m17em第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m金峰withCOVID/鹿児島県

「AMU READY?」
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※二つ鳥居の南方神社まで

行程①-1:超噴火を覚えてゐる大地

湯・中村温泉が……3/1から休館!!
 再開日発表なしに「これまでに賜りましたご愛顧に対し謹んで御礼申し上げます。」と紙が貼ってありました……。
 鹿児島市の降灰量は、朝の車のフロントガラスの汚れ方で測ることができます(下記写真参照)。市内銭湯でも、お背中が紋紋なおじさんたちが「折角風呂入ったのに……外へ出るとまた髪が……」とヘアを気にしておられました。いや、それ位に強い降灰日和の本日です。

灰だらけの車のフロント
ちなみにMBC南日本放送その他、鹿児島では降灰予報を報じてます。

次鹿児島の3日目は、データ整理と図書館での史料探しに充てることにしました。
 県立図書館は「祝日だから……」とのことで17時閉館でしたけど──鹿児島県は、昭和43(1968)年に鹿児島県維新史料編さん所を設置,「鹿児島県県史料集」という百冊を越えるとんでもない量の史料集を今なお編み続けておられるらしい。ネット上にPDFでも公開してるけど、ここではテキストの検索はできない。ただ、もし史料名さえ分かれば、これでかなり探索は可能なのです。
鹿児島県史料集 « 鹿児島県立図書館(本館)
鹿児島市街〜加世田のこのバス路線はGM.その他ではヒットしないけれど、なぜか確かに存在します。〔後掲加世田高校だより〕

朝,鹿児島中央駅東16乗り場。
 時刻表を確認すると……え?加世田行きが0808になってる……理由は知らんけど,まあ僅か10分の差です,これで行こう。
 このバス路線は、前回加世田BTでたまたま見つけ、気の迷いで飛び乗ってみたら物凄く便利だったルートです。
 0809,加世田準急に乗車。天は僅かに霞むも雲疎ら。🚌
838、谷山を過ぎバスは西へ向く。南高校前。「谷山善き者幼稚園」?──今調べたら「善き牧者」でした。
 諏訪。この地名はなぜか頻出する。──これは本章末の段階でイメージできました。建御名方つながりです。
 坂になる。山並みがぼこぼこしてきました。バスはそれを蛇行しながら抜けていく感じです。まあザクッと言えばシラス台地です。
 西谷山小前。
 いなほ館の看板。──これは金峰町の「温泉交流の郷南さつまいなほ館」。この日あわよくば……と思ってた温泉でした。
🚌
845、勘場。──とメモしてるけどそんな地名はない。さつま揚げの「勘場蒲鉾」の看板でも見たんでしょか?
 阿多火砕流という看板。──福元町の阿多火砕流露頭のことです(→GM.)。巻末詳述。
 さらに看板・大当石垣群?──以前訪れた笠沙町の「大当石垣群の里」のことでしょう(→m172m第十七波mm大当)。
伊作峠(伊作峠)のバス停〔GM.〕

848,緩い下りに入る。地名は中山。バス停・平治。
 再度緩く登って伊作峠。0853。他のシラス台地と地形が全く違う。「ようこそ日置市へ」看板。
 再び下る。今度は急です。住所は吹上町になる。0858上与倉(かみよくら)。
 藤元。やや大きな集落です。骨董品市と直売所。畑は小さいようだけど林業集落でしょうか。
 0900,乙女月(おとめづき)。日本語由来なのに微妙に語感の違う地名が多い。
 忽然として藤元工業団地。
 0903,駒田(こまんだ)。飛び飛びだけど集落は絶えない。この山道は結構古いようです。
 野首入口という物騒なバス停。平坦地が突然広がり始める。
🚌

行程①-2:尾下排水の護る大地

906。下与倉(しもよくら)、「上」からかなり遠いけれど……そんなに広い地域名なんでしょか?──与倉は角川日本地名大辞典に「中世には伊作荘内の伊与倉名といわれていた土地で、川も伊与倉川」とあります。
 0907、平仮名で「ふもと」。そのままの意味合いか?「亀丸城跡」看板。──「ふもと」はもちろん実質的な薩摩の外城「麓」です。
 0910、東本町。ここは北の伊集院からバスで通った記憶がある。中原交差点。吹上郵便局。日置市吹上支所。バス停・伊作。この伊作というのが広域名にもなってるようです。「旧南薩鉄道伊作駅跡」看板。ああそうそう,西本町をなぜか二度通るんだった。
 0916。伊作川を越えてバス停・宮坂。
 バスの行き先アナウンスに下車バス停「金峰支所経由」が入り始めました。
 苙岡。「おろおか」と読む難漢字のバス停名。南さつま市に入りました。道の駅きんぽう木花館1.5kmの看板。
 堀川を越える。なだらかに登って下る。バス停・田布施麓(ふもと)。0925。
 尾下(おくだり)。
 0927、金峰支所前下車。トイレ、トイレは?とそばの文化センターに急ぎました。

▲0940金峰集落(尾下)の道

?持躰松遺跡(金峰町宮崎)じゃないの?何で金峰支所?──という疑問というか当てはずれというか轟々たる非難とかも多々あると思いますけど、まあ聞きなさい。
 史学者の脳に何万という「?」を撃ち込んだこの遺跡の現状はこんならしい。
これが持躰松遺跡だ!in2024〔GM.〕

は金峰町のどこへ行くつもりじゃあ?!と広島弁で怒声が聞こえそうだけど──そこはそれ、ツーリストの直感ですよ、いつもの。わはは。
 という説明で読書の安心感を十分に回復したところでトイレから出てきまして、改めて周囲を眺めると──おおっ!!
 田んぼしかないぞ!
0946金峰・尾下集落の水路

あ……金峰集落を歩いてみようじゃないか。どーせ鹿児島には裏切られっぱなしだし、それはもう表題(:笑みぶあつく隠す)で標榜しとるし……と気を取り直して歩を進める。
 普通の住宅地だけど石材多用。畑地には水路が多い。
 で?「矢石」というのを探してみたんだけど……見つかりません。早くもおみくじの「小吉」を引き当てた気分です。
尾下など金峰の4つの排水機場〔後掲鹿児島県/流域下水プロ〕
之瀬川は暴れ川です。昭和58年6月には、床下浸水16百戸を越える加世田水害を起こしてます。そこで湛水防除事業──排水条件の悪化した農地の土壌等改善が戦後の早い時期(昭和50年代)から行われてきたようです。
 農地としては極めて優良、超早場米「金峰コシヒカリ」の産地です。──2023年の稲刈りのニュースは何と7月23日〔→南日本新聞/黄金色に輝く「金峰コシヒカリ」 超早場米の稲刈り 真っ盛り 南さつま〕。
「昭和56年度に完了した湛水防除事業整備」画像の尾下排水機場の除幕式?〔後掲鹿児島県/かごしまの農業〕

行程①-3:野間vs金剛 飛び交う矢石

石の方は、けれど見つかりません。先へ。
──後で調べ直すと、何を勘違いしてたのか……金峰支所の北の丘をグルっと回って徒歩8分ほど、尾下農村研修センター前でした(ルート:GM.)。

 大昔、金峰山の神様と、野間岳の神様が戦いをした時、金峰山の神様はススキの穂を矢のように投げられた。金峰山から投げたススキが野間岳の神様の目にささって野間の神様は片目になった。また野間あたりの伝説では、野間岳の神様の投げた石が金峰山の肩にあたって、(三の嶽の方)そちらの肩が落ちていると云う話がある。

尾下の矢石(尾下農村研修センター前)
 その投げた石が金峰山まで届かず、途中で落ちたのが矢石だと云う。その矢石は、高橋の室屋商店前の曲がり角に一基、尾下の農村研修センター前道路に一基、中津野の加治屋英二氏所有の山の下に一基、計三基ある。〔後掲南さつまの観光案内/上古 伝承〕

 この石は次章で再度噛みます。これはまず間違いなく、野間岳と金剛山の神様が互いの体の一部を失うほど激しく争った、という記憶を伝える伝承です。

▲1001金峰町尾下の石垣

さつま市商工会館から高架下を東へ。0958。高架下は何か、鳩の巣になっとります。
 家並みの石垣は、半ば麓の感じを残すようにも思えます。
 尾上一公民館。1007。南の丘陵は予想より大きい。あれの峰を越えるのか?

▲1006尾下から金剛山
おそらく同じ方向を空中から〔後掲南さつまの観光案内/ドローン空撮2021.11→youtube

009、三叉路に出る。
 1013、多夫施神社。登り口に招魂碑。
 この多布施は地名※でもありますけど、由緒は諸説あり不明です。
※地名の用字は「田布施」

田布施の地名は、当時鳥獣の害を防ぐために作られたタブセ(番人小屋)から出たとも伝わる。〔後掲南さつまの観光案内/上古〕

▲1014参道

行程①-4:受鬘命うけのりのみことの勝手の森

 夫施・多布施とも書く。薩摩半島西海岸,万之瀬川右岸下流域。「和名抄」薩摩国阿多郡四郷の1つ田水郷がこの地に比定されている(県史)。田水は田伏の誤りで,田を耕すための小屋田盧(たふせ)に起こる地名か。「三代実録」貞観15年4月5日条に「授薩摩国正六位上多夫施神従五位下」とある多夫施神社の所在地である。同社は近世勝手神社と称し(三国名勝図会),明治になって郷社多夫施神社となった(県地誌)。〔角川日本地名大辞典/田布施〕

 貞観15年は西暦870年です。島津氏入域より二百年も早い。
 創建はもちろんさらに古く、養老年中(一説には七二四年)古名「火燒大明神」とも伝わります〔後掲鹿児島県神社庁/多夫施神社〕。だから多分火の神(ヒヌカン)で、土地柄、火山が疑われます。ただ870年の従五位昇格は──この時期に富士山が貞観の大噴火と呼ばれる、論者によっては宝永噴火に並ぶ歴史年代の二大噴火と称す異変が起きてます。けれどこれは不確かとする人も多く、当時の国土の最西端たる薩摩までが対象になったとも確定しにくく──理由は推測しかねます。

※「「宮下文書」中の3史料(『高天原変革史』,『寒川神社日記録』,『噴火年代記』)に「(貞観)十二庚寅年七月,富士山中央依り噴火す」(『高天原変革史』)などの類似した内容の噴火記事がある.貞観十二年当時の正史である『日本三代実録』には欠落巻がないにもかかわらず該当する記述がないので,信頼性の低い噴火記事と考える.」〔富士山歴史噴火総解説(第2版,2007年3月)小山真人 静岡大学教育学部総合科学教室/○貞観十二年(870)噴火?〕

三国名勝図会(勝手神社)

掲(→角川)のとおり「勝手神社」名は三国名勝図会に確認されます。同記述に曰く──

永禄三年、梅岳君再興あり。勝手大明神の五字を書いて扁額とし給ふ。扁字摩滅す。故に元禄九年十一月十五日、是を模写し、銅製して華表に掲く。(略)神社啓蒙曰く、勝手神社は大和国吉野郡吉野山に在り。祭る所の神一座、愛鬘命(うけのりかみのみこと)。(略)愛鬘命は勝手大明神なりと。又、京の愛宕山にも、勝手社あり。〔三国名勝図会←後掲古代文化研究所〕

「勝手」は古語で「意のまま」、つまり中興者たる島津忠良(日新公、号:梅岳君)により法規制外の権威を与えられた意かとも思えたけれど、図会は愛鬘命(うけのりかみのみこと)の社の一般呼称だとしています。
 なお、コロナ終息を切に祈願してました。

多布施神社もコロナ終息祈願

面本殿の右に2,左に3,奥両脇に各1小社。
 人の姿はないけれどシメ縄は新しい。長く拝まれてきた社です。
 由緒には──

創建は724年とも伝えられる。(略)「薩州神社考」によると,祭神は受鬘命(うけのりのみこと)とされる。(略)永禄3年(1560年)島津忠良によって再興され,『勝手大明神』の扁額をもうけた。(略)
 かつては浜下りと呼ばれた大祭が行われ,白装束の若者二十数名が交替で神輿を担ぎ(略)一団が高橋潟蔵の峠まで出向き,再び帰還した。〔案内板〕

「浜下り」については次章で深掘りします。鹿児島県下には、隼人町の鹿児島神宮や姶良市の帖佐八幡神社などの各所にあった風習です。

多布施神社本殿〔GM.〕

掲三国名勝図絵(→参照)には、やはり勝手神社として描かれてます。目を引いたのは、その本殿奥左手に「大明寺」という施設が付設されてることでした。向かってみると、今も敷地らしき場所はありました(下の写真)。
 この草地だったとすれば……かなり大きい床面積だったと思われます。廃仏毀釈で寺だけが破壊されたとしても──どうもキレイ過ぎます。ただそれ以上の推測が難しい。
裏手「大明寺」跡?

地に入ったついでに1032、そのまま裏へ抜けて亀が崎城を目指してみます。
 けれど?すぐ西の道はこの野道しかないけれど……これでいーの?
 農作業のおばあちゃんに訊く。ボソボソと曰く「出れます」とのこと。そのまま進むと──

不安な野道を進む。

040、まさかと思うほどちゃんとしたアスファルト道に出た。北行。
 電気柵?誰用なのだ?やっぱり──クマとか?イノシシとか?
 1046、ゴッツい石垣の三叉路を右折東行。
 1048、手前に石橋のある苔むした神社。看板はないけれど位置と地形からして……これしかないよな、亀が崎城。
 登る。

行程①-5:大中貴久産みし亀城

物凄く不安になる階段

の鳥居上部に「亀城神社」,間違いない。参道に「大中公誕生之地」碑。
 小中高は卒業したけど、大中公は誰よ?
「亀ケ城跡」由緒看板に「忠良の長子貴久は,1514年この城で生まれた。境内に現存する両亀石および荒神祠は,貴久誕生にまつわる伝説を伝えている。」とあるから大中公とは何と島津貴久らしい。

神社の三国名勝図会

内板に引用された三国名勝図会には「御産荒神祠」として載ってる。「御産」のための祠なら貴久生誕と同時期か後付けでしょう。
 両亀という岩の他に祠なし。ホントに城跡のみだと思われます。この岩には賽銭箱に島津十文字。

賽銭箱+島津紋。何かしっくり合う。

れれ,ちょっと待て?
 右奥に社一つ見えるぞ?
 しめ縄,榊とも新たです。つまり貴久とは別に拝まれてる形跡があります。
奥の祠は苔生して

はり記名はない。
 この「神社」は基本的に、外来者を喜ぶ感じで出来てないようです。沖縄の御嶽っぽい。
 けれど、この祠が荒神祠でしょうか。
 静かな山中。小山の頂近く,周囲の地形の凹凸も加えると──特異な強さの城だったのかもしれません。
 1105、南方神社を目指す。
1119「癒しの郷 愛」──ネーミングは許す。でも人家はないぞ?

行程①-6:金峰 観音 鳥居は並ぶ

坂になりました。道端で,堪らず一服。
 これはキツイ!でもこの金剛山はもっと遥かに深い懐を見せてます。──今ようやく調べると……1125m?そりゃ高いわな。
 上記「癒しの郷 愛」を過ぎ、辺りは台地状になってきました。尾根道らしい。
 と?唐突に異様なモノが見えてきましたけど?

1123並び鳥居

辺のトリイ基地まで来てしまった……とは思わなかったけど、二つの鳥居?
 金峯山観音寺金蔵院の跡とある。

蔵王権現社(金峰神社)別当寺,十一面観音を本尊とす。(略)18世紀中ごろ金蔵院住職の快宝が著した金峯山縁起由来記には,百済(略)僧日羅[?-583年]が浦之名に創建したとの記事がある〔案内板〕

 今調べ直しても全く分からない、古代修験道の寺院……らしい。

 金峰山観音寺金蔵院は、金峰山を祭る金峰神社の神宮寺。日羅が594年に建立したという伝説がある。史実としては、阿多忠影が1138年に私領を寄進したのが初見。(略)現在は、浦之名日枝神社の敷地となっており、境内に観音寺時代の二十数基の僧侶墓・宝篋印塔が残る。〔後掲南さつま歴史遺産/観音寺跡(日枝神社)〕

観音寺時代の二十数基の僧侶墓・宝篋印塔〔後掲南さつま歴史遺産/観音寺跡(日枝神社)〕

──応、社内を歩いた記憶はあるんですけど、全く記録してない。上掲の観音寺時代の遺構も、見たのかどうだか分かりませんのです。
「右手のこれは茶畑でしょうか?」──とか変なことしか気にしてません。
 肝を抜かれて位置情報を確認。「何と!並び鳥居は南方神社とある。何ヵ所もあるのか?」──とまた、素人みたいなメモを残してます。薩摩だぞ?南方社だらけに決まっとるじゃろ?
 1123。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※二つ鳥居の南方神社
〜中津野・南方神社

行程②-1:浦之名(うらのみょう)には港の幻

つ鳥居前のT字を、とにかく左折する選択をしました。
 1132。団地を抜けて鹿児島加世田道。彼方に遥かに伸び上がる独立峰は野間岳か?

多分近くをスルーしてる浦之名「田の神」〔GM.・2023年〕

手東側を「いなほ館」の矢印が指す。──実は、この「温泉交流の郷南さつま いなほ館」での入湯も、事前には視野に入れてました。でもこりゃあ……とても行く気にならんぞ!!
 へなへなです。でも歩く他の交通手段はありません。
 加世田道を右折。
1141鹿児島加世田線の側道をトボトボと

メた!加世田道には一応歩道があります。
 歩きやすい。でもそりゃいいけど、明るい農村なのに殺風景です。
──今確認すると、この道路の付近の地名は浦之名。「うらのな」じゃなく「うらのみょう」と読むこの地名、角川日本地名大辞典ではここと川内、宮崎市近くの3つしかヒットしません。
金峰町浦之名付近マップにゴニョゴニョメモ入り

の地図の通り、かなり大回りして歩いてしまってますけど……この時の浦之名の光景が殺風景だったのは、意味がありそうです。
 道が直線で、かつ直交してます。この整然さは、金峰町の農地部一般に言えますけど、浦之名のそれはやや曲がりが細かく、生成年代が古いか原地形が狭隘かの可能性があります。
 元の乱雑な氾濫原を、現代になって機械力で整地した土地だからと想像されます。
「浦……」という地名からは、あるいは原地形の氾濫原に、小舟が寄せれる程度の湾入があったかもしれません。
 バス停大田小前。進む。1140。

行程②-2:昔お船の出た高台

1146大田集落

に分岐。ここから集落へ入りました。
 金峰町大田分団消防団車庫。
 1151、道端に地蔵。すりきれたレリーフが火の神にも見える。──GM.上には「中津野 馬頭観音と水神様」とある。これを信じるなら、いわゆる「田の神」ではなく観音のです。また、先の浦之名「湾」を想定すれば海民の観音信仰がスポット的に残存するのも有り得る事態です。

1152「中津野馬頭観音」

の傾斜が増す。先の尾根と同様、それなりに足に来る斜面を成してます。
 しかも……側道がなくなりました!結構な交通量とスピードで車がビュンビュンです。でも、そろそろ──。

▲1154最高所へ!

根を越えたらしい。ゼイゼイ。
 1157、信号機のある最高部から左折。
 中津野の集落──昭和25年に河口貞徳が発掘した中津野遺跡の地点です。ここは金峰山中岳北西麓、標高30mの台地で、年代測定は弥生終末期。十分な調査ではなかったらしいけれど、径約5m、3段に掘り込んだ竪穴が発見されたという〔角川日本地名大辞典/中津野遺跡〕。
 という所までだと、「残念な遺跡」だったわけですけど──

中津野遺跡指定範囲〔後掲鹿児島県埋文〕
舷側板全体写真〔後掲鹿児島県埋文〕

008(平成20)年の国道改築工事で、再び遺跡の一部が日の目を見ます。
 発掘されたのは、国内最古級の古代・準構造船の舷側板。推定年代は少し遡って弥生前期(詳細は下記展開内)。



 食い違い交差点で正午の鐘を聞く。こっちかな?さらに左折。

行程②-3:全ての諏訪は中津野に集う

中津野集落内の道

209。集落が切れ、道がS字になってます。その曲がりの暗がりに──
 南方というのはどこも並び鳥居なのか※?1211、中津野南方神社到着。

※後掲八ヶ岳原人で詳述してありました。薩摩の南方・諏訪神社系では「並立鳥居」と呼ばれ珍しくないようです。三国名勝図会のいくつかにも平然と描かれており、どうやら神体が二つあるから各々に対応する鳥居を建てる、という慣行がなぜか薩摩にだけ生まれたようです。多くが神体は建御名方命と事代主命で、この両神を並立させることに何かの価値を見出しているらしい。
▲1210南方神社の並立鳥居に到着

地なのに階段面はなく,平地の傾斜が続く。階段は二ヶ所のみ。
 これは、神体を高所に置く発想が、最初からなかったように感じます。

▲1212参道

名諏訪神社という。祭神は健御名方命,事代主命(略)
昔,諏方社というのは花瀬に2,白川に2,宮崎に2,その他大部落にあったが明治初年廃仏毀釈の時すべて中津野南方神社に合祀されて一社になった。〔案内板〕

 そんな統合を経たにしては、配置が整然としています。合祀したことにした、ということなのかもしれません。

右脇祠

道に、昭32の改築記念燈籠がある。見た目でも建物はその位の古さでしょう。
 祭壇前両脇に小祠各一柱。

行程③-1:帰る道にも水神祠

1224古樹

奥のイヌマキが、何と市名木・古木に指定されてます。
 しめ縄あり。──樹木自体が拝まれてます。
 鳥の声,二三響く。清々しい。

▲1228帰路の参道

ったのはこれだけでした。日本の他社に比べ、何ともシンプルです。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

 1225、西へ引き返す。
 1232、水神祠。

水神祠

い違いを左折南行。1239。
 中津野までの雰囲気と一転、山深い道になりました。迷ってないよな?

行程③-2:大山祀様を遠く眺めて

石垣に小花

「金峰町」の杭

峰町(きんぽうちょう)は、1956(昭和31)年に阿多村と田布施村が合併して発足しました。町名の由来はもちろん金峯山から。
 つまり町名としては新しいんですけど──発足三年目の1959(昭和34)年8月6日、台風第6号の豪雨に襲われ、土砂崩れで住民7人が生き埋めの大災害に見舞われます。

金峰町旗と町章。いずれもモチーフは金峰山。〔wiki/金峰町〕

 発足46年、半世紀を経ない2005年11月7日、加世田市・大浦町・笠沙町・坊津町と合併して南さつま市を形成。行政単位としての金剛町は消え、住所町名になって現在に至ります。
▲段々畑の山

251、ポツポツ家屋が見えてきました。
 前方左手,田植え直後の青々とした水田の向こうに,岩の段々畑の山。何だろう?──あるいは土砂か鉱物かの採石でしょうか?

大山祀神社遠景

じく水田越し遥かに大山祀神社。……ちょっと寄る気になれませんでした。ただ、神話上もこの場所に木花咲耶姫の父(古事記)・大山祇というのは気になるし、何より考古学上ここからは古代人が崇拝したらしき盤座(メンヒル)が存在します(次章参照)。
 でもヘバってた当時は……対面の山道ばかりを探して……これだろう,右折。
 眺望のきかない道を抜けると──おおっ!!いきなり車道、そして目的の昼飯屋に着いたぞ??

行程③-3:山のホルモン喰らって帰ろう

金剛町新山の豪華レストラン「山の駅」〔GM.〕

1309山の駅
ホルモン定食650
……正直なところ、絵としてはパッとしない店でパッとしないお膳を、でも腹へってたんでガツガツと喰らったので……全く記録を残してません。※でも一番人気みたいよホルモン定食、なぜか。
 さらに500mほどで阿多バス停に着いたのは1358。1416の便がありました。怖いことに、調べてたその前の1316便はなかった。
 バス停のすぐ脇にも古祠。これもまた記名なし。
バス停脇の無記名の石祠

ルーしちまった温泉※「いなほ館3.5km」の看板が写ってますけど気にしないことにして──1419、鹿児島行準急乗車。
 次のバス停名は塘(とも)。熊本の電停にある地名です。川や池の岸の土手を指す古い漢字ですけど──万之瀬川水系にも用例があるのでしょうか?
 チクチク刺激されっ放しで、結局何も分からない。エラい場所に何とも無防備で飛び込んだものです。

※GM.を見ると、風呂自体はかなり大きい施設です。ただ、いなほ館の口コミには営業日が「祝祭日のみ」とか「土日祝のみ」とか載ってる。電話して行った方が安全なようです。特に徒歩でわざわざ向かう場合は。

「イエローストーンの地下の3Dモデル。幅72キロ、深さ660キロの熱い溶岩のプルームが“超巨大火山(スーパーボルケーノ)”の地下で上昇している。」Image courtesy University of Utah〔後掲ナショナル ジオグラフィック2009〕
※目盛りはマイル表示 ∴底辺面は約5km四方

■レポ:準・超噴火跡としての阿多カルデラ

 日本列島では数千年に1回、文明を滅ぼすようなカルデラ破局噴火が起きます。姶良カルデラ、鬼界カルデラ、阿多カルデラと、鹿児島県に過去の実例が多いのは不気味です。〔後掲ぐるっとおおすみ/阿多カルデラ〕

……不気味どころちゃう!
 いや流石に薩摩隼人は肝が座った文章を淡々と書く。上記3カルデラが「数千年に1回」「文明を滅ぼ」してきた実績は、以下のようなものです。──もちろん全てではありません。現段階で通説化しているものだけで、です。

11万年前 阿多(北部)カルデラ
 →阿多火砕流発生
3万年前 姶良カルデラ
 →入戸火砕流発生
73〜6300年前 鬼界カルデラ
 →「アカホヤ」噴出
5500年前 阿多南部カルデラ
 →池田湖(池田カルデラ)形成
〔後掲ぐるっとおおすみ/姶良・鬼界・阿多カルデラ〕

鹿児島県内三カルデラの位置(現通説)〔後掲ぐるっとおおすみ/鬼界カルデラ〕※黒字の一部及び青字は引用者

 観光客的に言えば──
阿多:池田湖・開聞岳が西外輪山とする
姶良:桜島が南外輪山
鬼界:硫黄島が西外輪山
という位置です。
 1943年、火山学者・松本唯一さんが九州の4つのカルデラを世界に発表します〔Matumoto.t:The four gigantic caldera volcanoes of Kyushu,Jap.Jour.Geol.Geogr.vol.19.sp,no,1943.←後掲藤本〕。姶良は1930年代に「姶良火山」という超巨大火山説が既にありましたけど(現在は否定説が強い)、松本さんは阿多と鬼界のカルデラを指定・命名して、4つのカルデラを最初に並列して見せた九州地学の祖です。ただし近年の通説では、阿多カルデラの位置は松本さんの唱えた指宿-池田湖-開聞岳の円ではなく、その北方辺りと目されるようになりました。
四大カルデラ火山の諸元〔前掲Matumoto,1943←後掲藤本〕

 地上に顔を見せていれば阿蘇と同規模の3つのカルデラが、南北に連なる陥没として陸地を分断している。それが鹿児島の地形です。
阿多火砕流の分布〔後掲荒牧・宇井〕※日本語文字は引用者

一次被爆域:火砕流及び軽石到達範囲

 上図・阿多火砕流の分布域を見ると、松本さんの発表当初に誤認があったり後に異説が出たりするのも納得できます。この火砕流域は、この日に見かけたカルデラから50km隔てる福元町の露頭の位置からだけでも分かるように、鹿児島の地中に複雑に埋まり、かつ11万年の間の他のカルデラの活動もあって不規則に侵食されています。
 鹿児島の大地は、複数の火砕流の積み重なりです。
 一方、かくもアグレッシヴな鹿児島の灰は、では11万年前の阿多カルデラ噴火時にどこまで届いたかと言うと──

阿多火山灰の予想分布域 〔後掲大規模噴火データベース〕

※原注 等層厚線は,町田・新井,2003 ©東京大学出版会※※ に基づく。青線が Ata の分布,赤線が阿多カルデラを示す.地図は地理院地図 WMTS 版を利用.
※※町田 洋・新井房夫 (2003) 新編火山灰アトラス-日本列島とその周辺. 東京大学出版会, 94-95.

 北東は東京まで、北西は釜山まで、南西は石垣島まで届いてます。
 3万年前の姶良カルデラ噴火については、さらに具体に被害範囲が分かってます。

鬼界カルデラ噴火時の火砕流と降灰の推定範囲〔後掲ぐるっとおおすみ/鬼界カルデラ〕

 当時の地形は不明ですけど、現・硫黄島から火砕流が海を渡って現・鹿児島に押し寄せた……のでしょうか?
 鬼界噴火では早期縄文人の住んだ南九州は「その後、1,000年近くは無人の地となった」〔後掲ぐるっとおおすみ/鬼界カルデラ〕と想像されています。


二次被爆域:寒冷化

 もちろん上記は、降灰が地質学的に確認された地域です。火山灰は性状の差はあれガラス質なので、一定濃度以上の降灰を呼気すると肺が破れて死に到るので、火砕流に直接飲まれる地域同様の致死圏を形成しますけど、そうでなくいわゆる「火山の冬」を招くとされます。──というのは、気象への影響は痕跡が少なく十分解明されていません。
 気象記録が残る時代では、僅かにタンボラ火山噴火(1815年インドネシア:新人の有史上では最大級とされる)時の
・西欧や米国東北部で異常低温による飢饉
・初回の世界的コレラ流行(凶作・飢饉の後遺症か?)
・米:1916年、農業不振による東北部→西部移住者急増
などの社会変動との因果関係が主張されているところです〔後掲近藤〕。

1816年夏の気候異常(単位:°C) 1816 summer temperature anomaly (°C)〔wiki/火山の冬〕

 ただし、もう一つ桁が大きくなると被爆被害も鮮明になり、皮肉にも把握が容易になります。それは、九州四大カルデラの過去12万年以内の噴火はVEI※※7ですけど、VEI8のトバやイエローストーンの、いわゆるスーパーボルケーノ(超噴火)です。
 7〜7.5万年前のインドネシア(スマトラ島)・トバ火山の噴火(Toba event)により、現生人類の個体数は一万を割ったという仮説があります※※※。
 一連の仮説「トバ・カタストロフ理論」(Toba catastrophe theory)は、噴火→全球寒冷化→人類激減の因果関係を諸分野の最新の知見から描いています〔wiki/トバ・カタストロフ理論※〕。つまり人類種が絶滅しかけた、という証拠が残されているわけです。

※1998年にスタンリー=H.アンブロース(イリノイ大学教授・当時 Stanley H. Ambrose)が提唱。wiki原典:Stanley H. Ambrose (1998). “Late Pleistocene human population bottlenecks, volcanic winter, and differentiation of modern humans”. Journal of Human Evolution 34 (6): 623?651. doi:10.1006/jhev.1998.

※※VEI 火山爆発指数等第四紀学地質学分野の基礎知識 ▼展開

(横)VEI×(縦)時系列〔鈴木穀彦「ハザードマップの活かし方」岩波書店,2015←後掲鈴木〕




 単純にVEIを基にトバの1/10の噴火が日本四大カルデラのものだと考えると、それは要するに人類滅亡クラスの●●●●●●●●一割ほどの異変●●●●●●●だったと理解すればよい。
 それは一次的な噴出灰や火砕流以外に、二次的な寒冷化など想像を絶する広域被害を含めると(上記展開部内のトバ・イベントの推定からも)どのくらいの長期にわたったか分からないから、直後の隣接地域性(種子島)に遺跡があることで、「噴火の影響がなかった」とも言い切れません。
 ただトバ・イベント時の短期の寒冷化については
【平均気温】地球全体で▲10~15度
【降水量】半減(水循環全体の低下による)
という状況が数年続いたと算定されるといいます〔後掲臥龍塾〕。その1/10というとどうなるのか、やっぱりよく分かりませんけど……。
 結局、追ってみてよく分かったのは、「火山の冬への備え」みたいなネット記述は根本的にナンセンスだということです。それが起こった時には、長期で複雑に過ぎ、一生物個体の知覚できない、ほとんど数学的な事象になります。備えることなど出来はしないのです。

まくとぅーそーけー なんくるないさー