
「当地另有俗谚“尪公无过岭”,意思是“尪公神像绝不越过狮球岭”,因狮球岭以北,即是漳州人地界。」
※ 維基百科/基隆庆安宫
「基隆庆安宫所供奉的妈祖神像依来源可分为湄洲妈、泉州妈、漳州妈,象征昔日漳泉械斗的和解。」
「庆安宫的历史可溯自清乾隆四十五年(西元1780年),当时漳州移民于基隆港西岸的牛稠港虎仔山畔建了一间小的妈祖庙。随着移民日多,基隆港南岸成为街市而有建庙之需,而后嘉庆二十年(1815年)内湖庄人何士兰捐献位于石硬港(旭川河)西侧之地建庙,该地即为庆安宫今址。」

[前日日計]
支出1500/収入1250
     /負債 250
[前日累計]
     /負債1081
§
→十月六日(六)
[63基金公路まで]⇒
0941巷頭[米果]仔湯 ※[米果]仔湯,黒白切400[64百年防空洞まで]⇒
1343鮮豊古早味現烤蛋糕
紅茶250 [65昼の基隆夜市]⇒
1427呉記[金鼎]邉[走座]
[金鼎]邉[走座]
魯肉飯370
1509愛四路 圳記紅燒鰻羹
紅燒鰻羹,魯肉飯370
1525三兄弟
H1:蜜芋頭+冰糖蓮子+奶園+豆花250(1690)[66寿山]
[67夜の基隆夜市]
1840北平鍋貼400
1845老牛[女辣]仙草
招牌特調(珍珠,豆花,[土敦]仙草)150
[前日日計]
支出1500/収入2240
負債 740/
[前日累計]
     /負債 340
[68コネタ集] [69変な日本語side-A] [70同side-B]
§
→十月七日(天)

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