m17am第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m密貿易屋敷withCOVID/鹿児島県

お伊勢さん ダークに濃ゆい赤柚餅子

志布志市中心部マップ

宿に落ちつく前に,少し西へも歩いてみました。
 国道220号沿いには郊外型店舗が並ぶけれど,少し山側にはやや古い家並があるようです。
 1647。宿から二百mほど西,コスモス向かいに伊勢神社というのもありました。流石に登る気にはならず,鳥居下から一枚。
伊勢神社

内板に曰く──建造物としては「本殿 鳥居 石造随神小祠があり銘に奉寄進享保十一年四月中山正兵衛とある。」
 由緒としては

藩政時代町民がこの地に移り町を起て新町と称したので新町の繁栄と守護のために勧請され,大慈寺境内の西境とされた。(志布志文化財愛護会 志布志市教育委員会)

 伊勢神社自体の社域がどれほどあったのか分かりません。でもこの社に大慈寺域が隣接していたのだとすれば,現在の地形から埋立地と思われる国道以南を差し引くと──大慈寺は現・駅前付近の平地のほとんどを占めていたはずです。

志布志ゆべし

柚餅子ですけど……確か権現島の西側の,土産物屋みたいなお店で買った記憶があります。「ゆべし」とは書いてあったんで,夜のお茶うけにと買って帰ったわけです。
 濃い!
 しかもこの濃さは……何か訳が分からんガツンと来るダークさです。とにかく本州の田舎の素朴で淡味の「ゆべし」と全く別物だったのです。その実体は──巻末を待て!
🐑 🐑  🐑 🐑 

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※実際はもう少しうねうね歪んだ行程を歩いてます。

藪柑子 笑がおの湯より帰る朝

ふふっ!宿の自転車を借りたのです!
 でも……何と!ポラリスのレンタサイクルは時間制限あり!10時のリミットを気にしつつ南行しまして──
がおの湯,満喫!
 地元振興的な温泉らしい。さつまあげ屋さんに併設・兼業のお風呂でした。
 湯船は2槽,結構大きい。湯は最初に肌にチリッと来るけど……すぐ馴染んで熱さを感じなくなる。つまり別府タイプで,鹿児島はもちろん昨日の国分とも明らかに違いました。もうちょっと科学的なデータで語れる人の意見がほしいけど──山系が南北に連なるからなんでしょうか。
 最寄りのバス停は「稚児松」。どういう由来があったらこの地名になるんでしょか?
 山手へ2.5kmには,山宮神社というのもあると表示されてます。
🚲
946,笑がおの湯から自転車を東に向けて折り返し。
 僅かに登る丘陵状の地域。現在の土地利用はやはりほぼ郊外型です。すき家,ksデンキ。
 志布志高校対面奥には志布志市埋蔵文化財Cが見えました。平成初めの自治体建設ブーム期の築でしょうか?
「大黒」という郊外型(観光バス向け?)定食屋の辺りが高台のトップになってるようです。この市街側で旧道と現国道がY字に分岐する。ここが感覚的には町の南端らしい。
 昨日の伊勢神社の本堂を遠望。山の中腹六合目程度,昨夜怖れをなした階段は,それほど高くまでは登ってない。

▲「島津㈱」──藩政期の薩摩島津っぽい名だったので一枚。

隼人に諭され萎む山頭火

 10時直前に宿にチャリを返却し,タバコを吹かす。自転車なら予想通り10分の行程。歩けないことはないけれど……温泉以外はなかったからちょっとお勧めできません。
 1010,バスの出発時刻まで残り4時間。再び北へ。
 厳原ほどじゃないけれど街中に石積みの壁が多い。ただはっきり古いかと言うと……判別しにくい。
 地勢はやはり前川までだらだらと下ってる。大慈寺所領は,前川の西岸の緩い丘陵地を占めていた格好でしょう。

山頭火句碑

頭火の句碑がある?
「秋の白壁を高う高う塗りあげる」
──「高う高う」はメモの誤記重複かと思ったら,これでいいらしい。わざわざ中七を二字も字余りにして反復する,俳句の常道に反抗して白壁の感動を記してる。
 案内板に「当時※,街にはまだ漆喰建物や土蔵が沢山残っていて,廻船問屋が軒を並べて賑わった昔日の名残も濃かったものと思われる。」

※山頭火志布志訪来は昭和5年秋。昭15松山で59歳で没しているので,志布志は49歳の時。昭7年から小郡に6年滞在。

種田山頭火。画像の撮影時期は不詳。〔後掲BS-TBS〕

頭火の志布志滞在は短かったようです。昭和5(1930)年10月10〜12日,鹿児島屋※という宿に2泊〔山頭火「行乞記・あの山越えて」←後掲ことだま日記〕。でもこの3日間に46の句を作ったといいます。
 現在の志布志には,うち13句の句碑が建っている→MAP〔後掲志布志市観光特産品協会〕。

※前々章本文で訪れた東町郵便局のブロック内,西側すぐらしい〔前掲志布志市観光特産品協会PDF参照〕。

 この中に「秋の空高く 巡査に叱られた」というのがあります。山頭火はこの九州旅行を物乞いでしのいでたらしいんですけど,志布志の町中で若い巡査に「托鉢なら托鉢らしく正々堂々とやりたまえ」と注意されたという。その情景らしい※。山頭火は志布志で乞食するのを諦めて,折角入った鹿児島から3日で都城へ引き返すに至ってます〔山頭火「行乞記・あの山越えて」←後掲ことだま日記〕。

※この句の碑の志布志市案内板には「注意されたことを理由に,感傷的な気分となり,その日の行乞を止めている。」とある。巡査の態度からなのか,詳しくは分からんけれど,山頭火はかなりショックを受けたらしい。

 古代ヤマトだけでなく,隼人の国は流浪の俳人をもたやすく容れようとはしなかったようです。

横長の一枚岩を積んだ壁

長石の石積み
同 石積みアップ

の手前と奥の蔵の造りが,まさに白壁の蔵。
 手前の石造も,どこの岩なのでしょう,横に長い一枚岩を数段積んである。
 井戸も古く苔むしてます。
石積みの家の路地

密貿易屋敷:謎編

043,志布志一丁目18。
「絵図でいうとこの辺のはず。ぐるりを回るけれど特段の痕跡なし。売地看板多数。」とメモしてます。
「絵図」というのは前掲の志布志案内マップです。章名にも採りました「密貿易屋敷」というのは──

(再掲)志布志市中心部マップ
こに割とあっさりと書いてあります。
 実は元のファイルを無くしてこれ以上拡大できなかったんですけど……今探すと志布志市観光特産品協会「散策コース」の「志布志まちあるきマップ」(PDF)として簡単に再発見できました。こちらです。
志布志まちあるきマップの「密貿易屋敷跡」エリア〔前掲志布志市観光特産品協会〕

……これだけ掲げておきながら,この場所が何なのか,何を根拠に「密貿易屋敷」と呼ぶのか,全くヒットがありません。
どどーんとした売地

役所のマップ作成部署に電話照会したろかッ!と思いはしたけど,当時はお正月,日本のお役所は法律で4日営業開始です(根拠:明治6年10月14日太政官第344号布告「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」)
 落ち着いた今は営業してますけど──同じ役人がそんな電話するのはタチが悪いわな……と思いとどまってますけど──
密貿易屋敷エリアを偲ぶ野花

定エリアのブロックを3周はしてますけど……坊津(→(密貿易の家)と同様「密貿易屋敷」案内看板はもちろん無い。それらしい家屋も何もない。
密貿易屋敷的に何となく怪しい感じのT字路(?)

密貿易屋敷:解決編

ゆーか,薩摩では豪快に空振りし慣れてしまいましたので,ここも8割がたは「無いだろな……」と思って歩いてはいる訳ですけど──無いですねえ。はははは。
 で,確かに売地は多い。これは何故か分からんけれど,密貿易に起因するもの……とはやっぱ思えないよなあ……。

仕舞には「売地」看板をデカデカと……撮ってるところに当時のヤケクソ感を汲み取って頂ければ本人も浮かばれると思います。

現在得ている情報から考え直すに──どうもこの「密貿易屋敷」とは前々章で紹介しました中山宗五郎屋敷のことみたいです。

内部リンク→m178m第十七波余波mm志布志前川withCOVID/鹿児島県/ソゴロどんの不思議な屋敷
(再掲)中山宗五郎屋敷裏(昭和35年取壊された東棟・昭和35年撮影)〔後掲山畑 p118-11〕

……後掲「さんふらわあ」の紹介するところでは──ココらしい。

密貿易は膨大な利益を生み出し、志布志津は異常な繁栄を遂げる。現在、門前通りと呼ばれる一本道には密貿易で財を成した豪商の屋敷が林立し「志布志千軒」と呼ばれる賑わいをみせた。〔後掲さんふらわあ〕

 後掲「さんふらわあ」は「密貿易屋敷跡。幕末の商傑・中山宗五郎政潟は密貿易で財を成した。3階木造建てという当時としてはかなり奇抜な建物だったのは、密貿易の露見を防ぐためである。現在はほとんど取り壊され、その一部が残されている。」として下の写真を挙げているけれど,後掲山畑さんの論文中ではこの建物は「山中家住宅」(1882(明治15)年建)の現・商家資料館です。なお,宗五郎屋敷の方も「密貿易屋敷」として復元する構想があるという〔後掲山畑〕。
「門前」とは大慈寺の門前町の意味でしょう。前川の船着場からこの門前通りを西へ伸び,さらに伊勢宮下の新町を形成していったるこののことだった,というのが江戸期「志布志千軒」の姿だったようです。

「明治15年(1882)に建造された山中家住宅は、江戸末期の面影を残す2階建土蔵作りの商家と1,269㎡の広い敷地を有し、後方に土蔵3棟がある。」〔文←後掲山畑,画像←後掲さんふらわあ〕

こまでの有意義な探索で志布志での残り4時間中,1時間を使いました。
 さてと?
 1052,金剛寺に入ってみる。
 廃仏毀釈がかなり激しかった模様で,首の折られた石仏,真ん中からヘシ折られた石碑あり。
志布志金剛寺の首持っていかれた仏様

■レポ:大隅ゆべしと台湾・香港年糕の相似

 志布志での夜のお茶うけに頂きました「ゆべし」について,まさに同じ戸惑いがY!知恵袋のQ&Aにありました。長くなりますけど質問とベストアンサーを転載してみます。

Q 鹿児島の方に質問です!
 祖母がゆべしというお菓子?を作ってくれたのですが、食べたら味噌と柚子を混ぜたようなものでものすっっっごく味が濃いんです!本当に味噌の塊食べてるみたいな。
 一切れ食べるのが精一杯でした!
 ゆべしとはこういうお菓子なんでしょうか?
 生粋の鹿児島県民ですが生まれて初めて食べてあまりの味の濃さにびっくりしました!
A(ココアさん 2015/1/14)
 おばあさんは、鹿児島の大隅方面にお住まいではありませんか?
「ゆべし」という食べ物は、全国各地に存在するようですが、鹿児島のは、もち米の粉と味噌、砂糖、唐辛子、柚子皮を混ぜ、蒸しあげて作った保存食です。主に大隅半島側の各地区で、昔ながらのレシピが受け継がれています。
 冷蔵庫もない時代の保存食ですから、味の濃い作りになっているのではないでしょうか。〔後掲Y!知恵袋〕

 もちろん柚餅子は鹿児島特産でも何でもなくて,全国にあり,東北のものも有名だから地域性も薄い。でもどうやら鹿児島,中でも大隅の「ゆべし」というのは,日本一般の柚餅子と似て非なるもののようです。
 ただ……何が「非」なのかはよく分からない。上記Y!から採ると──
①【素材】餅だけど味噌・唐辛子・柚子皮を混ぜ込む。
②【味覚】味が濃い。
③【目的】保存食である。
──といった点が異質だと思われますけど……。
 という曖昧な条件のままで考えざるを得ないんですけど,感覚的に似たものに台湾で食べた記憶があるのです。

台湾の硬くて赤い年越し餅

内部リンク→外伝06@再訪@(@_24_@) 中華の米使い/抽化街の彌月油飯
抽化街の彌月油飯
「 食感はカッテージチーズなのに味はお餅…いやよく蒸した粽に近い。けど胡椒と豚肉が十分に溶け合わさってて,ハムと餅を足して割ったような…とにかくワケ分かんない未知の食材。味付けは中華粽のさらに濃い感じになってるんで,そのまんま十分に食える。」

 ②味の濃さはまさにソレ。でも①素材は全く分かりません。③保存食かどうかも定かではない。
 この彌月油飯は,旧暦の大晦日に抽化街の市場近くで購入したものです。最も一般的な名称としては「年糕」(nian2gao1:ニエンガオ)と呼ばれるものらしい。
 年糕は漢民族居住域に広く存在し〔wiki/年糕〕,北方でも山東の红枣(紅棗)を使ったものがあります。

山东红枣年糕〔後掲手机搜狐网〕
 ただ,中国語での次の記述など,北の年糕に対し南のそれには相当な違いがあることが自認されています。

公元六世纪的食谱 《食次》就载有年糕“白茧糖”的制作方法,“熟炊秫稻米饭,及热于杵臼净者,舂之为米咨糍,须令极熟,勿令有米粒……”即将糯米蒸熟以后,趁热舂成米咨,然后切成桃核大小,晾干油炸,滚上糖即可食用。早在辽代,据说北京的正月初一,家家就有吃年糕的习俗。到明朝、清朝的时候,年糕已发展成市面上一种常年供应的小吃,并有南北风味之别。〔後掲Asian Market〕

①「食次」(6Cの食譜)に「白茧糖」という蒸し米に果実類を入れる料理があり,年糕に似ている。
②遼代(916-1125)の北京では元旦に家族で年糕を食べる風習があった。
③明・清代に小吃として発達。南北の差異もこの頃出来た。
──としています。同じサイトの下記記述には「南北同风」南も北も同じ趣旨だと題名が打たれていますけど,これは何となくイデオロギー的なものでしょう。

新年必吃年糕,南北同风
(略)
在南方,人们喜欢把糯米加水磨成米浆,蒸成条形或砖块的水磨年糕。大年初一吃年糕汤或是汤圆。这种传统年糕除了直接食用之外,还会把它用油煎制,炸,或者蒸,炒。有些地区会在冬天使用火盆,把年糕放到火盆上烤,也相当美味。〔後掲Asian Market〕

 南の年糕は長時間をかけて蒸すことで,保存食として耐えうるものになるようです。下記の台湾年糕に関する記述には「可置放一個半月」一か月半持つと書かれます。
 また,そのまま食べるほか,煎る,揚げる,炒める,炙るなど,さらに調理されることもある。

台湾的年糕〔後掲Asian Market〕

台湾的年糕是圆形的多种风味,有寺庙里的凤片糕,红龟糕沒有餡料,可置放一個半月,不僅不霉不壞,口感與滋味都一如當初,因此人們说鳳片糕是「神明的最愛」。还有大黄米和糖做好的红年糕。〔後掲Asian Market〕

 台湾のものはしばしば「红年糕」赤い年糕として紹介される。これは年越しの祝いものとして真っ赤に着色されたものもあるようですけど,本来の色は赤っぽい茶色,つまり志布志の「ゆべし」に近いもののようです。
 年糕は華僑の食文化として,東南アジアにも広く分布しています(wikiによるとインドネシア、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、スリランカ、タイ、ベトナム)。これを原型に近いものと仮定すれば,例えばマレーシアのものは次のような年糕です。

マレーシアのバナナリーフを用いた年糕〔後掲ライフスタイリングログ〕

「ゆべし」と呼ばれる志布志年糕

 なぜかこの年糕を専門的に検討した論文は見当たらない。そこで,素人なりに総括してみます。
 日本一般の柚餅子,それから正月餅や鏡餅を含め,これだけ広範囲に拡散している「米を固める食法」としての餅・食文化は,単に食慣習というだけでなく,機能的な利点があるからと考えられます。それは保存の利点でしょう。その南方形態としての「赤茶色の餅」を仮に「南方年糕」とカテゴライズしますと,保存食としての機能がより求められる高温の南方圏にそれが容れられたからでしょう。
 感覚的には,これだけの広範さは18C頃の福建・広東からの華僑によるものとはちょっと考えにくいと思います。それ以前,遅くとも後期倭寇(16C)から鄭氏台湾(17C)頃の中国海商が持ち込んだ食慣習だと考えた方が自然でしょう。
 何より,志布志に18Cの華僑が多量移住した記録はありません。長崎のような中国人集住エリアがあったとの伝承もない。志布志に南方年糕を持ち込んだ者がいるなら,短期間潜り込んだ後期倭寇か鄭氏台湾の御用商人か,その後の密航船かだということになります。
 そのことと関係あるかもしれないのは,志布志「ゆべし」の不完成・非正統度です。
 東アジアの年糕のレシピを手に入る限りで見る限り,味噌はもちろん唐辛子を入れるものは見つかりませんでした。それに対し,唐辛子入りの柚餅子は主に九州,稀に西日本(確認出来たところでは奈良・島根・徳島)にあります。また味噌は,日本の多くの地方の柚餅子には含有されます。

▲(再掲)長崎・夕月のカレー。スパイスがまるで効いてなくて限りなくヨーロッパのソースに似てるけれど,何とかカレーの体裁を保ち,かつ,かなりの完成度を誇る!
 このパターンは──明治初期の日本のスキヤキやカレー,韓国のジャージャー麺(짜장면 チャジャンミョン)に似てます。南方年糕を作ろうと目指したけれど,柚餅子の素材しか用意できず,またその手法しか使えなかった。南方年糕のレシピを本場の調理人からキチンと習わずに作った模造品が,それなりの完成度に達してしまった,というパターンです。──例えば,江戸期に潜り込んだ唐人から餞別として贈られた南方年糕を皆で味見した大隅人一同が「こやないけ?」(≒広島弁:何じゃこりゃあ?)と驚き,一番近そうな柚餅子のレシピで出来るだけ似たものを工夫した……とか?
 あえて言えば,志布志「ゆべし」のネーミングの強引さも裏事情的な理由があるとも想像します。初期の志布志ゆべし創造者は,「年糕」の名を知らなかったか,あるいは知っていたけど中国由来の経緯を秘す必要があった。幸い,南方年糕とは程よく違ってるし日本柚餅子にギリギリ似てる。「これは変わってるけれど鹿児島の柚餅子です」と,強引になら説明できるし,説明しなきゃならなかったのではないでしょうか?