m19Q@2m第三十六波m回天の砦映ゆ海域アジアm鞆 /【特論2】鞆の津発海域アジア

■特論レポ:鞆幕府は海域アジアに面したか?

義昭は本当に鯛釣りをしていたのだろうか。〔後掲紀行歴史遊学〕

長と秀吉は,現代の教科書で語られるほど,都落ち後の足利義昭を過去の人物と見てはいなかった。本章での結論を先に言い換えると,そういうことになります。
 本編「鞆夫」(→本編)で触れたように,鞆幕府が行政機構の実体を有したことは否定しにくい。ただ本稿では,現実的なパワーであった旨を主張していきたい。
 次の前後関係を確認して頂きたい。足利義昭が自身納得の上で将軍職を退いた後,海賊停止令は発せられています。

1587(天正15)年
 足利義昭帰洛
同12月
 山城国槇島に1万石領を得る
1588(天正16)年1月13日
 将軍辞任
1588(天正16)年7月8日
 海賊停止令

「海賊停止令」という法令は,無論実際には存在しませんし,おそらくそれ以前の各大名が発したものの再発令だと考えられています〔後掲三鬼〕。先行令との違いは,全国海浜域に広く示されたことと,村上水軍支配海域を直接の対象として発せられたことです。

   定
一 諸国於海上賊船之儀堅被成御停止之処、今度備後伊与※両国之間伊津喜嶋にて盗船仕之族在之由被聞食、曲事思食事(略)〔後掲三鬼〕

※原注1)この文書は多くの刊行物に収録され周知のものとなっているが,僅かながら字句の異同がみられる。ここでは加藤清止に与えられた秀吉朱印状であるある尊経閣所歳の「加藤文書」から採った。

 この順序は,いわば信管を完全に抜き去ってから爆薬を処理したように見えます。逆に言えば,義昭を核とした海賊衆の一斉蜂起の可能性を,信長と秀吉またはその奉行衆は現実の脅威と捉えていたと思えます。──尾張の津島の経済力を戦力化して膨張してきた両雄は,現代ニッポンの陸人たる我々よりはるかにリアルに海域に関係する商業民の力を認知していたのではないでしょうか?
 その一つの例として,前章であえて触れなかった備後三原城の廃城の光景からお話を始めていきたいと思います。

【序論】三原城:海軍の廃城

章で見たように明治初期に全国の城郭は,一度陸軍の所管に置かれ,多くは廃城として大蔵省所管に移された後,残る一部が陸軍鎮台本部になりました。三原城が面白いのは,陸軍ではなく海軍所管にほぼ本決まりで移されかけた唯一の城だということです。

 官衙転用の珍しい例は、海軍省が鎮守府の用地として廃城の利用を試みたことである。海軍省は、地方を管轄する提督府を置くことを計画し、瀬戸内海の要港にあり、戦国時代から水軍の根拠地として知られた三原城に着目した。草創期の海軍省の幹部は、勝安芳(海舟)はじめ幕府海軍出身者が多かったので、旧幕府海軍が海軍所を江戸城の浜御殿に置いていたことから思いついたのであろう。明治6年3月11日、海軍大輔勝安芳は、正院に「備後三原城之儀ハ提督府ニ的当之地位ニシテ往々御取設相成度存候ニ付、兼テ此旨相含石垣等御取毀無之様大蔵省へ御達相成居候致度」140)と申し出て認められた。海軍省は実地調査をしたうえ同年7月2日、「提督府取立用地ニ備後三原城御渡相成度段伺」141)を提出して正式に三原城の交付を願い出た。ただ海軍省が必要としたのは城郭全部ではなく、図面に朱引きをした港に面した部分であった。(続)〔後掲森山〕

※原注140)「備後三原城提督府ニ的当ニ付御払下無之様致度申立」『公文録』明治6年 第39巻 明治6年1月~3月海軍省伺
141)「備後三原城提督府用地ニ御渡伺」『公文録』明治6年 第43巻 明治6年8月海軍省伺

「旧幕府海軍が海軍所を江戸城の浜御殿に置いていた」こととの相関は面白い考察です。江戸城は近代城郭に珍しい水城(下記展開参照)で,少なくとも小田原城,もしかすると忍城を模したかもしれない。その立地が最も機能した幕末の幕府海軍基地・海軍所は,まさに三原城海側に酷似していました。



 けれども三原城は「明治5年に建物・木石の払下げ入札が行われ、既に城内に居住する旧城主浅野氏の旧臣に土地の一部が払い下げられていた」という。明6廃城令の前年に既に払下げ入札実施済,この早送りしたような状況は倒幕最終段階で薩長に極めて近かった広島藩の,誰かの政治力が働いた可能性を臭わせます。

(続)三原城は存廃決定前の明治5年に建物・木石の払下げ入札が行われ、既に城内に居住する旧城主浅野氏の旧臣に土地の一部が払い下げられていたので142)、海軍省は「尤其中人民へ御払下相成居候場所モ有之候得共、右ハ県官ト打合相当之代価ヲ以買入候心得」と述べている。太政官は伺を認め、大蔵省に「備後国三原城別紙図面朱引内ノ地所建物共海軍省ヘ可引渡事、但朱引内士民私有ノ地所家作等同省定額金ヲ以テ買上ノ筈ニ候事」143)と達した。海軍省は城地の一部を海軍省用地として買収した。
 しかし、海軍の方針は転々とした。明治8年12月17日、海軍省は提督府を廃止し、「更ニ当省所轄トシテ東海鎮守府ヲ横須賀港ニ、西海鎮守府ヲ長崎港ニ御取設ヶ被成度」144)と願い出て認められた。更に海軍省は、明治11年(1878)3月30日、「西海鎮守府仮設之儀ニ付御届」145)を提出し、東海鎮守府を横浜に仮設したので、西海鎮守府は九州地方に適当な良港がないので、中国・四国とも便の良い場所として、当省所轄の三原旧城に仮設したと届出た。翌12年2月に海軍卿川村純義が三原城を視察している146)。同月4日付の東京日日新聞は「明五日河村海軍卿は、明治艦にて備後地方に赴かれ、西海鎮守府となるべき三原の旧城を巡視せらるゝ由」147)と報道している。西海鎮守府が三原城に置かれることは決定したように見えたが、実施されなかった。近代海軍の基地として戦国時代の水軍の城を転用する構想が無理なことが次第に明かになったためである。(続)〔後掲森山〕

※原注142)財団法人広島県埋蔵文化財調査センター 1997『三原城跡』(広島県埋蔵文化財調査センター調査報告書第156集 p.4
143)前掲書141)「備後三原城提督府用地ニ御渡伺」、「太政官日誌」明治6年 第121号
144)「鎮守府設置ノ儀上請」『公文録』明治9年 第41巻 明治9年7月~9月海軍省伺
145)「西海鎮守府仮設届」『公文録』明治11年 第94巻 明治11年1月~3月海軍省伺
146)「海軍卿備後三原ヘ出張ノ件」『公文録』明治12年 第107巻 明治12年2月~3月海軍省
147)新聞集成明治編年史編纂会 1936『新聞集成明治編年史』第4巻p.23

「西海鎮守府となるべき三原の旧城」と一度は報じられてますけど……直前で中止されてます。1879(明治12)年の海軍卿「河村」とは,漢字は違いますけど戊辰戦に戦功ある川村純義でしょう。こうした歴戦の人間の視点からは,海上からの砲撃を遮るもののない三原城は近代海軍拠点として最悪のものと理解されたのだと思われます。

明治19年4月22日、「海軍条例」(勅令第24号)148)が制定され、全国を5海軍区に分け(第6条)、各海軍区の軍港に鎮守府をおいて軍区を管轄することと定めた。同年5月4日、勅令第39号149)により第二海軍区の鎮守府を安芸国呉港に置くこととされた。
 無用となった三原城の建物は、明治24年(1892)に取り壊され、同26年、本丸跡に三原停車場を開設し、城内を貫通して山陽鉄道が敷設された150)。〔後掲森山〕

※原注148)「海軍条例」『法令全書』明治19年上巻 p.149
149)「第二海軍区及第三海軍区鎮守府位置指定」『法令全書』明治19年上巻 p.187
150)青木允延編纂 沢井常四郎増補 1912『増補三原志稿』p.34

 三原を選んだ勢いからか,総督府は同じ広島の呉に置かれます。三原城は福山城と同様に鉄道駅敷地に転用され,新幹線ホームと同じ面に天守台がある日本唯一の駅が生まれます。
三原城天守台と三原駅新幹線ホーム〔後掲おやじのつぶやき〕

三原城天守台と三原駅新幹線ホーム〔後掲おやじのつぶやき〕

 それにしても,三原城を海軍拠点に選んだ(選びかけた)当時の水兵団は何を考えていたのでしょう?近代戦の常識は欠いていても,その分……近世以前に三原城前面の海域に日本海域最大の海賊集団が在り,戦国末段階では彼らを,毛利家が三原城に依って従えていた,というイメージが強く刻印されていたのではないでしょうか?
 言い換えると──幕末明治初の水兵にとって,備後沖の海域は,現代ニッポン陸人が想うより格段に重い海●●●だったのではないか?
 以下に三原城と海との位置関係が分かる図を,二つ置きます。
「紙本着色備後国三原城絵図」に描かれた三原城。(船入櫓跡にあった看板を後掲著者が撮影したもの)〔後掲城びと〕
三原の新旧対照図〔後掲まっつん〕

【破論】鞆の湧き出た時空

山真之がその独自の作戦思想を伊予水軍書から編み出したという伝は,坂の上の雲にも記されます。素人的に捉えるなら──海峡の只中の島に拠点を置き,通過する敵船団に対し無限の対応選択肢を有して優位な機動性を確保,翻弄して殲滅する。

(上)鞆海峡付近 (下)同縮尺での(今治市宮窪町)能島及び鞆・弁天島

 鞆の大可島や弁天島の位置は,村上武吉本拠・能島と同じ急潮流中の岩塊島●●●●●●●●です。それは不完全ながら,三原城や日本海海戦での対馬に相似します。
 次の写真はどういう時に撮ったのか,能島海域の急潮流をよく画像化しています。
「村上海賊の海城・能島城と周囲の潮流」(愛媛県今治市) 撮影者:添畑薫氏〔後掲日本遺産ポータル〕

 なぜ瀬戸内海中部にこんな潮流が発生するのでしょう?

【基礎】来島海峡の潮流

ず「潮流」という用語を定義付けておきます。

□海流=常に一定方向に流れる大きな流れ
■潮流=海の干満により、周期的に流れの方向がほぼ180度変わる海水の流れ
 ■上げ潮流=干潮から満潮にかけての潮流
 ■下げ潮流=満潮から干潮にかけての潮流〔後掲日本旅マガジン〕

 海流は定性で緩い。潮流は変性で急。次のデータからは鳴門や来島の海峡の潮流は,黒潮の4〜5倍の速さで,かつ,それが変化するのです。

□黒潮 時速2〜3ノット
   (以下kn/h)
 (3.7km〜5.6km)
□対馬海流 1〜1.5kn/h
 (1.9km〜2.8km)
■関門海峡③9.4kn/h
 (17.4km)
■速吸瀬戸 5.7kn/h
 (10.6km)
■大畠瀬戸 6.9kn/h
 (12.8km)
■来島海峡②10.3kn/h
 (19.1km)
■明石海峡 6.7kn/h
 (時速12.4km)
■鳴門海峡①10.5kn/h
 (時速19.4km)
〔海上保安庁データ←後掲日本旅マガジン〕

 この急流を生むのは,①地形の複雑さによる時間差と②瀬戸内の水深の浅さによるらしい。
 まず①は,干満が「伝わる」のに地形上あまりに時間がかかり,「伝わり切る」までに外海では干満が入れ替わるからです。

 太平洋側から満ちてきた潮は、紀伊半島と淡路島の間、紀淡海峡を通り、大阪湾を抜け、瀬戸内海(播磨灘)へと反時計回りに潮流は流れて、播磨灘が満潮になるまでには5時間〜6時間を有します。
 この時間差で、「播磨灘が満潮になる」時間帯に、鳴門海峡の南側ではすでに「干潮」になっており、その高低差は、狭い海峡部分では最大1.5mにもなるのです。
 この落差が日本一の速さの潮流を生み出しています。〔後掲日本旅マガジン〕

 ②は,瀬戸内の水深が浅い,つまり保有水量が外海からの流入量に比べ小さいために,「一気に」流入してしまうから,と理解しました。人間に例えると,世界一※「新陳代謝の良い」海なのです。

※南あわじ市などでは,世界一の大きさの渦潮を世界遺産にという運動も起こっています。

 西日本中央を繋ぐ交易路として,うまく往来できればすこぶる有用なこの瀬戸内は,往来に要するスキルの面では世界有数の高水準を要求する海なのです。
 現代では次のような「実験」で,それを確かめることが出来ます。ただこんな便利なデジタルツールのない過去の海民にとって,そこは脅威の海だったでしょう。



 仮に外海から,例えば関門海峡を抜けて新来の海民が侵入して来て,上関辺りまでは瀬戸内海の潮流の変化に対応出来たとしても,中央の来島島弧の潮は読めないでしょう。それを読み切っている旧来の海民集団には,体よく追い返されるはずです。──この様子は,和田龍が村上水軍の娘中,能島に向う児玉就英が弄ばれるシーンにねっちりと描いてます。

【年表】政治史に浮きつ沈みつ鞆の浦

の戦国城郭・大可島城は,主に南北朝期と戦国末期に登場します。足利尊氏が拠点とした時代と,義昭守護として因島村上が入居した時代です。だから──

南北朝時代が終わり、世の中が安定すると、大可島はしばらく歴史の表舞台から消える。〔後掲備陽史探訪の会/鞆大可島城〕

という風に記述されることが多い。
 城の名が史書に登場する,つまり戦乱の要地になるのは,その地が政治的に不安定になった時で,そこにヒト・モノ・カネの流れがなかったことを意味しません。

【年表1】中世(13-16C)鞆関係歴史事象

こで鞆に関する事象を年表化してみました。──具体的には,年次付の情報が多い角川日本地名大辞典記載の事象を軸に,広島県史の「鞆」ヒット事象を時系列にしています。

鞆関係事象年表
1221(承久3)年 承久の乱に際し鞆正友が上皇方として活躍
 乱後には新補地頭設置〔鞆浦志:角川〕
1230(寛喜2)年 鞆浦地頭代が石清水八幡宮寺領藁江荘の神人2人を殺害
 〔1233(天福元)年5月付石清水八幡宮寺所司等言上状:角川〕
 〔宮寺縁事抄1:県史〕

1271(文永8)年 弁天島に同年6月15日銘の九重石層塔婆有
 〔:角川、同陰刻銘:県史〕
1274(文永11)年1月29日 僧寛鑁,阿弥陀経6巻供養(福山鞆安国寺蔵)
 〔同奥書:県史〕
同年2月9日 僧寛覚らの勧進により木造善光寺如来像(福山鞆安国寺蔵)の造立開始
 〔胎内墨書銘:県史〕
同年3月6日 僧寛鑁,経※を木造善光寺如来像(福山鞆安国寺蔵)胎内に奉納
 ※父の報恩のための血経1巻を含む阿弥陀経6巻〔同袖書:県史〕
同年 金宝寺※の阿弥陀三尊像が同11年に平頼影を大檀那とし造立
 同像胎内銘から判明。
 同胎内に善光寺如来造立勧進帳や血書阿弥陀経など多数の人々の結縁を示すものが収納
 ※安国寺前身。心地覚心(法灯国師)開山。
 〔同像調査:角川〕

1275(建治元)年12月18日 木造法燈国師坐像(福山鞆安国寺蔵)成り,僧覚心偈文を認める。
 〔同偈文奥書:県史〕
1302(乾元元)年 宿屋や遊女屋が軒を連ね,絵具が入手できた(物資の集散地として繁栄?)
 発心して尼になった大可島の遊女の長者の話も記す。(宗教活動も盛ん?)
 〔とはずかたり,当地を訪れた後深草院二条の記録:角川〕
1311(延慶4)年 鞆の平為重が大般若経を備前西大寺に施入
 〔西大寺文書/岡山県古文書集:角川〕
1329(嘉暦4)年 同年6月13日付の先達大進公尊宿坊証文が残る。
 内容:先達祐尊,鞆津檀那の熊野那智参詣につき,宿坊を播磨法橋坊に定める。
 熊野信仰も盛ん?〔熊野那智大社文書:角川,潮崎稜威主1:県史〕

1330(元徳2)年 藤原貞氏,父母の報恩のため,木造地蔵菩薩坐像(福山鞆安国寺蔵)造立
 〔同陰刻銘:県史〕
1333(元弘3)年 伊予の土居・得能氏,因島の村上義弘ら天皇方が,長門探題時直を追い,鞆を抑えて内海航路を遮断
 〔三備史略・正慶乱離志:角川〕
1336(建武3・延元元)年 足利尊氏,鞆を九州逃走・東上時の拠点とする。
 鞆・尾道に今川顕氏・貞国兄弟を置き東上に備える。
 鞆で光厳上皇の院宣を受領
 東上時,鞆に軍勢を集結〔梅松論・太平記:角川〕

1339(暦応2・延元4)年 鞆浦釈迦堂院主法智代小河正徳房らが浄土寺領内に乱入し,得良郷の年貢徴収を妨害
 〔浄土寺文書:角川〕
1342(康永元・興国3)年 金谷氏ら伊予の南朝勢力が鞆上陸
 大可島城を奪い,小松寺に陣する北朝勢と合戦〔太平記:角川〕
1349(貞和5・正平3)年 足利直冬,中国探題として鞆・大可島城に拠る。
 塩飽・村上両水軍を味方につけるべく画策〔太平記:角川〕
 同4月11日 備後・安芸など西国成敗のため鞆に下向〔師守記:県史〕
 同9月13日 杉原又四郎,高師直の命により鞆津に直冬を襲撃。
  ために直冬,肥後国河尻荘へ逃亡〔太平記:県史〕
  ※引用者注:太平記巻第28 wikisource付番236「太宰少弐奉聟直冬事」

1350(観応元・正平4)年 観応の擾乱に際し上杉朝定が鞆に上陸
 石見から備後を経て帰洛途中の高師泰を追撃〔太平記:角川〕
1350(観応元・正平4)年 小松寺雑掌賢性が浄土寺領得良郷に介入
 年貢徴収を妨害?〔浄土寺文書:角川〕
1395(応仁元)年 渡唐船鞆宮丸の名称記載有
 〔戊子入明記/大日料8‐1:角川〕
1396(応仁2)年 友(鞆)津代官藤原光吉が朝鮮に使節を派遣
 ※藤原光吉:備後守護山名氏の代官と推定される。〔海東諸国紀:角川〕
1420(応永27)年4月8日 宋希璟ら,尾道浦から鞆津到着
 〔老松堂日本行録(海東諸国紀):県史〕
1439(永享11)~1337(文安4)年 鞆の船持が尾道船籍の船買取や大田荘の年貢輸送を実施
 〔備後国大田荘年貢引付(高野山文書):角川〕
1445(文安2)年 鞆船籍の船が17回兵庫北関に入関
 〔兵庫北関入船納帳:角川〕
1471(文明3)4月 応仁・文明の乱に際し,東軍の山名是豊が鞆進駐
 〔三浦家文書:角川、:県史〕
1481(文明13)年9月9日 備後国鞆津代官(?)村上国吉ら,朝鮮の成宗大王に土宜を献上
 〔李朝成宗実録:県史〕※「李朝成宗実録」記載の記事は後掲
1507(永正4)年 足利義稙を奉じての大内義興上洛時,守護山名致豊が高須杉原元盛・上山広房らに尾道・鞆での接待を命じる。
 ∴この時期までに山名氏勢力圏に転じたと推認
〔閥閲録遺漏4‐2・閥閲録40:角川、:県史〕

1544(天文13)年7月3日 大内義隆,因島の村上吉充に鞆浦18貫の地を与える。
 この頃,毛利軍,三上郡高表・信敷・本郷で尼子軍を撃退〔因島村上文書:角川、県史〕
1550(天正19)年 小早川隆景,尼子方の神辺城攻撃に際し鞆に本陣を設置
 〔譜録※:角川〕
 ※引用者注:毛利家文庫中,毛利家一門・重臣家の記録

1553(天文22)年5月 毛利氏,鞆の要害築造を渡辺氏に命ず。
 〔譜録:角川〕
 〔譜録・渡辺三郎左衛門4:県史〕

(天正年間 1573-1593) 鞆の河井源左衛門尉船,毛利氏から直接伊予への渡航を許されず,鞆と塩飽の間で待機させられる
 ∵毛利氏が内海水運の掌握を強化〔閥閲録:角川〕
1576(天正4)年 足利義昭が鞆来住
 同16年帰京まで鞆付近に滞在〔小早川家文書・吉川家文書:角川〕
 義昭警固の功で因島の村上祐康や山田一乗山城主渡辺元に白傘袋・毛氈の鞍覆の免許付与〔因島村上文書・常国寺文書:角川〕

同年 毛利氏,伊予板島の領主西園寺宣久が鞆に寄港時,警固船50艘を都合
 鞆助安を日北から牛窓まで同行〔伊勢参宮海陸之記:角川〕
1579(天正7)年1月25日 足利義昭,鞆で尾道浄土寺の支証などを一覧
 〔浄土寺74:県史〕
1592(同20)年正月24日 豊臣秀吉,毛利輝元に瀬戸から尾道までの継船の準備を命ず。
 ∵豊臣氏の内海交通統制下〔毛利家文書:角川,閥閲録128,小川又三郎2:県史〕
 鞆にも船奉行のもとに継船を設置〔閥閲録遺漏3‐3:角川〕

1595(文禄4)年 毛利氏,鞆を直轄領として三上元安に預ける。
 元安は朝鮮への兵糧運送などの業務を担当〔閥閲録128:角川〕
1596(慶長元)年 鞆の宿泊担当奉行として桂元武・三上元安らの名が見える。
 〔閥閲録遺漏3‐1:角川〕
1597(慶長2)年7月27日 秀吉→毛利氏,慶長の役に際し早船2艘を鞆に置くよう命有
 〔毛利家文書:角川、県史〕
1599(慶長4)年閏3月28日 毛利輝元,三原衆に鞆番所の至急の普請を命ず。
 〔譜録・児玉七郎左衛門3:県史〕
※凡例 〔:角川〕角川日本地名大辞典/鞆浦(中世)。原文は下記展開内
  〔:県史〕後掲広島県史年表/中世1・2

 鞆の活動記録は,中世を通じ途絶えてはいないことが,まずは確認できます。


鞆海域-朝鮮交易の痕跡

北朝-戦国末間の事象中,まず,1481(文明13)年9月9日の備後国鞆津代官(?)・村上国吉らによる「朝鮮の成宗大王に土宜を献上」記述(→前掲)に着目してみます。
 李朝側記録と思え,原典には当たれてません。また「村上国吉」という人名から類推できる日本側の人物がいませんけど,
①鞆地域と朝鮮の直接の外交関係が存在し
②その主体が職(もしかすると名)を偽証していること
が窺える事象です。濃淡の差はあれ,対馬宗氏や周防大内氏など当時の交易主体と類似の状況です。
 そこで,広島県史から今度は「李朝」ワードでのヒットを抽出したのが以下の年表になります。

李朝成宗実録出典記事
1396(応永3)年
 3- 大内義弘,朝鮮に捕虜を送還し,大蔵経を求める〔李朝太祖実録〕。
1401(応永8)年
 この年,足利義満,朝鮮に使者を派遣〔李朝太宗実録〕。
1470(文明2)年
 7-12 安芸国の海賊村上国重ら,朝鮮の成宗大王に土宜を献じる〔(県)李朝成宗実録〕。
 8-24 小早川持平ら,成宗大王に土宜を献納〔(県)李朝成宗実録〕。
 11- 1 武田信賢,朝鮮に使者を遣わす〔李朝成宗実録〕。
1477(文明9)年
 5- 海賊村上国重ら同土宜献上
1478(文明10)年
 5-28 海賊村上国重ら同土宜献上
 7- 小早川持平ら同土宜献上
1480(文明12)年
 9-12 海賊村上国重ら同土宜献上
1481(文明13)年
 4- 5 海賊村上国重ら同土宜献上
 9- 9 備後国鞆津代官(?)村上国吉ら,朝鮮の成宗大王に土宜を献じる〔(県)李朝成宗実録〕。
1483(文明15)年
 3- 海賊村上国重,同土宜献上
1485(文明17)年
 1-14 小早川持平ら同土宜献上
 2-24 海賊村上国重ら同土宜献上
 11-18 小早川持平ら同土宜献上
1488(長享2)年
 2- 1 小早川持平ら同土宜献上〔後掲広島県史年表/中世1・2〕

「安芸国の海賊村上国重」ほか村上氏の土宜献上が8回記録されています。──「土宜」(とぎ)は「その土地の宜しきもの」,つまり特産品土産〔精選版 日本国語大辞典 「土宜」←コトバンク/土宜〕なので,つまり朝貢的な交易をしてた訳です。
 これに競うように「小早川持平」も5回の土宜献上をしてます。この人名も日本側では不透明です※。

※同時期の備後小早川氏当主に煕平(ひろひら。小早川則平次男。1416(応永23)年生-1473(文明4)年没)があり,その長兄に持平がいる。持平は家督を継いでいたけれど,父・則平は1432(永享4)年に煕平への相続の意を示し,兄弟は対立。この頃から応仁の乱の始まる1467(応仁元)年頃まで(年)から,六代将軍足利義教の介入,沼田・竹原小早川家の対立も手伝って小早川氏の内部抗争が続いている〔wiki/小早川煕平〕。この情勢下,持平に朝鮮交易に乗り出す余裕があったとは考えにくいけれど,神輿として名前を歩かせた可能性も否定できない。

 ただし,小早川持平は,朝鮮が歳遣船の許可を発した史料上最初の人でもあります。

本来は朝鮮との修好のために渡航した船であったが,使人としての待遇をうけるとともに貿易をすることを許されていたので,実質は使船というよりも貿易船とよぶのがふさわしいものであった。1424年(応永31∥朝鮮世宗6)に九州探題渋川義俊が朝鮮に提案して毎年2隻ずつ船を送ることを約したのが歳遣船の起源とされ,40年(永享12∥世宗22)に小早川持平が毎年歳遣船を送ることを許されたのが記録上の初見とされている。〔世界大百科事典/歳遣船 うち小早川持平の言及部←コトバンク/小早川持平(もちひら)〕

 上記表の村上国重と小早川持平の歳遣は,18年間の記録です。この記録趣旨は「海賊村上国重」と記されるところから,李朝朝鮮の(前期)倭寇対策の成果として使送倭(興利倭)の実績カウントでしょう。この後も記録されずに継続された可能性が高い。

鞆船は自らを宙船と忘れているのか

に着目したいのは,15Cに鞆船籍船が瀬戸内海に相当あったと推定される点です。
 1439(永享11)-1447(文安4)年の「鞆の船持が尾道船籍の船買取や大田荘の年貢輸送を実施」というのは──大田荘は備後世羅の荘園です。ここは高野山領ですけど応永期(1394-1428)には山名氏が守護請しているので,年貢は京都方面に運ばれたはずですから──東瀬戸内の輸送を鞆の船が担っていたのです。1445(文安2)年の「鞆船籍の船が17回兵庫北関に入関」の記事がそれを裏付けます。
 これら鞆海域の船は,東は少なくとも兵庫か大阪湾に至っています。
 では西は?
「戊子入明記」※の中から,宮本常一さんが面白い記事を見つけています。

※(ぼしにゅうみんき)天文年間(1532~55) に渡明した策彦周良・著。1468(応仁2)年の将軍足利義政の命による遣明正使・天与清啓の渡明記録を抄記。

(略)そして船も次第に大きくなったものの如く、「戊子入明記」によると、文正元年(一四六六)に渡明を計画して失敗し、翌年また用意し、結局三隻ほどが渡航せられることになるが、初めに用意せられた船は一三艘であり、そのもっとも大きいのは泉丸で二五〇〇石積みであり門司の船であった。これについで同じく門司の寺丸が大きく一八〇〇石積みであったが、文正元年出発の時両船とも暴風にあうて傷つき、応仁元年(一四六七)出発のとき泉丸の方ははずされている。あまリ大きすぎて船の操作が容易でなかったのであろう。
 以上の二船についで門司の宮丸が一二〇〇石積みで、これらの船は江戸時代の船よりもみな大型であった。他船は一〇〇〇石以下になるが六〇〇石より小さいものはない。そして船籍のあった土地は門司、周防富田、柳井、深溝、上関、備後鞆、尾道、田島、因島、備前牛窓となっていて、門司を除いては瀬戸内海で造られたことがわかり、そのうち島に船籍のあるものは上関・因島・田島の三艘である。
 但しこれらの船が船籍のある所で造られたか否かは不明であるが、最初から航洋船として造られたものであり、またこれらの船の造られた所には古い漁浦があったが、乗り組む者は漁夫ばかりではなく、すでに廻船の水夫として訓練せられたものもあったと思われる。〔後掲宮本/17 倭寇と商船〕

 1467(応仁元)年に明に向かった勘合船13隻のうち,鞆のほか尾道・田島・因島で造られた船がある。船数は分からないけれど地名数からすると4割。江戸期の千石船よりは小さいけれど六百石以上。
 旗艦は門司で造られてるのに中部瀬戸内からこれだけの動員があるのは,技術か経験かが相当買われた結果と推測できます。経験だとすれば,先述の朝鮮交易のそれと無関係ではないでしょう。つまり,鞆海域の船乗りは西の海域を知っていた。
 さて,何が言いたいのかと言うと──

関連年表・時代背景〔後掲信州大学〕※原典(上)倭寇海の歴史(田中健夫)倭寇関連年表より作成 (下):「東アジアと志布志城の関係年表」(志布志市教育委員会『国指定史跡「志布志城跡」』2014年4月1日改訂)より谷ヶ崎作成

義昭の瀬戸内は沸騰していたか?

戦直後の沖縄密貿易とその記録のされ方を念頭に置くと,史料に記さた度合いとその海域の沸騰度が比例するとは考えない方がいい。無論,それは実証史料がないことを意味するので,状況証拠的なものしか残らないけれど──次のようにラフなデッサンを描くと,上述の事象は非常に飲み込みやすくなるのです。

①足利氏が鞆に始まり鞆に終わったのは,彼らが瀬戸内中部の海民を勢力基盤としたからである。
②14-15Cの鞆海域の史料記録が希薄なのは,活動が低調だったからではなく,①に起因する政治的自由度を得て,むしろ史料記載者が把握できないほどダークで広範に活動したからである。
③前期倭寇の主勢力は,瀬戸内中部の海民である。

 前期倭寇の活動域とその根拠地と目された海域を確認して頂きたい。

前・後期倭寇の活動範囲と根拠地〔後掲信州大学〕※原典:倭寇の侵略地と根拠地©日本大百科全書(ニッポニカ)※※「★鞆」引用者追記

 倭寇が出身地を名乗っていたわけではありませんから,「倭寇根拠地」はあくまで推定でしょう。けれどそれでも,鞆海域が「根拠地」と見られている海域の一番奥座敷に位置していることは見て取れます。
 翻って考えてみるべきは──そもそも室町時代の初めと終わりに,なぜ倭寇が激増する時期が重なっているのでしょう?両者の要因を別々に設定しなくても,室町中期には日明貿易(勘合貿易※)の国家事業,あるいはその派生形態としての歳遣船に彼らが吸収,あるいは隠れていたと捉える方がシンプルに理解できます。

※「勘合」は単に外交使節に発給された通行証で,貿易許可を意味しない(橋本雄 「日明勘合再考」、九州史学研究会編『境界から見た内と外』岩田書院〈『九州史学』創刊50周年記念論文集 下巻〉2008など)ため,通説に従い本稿でも「勘合貿易」たる旧称は原則として用いない。

 室町初期に海賊だった集団が,中期には政治的に商船と名付けられていたけれど,末期には再びその殻を破って海賊化した。瀬戸内の海民は変わらずその海を動いていた。けれど,臨海各国政治の側が彼らの呼び名を変えていった。
 例えば,7千京トンの月は不変にそこにある。太陽と地球の位置によって,それは満月にも新月にもなり,時には月食や日食も引き起こす。
 それだけのことなのではないでしょうか?

【急論】足利義昭の幕府中興ヴィジョン

」=投馬とする説があります。これによると尾道の古名「玉の浦」の「玉」も同語源。邪馬台国=大和説を前提とした魅力ある仮説ですけど,地名相似以外の根拠を欠く。
 そうであれば,古代から瀬戸内海海路が機能してきた傍証たりうるのですけど──

 潮待ちの港鞆ほど研究者の頭を悩ませる地名はない。伝説では神功皇后が渡守神社(現沼名前神社)に武具の鞆を奉納したことに由来するとも、鞆港の地形が武具の鞆に似ているためその名が付いたとも言われるが、これらの説は全て後世のこじつけであって、もとより信ずるに足りない。

弓を射る時に左手首の内側に装着し,矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具。古語:ほむた・ほむだ 漢字は国字〔wiki/鞆〕

それよりもともは邪馬台国時代(西暦3世紀)の投馬(トーマ)国の遺名だとする説に魅力を感じる。
 広く瀬戸内海の北岸を見渡してみると、岡山県の玉野に始まって、玉の浦(尾道の古名)・玉祖(山口県)などたまの付く古い港が分布しているのに気付く。投馬国鞆説はその面積が狭院なことから否定的な見解が多いが、広く瀬戸内海の北岸(いわゆる吉備の国)をその比定地とすればどうだろう。ともはたまと共通の語源を持つと考えられるから、投馬国の名は早く失われてしまったが、たまたま周辺の港にのみその名をとどめた、こう考えれば良いのである。〔後掲備後史探訪の会〕

 だから話を本稿の主眼・中世に戻します。まず南北朝期ですけど──この時代の「鞆」関係史料の多くは太平記でした。この史料中,地名としての鞆が書かれる巻は以下の5巻,6箇所。

太平記記述の「鞆」

田左中将の勢已に備中・備前・播磨・美作に充満して、国々の城を責る由聞へければ、鞆の浦より左馬頭直義を大将にて、二十万騎を差分て、徒路を上せられ、将軍は一族四十余人、高家一党五十余人、上杉の一類三十余人、外様の大名百六十頭、兵船七千五百余艘を漕双て、海上をぞ上られける。同五日備後のを立給ひける時一の不思議あり。将軍の屋形の中に少目眠給たりける夢に、南方より光明赫奕たる観世音菩薩一尊飛来りまし/\て、船の舳に立給へば、眷属の二十八部衆、各弓箭兵杖を帯して擁護し奉る体にぞ見給ける。〔wikisource/太平記/巻16 131 将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事〕※丸付き数字は引用者。以下同じ。

 ①②は尊氏が九州で兵を整え東上する,湊川の合戦をラストシーンとする行程での出来事です。特に①で現れる観音飛来の物語は,眷属を従える点からも媽祖伝承を連想させ面白い。

②新田・足利相挑で未戦処に、本間孫四郎重氏(略)大音声を挙て申けるは、「将軍筑紫より御上洛候へば、定て・尾道の傾城共、多く被召具候覧。其為に珍しき御肴一つ推て進せ候はん。暫く御待候へ。」〔wikisource/太平記/巻16 136 本間孫四郎遠矢事〕

 ②で「鞆・尾道の傾城」とある「傾城」は,後世と同義の遊女を指すのでしょう。港町の淫靡な賑わいが匂います。

③「義助に順付たりし多年恩顧の兵共、土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市の者共、金谷修理大夫経氏を大将にて、兵船五百余艘にて、土肥が後攻の為に海上に推浮ぶ。是を聞て、備後の鞆・尾の道に舟汰して、土肥が城へ寄せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千余艘にて推出す。(略)いざや今夜備後の鞆へ推寄て、其城を追落して、中国の勢著かば西国を責随へん。」とて、其夜の夜半許に、備後の鞆へ押寄する。城中時節無勢也ければ、三十余人有ける者共、且く戦て皆討死しければ、宮方の士卒是に機を挙て、大可島を攻城に拵へ、鞆の浦に充満して、武島や小豆島の御方を待処に、備後・備中・安芸・周防四箇国の将軍の勢、三千余騎にて押寄たり。宮方は大可島を後ろに当て、東西の宿へ舟を漕寄て、打てはあがり/\、荒手を入替て戦たり。〔wikisource/太平記/巻22 201 義助朝臣病死事付鞆軍事〕

 ③以降は本格的に混沌として来る南北朝本番の時期です。「義助」は脇屋義助,新田義貞の実弟ですから東国の人ですけど,1342(興国3/康永元)年に中国・四国方面の総大将に任命ぜられます。水兵としては伊予の土居氏・得能氏を率います。③では大可島を拠点に戦う姿が描かれます。
 尊氏は1336(建武3≒建武の乱)年の西走・東上で世話になった鞆の守備を維持してなかったのでしょうか?④で(隠し)子・直冬を置いたのは1349(正平4年/貞和5)年,高師直勢力の西国侵食が烈しくなってからなので,尊氏周辺に鞆という土地に固執する感覚は特になかったと推定されます。

④先西国静謐の為とて、将軍の嫡男宮内大輔直冬を、備前国へ下さる。(略)而るを今左兵衛督の計ひとして、西国の探題になし給ひければ、早晩しか人皆帰服し奉りて、付順ふ者多かりけり。備後のに座し給て、中国の成敗を司どるに、忠ある者は不望恩賞を賜り、有咎者は不罰去其堺。〔wikisource/太平記/巻26 224 直冬西国下向事〕

 ④⑤は直冬が鞆を拠点にした,という記述に留まります。尊氏関係者に疎まれたとの説はあるけれど,この時の直冬の職は長門探題,「中国の成敗を司どる」とあるから少なくとも中国地方の州都だったわけです。

⑤右兵衛佐直冬は、中国の探題にて備後のに御座けるを、師直近国の地頭・御家人に相触て討奉れと申遣したりければ、同九月十三日、杉原又四郎に百余騎にて押寄たり。〔wikisource/太平記/巻27 230 右兵衛佐直冬鎮西没落事〕

 ⑥は1351(観応2・正平6)年,観応の乱中の上杉の軍事行動。……と言っても上杉憲顕はこの時期鎌倉を出て上野辺りで,鎌倉の高師冬と争っているので,ここの「上杉弾正少弼」は上杉重季※でしょうか?

※生没年不詳。1351(正平6/観応2)年に摂津武庫川で高師直・師夏父子らを滅ぼし,師夏に代わって備後国守護に任じられ6月には現地入り。〔wiki/上杉重季〕

⑥上杉弾正少弼八幡より舟路を経て、備後のへあがる。是を聞て備後・備中・安芸・周防の兵共、我劣じと馳付ける程に、其勢雲霞の如にて、靡ぬ草木もなかりけり。〔wikisource/太平記/巻29 245 越後守自石見引返事〕

 奥州から出て京に至るまでに10万騎に膨張したと言われる1336(建武3)年の北畠顕家軍のように,太平記には,誇張はあるにせよ兵の離合集散が著しい記述が多い。この顕家により近畿を追われた尊氏の東上戦から始まり,最後の上杉の事例を見ても,鞆は,戦術レベルの大可島の守備力を頼むのではなく●●●●●●●●●●●,戦略レベルでの兵の集結地としての有利●●●●●●●●●から選定された地点だったと考えられます。

(上)川之江城案内マップ (下)世田山城位置図〔GM.,後掲古城盛衰記〕

(参考)南朝方が拠った城砦群

北朝の,少なくとも鞆周辺の動静を見る限り,北朝が拠点を持たず面的に動いているのに対し,南朝は拠点を足場に防衛戦を戦った感があります。
 大可島城もその一つだったらしい。鞆の南方海域・燧灘(ひうちなだ)を見渡した時,南朝方が重要な拠点と定めた防塁には、
①世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠):GM.
②笠松山城(愛媛県今治市朝倉南):GM.
③川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山):GM.
が挙げられます。〔後掲西国の山城〕
 1342(康永元)年──前掲太平記記述では③の段階で,大可島城で討死した桑原重信一族の墓碑が現・圓福寺内に残ります。重信は鎌倉末期に旗揚げ,南朝方の忠臣として建武の中興には従五位下刑部少輔,沼隈郡山南石浦城主。ここで,大可島城主も兼務したのが災いし,1342年の南北紛争時に四国勢が引上げた後,同城に一族のみが籠もり北朝方の三千騎を相手に奮戦するも全滅します〔後掲Discovery! 鞆の浦〕。大可島城を舞台にした最大の抗争です。

桑原伊賀守重信一族 墓域修復碑銘
 桑原重信一族 この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。
 そもそも桑原家は代々備後国服部永谷に住し椋(左はネへん)山城主たり。元弘の頃備後一の宮桜山茲俊と共に、後醍醐帝に仕え、南朝の忠臣として歴戦し、建武中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ぬ。
 南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。
 先祖を偲び同族相計りて大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。
 村上正名 撰文
 昭和34年8月
   桑原家同族会一同〔後掲西国の山城,円福寺碑文〕

 後代,因島村上が居城にしたという事実からして,海上を封鎖されなければ※少人数で一定の期間防御できた,という実証を桑原重信はしたと思われるのです。

※四国の南朝方が寄せていたということは,この時期には少なくとも燧灘の制海権は南朝方が握っていたと推測される。

 けれども,室町期を通じ足利氏が鞆・大可島城を──それこそ徳川氏の福山城のように──重視した形跡はありません。尊氏西走・東上の際に海戦があった記録もない,ということは離合集散する海民を北朝・足利氏は小城郭を築いた南朝とは別のパラダイムで統制してきたと考えられるのです。

何処にでも開けちゃう室町幕府

掲年表の1507(永正4)年に「足利義稙※を奉じての大内義興上洛時,守護山名致豊が高須杉原元盛・上山広房らに尾道・鞆での接待を命じる」(→前掲)という事象がありました。

※足利義稙:1466年9月9日(文正元年7月30日)生-1523年5月23日(大永3年4月9日)没。正確には義稙(よしたね)は将軍職復帰後の1513(永正10)年以降の名で,初名・義材(よしき),将軍職を追われ逃亡中の1498(明応7)年に義尹(よしただ)と改めているけれど,本稿では義稙に統一。

 応仁の乱後さらに混迷した政局の中で,1493(明応2)年から義稙は畠山政長の領国で同家臣・神保長誠が経営する越中国放生津に5年間滞在。ここで一応の幕府行政機構を整えており,「放生津幕府」と呼ぶ論者もいます〔wiki/足利義稙〕。
 同様の例で,足利義維(1509(永正6)年(不詳)生-1573(天正元)年没。義稙の養子)が,政争の末に1527(大永7)-1532(享禄5)年の5年間,堺で行政をした時代を「堺幕府」とも言います〔wiki/堺公方〕。
 一時期であり,また内紛を原因とするとは言え,日本史の他の政権に,これほど場所を変転させた政体はありません。足利政権は,いわば場所を問わない幕府●●●●●●●●●だったとも言えます。行政機能が地理的な束縛をあまり受けなかった。本編「鞆夫」(→本編)で触れたように,足利幕府は鞆に移っても行政機構の実体を有しました。おそらく堺や放生津でもそうだったのでしょう。
 だとすれば,室町幕府が担った機能とは何だったのでしょう?換言すれば,後の戦国大名の卵どもは幕府の何を要求したのでしょう。本稿の問題意識に立ち戻ると──新興豊織政権は足利幕府がどう機能する状況に戦慄したのでしょう?

足利義昭西日本ネットワーク

長や秀吉が鞆の足利義昭の扱いに一定の配慮をしていた,という本稿の感覚が正しいなら,それはネットワーク型の統治機構だったと考えられます。
「すわ鎌倉」といった権力一極集中型の機構とは,足利幕府はその発生期から性格を異にしてきました。それは交易による財の離散を原動力とします。伊勢湾経済圏の核としての津島,交易圏としての琵琶湖を抑えた安土を地歩とした信長,大阪・博多,さらに名護屋に新都市を築き,寧波を狙った秀吉は,同じ原理をパワーとして一統事業を構想していました。

公方様(義昭)が下向したことにより、毛利を知らなかった遠国の大名たちまでが、毛利に挨拶に来るようになった〔小早川隆景の後年の述懐
山田康弘『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年〕

 瀬戸内の海民との緩い提携関係を山陽支配の基盤とし,南蛮交易にも乗り出そうとしていた毛利氏が,義昭の権威と連動して構築しえたネットワーク。それがどれだけ豊織政権にとって脅威だったか?

1580年頃の西日本の勢力地図。黒字は引用者〔後掲つわものどもの館〕

②イワニ国の銀とポルトガル船来航

界経済史の節目※になったとも言われる石見銀山の存在は,特に16C末の情勢判断上は巨大です(上図②)。

※「1530年代に日本産の銀(日本銀)への需要が急速に高まり、さらに銀生産技術で灰吹き法という製錬技術が広がって急速に増産された。特に石見銀山の銀は中国向けに輸出され、中国にもたらされた日本銀は丁銀(ちょうぎん)といわれ、通貨として広く流通した。」〔後掲世界史の窓/銀〕

 最近の史料発見としていわゆる「マドリッド本」があります。

文献には,漢字で書かれた旧国名『石見』の文字に重ねるように,スペイン語で『イワニ国 銀が多量にある。当地にはポルトガル人が来航する』と記されていた。
 さらに,現在の広島県西部に当たる『安芸』の部分には『アキ国 当国の王は上述の(イワニ)国のすべての銀を享受する』と書かれ,毛利氏による石見銀山支配の状況を説明。
〔再掲山陰中央新報令和元(2018)年8月24日一面:→m000m噴出口mm海域アジア編首頁/原文

マドリッド本中の「石見」にかぶせられた文字:イワニ国 銀が多量にある。当地にはポルトガル人が来航する〔後掲島根県教委〕
※原典: 1587年7月4日付岡 美穂子(東京大学)史料名 「フィリピン司教ドミンゴ・デ・サラザール(ドミニコ会士)のマニラ来航日本人への質問録と日本情報」(所蔵:スペイン国立歴史文書館(マドリッド)史料:手書き写本)

同マドリッド本中の「安藝」(安芸)にかぶせられた文字:アキ国 当国の王は上述の(イワニ)国のすべての銀を享受する〔後掲島根県教委〕

 上記原典の体から見て頂けるように,文書と言うよりメモなので史料性はやや劣るのは否めないでしょけど──まず時点は,文書の日付記載から1587年7月より前です。記載事実としては,「石見」パートに
【A】石見:銀多産
【B】石見:ポルトガル人が来航
 A+Bで「ポルトガル船が銀を求めて来航した」ことが推察されます。これだけでも他史料の語らない事実ですけどさらに安芸パートに──
【C】石見銀の所有者は「アキ国の王」である。
ことが書かれているのですから,この銀取引は地方勢力や特定商人の主宰とは考えられません。A・B・Cを総合すると,1587年以前に来航ポルトガル人と毛利氏●●●●●●●●●●●●が石見で銀交易をした●●●●●●●●●●ことが明らかになります。
 なお,石見銀山の交易港としては沖泊港や温泉津が想定されています〔後掲石見銀山世界遺産センター〕。
 数量が特定できないことが難点ですけど,偽書を用いて朝鮮交易を行った大内氏を継いだ毛利氏が,自領に産する銀が国際交易に極めて有用たりうることを認知していた。本稿での論点については,それで十分です。
 要するに,毛利氏は売るモノを持っていました。

③海外に最も開かれた16C九州と①国内交易路としての瀬戸内

後(大分県)の大友宗麟が洗礼を受けドン・フランシスコを名乗ったのは耳川の戦いの直前の1578(天正6)年。長崎・茂木を大村純忠がイエズス会に寄進したのが1580(天正8)年。足利義昭「鞆幕府」開設(1576(天正4)年2月)のそれぞれ2年後,4年後です。
 第一次木津川口の戦いで,毛利と織田が実戦状態に入ったのが,まさに鞆幕府開設年(1576(天正4)年7月15日※)。月が正しければ5か月後です。

※信長公記記述

 信長を語るストーリーとしてあまり出て来ないんですけど──1570年代後半以降,新興・織田勢力は西の毛利と全面戦争に入った,というだけでなく,相戦うことはあれ緩い結合関係にあった西日本政経ネットワークとの対決フェーズに入った,とも言えるのではないでしょうか?

1562(永禄11)年
 毛利元就:石見銀山を掌握
1573(天正元)年7月28日
 織田信長:改元要請,朝廷これを容れる。
1575(天正3)年頃〜
 近衛前久:信長の命を受け九州下向。大友・伊東・相良・島津氏の和議を工作(対毛利包囲網?)
1576(天正4)年2月
 足利義昭:「鞆幕府」開設

同年7月15日
 毛利vs織田:第一次木津川口の戦い
1578(天正6)年
 大友宗麟:洗礼を受けドン・フランシスコを名乗る。
1580(天正8)年
 大村純忠:長崎・茂木をイエズス会に寄進
1581(天正9)年
 羽柴秀吉:鳥取城攻め

 例えばゲーム「信長の野望」とかで近畿制圧後の織田に勝つのは,かなりの腕が必要です。でもゲームの要素には,室町時代以降まま歴史を動かしてきた緩いネットワークの統合力と対外交易による経済的優位が含まれていません。

毛利氏の主家であった大内氏が足利義稙を擁して上洛し、復位させたことにより、海外貿易の利権を握ることに成功していたこともあって、その先例に倣おうとした〔天野忠幸『三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争』戒光祥出版〈中世武士選書31〉、2016年〕

日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援〔木下昌規「鞆動座後の将軍足利義昭とその周辺をめぐって」(『戦国期足利将軍家の権力構造』、岩田書院、2014)第三部第三章〕

 九州諸国は東シナ海をまたぐ交易圏を築きつつありました。その意味では信長が堺で行った対外交易より,はるかに先行しています。そこに経済通貨・石見銀と当時絶対的に便利だった国内海路たる瀬戸内海を抑えた中国・毛利氏,さらにもしかすると瀬戸内の南岸を制しようとしていた長宗我部。これらが足利氏得意の緩いネットワークに糾合された場合,織田は優位に立てていたでしょうか?
 あるいは,「尾張の弱兵」を主体としつつも初発では津島,半ばからは楽市による財政力で高めた火力と機動力で旧態武士団を退けてきた織田軍団は,よりポテンシャルの高い当時の西の財政力が,そのネットワーク化によりさらに経済効率を高める可能性に戦慄しなかったでしょうか?
 広島人としては不本意ながら……現代のパワーバランスで考えてはいけません。現に,足利尊氏は九州で勢力を養って京を再制圧しました。秀吉の山崎合戦(1582)〜小田原攻め(1590)の天下統一過程の8年のうち,薩摩平定(1587)まで5年,つまり西の制圧に6割超の期間がかかっています。三百年も後ですら,江戸幕府は薩長土肥,つまり西日本雄藩連合に倒されたわけです。
 足利義昭が鞆で鯛釣りをしていた,という歴史観は戦国三傑側の史書のトーンです。同時代の感覚,特に経済感覚ではとてもそうとは思えません。少なくとも,豊織陣営をして西日本諸国の切崩しに渾身の外交戦を展開させるほどには,東西拮抗の可能性を生んでいた時代が1580年前後の政経状況だったと考えるべきです。その可能性の中核にいたのが,最後の室町将軍でした。

検証:島津氏の豊織対応

臣政権後の状況から,その先代・織田信長代にこれに対抗する徒党を成そうとした記録はどの大名勢力も伏せようとしたはずなので,やや視点を引き,島津-義昭の提携の痕跡から同時代の空気を嗅ぎ取ってみたいと思います。
 1586(天正14)年の秀吉による島津討伐の前年(1585年)末,義昭は執拗に和睦の使者を送っています〔後掲歴史館〕。

1586(天正14)年
 12月4日 足利義昭、島津義久へ一色昭秀を派遣して羽柴秀吉との和睦締結を促す。詳細は真木島昭光に伝達させる。〔「島津家文書」①‐104、「旧記雑録後編」②‐216〕
 同日 同島津義弘へ同趣旨の派遣〔「島津家文書」①‐105、「旧記雑録後編」②‐218〕
 同日 同島津家久へ同趣旨の派遣〔「旧記雑録後編」②‐219〕
 同日 同伊集院忠棟へ同趣旨の派遣〔「島津家文書」①‐106、「旧記雑録後編」②‐217〕

 討伐当年の1586(天正14)年3月12日に,義昭は備後赤阪(現・広島県福山市)で秀吉を出迎えているので,この時点では秀吉側に取り込まれていることは明瞭です。従って島津への和睦斡旋も秀吉の意を受けたものと推測されます。
 これへの対照として,1586(天正14)年4月 3日に島津義久が,上記和睦使者に立っていた真木島昭光へ次の旨を表明した記録があります。
●羽柴秀吉軍との交戦は「不慮の防戦」であること。
●足利義昭の命令(「奉任貴命」)の遵守及び別心無き旨
〔「旧記雑録後編」②‐284〕
 鎌倉期の三国守護(薩摩・大隅・日向)領復活を旗印にしていた島津が,その枠を越えて九州征服戦に乗り出すためには足利将軍の意向を名分にする必要があり,従って形式的には義昭麾下に立っていた,とする解釈が一般的です。ただ義昭が島津に限って担ぎ出されているのは,義昭-島津の関係がそれを超えて濃厚だったことを示唆します。
 そこで義昭の「鞆幕府」時代を通じた島津の対中央外交の推移を,時系列で確認してみます。言い換えると,島津の対近畿外交に鞆幕府がどれほど影響したか,という確認です。区分は1576-78,79-81,82-83の三つです。

検証①:1576鞆幕府開設-1578耳川戦

1576-1578島津-中央年表
1576(天正4)年
( 2月 足利義昭「鞆幕府」開設)
 3月25日 島津義久、島津義弘へ近衛前久に見物させる犬追物の準備を指示。〔「旧記雑録後編」①‐833〕
 4月 9日 島津氏、近衛前久を接待し犬追物を行う。〔「旧記雑録後編」①‐838〕
 4月14日 島津義久、薩摩国鹿児島に近衛前久を迎えて歌会を催す。〔「旧記雑録後編」①‐843・844〕
 6月21日 近衛前久、島津義久へ「古今集伝授」を無事に成就したことを賞す。〔「旧記雑録後編」①‐852〕
 6月29日 近衛前久、伊勢貞知へ島津領国滞在中に兒玉実宗の奉公を感謝する旨を通知。〔「旧記雑録後編」①‐854〕
 7月 7日 吉田兼見、伊集院忠棟(「伊住院」)より多賀大明神勧請のため神体を所望され、これを了承。取次は木下道正宗固(島津氏家臣)。〔『兼見卿記』一〕
 7月12日 木下道正宗固(島津氏家臣)、吉田兼見を訪問し多賀大明神勧請の神体を渡される。〔『兼見卿記』一〕
 9月 3日 近衛前久、島津義弘へ停戦調停のための下向時の旨を謝し、島津義久出陣を気遣う。〔「旧記雑録後編」①‐890〕
 10月12日 近衛前久、肝付兼盛(島津家臣)へ鹿児島訪問を終えての見送りを喜び、島津義久へも感謝の意を通知。(略)〔「旧記雑録後編」①‐893〕
1577(天正5)年 
 4月17日 足利義昭、伊集院忠棟・河上忠克・平田光宗・村田経定へ足利義昭の帰洛援助に毛利氏が応え、更に武田氏・北条氏・上杉氏に合力させ、今度は島津氏が加担する旨を賞す。(略)〔「旧記雑録後編」①‐797〕
 4月17日 (前掲同内容)島津氏が加担する旨を賞した足利義昭「御内書」が発給された旨を通達。(略)〔「旧記雑録後編」①‐798。①‐1348にも同内容〕

 8月18日 近衛前久、島津義久へ前年2月末に薩摩国より帰洛、子息の近衛信基(近衛信尹)が織田信長邸において元服した旨を報告。また約束した轡・鞍・鐙以下の送付は、諸事の事情によって遅延しているが、何れ伊勢貞知を派遣して届けることを通知。(略)〔「島津家文書」②‐662、「旧記雑録後編」①‐925〕
1578(天正6)年
 4月 7日 近衛前久、島津義弘(忠平)へ日向国攻略を賞し、近衛前久自身は織田信長と好を通じたことを報告。また島津義弘(忠平)へ出水郡の島津義虎を経由して日向国の「大鷹」を所望。(略)〔「島津家文書」②‐696、「旧記雑録後編」①‐969〕
 同日    近衛前久、喜入季久へ(以下同趣旨)〔「旧記雑録後編」①‐970〕
 9月11日 足利義昭、自身の帰洛を毛利輝元が後援している旨、毛利氏の妨害をしている大友氏に軍勢を差し向けることを通知し、島津義久へ豊後表への乱入を賞す。詳細は毛利輝元・小早川隆景・吉川元春に伝達させる。〔「旧記雑録後編」①‐1005〕
( 11月12日 島津義久、大友義鎮(宗麟)を日向国耳川に於いて撃破。)〔後掲歴史館〕※1576(天正4)〜1583(天正11)年,島津ワードでヒットする対中央関係記事。以下同じ。ただし(括弧書き)は引用者追記。

576(天正4)年中の記事は近衛前久を歓待して交友を深めた,この一時に尽きます。──前久はこの時期の戦国大名間を動き回った公家で,信長派と単純にも位置付けにくい。藤原本家の血筋ながら本願寺や謙信とも親しく,一時(赤井直正寄居時代)は「信長包囲網」の一部を成したとも目されるうさん臭いフィクサーです。
 翌1577(天正5)年,前久の薩摩から京都への帰路中,鞆幕府から島津氏への初発の接触があります。──前久と義昭は前関白職を巡り対立関係にありましたけど,この二人のような政治人間群の離合集散には外聞はあっても恥はありません。
 田舎の新興勢力・島津が都人,しかも最高ランクの公家を迎えて逆上せ上がって歓迎した,という書き方をする記述もあるけれど,平安期から続く島津の強かさを勘定に入れるべきです。前久を繋ぎにして義昭とも安芸に落ちた期に誼を通じる算段はあったでしょう。上記の史料記述では「島津氏が加担する旨」の何らかの意思表示が1577年4月以前にあったことになりますし,義昭の側はその発信者が後戻りできないように島津麾下の武将に広く「島津-義昭連合」の成立を広報したわけです。
 もう一つ面白いのは,義昭が耳川戦の前段階で島津の対大友戦を評価していることです(→1578年09月11日)。つまり,対大友戦で有利になる前から義昭は島津に肩入れしています。
 ところが次の1579-81年,信長最後の三年間には史料上義昭との交信は絶えてます。

1578年–79年 御館の乱 耳川の戦い段階の西日本勢力図〔後掲戦国時代勢力図と各大名の動向〕

検証②:1579耳川戦翌年-1581本能寺前年

1576-1578島津-中央年表

(再掲:前年11月12日 島津義久、大友義鎮(宗麟)を日向国耳川に於いて撃破。)
1579(天正7)年
 2月21日 三好政生(「釣閑斎」)、島津氏使者を同行し吉田兼見を訪問。〔『兼見卿記』一〕
 4月 7日 近衛前久、喜入季久へ島津氏の日向国併合を賞す。また近衛前久自身は織田信長と入魂の間柄にあることを強調し、安心する旨を通知。さらに日向国「鷹」の献上を所望。〔「旧記雑録後編」①‐1086〕
 5月18日 真木島昭光、島津義久へ日向国制圧を足利義昭(「公儀」)が祝している旨を通知。(略)〔「旧記雑録後編」①‐1088〕
 6月16日 細川藤孝、島津義久へ足利義昭が「日向巣」の若鷹を所望する「御内書」と小袖を送付するので、「面目」の至りであるので若鷹の献上を促す。〔「旧記雑録後編」①‐1093〕

 6月22日 吉田兼見、愛宕秀存坊へ伊集院忠棟への返状・服忌令・御祓、島津義久への御祓を渡す。〔『兼見卿記』一〕
 9月13日 近衛前久、島津義弘へ大友氏・島津氏の「無事」に応じるよう促す。また去春よりの本願寺(「大坂」)の件に関与していたため、豊薩無事の調停を延引したことに触れ、織田信長(「信長公」)より「一書」を携帯した伊勢貞知が派遣されることを通知。さらに「大鷹」の献上をも所望。〔「旧記雑録後編」①‐1102〕
 9月19日 近衛前久、島津義久へ「詠歌大概」を送付。更に数度にわたり「大鷹」所望を通知しているが、信長公の分と近衛前久の分を献上するよう依頼。〔「旧記雑録後編」①‐1103〕
 9月19日 近衛前久、島津義久へ全7ヶ条の「覚」書を送付。〔「旧記雑録後編」①‐1104〕
 9月19日 近衛前久、喜入季久へ織田信長(「信長公」)は大友氏に対して疎略にしないこと、芸州辺に関する調談に触れ島津義久の同心を促す。取り成しは近衛前久を始め、松井友閑・猪子高就が担当するので何事も相談するよう通知。(略)〔「旧記雑録後編」①‐1106〕
1580(天正8)年
 8月12日 織田信長(「信長」)、初めて音信を通ず島津義久(「島津修理大夫」)へ大友義統(「大友」)と「鉾楯」に及んでいることは不当であり「和合」することがもっともであること、また織田信長の勢力圏(「此面」)では石山本願寺を「緩怠」を理由に「誅罸」し、石山本願寺側からの懇望により「赦免」して大坂「退散」が実現、本願寺顕如らは紀伊国雑賀へ退去したことで「幾内無残所属静謐」したこと、来年は安芸国へ織田信長が「出馬」する予定であるので、その際には奔走し「天下」に対して大忠をなすことを促す。詳細は近衛前久(「近衛殿」)より伝達させる。〔「島津家文書」①‐98、「旧記雑録後編」①‐1098〕
 8月12日 織田信長(「信長」)、近衛前久(「近衛殿」)へ大友義統(「大友」)と島津義久(「島津」)が「干戈」に及んでいることは不当であり「和睦」することがもっともであること、また「大坂落着」(本願寺教如の退去)したので、来年は織田信長が「出馬」して毛利輝元(「毛利」)を「追伐」する予定なので、その際には大友義統・島津義久の双方が奔走し「天下」に対して大忠を尽くすことを申し含め、伊勢貞知(「伊勢因幡守」)に通達するよう命令。〔「島津家文書」①‐99、「旧記雑録後編」①‐1099〕
 9月 6日 近衛前久、喜入季久へ大友氏・島津氏の無事について織田信長(「信長公」)が伊勢貞知を派遣した旨を通知。異儀無きよう細心の注意を払うよう指示。〔「旧記雑録後編」①‐1170〕
 9月13日 織田信長、大友義統・大友宗麟へ芸州出馬のため大友氏・島津氏の和睦を勧告。「私之以遺恨」て異儀に及ぶ場合は「敵」と見なすことを通達。〔「大友家文書録」③‐1786〕
 9月13日 近衛前久、大友宗麟へ上洛以後の無沙汰を詫び、大友氏・島津氏の和睦については織田信長から伊勢貞知が派遣される旨を通知し、大友義統と相談すべきことを勧告。〔「大友家文書録」③‐1781 ※③‐1788も同趣旨〕
 9月13日 近衛前久、喜入季久へ大友氏・島津氏の和睦について織田信長から伊勢貞知が派遣される旨、同心するよう取り成す旨を通知。また「大鷹」の献上を所望。〔「旧記雑録後編」①‐1172 ※①‐1173も大鷹献上を除き同趣旨〕
 9月19日 近衛前久、島津義弘(「島津兵庫頭」)へ薩摩島津氏は大友義統(「豊州」)との紛争に及んでいたが、今に及んで「申結」ばれる(和睦する)ことを促す。また大友義統(「大友」)の件は織田信長(「信長公」)に対して疎略ではないこと、織田側は毛利氏領国へ軍事行動に及ぶ軍議に於いて島津氏・大友氏の対立は不都合であり、島津義久(「義久」)の存分があったとしても和議締結に応ずべきであること、松井友閑(「宮内卿法印」)・猪子高就(「猪子兵介」)からも同様の通達がなされること、近衛前久が織田側より受けた「書状」をこの件の参考のために送付するので、この和議締結に「同心」することが重要であることを通達。詳細は金鐘寺和尚・伊勢貞知(「貞知」)より伝達させる。〔「島津家文書」①‐100〕
 9月19日 近衛前久、島津義久へ薩摩在国以来約束であった「詠歌大概」を贈与、島津義久から織田信長(「信長公」)に鷹を献上したことにつき、近衛前久自身も鷹を所望する旨を依頼。〔「島津家文書」②‐664〕
 9月    織田信長、大友義統へ正親町天皇「勅定」を受けて命令を通達する。その内容は、「関東」は残さず「奥州」の果てまで正親町天皇「綸命」に任せて「天下静謐」となったが、「九州」については未だに「鉾楯」が継続していることは不当であり、国境紛争について大友義統と島津義久の意見を聴取し、追って命令を下すこととし、先ず大友義統・島津義久間の「弓箭」を停止すべきことは正親町天皇「叡慮」であるので、この旨を遵守しなければ急ぎ織田信長「御成敗」が行われることになっており、この通達に対する返答は各自にとって「一大事」であるから分別のある返答をするよう命令。〔「大友家文書録」③‐1785〕
1581(天正9)年 
 1月下旬頃  近衛前久、大友義統へ織田信長不意の芸州出陣に際し大友氏・島津氏の和睦促進を勧告。〔「大友家文書録」③‐1809〕
 3月 2日 近衛前久、島津義久へ織田信長が「御朱印」を以て大友義統・島津義久の和睦締結を促し、毛利輝元を討伐する意向を報告。(略)〔「島津家文書」②‐667〕
 3月 2日 近衛前久、喜入季久へ去年以来の大友氏・島津氏和睦に関し織田信長が「御朱印」で通達している「筋目」容認を指示。芸州への出馬前に勧告を容れるよう強く通達。詳細は伊勢貞知・道叱に伝達させる。〔「旧記雑録後編」①‐1192〕
 5月 3日 島津義久(正五位下)、従四位下に叙される。〔「島津家文書」②‐638、「旧記雑録後編」①‐1200〕
 8月 2日 島津義久、大友義統へ豊薩和睦の祝詞を謝し、報礼として太刀・馬を贈答。〔「大友家文書録」③‐1818〕
(再掲:翌年6月2日 本能寺の変)
〔後掲歴史館〕

自然な途絶です。代わりに信長から執拗に対大友和睦を強要されてます。
 このケースは,記録のない事がむしろ雄弁です。──1581(天正9)年5月3日に島津義久が正五位下から従四位下に叙されているのは,3か月後の8月2日の島津→大友贈答記事から推測して,信長の和睦命令を渋々容れた見返りでしょう。その結論からして,この二年間の「抵抗」期に義昭側と様々な調整をしていたとしても記し難かったはずですし,実際隠密に行われたでしょう。
 信長のこの強要外交は,前後関係からして,明らかに義昭の対島津接近へのリアクションです。西日本のネットワークがある程度存在し機能していたからこそ,その切崩しを要したわけです。
 強かな島津外交が単にゴネてたはずはない。信長に与して「毛利の敵の敵にならない」選択による以上のメリットを,義昭側から引き出そうと交渉していたと見るべきです。また,この後に島津-義昭のパイプが切れてない,つまり決裂した訳ではないということは,島津はそれなりのメリットを得たとも推測できます。
 状況証拠だけから言えば,この「九州惣無事強要外交」の直後に本能寺があるのは,謀略に長けた西日本諸国を挙げての抵抗の結果だったかもしれない。あえて関係史料を挙げるなら──本能寺の翌年,家康その他旧織田家臣団を挙げての「御帰洛」斡旋,つまり室町の旧秩序の復元運動が記録されているからです。

1583(天正11)年2月14日 徳川家康(「三河守家康」)、足利義昭「珍簡」(御教書のことか)および織田信雄(「信雄」)・羽柴秀吉(「羽柴」)と他の織田「家老之衆」の「御請之諸城」を以て毛利輝元(「毛利右馬頭」)へ足利義昭(「公方様」)の「御帰洛」斡旋を行う。〔「毛利家文書」③‐1014〕
〔後掲歴史館〕

 その場合,本能寺の変の首謀者はいなかった●●●●●●●●●かもしれない。本当に深い謀略は,粘菌のように中枢を欠くネットワークそのものが「広域政治経済の敵」を狙い撃つものだからです。

今度織田事、依難遁天命、令
自滅候、就其相残輩、帰洛儀切々
申条示合、急度可入洛候、此莭
別而馳走可悦㐂、仍太刀一腰、
黄金拾両到来㐂入候、猶昭光、
昭秀可申候也、
 十一月二日 (足利義昭花押)
       嶋津修理大夫とのへ
※(天正十年)十一月二日付足利義昭御内書(東京大学史料編纂所所蔵文書 
〔後掲らいそく〕※後掲11月 2日義昭御内書に対応

検証③:1582本能寺の変-1583翌年

1576-1578島津-中央年表
1582(天正10)年
( 6月 2日 本能寺の変)
 6月17日 近衛前久、島津義久へ近衛前久自身は本能寺の変後に蟄居している旨を報告。「若鷹」はそのため無用であること、更に島津義久からの「沈香」100両の贈答を謝す。〔「島津家文書」②‐668、「旧記雑録後編」①‐1278〕
 10月27日 一色昭秀、喜入季久へ播磨国上月城が落去し尼子勝久一類が切腹したことを通知。また肥州表へ島津義久が出馬し成果を上げたことを賞す。さらに足利義昭(「公儀」)への馳走を買って出る。〔「旧記雑録後編」①‐1298〕
 11月 2日 足利義昭、島津義久へ織田信長は「天命」によって「自滅」したことを通知し、これを契機に帰洛を意図して援助を促す。詳細は真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「島津家文書」①‐90、「旧記雑録後編」①‐1295〕

 11月26日 近衛信輔、島津以久へ京都で発生した不慮の錯乱を通知。〔「旧記雑録後編」①‐712〕
※同日 近衛信輔→肝付兼盛(島津家臣)〔「旧記雑録後編」①‐713〕,→島津家久〔「旧記雑録後編」①‐1302〕にも同趣旨通知
 11月 晦日 足利義昭、島津氏へ「殿」文字赦免を行い、詳細を真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「島津家文書」②‐641〕
 11月 晦日 足利義昭、島津義久へ日向巣の大鷹献上を謝、返礼として鐙を送付。詳細は布施治部少輔・真木島昭光・一色昭秀に伝達させる。〔「旧記雑録後編」①‐1309〕

1583(天正11)年
 2月11日 近衛前久、島津義弘へ去年6月2日の「於京都不慮之剋」に際し「侫人共」の言動で「牢籠」の立場になった旨、島津義久を頼り薩摩国下向を意図するも遠国であるため、徳川家康(「徳川三河守」)を頼り遠江国に下向した旨、中央情勢の混沌とした状況を通知。また近衛前久が所有していた醍醐寺領が横領されたことも触れ、詳細は安養坊・持明院に伝達させる。畿内周辺は「弓矢之刻」であるため、このような内容の書状であることを述べる。また、自身の出家による判形改を通知。〔「島津家文書」②‐698・「旧記雑録後編」②‐432〕
 2月20日 近衛前久、島津義久へ去年6月2日に織田信長没後に近衛前久自身は「理不尽之風聞」により醍醐山に退隠していたこと、織田信孝の厚意により美濃国下向を予定するが羽柴秀吉によって京都に留まった旨を報告。しかし「侫人共」の「讒訴」や「虚名虚説」などに堪えかね島津義久を頼ろうとするが遠国なので叶わず、遠江国の徳川家康を頼り、徳川家康は近衛前久帰洛の斡旋に尽力してくれたことを通知。将来は島津義久を頼って下向する意向を通知。(略)〔「島津家文書」②‐669、「旧記雑録後編」①‐1324 ※「島津家文書」②‐698にも同日同趣旨〕
 5月28日 三千院宮最胤親王、島津義弘へ「山門」(比叡山延暦寺)再興の勧進を促す。〔「島津家文書」②‐712〕
 10月 5日 近衛前久(「龍山」)、島津義久へ「醍醐衆」の薩摩国下向に際して近衛前久自身は徳川家康の斡旋により9月上旬に上洛、羽柴秀吉より賄等を保証されたことを報告、更に島津義久に対して所領上分の進納を促す。詳細は伊勢貞知に伝達させる。〔「島津家文書」②‐666「旧記雑録後編」①‐1360〕
〔後掲歴史館〕

 1582年11月に義昭が島津義久へ謝意を表明しているから,それまでに義久が日向巣の大鷹を義昭に献上していることが読み取れます。信長が討たれた後,島津は義昭との関係をもはや隠す必要なく公然化させています。
 総合して,島津は信長とのパイプを保ちつつ義昭とのより強い関係を確保していた可能性が高い,と見てよい。
 さて,以上を前提に,本稿の最終目的である義昭「鞆幕府」ネットワークによる東アジア交易について推測していきます。

日本国王之印〔後掲毛利博物館〕

室町幕府が明から下賜された金印の模造品(桜材。重要文化財。毛利博物館蔵)の印影。この模造品の側面には「日本国王臣源」の墨書がある。大内氏が所有し、外交文書のほかに蔵書印としても用いられた。大内氏滅亡後に、吉見氏の手を経て毛利氏の所有となったと考えられる。〔後掲山口博物館〕

義昭は自らを王様と忘れていたのか?

記のような国内政争に没頭していた義昭が,対外外交を主目的にしていた時期は少なかったと考えられます。けれども,義昭は本人の好むと好まざるとに関わらず「日本国王」であり,交易主体だった博多・薩摩・対馬などの名義人としては,弱体化したからこそむしろ使い勝手はよかったと考えられます。

最後の日本国王:足利義昭

鮮国王が義昭を日本国王号で呼称していたという記事もあるけれど,この事実は後掲原典(展開内)で確認する限りかなり怪しい。この時期に登場する謎の交易主体「右武衛殿」も,現在は信長ではなく九州の何れかの諸国主で,彼による偽使だったと推定されており,朝鮮側が日本国王と呼んだ者が本当に義昭だった保証はなさそうです。
 ただし,東アジア交易のために必須である外交スキル──外交用の漢文作成力,経験知など実務力を持つマンパワーをコントロールする実権は,確かに義昭の有するところだったようです。

 義昭が,かつて遣明船を派遣した聖福寺や五山の人事権をある程度掌握していたとすると,歴代将軍と同様に,明・朝鮮・琉球などの東アジア外交の理念上の主催者として関与した可能性は高い。室町時代の五山僧は,幕府の外交文書の作成にも携わっており,のちに秀吉が公帳発給権を掌握すると,西笑承兌らを使って東アジア外交に着手することになる。[パンフ/藤田 同]

 つまり義昭は,名義とマンパワーを有しており,後はスポンサー:交易主体と船員を見つければよかった。そして,それに名乗りを上げる西日本の大名は数多あり,相互の合弁交易体による交易が,政経ネットワークとして最後の徒花を咲かせたのが鞆幕府という時代だったと捉えられます。──信長は直線的な南蛮交易は促進したけれど,東アジアに通じる交易ネットワークはついに築けていません。日本国を代表する交易主体たりえなかったからで,それは秀吉・家康の時代を待たねばなりませんでした。

信長は,宣教師を介して積極的に南蛮外交をおこなっていた。それに対して義昭は,伝統的な東アジア外交に関与していたと考えられる。義昭と西国大名との良好な関係の背景には,東アジア貿易との関係があったとみることもできるのではあるまいか。すなわち大名たちがもたらした莫大な献上品は,東アジア貿易の見返りと理解することもできよう。[パンフ/藤田 同]

 下記展開で中村さんが推測しているような対明工作を,義昭が企図したとする説もあります。──日本国王号はそもそも日明貿易上の(義満が倭寇鎮圧の功から明朝に許された)名義です。1547(天文16)年以降,大内氏が「受託運営」する遣明船が,陶氏時代に明側から「簒奪者」と見破られて絶えた状況下ではほぼ意味を失っていた日本国王名を,大内遺領と印を名実ともに継いだ毛利氏の庇護下で日本国王その人が再開させる。それは,1680年代時点で最も合理的な日明貿易再建の方法だったのは確かです。だから先述の右武衛殿が義昭で,その主導での対明工作だった可能性も否定できません。
 ただ,結果として日明貿易は再開されていない。なので鞆幕府ネットワークの東アジア交易は諸国大名への名分付与に留まっていたと見るべきでしょう。




山口-対馬-朝鮮ルートと薩摩-琉球ルート〔後掲まっぷるトラベルガイド〕※一部

日本国王使:毛利と琉球管区海上保安庁:島津

は島津は義昭を攻めて自害させています。
 ……と言っても16C後半の足利義昭のことではなくて,15C前半の大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)のことです。六代将軍足利義教との家督争いに破れ日向に逃れた義昭を,1441(嘉吉元)年に九代・島津忠国が幕命を奉じ討ちます〔後掲尚古集成館〕。
 この際に,忠国が室町幕府から恩賞として琉球領有を許されたとする史料があります。

僧正の首を将軍家に献じ候処、義教公御自筆の御感状、名物の御太刀・御腹巻・御馬具、また琉球国忠賞として拝領致し候。これより琉球国は当分船を以て毎年年貢仕り候。〔後掲室町・戦国時代の歴史 原典:島津家譜〕※下線:引用者

 この「琉球国」部分は1609年の島津の琉球侵攻後の追加偽造と思われ,定説としては否定されています。ただし,忠国は晩年加世田へ移り,その頃から薩摩と琉球の交流関係が深化,その子・十代島津立久も1471(文明3)年に幕府から琉球渡航船の警護・取締を任されています。この室町幕府の「琉球管区海上保安庁」権限をより正当化する方向で創られた物語,という側面もあったと想像されます。
 ここで,前掲図のイメージを持って頂ければと思います。対朝鮮関係が悪化した遣唐使期以外,風雨を避けて朝鮮沿岸経由だった中国渡航ルートは,航行技術の発展により南島ルート:薩摩-琉球-福建を辿ることが可能になる。この2ルートは大内・細川それぞれの日明貿易路でもありますけど,中間貿易港としては山口・対馬・朝鮮と薩摩・琉球がライバル関係にあったとも言えます。
 毛利の握った石見銀と「日本国王」当人のカードは,交易の買い手としては,やはり後者を志向していました。
 つまり,戦国が収束に向うべき時期に,西日本の海は逆に活性化した可能性が高い。鞆幕府(1576-1588(天正4-16)年)12年間という一時的なものではあれ,義昭の形振り構わぬ飴のバラマキだったとは言え,このタイミングで「逆流」が生じた事の歴史的意義は大きいと見るべきではないでしょうか?

時の毛利氏が,北九州から全中国地域と対岸の伊予そして丹波・摂津の一部にまで及ぶ広大な領域に影響力を行使しえたのは,義昭を迎え公権力としての正統性を確保したことによるところ大であった。代々の守護家でもない毛利氏にとって現職将軍のもつ権威は絶大で,急速に拡大した領国を維持するためには,当然のことではあるが一定の利用価値があったと思われる。[パンフ/藤田達生(三重大学教授)「『鞆幕府』論再考」]

 毛利の銀と日本国王名義,さらにその下に置かれた「信なき」瀬戸内海人というプッシュ因子群。これが,琉球航路管理の幕府の名分を持つ島津管下海域に流れる。
 第二尚氏六代・尚元は1561年に渡来した冊封使から冊封(頒封)を受けるも,海域の治安悪化を理由に領封(中国本土での冊封)を請い,明関係は緊張しています〔wiki/琉球の朝貢と冊封の歴史など〕。その海域の悪化とは,嘉靖大倭寇(1553年)への明側交戦で大陸を追われ,これを吸収する形での明末の貿易開放時代。つまり後期倭寇の主体が東シナ海に拡散・流動化した状況を指します。
 実は先に挙げた2ルート図は,前期・後期倭寇の主経路図の一部です。

前後期倭寇ルート〔後掲まっぷるトラベルガイド〕 ※全体

16C後半の東シナ海情勢
1553年 嘉靖大倭寇
1556年 王直,明に投降
1557年 明,マカオにポルトガル商人の居住を許す。
1567年 明,海禁解除(張居正の改革)
1571年 スペイン,マニラ市建設
(1576(天正4)年 鞆幕府開設)
1587年付 ポルトガル船イワニ国渡来? 
〔後掲世界史の窓/倭寇 など〕

明官軍と戦う倭寇 「明仇十洲台湾奏凱図」(倭寇図巻)東大史料編纂所蔵(一部)

 この混沌の拡大が,次の大倭寇・朝鮮出兵(文禄・慶長の役:1592(天正20/万暦20/宣祖25)-1598(慶長3年/万暦26年/宣祖31)年)から鄭氏台湾(1661年建設)の時代に繋がっていきます。
 義昭や毛利・島津がそんな大状況──端的に言えば流動海民の大規模化期──をどれだけ認識し,利用する気でいたかは不詳です。けれど,少なくともその一部なりとも連動しようとした可能性はある。また,もしかすると本稿の隠れた主役である瀬戸内海賊は,この東シナ海の海民群に合流していったのかもしれません。
 義昭,恵瓊,毛利,島津の誰か一個人が全体のヴィジョンを描けた訳ではないでしょう。この時代の鞆幕府を結節点とする西日本は,いわば軟体動物のように戦国時代の終わる状況からレンマ的な全身思考で脱皮して東シナ海へとムーヴメントを起こしていった,という印象を持つのです。
 さて,以上の推定が正しければなおさら,本来の主体である瀬戸内の海民は政治上闇の存在なので,まず史料には残っている見込はありません。そこで外交文書とその取扱いに携わった五山等の僧と,その居した寺院を紹介して本稿を閉じます。
月岡芳年(1839-1892)画「教導立志基三十三:羽柴秀吉」──それにしても酷い描かれ方です。〔wiki/安国寺恵瓊〕

外交僧 居ては消えては安国寺

の古寺と言えば,(備後)安国寺があります。残念ながらこの訪問時にはスルーしてます。
 広島で安国寺と言えば,毛利の外交僧・安国寺恵瓊です。安国寺は尊氏が国毎に建てた寺で,この名乗りの安国寺は安芸の安国寺を指しますけど,恵瓊は備後安国寺の住持を兼ねていました。

室町時代には大変栄えた様子であるが戦国時代、一時衰退していたものを、 天正七年(1579)安芸の安国寺の出身である安国寺恵瓊が再興し、子院塔頭も多く存在し、 現在の釈迦堂を中心に海岸にまでのびる境内をもち、寺観をととのえたが、江戸時代に再び衰微し(略)〔後掲天空仙人の神社仏閣めぐり〕※原典:県文化財専門委員 村上正名 著述

 恵瓊は1594(文禄3)年に広島城南※に広島第三の安国寺を建立して広島城築城後の自身の居地としようとした形跡があります〔後掲備後の歴史を歩く〕。後掲斎藤「その間(=鞆幕府稼働中:引用者注)ずっと当地に在住し、影で支えた恵瓊の骨折り」があったと書く。他の記述にこの件はないけれど,恵瓊が鞆幕府近接の自身のオフィスとして再興したと考えるのは納得できる解釈です。

※現・広島市中区国泰寺町。「国泰寺」は福島正則による改名寺名。海岸岩礁の残る白神社(しらかみしゃ)の200m南で,豊織期当時の海岸線沿いと考えられている。

 義昭の鞆幕府ネットワークの運営の実務は,備後安国寺の恵瓊率いる庶務集団により進行したのかもしれません。
 安国寺恵瓊は1600(慶長5)年10月1日,六条河原で斬首。西軍総大将・石田三成,朝鮮出兵の先鋒大将・小西行長と共にです。家康はこの外交僧を三成と同列に危険視していた,つまりおそらく絶対に抹殺する必要のあるだけの情報を持つ人物と見ていました。
 ところで恵瓊の時代より前「一時衰退していた」というのは,「1339(暦応2)年に尊氏が建立した」時より後,ということです。この尊氏建立説は,「鞆浦志」(1748年成立)に記述されたもので〔後掲鞆物語/安国寺〕,恵瓊はもちろん江戸期の鞆の人々もそう認知していたらしい。
 ところが1949(昭和24)年に木造法燈国師坐像を修理していると,通常仏舎利を施入する箇所から像内納入品が見つかります〔後掲福山市/木造法燈国師坐像 附 像内納入品,後掲広島県教委〕。

胎蔵寺(福山市北吉津町2)で2001(平成13)年(やはり仏像修理の際),本尊・釈迦如来から発見された胎内施入品〔後掲胎蔵寺〕。備後安国寺の胎内施入品画像は見つからないけれど,同様の状態だったと推測される。

 同中尊及び脇侍の胎内にあったのは──

【中尊胎内】
・阿弥陀経6巻(願文・勧進帳・血書含む)
・般若心経1巻
・念仏紙2枚
・冊子1冊(名号並びに和歌記入)
・被蓋黒漆塗箱一合(一貫張り,中に毛髪3包あり)
・紙包27包(1包は毛髪のみ,他は毛髪と舎利) など
【脇侍観音胎内】
・仁王般若経上下2巻 など 〔後掲広島県教委〕

安国寺は寺伝によれば、暦応2年(1339)足利尊氏の命により、愚谷和尚が創建したようになっている。 これで見ると、南北朝時代に足利尊氏が全国に一寺一塔を建立した備後の寺となる。 ところが仏殿の修理やその中に収められた阿弥陀(あみだ)三尊像、法燈国師坐像などの修理中、 発見された胎内の墨書や文書などにより、創建はさらにさかのぼる鎌倉時代文永年間と考えられるにいたった。 阿弥陀像の胎内銘が文永11年(1274)であり、 この前年に捨入された位牌(いはい)には「癸酉金宝大工藤原季弘奉造捨入」とあって、癸酉の年が文永十年で、 金宝寺の建立に関係の大工が「初祖達磨円覚大師」の位牌として造ったことが刻んである。 また弥陀三尊像は墨書銘に「金宝寺之尊像」と記されて、金宝寺なる寺院の仏像であることが判明した。 また胎内に納入されていた数多い写経などに文永十一年の年紀が記されるなど、たしかに鎌倉時代に造立されたことが立証される。〔後掲天空仙人の神社仏閣めぐり〕※原典:県文化財専門委員 村上正名 著述

 胎内銘や写経の年紀から1274(文永11)年のものであることが判明。さらに,「弥陀三尊像は墨書銘に『金宝寺之尊像』と記され」〔後掲天空仙人 原典:村上正名〕ていたことから,遅くとも鎌倉後期までに建てられていた金宝寺という寺院を尊氏時代に備後安国寺と改称又は改造していたたいう推測が通説になりました。
 この創建年次の下限以外は,厳密には推定部分が多い。県教委の公式に書いてる次の内容が,像内納入品と造形から一次的に読める内容らしい。

(木造阿弥陀如来及両脇侍立像は)空蔵房寛覚ら三人が鞆に入港した船の乗客乗員など多くの人たちから勧進,平頼影を大壇那とし,大仏師覚尊によって造られ(略)
一光三尊形の巨大な舟形光背(高さ306m)を用いた善光寺如来である。善光寺如来は長野善光寺の像を模して鎌倉時代に盛んに作られた。その多くは銅製の小像であり,この像のような大きさのものは珍しい。〔後掲広島県教委〕

 釈迦堂に法燈国師像があることから,一般には「文永10年(1273年) – 無本覚心(法燈国師)を開山として金宝寺(安国寺の前身)創建、釈迦堂(仏殿)建立」〔wiki/安国寺 (福山市)〕,つまり創建者を無本覚心(法燈国師)と推定している,というのが正確な事実のようです。
 ただ,前掲のようにここの善光寺如来系の釈迦像は,大きさを中心に他とは違い過ぎてるのも事実なのです。

法燈国師が備後に居た13C末

燈国師が創建に絡んでいる,という通説が事実として進めます。尊氏創建の伝で開祖とされる愚谷は法燈国師の法孫です。臨済宗興国寺派(本山:和歌山県日高郡由良町・興国寺)の祖で,特に法燈派とも呼ばれるこの宗派は,この前後の時代,その信徒圏を備後一円に広げたと推測されています。

備後安国寺の法燈国師像。禅宗法燈派開祖で備後安国寺創建者愚谷和尚の師,同寺の伝・開山(当時の寺名は「金宝寺」)と伝わる。専門的には和歌山県由良興国寺のものよりやや若いころの姿とされ,同寺に伝わる梵字真言並仏眼禅師偈文には「建治元年十二月十八日覚心」とある。※建治元年=1275年〔後掲福山市/木造法燈国師坐像〕

 法燈国師(無本覚心,1207年~1298年)は,禅宗の一つである臨済宗法燈派を紀州由良で興した。法燈国師は,中国(宋)へ留学し,味噌,虚無僧を国内へ伝えたことでも知られ,中国との関係が深く,交易面でも大きな影響力があったと考えられる。
 この法燈派は,瀬戸内にも布教の伝播につとめ,備後地域ではこの金宝寺,三宝寺(福山市山手町),磐台寺(福山市沼隈町),常興寺(現・胎蔵寺(福山市北吉津町)),善祥寺(甲奴郡)の5か寺もあり,法燈派の拠点の一つであった。
 なお,この法燈派のネットワークは,中国との交易にも関係し豊かな経済力を有していたと推測される。[パンフ/前史 中世の栄華]

※参考:幻の金宝寺と法燈国師 | 全国一斉 鞆の浦検定(鞆ペディア)

上下町上下・善昌寺(史書中の善祥寺と推定される)の弁翁智訥禅師木像。開山伝承に,1328(正中2)年に当地の豪族斎藤美作守景宗という人が法燈派の僧・弁翁(べんおう)を迎えたという。〔後掲府中市立図書館〕

 禅宗の系統が複雑でよく分からないけれど,法燈派※は臨済宗の大きなカテゴリーとしては妙心寺派に近いらしい。妙心寺派の外交拠点と言えば博多・聖福寺が著名です。入宋経験のある法燈国師の周辺グループが,同様に鞆での外交に携わった可能性は朧ながらあります。

※現代においては,興国寺は1956(昭和31)年に臨済宗妙心寺派から独立し臨済宗法燈派大本山を名乗っている。ただ1986(昭和61)年に妙心寺派に復帰〔wiki/興国寺 (和歌山県由良町)〕
※※1249(建長元)年入宋,臨済宗楊岐派・無門慧開の法を嗣ぎ1254(建長6)年帰朝。〔世界大百科事典内/虚無僧←コトバンク/法灯国師,wiki/心地覚心〕

 安国寺が純粋に禅宗の拠点として興隆したのは創建から室町初期までで,その後の時代には荒廃していた節があります。即ちこの寺は,鞆が交易拠点として重きを成した時代に,外交僧のオフィスとして再興を繰り返してきたように見えるのです。

創建期(1254以降)
 :法燈国師 ←?
室町初期(1339)
 :愚谷和尚
 ←足利尊氏【南北朝戦】
鞆幕府期(1579?)
 :安国寺恵瓊
 ←足利義昭【西日本NW】

 もちろん,ということになりますけど……備後安国寺での外交実務の実態は,他のケース以上に記録が皆無です。ただ僅かに──尊氏と義昭が鞆にいた時代に寺院が中興しているのは,その際の外交僧団を収容していたと考えられます。そうたとすれば,そのきな臭い時期の外交文書が後世に残らないのも当然なのかもしれません。
 とすると1254年以降の年代の法燈国師による創設期にも,鞆に彼ら外交僧団を容れる何かの必要があったと考えられますけど──これも俄かに思いつく事象がありません。

紀州由良興国寺 絹本着色法法燈国師画像

弁天島塔婆。現・九層だが旧記には「十一重石塔」と書かれる。初重軸部には薬研彫で彫られた金剛界四仏の梵字(種子)のほか「文永八年(1271年)六月十五日」(廿五日説も)の記年銘〔後掲福山市/弁天島塔婆〕

とはずがたりに描かれた鞆の遊女

編冒頭に触れた弁天島には,1271年記名のある九層塔婆が残ります(上記)。県内最古とされるけれど,これもその他の情報を語らない。
 その30年後の1302(乾元元)年9月頃,後深草院二条が厳島へ詣でた帰路に,鞆に立ち寄った際の史料が「とはずがたり」の一部に残っています。鞆の状況を推し量れるものとしては,この周辺に遊女のいた港町が栄えていた,というほどしか分からないけれど,関係部を挙げておきます。

 さても、安芸国厳島(1)の社は、高倉の先帝も御幸(2)し給ひける、跡の白波もゆかしくて、思ひ立ち侍りしに、例(3)の鳥羽より船に乗りつつ、河尻(4)より海のに乗り移れば、波の上の住まひも心細きに(略)とかく漕ぎ行くほどに、備後の国鞆(5)といふ所に至りぬ。
 何となく賑ははしき宿と見ゆるに、たいが島(6)とて離れたる小島あり。遊女の世を遁れて、庵並べ
て住まひたる所なり。
(略)・・・暮るれば契りを待ち、明くれば名残りを慕ひなどしてこそ過ぎ来しに、思ひ捨てて籠もりゐたるもありがたくおぼえて、「勤めには何事かする。いかなる便りにか発心せし」など申せば、ある尼申すやう、「われはこの島の遊女の長者なり。あまた傾城を置きて、面々の顔ばせを営み、道行く人を頼みて、とどまるを喜び、漕ぎ行くを嘆く。(略)五十に余り侍りしほどに、宿縁や催しけん、
(略)この島に行きて、朝な朝な花を摘みにこの山に登る業をして、三世の仏に手向け奉る」など言うも、うらやまし。これに一、二日とどまりて、また漕ぎ出でしかば、遊女ども名残惜しみて、「いつ程にか都へ漕ぎ帰るべき」など言へば、「いさや、これや限りの」など(後略)
〔後掲hikog 原典:とはずがたり巻五〕

原注 (1)安芸国厳島(略)
(2)高倉の先帝も御幸 たかくらのせんていもみゆき「高倉院厳島御幸記」の帝で、治承四年三月二十六日厳島に到着され、二十九日御宮巡りの後離島された。天皇が外出することを行幸(ぎょうこう、みゆき)または、御幸(みゆき)と言う場合もある。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)という。外出先から帰ることを還幸(かんこう)という。
(3)例 通例通り。京都南部 鳥羽にあった船着場から西国への船旅は出立していた。
(4)河尻 かはじり 785年(延暦4)、西海への最短距離として淀川下流に三国川(神崎川)が開削された。淀川よりの分
岐点を江口といい、西海への入口を河尻(大河尻)と呼んだ。都と西海との往来が盛んとなるにつれ舟泊まりとして繁栄した。当時の身分・階級社会の中にあって、ここばかりは貴賎を離れた唯一の交歓地点となり、種々の庶民的文化芸能を生み出した。西宮の傀儡子(くぐつ)や遊女町の系譜も、この河尻にある。
(5)備後の国 鞆(略)
(6)たいが島 大可島(たいがしま)は、二条が鞆を訪れた40年後に、ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場となった。現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては鞆の沖合いに浮かぶ島であり、そこに大可島城があった。今は鞆の湊に出入りする南端の入口のようで、風・潮避けの防波堤のように見受けられる。