FASE62-5@deflag.utina3103#毛国鼎公安里墓所,崇元寺御嶽,天久宮\楽に育しは苦しやしゆる基ひ

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

毛国鼎の広いお墓

角チャリを借りれたんだからと,既に17時が近づいてたけど,市内北へ少し回ることにした。
 琉球八社中,まだ未知の天久宮へ行ってみたかったのです。でもこれが途中での立ち寄りも多く,思いもよらず多産な道行きになりました。

国鼎公安里墓所
〔日本名〕沖縄県那覇市字安里48
〔沖縄名〕もうこくていこうあざとぼしょ
〔米軍名〕ホースショア南麓(那覇攻撃時に破壊)

▲1705毛国鼎公安里墓所

際通りを自転車で駆け抜けるのは,なかなか爽快です。
 安里三叉路から左折,西行に転ずると,右手,おもろまちの斜面沿いにちらりと変なものが目の端をかすめました。
 場所は真栄城耳鼻咽喉科対面。
 道をそれて入ってみると「毛国鼎公安里墓所」という看板。門扉は閉まり,入れない。中の広い敷地に,ぽつりと日本風の墓が一柱。
「(社)久米国鼎会」名義でこんな記載が出てます。
「墓所は神聖な場所です。墓所内への立ち入りをお断りします。」
「琉球王府からの拝領墓地として1943年に創建されましたが,沖縄戦の惨禍で破損し……」
 王府から拝領され,今もこれだけの敷地を使い,社団法人まで作って管理する墓地とは?
 ──当時は全く予備知識がなく,完全に「???」のまま写真だけ撮ってます。真相(?)→巻末参照

▲1711沖縄空手バー。いいから静かに呑ませてくれ。

壊さないけど拝まない:崇元寺御嶽

度となく通り過ぎてる崇元寺まで来ました。
 事前の調べのとおり東側に回ると……ほんとにあった。
 1713,崇元寺御嶽。

元寺御嶽
〔日本名] 沖縄県那覇市泊1丁目
〔沖縄名〕同。通称:馬鞭御嶽。琉球国由来記ではコバノミヤウレ御イベ
〔米軍名〕-

▲崇元寺御嶽と隣の公園上がり口

園真横。左手からキャッチボールの音が聞こえる。右手はすぐ車道です。
 生活の中の御嶽……と言えば聞こえはいいけれど,安里大親の屋敷跡とされる崇元寺の専用御嶽のような場所だったのが祟ってるんでしょうか,全く神秘性のない御嶽です。
 こんな古さなのに全然崇められてない。
※ ハイホーの沖縄散歩-那覇地区-/馬鞭御嶽(うまむちうたき)
※ ameba/沖縄の裏散歩/崇元寺(そうげんじ)石門跡

▲1715崇元寺御嶽

当古い。
 ガジュマルの根が神体と祭壇の間に割り込んでる。
 安里大親の伝承が正しいなら,15世紀のものということになる。
 けれどそれでもこう粗末に扱われてるというのは──壊さないけど拝まないよ,という庶民側の強い意志が感じられます。

▲1717崇元寺御嶽の神体,祭壇,ガジュマル

泊外人墓地の三百柱

交差点を渡り,なお西行。
 外人墓地の横でタバコを吹かす。
 長崎に比べ温かい葬り方です。区画を割り当てたという感じでなく,割と好きな方角にのびのびと設置してある。──約3百柱。長崎(5百超)に比べ埋葬者数はやや少なめというのもあるかもだけど……この違いはどこから?
※ 那覇市観光資源データベース/泊外人墓地
「墓地入り口より右手奥の方が古い外国人墓(俗称ウランダ墓)で、中国人、アメリカ人をはじめ、6ヶ国の計22名が葬られている。」
※ ameba/沖縄の裏探検/泊外人墓地
※ 長崎たびネット/大浦国際墓地

▲春婚活──はいいけれど,そこにおもむろに「肉」とはいかにも生々しい。

神々の立体構造マンション・天久宮

人墓地の手前の路地に入り,四叉路を西へ入る。
 幟は見えた。でも社らしきものがない。どこじゃ?

久宮
〔日本名〕沖縄県那覇市泊3丁目19−3
〔沖縄名〕同(あめくぐう)。「天久山大権現」とも。御嶽としては「泊ユイヤギ御嶽」。
〔米軍名〕amike(天久台)→巻末メモ参照

▲1739天久宮入口

へ?
 1739,天久宮。日本の社の感覚でてっきり上にあると思ってたのに──
 上には社務所のような建物(これが権現だったらしい),後から行った龍宮とかはあるけれど,どう見てもメインの神体は下みたい。
 南脇からの階段で下るのである。しかも学校脇?

▲1742学校脇のこういうところが拝殿です。

ユイヤギ御嶽」「三日月ウカー」と看板がある。
 倉庫とトイレの間。岩の下の影のような場所にあります。それでもなお荘厳なところが聖所ですけど,何でこんな構造にしちゃうの?

久宮の立体構造その他につき,下記サイトが独自の見解を呈していた。未消化のまま転載しておきたい。

実に不可思議な三階建て構造をした神社で、再建前の様子が想像できませんが、神社となる前の巨岩にあった御嶽がそのまま残っているのかもしれないですね。

1703年社殿の改修工事が行われ,1734年には今の聖現寺北方に建っていた社殿を現在地に移設。昭和19年の空襲で社殿を焼失し,戦後は御嶽形式により奉祀。
この文は鳥居横の掲示板を参考にしました。

この近くには、あの世、霊界と通じていると言われているヘーリンという聖地があります。

※ 沖縄情報IMA/天久宮

▲1743泊ユイヤギ御嶽

りげないのに,何とも近付き難い神威を感じさせる祠です。
「ユイヤギ」の意味も不明なら,祀ってある神名も分からない。上の由緒書きでは神体は次のような見たこともない組み合わせです。
「天龍大御神
 天久臣之姫大神
 泊龍宮神
 弁天負泰彦大神
 弁財天」
 女神の多さは媽祖信仰の影響を仄かに予感させます。八宮の中でもかなり異質です。

龍宮神,権現,夕暮れの校庭

▲1749社務所(→間違い)の辺り

下の御嶽に対し,社務所(実は権現だった……)の左手階段から登った辺りは驚くほど質素で日本的。天久宮そのものは二礼二拍手一礼と表示されてるし天皇家を讃える語も出てる。

▲1747龍宮神から校庭を見下ろす。

のヤマトエリアの一角,南端に泊竜宮神。北面,おそらく埋立前は海へ拝む方向だったろう。「玉筒男神 拜天負泰彦大神 神世三代午方神」とある。
 日本風だけど──玉筒男は住吉三神(底筒男命,中筒男命,表筒男命)に似ているようで違うし,「負泰彦大神」というのも見慣れない。

▲1757天久宮北の亀甲墓地帯

久台の北側は墓地になってます。
 那覇市の看板あり。「この地域は,那覇広域都市計画公園事業(那3号天久緑地)の対象地域となっており,所在するお墓の移転補償を行っております。
 移転対象となるお墓について,事業へのご協力をお願いしております。」

▲1800天久台頂上部の藪へ消える道

蒼とした森が背後を覆う。歩み入る道は見当たらない。
 米軍の砲撃を受けた場所だと予想されるけれど,墓はどれも古い。当時,どのような状況に置かれたのだろう。
 1803。R58に出た。嘘のような現世っぷり。
 黄昏に追われ東へ渡る。

■小レポ:毛国鼎を祀るということ

 この墓地そのものが信じられなかったけど,看板にあった公益社団法人久米国鼎会のHPの記述を見ていくとさらに信じがたいことが並んでました。

1 毛国鼎を祀り続るための法人

戦前、門中清明祭を行う毛国鼎公の墓地は当時の地図に唐人墓とあり、うっそうとした樹木に覆われた墓前に溜池がある静かな所であった。今や周辺も市街地化し、戦前のような面影や風情は全くないものの、独特な形状の墓とあって、道行く人達が市街地の何かの記念碑と間違えて訪れることがある。

※ 公益社団法人久米国鼎会/行事案内
「道行く人達が市街地の何かの記念碑と間違えて訪れることがある」は,まるで見られていたようですけど,戦前はこの一帯がまさに拝所,いやはっきり言うと久米毛氏の私的公園のような状態だったわけです。

わたしたち久米毛氏門中の始祖毛国鼎公が明国神宗万暦帝の勅命を以て琉球に派遣され、朝貢貿易や外交業務をこなし、1607年(万暦35)に琉球王国に仕えた。2007年は来琉400年を数えました。

※ 同/会長ご挨拶
 渡来人だった祖先の足跡をはっきり自認してる。他の国での華僑の一族もこういうものなんでしょうか?

1952年3月に戦後初めて門中の主催で学事奨励会を行い在学生に学用品を贈り激励した。この学事奨励会は毎年続行され那覇.嘉手納.中部.南部の4地区に分け3月末から4月に亘って那覇地区は安里墓所(現在は久米国鼎会館)で、その他の地区は役員宅で会から出張して行い師弟の学業向上に努めている。1953年1月安里墓地の復元工事も(略)幾多の方々の尽力等、また会員が雑工事の手伝いなどを無料で奉仕してもらい、戦前の原型通り、元祖毛国鼎公の御拝領墓が再現された。また工事を契機に340年ぶりに毛国鼎公の洗骨の儀が(略)により執り行われた。

 会子弟の学業面に物凄い意欲で取り組んでる。これは子弟のプレッシャーも半端じゃないでしょう。しかもそれを4地区で開催?
 あと,未だに洗骨をやってるのか?しかも会の公式行事として?

1956年7月那覇市教育会館で2議案の承認をうけるため臨時総会を開催した。
1.育英資金貸与規定
2.元祖毛国鼎公の来琉350年祭記念式典の挙行
総会で承認を受けたので早速準備にかかり、記念碑の建立を始め、諸般の準備を整えて菊花薫る1956年11月11日の吉日に祭典は挙行され、広大な墓所も全島各地から集まった500人以上の子孫で満ち溢れた。

 5百人集まるの?そりゃ広い敷地が必要です。つまりこの場所は,会専用の式典会場でもあるわけです。

2007年には始祖毛國鼎公が琉球に帰化して400年の記念すべき年にあたり、終戦後50有余年も過ぎ痛みの進んだ墓所をこの機会に改修する工事に2004年6月から着工した。2007年夏には新装の毛國鼎公墓所が竣工お披露目するのと、同時に400年の節目に当たりこれまで活字に為り得なかった資料群等を集大成した記念誌『鼎』を2008年に刊行した。

※ 同/概要
 というわけで,この時に見た墓は2007年竣工の新墓だったのでした。で,4百年記念試を刊行!そんな親族組織があるのか!
 凄すぎる……。

2 漢語文献から読む毛国鼎

 そんな大層な崇拝の中心に在る毛国鼎ですけど,ここはあえて客観的に追ってみます。
 琉球王朝下でも毛氏は有力で,記録を脱臭している形跡があるから,そうした偏向が考えにくい漢語文献に注目してみます。
 なお,最初ワシも混同したんですけど──第一尚氏末の護佐丸も毛国鼎を唐名としてて,彼が毛氏の祖先とされているけれど,久米毛氏始祖の毛国鼎は17世紀初めの別人物です。
①生年1571年~没年1643年
②字は擎台
③出身は福建・漳州
④阮維新という人物(字・天受,同じく福建・漳州の龍溪県出身)と琉球移住を含め行動をともにした。
⑤毛氏は明から清にかけて期掖県(現・山東省莱州市)を拠点にした一族
⑥中国側の記録では,他の毛姓の人物との比較でも,毛国鼎はその中のワン・オブ・ゼムである。
 以上の事実を踏まえると,毛国鼎を考えるとき,時代の偉人,または特異点として考えるのは意義が薄くて,むしろ毛・阮両人あるいは毛氏一般の動静を考えた方が有意義に思えます。

毛国鼎
毛国鼎可以指:毛国鼎 (按司)(?-1458年),即护佐丸,琉球国第一尚氏王朝时期的按司。毛国鼎 (久米村)(1571年-1643年),字擎台,福建漳州人,久米村毛氏之祖。
毛泰时
毛泰时号肖岳。和名名乘读谷山亲方盛泰,琉球国毛氏座喜味殿内的系祖。毛国鼎的后裔,琉球毛氏豊见城殿内五世毛继祖的儿子。母亲向氏。泰时于万暦二十五年(1597年)丁酉五月十三日生。万历三十七年,得到里之子的爵位。四十一年,获得佩戴黄冠的权利。天启二年,任豊见城间切保荣茂地头职。崇祯元年,作为使节庆贺明思宗朱由检登极的庆贺使出使大明。翌年三月从水路出发,由福建进入大陆。至崇祯四年六月才回到琉球。其后担任各地的地头。康熙六年逝世,时年七十一。他的儿子毛思礼早卒、毛思义继承他的座喜味殿内。

※ 139百科/玳瑁
※ 中國哲學書電子化計劃/清代琉球紀錄續輯
「阮維新,字天受;其先福建漳州府龍溪縣人。明萬歷時,有阮國字我萃者,與毛國鼎同奉命居琉球;官正議大夫,充萬歷三十四年謝封使。傳四世至維新,同梁成楫、蔡文溥入學;累官紫金大夫,充康熙五十三年貢使。」

曲剧《屠夫状元》唱词
「14、掖县毛纪家族
明清时期掖县(今山东莱州市)著名的诗书衣冠盛族。毛家自大明中叶起科甲蝉连不绝,毛纪以首辅之茸名扬天下,其子侄多以科第得官。闻人辈出,被称为”东海世家”。其家主要代表人物有:(略)
(宇)毛国鼎,引重孙,世袭锦衣卫指挥金事。
(宙)毛九华,字含章,纪裔孙,大明万历进士,累官御史,入清后以御史巡按江西;毛漪秀,字公卫,纪裔孙,大清顺治十五年(1658)进士,授平凉府同知,迁户部郎中,曾充贵州乡试主考官,出督云南学政。(略)」

[護佐丸としての毛国鼎記述]
※ グダグダβ/久米村人(クニンダ)の宗家
「護佐丸の唐名は毛国鼎で毛氏豊見城と毛氏池城の元祖ですが、ややこしいことに久米毛氏の元祖も毛国鼎です。」

※ wiki/護佐丸
「護佐丸(ごさまる、生年不詳 – 1458年)は、15世紀の琉球王国(中山)の按司。恩納村出身。大和名は中城按司 護佐丸 盛春(なかぐすくあじ ごさまる せいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)。ただし何れも後世に付けられたものである。」
「盛親は尚円王に登用されて豊見城間切の総地頭職に任ぜられ、豊見城親方盛親を名乗った。その子孫は大宗家(本家)である毛氏豊見城殿内を筆頭に五大姓(五大名門)の一つとして、その後門中からは三司官をはじめ、首里王府の主要な役職に多数が就き、琉球屈指の名門の一つとして栄えた。」
「護佐丸・阿麻和利の乱の経緯については、琉球王国の最初の正史である中山世鑑に記述がなく(欠本とも伝えられる)、中山世譜などの史書が護佐丸の末裔が繁栄した時代に編纂されていること(略)など、不可解な点がある。」

※ 5ch/【沖縄】第二尚氏王朝は沖縄人の王朝ではなかった
「0088 日本@名無史さん 2005/06/12 09:21:18
>>86
護佐丸には「毛国鼎」っていう別名もあるんだよ。
琉球人は日本風の名前と中国風の名前をふたつ持ってた。(略)
0098 日本@名無史さん 2005/07/15 23:03:10
護佐丸の名前に関しては
本名が護佐丸、盛春は別名で、唐名が毛国鼎。」

3 毛・阮両人の琉球移住の環境

「每日頭條」(中国語プログ)に「毛國鼎祖籍中國福建,但他後來為何要入籍琉球國久米村?」(毛国鼎は中国の福建出身なのになぜ琉球の久米村に移住したの?)という記事がおりました。
 これによると,阮・毛両人は漂着した琉球人を本国送還したのを縁に,琉球に本拠とするようになったらしい。
 その後,明・万歴帝の「お墨付き」を得た。

琉球使團到達北京後,正使毛鳳儀代表尚寧王上書禮部,請求依照洪武「閩人三十六姓」之例,再下賜阮、毛二人於琉球。同時在上奏書中複述阮國在琉球國中先後擔任都通事、正議大夫等職位,多次在琉球海上航行和冊封使迎接護送中有功。

 つまり琉球側の依頼で,先行の「閩人三十六姓」に準じる「派遣」扱いとされた。さらに明側の依頼で,「通事」等の琉球王朝の官職を冠された。注目すべきは,この過程で間を取り持った使節トップもまた毛姓の人物だということです。
 万歴期は10年の親政移行以後,滅亡に向かって斜陽に入ってる。毛氏が両者の関係を演出していたと考えるのが妥当で,この二つの措置はいずれも実質は毛氏の自作自演の疑いがある。
 つまり毛国鼎は,毛氏本家に琉球担当として任ぜられた。これが本質だと考えられます。
 ただ,明末の混乱と鄭和の活動期にあって,その「正式派遣」資格は今日に至る久米毛氏の繁栄の基として極めて有効に働いたものだったでしょう。
※ 每日頭條/毛國鼎祖籍中國福建,但他後來為何要入籍琉球國久米村?
※ wiki/万歴帝

4 毛氏の琉球移住とは何だったか?

 毛国鼎の琉球移住期の大状況を見てみます。この時期,2つの軍事行動が行われています。
1592年 – 1598年 朝鮮出兵
1609年 薩摩藩の琉球侵攻
 每日頭條はやや根拠に欠きますけど次のように記述しています。

但此時明朝剛剛經歷了萬曆朝鮮戰爭,對東南沿海倭寇活動和間諜活動仍心有餘悸;朝中眾臣多認為從事海事活動的人屬於貪圖利益的「奸徒」,因而明朝對阮、毛二人的「真實身份」表示懷疑。此外,明朝對於阮、毛二人先是以朝廷「公務人員」身份護送琉球使團歸國,卻又滯留琉球多年,後又以琉球使團成員的身份進貢中國,對二人前後種種行為表現以及動機,也表示出很大的疑問。

※ 每日頭條/同上
 戦国を脱し対外行動にフリーになった日本の軍事力が歴然とする中,毛・阮両者とも明中央からは「真実の身分」を疑われていた。根拠はなくとも非常に蓋然性はある。
 というより毛氏そのものが,当時の後期倭寇の本拠・漳州の出身です。彼らが莱州を根拠にしていたというのは,当時の彼らが倭寇勢力の一角を為していたことの状況証拠たりうると思われます。
 そもそも秀吉も薩摩も,明の弱体化につけこみ,この状況なら大陸中国からの大兵は来ないと見込んでの軍事行動だったでしょう。
 その状況下で,毛氏も独自の拠点を作る必要があった。さらには,急速な海上自由交易から陸上権力による統制経済への移行下で,「陸上がり」の保険をかけておく必要があった。
 その結果,沖縄本島に陸上がりした後期倭寇勢力があり,江戸期以降の琉球で確固たる勢力を築いた。──そういうことではないかと推測してみましたた。無理があるでしょうか?

5「海賊の陸上がり」モデル

 戦後「密貿易」時代の松尾一丁目,後期倭寇期の久米と二つの「海賊陸上がり」モデルを充ててみたことになります。
 この線上に,もう一つ仮説を描いてみます。
 隋唐帝国期前にも同じような海域アジア興隆の時代があった。彼らは米や仏教を伝来させ,黒曜石などの交易で経済力を得た。
 この人々が,米作の本格化に伴い巨大化・構造化していった陸上の王国の出現と,これによる海上統制の進展に伴い,陸への撤退を試みるようになった。
 宗像三女神,住吉神,八幡神,そして天照を奉じる海民が,陸上勢力の隙間を探し,上陸を図る。
 日本神話に言う天孫降臨や神武東征は,そういう出来事だったのではないでしょうか。
 神武東征のあの経路は,個人的には瀬戸内海沿いに陸上の「隙間」を探していった行程に見えて仕方がないのです。

■小レポ:ヲーサーレー!!(その通り!)

 崇元寺の主・安里大親は,金丸(後の尚円王:第二尚氏初代王)を擁立した人物。
 どう擁立したのかと言うと,実に沖縄らしい。こうです。

第一尚氏尚徳王亡きあと、王族の誰を後継者とするか重臣たちが集った。ここに居合わせた安里大親が突然に神がかりして「虎の子は虎、悪王の子や悪王、物呉ゆすど我御主、内間御鎖ど我御主」と謡い始めた。一同これに「ヲーサーレー」と唱和して、第一尚氏王族ではない、第二尚氏初代の内間金丸(後の尚円王)を擁立した

 ──無茶苦茶に胡散臭い。完全な創作か,本当にあったならほぼ全員が示し会わせた芝居としか思えない。
 ただ,この神がかりが一種の神宣のような役割で働いてるところは注目すべきだと思う。安里大親から受権されて新王が生まれたようなストーリーです。
 安里大親って誰だったんだろう?
※ wiki/安里大親

1 金丸悪玉説

 という胡散臭さが,第二尚氏初代・金丸を悪者にする言説になってる。大体こんな陰謀説です。
①伊是名島出身の農民。あるいは「丸」が付いてるから内地人である。
②第一尚氏初代尚巴志の死後,その息子が3〜5代の王となる。でもいずれも在位5年弱で崩御してる。毒殺されたのだ。
③自分の仕えていた尚泰久を王位につけた後,王家守護の最有力武将・護佐丸を,勝連城主の阿麻和利と争わせた。④護佐丸亡き後は,今度は阿麻和利を謀殺し,有力武将を根絶やしにした。
⑤尚泰久も在位後7年で急死。金丸はその傍系の21歳の子・尚徳を第七代王とし,喜界島への無謀な遠征を行わせた。
⑥人心の離れるのを待ち1469年に尚氏血筋を全員殺害した。
⑦安里大親に推させ,血統は関係ないのに王朝を継いで尚氏を名乗った。
※ ameba/TERESAのプログ/沖縄のルーツを考える〜第二尚氏とは何か?

2 本当は何が起きていたのか?

 もし本当に,本島を始めて武力統一した尚初代の直後に一個人が王朝そのものを転覆させたのだとすれば,大した手腕です。
 でも,個別には可能に思えても,こうして全部並べると,そんなマンガみたいな陰謀は非現実的だと感じられるはずです。
 では何が起こっていたのか?
 ヒントになるのは,この過程の登場人物たちが,いずれも海外交易に関わってることです。
・護佐丸:座喜見城を拠点に(おそらく中国と)交易
・阿麻和利:当時はメイン港湾だった東海で交易
・安里大親:首里への海上ルートの最端
・金丸:伊是名島生まれで国頭から首里と転々とした。おそらく海民。
 もう一点は,安里大親の唐名です。
 毛興文という。
※ wiki/安里大親
「唐名は毛興文、名乗は清信。第二尚氏王統初代・尚円王の即位を推挙した人物。毛氏永村殿内の元祖。」

3 沖縄の東アジアにおける地位向上期

 何が言いたいかというと──誰か一人「悪者」がいた,あるいは「黒幕」がいたというのより,なぜこれらの利権目的の人々が一気に活躍し初めたのか,その経済的背景の劇的変化を考えるべきだということです。
 15世紀に明の民間海禁により東アジアの海上交易が官制交易に移行したとき,海民が交易を継続するには「朝貢国」の看板がどうしても必要になった。その看板を背負っての交易が莫大な利権になった。
 明の対琉球姿勢は極めて琉球に有利でした。頻度の設定がなく,膨大な船舶下賜,勘合不要と,その利権は非常に大きいものでした。
 沖縄の各交易勢力が,この看板の独占に突如として躍起になった。つまり沖縄戦国時代から統一政権への流れは,明の海上政策→沖縄周辺海民の陸上がり→王権の争奪という因果関係をメインストリームとしています。
 
1368年 明朝設立
1372年 明・洪武帝が中山王の察度に使者・楊載を送り,入貢要請
1385年 中山・山南に明の大型船下賜
1422年(第一尚氏2代・尚巴志)護佐丸,座喜味城に入る。
1440年、護佐丸,王命(3代尚忠)により中城城に移る。
1451年(5代尚金福)首里と那覇を結ぶ長虹堤竣工
1458年 護佐丸・阿麻和利の乱勃発
1469年 第一尚氏滅亡(7代尚徳),金丸(尚円王)即位

wiki/琉球の朝貢と冊封の歴史
「朝貢の頻度について1372年以降、洪武帝は3年ごとに朝貢を行う、いわゆる三年一貢を朝貢の原則と定めた。しかし琉球に対しては当初、三年一貢の原則が適用されることはなかった。洪武帝の統治理念等をまとめた「皇明祖訓」には、琉球の朝貢についてはいつ朝貢しても構わない「朝貢不時」との見解が述べられており」
「明は琉球のみに船舶を下賜していたわけではないが、琉球に下賜された船舶は洪武から永楽年間にかけて30隻に達し、しかも船舶の修理も明に依頼していた。」
「中国に朝貢を行う場合、朝貢ルートを固定することが原則であった。琉球も洪武年間は泉州、永楽年間以降は主に福州が出入国場所となっていたが、実際には寧波、瑞安も出入国場所として利用しており、朝貢ルートは固定されていなかった。これに関連して朝貢時には明当局が発給した勘合という割符の照合手続きが必要であったが、琉球は免除されていた。勘合の照合手続きは朝貢窓口の一本化、つまりルートの固定が必要となるが、勘合照合が免除されていた琉球は朝貢ルートを複数持つことが可能であり」

※ wiki/第一尚氏

4 フィクサー・安里大親

 安里大親の居所・現崇元寺は,1451年竣工の長虹堤の港側出口です。
 彼の「毛」姓は,前レポで触れた漳州出身の海民一族と推定されます。安里での交易の安定とともに王国のメインゲートとしてのインフラと地位を築いた,ということでしょう。
 正史上は王朝交代劇で神がかったという場面にしか登場しないけれど,安里大親はこの時期の隠然たるフィクサーとしか思えない。何せ神がかって御託宣をしたら王宮一堂同意して,血縁もない新王が決まったというのだから。
 金丸という人は,この即位直前は既に隠居してる。本人主導のクーデターらしくない。となると安里大親が,適当な野心家を引っ張り出してきた,というのが実情で,功績とか逸話類も後から整えられたものが多いのではないでしょうか?

5 沖縄史を塗り替えた兄弟喧嘩

 もう一つ気になるのは,安里大親と護佐丸が兄弟だという言説です。
 琉球放送ドラマ「尚円王」では,護佐丸の失脚時に安里大親も隠居したストーリーです。
 でもそういう人はフィクサーたりえないでしょう。──通説でも,この兄弟説はほぼ無視されてるようです。
 もう一つの関連マイナー事項として,伊壽留按司((いずるんあじ)がある。やはり護佐丸の兄弟とされる。墓は中城内にあり,豪農として名家を成しているという。
 さて,血縁関係を知りたい訳じゃない。安里大親も護佐丸も「毛」姓であることは先述しました。伊壽留按司も同様だったとすると──海禁開始間もないこの時期,かの海上交易集団は,沖縄各層に高スキル者を送りこんでいたのではないか?
 つまり,安里大親も護佐丸も兄弟ではないけれど同族,という推測です。それぞれが沖縄各界に浸透し,中で最も勢力を成した者がこの二人だったという可能性。

6 第二尚王朝は何のためのシステムだったのか?

 毛氏集団は海民であり「華僑」です。結果としてこの二人が,一方は新王朝草創期のフィクサーとなり,もう一方が旧王朝最後の忠臣になって,何れかが滅びても,どちらかの毛姓が沖縄中央を動かせればよかった。──同族相争うという悲壮感は,本人たちにはほぼなかったと想像します。
 結果,第二尚王朝になって朝貢頻度は二年一貢となっています。明が頻度義務を設けない優遇措置をとっていたのに,他の義務設定国の三年一貢より多くしてる。──尚円王の政治的功績は不思議なほど少ないけれど,これが最大の施策と言っていい。
「第二尚王朝」は対明朝貢のために建てられた,という印象です。第一尚氏の滅亡も毛氏海民群がその不安定さを,交易環境として許容し難いものとみて見放した,ということでしょう。
 自己目的的な統治システムは,沖縄にはまだ存在したことがないのだと思います。
 沖縄の本質的海域性……のようなものはこうした経緯で形成されたのではないでしょうか?
※ 沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道/伊舎堂安里(いしゃどうあさと)・元祖は護佐丸の兄で、伊壽留按司と呼ばれた人物である。
「(伊壽留按司は)武士としての生き方を嫌い、城下の伊舎堂村に住み着き、農業に励んだという。伊壽留は豪農となり、子孫は安里を名乗って、屋号を『いずるん安里』と称したが、地元では伊舎堂安里(いしゃどうあさと)で呼んでいると云う。」

※ wiki/尚円王
「即位後
天王寺・龍福寺・崇元寺を建立した。
また、中国との朝貢貿易の進貢間隔を二年一貢とした。」

7(参考)琉球朝貢開始の契機に関する最新説

琉球の朝貢開始の前提となったのは,14世紀中葉における日元間航路の変更である。元末内乱や倭寇活動の活発化により中国沿岸地域の治安が悪化し,従来の博多-明州ルート(大洋路)にかわり,琉球を経由する肥後高瀬-福建ルート(南島路)が一時的に利用されることになった[榎本渉2007a][橋本雄2005a]。

※ 上里隆司「第6章 琉球王国の形成と展開」2 琉球の国家形成と朝貢体制への参入 桃木至朗編「海域アジア研究入門」※※[榎本渉2007a]「東アジア海域と日中交流──九~一四世紀──」吉川弘文館
[橋本雄2005a]「中世日本の国際関係──東アジア通交圏と偽使問題」吉川弘文館

■小レポ:意外と高名なウィリアム・ボードさん

 この泊外人墓地に,ウィリアム・ボードというアメリカ人が埋葬されてて,割とあちこちに紹介されてる。そのストーリーが,まあ死んでるんだけど面白過ぎたので触れておきます。
 昔むかし,ペリー提督に率いられて沖縄に来たレキシントン号という軍艦に,Wiliam Board ウィリアム・ボードという水兵さんが乗ってきたそうな。
──まずこのレキシントンという船名が,南部アメリカのほのぼのセンスです。
 ボードさんは,よほど鬱憤がたまってたのか,ある夜に仲間の水兵と連れ立ち民家に侵入,泡盛をしたたか飲んで酔っぱらい,当時54才だったウミトゥおばあをレイプしてしまったそうな。
──何故?どう間違ってそういう方向に走ったのか?
──ここの年齢を故意に書かずに,現代の米兵暴行事件の先駆けのような扱いをしてる記事が多数あるけれど,それは都合良すぎだと思う。
 現場に踏みこんだ渡慶次カマさんをはじめ何人かのうちなんちゅたち,ボードに石を投げながら攻撃・追撃,ボードはとうとう崖から転落してこの世を去ってしまったそうな。
──ここでの攻撃手段は「石」に限定されてる。なぜ石なのか,石を投げたのか石で叩いたのか,そんなんで崖から落ちるほど水兵がなぜビビッたのか?訳が分からない。分からないけど,米兵だろうとなんだろうと,普通のうちなんちゅが躊躇なく戦いを挑んだところは凄い。
 ボードの死にペリーは激昂,米兵殺害犯として渡慶次カマら6名の引き渡しを要求。これに対し琉球王国側は,渡慶次カマの八重山終身流刑,他も宮古流刑の刑を課す。けどな,実際にはその刑は実行されず,ペリーもその不履行を黙認したのじゃと。
──この部分も,刑が履行されたかどうかで様々な記述があります。でも,いずれにしても琉球側は引渡しを暗に拒否したのは間違いなさそうです。外交には長けた琉球王国側は,阿吽の呼吸で事件を処理したと言っていい。
 といった感じで,ワシの捉えではこの事件,琉球王国に蓄積された外交能力の強かさを証するもののように見えます。

※ 近代沖縄/琉球処分3/8 /アメリカ水兵殺害事件

▲北から見た天久方面鳥瞰写真

■メモ:天久台洞窟を死守した独立第2大隊長

 天久宮を南東に抱く台地・天久台は,シュガーローフの主陣地の西側側面。
 小禄の海軍司令部に対する具志・宮城の位置と驚くほど似ている。
 海沿いに迂回して背後を取ろうとする米軍に対し,ここに籠った独立第2大隊及び機関砲第103大隊が,頂上をとられた後も洞窟に籠って戦い,ほぼ全滅している。
※ 沖縄戦史/安謝川渡河と天久台の戦闘
「5月13日
 天久台の一角を固守する独立第2大隊、機関砲第103大隊などは奮戦したが、天久台台上は完全に米軍に占領され、独立第2大隊長古賀宗市少佐以下の残存者は洞窟陣地に拠って夜間斬込を実施して奮闘を続けた。
5月15日
 天久台洞窟を死守していた独立第2大隊長古賀宗市少佐以下の残存者は、無線をもって適時敵情を報告し、斬込を実施していたが、15日夜残存者総員の斬込を敢行し大隊長以下ほとんどが戦死した。」

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