m101m第十波m始まりの社ぞ撫でし黍嵐m晋徳宮


本歌:坂の街静かに舐める夏の月〔小樽潮陵〕

福建としての台北で2つの天后宮に詣でます。
[前日日計]
支出1400/収入1420▼14[115]
負債 20/
[前日累計]
利益  -/負債 507
§
→九月二十二日(天)
1002幻の
牛腩湯
白菜卤
卤肉飯370
1429三信素食店
ハムもどき,唐揚げもどき,豆干,ツル朝顔の炒め,緑色野菜炒め,トックみたいな餅,酸辣湯,炊き込みご飯500
1900永豊盛
原味白,全麦400
1915古早味緑豆沙200
2016老爺手工烘焙坊
鳳梨酥300
[前日日計]
支出1400/収入1770▼14[115]
負債 370/
[前日累計]
利益  -/負債 137
§
→九月二十三日(一)[前日日計]
支出1500/収入1230
     /負債 270
[前日累計]
    /負債1755
§
→二月九日(六)
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

芳明館は黒いのか?


B.(百度百科)/漳州裔台湾人
「漳州府移民共同信仰:开漳圣王、保生大帝、广惠尊王、六辅将军」
「开漳圣王为漳州裔最具代表性的乡土神,开漳圣王庙分布台湾各地漳州闽南人开发的地区」
BB./芝山岩惠济宫
「所在地  台湾台北市士林区名山里至诚路一段326巷26号」
「主神观音菩萨、开漳圣王、文昌帝君」
BB./晋德宫
「所在地 中华民国台北市万华区康定路13号」「主神助顺将军(黄府大将军 黄府二将军 黄府三将军)」
BB./芳明馆
「芳明館,現今多指為是台灣著名的黑幫團體,典型的本省掛角頭團體,發跡於台北市萬華區華西街一帶,成員人數不明。」

 その朝の出発までにメモしてる情報です。
「漳州裔台湾人」は漳州をルーツとする台湾人。彼らの拝む神様の一つ,开漳圣王を祀ったお宮に「芝山岩惠济宫」がある。夜市で有名な士林の北と遠いけれど,観音菩薩や文昌帝君も併置し興味深い。
 翻って,西門の河岸には「晋德宫」という宮がある。主神は助顺将军という知らない神様。ここを経て艋舺まで歩いてみようか。
 あと,艋舺=萬華は現実に危険な場所らしい。この地区独自の黒社会組織があるそうな。
 さて8時です。出発しましょうか。

マンゴーミルク 600cc

▲0814西門のゲーム広告

天。おおっ,今回初めての暑くない日かも。
 まず晋徳宮を目指そう。武昌街を西行。
「萬國覚醒 四海文明 八方来戦」という英雄の漫画を描いた旗がいっぱいあるけど……これはゲームの広告か?でも何で源義経とジンギスカンが戦わなきゃならんのだ?同一人物ちゃうんか?Rise of Kingdoms ―万国覚醒― 公式サイト

▲0818「600cc木瓜牛奶」──って飲めるか!

画館を過ぎ,さらに西へ。0818。
「600cc木瓜牛奶」と書かれた好い騎楼の角。黄色Tシャツのアフリカ系の人が,たった一人,しきりに自撮りしとる……のは何をしてるの?
 0822,前方に陸橋。跨いだのは康定路です。そこから西を眺めると──あの鉄骨に覆われた建物なのか?

普徳宮祭殿のとっちゃん坊や

▲0823普徳宮……の外観。なぜ君はそんなになってしまったのか。

とホントにそれが晋徳宮でした。0824。
 広告と宮のどっちが先に出来たのか分からないけど,まああんまり気にしてないのかも。
 本殿もこんなんです。

▲0829普徳宮祭殿に並ぶ神様たち

神・助順将軍より,正直,右のてかてかとっちゃん坊やが気になってどうしようもない。
 中央扁額は勅額らしい。「勅封 [耳力]順将軍」。
 対聯は左「将軍神武雅鎮四方」-右「 [耳力]順生民霊昭千古」。

漢口街二段90巷8弄の猫さん

▲0830宮北側路地

の北側に回ってみました。何という予感もなく,ただ初めて来たので周囲も少し見てみるか……程度の回り道でしたけど──なかなかの道です。これをとって東行。
 地図で見ると「漢口街二段90巷8弄」となってます。台北の東側地区には珍しくないけど,西側のこのエリアには稀な複数階層の住所表示です。
 路面には両側に側溝がある。整然とした短い通りです。ぽっかりと謎じみてます。

▲0833路地裏と猫さん

台北アートな路地裏を行く

口街を右折南行すると,先の600cc横を再び通過しました。0833。
 何か奇妙な道。アートペインティングや変な店が多い。写真撮りに来てる人もいるからちょっと有名らしい。さっきの黄Tシャツの人も,まだ撮影を続けてました。

▲0836ガチャガチャした小店

イドブックとかをチェックしないから全く知らなかった。ちょっと有名どころか,いつの間にか台北は世界でも指折りのアートな町になり,ここのペインティングは世界五大何とかに選ばれたものなんですと。
 へえ~。以下,かなりまとまってるサイトをご紹介しときます。でも確かに,西門下町ってアートと馴染む下味はついてる気はするなあ。

▲0838壁一杯に

*** 台北ジェニック散歩!世界が注目するグラフィティ・アートの街「西門町」 | TABIZINE~人生に旅心を~
** 散步台北街頭看見世界的縮影 從西門町到永康街,文化交融的塗鴉創作 – 台北畫刊 – 微笑台灣 – 用深度旅遊體驗鄉鎮魅力
* 西門町塗鴉街名聞國際 5年挖3次「紅磚地改鋪柏油路」 | 生活 | 三立新聞網 SETN.COM

康定路25巷に四川の方舟

▲0844 成都路133巷を南へ

嵋街を渡る。0840。住所表示は成都路133巷になった。
 あら?突如として四川料理店が増えたぞ?──康定路25巷に右折東行してみる。暗い川菜店が数店並ぶ。格式は意外に高そうです。25巷手工珈琲 Alley 25 CAF’Eという店。バックパッカーズホテルと掲げる宿もある。知る人ぞ知るという通りなのか?
──とその時は通り過ぎてます。今でも明確な情報はないんですけど,どうやら観光客だけでなく地元でもCPの高い四川料理の隠れスポットと定評はあるようです。
 さらに断片情報を総合すると,蒋介石が重慶から台湾に移る際,四川料理人が多数随行してこの界隈に住み着いた,という。十軒中九軒は川菜店と言われる程の隆盛期もあり,表通りが成都路になったのはそのためである──などとどうも眉唾っぽい話が残るんですけど……西門で時折出くわす本場より本場の中華料理というのは,いわば「ノアの方舟」的なその手の経緯を経たものなのかもしれません。
* 四川料理街@西門町康定路25巷界隈: 極楽ホッピー
** 黔園川菜(台北 西門町) – 美味台湾 Mei Wei Taiwan

▲中国語サイト掲載の同街川菜屋メニュー。やはり超本格的です。

■小レポ:福建晋江からの渡来神・台北晋徳宮に関する諸点

 冒頭に触れたように,台北晋徳宮(簡体字:晋德宫)は萬華区康定路13号に所在。主神は助順将軍(簡体字:助顺将军)。別称「黄府大将軍」。
「黄府二将军」とか「黄府三将军」という表記の漢数字は分身か従神も含めた表現なのか,そこはよく分からなかった。
 で,ここが何だったのかが問題ですけど……以下の幾つかの手がかりにしか到達できませんでした。

1「助顺将军」は誰なんだ?

助顺将军,又称代天巡狩黄府三位将军(略)闽南泉州晋江地区的王爷神,也是读书人和生意人的守护神。其由来一说是南宋末年抗元而牺牲的黄姓忠臣烈士;另一说为明末清初反清复明的名臣黄道周。
农历的十月初三日为其圣诞千秋。
* 維基百科/助顺将军

 維基は「三位将軍」とはっきり3人格だと書いてます。
 泉州南西隣の晋江市(→GM.)地方の「王爷神」。──ということはこの晋江地方からの移住グループがこの辺りにいたのでしょう。
 読書人と趣味人の守護神。──セレブならぬ有閑旦那衆の専用神,というところでしょうか。
 農歴十月初めの三日にお誕生日のお祝いをする。神様の誕生日が決まってるのも福建流です。
 さて,面白いのはこの神様が人間時代に誰だったのか?という点です。

トリプルイメージでの呪詛

 もちろん
①助順将軍:天を巡る武神
というのは神話的存在なんですけど,
②黄姓忠臣烈士(「黄」姓の忠臣):南宋末に元に抵抗した犠牲者
を象徴しているという。さらに
③黄道周:明末清初に清に抗戦した明の名臣
でもあるという。
 根拠は?というより,台湾では近代の官庁側資料でも普通にそう伝えられているとある。

一说清朝初年闽南人崇敬黄道周之忠义,尊其为助顺将军并祭拜,以避免被朝廷查获。在台湾近代的官方文史资料中普遍流传,助顺将军即为黄道周。[前掲維基]

 そんな複雑なことになってるのは,どうやら朝廷側の抑圧を免れるためだったらしい。異民族王朝・清に抵抗した自民族王朝・明の忠臣を,清治世下でおおっぴらには祀れないから,関係ない神様ということにした。それで,時代を宋末,敵を元と置き換えた,おそらく架空の「黄」烈士を産み出した。
 これはおそらく,異民族王朝に対する,非常に遠回しな呪詛です。
 けれど──

黄道周,福建省漳州府铜山人,学者、书法家、艺术家、明朝官员,南明时为武英殿大学士兼吏部、兵部尚书,被清兵所俘,不降而死。乾隆时谥忠端。[前掲維基]

──黄道周は福建省漳州府の銅山の人。学者,書家,芸術家でかつ明朝の役人だった。南明の時,「武英殿大学士」と「吏部」「兵部尚书」を兼務していたところ,清兵に捕虜にされたが,降らずして死した。
 そして最後の一文です。──「乾隆时谥忠端」乾隆代(1736-95年)に忠義の最たる者として諡(おくりな)される。
 清帝国の中国支配百年を経て,自政権への抵抗者にも関わらず「忠義」を讃えて名誉回復している。昇華した名目とは言え,民衆の信仰が相当厚かったために否定し難くなった,ということでしょうか?それとも,この王朝ならではの現実的判断でしょうか?屈折した形での自民族の誇りまでは奪い去らない方が、かえって支配し易いというような。
 にしても奇妙です。元は鄭成功が祀った9人の儒者の末尾に名を連ねた人だったらしいからです。

国姓爷郑成功常配祀八大儒,即顾炎武、傅青主、黄宗羲、王夫之、李二曲、颜习斋、朱舜水、方以智等,又称为“八怪”,加上黄道周即“九怪”。[前掲維基]

 また,先に架空視した宋末の黄烈士群というのは,それ以前から崇拝されていた,という見方もあるらしい。

也有一说认为助顺将军为“南宋末年抗元的黄姓忠臣烈士”。据泉州晋江池店镇溜石村地方耆老口传,公元13世纪,在成吉思汗的带领下,蒙古帝国迅速崛起,公元1267年,蒙古大举进攻南宋,黄姓烈士与另外两位结拜兄弟生逢这样的乱世[前掲維基]

「泉州晋江池店镇溜石村地方」の言い伝えに,1267年に元の侵攻に抗したというものがあり,清初の黄道周のダブルイメージと断じ得るかどうか,という問題もある。あるいはダブルイメージの方が,信仰の中で実体化していった,という可能性もありますけど──謎の多いトリプルイメージです。

2 台北に現存する5つの木造建築

 晋徳宮は,かつてはもっと広い敷地を持っており,前殿が康定路沿いにあったけれど,後に壊されて後殿だけが残ったのが今の姿だという。

前殿已因拓宽康定路而拆毁。正殿为歇山重檐屋顶建筑,台北市内现存木结构歇山重檐屋顶建筑仅有晋德宫、大龙峒保安宫、艋舺龙山寺、台北孔子庙及临济护国禅寺。
* 台北晋德宫_百度百科

 残った晋徳宮後殿は,台北に現存する「木结构歇山重檐屋顶建筑」5棟のうちの1つだという。
 そんな文化財にあのとっちゃん坊やが??というのは置といて,その建築は一体何だ?
「木结构……建筑」は木造建築ということ。「屋顶」は屋根だから,屋根の建築方式が珍しいらしい。
 かねてから中国古建築の屋根構造の体系的知識を得ておきたかったので,以下のサイトを参考にデータ化しておきますけど──まず晋徳宮は,文化財としては艋舺の龍山寺と同等の格式を持つということです。
** 图解中国古建筑屋顶形式,让你一次记住它!_手机搜狐网

中国古建築 12の「基本顶」

▲中国古建築の屋根形式の12基本形「基本顶」。左上から
①悬山 ②硬山 ③庑殿
④歇山 ⑤卷棚 ⑥重檐
⑦盝顶 ⑧圆攒尖 ⑨盔顶
⑩三角攒尖 ⑪四角攒尖 ⑫八角攒尖

 これらは基本形で,以下のように組合せのバリエーションが行われる。
檐庑殿顶
重檐歇山顶
重檐攒尖顶
单檐庑殿顶
单檐歇山顶
单檐攒尖顶
 また,さらに扇面顶,万字顶,盔顶,勾连搭顶,十字顶,穹窿顶,圆劵顶,平顶,单坡顶,灰背顶といった特殊な形式もある。
 晋徳宮ほか5棟の「歇山重檐屋顶」とは「歇山顶」が「重檐」,つまり重ね構造になっているものを言います。
「歇」字の発音はxie1。意味は休む,「用快歇歇吧」で「ちょっと休みなさいよ」となります。

歇山顶の部分名称

▲歇山頂

 最初は何のことか分からなかったけれど……つまり歇山頂を構成するのは9つの線分だ,ということです。
 左右の面から見ると,歇山頂は三角形の下に台形を付けた形状になる。三角形の側面の辺を垂脊,台形部のを戧脊という。これが片側各2本,両側で計8本。
 両側の三角形の頂点を結ぶ辺が正脊。これは一本だけだから計9本。ゆえに「九脊頂」とも説明されてます。

又稱九脊頂,有一條正脊、四條垂脊、四條戧脊。前後兩坡為正坡,左右兩坡為半坡,半坡以上的三角形區域為山花。[前掲手机搜狐网]

 壁(坡)の名称としては,三角形と台形の下部,左右の側を「半坡」といい,それ以外の前後のを「正坡」という。残る三角形部分を「山花」と称す。
 宮や邸宅の造りとしては最も広範に用いられるものです。

■用語集:台湾黒社会

 アニメや映画はともかく,現実の海賊はどうしても違法だったり犯罪だったりする。なので,そういう用語も,最小限,狙われない程度に整理しておこうと思いました。
 幸い,何と次のようなwiki頁がある。日本語が母語でない方が書かれてる手触りですけど,かえって感覚はよく分かります。
* wiki/台湾黒社会
※ 参考文献: 田雁著、鈴木健一訳「BLACK CHINA(ブラックチャイナ)-中国黒社会―規範なき大陸の暗黒年代記」第4章 2004年1月11日 バジリコ

1 独自用語

角頭:暴力団勢力。19世紀末の日本統治時代,台湾の大部分の幇会が解散させられたが,少数の残存団体が「日本が台湾人に対応する道具」として存続,主にそれらの組織をいう。
牛埔:台湾の古名。隠語として,牛埔幇の構成員,さらに台北市で活動する暴力団構成員全体を指す名称としても用いる。
兄弟:(台湾語の隠語)黒社会(の成員)
結義:義兄弟
眷村:国民党の台湾撤退時に大陸からの移住者(約150万人)の外省人の集住地区。外省掛の母体地域となった。
幇会:「幇」(中国系秘密結社)。主に組織化されたもの。
械闘:18世紀中頃~19世紀末に発生した在地勢力間の武力闘争。漳州と泉州のものが典型的で,特に漳泉械闘という。
縦貫線:台湾裏社会の隠語で、縦貫線で活動するヤクザを意味。人物の呼称としては「縱貫線大哥」「縱貫線大哥大」(大親分)「縱貫線教父」(ゴッドファーザー)など。

2 組織名(総称含む)

外省掛:外省人系の黒社会団体の総称。概ね過激。
※警察当局の伝統的呼称は「幫派」「太保
※古い幇の制度を受け継ぎ、警察や軍隊の勢力を融合した組織制を有する傾向
※主な組織
竹聯幇:元総護法(理事長)で逃亡先の中国から帰国した張安楽は,政治運動家として中国と台湾の統一を掲げる政治結社・中華統一促進党を結成。台湾独立運動への暴行で知られる。
 四海幇:中国の上海に本部を持つ。
※「台湾には現在約700の黒社会組織が存在するが、最大の『竹連幇』と二番手の『四海幇』で台湾全体の賭博、売春、縄張り、娯楽産業の6割を占めるといわれる。」
******丹下直子/チャイニーズ・マフィア
 松聯幇
 北聯幇
 三環幇
 飛鷹幇
洪門:最古の黒社会組織。17世紀初頭の鄭氏政権期から存在。
父母会:史料に残る台湾最初の秘密結社。1726年(雍正4年)設立とされる。
:密航の隠語。最近特にビジネス化する傾向有。巨額の代金の割に発覚しても重罰はない事情から。一人当たり120万円程度。「チャイニーズ・マフィアの場合,密航と麻薬取引で得られる収入はほぼ互角」[前掲丹下]
本省掛:外省掛に対し,地元(本省人系)の黒社会団体の総称。
※警察当局呼称「角頭」
※大部分は形態を組織していない。
※主な組織
 天道盟:初代盟主の羅福助が台湾当局の追及が及ばない中国に移住して深圳で起業
 牛埔幇(台北)
 芳明館(艋舺)
 十三鉄衛幇(桃園)
 三光幇(新竹)
 大湖幇(台中)
 東門幇(台南)
 七賢幇(高雄)
 西北幇(高雄)
 華山幇(不明)
 大龍峒(不明)

3-1(各論)牛埔幇:本省掛中最大の単一勢力

 海域アジアに関係が深いのは明らかに本省掛なので,台北での最大の本省掛であるこちらの情報を集めてみる。
(拠点)台北市中山区
(規模)総構成員数数千人と推定される。現在天道盟を除く本省掛(地元系)組織の中で最大の規模とされている。
(組織化)初期の牛埔幇は組織形態でない角頭だったが,竹聯幇と四海幇(いずれも外省掛)との抗争の中で次第に組織化
***wiki/牛埔幇
「天道盟を除く」という書かれ方が気になったので,そちらも当たってみました。

3-2(各論)天道盟:連邦制本省掛にして台湾三大組織の一

(地域)主に台湾中部と南部。国外にも拠点有。
(規模)総構成員数万人とも。竹聯幇,四海幇と並ぶ台湾三大組織の一者。
(特色)三大組織中,最も迅速に勢力を拡大。 連盟の形態をとるため,各下部団体の自由度が高く,組織全体の統制力は弱い。外部圧力への対抗時のみに協力し合う組織で,各下部団体への組織からのバックアップはあまりない。
(歴史)1984年の一清特別案件(全国で黒社会壊滅運動)で逮捕・入獄した角頭たちが,獄中,本省掛のヤクザ連盟を構想。1987年の出獄後,彼らが台湾各地ですぐさま下部団体を設立。初代盟主は羅福助が担当。1989年,山口組との組織交流を開始,その経営パターンを習得したとされる。2002年に総裁・羅福助が刑事事件発覚で失脚。
(経済基盤)各団体の資金源は主に地域収入。主に賭博・宝くじ・パチンコなどのギャンブル系のほか,闇金,ホテル,バー,ダンス・ホールなどの収入。現在では公共事業,不動産のほか,船舶輸送,船輸,映画,テレビにも進出。政治力やメディアを利用した株式市場・先物取引操作による利益も得ているとの見解もある。
**** wiki/天道盟
 日本の組織をモデルに,対外省掛に有効な組織力と経済力を復権するために形成された緩い結合組織です。地域浸透力は最も強い,ということは日常的な経済活動にもかなり広範な影響力を持っていると想像できます。

3-3(各論)芳明館:伝統的本省掛

(地域)台北市萬華区華西街一带
(規模)人数等不明
(特色)典型的角頭で組織は持たない。
(歴史)1936年開設の「芳明館劇院」(芳明馆戏院。旧住所:台北市有明町4丁目2番地。1966年に危険建物として除去)があった。1950年代にそのエリアに「芳明館金獅団」(芳明馆金狮团)が結成。
***** 維基百科/芳明馆
 この建築30年で取り壊された劇場とその名を冠した組織,というのはもっと深い関わりがある臭いがしますけど,とにかくこの組織は1980~90年代にかけ複雑な内部闘争を繰り広げたらしい。そのため一時は衰退傾向が見られたけれど,現代は復活しつつあるという見方を維基は採っています。

4 眷村:外省掛の発祥母体

「一年准备,二年反攻,三年扫荡,五年成功」という標語を蒋介石は掲げていた。──1年準備,2年目に大陸へ反攻する。3年目に浸透し,5年で大陸支配を成功させる。
 1991年に李登輝が「中华民国在台湾,主导国家的统一」──中華民国は台湾に止まり,国家の統一を主導する──と微妙なニュアンスで大陸反攻を放棄するまで,中華民国軍とこれに付随して来た大陸中国人にとって(少なくとも建前上)台湾は仮住まいでした。
「眷村」は,その当時に台湾へ移った外省人にために国民政府が住宅建設を進め,彼らを居住させた小規模移民村の総称です。北京語のピンインはjuan4cun1ですけど,閩南語では何と言うんだろう。
(時期)1949~60年
(規模)人口では「中華民国国軍とその家族60万名」とも「150万人以上」とも書かれる。箇所数では,2004年時点で879ヶ所とも。最も多い地方は桃園県の80ヶ所。
(場所)多くは日本統治時代の建築物を利用。つまり日本人が引き揚げた跡の廃村を利用した。台北市,嘉義市,台南市,高雄市などに集中。その他,軍属が多いために軍事基地付近の新北市と桃園市等にも。
(文化)現在でも「眷村黒話」と称す独自の言語用例を使用
(管理)中国国民党は眷村を管轄する支部として「黄國樑党部」「黄復興党部」を設ける。親民党も同様に「甘泉党部」を設け,眷村の外省人票の確保を図っている。
****** wiki/眷村
(黒社会母体としての歴史)

生存と利益のため、地元のヤクザと対抗して利益と勢力を奪い取った。そのため眷村の人々は地元の勢力団体と対抗するため、その他の外省人の子弟とも団結して団体を作っていった。[前掲wiki/台湾黒社会]

総論:私設地方自治体

黒社会は,簡単に言ってしまえば中国人の暴力団だが,その背景や実態は日本の暴力団とは比較にならないくらい大きな広がりと深さを持っている。日本の暴力団はごく限られたプロの暴力組織だが,黒社会は自衛の組織という性格もあわせ持っている。というのも,黒社会は中国の伝統的な秘密結社をその源流としているためである。中国の秘密結社は独裁的な皇帝権力のなかで自分たちを守り,自分たちの主張を貫く組織として中国の歴史のなかで存在し続けてきた。このなかには宗教的秘密結社や王朝打倒に走った政治的結社もある。中国革命の父,孫文が清朝打倒運動を実行するにあたり,まず最初に頼りにしたのが秘密結社であった。[前掲丹下]

 清朝支配域から脱することで支配を脱しようとしたムーブメントが移民ならば,域内で脱しようとしたそれが黒社会です。両者のインセンティブは,少なくとも当初は類似しており,だからこそ移民先では両者が融合していた。
 台湾黒社会の構成員総数は約10万人とされる。[前掲丹下]
 台湾黒社会の本省掛と外省掛は,別の歴史を持つ。前者は移民時の周辺地域からの,後者は本土からの国民党撤退時に既存社会からの,それぞれの外圧に対抗するために発祥してる。
 移民先が無人の更地ということは稀なわけで,大規模移民は大抵,既存住民との軋轢を生む。閩南の地域特性で,それを自力で解決しようとしていく中でこれらの私設武力が発生してる。
 面白いのは,既存の黒社会が本質的には組織を持たない,という点です。いわば「顔役」がいるだけ,闇の地方自治体と言っていい。それが,トップ2団体が稼業の6割規模になってもなお存続している,というのは,いかに地元密着で排他性の強い結束を持つかを証明してます。
 ただそれが,外省掛の強力な組織力への対抗上,緩い連邦を築いていき,三大組織の一角を担っていく一方で,元々のテーマだった芳明館のような旧態の角頭も活動を継続してる。これは,日本の状況とはレベルが相当違って,より社会に占める成分比が高く,かつ根強いものらしい。
 あと,角頭勢力と日帝統治側との関係について,「少数の残存団体が『日本が台湾人に対応する道具』として存続」した,というwikiの記述も興味深いけれど,傍証は得られませんでした。読み方によっては,韓国やアメリカと同様に体制側の国内統制に,非公式武力として,例えば非愛国的勢力やデモを潰すのに動員されてきたのかもしれない。
 前後に掲載した写真は,レインボービレッジとして観光客を呼びつつある彩虹眷村(台中郊外→GM.)のものです。これまでの台湾の町の不思議な手触りのうち,幾分かの景観はこうした発祥に由来するものだったのかもしれません。

■情報:福建→日本密航の手引き

船を使った密航については90年ごろから中国人、それも福建省からの集団密航が目立つようになってきた。

 もちろん統計はないけれど,日本への密航についてです。そんなこと21世紀に?と思いこみがちだけど,次のような手法と,ここまで追ってきた福建の海民感覚からするとかなり現実的に思えてきます。

これまでの外国人労働者とは異なった面もいくつか持っている。
 例えば背後に密航ブローカー「蛇頭」が介在しており、大がかりな国際犯罪の様相を呈しているのもそのひとつだ。また経済難にあえぎ、母国を捨て日本に渡るといった“経済難民”のイメージとはかなり趣を異にしているのも見逃せない。

 つまり福建人が貧しいから密航するのではない。むしろ,経済発展して裕福になったから密航,ということらしい。

 密航者は密航ブローカー「蛇頭」が勧誘する。勧誘の対象としては比較的裕福な人間が選ばれる。これは蛇頭側が「費用の取りはぐれ」がないように徹底しているためだ。希望者には約10万から15万元の密航料が持ちかけられる。

 このビジネスが成立するのも,ブローカー組織がインフラとしての船舶を持つ経済力を有したからだと考えられます。

出航するのは人里離れた海岸が多い。小船でひとまず沖に出て、沖合いで漁船に乗り換え、さらに途中で貨物船に乗り換えて日本の港を目指すのが通常のパターンとなっている。

 映画などで見る密航とかなり違います。乗り換えまくることで船舶やルートを特定できなくしている。あるいは,リスクを臨機応変に回避できるし,上記のパターンなら貨物船に乗るまでに当局に発見されても何とでも言い逃れできるでしょう。

これまでの摘発例から見ると、上陸するのはやはり目立たない海岸が多い。海上に停泊した船から20から30分で上陸が可能で、かつ、大きな港の周辺を選ぶことが多い。これは上陸後の交通機関が発達しており、逃走に便利だからと見られる。

 この①(外洋)海上船舶からの上陸・陸揚の容易さと②「大きな港の周辺」という密航・密貿易地選択法は,他の例(ex.長崎野母,漳州浦頭)非常に普遍的に思えます。③上陸・陸揚後の交通機関への接続も並列すべきかもしれません。陸上民の視点では意外な場所が,海民からはこれらの条件が揃った場所はむしろ限定されてくる。

 日本の目的地に上陸するのは深夜から午前4時が多い。密航船は短時間に密航者を降ろし、夜が明けるまでに領海外に出るのが望ましいとされる。したがってベストタイムは午前0時ごろだが、昼間帯に到着したのち、深夜まで時間調整を行っている場合もある。(略)日本近海でゴムボートなどに乗り換えてピストン輸送で上陸する場合もある。

 この時間という観点は見落とされがちです。陸から視認できる外航船舶の航行は,目立たない時間と場所を選択しておいて,上陸・陸揚,さらに逃走のみを闇に紛れて行う。つまり,上陸等の直前段階までを目立たずに準備できる環境が好ましい。その意味でも正規の航路と港湾の近隣はベストなわけです。

密航者はたいてい在日の親族や友人などの連絡先のメモを持っている。最近は摘発時に発覚することを恐れ、暗記していることも多い。

 上陸・陸揚後のコネクションです。これがなければリスクを冒してもメリットがない。逆に,一度コネクションが陸上に形成されていれば,上陸・陸揚にどんなルートを選択してもいいからです。

 密航後、日本で稼いだ金は中国の実家に送られる。その際、郵便為替が使われることが多い。(略)郵便為替なら日本全国どこの郵便局からも送ることができ、6万円までの保証制度もあって安全というわけだ。そのため、送金単位は6万円ごとというのが一般的だ。日本に来る密航者の大半は、1年働き、500万から600万稼ぐのが目標になっている。

 対価を小口に分割し,かつクリーニングする。郵便為替だけでなく,昔から様々な方法はある。戦後沖縄のカマスもそうだし,漢民族好みの貴金属に換える手法もある。
 丹下論文は記述の年次は不詳ながら2000年頃と推測せられ,やや情報は古いけれど,1年5~6百万円という数字は現在の大陸中国人の経済水準からは,大都市で少し成功した位のレベルです。
「一攫千金」狙いではなく,手堅い,現実的な収益アップの手法として,密航ルートの活用はむしろリアルに採用されている,ということなのでしょう。