FASE61-6@deflag.utina3103#県庁東の異界\歌乃道ひるく 犬子ねあがりや

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

松尾一丁目へバイクをどう入れる?

▲「男と女の」。意味は分かるがなぜ業種よりそこを強調する?

的に疲れてた。昨日からだけどリュックを持ったままです。思えば今朝は読谷まで行って運玉周り,まあ当然っちゃあ当然やね。
 時間も程よいのでとにかく予約したホテルに直行することにした。
 ホテルチュラ琉球。場所は県庁東側(沖縄県那覇市松尾1丁目18−24)。
 ただ,初宿でした。近づいてから気付く。──バイクをどこに停めるんだ?
 県庁東からゆいレール・県庁前駅に抜ける車道は,両側とも淋しく歩道ばかりが広く不気味にアメリカンです。歩道に停めると目立つけれど,路地に停めるにはどこから入ればいいんだろ?これが見当がつかない。

松尾一丁目は違うぞ!浮島通りとは!

▲翌0757,琉球府跡。この弧が乗用車を乗り付けるエントランスの道路だったのでしょう。

朝に県庁敷地にある琉球立法院跡を訪れて,この場所の妙なインフラ構造に合点がいきました。
 米軍は,この緩い丘陵地に合衆国議事堂に似た丸広場のある法と理性の象徴を作ったらしい。
 だから円弧が多用され,周囲から浮くほどアメリカンに整備されてる。チュラ琉球前の道路弧は,この丸広場の東側が残ったものでしょう。

▲県庁東側辺り。GM.航空写真。

ので──この時は暫くマップを睨んだ末,県庁南口交差点を右折,すぐの路地を北へ入っていくことにしました。
 この付近には全く潜ったことがなかった。
 浮島通り辺りとはまた違う場末感があります。すぐ西の弧状車道とはまるで異なり,行き当たりばったりで造られた感じの不規則な路地です。
 路地奥の電柱に件のホテルの広告があったから何とか自信持てましたけど──おそらく琉球政府が整えた範囲の外縁,そこに即席の盛り場ができてた。その痕跡でしょう。→巻末参照
 ある意味,大がかりな沖縄Xです。
 広告の電柱を左折,ホテルが見えたところでバイクを無事……というか厳密には違法でしょうけど,停める。
※ 後日談としては,楚辺の裏道がこんな感じでした。→m19Km第三十波m龍の玉龍の時間の環き島m3楚辺の路地裏 (ニライF71)

松尾一丁目にどらえもんから踏み入る。

▲1750ちゅら琉球西の路地

時間足らず部屋で休んでから,先に垣間見た路地の不思議さがじわじわ思い出されてきた。
 気安い好い宿です。でもそれだけに常連が付いてるみたいで,ここに次泊まれるのがいつになるかは分からない。
 19時近くに宿を出る。やってみよう。まずは国際通りの西入口へ。

▲1900。最近ほとんど歩かなくなった国際通りは,記憶通りの人混みとバスの群れでした。

へ。侵入路を探す。
「宮古そばの名所 どらえもん」なるフザケた名の店。この対面の道に決めた。
 南へ入る。

▲1908国際通り,北対面に「どらえもん」な路地の角より

松尾一丁目の細道は途絶えない。

際通り越しに北を撮ったのが上の写真。
 その40秒後に南を収めたのが下の写真です。
 いかにもすぐ途絶えてそうな道です。地図を睨んでなければ,住民以外はなかなか入る気にならない相貌の道です。

▲1908。一瞬袋小路かと間違うけれど,よく見ると細い路地が続いてる。

叉路を左手へ東行する。
 曲がるともう道は一気に寂れる。路面のうねりも増す。左右だけでなく上下にも?県庁の丘から続く尾根のような地形か?
 ミリオン自販機前の三叉路……としか言い様のない場所を右へ,南行する。

▲1909一気に不安な路地に入る。

ねぐねと道がくねったその先に,八汐荘なる建物の前へ。どこだそれ?(→ここ)
 勘で,建物の左手を直進すると,美栄マンションの前を通過──国際通りが見えてきたぞ?方向を180度逆に辿ってる。引き返す。

松尾一丁目の黒門徳乃介

▲1913八汐荘の南辺り。この辺りはホントに閑散としてる。

汐荘前に帰り,先の右折方向へ進む。
 もう何が何だか分からないけれど,国際通りとは逆方向に進むべきことは確かです。
 突き当たりの三叉路を……これを右折だろうか?

▲1915藪の多い古い平屋が並ぶ。国際通りから直線距離百mの場所です。

門徳乃介の十字路。ここはまっすぐだろう……か?
 何となく,夕方に見た空気と匂いがする方向へ,要は勘だけで歩いていくと──
※ [食べログ] – 県庁前/割烹・小料理/黒門徳乃介 (クロモントクノスケ)

▲1926黒門徳乃介の十字路

松尾一丁目からの脱出

?電柱にホテルチュラ琉球という本日の宿の矢印表示?
 夕方,バイクを左折させたあの広告……だよな?全く位置感覚を無くしてたから,何度か見直す。暗いから同定する自信がないまま,でもとにかくホテルだろ?と歩いてくと──

▲1930,路地奥のチュラ琉球の電柱広告

れも突然でした。歩いてる脇をふと見ると,夕方に停めたレンタルバイクがあった。
 県庁東の弧状車道に出たのは1933。30分かかった。
 繰り返すけど直線距離は百m余。普通は徒歩1分の距離です。夜ということもあろうけれど……これほど手強いXだった,これは何故だったのか?

■小レポ:戦後の松尾一丁目

 この迷宮域,那覇市松尾一丁目について,断片的な記述は幾つかヒットします。
 それを作業仮説として総合してみたい。
 幸い時空軸は明瞭です。松尾付近は戦前までは大きな集落はなく,具和志村の一農村地帯でした。だからここの集落は,米軍が琉球立法院(Legislature of the Government of the Ryukyu Islands)を置いた1952年前後に形成されてる。
 つまり戦後すぐの混乱期です。
※ グダグダβ/松尾区(昭和26)

1 具和志村域の密集地

 現那覇市域のうち,最初に民間に返還されたのは45年の壺屋。続いて46年に牧志の大部分が戻る。でもその次の松山・美栄橋・久茂地などの返還は,5年を経た51年。
※ グダグダβ/旧那覇地区の解放順序

 真和志村域に人口密集地が形成されたのは,この5年間だったようです。

壺屋や牧志以外の旧那覇市がまだ占領下にあった頃、真和志村や小禄村への移動が許可されました。また、那覇市に戻れない人のために(地主の意向を無視して)真和志に代替地が割り当てられました。
那覇に集中するはずだった人々が真和志市に住まなくてはならなくなり、結果として真和志市に多くの住宅密集地が生まれました。
特に、代替地として割り当てられた地域は狭い敷地の家や細い路地すーじが多くなっています。
真和志に人口密集地域ができた後、旧那覇市のアメリカ軍占領地域は徐々に解放され、市街地として整備されたため、旧那覇市には意外に住宅密集地が少なくなっています。
(略)
後から解放された市街地ほど道幅や区画が広く整備されています。道幅をみただけでおおよその解放時期がわかったりします。

※ ず/那覇市の戦後の密集市街地と真和志市

2 「みなと村」の3年間

 現那覇の大部分が具和志村だった,というだけで「幻の村」という感じが我々ナチイャーにはしてしまうんだけど,現地的にはゆいレールが旧那覇域だけを通ってるとか,今も結構リアルな区域分けらしい。
 だからこの「やまと村」となると……もう架空戦記めいて感じます。掲載サイトによって区域にブレがあるけれど,存在したのは確かみたい。
 村長は,戦前戦後を通じて沖縄の建築界を牛耳る国場組社長だったという。
※ グダグダβ/みなと村掲載「2000年5月13日付け琉球新報から引用」
「『みなと村』初めて地図に/那覇市議会史 – 琉球新報
 このほど発刊された那覇市議会史第五巻『アメリカ統治期(合併前)』の中で、1950年8月に那覇市に合併した『みなと村』の行政区域が初めて地図になった。(略)
『みなと村』は47年5月、戦後引き揚げたPOW(日本軍捕虜)の業務を引き継いだ民間の那覇港湾作業隊の作業能率を上げようと、沖縄民政府知事によって設置された特別な自治体。那覇市に合併されるまで3年三カ月存続した。」

※ 国場組HP/1945〜1970年 戦後復興、多角化
「同年[引用者注:昭和21年]12月、幸太郎は米軍から那覇港湾の荷役作業隊の支配人に任命された。当時の那覇港湾にはありとあらゆる復興用、民生用、軍用諸物資が荷揚げされており、その荷役作業に従事する人々の居住する特別行政区『みなと村』の村長も兼ねた大役であった。
後に港湾作業は請負制となり、國場組に港湾作業部が設置された。」
「國場組の記念すべき、戦後初の本格的な建設工事は、昭和24年4月の米軍発注による知花橋架設工事である。
これは沖縄の建設業者が、初めて米軍との間に契約を交わして施工した工事でもあった。」
「昭和26(1951)年10月、従来の個人企業から会社組織に改め、合資会社國場組(代表社員國場幸太郎)を設立した。本店所在地は那覇市奥武山区80号(その後、那覇市壺川94番地)で、設立資本金は1000万B円(1$は120B円)であった。」
「当時の主要工事に琉球大学本館及び校舎施設(昭和25年5月完工)、沖縄住宅公社外人住宅群 (昭和27年4月完工)、琉球政府庁舎(昭和28年4月完工) 、那覇航空隊大格納庫(昭和30年10月完工)などがある。」

▲「みなと村」位置図

3「みなと村」はどこにあったか?

 さてそろそろ松尾一丁目に話を戻します。
 それは,「みなと村」の最北端の出っ張り部にありました。
     ▼この辺りを
     ▼拡大すると
     ▼見つかります。
▲「みなと村」詳細図
 ここは,北と東を当時まだ未返還の旧那覇,西を立法院に囲まれた,「公式に住んでいい那覇」の最北でした。
 勝者の政治的中心と敗者の密集居住域の,いわば国境の町。しかも「やまと村」は,定かではないけれど労働力の提供とバーターで企業が公然と私域化していた,ある意味当時唯一の解放区。
 ディープなエリアだったはずです。

4「みなと村」の成員

 よくあったものだと思うけれど,村の出身地別の47→49年の人口推移のデータがありました。

『みなと村のあゆみ』の『各市町村出身別人口比較表』(p12)から抜粋です。
数字は『出身市町村名 | 1947.5(人)/1949.3(人)』で、総人口は47年の6469人から49年には7639人に増加しています。そして1952年になるとみなと村は18465人、(那覇)1〜11区は42480人の総計60945人が総人口です(那覇市史)。49年から52年にかけていきなり倍以上に増えていますが1948年に従来地域に加えて『真和志村の字二中前一区、松尾、県庁前、旧那覇市の上泉町を編入』したためだと思われます(みなと村のあゆみ p155)。
1947年時点で90名以上いた出身地は以下四箇所。
那覇市 | 4817/5376
首里市 | 159/161
真和志 | 418/480
中城 | 92/14 <------急減 50〜89人までは以下六ヶ所。 知念 | 76/36 佐敷 | 68/18 <------急減 大里 | 62/38 羽地 | 67/7 <------急減 本部 | 65/32 国頭 | 56/73 著しい増加をしたのは以下十箇所。離島は程度の差はあってもだいたい増加です。 東風平 | 40/129 豊見城 | 33/241 兼城 | 4/66 三和 | 30/88 具志川 | 32/134 名護 | 7/45 今帰仁 | 12/56 久米島 | 17/149 粟国 | 14/85 宮古 | 9/41(以下略)


※ グダグダβ/みなと村の出身別人口

 このデータで直接,49→52年の人口倍増は分析しにくい。ただ,47→49倍率で見ると,地元那覇より凄まじい増加を示しているのは島嶼部出身者,とくに久米,粟国です。

5「海賊」たちはどこへ行ったか?

 1951.2.1に民間貿易が解禁された。この前後,沖縄近辺に跳梁跋扈した密貿易集団は姿を消していく,というのが現段階の定説になってます(石原昌家「戦後沖縄の社会史-軍作業・戦果・密貿易の時代-」「外国密貿易人の沖縄潜入と取締り強化」参照)。
「みなと村」の名前の由来とかを書いたものはないけれど,国場組が供出を管理する港湾労働者の集住域だったから,と考えるのが自然でしょう。

一九四八年政府職員給与が最高一五〇〇円、最低一九〇円、平均三五五円(B円軍票)のとき、そこでの担ぎ屋は、一日二〇〇〇円も稼ぐという噂だった。

『豚養うよりは、ブローカー(仲買人·密貿易人)を養った方がよい』という言い草が残っている。
 密貿易人の下宿代は、一日
二00~三00円(B円) で平時の教員料が一日の宿泊料で吹っ飛ぶ金額であった。一間半と二間で三坪ていどの倉庫小屋は、普通三〇〇〇~五〇〇○円で請負師が三日間ほどで建てていた。
 密貿易品を二回預かっただけで、二軒分の建設代金が取り戻せた。

(石原前掲書)
 この当時の沖縄の「密貿易」というのは,これを見ると「一部の悪人集団」ではあり得ない。「密貿易関係者群」はほとんど社会の大半を巻き込んでいたと思われる。「港湾労働者」はその中核にいた。
「海賊」たちが市場を失ったとき,「準・海賊」の中に紛れていくという行動は,むしろ至極当然だったのではないでしょうか。
 いや,紛れていく,というより,巧い幕引きを図れた,と言った方が彼らの感情に近いと思う。麻痺し切っていた流通のやむを得ない代替が戦後沖縄の「密貿易」だったわけで,「職業海賊」を志したのではないのだから。
 つまり──彼らが染み込むように上陸した一次居住地が,3年で倍増した「みなと村」域,特にその突端域だった松尾一丁目の細い路地の迷路なのではないか。

5「海賊」対米軍政

 この翌年,新聞記事を読み込んだ際にも持った感想ですけど──米軍,というより軍と国場組等現地企業のコングロマリットは,沖縄の戦後の混沌を考えられないほど巧みに収拾してます。
 この「やまと村」の行政形態については,「特別な行政区」という表現は繰り返し現れるけれど,何が特別などういう行政体だったのか,この点の記述がついに見つかりませんでした。
 おそらく国場組の独断ではない。少なくとも米軍はここの状況と機能を黙認してたはずです。
「やまと村」は──前述の通りとすれば──無法な海域世界と合法な占領地の間のバッファゾーンとして,見事に機能してた。
 清朝代に北京城内から退去させられた漢民族が,城外縁に胡同を形成したのを連想します。→※ 外伝17-103 胡同へ礼儀正しく蛇入る/胡同1/10=瑠璃厂街前へ迷走/■小レポ:琉璃厂の沿革から見た北京胡同の位置付け
 清朝と言えば,この陸上王朝は海民に対抗するために,鞭:討伐による駆逐と飴:任官による吸収を図った。でも米軍は,どちらでもなく,経済・通商環境の変質化から始めてバッファゾーンへの誘導と現地企業への吸収により海賊の自壊に成功してる。
 国場組も利益と権威と労働力を確保し,関係した準・密貿易者も富を抱えたまま逃げ切れた。民間活力の力を信じて疑わない,アメリカらしい統治の狭間にこの稀有な自治体は存在してた。
 それを延長して想像すると,米軍側も国場組もこの村は短命な形で解消させないと危険だった,ということもあろうと思います。だから残念ながら,まずこの村の資料はこれ以上出てはこないでしょう。
▲みなと村役場跡の碑
※ 出典:monument/みなと村役場跡 ~場所は那覇市奥武山町42-3

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