「AMU READY?」
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
①GM. (経路)
※二つ鳥居の南方神社まで
行程①-1:超噴火を覚えてゐる大地
名 湯・中村温泉が……3/1から休館!!
再開日発表なしに「これまでに賜りましたご愛顧に対し謹んで御礼申し上げます。」と紙が貼ってありました……。
鹿児島市の降灰量は、朝の車のフロントガラスの汚れ方で測ることができます(下記写真参照)。市内銭湯でも、お背中が紋紋なおじさんたちが「折角風呂入ったのに……外へ出るとまた髪が……」とヘアを気にしておられました。いや、それ位に強い降灰日和の本日です。
灰だらけの車のフロント ちなみにMBC南日本放送その他、鹿児島では降灰予報を報じてます。
今 次鹿児島の3日目は、データ整理と図書館での史料探しに充てることにしました。
県立図書館は「祝日だから……」とのことで17時閉館でしたけど──鹿児島県は、昭和43(1968)年に鹿児島県維新史料編さん所を設置,「鹿児島県県史料集」という百冊を越えるとんでもない量の史料集を今なお編み続けておられるらしい。ネット上にPDFでも公開してるけど、ここではテキストの検索はできない。ただ、もし史料名さえ分かれば、これでかなり探索は可能なのです。
※ 鹿児島県史料集 « 鹿児島県立図書館(本館)
鹿児島市街〜加世田のこのバス路線はGM.その他ではヒットしないけれど、なぜか確かに存在します。〔後掲加世田高校だより〕
翌 朝,鹿児島中央駅東16乗り場。
時刻表を確認すると……え?加世田行きが0808になってる……理由は知らんけど,まあ僅か10分の差です,これで行こう。
このバス路線は、前回加世田BTでたまたま見つけ、気の迷いで飛び乗ってみたら物凄く便利だったルートです。
0809,加世田準急に乗車。天は僅かに霞むも雲疎ら。🚌
〇 838、谷山を過ぎバスは西へ向く。南高校前。「谷山善き者幼稚園」?──今調べたら「善き牧者」でした。
諏訪。この地名はなぜか頻出する。──これは本章末の段階でイメージできました。建御名方つながりです。
坂になる。山並みがぼこぼこしてきました。バスはそれを蛇行しながら抜けていく感じです。まあザクッと言えばシラス台地です。
西谷山小前。
いなほ館の看板。──これは金峰町の「温泉交流の郷南さつまいなほ館」。この日あわよくば……と思ってた温泉でした。
🚌
〇 845、勘場。──とメモしてるけどそんな地名はない。さつま揚げの「勘場蒲鉾」の看板でも見たんでしょか?
阿多火砕流という看板。──福元町の阿多火砕流露頭のことです(→GM. )。巻末詳述。
さらに看板・大当石垣群?──以前訪れた笠沙町の「大当石垣群の里」のことでしょう(→m172m第十七波mm大当 )。伊作峠(伊作峠)のバス停〔GM.〕
〇 848,緩い下りに入る。地名は中山。バス停・平治。
再度緩く登って伊作峠。0853。他のシラス台地と地形が全く違う。「ようこそ日置市へ」看板。
再び下る。今度は急です。住所は吹上町になる。0858上与倉(かみよくら)。
藤元。やや大きな集落です。骨董品市と直売所。畑は小さいようだけど林業集落でしょうか。
0900,乙女月(おとめづき)。日本語由来なのに微妙に語感の違う地名が多い。
忽然として藤元工業団地。
0903,駒田(こまんだ)。飛び飛びだけど集落は絶えない。この山道は結構古いようです。
野首入口という物騒なバス停。平坦地が突然広がり始める。
🚌
行程①-2:尾下排水の護る大地
〇 906。下与倉(しもよくら)、「上」からかなり遠いけれど……そんなに広い地域名なんでしょか?──与倉は角川日本地名大辞典に「中世には伊作荘内の伊与倉名といわれていた土地で、川も伊与倉川」とあります。
0907、平仮名で「ふもと」。そのままの意味合いか?「亀丸城跡」看板。──「ふもと」はもちろん実質的な薩摩の外城「麓」です。
0910、東本町。ここは北の伊集院からバスで通った記憶がある。中原交差点。吹上郵便局。日置市吹上支所。バス停・伊作。この伊作というのが広域名にもなってるようです。「旧南薩鉄道伊作駅跡」看板。ああそうそう,西本町をなぜか二度通るんだった。
0916。伊作川を越えてバス停・宮坂。
バスの行き先アナウンスに下車バス停「金峰支所経由」が入り始めました。
苙岡。「おろおか」と読む難漢字のバス停名。南さつま市に入りました。道の駅きんぽう木花館1.5kmの看板。
堀川を越える。なだらかに登って下る。バス停・田布施麓(ふもと)。0925。
尾下(おくだり)。
0927、金峰支所前下車。トイレ、トイレは?とそばの文化センターに急ぎました。
▲0940金峰集落(尾下)の道
え ?持躰松遺跡(金峰町宮崎)じゃないの?何で金峰支所?──という疑問というか当てはずれというか轟々たる非難とかも多々あると思いますけど、まあ聞きなさい。
史学者の脳に何万という「?」を撃ち込んだこの遺跡の現状はこんならしい。
これが持躰松遺跡だ!in2024〔GM.〕
で は金峰町のどこへ行くつもりじゃあ?!と広島弁で怒声が聞こえそうだけど──そこはそれ、ツーリストの直感ですよ、いつもの。わはは。
という説明で読書の安心感を十分に回復したところでトイレから出てきまして、改めて周囲を眺めると──おおっ!!
田んぼしかないぞ!
0946金峰・尾下集落の水路
ま あ……金峰集落を歩いてみようじゃないか。どーせ鹿児島には裏切られっぱなしだし、それはもう表題(:笑みぶあつく隠す)で標榜しとるし……と気を取り直して歩を進める。
普通の住宅地だけど石材多用。畑地には水路が多い。
で?「矢石」というのを探してみたんだけど……見つかりません。早くもおみくじの「小吉」を引き当てた気分です。
尾下など金峰の4つの排水機場〔後掲鹿児島県/流域下水プロ〕 万 之瀬川は暴れ川です。昭和58年6月には、床下浸水16百戸を越える加世田水害を起こしてます。そこで湛水防除事業──排水条件の悪化した農地の土壌等改善が戦後の早い時期(昭和50年代)から行われてきたようです。
農地としては極めて優良、超早場米「金峰コシヒカリ」の産地です。──2023年の稲刈りのニュースは何と7月23日〔→南日本新聞/黄金色に輝く「金峰コシヒカリ」 超早場米の稲刈り 真っ盛り 南さつま 〕。
「昭和56年度に完了した湛水防除事業整備」画像の尾下排水機場の除幕式?〔後掲鹿児島県/かごしまの農業〕
行程①-3:野間vs金剛 飛び交う矢石
矢 石の方は、けれど見つかりません。先へ。
──後で調べ直すと、何を勘違いしてたのか……金峰支所の北の丘をグルっと回って徒歩8分ほど、尾下農村研修センター前でした(ルート:GM. )。
大昔、金峰山の神様と、野間岳の神様が戦いをした時、金峰山の神様はススキの穂を矢のように投げられた。金峰山から投げたススキが野間岳の神様の目にささって野間の神様は片目になった。また野間あたりの伝説では、野間岳の神様の投げた石が金峰山の肩にあたって、(三の嶽の方)そちらの肩が落ちていると云う話がある。尾下の矢石(尾下農村研修センター前) その投げた石が金峰山まで届かず、途中で落ちたのが矢石だと云う。その矢石は、高橋の室屋商店前の曲がり角に一基、尾下の農村研修センター前道路に一基、中津野の加治屋英二氏所有の山の下に一基、計三基ある。〔後掲南さつまの観光案内/上古 伝承〕
この石は次章で再度噛みます。これはまず間違いなく、野間岳と金剛山の神様が互いの体の一部を失うほど激しく争った、という記憶を伝える伝承です。
▲1001金峰町尾下の石垣
南 さつま市商工会館から高架下を東へ。0958。高架下は何か、鳩の巣になっとります。
家並みの石垣は、半ば麓の感じを残すようにも思えます。
尾上一公民館。1007。南の丘陵は予想より大きい。あれの峰を越えるのか?
▲1006尾下から金剛山 おそらく同じ方向を空中から〔後掲南さつまの観光案内/ドローン空撮2021.11→youtube 〕
1 009、三叉路に出る。
1013、多夫施神社。登り口に招魂碑。
この多布施は地名※でもありますけど、由緒は諸説あり不明です。
※地名の用字は「田布施」
田布施の地名は、当時鳥獣の害を防ぐために作られたタブセ(番人小屋)から出たとも伝わる。〔後掲南さつまの観光案内/上古〕
▲1014参道
行程①-4:受鬘命 うけのりのみこと の勝手の森
多 夫施・多布施とも書く。薩摩半島西海岸,万之瀬川右岸下流域。「和名抄」薩摩国阿多郡四郷の1つ田水郷がこの地に比定されている(県史)。田水は田伏の誤りで,田を耕すための小屋田盧(たふせ)に起こる地名か。「三代実録」貞観15年4月5日条に「授薩摩国正六位上多夫施神従五位下」とある多夫施神社の所在地である。同社は近世 勝手神社と称し(三国名勝図会),明治になって郷社多夫施神社となった(県地誌)。〔角川日本地名大辞典/田布施〕
貞観15年は西暦870年です。島津氏入域より二百年も早い。
創建はもちろんさらに古く、養老年中(一説には七二四年)古名「火燒大明神」とも伝わります〔後掲鹿児島県神社庁/多夫施神社〕。だから多分火の神(ヒヌカン)で、土地柄、火山が疑われます。ただ870年の従五位昇格は──この時期に富士山が貞観の大噴火と呼ばれる、論者によっては宝永噴火に並ぶ歴史年代の二大噴火と称す異変が起きてます。けれどこれは不確かとする人も多く、当時の国土の最西端たる薩摩までが対象になったとも確定しにくく──理由は推測しかねます。
※「「宮下文書」中の3史料(『高天原変革史』,『寒川神社日記録』,『噴火年代記』)に「(貞観)十二庚寅年七月,富士山中央依り噴火す」(『高天原変革史』)などの類似した内容の噴火記事がある.貞観十二年当時の正史である『日本三代実録』には欠落巻がないにもかかわらず該当する記述がないので,信頼性の低い噴火記事と考える.」〔富士山歴史噴火総解説(第2版,2007年3月)小山真人 静岡大学教育学部総合科学教室/○貞観十二年(870)噴火?〕
三国名勝図会(勝手神社)
前 掲(→角川 )のとおり「勝手神社」名は三国名勝図会に確認されます。同記述に曰く──
永禄三年、梅岳君再興あり。勝手大明神の五字を書いて扁額とし給ふ。扁字摩滅す。故に元禄九年十一月十五日、是を模写し、銅製して華表に掲く。(略)神社啓蒙曰く、勝手神社は大和国吉野郡吉野山に在り。祭る所の神一座、愛鬘命(うけのりかみのみこと)。(略)愛鬘命は勝手大明神なりと。又、京の愛宕山にも、勝手社あり。〔三国名勝図会←後掲古代文化研究所〕
「勝手」は古語で「意のまま」、つまり中興者たる島津忠良(日新公、号:梅岳君)により法規制外の権威を与えられた意かとも思えたけれど、図会は愛鬘命(うけのりかみのみこと)の社の一般呼称だとしています。
なお、コロナ終息を切に祈願してました。
多布施神社もコロナ終息祈願
正 面本殿の右に2,左に3,奥両脇に各1小社。
人の姿はないけれどシメ縄は新しい。長く拝まれてきた社です。
由緒には──
創建は724年とも伝えられる。(略)「薩州神社考」によると,祭神は受鬘命(うけのりのみこと)とされる。(略)永禄3年(1560年)島津忠良によって再興され,『勝手大明神』の扁額をもうけた。(略)
かつては浜下りと呼ばれた大祭が行われ,白装束の若者二十数名が交替で神輿を担ぎ(略)一団が高橋潟蔵の峠まで出向き,再び帰還した。〔案内板〕
「浜下り」については次章で深掘りします。鹿児島県下には、隼人町の鹿児島神宮や姶良市の帖佐八幡神社などの各所にあった風習です。
多布施神社本殿〔GM.〕
前 掲三国名勝図絵(→参照 )には、やはり勝手神社として描かれてます。目を引いたのは、その本殿奥左手に「大明寺」という施設が付設されてることでした。向かってみると、今も敷地らしき場所はありました(下の写真)。
この草地だったとすれば……かなり大きい床面積だったと思われます。廃仏毀釈で寺だけが破壊されたとしても──どうもキレイ過ぎます。ただそれ以上の推測が難しい。
裏手「大明寺」跡?
草 地に入ったついでに1032、そのまま裏へ抜けて亀が崎城を目指してみます。
けれど?すぐ西の道はこの野道しかないけれど……これでいーの?
農作業のおばあちゃんに訊く。ボソボソと曰く「出れます」とのこと。そのまま進むと──
不安な野道を進む。
1 040、まさかと思うほどちゃんとしたアスファルト道に出た。北行。
電気柵?誰用なのだ?やっぱり──クマとか?イノシシとか?
1046、ゴッツい石垣の三叉路を右折東行。
1048、手前に石橋のある苔むした神社。看板はないけれど位置と地形からして……これしかないよな、亀が崎城。
登る。
行程①-5:大中貴久産みし亀城
物凄く不安になる階段
上 の鳥居上部に「亀城神社」,間違いない。参道に「大中公誕生之地」碑。
小中高は卒業したけど、大中公は誰よ?
「亀ケ城跡」由緒看板に「忠良の長子貴久は,1514年この城で生まれた。境内に現存する両亀石および荒神祠は,貴久誕生にまつわる伝説を伝えている。」とあるから大中公とは何と島津貴久らしい。
神社の三国名勝図会
案 内板に引用された三国名勝図会には「御産荒神祠」として載ってる。「御産」のための祠なら貴久生誕と同時期か後付けでしょう。
両亀という岩の他に祠なし。ホントに城跡のみだと思われます。この岩には賽銭箱に島津十文字。
賽銭箱+島津紋。何かしっくり合う。
あ れれ,ちょっと待て?
右奥に社一つ見えるぞ?
しめ縄,榊とも新たです。つまり貴久とは別に拝まれてる形跡があります。
奥の祠は苔生して
や はり記名はない。
この「神社」は基本的に、外来者を喜ぶ感じで出来てないようです。沖縄の御嶽っぽい。
けれど、この祠が荒神祠でしょうか。
静かな山中。小山の頂近く,周囲の地形の凹凸も加えると──特異な強さの城だったのかもしれません。
1105、南方神社を目指す。
1119「癒しの郷 愛」──ネーミングは許す。でも人家はないぞ?
行程①-6:金峰 観音 鳥居は並ぶ
急 坂になりました。道端で,堪らず一服。
これはキツイ!でもこの金剛山はもっと遥かに深い懐を見せてます。──今ようやく調べると……1125m?そりゃ高いわな。
上記「癒しの郷 愛」を過ぎ、辺りは台地状になってきました。尾根道らしい。
と?唐突に異様なモノが見えてきましたけど?
1123並び鳥居
楚 辺のトリイ基地まで来てしまった……とは思わなかったけど、二つの鳥居?
金峯山観音寺金蔵院の跡とある。
蔵王権現社(金峰神社)別当寺,十一面観音を本尊とす。(略)18世紀中ごろ金蔵院住職の快宝が著した金峯山縁起由来記には,百済(略)僧日羅[?-583年]が浦之名に創建したとの記事がある〔案内板〕
今調べ直しても全く分からない、古代修験道の寺院……らしい。
金峰山観音寺金蔵院は、金峰山を祭る金峰神社の神宮寺。日羅が594年に建立したという伝説がある。史実としては、阿多忠影が1138年に私領を寄進したのが初見。(略)現在は、浦之名日枝神社の敷地となっており、境内に観音寺時代の二十数基の僧侶墓・宝篋印塔が残る。〔後掲南さつま歴史遺産/観音寺跡(日枝神社)〕
観音寺時代の二十数基の僧侶墓・宝篋印塔〔後掲南さつま歴史遺産/観音寺跡(日枝神社)〕
──一 応、社内を歩いた記憶はあるんですけど、全く記録してない。上掲の観音寺時代の遺構も、見たのかどうだか分かりませんのです。
「右手のこれは茶畑でしょうか?」──とか変なことしか気にしてません。
肝を抜かれて位置情報を確認。「何と!並び鳥居は南方神社とある。何ヵ所もあるのか?」──とまた、素人みたいなメモを残してます。薩摩だぞ?南方社だらけに決まっとるじゃろ?
1123。
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
②GM. (経路)
※二つ鳥居の南方神社
〜中津野・南方神社
行程②-1:浦之名(うらのみょう)には港の幻
双 つ鳥居前のT字を、とにかく左折する選択をしました。
1132。団地を抜けて鹿児島加世田道。彼方に遥かに伸び上がる独立峰は野間岳か?
多分近くをスルーしてる浦之名「田の神」〔GM. ・2023年〕
左 手東側を「いなほ館」の矢印が指す。──実は、この「温泉交流の郷南さつま いなほ館」での入湯も、事前には視野に入れてました。でもこりゃあ……とても行く気にならんぞ!!
へなへなです。でも歩く他の交通手段はありません。
加世田道を右折。
1141鹿児島加世田線の側道をトボトボと
シ メた!加世田道には一応歩道があります。
歩きやすい。でもそりゃいいけど、明るい農村なのに殺風景です。
──今確認すると、この道路の付近の地名は浦之名。「うらのな」じゃなく「うらのみょう」と読むこの地名、角川日本地名大辞典ではここと川内、宮崎市近くの3つしかヒットしません。
金峰町浦之名付近マップにゴニョゴニョメモ入り
上 の地図の通り、かなり大回りして歩いてしまってますけど……この時の浦之名の光景が殺風景だったのは、意味がありそうです。
道が直線で、かつ直交してます。この整然さは、金峰町の農地部一般に言えますけど、浦之名のそれはやや曲がりが細かく、生成年代が古いか原地形が狭隘かの可能性があります。
元の乱雑な氾濫原を、現代になって機械力で整地した土地だからと想像されます。
「浦……」という地名からは、あるいは原地形の氾濫原に、小舟が寄せれる程度の湾入があったかもしれません。
バス停大田小前。進む。1140。
行程②-2:昔お船の出た高台
1146大田集落
左 に分岐。ここから集落へ入りました。
金峰町大田分団消防団車庫。
1151、道端に地蔵。すりきれたレリーフが火の神にも見える。──GM. 上には「中津野 馬頭観音と水神様」とある。これを信じるなら、いわゆる「田の神」ではなく観音のです。また、先の浦之名「湾」を想定すれば海民の観音信仰がスポット的に残存するのも有り得る事態です。
1152「中津野馬頭観音」
坂 の傾斜が増す。先の尾根と同様、それなりに足に来る斜面を成してます。
しかも……側道がなくなりました!結構な交通量とスピードで車がビュンビュンです。でも、そろそろ──。
▲1154最高所へ!
尾 根を越えたらしい。ゼイゼイ。
1157、信号機のある最高部から左折。
中津野の集落──昭和25年に河口貞徳が発掘した中津野遺跡の地点です。ここは金峰山中岳北西麓、標高30mの台地で、年代測定は弥生終末期。十分な調査ではなかったらしいけれど、径約5m、3段に掘り込んだ竪穴が発見されたという〔角川日本地名大辞典/中津野遺跡〕。
という所までだと、「残念な遺跡」だったわけですけど──
中津野遺跡指定範囲〔後掲鹿児島県埋文〕 舷側板全体写真〔後掲鹿児島県埋文〕
2 008(平成20)年の国道改築工事で、再び遺跡の一部が日の目を見ます。
発掘されたのは、国内最古級の古代・準構造船の舷側板。推定年代は少し遡って弥生前期(詳細は下記展開内)。
準構造船の部位名称〔後掲鹿児島県上野原縄文の森〕
平成20年度に埋蔵文化財センターが国道270号(宮崎バイパス)改築工事に伴い発掘調査を実施した中津野遺跡で出土した木製品が,国内最古級となる弥生時代前期後半(約2,500年前)の準構造船の舷側板(げんそくばん)であることが判明しました。
準構造船:くり船に側板などの木材を組み合わせて,積載量が増えるようにした船(略)
舷側板の詳細
1 大きさ
幅約0.3m×長約2.73m×厚5cm
2 特徴
下部に径3㎝程度の規則的に並ぶ円形のほぞ穴がある(12か所)。
上部に6×3㎝程度の長方形のほぞ穴がある(5か所・一部破損)。
上端部に切り込みがある(6か所)。
3 舷側板と判断した理由
部材の加工の特徴や他の出土事例から判断
4 船の全長
約6m(推定)
5 年代
弥生時代前期後半(BC5世紀~BC4世紀)
6 評価
舷側板が出土した中津野遺跡は,東シナ海にそそぐ万之瀬川の支流の境川に面し,下流には弥生時代の貝の交易で有名な高橋貝塚が所在している。中津野遺跡の出土土器からも広域での交易がうかがわれ,当時,高度な造船技術を要する外洋航海が行われていたことを物語る重要な資料である。また,環東シナ海という視点での造船技術や交流を考える上でも貴重である。〔後掲鹿児島県埋文〕
おおっ!古い船が発掘されたもんだな……としか最初思わなかったんですけど──造船史からすると奇跡的なことのようなのです。
準構造船は、丸太船と構造船の中間形態で、教科書的な埴輪の変な船(舟形埴輪)、あれです。けれども──
竜骨を使った重心の低い西洋の構造船でなければ、二股構造もゴンドラ構造も成立しません。舟形埴輪や土器に描かれた準構造船は、祭祀用にデフォルメされたものか、内海や池などに浮かべる娯楽用だったとしか思えないのです。〔後掲理系脳で紐解く日本の古代史〕
──といった疑問説はかなり根強い。確かに、ここまで見てきた海の歴史史料を思い出しても……こんなバランスを欠いたものが、仮に浮いても外洋どころか瀬戸内海すら航行できたとは思えません。
(指定名称)埴輪船 :宮崎県西都市 西都原古墳群出土 長100.0 古墳時代・5世紀 東京国立博物館蔵〔後掲e国宝〕
だから通説的には、舟型埴輪は①祭祀用、または②実用舟の極端なデフォルメだと言われています。
けれども、実際に広い範囲での交易が行われていたことは事実として否定し難い。だから、構造船出現までの長い期間、外洋を渡った何らかの形態の船が存在したはずなのです。
一般的に、準構造船の出現は弥生末期とされているようです。しかしこの時期は、薄板を使用する複雑な造船技術が伝わり、造船の専門家集団が育ち、それに必要な鉄製工具の供給が増える、という条件を欠いています。
4世紀になると交易量が増大する事実から、鍛冶工房を立ち上げた各地域国家が、積載量の大きい準構造船を使い始めた可能性は考えられます。
一方、考古学的には、4世紀の準構造船のものらしき断片が発掘されているものの、必ずしも外洋で使われたものともいえず、全体像は明確になっていません。丸木舟から構造船への橋渡しとなる準構造船は、ミッシングリンクともいえる秘密のベールに包まれた存在です。〔後掲理系脳で紐解く日本の古代史〕
「理科系」さんは「ミッシングリンク」とまで言ってます。これはつまり下記の「実用的な準構造船」を想定させるのですけど──それがどんなものかは誰も推定できていないのです。
ただし、「棚板造りの構造船」は中世になるまで存在しないので、古墳時代以降、外洋で大量輸送が可能な船体として、丸木舟よりも高度な構造を持つ「実用的な準構造船」の存在そのものまで否定することはできません。〔後掲理系脳で紐解く日本の古代史〕
中津野遺跡でこれほど完全形で見つかった舷側板は、準構造船の部分であることを否定できません。弥生時代の早期、つまり紀元前に準構造舟が実用 ●●●●●●●●●●● されていた事実が、疑えなくなったことを意味します。また金峰町という場所は、明らかに外洋航海を示唆します。
船体学者が如何に技術的に否定しようと、現実にこんな危険な船が海を渡っていたのです。
食い違い交差点で正午の鐘を聞く。こっちかな?さらに左折。
行程②-3:全ての諏訪は中津野に集う
中津野集落内の道
1 209。集落が切れ、道がS字になってます。その曲がりの暗がりに──
南方というのはどこも並び鳥居なのか※?1211、中津野南方神社到着。
※後掲八ヶ岳原人で詳述してありました。薩摩の南方・諏訪神社系では「並立鳥居」と呼ばれ珍しくないようです。三国名勝図会のいくつかにも平然と描かれており、どうやら神体が二つあるから各々に対応する鳥居を建てる、という慣行がなぜか薩摩にだけ生まれたようです。多くが神体は建御名方命と事代主命で、この両神を並立させることに何かの価値を見出しているらしい。
▲1210南方神社の並立鳥居に到着
台 地なのに階段面はなく,平地の傾斜が続く。階段は二ヶ所のみ。
これは、神体を高所に置く発想が、最初からなかったように感じます。
▲1212参道
一 名諏訪神社という。祭神は健御名方命,事代主命(略)
昔,諏方社というのは花瀬に2,白川に2,宮崎に2,その他大部落にあったが明治初年廃仏毀釈の時すべて中津野南方神社に合祀されて一社になった。〔案内板〕
そんな統合を経たにしては、配置が整然としています。合祀したことにした、ということなのかもしれません。
右脇祠
参 道に、昭32の改築記念燈籠がある。見た目でも建物はその位の古さでしょう。
祭壇前両脇に小祠各一柱。
行程③-1:帰る道にも水神祠
1224古樹
右 奥のイヌマキが、何と市名木・古木に指定されてます。
しめ縄あり。──樹木自体が拝まれてます。
鳥の声,二三響く。清々しい。
▲1228帰路の参道
在 ったのはこれだけでした。日本の他社に比べ、何ともシンプルです。
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM. (経路)
1225、西へ引き返す。
1232、水神祠。
水神祠
食 い違いを左折南行。1239。
中津野までの雰囲気と一転、山深い道になりました。迷ってないよな?
行程③-2:大山祀様を遠く眺めて
石垣に小花
「金峰町」の杭
金 峰町(きんぽうちょう)は、1956(昭和31)年に阿多村と田布施村が合併して発足しました。町名の由来はもちろん金峯山から。
つまり町名としては新しいんですけど──発足三年目の1959(昭和34)年8月6日、台風第6号の豪雨に襲われ、土砂崩れで住民7人が生き埋めの大災害に見舞われます。
金峰町旗と町章。いずれもモチーフは金峰山。〔wiki/金峰町〕
発足46年、半世紀を経ない2005年11月7日、加世田市・大浦町・笠沙町・坊津町と合併して南さつま市を形成。行政単位としての金剛町は消え、住所町名になって現在に至ります。
▲段々畑の山
1 251、ポツポツ家屋が見えてきました。
前方左手,田植え直後の青々とした水田の向こうに,岩の段々畑の山。何だろう?──あるいは土砂か鉱物かの採石でしょうか?
大山祀神社遠景
同 じく水田越し遥かに大山祀神社。……ちょっと寄る気になれませんでした。ただ、神話上もこの場所に木花咲耶姫の父(古事記)・大山祇というのは気になるし、何より考古学上ここからは古代人が崇拝したらしき盤座(メンヒル)が存在します(次章参照)。
でもヘバってた当時は……対面の山道ばかりを探して……これだろう,右折。
眺望のきかない道を抜けると──おおっ!!いきなり車道、そして目的の昼飯屋に着いたぞ??
行程③-3:山のホルモン喰らって帰ろう
金剛町新山の豪華レストラン「山の駅」〔GM.〕
11 309山の駅
ホルモン定食650
……正直なところ、絵としてはパッとしない店でパッとしないお膳を、でも腹へってたんでガツガツと喰らったので……全く記録を残してません。※でも一番人気みたいよホルモン定食、なぜか。
さらに500mほどで阿多バス停に着いたのは1358。1416の便がありました。怖いことに、調べてたその前の1316便はなかった。
バス停のすぐ脇にも古祠。これもまた記名なし。
バス停脇の無記名の石祠
ス ルーしちまった温泉※「いなほ館3.5km」の看板が写ってますけど気にしないことにして──1419、鹿児島行準急乗車。
次のバス停名は塘(とも)。熊本の電停にある地名です。川や池の岸の土手を指す古い漢字ですけど──万之瀬川水系にも用例があるのでしょうか?
チクチク刺激されっ放しで、結局何も分からない。エラい場所に何とも無防備で飛び込んだものです。
※GM.を見ると、風呂自体はかなり大きい施設です。ただ、いなほ館の口コミには営業日が「祝祭日のみ」とか「土日祝のみ」とか載ってる。電話して行った方が安全なようです。特に徒歩でわざわざ向かう場合は。
「イエローストーンの地下の3Dモデル。幅72キロ、深さ660キロの熱い溶岩のプルームが“超巨大火山(スーパーボルケーノ)”の地下で上昇している。」Image courtesy University of Utah〔後掲ナショナル ジオグラフィック2009〕 ※目盛りはマイル表示 ∴底辺面は約5km四方
■レポ:準・超噴火跡としての阿多カルデラ
日本列島では数千年に1回、文明を滅ぼすようなカルデラ破局噴火が起きます。姶良カルデラ、鬼界カルデラ、阿多カルデラと、鹿児島県に過去の実例が多いのは不気味です。〔後掲ぐるっとおおすみ/阿多カルデラ〕
……不気味どころちゃう!
いや流石に薩摩隼人は肝が座った文章を淡々と書く。上記3カルデラが「数千年に1回」「文明を滅ぼ」してきた実績は、以下のようなものです。──もちろん全てではありません。現段階で通説化しているものだけで、です。
11万年前 阿多(北部)カルデラ
→阿多火砕流発生
3万年前 姶良カルデラ
→入戸火砕流発生
73〜6300年前 鬼界カルデラ
→「アカホヤ」噴出
5500年前 阿多南部カルデラ
→池田湖(池田カルデラ)形成
〔後掲ぐるっとおおすみ/姶良・鬼界・阿多カルデラ〕
鹿児島県内三カルデラの位置(現通説)〔後掲ぐるっとおおすみ/鬼界カルデラ〕※黒字の一部及び青字は引用者
観光客的に言えば──
阿多:池田湖・開聞岳が西外輪山とする
姶良:桜島が南外輪山
鬼界:硫黄島が西外輪山
という位置です。
1943年、火山学者・松本唯一さんが九州の4つのカルデラを世界に発表します〔Matumoto.t:The four gigantic caldera volcanoes of Kyushu,Jap.Jour.Geol.Geogr.vol.19.sp,no,1943.←後掲藤本〕 。姶良は1930年代に「姶良火山」という超巨大火山説が既にありましたけど(現在は否定説が強い)、松本さんは阿多と鬼界のカルデラを指定・命名して、4つのカルデラを最初に並列して見せた九州地学の祖です。ただし近年の通説では、阿多カルデラの位置は松本さんの唱えた指宿-池田湖-開聞岳の円ではなく、その北方辺りと目されるようになりました。
四大カルデラ火山の諸元〔前掲Matumoto,1943←後掲藤本〕
地上に顔を見せていれば阿蘇と同規模の3つのカルデラが、南北に連なる陥没として陸地を分断している。それが鹿児島の地形です。
阿多火砕流の分布〔後掲荒牧・宇井〕※日本語文字は引用者
一次被爆域:火砕流及び軽石到達範囲
上図・阿多火砕流の分布域を見ると、松本さんの発表当初に誤認があったり後に異説が出たりするのも納得できます。この火砕流域は、この日に見かけたカルデラから50km隔てる福元町の露頭の位置からだけでも分かるように、鹿児島の地中に複雑に埋まり、かつ11万年の間の他のカルデラの活動もあって不規則に侵食されています。
鹿児島の大地は、複数の火砕流の積み重なりです。
一方、かくもアグレッシヴな鹿児島の灰は、では11万年前の阿多カルデラ噴火時にどこまで届いたかと言うと──
阿多火山灰の予想分布域 〔後掲大規模噴火データベース〕
※原注 等層厚線は,町田・新井,2003 ©東京大学出版会※※ に基づく。青線が Ata の分布,赤線が阿多カルデラを示す.地図は地理院地図 WMTS 版を利用.
※※町田 洋・新井房夫 (2003) 新編火山灰アトラス-日本列島とその周辺. 東京大学出版会, 94-95.
北東は東京まで、北西は釜山まで、南西は石垣島まで届いてます。
3万年前の姶良カルデラ噴火については、さらに具体に被害範囲が分かってます。
鬼界カルデラ噴火時の火砕流と降灰の推定範囲〔後掲ぐるっとおおすみ/鬼界カルデラ〕
当時の地形は不明ですけど、現・硫黄島から火砕流が海を渡って現・鹿児島に押し寄せた……のでしょうか?
鬼界噴火では早期縄文人の住んだ南九州は「その後、1,000年近くは無人の地となった」〔後掲ぐるっとおおすみ/鬼界カルデラ〕と想像されています。
「千年無人」は桒畑光博2002
(「考古資料からみた鬼界アカホヤ噴火の時期と影響」『第四紀研究』41(4):317-330) を出典としているようです。
直近の後掲桒畑(2020)では、個別の研究者の蓄積が統合され、さらに輪郭がはっきりしてきています。まず鬼界噴火の直接の影響ですけど──下の図は次の略号を用いています。
K-Ah噴火:鬼界アカホヤ噴火
K-Ah :鬼界アカホヤテフラ
(テフラ:灰 (古代ギリシア語: τέφρα、英: tephra、ギリシャ語で「灰」の意)
K-Ky :幸屋火砕流堆積物
K-Kyp:幸屋降下軽石
火砕流堆積物の分布範囲とテフラ等層厚線〔後掲桒畑2020〕 ※原注 町田・新井(2003)、藤原・鈴木(2013)、下司(2009)、成尾2019を参考にした。
※※町田 洋・新井房夫 2003『新編火山灰アトラス―日本列島とその周辺』東京大学出版会。
藤原 誠・鈴木桂子 2013「幸屋火砕流堆積物及びその給源近傍相のガラス組成と堆積様式」『火山』58(4):489-498。
下司信夫 2009「屋久島を覆った約7300年前の幸屋火砕流堆積物の流動・堆積機構」『地学雑誌』118(6):1254-1260。
成尾英仁 2019「大隅諸島の火山噴出物と津波堆積物」『鹿児島考古』第49号:5-20。Maeno, F. and Taniguchi, H. 2007, Spatiotemporal evolution of a marine caldera-forming eruption,generating a low-aspect ratio pyroclastic flow, 7.3 ka, Kikai caldera, Japan:Implication from nearvent eruptive deposits. Journal of Volcanology and Geothermal Research, 167:212-238。 K-Ah噴火災害エリアと西日本の主要遺跡分布図〔後掲桒畑2020〕
以上がいわばインプットの研究成果です。桒畑さんの研究の偉業たる所以は、それを学界的には異分野の考古学上のアウトプットとの間に因果関係を橋渡しした点なのですけど──これもまた途方も無い作業をしておられます。
K-Ah噴火が九州における縄文集落の形成にどのような影響を与えたのかをみるために、前節の土器型式の前後関係と年代幅を踏まえて、K-Ah噴火直前、直後に位置付けられる遺跡を抽出する作業を行ったことがある(桒畑2017b)。具体的には、九州内で発掘調査され報告書が刊行された遺跡の中で、轟A式土器と西之薗式土器が出土している遺跡を拾い上げた 2)。その結果、轟A式土器が出土した遺跡は166ヶ所、西之薗式土器が出土した遺跡は43ヶ所を抽出することができた。(略)
九州全域における
K-Ah直前の遺跡は157ヶ所、
K-Ah直後の遺跡は43ヶ所
である。先述した土器型式の較正年代をもとに起算すると、K-Ah前の轟A式土器の年代幅は約300年間、K-Ah後の西之薗式土器の年代幅は約250年間なので、各々100年間あたりの遺跡数を割り出すと、
K-Ah直前が52.3ヶ所、
K-Ah直後が17.2ヶ所
となり、九州全体でK-Ah直後の遺跡数がK-Ah直前の3分の1まで落ち込んでいることがうかがえる。〔後掲桒畑2020〕※引用者が改行及びゴシックを加えた。
※桒畑2017b:桒畑光博 2017b「九州における鬼界アカホヤ噴火前後の縄文集落の動態」『日本第四紀学会講演要旨集』47:8-9。
原注2) 集成に際しては、第24回九州縄文研究会大分大会の『九州における縄文時代早期末~前期初頭の土器様相 発表要旨・資料集』(2014)及び第26回九州縄文研究会熊本大会の『九州縄文貝塚の現状と課題2』(2016)中の地名表を基本にしながら、個別の遺跡発掘調査報告書もチェックした。
K-Ah前:轟A式土器期の遺跡分布〔後掲桒畑〕 K-Ah後:西之園式土器期の遺跡分布〔後掲桒畑〕
冷めて言えば、ここまでやって分かるのは、縄文九州の遺跡が1/3になった、という事実のみです。
ただ上記「K-Ah噴火災害エリアと西日本の主要遺跡分布図」でも分かる通り、九州でも北部への降灰は意外に少なかった(関東並だった)らしい。
そこで桒畑さんはさらに、
西之園式遺跡:BC5350-5100【∴K-Ah噴火直後】
轟B1式遺跡:BC5100-4900【∴K-Ah噴火後+100】
轟B2式遺跡:BC4900-4500【∴K-Ah噴火後+500】
※「+」数値はBC5100(紀元前5100年=7100年前)を仮の基準として引用者が付した。
と設定して、鹿児島域のみを整理しています。次の図です。
九州南部におけるK-Ah噴火後の遺跡形成の推移 ▲:西之園式遺跡 ●:轟B1式遺跡〔後掲桒畑〕 九州南部におけるK-Ah噴火後の遺跡形成の推移 ●:轟B2式遺跡〔後掲桒畑〕
K-Ah直後の西之薗式土器期においては、おおむねK-Ky分布北限ライン以北に遺跡の分布が確認され、より南方では遺跡の分布が確認されていない。このことは、火砕流の影響によって薩摩半島南端部・大隅半島南端部・大隅諸島の生態系が甚大なダメージを受けて、集落形成の空白期間が生じていたことを物語っている。
轟B1式土器期(5100~4900 cal BC)になると、K-Ky分布北限付近だけでなく、南九州本土の南方と種子島で集落が形成されるようになる。しかしながら、薩摩半島南端部の鹿児島県指宿市一帯、大隅半島南端部、屋久島では遺跡は見つかっておらず、当該期に至るまで狩猟採集民の活動は再開されなかったようである。
轟B2式土器期(4900~4500 cal BC)には、薩摩・大隅半島のほぼ全域において遺跡の分布が認められる。種子島では土器が多量に出土したり、明確な遺構を伴ったりする遺跡がみられる。しかし、西隣の屋久島ではこの時期の遺跡は発見されておらず、明確な集落が形成されるのは、一湊松山遺跡の事例(鹿児島県立埋蔵文化財センター編1996)から、K-Ah噴火から約1000年後の曽畑式土器期以降であると考えられる。〔後掲桒畑〕
分かる点をまとめると
①西之園期【BC5350-5100】火砕流(K-Ky)到達域から遺跡が消滅
②轟B1期【BC5100-4900】遺跡増。ただし薩摩・大隅半島南端より南はなお遺跡無。
③轟B2期【BC4900-4500】種子島に遺跡有。ただし屋久島にはなお無。
ということになります。
千年というのは、つまりこの激甚災害地・屋久島を採り、噴火約1000年後の曽畑式土器期まで遺跡が確認できない事実に立脚しています。
ただ、轟B2式遺跡は種子島にはむしろ「多量に出土」しています。上記轟A式の九州分布で分かるとおり、そもそも薩摩・大隅半島南部には遺跡が少ないこともあり、明瞭な判定は難しいと言えます。
かくも左様に、当時の社会状況を推し量るという作業は困難を極めます。特に、噴火後にむしろ増えたように見える種子島の遺跡数は大きな謎です。「千年無人」はそのくらいに推測に推測を重ねた把握であって、要するにほとんど分からない。
まして、鬼界アカホヤ噴火の三倍も古い阿多噴火がどれだけの被害を及ぼしたか、現在の我々の知的技術では想像すべくもないのが現実なのです。
めにかかる雲やしばしのわたり鳥 芭蕉
二次被爆域:寒冷化
もちろん上記は、降灰が地質学的に確認された地域です。火山灰は性状の差はあれガラス質なので、一定濃度以上の降灰を呼気すると肺が破れて死に到るので、火砕流に直接飲まれる地域同様の致死圏を形成しますけど、そうでなくいわゆる「火山の冬」を招くとされます。──というのは、気象への影響は痕跡が少なく十分解明されていません。
気象記録が残る時代では、僅かにタンボラ火山噴火(1815年インドネシア:新人の有史上では最大級とされる) 時の
・西欧や米国東北部で異常低温による飢饉
・初回の世界的コレラ流行(凶作・飢饉の後遺症か?)
・米:1916年、農業不振による東北部→西部移住者急増
などの社会変動との因果関係が主張されているところです〔後掲近藤〕。
1816年夏の気候異常(単位:°C) 1816 summer temperature anomaly (°C)〔wiki/火山の冬〕
ただし、もう一つ桁が大きくなると被爆被害も鮮明になり、皮肉にも把握が容易になります。それは、九州四大カルデラの過去12万年以内の噴火はVEI※※7ですけど、VEI8のトバやイエローストーンの、いわゆるスーパーボルケーノ(超噴火)です。
7〜7.5万年前のインドネシア(スマトラ島)・トバ火山の噴火(Toba event)により、現生人類の個体数は一万を割ったという仮説があります※※※。
一連の仮説「トバ・カタストロフ理論」(Toba catastrophe theory)は、噴火→全球寒冷化→人類激減の因果関係を諸分野の最新の知見から描いています〔wiki/トバ・カタストロフ理論※〕。つまり人類種が絶滅しかけた、という証拠が残されているわけです。
※1998年にスタンリー=H.アンブロース(イリノイ大学教授・当時 Stanley H. Ambrose)が提唱。wiki原典:Stanley H. Ambrose (1998). “Late Pleistocene human population bottlenecks, volcanic winter, and differentiation of modern humans”. Journal of Human Evolution 34 (6): 623?651. doi:10.1006/jhev.1998.
VEI Volcanic Explosivity Indexは火山爆発指数の略。テフラ(≒灰:後述)の量(T立米)を累乗の指数にしたものです。具体的には──
VEI=X:10^(X+4) ≦T<10^(X+5)
(VEI=0:テフラ104 =1万立米未満
VEI=8:テフラ1012 =1兆立米以上)
噴火の機構が不詳でも規模を数値化しやすい、客観的尺度です。一方、静的なマグマはテフラ量に含めないため災害規模に比例しないとの批判もあり、日本からは噴出マグマ質量による噴火マグニチュードが別途提案されています。〔wiki/火山爆発指数〕
20C半ばになって提唱された概念で、まだ一世紀経ていません。環太平洋、特に九州と違い、プレート境界のやや少ない欧米一般には巨大火山は点在してますから、それらの多様な活動を並列する共通のパースペクティブとして構想されたようです。
(上)世界の火山とプレート境界※ (下)中央海嶺の熱水の噴出、ブラック・スモーカー※※〔後掲山賀〕
イメージ的には火山の生産物全てです。
火山性物質が放出され,空中を飛行して地表に堆積して形成されたすべての火山砕屑岩を包括した名称.火山から液体状態で噴出して形成されたすべての岩石をまとめて熔岩と呼ぶことと同様な使用法である.テフラはアリストトル(Aristotle)によって最初に用いられ,ソラリンソンが学問的な語として導入した[Thorarinsson : 1953].火山砕屑物にほぼ相当し,粒度を特定していないため,固化していない一般の火山砕屑物の記述には便利な語である[Schmid : 1981].(略)Tephraはギリシャ語の灰の意味.〔岩石学辞典 「テフラ」←コトバンク/テフラ〕
ただし、定義、つまりどこまでがテフラなのかという点には、先述の固化(≒「他の山」の一部か否か)という点以外にも、「火山由来」というそのイメージのシンプルさゆえに、火山が生んだ熱雲から「二次的に」降った堆積物を含むか否かについても議論が未だ続いている状況です。
当初は火山砕屑流によって運ばれた火山砕屑物質には触れていないが,近年テフラは火山砕屑物と同じと考えられることがある.テフラが空中から降下した火山砕屑物であるか,降下と熱雲による火山砕屑流堆積物の両方に用いるか,ということには議論がある.しかし火山砕屑流堆積物でも固化していなけらばテフラと考えられるという意見がある[Bowes : 1989].〔岩石学辞典 「テフラ」←コトバンク/テフラ〕
本稿でこの点にこだわっているのは、専門家のニッチな分野の議論としてではありません。本稿の興味は二次被爆域へのインパクトですから(第四紀学の立場も本来そうだと思います)、という面では、固化物や熱雲からの再堆積を排除する「火山由来」(≒下記長橋論文で言う「成因的用語」)イメージではインパクト全体を理解しにくい。
ここで,「テフラ」は成因的用語か,非成因的用語かという疑問に直面する.Fisher and Schmincke (1984) では,テフラは粒径によらない,pyroclasticmaterial の同義語である,との記述がある.粒径によらないというのは記載的である.一方,pyroclasticと同義というのは成因的扱いでもある.しかし,ここでの成因とは粒子の形成過程に注目しているもので,粒子が噴火により砕けたという破砕過程を指している(Fisherand Smith, 1991). 地層や堆積物となるためにはさらに運搬・堆積の過程となる火砕降下(pyroclasticfall)や火砕流(pyroclastic flow)や再堆積(resedimentation)が必要である.つまり,テフラ(粒子)もpyroclasticと同様に,粒子の形成過程を示唆するのみで,その地層(テフラ層)は運搬・堆積過程の解釈を含まない.そのため,テフラ(粒子・層)が即,降下火山灰や火砕流堆積物ということにはならない.
他方で,火山灰・軽石・スコリアの単なる総称として,テフラを用いることもあろう.その際は,テフラは記載用語(非成因的)の役割以上の意味をもつことはない.例えば,テフラという用語が広く使われるようになる前は,論文では〇〇火山灰層や〇〇軽石層と記載・命名されていた.これらは,層相(岩相)の性質を示すもので,実際には初生堆積したものも再堆積したものも含まれていることがある.その後,給源近傍と遠方の軽石層や火山灰層が対比されるようになると,それらを総称して〇〇テフラ層と再命名(再定義)されることもある.この際〇〇テフラ層は,層相(岩相)の特徴に基づいた名称の置き換えであり,テフラ層の成因は介入しないはずである.つまり,このような場合のテフラ層は,再堆積したものを含むことがある.〔後掲長橋・片岡〕
※原参考資料 Fisher, R.V. and Schmincke, H.-U. (1984) Pyroclastic rocks. 4 72 p, Springer-Ver lag.
Fisher, R.V. and Smith, G.A. (1991) Volcanism, tectonics and sedimentation. Fisher, R.V. and Smith, G.A. (eds.) Sedimentation in volcanic settings, SEPM, Special Publication, no. 45, 1-5.
イメージを飛躍させて申し訳ないけれど、心理学では、例えば鬱病を治すという際、鬱の「原因」を切除するという純・西洋医学的発想を既に採っていません。そうではなく、鬱をその一部とする関係性全体を再構築する、といういわば仏教哲学的発想で「鬱病を治」します。
シンプルに言うと、純粋な原因も純粋な結果もない。ただ諸事象が関係の系を成している。一の事象が変化しても、系全体が揺らぐこともあれば、他の事象も変化して結果揺らがないこともある。その意味で原因と結果は無い ●●●●●●●● のです。
火山の場合も、特にそれが地球史的イベントになればなるほど、巨大火山の噴火を引き金(の一つ)として地球環境の系が再編成されていく、と考えた方が環境全体への現実のインパクトに合致すると思います。これはある意味、純・西洋思考の産物たるテフラの発想に根本的に矛盾するんですけど……仮に同じ規模・性状の噴火(インプット)が起こっても、同量同性状のテフラ(アウトプット)が生ずるとは限らない。むしろ当然に違うのです。
(原典図1) 火山性堆積物の運搬過程と堆積物の分類 (□四角)過程 (太字)堆積物〔後掲長橋・片岡〕
テフラは一見成因的用語のように用いられてきたが定義や用語法を掘り下げていくと,記載的にも用いられてきた経緯があり,成因と非成因の中庸にある曖昧な用語だと言える.そのため「テフラ」は,研究者間や論文での表現においても,誤解や理解の麒輛が起こりうることを知っておきたい.
図1はMcPhieet al. (1993)によるものであるが,テフラの初生堆積から再堆積までの過程とそれら堆積物の名称をまとめたものとして大変理解しやすい.この図に示されているように,再堆積作用を噴火同時期(syneruptive)と噴火後(post-eruptive)に区分することは重要である.火山砕屑堆積物(volcaniclasticdeposits) は,噴火によって直接に形成されたものと判断がつかない場合や再堆積の可能性のあるものに対して用いられる記載的用語である(Fisher,1966 ; Fisher and Smith, 1991). 火砕堆積物(pyroclasticdeposits)が,火砕作用によって形成された堆積物に対して用いるのとは異なる. 〔後掲長橋・片岡〕
※McPhie, J., Doyle, M. and Allen, R. (1993) Volcanic textures: a guide to the interpretation of textures in volcanic rocks. 198 p, University of Tasmania.
Fisher, R.V. (1966) Rocks composed of volcanic fragments and their classification. Earth Science Reviews, 1, 287-298.
阿蘇外輪山 ※大体同縮尺 (上から)姶良・阿多・鬼界外輪山(相当域) ※大体同縮尺 インドネシア(スマトラ島)・トバ湖に、まあ大体同じ縮尺で日本四大カルデラを並べてみました。数値的には──
トバ・カルデラvs
日本四大カルデラの規模
トバ 長径約100×短径約30km〔後掲ヤマレコ〕
4000k㎡〔後掲日本火山学会(中田節也回答)〕
阿蘇 東西17×南北25km
姶良 東西23×南北17km
阿多 東西25.5×南北12km
鬼界 東西23×南北15km〔(再)前掲Matumoto,1943←後掲藤本〕
大きさを単純に見て一つ桁の違うトバ火山。その直近7万年前の噴火はVEI8で、日本四大カルデラのVEI7とやはり一桁違うのです。
「超噴火」と呼ばれるVEI8クラスでは、ホモ・サピエンスの経験はトバが直近かつ唯一のものです(同VEI8のイエローストーンは約64万年前)。
第四紀巨大噴火の噴出量(球面積:噴出量比)〔後掲高橋〕
テフラクロノロジー(テフラ学)の側面からは、インドを2mの降灰が覆ったとか様々なデータがありますけれども──とりあえず素人的には、トバ・カタストロフィで現生人類が滅亡しかけた、つまりVEI8≒人類絶滅クラス ●●●●●●●●●●●● と理解できればよい。──日本四大カルデラのVEI7はその1/10規模ということです。
もちろん、当時の人類化石からトバ火山のテフラが検出された、とかではありません。トバ・イベントによる人類ほぼ絶滅という仮説は、基本的には、①トバ超噴火推定時期と②寒冷化及び③人類個体数の激減という3つの変化の同時性を整合的に説明するためのものです。──ある意味では、この同時性しか根拠はありません。
従って仮説の確実性を確認するためには、②③の事実確認を経る必要があります。
「星の砂」製品と石灰質有孔虫バキュロジプシナ〔wiki/星の砂〕
②寒冷化:酸素同位体比の分析
何とこの数値は、生物の微化石から分析されます。
石灰質有孔虫と微生物の種類で言うと分からないけれど、沖縄名物「星の砂」がこの生物化石。量で言えば、サンゴ礁に多量に炭酸カルシウムとして堆積しています。当人たちにとっては外部骨格ですけど、人間にはそこに保存される酸素が貴重な「タイムボックス」になってきているわけです。
H2 O水を構成する酸素は、99.8%が電子・中性子・陽子とも8個のO16 (以下「酸素16」)です。ところが、現実の大気中には電子が一つ多いO17 (酸素17)が0.038%、もう一つ多いO18 (酸素18)が0.204%含まれてます〔後掲大鹿村中央構造線博物館〕。このうち通常は極小の酸素17は度外視し、酸素16と18の割合に着目します。
※酸素17で出来た水は重水(重水素水)、18の水は重酸素水と呼ばれます。
石灰質形成の際には、その時点の酸素が保存されます。これが侵食を受けない状態、実例としてはグリーンランドの氷床コアに取り込まれた状態ならば、形成当時の酸素16-18比が判明するわけです。
酸素同位体の種類〔後掲大鹿村中央構造線博物館〕
酸素16-18比が分かると何が嬉しいのでしょう?
酸素18は海水温に比例して増えます。──この仕組みが正直理解しにくいんですけど、海水が蒸発して積雪した際、酸素16の「軽い水」の方が18の「重い水」の方が氷床に取り込まれ易いのだという。結果として石灰質有孔虫内の酸素18は、氷床拡大期(=寒冷期)に増え、縮小期(=温暖期)に減る〔後掲蒲田〕。だから酸素16-18比で海水温が推定できる、のだそうです。分からんけど……まあこれは実際観察で実証されてるんだからそうなんでしょう。
酸素18の氷床取込模式図〔後掲神奈川県立生命の星・地球博物館〕
ただ、地球の温度は定期的に寒暖を繰り返すようになっています。これは天文学的なもので──
ミランコビッチ・サイクル
(Milankovitch cycle)
①歳差運動(Precession)
周期:①-1 1.9万年
①-2 2.2万年
①-3 2.4万年
②自転軸の傾斜角(Obliquity)
周期:② 4.1万年
③公転軌道の離心率(Eccentricity)
周期:③-1 9.5万年
③-2 12.5万年
③-3 40万年
〔wiki/ミランコビッチ・サイクル〕※引用者が項目化
ミランコビッチ・サイクルを決定付ける変化要素とその結果〔wiki/ミランコビッチ・サイクル〕
1920-30年代にセルビアの地球物理学者ミルティン・ミランコビッチ Milutin Milankovićという人が、素人が聞くと錯乱しそうなこの7つの周期の連動が、少なくとも100万年前までの日射量の基本サイクルであることを算式化し、かつ上記の酸素16-18比から分かる海水温変化による実証を経たんだそうです。
──とするともう説明が終わったのかと言えば、そうじゃない。ミランコビッチサイクルから求められる天文学的周期を差し引いた時、なお残る海水温の変化があったからです。これが地球寒冷化とか温暖化とか言うときの尺度になります。
さて石灰質有孔虫の宿す酸素同位体の痕跡をミランコビッチサイクルで補正して、素人的にはもうヘトヘトな作業の果てに研究者が算出した、ここ最近六百万年ほどの海水温変化が次のものです。
(上)過去十万年の酸素18比(黒線:横軸は左が現在) (下)同過去百万年及び六百万年(横軸は右が現在)〔後掲ドローンを飛ばして……、神奈川県立生命の星・地球博物館〕
今後は来ないでね、という願望を込めて、三万年前まで続いた寒冷期を最終氷期と呼びます。この最終氷期、トバ・イベントの時期から始まったように読み取れるグラフです。トバにどのくらい責任があるのか、たまたま間氷期が終わりかけた時期にトバが引き金になって最終氷期が始まったのか、そうした因果関係はまだ議論百出※らしいけれど、とにかく──トバ・カタストロフィの時期に最長二万年ほど急激に寒冷化が進行した、という事実はデータで裏付けられている訳です。
※最も短絡的な仮説ではそうなるけれど、①地域性があった、あるいは②寒冷時期は短かったという反論は多数あります。①の最有力説には、南極の氷床コアにこの気候変動は記録されない、あるいはむしろ温暖化した証拠がある、という主張(Stanley H. Ambrose 1998,BBC. 2003,後掲ナショナルジオグラフィック2012など)。インドのダバ遺跡(インド・マディヤ・プラデーシュ州)に8-5万年前の遺跡が継続していること(Chris Clarkson 2020)。②には全球的には「おそらく10~20年ほど」「100年も続かなかった」〔アナス・スベンソン Anders Svensson←後掲ナショナルジオグラフィック2012〕とし、その説明として高濃度硫黄の結合による早期降下などとする説があります。
③人類個体数激減:ミトコンドリアDNAハプログループ系統樹
現在の多細胞生物の細胞が、厳密にはミトコンドリアを内部共生させていることはよく知られます。素人的に分からないのは、母方の遺伝子系統を追跡できるミトコンドリアのDNAが、なぜ本体細胞やY染色体のDNAより追跡に有効とされるのか、ですけど──ワシが作業した訳じゃない。作業者から言わせると、とにかく系統を追い易いらしい。
また前提を先述するけど、長くならんようにします。ミトコンドリアDNAハプログループの体系研究は、アメリカのネイティブ・アメリカン(いわゆるインディアン)を最初の対象にし、A-Dグループに分割したことから始まります。
※wiki/ミトコンドリアDNAハプログループ 参考資料
[1] Torroni et al. (1993). “Asian affinities and continental radiation of the four founding Native American mtDNAs”. Am. J. Hum. Genet. 53 (3): 563-590.
[2] Núñez Castillo (2021-12-20). “Ancient genetic landscape of archaeological human remains from Panama, South America and Oceania described through STR genotype frequencies and mitochondrial DNA sequences”
グループ名が増えるとアルファベットも後へ進んで、アフリカにはLが割り振られます。
母系(ミトコンドリアDNAのハプログループの分布)から推定した人類伝播のルート ※上がアフリカ。米大陸の中南部略〔wiki/アフリカ単一起源説〕 同 アフリカ ※Ka:千年前(ex. 70Kaは7万年前前)〔wiki/アフリカ単一起源説〕 なぜグループ分けすれば系統樹が推定できるのか?──これもKT法などを実際やると理解できることです。MとNに近似が多いけれど差異もあり、Lはその両者と共通しているとなれば、LからM・Nが分化したとする想像は、共通認識を得られる程度には客観的な直観です。
もちろん実際の遺伝子分析の作業はグルーピング以前に、何番目の遺伝子からの塩基配列が両個体とも「AGCTCGAAT」だとか比較するらしいですけど、やったことないから分んないです。
L・M・Nグループの系統樹〔wiki/アフリカ単一起源説〕
以上の分析で、現生人類がアフリカ南部にルーツを持つことは確定的になってます。残るは、ルーツになる集団が①いつ、②どの位の規模だったか、という点の解明です。
遺伝的多様性の理論は、人間のみならず動物種一般に多数の事例から研究が進んでいます。この場合はボトルネック効果とか瓶首(へいしゅ)効果とか呼ばれるもので〔デジタル大辞泉 「ボトルネック効果」←コトバンク/ボトルネック効果〕 、遺伝的な均一性からその集団がいつ頃どの位に「滅びかけたか?」が分かる。遺伝子配列が数値的に処理できる段階では、分析が統計的に行える。要するに数列の部分一致から数列間の類似度合いも数値化されるから各数列の関係、どれがどれと何世代離れているのか分析できる……という仕組みは分からなくもないけど、やはり具体的手法は専門的過ぎまして……
①時点については、「ヒト3人の配列間における同義置換数およびDループ領域の置換数と、それぞれの塩基置換速度に基づき各分岐世代を推定した」ものだそうです。ほうほう、なるほどなあ。
ミトコンドリアDNAの中で塩基置換が頻繁に見られる領域(Dループ領域)における塩基置換数(遺伝距離)とそれぞれの置換速度に基づいて、現代人の共通祖先の分岐年代(T1、図15)を算出した。この共通祖先の年代は一四万三〇〇〇プラスマイナス一万八〇〇〇年前と推定された。この推定年代は、分岐年代に付いている誤差がきわめて小さいことから、推定値の信頼度はかなり高いと考えられる。ヨーロッパ人と日本人の共通祖先の年代(T2)は、七万プラスマイナス一万三〇〇〇年前である。〔後掲遺伝学電子博物館〕
図15 アフリカ人、ヨーロッパ人、日本人の系統関係と分岐年代。
T1:ヒトの共通先祖の分岐年代
T2:ヨーロッパ人と日本人の分岐年代〔後掲遺伝学電子博物館〕 というわけで(???)、②集団規模についても遺伝子配列による同様の統計学的分析で、その集団が「滅びかけた際の規模」を求めうるみたい。ほうほうほう。
トカゲハゼの保全を目的とした遺伝的多様性の調査〔後掲イデア㈱〕
──ここで突然行き止まりました。トバ・カタストロフィ同時点で現生人類が2〜30千人まで減った、という研究の原典が、どうしても見つからない。英語wikiに次の書籍は見つかったので、おそらく世俗書としてはこの「先祖の物語」が世間に紹介した本らしいけど──
[14]Dawkins, Richard (2004). “The Grasshopper’s Tale”. The Ancestor’s Tale, A Pilgrimage to the Dawn of Life. Boston: Houghton Mifflin Company. p. 416.
この本は下記英文の出典14の書籍です。
the human population was reduced to perhaps 10,000–30,000 individuals [14] when the Toba supervolcano in Indonesia erupted and triggered a major environmental change.〔wiki/Population bottleneck〕
Richard Dawkins & Yan Wong”The Ancestor’s Tale: A Pilgrimage to the Dawn of Life” つまりwikiはこの本の紹介として1-4万人と書く。2千人はどこだ?──なんか南京大虐殺の犠牲者数みたいな迷路になってきました。そもそも、人類生存者数一万人というのは「復活の日」(映画では863人)での南極生存者数と同数で、おおッ小松左京は予知能力者か?と思ってしまったり──とにかくいくら掘っても「出典」らしいものが見つかりません。
トバ・イベント中の人類ほぼ絶滅説の読み方
考えてみれば、「絶滅寸前人類人口」数は遺伝子の多様性から統計的に求めたもので、桁くらいまでしか積算できなくて当然です。
でも論理的な穴はそこではありません。ネット上にもちゃんとその指摘の記述は見つかりました。
ユーラシア大陸に出た現生人類の祖先は、たしかに数千人〜1万人程度だったのだろう。(分子進化学の成果を尊重する。)ただし、それは、祖先の数だ。一方、祖先ではない人類が、アフリカには大量に存在した〔後掲Openプログ〕
確かに、現生人類のルーツ個体数が一万人だったことは、「アフリカには大量に存在した」ことを否定できません。そもそもアフリカ単独起源説は、ルーツ集団を訪ねる議論なのですから。それが年代の一致からトバ・イベントと組み合わされた結果、「ルーツ集団以外の人類」も滅んだことになってしまってます。──ヒトが繁栄するアフリカから、新興宗教的な孤立集団が出アフリカして、たまたまその子孫が大繁殖したのかもしれないのです。
wikiの和訳をグーグルにさせたらトバ・カタストロフィをこう訳してくれました。〔wiki英語版〕 日本語wikiの「ボトルネック効果」からはなぜか消されてるけど、英語wikiには次の記述があります。
トバ後の「急速寒冷化」説は、先述のとおりかなり否定説が勢いを増しています。
However, subsequent research, especially in the 2010s, appeared to refute both the climate argument and the genetic argument. Recent research shows the extent of climate change was much smaller than believed by proponents of the theory.[17]
[17] “Doubt over ‘volcanic winter’ after Toba super-eruption. 2013”. Phys.org. 2013-05-02. Retrieved 2015-10-31.
【Google自動和訳】しかし、その後の研究、特に 2010 年代の研究では、気候の議論と遺伝の議論の両方が否定されたようです。最近の研究は、気候変動の範囲がこの理論の支持者が信じていたよりもはるかに小さかったことを示しています。[17]
現在トバ・カタストロフィの直接原因と仮定されるのは、トバ火山灰が引き金となったかもしれない長期の寒冷化「long bottleneck 長いボトルネック」です。一個体に「寒くなったな」と感じられる短期レベルのものではない、という考え方です。
In 2000, a Molecular Biology and Evolution paper suggested a transplanting model or a ‘long bottleneck’ to account for the limited genetic variation, rather than a catastrophic environmental change.[8]
[8] Hawks J, Hunley K, Lee SH, Wolpoff M (January 2000). “Population bottlenecks and Pleistocene human evolution”. Molecular Biology and Evolution. 17 (1): 2–22. doi:10.1093/oxfordjournals.molbev.a026233. PMID 10666702.
【Google自動和訳】2000年、分子生物学と進化の論文は、壊滅的な環境変化ではなく、限られた遺伝的変異を説明するための移植モデル、つまり「長いボトルネック」を提案した。[8]
この説で「2千人」という数が出てきてます。場所は「sub-Saharan Africa サハラ以南のアフリカ」に限定してですけど、10万年ほどのジワジワ来る寒冷化の中で2千まで個体数が減った可能性を示唆してます。
This would be consistent with suggestions that in sub-Saharan Africa numbers could have dropped at times as low as 2,000, for perhaps as long as 100,000 years, before numbers began to expand again in the Late Stone Age.[18]
[18] Behar DM, Villems R, Soodyall H, et al. (May 2008). “The dawn of human matrilineal diversity”. American Journal of Human Genetics. 82 (5): 1130–40. doi:10.1016/j.ajhg.2008.04.002. PMC 2427203. PMID 18439549.
【Google自動和訳】これは、サハラ以南のアフリカでは、後期石器時代に再び個体数が増加し始めるまで、時には 2,000 個体の個体数が減少し(ママ)、おそらく 10 万年もの間個体数が減少した可能性があるという示唆と一致します。[18]
デカントラップ噴火による恐竜絶滅説のイメージ図〔後掲Yahoo!ニュース〕※Keila DePape”Recurring volcanic winters during the latest Cretaceous: Sulfur and fluorine budgets of Deccan Traps lavas”,Science Advances
トバ・イベントの議論の推移は、隕石による恐竜絶滅説のそれに似てます。恐竜絶滅も、現在の通説では巨大隕石によるインパクトが超長期の寒冷化の引き金あるいは複数要因の一つになったと考えられています。このレベルの、つまり地球史に残るクラスの巨大異変は、生物一個体が知覚できるようなものではそもそもない。
ここまで素人がしつこくトバ・カタストロフィを追いかけてきたのは──まさに上記の点を確認したかったからです。トバの1/10規模の日本四大カルデラの活動も、これに準じた地球史的イベントでしょう。一個体、つまりある時代の生活者にとって一大事である「◯◯期縄文文化の減退」や「◯◯大飢饉」と、「◯◯カルデラ噴火」「◯◯山噴火」との直接の因果関係は ●●●●●●●● 、原則的には無い ●●●●●●● のです。
前者にとって、後者はあまりに瑣末過ぎる。
簡単に言えば、如何に知的生物でもあんまり驕り高ぶらない方が好い。トバ・イベントの各分野のデータ分析者はそれを骨身に染みた上で言語化していると感じます。それを世俗が超訳した「トンデモ本」的な言葉が溢れ過ぎてます。巨人たちの活動は、我々一生物の時空を何百倍かしたところにある別次元のものなのですから。
単純にVEIを基にトバの1/10の噴火が日本四大カルデラのものだと考えると、それは要するに人類滅亡クラスの ●●●●●●●● 一割ほどの異変 ●●●●●●● だったと理解すればよい。
それは一次的な噴出灰や火砕流以外に、二次的な寒冷化など想像を絶する広域被害を含めると(上記展開部内のトバ・イベントの推定からも)どのくらいの長期にわたったか分からないから、直後の隣接地域性(種子島)に遺跡があることで、「噴火の影響がなかった」とも言い切れません。
ただトバ・イベント時の短期の寒冷化については
【平均気温】地球全体で▲10~15度
【降水量】半減(水循環全体の低下による)
という状況が数年続いたと算定されるといいます〔後掲臥龍塾〕。その1/10というとどうなるのか、やっぱりよく分かりませんけど……。
結局、追ってみてよく分かったのは、「火山の冬への備え」みたいなネット記述は根本的にナンセンスだということです。それが起こった時には、長期で複雑に過ぎ、一生物個体の知覚できない、ほとんど数学的な事象になります。備えることなど出来はしないのです。
まくとぅーそーけー なんくるないさー