m19Qm第三十六波m回天の砦映ゆ海域アジアm鞆

※原歌 入魂の助詞あり俳句甲子園〔石川焦点〕

🌬 🌬  🌬 🌬 🌬備後 鞆 ~~~~~(m–)m

特論1:廃城令
 特論2:海域アジア

駅前の舟入二重櫓バス待ち人

▲よしあきくんと打倒コロナよしあきくん

,福山駅前。
 駅前広場のバスターミナルに乗り場を探してると──案内板?
「福山駅前付近は,福山城三之丸の南東部にあたり,外堀に面して藩の勘定所や重臣の屋敷がありました。」
▲福山駅前案内板

──て,ここ,福山駅前の整地のど真ん中だぞ?それに福山城からは線路挟んで反対側だぞ?
 さらに次の記述に目を引きつけられました。
「(略)その外堀の東側には城内に湾入した舟入があり,御水門と二重櫓を備えていました。」
 今地上に露出してる石垣が二重櫓台の南側石垣で,築城当時の高さを復元してあり,上部のみ公開してるものとある。巻末参照。
▲福山駅前に露出する石垣(復元)

福山駅から530円の異郷

900。福山駅発鞆鉄バスで鞆へ。近づく台風の気配を感じさせぬ青空が雲間に覗く。
 田尻から先は全く風情が転じる。海に出た,という空間の解放がある。
 仙酔島が見えてきた。チャリダー多し。羨まし。
 0930。予定通りかっきり30分で鞆の浦着。530円。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

▲0948沖を望む。

に島。地図を見ると……弁天島?──媽祖?
 けれど島には簡単には渡れない。とりあえず山手へ向かおう。
 町家群に入る。「鞆の津の商家」という文化財の場所に出ました。

明治37年設立の『鞆製網合資会社』の建物となり,漁網製造を中心に漁具・船具を北海道から東南アジアまで広範囲に販売する会社であった。〔案内板:平元 福山市教育委員会〕

※後掲広島県の民家には「明治27年には「鞆製網合資会社」という漁網製造企業の所有であったことが判明している。」とある。従業員は60人程。また,土蔵部は江戸末期建築の米蔵を明治末期に主屋横に移築したものという。


領・福山は,どうも藩政の木目が粗く,江戸定府で幕閣を務める藩主の理念が先行するタイプの正しくて空疎な領国であったらしい(巻末参照)。その中間で豪商が幅を効かせていた,というのが実情の国だったように見え,鞆の商業資本もそうした中で肥大化していったと思えます。

鞆幕府の城へ


の向くままに登る。鞆城石垣案内板。
「鞆城は毛利氏によって築かれ(略)福島正則が城郭を整えました。」
 毛利の築城は義昭の入域後なので,その居館としての施工です。があったとされている。義昭の警護は地元・一乗山城(山田庄)の渡辺元と共に,隣接する大可島城の村上亮康があたったというから,実質的な大可島城の枝城です〔wiki/鞆城〕。正則の整備はどうも目的が定かでないけれど,家康の怒りを買って廃城になってます。
 この時代の史料として,朝鮮通信使の記録があります。

慶長12年(1607年)の朝鮮通信使の日記に『岸上に新しく石城を築き,将来防備する砦のようだが未完成である。』と記しており,その時,建設中だったことが知られる。〔後掲資料館脇同〕

▲鞆城跡 本丸の石塁

「城」は,つまり,鞆中央によって強引に未完のまま廃され,福山城に機能を吸収された不幸な城です。
 資料館西側に「本丸の石塁」と案内杭。垣の形はほぼ留めない。
 さて全く地図を見ず,城があるならこの辺り,と歩いてみたら着けました。自然な,ここしかないという立地の砦跡には,水野時代に鞆奉行所が置かれたという。場所は三の丸跡とされ,1711(宝永8)年に大手門と矢倉屋敷が焼失したとの記録があります〔水野記←福山史編纂委員会『福山史 中篇』(1968年発行、1978年再版) 10頁〕。つまり,この頃までは元の鞆城の建築物が残置されていました。戦前まで料亭,戦後に鞆中学校となり,同校移転跡地に鞆の浦歴史民俗資料館が建つ〔wiki/鞆城〕。
 0941。「特別展 鞆幕府 将軍足利義昭 ~瀬戸内・海城・水軍~」。撮影禁止。

誰も知らない中世の鞆

特別展冊子表裏紙

北朝の動乱で足利尊氏は,鞆で軍勢を集結させるなどし,その後,室町幕府を開き,足利氏にとって鞆は吉兆の地でもありました。
 室町時代末,京都から逃れた十五代征夷大将軍・足利義昭(1537年~1597年)は,天正4年(1576)2月,毛利氏を頼り,由良(和歌山)から海路で鞆へ上陸し,ここで亡命政権を構えました。この時期には既に室町時代は終わったとする通説や幕府の概念には諸説ありますが,本展では将軍・足利義昭が想像以上に威厳や影響力があったことを展示史料などで示したいと考えます。将軍・足利義昭が鞆を中心に11年も居を構え一定の権威を持った政権を『鞆幕府』と呼ぶことにします。残念ながら,義昭は京都での幕府再興の夢は果たせませんでしたが,天正15年(1587)に豊臣秀吉の計らいで帰洛し,その後,出家しています。
 鞆を契機の一つとして開かれた室町幕府は,奇しくもその終焉も柄でした。

※ 特別展パンフレット(以下「パンフ」という。)/ごあいさつ
 俗に「足利氏鞆に起り,鞆に滅ぶ」と言います。その滅びに先立ち,鞆での幕府機能の実体があったとする説に基づいた企画です。室町時代は義昭が京を追われた1573(天正元)年に終焉したとするのが定説ですけど,その後に1587(天正15)年に秀吉に京へ呼び戻される間の時代を,いわば信長ファン史観の「織豊時代」の初めではなく次のように捉える観点です。

二人の将軍を頂点とする二つの幕府、すなわち「鞆幕府」と「安土幕府」による内乱時代〔藤田達生『明智光秀伝:本能寺の変に至る派閥力学』小学館、2019年11月、114-129頁←wiki/鞆城〕

 野心的な企画です。
▲鞆幕府時代(天正4~11年頃)想像地形図

理マニアとして,まず展示入口のこの地図に見入りました。
──鞆城は南の観音堂の岬を経て大可島と繋がっており,この間の通路は満潮時には水没する。島には「大可島城」という因島水軍砦が記される。
 反対側の岬には淀姫神社。弁天島の元の崇拝も含め,これらは江戸期より前に由来を持つはずです。

鞆の浦は,江戸時代には繁栄したことはある程度知られている。では,余り知られていない中世は,どうであったのであろうか。[パンフ/前史 中世の栄華]

▲村上武吉通所船旗(国重文 個人蔵 和歌山県立博物館寄託)

キャラ作る福山で知的に義昭を掘ること

て上の史料画像は──展示にあったものの所蔵・和歌山県立博物館サイトから抜いたものです。文字はこうなってます。

紀州雑賀之内向井彈右衛尉□□ヘ

天正九年三月廿八日常武□(花押)[パンフ/瀬戸内の水軍]

「村上水軍の娘」に出てくるまさにアレ,通行証です。でもそれをなぜ鉄砲集団・雑賀衆が取得したのか?──というと,彼らが海民でもあったかららしい。この辺は,要するに新技術はまず海民が吸収する,と考えると不思議はなくなります。

 雑賀衆は,優れた鉄砲隊を有したことでも知られるが,紀州から瀬戸内,九州への海運業を営んだ集団でもある。[パンフ/瀬戸内の水軍]

▲毛利輝元書状(天正4~10年頃 個人蔵)

夫」(ともふ)と,ワシも含めて知らない人が見たら誤字を疑うこの展示が,ある意味目玉らしい。
「毛利氏が義昭(鞆幕府)を人的・経済的に支援するために,周防・長門や出雲の寺社,社寺領へ一律に課した人夫料」と考えられてるものなのだそうです。語感からして,おそらく本来は人役の供出,その代わりに人件費を納入する,租庸調の「庸」みたいなものでしょう。
「現在,鞆夫に関係する文献・資料は『鞆町の町並報告書Ⅰ』によると,次のとおり8通が確認されている。今回の新出史料で9通目となる。」
 実際,発見当時は資料館がよほどアピールしたらしく,報道記事も見つかります(→2020/9/27 毎日新聞2020/10/9 朝日新聞)。ただまだ少数の論文でしか扱われておらず,疑問視と言うより,鞆夫が「鞆幕府」実在を証するものと十分認識されていない感じです。
「鞆幕府」の行政機構としての実体論は,他の研究でも相当確かなものらしい。柴裕之さんは「奉行人奉書」発給事実から同様の主張をしてます。

※「この政権において、奉公衆は義昭の活動を支え、外交上の交渉に従事し、奉行人は公式文書である奉行人奉書を発給」〔柴裕之『織田信長: 戦国時代の「正義」を貫く』平凡社〈中世から近世へ〉、2020年〕


こまで「鞆幕府」ありきで史料を並べられると,しかしまあ,一種洗脳されてる気分になってきますけど……感触として言えば,冒頭のキャラまで作ってしまった福山市としては,観光サイドの思惑に引きずられつつそれでも知的に史料を配列されてると感じました。
 さて,秀吉時代の義昭についても,興味深い記述がありました。本多博之さんの言として「京都に戻ることはかなわず,秀吉が九州平定を成し遂げた翌年の天正16年初め,出家して『昌山道休』と名乗り,大阪に居たことがわかる。」とありました。聞いたことのない義昭像です。

常夜燈には向かわない

「麒麟がくる」のおそらく初めてクレバーに描かれた足利義昭(滝藤賢一)vs「どうする家康」のステレオタイプな足利義昭(古田新太)

幕府の夢の後の義昭に惹かれたので,パンフの年表末尾を転記してみます。

天正19年(1591)1月8日 毛利輝元は京都より広島に下向(『厳島野坂文書』)
(推定)同日 輝元は秀吉の命により,義昭を大阪より備後へ連れて帰る(『西備名區』)。義昭(昌山)はこれより七年間,深津郡・[サ/部]山ここに居住(『備後古城記・備後風土記巻之一』)
(略)
慶長2年(1597)8月28日 准三宮従三位足利義昭は大阪曾根崎にて薨去六十一歳((號霊陽院))(『公卿補任・沼隈郡誌』)
9月8日 足利義昭の遺臣真木島昭光等は義昭を京都等持院に葬る(『鹿苑日録・等持院文書』)[パンフ/年表]

 何と,もう一度鞆,かどうかは分からないけれど備後に渡っているのです。けれども秀吉死去の前年に,なぜか大阪に出て来て亡くなっている。死んでいる。ただしその記事は,沼隈郡誌にのみ書かれているのだという。
 一方で,秀吉の御伽衆に加えられ〔山田康弘『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年〕,朝鮮出兵でも少なくとも肥前名護屋城に3,500名の兵を揃えた〔奥野高広『足利義昭』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年〕と書く論者もある。この末期の義昭像こそ,全くの謎です。
▲鞆の港町のT字

夜燈とかへ行くのが順当な観光ルートでしょうけど──どうしても大可城跡というポイントが気になりました。
 丘を降りて海側へ。
 商家街でない路地裏も趣きはある。でもこの時は,なぜかピンときてません。
▲夹明楼への上り口

文化庁指定・港町5セット

明楼(ルビ:けふめいろう)上り口」とある石柱。1058。
──頼山陽の叔父・頼杏坪の命名という。大坂屋の対仙酔楼と並ぶ鞆を代表する客殿だったと伝わる〔後掲プレスマンユニオン〕。
 1101,志度寺。
▲1100志度寺の祠を覗く。

 1104,日本遺産船番所跡。この先の社で道は尽きる。
──ここまで来たのは,大可島城が城として機能するなら,現・岬部の先端から野道でもあるのでは?と思ったからですけど……無かった。
 文化庁のサイトでは,つまり文化財行政側は,この船番所跡から常夜燈辺りまでを次のように高く評価してる。

最大にして唯一の近世港湾施設
常夜燈の 袂から海に向かって階段のように並んでいるのが、船着場として大きな役割を果たした「雁木」だ。全長約150m、最大24段もの石段がまるで円形劇場のように見える雁木は、最大約4mにおよぶ潮の満ち引きに関係なく荷揚げができる優れもので、この積み上げられた雁木から莫大な商いの物資と人々が往来し、鞆の浦は港町としての栄華を積み上げた。ひととき腰を下ろせば、石段が一段、また一段と見え隠れし、潮の満ち引きを実感できる。港の出入口で海に突き出て穏やかなカーブを描く石積みは「波止」と呼ばれる防波堤で、「常夜燈」や「雁木」と並び、国内最大級。これらに加え、港に出入りする船を見張った「船番所跡」や、船の修理を行った「焚場跡」など、近世港湾に必要とされた5つの施設が揃っているのはいまや鞆の浦だけとなった。〔後掲文化庁〕

 要するに「港町5セット」が揃った港の総合的景観,としての鞆の文化財的価値価値を見出してます。
 引き返す。
▲現在の鞆の港素描

一見する限り眉唾

て,ならば登り口はどこでしょね?
 1107,上り口から鞆之浦大師 真言宗園福寺。向かって右手に大可島城跡と案内板。
 本殿対面に観音寺とある祠。プリミティブな風貌の像が多い。
▲観音寺とある像

可島城とはこの円福寺のことらしい。
 大可島城の由来は,調べると各者が好きなことを書いてて(巻末参照)よく分からない。南北朝の抗争中の記述に,1342(康永元)年以前の元の城主は南朝方の桑原一族だったという。足利義昭の「鞆幕府」時代に因島村上の支配下にあったのは前述の通りです。軍事上の要衝と見なされてた,ということまでは分かります。
 圓福寺は室町期に現・沼名前神社の南,小松寺の東に建っていた「釈迦堂」を,1610年末頃に大可島城跡に移転してから号したもの〔後掲鞆物語〕。
 鞆の寺院の由来は,こんな風に意外なほど大掛かりかつ少なくとも一見する限り眉唾のものが多い。より有名な備後安国寺(旧名・金宝寺)ですらよく分からない。備後が意外にも臨済宗法燈派の拠点だった(巻末参照),という事位で糸が途切れてしまうのですけど──

疑ふな 鼎左の筆の浦の春

▲円福寺後背から海峡越しに弁天島と仙酔島。大可島城とこの2つの島は直線で結ばれるようです。

な うし保のはなも浦の春」
 境内の幾つかの碑文の中に,芭蕉句碑がひとつ。
 句碑の建立と碑文は,備後俳諧の指導者・花屋庵鼎左によるという。1777(安永6)年建立の句碑を,1827(文政10)年に再建。同句の前文として「二見の図を拝みて」とあることから,芭蕉が伊勢二見ヶ浦の絵を見て詠んだと考えられてます〔後掲Omairi〕。花屋庵鼎左は幕末の人物※なので,この碑文は1827年の再建後に設置されたものです。

※1802(享和2)年備後生~1869(明治2)年没。別号:鳳棲舎,桃の本,花屋庵※※。大坂で菅沼奇淵に学ぶ。五梅庵舎用との共編で「俳諧海内人名録」刊。編著に「荻廼声」「ひとめくり」。〔後掲藤井鼎左〕※※芭蕉終焉の地である花屋裏近くに庵をかまえた〔後掲柿衛文庫〕

 裏手から弁天島と仙酔島を見て退去。
 1140,福山駅行きバスに乗車。

藤井鼎左を描いた掛軸



「駅周辺の航空写真。青塗りが福山城の堀跡。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成」〔wiki/福山駅〕※▲:二重櫓南面の位置

■レポ:福山の濠と二重櫓が消えるまで

 中国で城壁の撤去跡地を地下鉄にする例を多く見たし,江戸城や大阪城も城域跡を同じくばんばん利用してます。ただそれらの城市規模のお城ならともかく,中規模の砦としての城域の中をモロに通してる鉄道の筆頭は,やはり三原城(駅)や福山城(駅)でしょう。

福山駅は山陽鉄道の駅として、1891年(明治24年)に福山城の三の丸南側を東西に横断するように建てられた。そのため現在まで城から最も近い駅と呼ばれているが、正確には城内そのものである。現在のコンコースが二の丸正門である鉄御門及びその外枡形のあった場所である。〔wiki/福山駅〕

福山駅・福塩線ホームから見る福山城(本丸)
福山駅より見る再建中の福山城天守(1966(昭和41)年)〔後掲備後史探訪の会〕
1941年(昭和16年)の福山駅〔後掲Peace Nippon Project〕
福山駅 昭和初期〔後掲Peace Nippon Project〕

二重櫓はどこにあったか?

 この朝,福山駅前バス停でその露出に出会した「二重櫓」の場所は,先の地図よりさらに簡易にすると次のように図示されます。
 従来の備後国主邑・神辺から南西約6kmの海浜地は,「杉原保」という荘園がありました。織豊期には野上村と呼ばれ,その低丘陵には常興寺があったという。
 選定の経緯には諸説あるけれど,家康の従兄弟の水野勝成の備後入封時,この神辺と鞆の南北ライン,備後松永と笠岡の東西ラインの交点に当たる芦田川河口の地が着目されます。野上村は南の現・野上町へ,常興寺は現・吉津町へ移転させられ,ここに3年の工期をかけて福山城が竣工されます(1622(元和8)年)。
 城市規模の近世城郭としては最後の築城と言われます。広域の徳川支配の戦略上は,1632(寛永9)年の譜代・小笠原氏の小倉城入封までは福山が西の最前線という感覚だったでしょう。

福山城遺構と現代のインフラ位置重複図〔後掲歴史浪漫〕

福山城復元図・西半分〔後掲歴史浪漫〕
福山城遺構と現代のインフラ位置重複図〔後掲歴史浪漫〕
福山城復元図・東半分〔後掲歴史浪漫〕

 そのような戦略観でプランニングされているため,福山城は城市の権威であり,かつ経済中枢でありつつ,相当程度の実戦的防御力も備えた城塞として設計されています。この点は,小早川隆景と黒田官兵衛が謀ってあえて低防御地を選んだ広島城と似ているようで全くの対極にあります〔後掲安芸の夜長の暇語り〕。
 歴戦の水野勝成は,芦田川の水流を用いた「忍城」を構想していたとも想像されます。幕府公金からも金12,600両・銀380貫が貸与〔広島県「水野記」『広島県史近世資料編1』1973年←wiki/福山城〕されており,幕府又は徳川の企図する軍事インフラだったことは明瞭です。
 より本式の製図で見ると下のようになります。現・福山駅は福山城内濠の南東角の屈曲部から外郭部,防御力の要になる水野氏の築城技術の粋,内濠突出部の部分を埋めた区画です。二重櫓は,内濠突出と対を成す外濠突出部の東側の湾入口に当たります。
「福山城 今と昔」〔後掲歴史浪漫/見学会2009〕

 当初,北側(城背)の吉津川を芦田川の本流にする計画であったらしい。確かにこれをやると,攻撃側の採れる進路は基本的に南側からしかなくなります。しかも,もし攻撃が真南から来て,守備側に十分量の鉄砲を持ったなら,斜面の段差の数段からの一斉射撃が可能でしょう。
『正保城絵図』「備後国福山城図」(1644,国立公文書館蔵)〔wiki/福山城〕

水利インフラの中核としての福山城

 平時と戦時両用というのは,水路網の一部を引き込む形で濠が造られ,濠が水運路として機能するようになっている点です。計画通りに芦田川の本流になっていればもちろん,それが実現しなかった状態でも南南東への水路(「入り川」)が濠まで入り込んでいました。民事にどれほど用いられたかは不明※ですけど,公事の輸送はこの水路で行われたでしょう。これが同時に,戦時の防御装置になる。――――あまり言われないけれど,個人的には彦根城と類似の発想を感じます。

(左)彦根城 (右)福山城 ※彦根の縮尺は福山の約1.6倍(各左下の距離表示参照)

 福山城の水路は,実は上図よりさらに微細な網の目のように福山市街を抜けています。というのは,福山城北の蓮池(どんどん池:水音に由来)を取水口とした上水道が,福山築城と同時期(築城開始直後の水害の反省からと言われる)に整備されたからです。神田上水等に次ぐ全国で五番目の上水とされます〔後掲福山市/歴史・伝統文化〕。総延長14km(福山市上下水道局,2020。工学会・啓明会『明治工業史 土木篇 第四編 上下水道』土木学会、464-465頁によると約3里半:13.7km)
福山上水の上水道網(赤穂市立歴博1997を改変)〔後掲赤穂市立有年考古館〕

 上図の「■貫洞」とは,方形の井戸状桝のことで,他で用いられない形態と言われます。水野勝成の逸話に,上水道暗渠の上を駕籠が通らないよう諭した,というのがあります。

或時勝成公御城下の侍町を御通り被成候時、御駕籠の者、水道の上を通りければ、御意被成候は、此の下には御家中の侍共の飲み申水道あり、何とて其上を通り候や(略)〔宋休様御出語←wiki/福山旧水道〕

※下図は,前掲正保城絵図(wiki掲載版)の拡大ですけど,福山城側の舟入の四倍規模程度の「舟入」が入り川北岸に見えます。入り川北岸側は町人町(下図にも「町屋」と表記)でしたから,南東の海からこの地点までの入り川を明らかに商船が往来していたはずです。
正保城絵図中一部拡大 ※(左上ピンク丸)福山城舟入及び二重櫓 (右中ピンク太丸)町人町側の舟入

 なお,下写真は年代が不詳ですけど,入り川に停泊する小舟が確認できます。この入り川のルートは,他の道路方向に対する特異な道筋から,現・手城産業道路の福山市立大辺りまでの部分(→GM.:下記参照)相当と推定できます。さらに筆の方向の異なる位置から,上記町人町舟入の位置は現・御船町一丁目付近と考えられます。同住所には住吉神社(→GM.:地点)があります。口コミ的サイトには,この辺りに戦前は「新町遊郭」があったと書くものがあり,港町の名残りとも思われます。
福山城南東方面から堀へ続く入り川〔後掲福山市/歴史・伝統文化〕

西国徳川城の陥落と末路:幕末・明治

 長州征伐に兵6千を投入(和睦成立により不戦のまま)した西日本の幕府拠点・福山藩は,戊辰戦争中,長州軍(杉孫七郎軍)の攻撃を受けます(1868(慶応4)年1月9日)。

※1866年(慶応元)年の第二次長州征伐時,「出兵の準備中、福山城内に保管していた火薬が大爆発して櫓3棟が失われている」。また福山戦争時には,「この直前に藩主阿部正方が急死し藩内の実権を勤皇派が握っていた」「安芸国広島藩から藩主浅野長勲の弟が正方の養子・阿部正桓として10代藩主に迎えられた」上で,藩兵約500人が新政府軍に加わり箱館戦争で戦った〔wiki/備後福山藩〕。これは状況証拠的に見て,藩内に勤王派によるクーデターが発生し,テロから藩主謀殺までやったのに元徳川譜代という一番弱い立場は変えようがなく「新参勤皇」として戊辰戦争で使い走りにさせられた,という状況と思われます。

 その流れが影響していると思われます。維新後の福山城が文化財として保護されるのは,本丸については1936年(昭和11:史跡)まで待たねばなりません(伏見櫓・筋鉄御門・御湯殿は1933(昭和8)年:国宝)。つまり福山城本丸が現存する状態で文化財だったのは,たった10年間だけでした。
 廃城(1873(明治6)年:廃城令→福山城=2号(処分対象):巻末表参照)〔福山市『福山城誌』浜本鶴賓、1936年←wiki/福山城〕後,本丸を除いた敷地はほぼ転売され,堀は最初官有のレンコン畑になったけれど,経営が振るわず売却対象となった。福山駅建設はこの延長で行われたもので,東南部も1914(大正3)年に両備軽便鉄道駅舎として,北西部も1935(昭和10)年に福山女学校(現・県立福山葦陽高校)運動場として,次々に埋められていきました。
 地域からの請願により,本丸のみは1875(明治8)年に下賜され「福山公園」となりますが,修復費用を捻出できず,1884(明治17)年に広島県に返納。けれども広島県は公園維持費すら出費しなかったため,1896(明治29)年に請願により福山町が所有権の移譲を受けます。つまり,本丸修復・園内整備は,実質的な落城から30年間放置されていました。
 本丸がこの状況ですから──駅前広場の施工図とかが見つかりませんけど,二重櫓付近も割とあっさり埋められたと思われます。ただ不幸中の幸いというか,現代程のの土木技術のない時代に「あっさり」埋まったのが,遺跡保存としては功を奏したかもしれません。

1945年8月1日に日本全国の都市に投下されたアメリカ軍による空襲を予告する伝単。画面左下2番目に「福山」の文字。〔Josette Williams, “The Information War in the Pacific, 1945”, ‘CIA Studies in Intelligence Vol. 46, No. 3 (2002)←wiki/福山大空襲〕

 1945(昭和20)年8月8日の福山大空襲で福山城は焼失します。
 下の空襲被害の図を見ると,市内中心部は軒並み破壊されてますけど,線路より北,福山城側はやや手薄です。伏見櫓と筋鉄御門,二の丸北側は焼け残った,というのはその僥倖によるものでしょうか。ただ,逆に南側の二重櫓は,おそらく埋まってなければ破壊されていたでしょう。
戦災概況図福山 , 1945年12月第一復員省作成〔wiki/福山駅〕

二重櫓と御水門(吉田和隆氏※ 作図)イメージ図〔まんが物語 福山の歴史 放浪の大名・水野勝成←後掲歴史浪漫~福山城遺構の発掘調査~〕
※吉田和隆:元市職員,民間の研究者。著書に「近世城郭の掉尾(ちょうび)を飾る城 備後福山城」1998(自費出版)。

水路の虎口・福山城外濠舟入

 福山城外濠舟入(以下「城舟入」という。)は,民間の港の荷揚場とは異なり,虎口を模したような厳重な入口だったようです。上陸や荷揚げに用いる雁木は船の長さ程度で非常に狭く,不審船に対してはこの門扉を閉めて周囲から矢鉄砲を浴びせる仕組みに見えます。

舟入遺構実写。右手が福山駅,左手から奥がリンツ福山(駅前広場西側)。〔後掲歴史浪漫/見学会2007〕

 攻撃を受けた船が別ルートを採ろうにも,舟入の外は,西が逆凸字の曲がりになってて速やかに移動できません。複数の船団なら相互にぶつかって進みにくい。
水野時代 福山城郭絵図〔後掲歴史浪漫/見学会2007〕

 逆に言えば,福山藩側がここに戦船を潜ませてイザという時に出撃する,あるいはそんなに物騒でなくとも,交易用の藩船を停泊・修繕・補給する,といった場所では有り得ません。これは下図の寸法からも推測でき,屈曲を考えると往来できたのは艀などの小舟だけでしょう。
福山駅前広場整備工事(地下送迎場)に係る第二次発掘調査図面〔後掲歴史浪漫/見学会2007〕

 すると,福山藩に出入りする外航船はどこに停泊していたのか,という疑問が残ります。鞆は遠すぎるし,芦田川河口には該当する候補地が今のところ見い出せません。
 以上の前提に誤りがなければ,福山藩はそれほど交易に意欲的な藩ではなかったように思えます。

外濠の痕跡はいつまで残っていたか?

 当面,外堀に注目していくとして,江戸期のこのインフラの痕跡を,現在もし見れたなら史料検索以上のことができそうです。それは残っていないのでしょうか?
 下の図が,最も早い時期に近代的地図に落とされたものとして見つけることができた福山の地図です(1897(明治30)年頃。福山駅竣工は1891(明治24)年)。福山城外堀や入り川の水域の名残りらしき角やラインを,まだ見つけることができます。例えば,舟入の湾入部に,現実の状況はともかく,おそらく石垣のラインと思われる線が描かれています。

明治30年頃(大日本帝国陸地測量部地図)〔後掲歴史浪漫/見学会2007〕

 次の図は大正・昭和の各5年の地図です。おそらく石垣が埋められたのでしょう,明治の地図ほど明瞭ではありませんけど,筆の形としてはまだ舟入を読み取ることが出来ます。
(上)大正5年頃(福山案内地図) (下)昭和5年頃〔後掲歴史浪漫/見学会2007〕

 下の現在の地図上は,既に筆の形すら留めていません。戦時中の空襲後,埋められた状態で区画整理が行われたため,痕跡はただ地中に残されたのみという状況に至ったものと思われます。
福山駅付近の遺構位置図〔後掲福山市2019 p3 Ⅱ北口広場の現状 2福山城 内・外濠遺構の存在〕

福山城西南外濠の痕跡

 唯一,と言っていいと思います。商店会の観光案内的記述の中ですけど,以下のようなものがありました。

駅西の道には不思議な傾斜がある場所があります。それは昔の城の縄張りと堀の名残です。外から城内が見えにくくするため堀の内側は一段高くしたり、塀を巡らせていました。それがお堀を埋めた後も段差や傾斜として残りました。〔後掲福山駅前商店会/4p 現在も残る江戸時代のまちの痕跡〕

【2】外堀石垣の一部 【3】謎の道の傾斜と外堀の位置 【4】外堀の位置〔後掲福山駅前商店会/4p 現在も残る江戸時代のまちの痕跡〕

 該当すると思われる箇所に,確かにGM.上,「福山城 西外堀の石垣跡」と記すポイントがあります(→GM.:地点)。これもGM.クチコミに転記されていたものですけど,次のような福山市の案内が付されているという。

 福山城は、本丸・三之丸を残し、内外の堀は、すべて埋められ市街地となっています。
 この石垣は、西外堀の石垣の一部で、城郭の縄張りを示す貴重な遺構です。
 大正2年に野上駅まで開通した鞆軽便鉄道が、翌3年に4月には福山駅まで延長され現在地へ駅舎が建設されました。
 昭和63年、市営立体駐車場が三之丸の現在地に建設される先だって発掘調査を実施しました。
 その結果、石垣の上半部は失われておりましたが高さ2m程が残存しておりました。
 築城時はこの角で、堀の深さ3m、幅は東西54m、南北96m程の規模がありました。
 ここに保存している石垣は、現在広島県立博物館南の福塩線高架下に保存されている出枡型櫓台より南へ約70m延びた地点て東へ約20m折れ曲がり、さらに南へ続く西外堀の内側石垣です。〔1990(平成2)年3月福山市教育委員会福山城西外堀跡の石垣説明看板〕

 ここでは商店会の言う「段差」は触れられていません。検証として,国土地理院地図の3Dを高さ25倍設定で見たものが,次の図です。──外堀の段差が仮にコレだったとしても,周囲の道路施工時の整地による凹凸の方が地形の主要素になっているように見えます。都市伝説とまでは言いませんけど,実証の根拠になるほど確定的な地形と主張するのは難しいのではないでしょうか。要は,雑音が混ざり過ぎてると見ます。

国土地理院地図・3D・高さ25倍

X手法で見た町人町・舟入

 そこでふと思い立ち,同じ方法で町人町の方の舟入も見てみたのが,次の図です。場所はウォンツ福山御船店(→GM.:地点)付近です。

福山市御船町一丁目付近(地理院地図,3D,高さ25倍)※青字及び線は引用者

 やはりかなり心もとないけれど……窪みがあるように見れば,あるように見えなくもない。
 では本来に立ち戻って(?),沖縄X(筆の大きさ比較)で同地点を見てみるとどうでしょう?今度は色を塗らずに示してみます。
同地点(福山市御船町一丁目)付近平面・標準地図

 プラス記号がウォンツ福山御船店の位置です。確かに,この周囲の筆の密度,ドットの細かさは,周りよりも粗いと感じられます。けれど,同程度の濃淡は他箇所にも見受けられ,これだけで断言できるほどではありません。
 ただ,その北東には寺院が林立し,地名も寺町。西には,南北の道路によって乱れてますけど,ドットの細かいベルトが伸びています。
天下橋跡プレート〔GM.〕

 このウォンツ地点から2百m西に天下橋跡というポイントがあります(→GM.:地点)。案内板があり,京都伏見城から移築した擬宝珠付の欄干を,1630年頃(水野時代)に移築したという。
 この橋は次の位置にありました。
1871年(廃藩置県)直前の福山城下地図(原典所蔵:福山城博物館)〔後掲上ヶ内〕※黄丸は引用者

 同福山城博物館所蔵の1899年地図(広島県備後国深安郡福山町全図)では舟入は既になく,天下橋の福山城側の入り川の埋立てが進んでいきます。1893(明治26)年の福山紡績工場建設に伴い,石炭殻(の積載場所?)が出来たためと伝えられます。けれど入り川の埋立てについては記録がありません。
同福山城博物館所蔵 1899年地図(広島県備後国深安郡福山町全図)

 1938(昭和13)年,天下橋より一つ海側の木綿橋が廃橋になった記録があります。なので入り川自体が埋立てられたのは,それ以前と推測されてます。
 なお,寺町付近は江戸期の道標が多数残る場所としても知られます。船入に一番近い場所では現・御船北公園や最善寺の近くにあるようなのですけど,詳細な位置ははっきりしません。〔後掲福山市「笠岡街道」,寮管理人の呟き,ときめき夢見びと〕
 この地点が土地勘のない上陸者の多数あった土地だからこそ,こうした道標が林立するのではないか,とも感じられますけど……やはり分かりません。
「左 九州道」「右 上方道」と書かれた道標(寺町筋西端,御船町の三角地)〔後掲寮管理人の呟き〕

■レポ:阿部・備後福山藩に暴政はなかった

 福山藩については,水野時代80年(1619-1698)の善政がよく口舌に上るけれども,その丁度倍の長さの阿部時代160年(1710-1869)の悪世,というか一種のネグレクトの酷さは前者を補って余りあるようです。

※教育・文化的には藩校・弘道館や誠之館を設け,菅茶山や頼山陽を輩出

 重税や飢饉により没落する農民も多く、田畑所有の寡占化が進み、幕末までに多くの「豪農」が出現した〔後掲wiki/備後福山藩〕。これは元禄検地での過大査定のほか,裏判銀(小切手)を活用した組織的な高利貸の横行の影響ともされる〔後掲道重〕。阿部氏は基本的に幕閣※で,ほぼ福山藩に下向しない江戸定府の大名だったという。
※例えば7代藩主・阿部正弘は25歳で老中首座就任,日米和親条約を締結。
 1786(天明6)年から翌年にかけて発生した一揆(福山藩領天明6年一揆)は安部野童子問や西備遠藤実記に記されて伝わります。

「十万石残らず惣どうに罷出」(貫井家日記※)たのである。今度の蜂起のすさまじさは、第一次とは比較にならず、まさに文字通り藩領全域を荒れ狂った。それは、「郡々の月番庄屋を大分打めぎ、きるもの其外大事なる諸道具をやきて、雑穀・みそ・醤油をうちまぜにいたし、拐又小庄屋も国中八分通右之通にいたし申候」(貫井家日記)という状態であった。しかも、そのなかには、藩主から一揆策謀者とみられた山本弁助一統や佐藤新四郎らの旧宅まで含むほどの激しさで、このことは正倫がいかに事態の深刻さにうとかったかを示している。かくて二月六日、一揆勢は神辺に集結し、代表数十名が越訴のために岡山へ向けて出発した。一方、多くの同勢は見送りと称して入湯者の風俗をして備中の西国街道沿いの宿場宿場をうろつき、帰藩後二十日ごろまで領内を荒らしまわった。〔後掲道重〕

※貫井家日記:後掲道重引用元。不詳。

Komuram Bheemudo

「暴政」すら敷かれなかった阿部福山

 四代藩主・阿部正倫(まさとも)はこの事件で老中職を辞し,藩政改革に注力しています。国元の情勢を理由にした幕閣内の政治圧力かもしれないけれど──暴君だったわけではないわけです。単に福山は「顧みられていなかった」。
 まして福山は西日本の外様の海にポツリと浮いた親藩です。徳川の統治上,そこは砦でしかなかった。そういうのは……暴政よりさらに酷い国の経営を醸成したのも頷けます。

百姓が国を自由にいたし候様成にも相当、一向政道立申さず」〔天明七年二月二十八日付正倫書簡←後掲道重〕

という自筆書簡が残ります。民主主義の現代なら「百姓が国を自由にいたし候」は賛辞ですけど,正倫は「政道立」たずと極めて絶望的な観測でしたためてます。トップの責任はともかく,これだけ学者を出した藩が,どういう組織風土だったものでしょうか?
 とにかく正倫は思いつきそうな全ての手法を採ってる感じです。

農政機構の粛正、風俗矯正、撫民策としての目安箱の活用、長寿・善行者の表彰、さらに庄屋ら村役人層の士分格への登用、難渋村の再建趣法の奨励であった。とくにこの趣法は後に在郷富裕者との共同出資で設立された義倉として結実した。その他、鞆港の繁栄のために、他国商事への融資制度としての敬重銀を設定している。〔後掲道重〕

 最後にポロッと書いてある「他国商事への融資制度」というのは……外資の進出を誘導しようとしたのでしょうか?先述のように江戸期福山が放任政治で豪商への財の集中が進んだ,というなら,阿部正倫は彼らに強行な喧嘩を売ったことになりますけど──何らかのビジョンを持っていたものか,あるいは単に地方統治を中央の尺度でド真面目にやってしまったのでしょうか。
 鞆又は福山への経済集約度とその経緯,といったデータは全く見当たらず,見当がつきませんでしたけど……それが全くなかったかと言えば,鞆に残る商人街が明瞭に否定してきます。困った歴史もあったものです。