m19Qm第三十六波m回天の砦映ゆ海域アジアm鞆

※原歌 入魂の助詞あり俳句甲子園〔石川焦点〕

▲よしあきくんと打倒コロナよしあきくん

20201010鞆

駅前案内板「福山駅前付近は,福山城三之丸の南東部にあたり,外堀に面して藩の勘定所や重臣の屋敷がありました。(略)その外堀の東側には城内に湾入した舟入があり,御水門と二重櫓を備えていました。」
今地上に露出してる石垣が二重櫓台の南側石垣で,築城当時の高さを復元して上部のみ公開してるものとある。

0900福山駅発鞆鉄バスで鞆へ。台風の気配を感じさせぬ青空が雲間に覗く。
田尻から先は全く風情が転じる。海に出た,という空間の解放がある。
仙酔島が見えてきた。チャリダー多し。羨まし。
0930予定通りかっきり30分で鞆の浦着。530円
弁天島──媽祖?

鞆の津の商家案内板
「明治37年設立の『鞆製網合資会社』の建物となり,漁網製造を中心に漁具・船具を北海道から東南アジアまで広範囲に販売する会社であった。」平元 福山市教育委員会

鞆城石垣案内板
「鞆城は毛利氏によって築かれ(略)福島正則が城郭を整えました。」
資料館脇同「慶長12年(1607年)の朝鮮通信使の日記に『岸上に新しく石城を築き,将来防備する砦のようだが未完成である。』と記しており,その時,建設中だったことが知られる。」

西側に「本丸の石塁」
形はとどめない。

さて全く地図を見ず,城があるならこの辺り,と歩いてみたら着けた。自然な,ここしかないという立地の砦です。
0941特別展 鞆幕府 将軍足利義昭 ~瀬戸内・海城・水軍~
撮影禁止

 南北朝の動乱で足利尊氏は,鞆で軍勢を集結させるなどし,その後,室町幕府を開き,足利氏にとって鞆は吉兆の地でもありました。
 室町時代末,京都から逃れた十五代征夷大将軍・足利義昭(1537年~1597年)は,天正4年(1576)2月,毛利氏を頼り,由良(和歌山)から海路で鞆へ上陸し,ここで亡命政権を構えました。この時期には既に室町時代は終わったとする通説や幕府の概念には諸説ありますが,本展では将軍・足利義昭が想像以上に威厳や影響力があったことを展示史料などで示したいと考えます。将軍・足利義昭が鞆を中心に11年も居を構え一定の権威を持った政権を『鞆幕府』と呼ぶことにします。残念ながら,義昭は京都での幕府再興の夢は果たせませんでしたが,天正15年(1587)に豊臣秀吉の計らいで帰洛し,その後,出家しています。
 鞆を契機の一つとして開かれた室町幕府は,奇しくもその終焉も柄でした。

※ 特別展パンフレット(以下「パンフ」という。)/ごあいさつ
 野心的な企画です。

▲鞆幕府時代(天正4~11年頃)想像地形図
鞆城は南の観音堂の岬を経て大可島と繋がっており,この間の通路は満潮時には水没する。島には「大可島城」という因島水軍砦が記される。
反対側の岬には淀姫神社

鞆の浦は,江戸時代には繁栄したことはある程度知られている。では,余り知られていない中世は,どうであったのであろうか。[パンフ/前史 中世の栄華]

 法燈国師(無本覚心,1207年~1298年)は,禅宗の一つである臨済宗法燈派を紀州由良で興した。法燈国師は,中国(宋)へ留学し,味噌,虚無僧を国内へ伝えたことでも知られ,中国との関係が深く,交易面でも大きな影響力があったと考えられる。
 この法燈派は,瀬戸内にも布教の伝播につとめ,備後地域ではこの金宝寺,三宝寺(福山市山手町),磐台寺(福山市沼隈町),常興寺(現・胎蔵寺(福山市北吉津町)),善祥寺(甲奴郡)の5か寺もあり,法燈派の拠点の一つであった。
 なお,この法燈派のネットワークは,中国との交易にも関係し豊かな経済力を有していたと推測される。[パンフ/前史 中世の栄華]

※参考:幻の金宝寺と法燈国師 | 全国一斉 鞆の浦検定(鞆ペディア)

▲村上武吉通所船旗(国重文 個人蔵 和歌山県立博物館寄託)

紀州雑賀之内向井彈右衛尉□□ヘ

天正九年三月廿八日常武□(花押)[パンフ/瀬戸内の水軍]

 雑賀衆は,優れた鉄砲隊を有したことでも知られるが,紀州から瀬戸内,九州への海運業を営んだ集団でもある。[パンフ/瀬戸内の水軍]

▲毛利輝元書状(天正4~10年頃 個人蔵)
鞆夫「毛利氏が義昭(鞆幕府)を人的・経済的に支援するために,周防・長門や出雲の寺社,社寺領へ一律に課した人夫料」
「現在,鞆夫に関係する文献・資料は『鞆町の町並報告書Ⅰ』によると,次のとおり8通が確認されている。今回の新出史料で9通目となる。」

(本多博之)「京都に戻ることはかなわず,秀吉が九州平定を成し遂げた翌年の天正16年初め,出家して『昌山道休』と名乗り,大阪に居たことがわかる。」

 当時の毛利氏が,北九州から全中国地域と対岸の伊予そして丹波・摂津の一部にまで及ぶ広大な領域に影響力を行使しえたのは,義昭を迎え公権力としての正統性を確保したことによるところ大であった。代々の守護家でもない毛利氏にとって現職将軍のもつ権威は絶大で,急速に拡大した領国を維持するためには,当然のことではあるが一定の利用価値があったと思われる。[パンフ/藤田達生(三重大学教授)「『鞆幕府』論再考」]

 義昭が,かつて遣明船を派遣した聖福寺や五山の人事権をある程度掌握していたとすると,歴代将軍と同様に,明・朝鮮・琉球などの東アジア外交の理念上の主催者として関与した可能性は高い。室町時代の五山僧は,幕府の外交文書の作成にも携わっており,のちに秀吉が公帳発給権を掌握すると,西笑承兌らを使って東アジア外交に着手することになる。[パンフ/藤田 同]

信長は,宣教師を介して積極的に南蛮外交をおこなっていた。それに対して義昭は,伝統的な東アジア外交に関与していたと考えられる。義昭と西国大名との良好な関係の背景には,東アジア貿易との関係があったとみることもできるのではあるまいか。すなわち大名たちがもたらした莫大な献上品は,東アジア貿易の見返りと理解することもできよう。[パンフ/藤田 同]

天正19年(1591)1月8日 毛利輝元は京都より広島に下向(『厳島野坂文書』)
(推定)同日 輝元は秀吉の命により,義昭を大阪より備後へ連れて帰る(『西備名區』)。義昭(昌山)はこれより七年間,深津郡・[サ/部]山ここに居住(『備後古城記・備後風土記巻之一』)
(略)
慶長2年(1597)8月28日 准三宮従三位足利義昭は大阪曾根崎にて薨去六十一歳((號霊陽院))(『公卿補任・沼隈郡誌』)
9月8日 足利義昭の遺臣真木島昭光等は義昭を京都等持院に葬る(『鹿苑日録・等持院文書』)[パンフ/年表]

 秀吉死去の前年に亡くなっている。それまで居住していた備後から,なぜか大阪に出て来て死んでいる。その記事は沼隈郡誌にのみ書かれる。

▲T字

▲上り口

1058「夹明楼(ルビ:けふめいろう)上り口」との石
1101志度寺
1104日本遺産船番所跡。この先の社で道は尽きる。引き返す。
1107上り口から鞆之浦大師 真言宗園福寺。向かって右手に大可島城跡と案内板
本殿対面に観音寺とある像

芭蕉句碑「疑な うし保のはなも浦の春」
「円福寺の夹明楼は頼山陽の叔父頼杏坪が美しい景色に感嘆して命名したもの」
裏手から弁天島と仙酔島

1140福山駅行きバス乗車

▼▲