m17dm第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m山川withCOVID/鹿児島県

桜島ダイヤモンドのうつたひめ

山川湾(手前の湾入)と開聞岳。画面右下が指宿市街。〔後掲指宿まるごと博物館〕

う言えば山川(やまがわ)港へ行ってないな、と思い至りました。
 観光地ですからちょっと何も出ないかな、と思ってはいたけれど……やはり出たものは限られてました。
 という行程ではありますけれど……ま、一応書いておきます。
🚈🚈
806。鹿児島中央発指宿行き快速が慈眼寺に入りました。
 ここは何度か降りたことがある。小平地に新興住宅が点在してたイメージでしたけど,さらに家屋が増えた感があります。
 桜島が曙光に鈍く輝く。
0811「坂の上」駅。愛媛県人が聞いたら喜びそうな地名ですけど,冷静に考えると、まあいい加減な地名です。
これは夕日ですけど、太陽が桜島山頂に重なる情景を「ダイヤモンド桜島」と呼ぶそうで、マニアにバカ受けらしい。〔後掲旬刊旅行新聞〕

札でまどろみから覚めると車窓は一面の海。0824。
 検錦江湾はやはり美しい。まだ湾内とは思えない水の広がりです。
 沿線には平地があるたび一定規模の集落がある。
 0829。石油タンクらしき円柱の群れが視界を遮る。
 0832、中名(なかみょう)。単線なので行き違いで度々止まる。これがなければ遥かに速いでしょう。枕崎と同じ程に考えてたけど指宿は遥かに近いんだな。鹿児島県内は所要時間と距離感がどうも食い違うことが多い。
🚈🚈

篤姫とシーサイドライナーなのはな

光やや翳る。0843。
 海の光が狭まってきた気配。湾口が近い。けれどそれだけでなく,湾曲した海岸線が連続するようになったか?
 一軒家ごとに泳ぐ鯉のぼり。
 0849、薩摩今和泉。篤姫ゆかりと手書きポスター。そうなの?

天璋院篤姫の本物(左)vs偽物(右:NHK大河) 今和泉家第5代当主忠剛の第4子だったこの人が、なぜ突然に徳川将軍に嫁ぐのか、まだよく分かりません。

月田(にがつでん)。0856、終点一つ前ですけど……聞いたことのない語感の地名です。
 左手に空漠たる空地の多さ。農村でもない分類しがたい集落風景。
 0859、終点指宿下車。降りた列車を見ると……この車両名は「シーサイドライナーなのはな」。少し恥ずかしくなりましたけど……どうやらキハ200形・キハ220形に属する鉄道ファンには垂涎の車体らしい。でもワシは鉄ちゃんじゃないので、駅を出ます。
第10代濱崎太平次画像〔後掲五代友厚とその足跡/指宿と浜崎太平次(2)〕

崎太平次の案内が駅舎内にあったので、しかし暫く足を停めてしまいました。「薩摩の海上王」の冠付き。
 薩摩の海域史を辿る中で、この人物の名前には何度となく出会すのですけど──うーむ。未だ判然としない御人です。

りの列車をチェック。午後からは1206 1333 1425 1505 1640 の5本のあとさらに5本。
 観光案内所のおばちゃんがしっかりしてて、交通状況はすぐ把握できました。0915のバスを選択、飛び乗る。便は少ないけれど帰路は指宿元湯も通ります。
🚌ーケードの商店街。
 すぐ海岸に出ました。郵便局。屋根の長い民家が多い。何か妙に……枕崎より沖縄臭いなあ。
 0921、指宿医療センター前。総合病院だけどかなり古く小さい。
 JRの高架下をくぐる。山川湾に入りました。山肌切り立つ。おそらく水深もあるでしょう。なるほど、小さいけれど良港です。
 0928、バス停「活お海道」(いおかいどう)下車。アナウンスがあるまで読み方が分かりませんでした。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

琉球人鎮魂墓碑に薩摩汁

山川港に竿垂れる人々

側の道の駅は、まだ閑散としてます。西側の海辺に居並ぶ人々の手から、海に糸が続いてます。
 地脈が読めないというのか……どっちに進めと勘が囁いてくれません。
 仕方ないのでとりあえず行きたかった、うちなんちゅと豪商河野さん一家のお墓へ向いました。南へ。
琉球人鎮魂墓碑

野覚兵衛家墓石群」という案内のある場所でした。
 0942。琉球人鎮魂墓碑。

遭難した使臣は数百名にも上るが,それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が造成された。新たな交流元年にあたり琉球人への鎮魂墓碑を建立するものである。
2009年琉球・山川港交流400周年事業実行委員会〔案内板〕

薮の内にも

り壊され●●●●西南の役戦没者招魂塚が造成●●」というのが最初は飲み込めなかったけれど──ここには望郷の碑というのが先にあったらしい。この鎮魂墓碑の……

除幕式は、望郷の碑前で行われ、沖縄県の遺族関係者は、先祖の墓を求めて2回訪れたが何もなく、撤去されたことに怒りを感じたことに触れながら、「指宿でこうした碑の建設の動きを知って、これまでのわだかまりが●●●●●一度に消え去り●●●●、今は感激、感謝しています。碑が本当の交流の礎になることがうれしい」と喜んでいた。
〔2009年12月4日読売新聞←後掲史人の庵〕

まり、ここには琉球人墓地が相当無数にあり、琉球人無縁墓地のような場所だった。ところがそこが、平然と西南の役の招魂塚に建替えられ、それが150年近く「わだかまり」になっていたというのです。
 その軋轢に素人が軽く踏み込みませんけど──相当数の琉球人が「わだかまり」を生むほど相当長期に、早くとも西南の役後に至るまで住んだこと、それが、実感として分かる場所です。

奥の茂みにも

河野覚兵衛を知らずに来てました

う言えば──ここは観光上は河野家の墓でした。

 河野家は,江戸時代に薩摩藩の南方貿易に貢献した山川の豪商である。
 墓石群は,享保から文久の年間(1717~1862)にわたる初代から七代までの歴代覚兵衛とその家族を含む12基の五輪塔である。
 山川石の重量感のある美しい造形と紋様は、往時の反映をしのばせている。
 古い山川石の墓が消えていく風潮の中で、先人の貴重な遺産である。 平成八年九月一日 指宿市教育委員会〔案内板〕

五輪塔群

の区画を設けてそこに河野家墓が集中している、ということは──琉球人墓群はどうも藪にてんでばらばらにあったようです。河野家墓地は、その中のモザイク的な独立区画にあったわけで、特権的ではあれ共存してきた、という感じがあります。
廃仏毀釈らしい。断首された仏像とお墓。

野覚兵衛が山川に在って台湾辺りまでの中距離交易を実直にやり、浜崎太平次が指宿に在って東南アジアなど長距離交易で投機的に儲けた、という構図のようです。
 浜崎家の配下として河野家が動いた、という記述は見つからないのです。なぜか、二つの豪商ネットワークの関係について書かれたもの自体が無い。
 ただ共存又は棲み分けの関係でないと、こんな本拠の近い両家が江戸期に長く並び立っていたとは考えにくい。
穏やかな笑みを浮かべる和尚像

代に渡る河野覚兵衛について語られた記述は、浜崎太平次以上に少ないみたいです。
 島津斉彬が屋敷を訪れた、幕末期の薩摩を支えた、といった表現は多用されるけれど、具体像がほとんど書かれない。何代目の覚兵衛の所業なのかも書かれません。
 ただ浜崎太平次に比べ、琉球との繋がりが濃い印象はある。「河野」水軍を出自に持つというのは、同姓だからというだけにも見えますけど魅力的な説です。
……文化財「正龍寺宝珠付角柱石塔婆」

ヒンドゥーの匂ひ 薩摩文教府

に奥へ。「旧正龍寺跡墓石群」。
 河野家より前を伺わせる文物として興味深いのがこの石塔婆です。阿弥陀三尊・釈迦三尊・金胎大日如来を意味する梵字を刻んだ上で

銘文によれば,□源上人なる人物が,戦国時代の永禄10年(1567年),山川に21日間滞在し,多くの人々を集めて念仏講(※仏の救いがあるよう念仏を唱える集会)を行ったことがわかる。この塔婆を建てるために経済的な支援をした人物「池田隼人助夫婦」「網屋与左衛門允夫婦」の名前も刻まれている。〔後掲海と港のめぐみ〕

 秀吉の四国征伐時に河野通直が、小早川隆景の説得を受け降伏したのが1585(天正13)年。伊予河野氏は長宗我部の侵攻に加え1581(天正9)年の来島通総の離反などで、ゆっくりと崩壊していった一族ですから、1567年頃に流浪した一族があっても不思議ではありませんけど──池田、網屋ともその正体は全く分かりません。

下部レリーフ

草というんでしょか?上の基部の紋様も、画像検索させると南インドの寺院のレリーフがヒットします。中国以上にヒンドゥーの風が匂う。

 この旧正龍寺は,薩州山川海雲山正龍寺といい,山元氏が創建したといわれている。開基の年代は,不明である。
 明徳元年(1390),名僧・虎森和尚がまねかれて再建にあたった。
 その後,多くの名僧を出し,京都の儒家藤原惺窝をも驚かす学問的水準の高さを誇り,薩摩文教の府とさえいわれた。
 また,貿易港・山川港に入る外国船の外交文書の授受にもあたっていた。そのために豊臣秀吉の検地による知行の没収をもまぬがれている。 平15市教委〔案内板〕

藪の中にもふと五輪塔

ち、まず南北朝以前の創建と考えられるけれど由緒はよく分からない。分からないけれども、遅くとも戦国期には「薩摩文教の府」と呼ばれる高度な唐学の蓄積があった……。
 同じような五輪塔が藪にも散財してる。本当に古い。元々藪の中に造る趣味でなかったとすれば、この墓地一円が相当に大きな寺域だったことになる(→後掲三国名勝図会)わけですけど──現代の地理感覚からは想像を絶します。それほどまでに、この土地は中国に近かったのでしょうか?
──と、全体像をまるで咀嚼できませんでしたので、とても個別の墓石に思いを致すことなどできてません。山川町教委の報告書にありました次の図面を展開で付しておきます。



ようやく墓地出口

麓に出て東へ。
 南手藪にまっ赤な鳥居。鳥居の向こうには、どこへ続くかも定かでない山道。

風心地 するとT字に石敢当

真っ赤な鳥居

──論この社は高野寺ではありません。
 今GM.を見ても、何の場所なのか不明なままです。
 ただし。100%個人的な印象ですけど──奥の神域の感じは、まさに沖縄でした。もちろん文字も何もありません。
階段上の祠

うやらこの南の稜線は、山川の神域みたいです。
 下記画像の通り、全く何でもない道なんですけど……山川で唯一、怖さを感じた道でした。
山肌の道

の展開内に入れた山川町教委のマップを再掲しておきます。
 この山裾エリアは、あまりに歴史的痕跡が濃いのに、あまりに冷淡に時間に漂白されてる感があります。
 琉球人たちの墓地があった、というのはこの海から一番遠い麓が、人数では相当に及んだであろう琉球人を隔離して集住せしめた区域だった、という可能性を示唆していないでしょうか。
(再掲)正龍寺関係文化財地図〔後掲鹿児島県揖宿郡山川町教育委員会 原典図八〕
集落側の畑地

れで十分満足しました。1020、少し先に高野寺があるけれど,山肌を離れる。左折北行。
 するとT字に石敢当。
T字に石敢当

何が山川石か知る人ぞ無し

が、微妙にジグザグしてます。
 ただそれ以外は、塀の地元石(山川石)を除き、あまり特異なものはない。

集落の道

振り返った高野寺

川石」は確かに市内にそれと見える石はちらほらあります。藩政下では島津宗家の供養塔にのみ使用を許されたとされる石です。維新後に「自由化」又は転用されたものでしょうか。下記の壁は、おそらく河野覚兵衛屋敷跡のそれだったろうと思うのですけど……。
壁面の石積み

だ、歴史地理的に山川石とラベリングされて呼ばれたものと、地質学的なそれは本来少し分けた方がいいらしい。どうも混同した記述が多い。
 歴史地理的には供養塔以外では駒形に加工して石敢當に使われたようで、何らかの霊石を何らかの階層が感じていたものだというのは確かで、他から明瞭に差別化されてます。
 でも地質学上の山川石については、後掲鹿児島県地学会サイト(展開)に詳述されていますけれど──生成上の謎は多く、まだ確定的な見解がない。組成上も他からはっきり差別化される点がなく、簡単に言えば何が「山川石」なのかは明定できてません。そもそも南部鹿児島の地質は素人が理解するには複雑かつ未知の情報が多過ぎるらしい。


小中高ともに見えない文教府

山川集落の道

がぱらついてきた。1027。
 記述上は山川集落の特徴と書かれるT字も、この海手の陸地部にはあまり痕跡を見ません。
1032山川集落の家

しかすると山川市街の地理的な中央部は空襲で焼かれた可能性もあり(後掲)、この点が江戸期以前に由来するものかどうかははっきりしません。
1033、港が見えました。
 海際の神社を最後のよすがに目指してました。この辺のはずだけど──
1033海際の家屋群

わりに、お城みたいな「やまがわ保育園」が現れました。
 ちなみに、山川の小中高はいずれもJR山川駅西1kmほどに移っています(巻末参照)。
 保育園の手前を右折してみる。
ずっこけ?幼稚園

山川まで来て喰ってない本枯節

比寿祠堂?
 1038。
 昭40建立,真っ白な鳥居と建物。脇に鰹節製造場所之碑が立ってる。漁民が願をかけたのでしょうか?

軒の低い家並み

節製造場所之碑の建つこの町は、鰹節の産地としては最古参であることは間違いありません。
 量ではなく質で勝負する方向で生きながらえている、というのが実情らしい。

 鰹節加工産地(1910年伊予の製法指導で始まる)としての山川港は有名。清水や枕崎に比肩できる規模で、かつ最高級品(仕上げ節)では全国1の生産量を誇る〔後掲長嶋〕

平成21年度鰹節生産量〔後掲長嶋〕※色塗りは引用者

川港の水揚げ量の98%くらいが、境港や石巻船籍の船や大手水産会社の海外まき網船が外洋で獲ってきたカツオで、残りの2%は、われわれ沿岸漁民の水揚げという感じです。山川水産加工業協同組合によると、山川港の2021年度かつお節生産量は合計6162トン、金額は64億円にのぼり、全国でも有数の生産地となっています。最高級とされる仕上げ節(本枯節)は、指宿山川産が全国の約7割のシェアを占めています。〔後掲海ノ民話のまちプロジェクトオフィシャルサイト〕

 道の駅で本枯節は確かに見たけれど、観光客がおいそれと買える値段じゃありません。これが産業として良い状況と言えるかどうかは微妙ですけど、とにかく鰹節の最高級技術が蓄積されている土地であるのは間違いありません。

どこの港も戦勝祈願祭

熊野神社奥正殿

う、見つけました。
 1045。
 えらく複雑な場所にありました。熊野神社。由緒にも「慶長14年3月8日(略)琉球出兵戦勝大祈願祭」と書かれる。──琉球戦勝祈願、何か所でやったんじゃ?
 奥本殿の正面に、大きな榊を設置。ニッポン的には不思議な祀り方。障壁……でしょうか?

1055境内全景。「場」を祀ってるような不思議な神社です。

手、側面とも脇神は皆無。
 ただ──西の隅に小さい祠が並ぶ。構造が簡素で歪です。水神のみ新しい。これが本来の神……でしょうか?
1056西の隅の祠群

1057真新しい水神祠

ーん,結局お墓だけだったかなあ……。
 残念な感じで、もう少し歩いてみました。でもどうにも取り付く島のない集落なのです。

ちょっと山川石っぽい壁

1000万人達成ありがとう!!

港道

覗き込んでみた壁の中

もとりあえずご飯だけは食べて帰ろうかね。
1111和ゆう
和ゆう定食550
 1219、指宿駅行きバス乗車。この車体は「乗ったり降りたり」バスなんだそうです。それは……単に普通のバスじゃね?
 湾最奥は山川造船の工場ばかり。でも隣の成川は古い集落っぽい。構成がどうも分からない。
 指宿岩崎ホテルの次はバス停・ホテル入口。ここで降りて元湯に浸かりました。

路……観光客は大抵そっちに行くらしい砂むし会館に横断幕。「1000万人達成ありがとう!!」──何らかの念願だったんでしょうか?
 そのまま……おそらく距離を読み間違ってたんでしょう。指宿駅まで歩く。あんまりピンと来ないけれど、道は微妙に複雑だった記憶です。

お馬の祠と指宿たまて箱

鳥居

れはその途中、ふいに現れた小祠です。
 ad.湯の浜一丁目15。えらくキチンとした鳥居でした。列車の時間を気にしてたので、階段を上がって祠のみ撮影したんですけど──この馬って一体何でしょう?
馬のレリーフ

う〜!
 1333指宿発にギリギリ飛び乗れました。
 と息を整えてたら、何か見知らぬ服装の車掌さんがやってきて、切符を見せろという。そう言えば何か変に整った内装の車両です。
 時々ある全席予約の観光列車だったらしい(後談:「指宿のたまて箱」だと思う。予約に苦労する人気車両らしい!)。料金体系は全く分からないけど、「だって乗っちゃったんだもん」的に交渉するとなにがしかの追加料金で鹿児島まで乗せて頂けました。
 ありがとう!
🚈🚈🚈🚈

■レポ:八代太平次の顔を覗き込む

 最も有名な八代目・浜崎太平次は1814年生、1863年没と書かれることが多いようです。「由来翁は、写真に撮影することは忌んでいたので、かつて一度も之に接したことは無かったとは遺族の話である」〔後掲時遊館〕とのことで、写真は現在のところ一枚も残されていないらしい。
 全く分からない人です。断片的な言説も、どこまでが本当なのか測り難いけれど、とんでもない話が多い。

『海上王濵﨑太平次傳』には、太平次は34隻の船を所有していたとあります。20反帆を超える大型船が約10隻もあり、稲荷丸や松保丸は33反帆もありました。その数と規模は、当時の日本最大クラスの船団でした。〔後掲時遊館〕

 これが本当なら、ほとんど私設海軍を持っていたことになるのです。

※幕末に幕府軍艦奉行・木村摂津守が提案した海軍大拡張計画で、艦船370艘(乗員61,205人)という数字があります。ただし、政事総裁職・松平春嶽や軍艦奉行並・勝麟太郎の反対で同計画は非採択。木村は1863(文久3)年に軍艦奉行を辞す〔wiki/幕府海軍〕。開国以前のの数値は見つかりません。※現出典:金澤裕之『幕府海軍の興亡:幕末期における日本の海軍建設』慶應義塾大学出版会、2017年


キューバへ舵切る浜崎船

 でも実際の商圏の広さも、そのような「艦隊」並の壮大なものと伝えられているので困ったものなのです。

太平次は「ヤマキ」という屋号を掲げて国内各地に拠点を設け、ロシアやインドネシア、キューバなど世界各地への輸出を手がけて巨万の富を築いた。
※後掲朝日新聞デジタル:南薩編3 藩財政救った豪商・浜崎太平次 – 鹿児島 – 地域

 ロシア-インドネシア-キューバと言えば、もう完全に太平洋一円です。そんなことがありうるのか?と思うけれど他の資料には売ったものまで書いてある。

太平次は、県内では、指宿のほかに、鹿児島市と甑島に、県外では、琉球、長崎、大阪、函館に貿拠点を儲け、ロシア、中国、インドネシア、キューバなどに生糸・樟脳・椎茸・陶磁器・フカヒレ・貝類、寒天などを輸出したといわれています。〔後掲時遊館〕

 裏経済で小金稼ぎ、というレベルの話ではありません。こんな商業規模を、藩にとって不正規の一商人がマネジメントするのに必要なのは、財源や品物だけじゃないでしょう。当時のVOCやEIC並の国際情報と人材とネットワーク無しに、そんな商売が成り立つはずがない。──例えばキューバの商人と何語で話し、どう相場を読んで交渉したのでしょう?

1878年※頃の春日〔wiki/春日丸〕※原典:日本海軍全艦艇史p.462、No.1120の写真解説による。

銭貨が拓くネットワーク

 次の文章は、五代友厚が幕末に英軍艦を購入する際の逸話です。もちろん真偽は分かりません。

春日丸は、元の名をキャンスー(Kiangsu)といい、英国で製造された高速の最新鋭艦であった。戊辰戦争を前に薩摩藩が16万両を出して新たに購入したのだが、資金が足りず、費用の半分は第10代濱崎太平次のヤマキから献金されたという。〔後掲五代友厚とその足跡/指宿と浜崎太平次(2)〕

 Kiangsuという艦名は間違いなく漢字二文字のピンインです。どういう漢字なんだろう?

※「kiangsu_ピンイン」で検索すると現省名「江蘇」がヒットします。この二字は現・北京語ピンイン(イントネーション+発音)では「Jiang1su1」ですけど英語の「郵政式」表記というものでは「Kiangsu」になるようです〔後掲凌宮〕。なお、wiki/春日丸にも同様の見解があります。「春日丸」の方は、朝鮮出兵時に薩摩藩が藩内・春日山の樹から作らせた船を春日丸と呼称していて、その名を襲名した、とこれまたきな臭い。〔現出典:片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)〕。

 浜崎側は倒幕のための軍艦の資金を負担して、どんな見返りがあったのでしょう?短期的にはあるはずがない。春日丸を藩と共有したわけではないのですから。
 ただ、浜崎家が薩摩のイベントに献金した話はとにかく事欠きません。浜崎側は薩摩藩を自己の財源の中毒化させる戦略だったと予想されますし、薩摩藩にとっては一種の財政投融資のような半外部回転資産だったでしょう。

藩にも多額の献金をし、1849年には参勤交代のために8千両、1862年には海外からの銃購入のために2万両を提供。篤姫の結婚資金も太平次の献金で成り立ったと言われている。〔前掲朝日新聞デジタル〕

(再掲)天璋院篤姫の本物(左)vs偽物(右:NHK大河)
 最後の篤姫の話は疑えば色々疑えます。本文で触れた通り篤姫は薩摩今和泉から出て、ポッと将軍家に嫁いでしまった「ラッキーガール」と語られるわけてすけど、今和泉は太平次本拠・指宿の数km北です。浜崎家は財力で薩摩藩と大奥を動かし、江戸中央に知己をねじ込み、幕末までの政局を掌握した、と考えられなくもない。
 薩摩の桁外れた贈賄外交は中世から記録に残るわけですけど、それは先に薩摩商人が採った常套手段を真似たものかもしれない、とすら思います。

・嘉永2年(1849)、二月田御茶屋(殿様湯)の建立、新田地区開発に伴う5つの神社の建替え、谷山筋整備に伴う今和泉道の引き直しに1500両の献金。
・文久2年(1862)、藩のミネヘル銃購入に伴い、20000両を献金。〔後掲時遊館〕

 公共事業と並んで武器購入の話がちらほら浮上します。これこそ商人が負担する分野では、絶対にありません。グラバーのような武器商人の立場でもないとすれば、どういう種類のフィクサーだったのでしょう。

八代目太平次という薩摩人

──太平次さんは頭の太くて顔も体もまた極めて太く。
眉毛は長いほうで、眼球はクルクルとして大きゅうございました。
──太平次さんは肥え太った性で、丈はあまり高いほうではなく、いささか金満家振った態度も無く、なかなかいい親方でございました。〔古老の話←後掲時遊館〕※年代的に八代目と推測されている逸話

 一つ後の時代の西郷隆盛が好例です。薩摩には「親方」然とした人格者が群を率いて、緩く、けれども有無を言わせず動くことがあるようです。これはもう、組織風土としか言いようがないのでしょう。

※対応する鹿児島弁があるような気がするけれど、見つけられませんでした。

 私たちが若い時は、もとより幼い時も飢饉に何度となく出会った。
 当時は金はあっても買う米が無かったため一方ならぬ困窮に陥った。
 それを見るに忍びず太平次さんは十二町湊の罹災者(約300戸)一同に前後3回に亘って施米されましたことは大正14年97歳にて死亡しました姑ツルさんの徒然のまま語っておられた昔話の一條でした。〔古老の話←後掲時遊館〕

 献金を含む散財ぶりも、庶民からすると桁違いではあれ、この親方振舞いの延長にあったものと考えると一応納得できます。要するに「そういう薩摩人」だったのです。

 ヤマキの進水式の模様はなかなか盛大なものであった。
 まず式の当日はと言うと、初め太平次夫妻が新造船に乗られるとその次に船長、船大工棟梁という順に続々乗っていました。
 船が少し沖に向けて出るとたちまち甲板から餅を365個と一文銭をたくさん混ぜたものを陸上の観衆目当てに撒布されるのが進水式の常例となっていたことを記憶しております。〔古老の話←後掲時遊館〕

幕末・日本コットン超売り手市場

 八代太平次と薩摩藩の関係性の事例として、幕末の紡績交易の展開を見ておきます。

薩摩の御用商人浜崎太平次は、その綿花に目をつけました。大量の綿花を買い入れ、長崎にあるイギリス人トーマス・グラバーのグラバー紹介を通じ、およそ5倍の値段で外国に売って莫大な利益を得たのです。〔後掲吉田〕

「風とともに去りぬ」のアメリカ南北戦争は、ちょうど日本の幕末期の1861–1865年。米南部の綿花産地からの綿の供給が全滅し、世界的な綿花不足が発生します。数量が想像し辛いのですけど……インドや中国の供給でもこの不足は補いきれなかったと言われます。八代太平次はこの情勢下、日本中の綿花をかき集めて国際市場に売りをかけ莫大な利益を得た、というのです。
 これを好例として五代友厚と新納刑部が渡英、プラット社に発注した紡織機3648錘(うちスロッスル1848錘、ミュール1800錘)等と英技師7名(E・ホームら)による鹿児島紡績所を1867(慶応3)年5月に磯ノ浜(→GM.:現・吉野町)へ設置。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「鹿児島紡績所」、世界大百科事典 第2版 「鹿児島紡績所」←コトバンク/鹿児島紡績所〕
 その規模は6500錘まで増設されてるし〔山川 日本史小辞典 改訂新版 「鹿児島紡績所」←コトバンク同〕、分所として堺紡績所(1870(明治3)年設)、対抗上幕府の創始した鹿島紡績所(1872(明治5)年設:以上3所を始祖三紡績という。)を経て明治政府の官製工場(72(明治5)年富岡製糸場、79(明治12)年千住製絨所)と、当時最も期待された殖産分野を形成します。ただ中長期的には、機械化に乗り遅れ競争力を失い不振を続けた末、島津忠義の死の翌年・1898(明治31)年に閉鎖──おそらく忠義には維新を体現する事業と認知されていたのでしょう。でもこの激しい変化の時代に31年間も維持されてます。
 ではこの間の浜崎家の関与はと言うと、鹿児島紡績所は1878~82年の五年間、浜崎太平次に貸与されていたと記録されます。その他の大半の期間は島津家直営だった訳で、八代太平次は日本紡績興隆の早い段階で「勝ち逃げ」してます。島津家はいわば、二匹目の兎を待ちぼうけさせられた形です。
 この分かり易い事例からのみ考えると──国際情勢の尖端情報は浜崎家ら海商が掌握し、薩摩藩側は最尖鋭の知識層が理解するのみの状況下、リスクの高い投機は海商がシャブリ尽くした後で、やや堅実さが確認できた投資に初めて薩摩藩が介入する。海商らはその自由行動(実質的には先取による莫大な利益)を莫大な献金で購入し、藩の本格導入時の初期投資できっちり回収した上で勝ち逃げする。つまり、浜崎家のインテリジェンスは薩摩藩とすらそれほどの情報格差を有したと想定しないと、辻褄が合わないのです。

浜崎太平次は宇宙人のまま

同館※※(略)学芸員は「太平次の貿易は、幕府にとっては密貿易だったが、藩にとっては公認でした」と説明する。[前掲朝日新聞]
※※指宿市の市考古博物館「時遊館COCCOはしむれ」

──といった説明は、本稿海域アジア編では何度となく繰り返して来ましたけど──以上の情報格差を前提に、よく考えてみて下さい。一定以上の所有情報の差は、彼らの住むパラダイムを別の次元のものにします。
 メキシコと交易し、米南北戦争を端緒とした綿花市場に投機していた商社の人間集団が、自閉的鎖国の妄想下の「密貿易」など問題にしていたでしょうか?それは大げさに言えば宇宙人と地球人、原生ホモ・サピエンスとチンパンジーほどの知性の差を自ずから生んだのではないでしょうか?
 近代最初の海の冒険商人は、ほとんど宇宙人だったと考えるべきです。薩摩という「雄藩」の本当の力の源泉は、江戸期を通じてこれら宇宙人を継続的に容れ続けたことに発していると考えます。
 従って、書き残された記述も的が外れたものが多いと思った方がいいでしょう。むしろ上記のような直接接した庶民の一次記録の方が信用できます。
 次のものは藩主を指宿に迎えた際の、専用迎賓館の様子です。これも先述の献金と同じ藩への根回しであると同時に、自家の財力を誇示したものでしょう。

 寛政10年(1798)、保養のため第9代藩主斉宣が指宿村の長井温泉(現在の弥次ヶ湯付近と言われるが正確な場所は不明)を訪れた際、太左衛門は、十二町の自宅内に「御座間」と称する貴賓室を新築し、島津家の別荘としました。
 このことがきっかけとなって、島津家と濵崎家の関係は明治まで続くのです。
『海上王濵﨑太平次傳』によれば、この本宅の広さは、東西25間(約45m)、南北30間(約54m)で、面積は2反半(2480m2)もありました。
 図面左下には「十畳 島津氏ノ御座ノ間」と記された一室が描かれています。
 歴代藩主は、長井温泉や後に二月田温泉に保養に来た際には、必ず濵崎家のこの別荘に逗留したといいます。
 また、濵崎家は、屋敷の西側の通りを「御本陣馬場」と呼び庶民の通行を固く禁じました。〔後掲時遊館〕

 迎賓館隣接の道路を庶民通行禁止にする?そんな権限まで一商家が有したのでしょうか?
 ここでは、浜崎家がなぜわざわざ鹿児島から一定の距離を置いた、けれど船ならすぐの指宿を拠点化したのか、という点も合わせて考えるべきです。

住宅と住宅の間に小さな水路があった。「この水路も浜崎家が作ったと言われています」。今でこそ小さな水路だが、かつては浜崎の屋敷から約1キロ離れた二反田川の河口とつながる運河だった。二反田川の上流には二月田温泉「殿様湯」があり、川と運河を荷物の運搬に使っていたという。[前掲朝日新聞]

 指宿は実質的に浜崎家の私領状態だった、という情景が浮かびます。指宿の水路を構造化して、私設の港として運用していたらしい。
 最後は湯の話にしましょう。指宿の古湯は浜崎家の「厚生事業」だった節がある、ということになりそうです。

 第6代太平次は、十二町湊に馬ノ湯を設けました。
 ヤマキが全盛を極めていた頃、そこで働いていた人々が毎日たくさん入浴に来るため、湊ノ湯とも呼ばれたそうです。
 地域の人々も朝夕に馬ノ湯を利用し、牛馬、器物、衣類などを洗い恩恵を受けたといわれています。〔後掲時遊館〕

■レポ:からぶみに惺窝驚く正龍寺

 本文で触れました正龍寺の漢学知識水準に「儒家藤原惺窝」が驚いた、というのは──京都・相国寺の禅僧、惺窩(せいか,1561(永禄4)年生-1619(元和5)年没)が明渡航のための山川港滞在中、正龍寺で桂庵玄樹・南浦文之著述の「大学章句」を読み明留学を止めた〔wiki/正龍寺 (指宿市)〕という逸話を指します。──一般には惺窩の渡明は「失敗に終わった」〔wiki/藤原惺窩〕ことになっており、後に近世儒学の祖と称され秀吉・家康にも儒を講じた惺窩が、学歴を美化するために誇張したものである可能性もありますから、割り引いて考えるべきかもしれませんけど──相応の資料が蓄積されていたとは推測されます。
 正龍寺の住職は対琉球交渉の担当者でもあったと伝わります。「その関係もあって、江戸時代にこの地で客死した沖縄の人はこの寺に埋葬される慣例があった。」〔wiki/正龍寺 (指宿市)〕
 琉球の外交施設は鹿児島上町(→GM.:琉球館跡)にあった訳ですから、琉球から山川に一度荷降ろしをする必然性はないわけで──荷のスクリーニングを鹿児島の40km南手前で行っていたのでしょう。
 琉球の久米三十六姓の帰化中国人たちが、そのストックした外交経験を駆使しての外交手腕は非常に高レベルだったはずです。これに処するだけの外交スキルを持つ外交僧たちが、正龍寺には常駐していたことになります。

なぜ正龍寺は現存しないのか?

 ただ、正龍寺はそのような驚くべき状況証拠を残しつつ、現在に墓石などごく少数の文化財以外は何も残していないのです。

 正龍寺については,文献も少なく発見された墓碑類もとく一部にすぎないが,隣接地に徳雲庵・教主庵の両末寺が存在したこと,山川小学校保管の鬼瓦などから想像するに,その規模構造は相当大きなものであったろうと思われる。が,ただちにこれを想定することは極めて困難である。〔後掲鹿児島県揖宿郡山川町教育委員会〕

 上記「鬼瓦」は後掲鹿児島県揖宿郡山川町教育委員会中に「ー基年代不詳(半壊山川石保管 :山川小)」及び「正龍寺鬼瓦(山川小学校)」と記されているので、おそらく統合前の山川集落内の山川小学校内に保存されていたのでしょう。ただし現在ネット上ではヒットがなく、画像も見つかりませんでした。〔後掲後掲鹿児島県揖宿郡山川町教育委員会中「三 他所に残る同寺関係文化財」に「四 正瀧寺鬼瓦」〕
 三国名勝図会には図があります。現在の光景とはどうしても重ならない、のびやかな光景の寺域だったようです。

正龍寺 三国名勝図会〔後掲五代友厚とその足跡
/五代友厚 薩英戦争と山川港(1)〕

 下記は山川に伝わる古老の記憶です。信じられないのですけど、やはり廃仏毀釈らしい。けれどここまで見事に荒れ果てるものでしょうか?

明治になって、廃仏きしゃくという運動が起こり、この寺もその時に徹底的にうち壊された。当時、寺に関係していた人たちは、それを残念に思い、正龍寺の歴史を長く語りつぐことになったという。〔後掲山川町教育委員会〕

 しかもこの破壊は、こうした伝承や推測以上の材料では根拠づけられていません。寺院の建物や仏像はもちろんですけど──仮にも「薩摩文教の府」を号されただけの膨大な経典仏典類は、どうなったのでしょう?それらが「一巻残らず燃えました」という事態は、他の例を見る限り流石の薩摩でもあり得ないように思えます。
 何らかの意図を持って「全削除」キーが押されない限りは。

1909年の山川町。高野寺付近から北西を撮影したものと推定される。〔Gottfried Immanuel Friedlaender「Kratersee des Yamagawa Hafen (Kaimon)」1909←wiki/山川町 (鹿児島県)〕


(上)フェリーなんきゅう乗降口正面から〔後掲でなおし〕
(下)ルート絵図〔後掲どうかご〕

■関連レポ:対岸・根占港に在る島津以前

 山川から錦江湾を隔てた対岸・根占のお話をします。
 以前調べた森有礼の渡欧団の最年少の一員・長澤鼎の本名「磯長彦輔」でした。この磯長家は山川対岸・根占というところで、その記録に次のようなものがありました。

磯長家系譜の中に次のような記録がある。「鹿児島外史ノ一節倭寇ノ中二隅之甲祢寝浦磯永某アリ按ズルニ足利時代ノ豪族多ク種子硫黄等ノ諸島ヲ根拠地トナセシモノノ如クナレバ(略)」
※ 根占郷土誌編さん委員会「根占郷土誌(上巻)」文進社,昭49

内部リンク→m19Q@1m第三十六波m【特論1】存城と廃城/【各論】文部大臣森有礼の請議した「永久保存ノ方法」/森有礼の初めに見た「アメリカ」
山形屋 Nagasawa Cabernet Sauvignon ナガサワワイン カベルネ・ソーヴィニヨン。〔vioica
※「長沢鼎(1852-1934)の実家は城下(鹿児島市)の磯長家であり,彼の本名は「磯長彦輔」である.現在は,本名よりも「長沢鼎」の名の方が知られている.それもそのはずで,長沢は,本名を13歳までしか使っておらず,その後は82歳で亡くなるまで「長沢鼎」で通したからである. そもそも「長沢鼎」という名は「変名」,いわゆる偽名であって,薩摩藩英国留学生プログラムが実行される際に藩主から授けられたものである.多くの学生は変名を日本帰国時に本名に戻したりして,以後は使用していない.しかし,アメリカ移動時の長沢の同志であった松村淳蔵と長沢だけが,留学生プログラムが終了した後も終生変名を使い続けたのである.」〔後掲森〕

「倭寇ノ中二隅之甲祢寝浦磯永某アリ」の「磯永」は後代の磯長家と同定できます。さらに「祢寝浦」とは禰寝(ねじめ※)氏の本拠、即ち現・根占と同定できます。つまり前文は「倭寇の中に(大)隅の最強者※※、根占の浦の磯長なんたらという人がいる」と意訳されます。

※(禰寝氏の)「表記は多様で、『禰占氏』『祢占氏』『根占氏』『祢寝氏』『寝占氏』などとも綴(つづ)る。」〔wiki/禰寝氏 大隅国の国人、戦国大名、薩摩藩士族 注釈1〕※※「……之甲」の意味が不詳ながら、ここでは「物事の等級の第一位。最もすぐれていること。」と推定した。例:明衡往来(11Cか)中本「嵯峨野亭。其地勝絶。甲於城外之山庄」〔精選版 日本国語大辞典 「甲」[1] 〘名〙⑥(ロ)←コトバンク/甲〕

 根占の磯長家については1582(天正10)年に「船頭」として島津義久から交付された琉球渡航朱印状が残ります。翌々年の1583年に中山王(琉球王)から「根占七郎」に返書が出ています。ここでの根占七郎とは時代的に、また別称の伝えから禰寝重長(ねじめ しげたけ:1536年生-1580年没)と考えられ〔wiki/禰寝重長〕、下記根占郷土誌の解釈に無理はありません。

 島津義久は天正九年二月二十一日根占港小鷹丸(船頭妹尾新兵衛尉)(樺山資之日記四にある)にまた同じく天正十年九月十五日には根占小鷹丸の船頭礒長対馬極に琉球渡航の一種の朱印状を与えて之を認可した。(これは現存している。)
   大隅国根占港 小鷹丸
    船頭磯長対馬極
 琉球    宗印
     義久書判
 天正拾年九月十五日

 天正十一年六月に琉球から祢寝重張に宛てて書礼を通じている。
 ◎琉球国中山書状
 御礼之趣令披閲如仰不違先祖可申承之事,怡悦而已軽薄之庭実録千別楮委曲猶期後信恐々不宜
        朱印
  万歴十一年発未年孟夏廿有二日 中山王
 根占七郎殿 回章

[前掲根占郷土誌]

鹿児島県史料集 « 鹿児島県立図書館(本館)
 琉球王が返書を宛てたのが磯長氏ではなく祢寝重張だったのは、磯長氏の主君が重張だったからと考えられます。
 この磯長氏が「種子硫黄等ノ諸島ヲ根拠地トナセシモノノ如ク」(→前掲)という記述は、禰寝16代重張の父・15代清年が種子島氏を攻め、一時は種子島地方を支配下に置いたとされる禰寝(根占)戦争のことと思われます〔wiki/禰寝清年〕。鹿児島外史の伝聞が正しいなら、磯長家は根占戦争の実働部隊となった海民勢力だったことになります。
 2史料だけからの実証ではありますけど──つまり、中世の薩摩の海民(鹿児島外史の言い方だと倭寇)の拠点は、西岸・山川にではなく東岸・根占にあったと推測されるのです。

ネジメ氏の歴史を語る細い糸

「ネジメ」(禰寝・根占)の音の特異性と漢字表記の多様さ(→前掲)から、以下「ネジメ」を片仮名表記します。
 前節で磯長家→長澤鼎の出自からお話を始めました。禰寝家の方は、幕末に小松帯刀(喜入肝付家からの養嗣子)が直系子孫です。

※山本権兵衛海軍大将(22代総理)も出自として本姓を禰寝氏と号するけれど、北郷氏家臣の禰寝重邦の孫・財部彪の妻が、山本権兵衛長女という関係から。他に上原謙、加山雄三(いずれも俳優)、武豊(騎手)、ねじめ正一(作家)などが禰寝子孫を号する。〔wiki/禰寝氏〕

 江戸時代末期(19世紀後半)の薩摩藩の家老に小松清廉(こまつきよかど)がいる。「小松帯刀(たてわき)」という通称のほうでよく知られていることだろう。この小松清廉(小松帯刀)は小松氏の29代当主である。
「29代」ということは、……単純計算で「4代で100年」と考えると700年くらい。つまり、ものすごく古い家柄なのだ。実際に初代は12世紀~13世紀の人物だ。〔後掲ムカシノコト〕

小松帯刀(1870年以前)。とりあえず眉が濃かったらしい。〔個人所蔵、撮影者不明←wiki/小松清廉〕

 最後の薩摩藩主・島津斉彬は島津氏28代。鎌倉殿の十三人から頼朝に島津庄地頭を任ぜられた島津初代・惟宗忠久(大隅・薩摩国守護任官:1197(建久8)年)に対し、禰寝氏旧姓・建部姓を名乗る大宰府在庁官人がいたことは史料的にも11世紀半ば過ぎとされる(禰寝文書、1069(治暦5)年記事)。この大宰府在庁官人は禰寝氏初代・清重に遡る4代前の藤原頼光なので〔wiki/禰寝氏〕、まあザクッと4代≒百年を加えたのが禰寝初代・清重時代としても(1069+100=1169)、島津家の九州での歴史と同じほどに古い。島津と違って中央からの外来者ではないから、ネジメ氏自体としては明らかに島津より先に南九州にいたわけです。
 ただし、当のネジメ氏は南九州土着の由来より、中央由来の由緒で箔を付けようとしていたようです。

「禰寝」から「小松」への改姓は、24代目の小松清香の頃。18世紀のことである。「小松」というのは、平重盛が「小松殿」「小松内大臣」と呼ばれていたことに由来する。
 平姓であること、そして平重盛の末裔であることを強く主張したかったのだろう。〔後掲ムカシノコト〕

 この平氏由来説を後付けと仮定すれば、島津庄の地域名から採って姓を名乗った島津とは逆に、荘園「禰寝院」はネジメ氏の姓が先にあってそれが地域名になったことになります。

 平安期に見える郷名。「和名抄」大隅国大隅郡七郷の1つ。高山寺本にはなく伊勢本・東急本に見える。「地名辞書」は「按ずるに覆(ママ)は寝の誤にして,今の大根占小根占にあたる」とする。中世禰寝院の地であろう。〔角川日本地名大辞典/禰覆郷(古代)〕

ネジメの中世

 ところがネジメ氏の中世は混沌としてよく分からない。禰寝院は南北に分かれ、それぞれ小・大の禰寝院と呼ばれたらしい。これは最初の禰寝院が、諸勢力の支配に分断される中で政治・文化的にガラパゴス化した経緯を想像させます。

 平安末期~戦国期に見える院名。大隅国下大隅郡のうち。北俣・南俣に分かれ,北俣を大禰寝院,南俣を小禰寝院とも称した。初見は治暦5年正月29日付の藤原頼光所領配分帳案で,頼経宛給分のうちに「禰寝院内参村,大禰寝,浜田,大姶良」,権大掾頼貞宛給分のうちに「禰寝院内参村,田代,志天利,佐多」とそれぞれ見える。次いで保安2年には「禰寝院南俣」が見え,北俣が現れるのは鎌倉期のことであるが,すでに平安末期には南俣・北俣の区分が存在したと思われる(禰寝文書)。建久8年の大隅国図田帳では正八幡宮領として「禰寝南俣四十丁」(うち30町は郡本,10町は佐多),島津荘寄郡として「禰寝北俣四十丁五段三丈」となっている。〔角川日本地名大辞典/禰覆郷(中世)〕

 正確に記載史料を辿るとこういうことなんでしょうけど──全く何のことやら分かりません。だから、次のように概述するのは建久8年大隅国図田帳を信用し過ぎた解釈かもしれないんですけど──「ムカシノコト」さんは禰寝院の北は島津荘と整理されたと解されています。

 禰寝院南俣(禰寝、小禰寝ともいう)は「大隅正八幡宮領」、禰寝院北俣(大禰寝)は「島津荘」であった。〔後掲ムカシノコト〕

 うーん。土地勘がないので……次の大根占麓記述を元に、旧市町村で色分けしてみます。

平安時代後期から戦国時代にかけて、現在の鹿屋市南部と錦江町(旧大根占町)を禰寝院北俣、現在の南大隅町(旧佐多町、旧根占町)と錦江町田代(旧田代町)を禰寝院南俣といい、併せて禰寝院と呼びました。〔後掲鹿児島日本遺産〕

県内の合併状況(地図)と禰寝院南俣【赤】と北俣【青】〔後掲鹿児島県〕※赤青は引用者追記

 感覚的にですけど……北俣が現・鹿屋だとすれば、日向の島津が遠路はるばるこんなに南まで、中世から支配圏を有していたのでしょうか?

ネジメの古代

 あと、ムカシノコトさんの確認では、禰寝氏旧姓=建部姓が各史料に出現しています。

 建久8年(1197年)の『大隅国図田帳』に建部清重の名が出てくるのだ。また、禰寝氏に関連した書状などでも、建部姓で記されているのである。
「保安二年正月十日付権大掾建部親助解状」(『禰寝文書』にある)には、保安2年(1121年)に建部親助が大隅国権大掾であったこと、姓(かばね)が宿祢(すくね)であること、所領として禰寝院南俣を代々受け継いできたことが記されている。建部氏はかなり昔からこの地にあるようだ。〔後掲ムカシノコト〕

 建部氏が中世から継続して禰寝院の支配権を認められていた点は、遅くとも12C初からは禰寝文書から確認できます。

禰寝南俣院地頭 (建仁三年(1203)七月三日付関東御教書写,禰-1 (略))
禰寝南俣(院)郡司・地頭(地頭・郡司) (建仁三年(1203)十月三日付大隅国留守所下文写,捕-4 (略))
禰寝院司・地頭 (承久三年(1221)三月二十三日付禰寝院司建部酒量入道譲状写,禰-10)〔後掲日隈1999〕

 後世・戦国期のネジメ氏支配域は禰寝院の南部分だったことは諸史料から明確ですから、短くとも丸四百年禰寝エリアを継続して統治してきた一族だったことは確かです。
 ではネジメ氏の禰寝支配の始期はいつだったのか、という点です。これは最も早ければ神話時代にまで遡る可能性があります。

 建部清重(禰寝清重)は平家の遺児が婿入りしたのではなく、もともと建部氏の出身であった可能性が高い。
 ちなみに、建部氏は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の名代部にはじまるとされる。軍事氏族だったという。〔後掲ムカシノコト〕

「建部」呼称は、地名としても(岡山市北部など)、姓としても日本全国に点在します。また、おそらく史料初出としても日本書記に確認されます。一説には「倭建尊から建部を正字とする」〔wiki/建部氏〕、つまりヤマトタケルの一字を取った「ヤマトタケル立屯田兵村」というような原義と考えられています。

※wiki/建部氏に「『日本書紀』の景行天皇40年是歳条[1] や『出雲国風土記』出雲郷条[2] に天皇の勅によって定められた旨の記述がある。」との記述がある(同出典注[1]「武部」と表記されている [2]「健部」と表記されている)。wikiはこの箇所に「要出典」マークを付していますけど、前者については、おそらく日本書記中の景行天皇五十一年条前後にある次の2か所の記述を言っているものと推測されます。
①「時、日本武尊化白鳥(略)然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。」
②「初日本武尊、娶兩道入姬皇女爲妃、生稻依別王、次足仲彥天皇、次布忍入姬命、次稚武王、其兄稻依別王、是犬上君・武部君、凡二族之始祖也。」〔後掲日本書記全文検索〕

 ネジメ氏はその一つだった、少なくともその一つであると称したことになり、これはヤマトタケルの同時代に起源を持つことを推測させます。概算として日本書紀の記述箇所から景行天皇50年と仮定して(かつ景行天皇実在説=通常4C前中期推定に立って)みると、4C後半と見ることが出来ます。
 雲を掴むような話に入ってしまいますけど──いずれにせよ、建部氏というのはヤマト側による古代流の「ヤマト陣営」印の錦の御旗のようなものみたいです。では、その旗を担いだ原ネジメ氏の実態は何者なのでしょう?

根占及びその南方海域

ヤポネシアに棲んだネジメ海民群

 最初に触れた磯崎家の倭寇疑惑、その主君として琉球王と対したネジメ氏、その禰寝(根占)戦争での南方志向、さらに単純に位置関係などから考えて、ネジメ氏をヤポネシアの海民と想定するのは左程無理はありません。

 平安時代以来の大隅国(鹿児島県)の豪族。建部姓。正八幡宮領禰寝院南俣(肝属郡根占町)を本拠とする。鎌倉時代には幕府の御家人となり,初代清重が地頭・郡司職を兼ね以後世襲した。系図では平氏の子孫を称する。同族に田代,佐多氏があり,鎌倉時代末から南北朝時代にかけて一族が繁衍(はんえん)した。支族に西本,池端,角氏等があり,彼らは連合して行動をとった。〔世界大百科事典 第2版 「禰寝氏」←コトバンク/禰寝氏〕

「連合して行動をとった」史料的根拠は禰寝文書の概観なのでしょうか。でもこれが実態とすれば、西九州・松浦や中部瀬戸内・村上に似た海民の緩いネットワーク勢力で、ネジメ惣領家が束ね役を担った、という姿が浮かんできます。
 竹島・硫黄島・黒島の海域、つまり黒潮の北側の海(下記図参照)は、歴史上「三島」と呼ばれます〔後掲市村、下記展開内詳述〕。もっともここを恒常的にネジメ氏が支配したのではなく、千竈氏(ちかまし)や種子島氏へと離合集散を繰り返す九州側の一局として存在してきたのでしょう。
 私見ですけど小右記に記される997(長徳3)年に南九州から三百人を攫った「奄美嶋者」は、距離的に考えて現・奄美大島の勢力ではなく、三島付近の海民だったと考えるのが蓋然性が高いでしょう。

内部リンク→FASE79-3#今帰仁から/■デッサン:「みやきせん」海域交易圏/小右記∶10C末の奄美島者襲撃事件

奄美嶋者乗船帯兵具、掠奪国嶋海夫等、(略)但当国人多被奪取、已及三百人、府解文云、先年奄美嶋人来、奪取大隅国人民四百人〔藤原実資「小右記」長徳三年十月一日条←後掲日隈2021及び柿沼引用〕

薩南諸島の島々と黒潮(黒潮の流れは海上保安庁のデータによる)〔後掲市村 第3図〕
※色丸は引用者 (赤)禰寝、(桃)硫黄・黒・鳥島海域、(青)北山文化圏 位置


苗字「ネジメ」→禰寝 →根路銘

 という感じで、史料だけだと雲をつかむようなネジメ氏です。なのでここで一気に視点を変えまして、苗字としての「ネジメ」を見てみます。
 前述のように「禰寝」を誇り高く名乗るヤマト人が現代でも一定数いる一方、異なる漢字「根路銘」姓の人々が沖縄に存在しています。

■ 根路銘(ねじめ)
# 沖縄県の名字で那覇市や沖縄市などにまとまってみられる。
# 沖縄県国頭郡大宜味村根路銘をルーツとするか?
# 根路銘(ねろめ): 沖縄県の名字。大宜見間切根路銘村(沖縄県国頭郡大宜見村)をルーツとする。那覇市から沖縄市にかけてまとまって見られる。〔後掲名前の由来/「禰寝」の名字の由来〕※2021/11/24:改編。原典:日本名字家系大事典 森岡浩編 東京堂出版

「根路銘」が古い漢字表記だったなら、「路」字の「ろ」から「じ」への(あるいは逆の)読替えが行われたことは想像しやすい。
 大宜見間切根路銘村、現・沖縄県国頭郡大宜味村大字根路銘は今は検索しないと見つからない集落名ですけど、ここです(→GM.)。極めて細い、隙間を辿るような領域は、元々は根路銘川流域を包括する大地域を指した可能性を示唆します。

沖縄県大宜味村根路銘位置図

方言ではニミという。沖縄本島北部の西海岸,国頭(くにがみ)山地の西側に位置し,集落は海成段丘崖下にあって,根路銘川河口の狭い砂丘地に立地する。地域に伝承される「うむいがき」に,神女が祭具の手持玉を洗う聖なる場所として「あさ井」が見える(ウムイ483・484/歌謡大成I)。〔角川日本地名大辞典/根路銘〕

 以下も合わせると禰寝に連なる地名としては、ニミ・ニルミ・インジャミ-ネロメ(根路銘)-ネジメ(禰寝・根占)という、音韻の相似のみでは想像しにくい連関になります。ただ音韻の特異性から、これが五百kmを隔てた鹿児島と沖縄で同時発生した名称とは考えにくいでしょう。

 根路銘(ねろめ)とは、日本の苗字、地名である。沖縄特有のもので琉球読みは「ニルミ」。
 苗字としては沖縄本島南部に多く分布している。大宜味間切根路銘村(現沖縄県国頭郡大宜味村根路銘)発祥。〔後掲ニコニコ大百科〕

 沖縄本島南部に多数おられるのは、北山でよく起こった集落移転の結果で、中山王権による被征服民、特に北山中枢勢力の強制移住が疑われます。

国頭(くにがみ)方,はじめ国頭間切,康煕12年(1673)田港間切,17世紀末頃からは大宜味(おおぎみ)間切のうち。方言ではインジャミという。沖縄本島北部の西海岸,東シナ海に注ぐ外堀田(ほかほりた)川(大川川)流域の丘陵地に位置する。13世紀末から14世紀の根謝銘城は,ウイグシク(上城)とも称し,国頭按司の居城といわれ,中国製の白磁・青磁や南蛮陶器などの遺物があり,海外貿易が盛んだったことがわかる(大宜味村史)。「絵図郷村帳」に国頭間切ねざめ村,「由来記」に大宜味間切根謝銘村と見える。乾隆18年(1753)根謝銘村では,国頭在番が材木を積んだ船の荷改めを行うようになった(地方経済史料9)。〔角川日本地名大辞典/根謝銘村〕

 明瞭ではないものの、国頭按司の居城があったのは何らかの意味で国頭の中枢だった可能性を示唆します。上城(ウイグスク)という名称、中国・南蛮陶磁器の出土もそれを補完しています。

沖縄本島北部,大宜味(おおぎみ)村謝名城(じやなぐすく)に所在する城。方言ではインジャミグシクといい,ウイグシク(上城)とも呼ばれる。謝名城集落東方の丘陵に立地。城は,断崖と急斜面に囲まれ,天然の要害をなしている。城壁とみられる野面積みの石垣のほか,北端と南端の突端部には石礫の集積がある。西方は眼下に喜如嘉(きじよか)川が流れ,北東方は田嘉里川を見下ろす。(続)〔角川日本地名大辞典/根謝銘城〕

 もう一つ、宗教的には重要なのが極めて霊力(シジ)高い御嶽でもあることです。中山王権の琉球開闢七御嶽には含まれませんから、非中山系の、という限定付きではあります。つまり、中山系ではない沖縄神道の神が祀られていると考えられます。琉球国由来記」には「小城嶽」神名「大ツカサナヌシ」とあるのが、これに当たるのではないかとも考えられます〔後掲ハイヌミカゼ〕。

上城(ウイグシク:根謝銘城・国頭城跡)及び拝所の案内図〔GM.〕

(続)城内の最高所に大グスク御嶽があり,その一段下の平坦部に神アシャギと中グスク御嶽がある。神アシャギの広場では,旧暦7月盆後の初亥の日に,謝名城・喜如嘉・大宜味・大兼久(おおがねく)がウンジャミを行う。(続)〔角川日本地名大辞典/根謝銘城〕

 ウンジャミは「海神」のことらしい。つまり海神祭で、国頭郡一帯のほか鹿児島県奄美諸島与論島、沖縄県島尻郡伊平屋諸島にのみ残ります〔後掲ジャパンナレッジ〕。観光客にはマイナーな祭事です。

※概観:ジャパンナレッジ/海神祭|日本大百科全書(ニッポニカ)
 URL:https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=656
 伝承:沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)/ウチナー民話の部屋/謝名城部落の始まり(共通語)
 URL:https://okimu.jp/sp/museum/minwa/1582444504/ にそれぞれ詳しい。

塩屋湾のウンガミ(国指定重要無形民俗文化財)〔沖縄県国頭郡大宜味村 ©沖縄観光コンベンションビューロー←後掲ジャパンナレッジ〕

 根路銘の沖縄古称がインジャミだったとすれば、音韻の相似からウンガミもこれに通じているとも解釈できます。短絡すると、ネジメの最古の由来は古沖縄語の「海神」にたどり着く、ということになるのですけど──ちょっと糸が細過ぎて、流石に確信を持てません。
 ただ、政治的・宗教的に重い土地だった沖縄本島・根路銘と、鹿児島大隅・ネジメが繋がっていた可能性はあるとは考えます。

ネジメの年代測定

 ほぼ史料に記述がない根路銘の栄えた時代は、けれども考古学的には姿を見せています。──当該発掘報告書本文がどうしても見つからないけれど、結論として13世紀後半の集落形成が推測されたようです。

※後掲沖縄てくてく歩記が伝承として伝えるところでは「根謝銘城は三山(北山、中山、南山)時代に、北山の仲昔今帰仁城主の次男なる人物が、大宜味按司(国頭按司とする文献もある)として派遣され、居城として築いたと伝わっている」。これを年代に置き換えると「今から凡そ750年前、13世紀中ごろに築かれたことになる。」としています。

(続)昭和39年大グスク御嶽の前庭部から,土器・須恵器・中国製青磁・南蛮系陶器・鉄製角釘・刀子をはじめ,着色された木製玉,同じ大きさに切断された牛骨とみられる骨などの遺物が出土した。遺物は中グスク御嶽周辺や崖下にも散布しているが,大グスク御嶽の北方崖下では貝殻の分布が密である。
 13世紀後半に根謝銘城付近に集落が形成され,やがて国頭(くにがみ)・大宜味地方に国頭按司が出現した(大宜味村誌)。その後,尚真王代(1477~1526)まで,根謝銘城は国頭按司の居城であったという。城下に屋嘉比港を控えて繁栄したものと考えられる。〔角川日本地名大辞典/根謝銘城〕

 先に、鹿児島三島・硫黄島の中国陶磁が11C以降増えた事実から、12C以前のまでに最初の来島ブームを想定しました。また、禰寝氏初代・清重の年代を12C後半とも推計しました。
 三島での島内有力者による石造物増から、政治勢力が勃興したのが13-14C〔後掲市村〕。この時期が、沖縄・根路銘の築城期と重なります。
──これを書くと沖縄ナショナリズム的にインパクトが増すので以下では触れませんけど……この時期はまさに北山王国の伝説の三王の時代でもあります。
※怕尼芝:1322?-1395?年
 珉:1396?-1400年
 攀安知:1401?-1416年

今帰仁城でもウンジャミ(海神祭)は旧盆明けの亥の日をはさみ三日間行われる。〔後掲今帰仁村〕

 大隅での禰寝氏、三島での政治勢力の勃興、根路銘築城、これらの主体が同一と仮定すると、時期の重なりからどちらかがどちらかを「征服」したとは考えにくい。すると、11Cに硫黄島に吸引されて形成された海民集団が、12Cに南北各方面で拠点を構え始めたと考えるのが時系列的に整合します。
 即ち、「海神」(ウンジャミ)を奉ずる海民集団が、三島海域から北へ溢れて大隅半島でネジメ(禰寝・根占)氏を成し、南へ島弧づたいに流れて沖縄国頭でネロメ(根路銘)で政治勢力を成した。……やはり細い糸で紡いだ形ですけど、一応そんなヤポネシアを跨いだ動態的なデッサンを描いてみました。
根占及びその南方海域と(赤)禰寝、(桃)硫黄・黒・鳥島海域、(青)北山文化圏 位置図

■レポ:江戸期にも戦時も山川御用船

 行政組織としての山川町は、今はありません。
 2006(平成18)年の市町村合併で新設・指宿市に吸収〔wiki/山川町 (鹿児島県)〕されています。
 市町村合併の住民レベルの実感は、学校統合の過程を追うと理解し易い。2006年の合併を挟んで、中学校は1975(昭和50)年(山川・山川西・大成→)〔wiki/指宿市立山川中学校〕、小学校は2021(令和3)年度(山川・大成・徳光・利永→)〔後掲指宿市教委〕、JR山川駅と大山駅の中間(現・大字成川付近)地域に統合されています。
 成川には戦後(1948(昭和23)年)設置の山川高等学校(農業・水産・家庭(別科)の職業系高校)が既にあり、政治的事情と目されますけど、結果的にこの辺りが教育エリアになってます。
 この過程で、正龍寺に連なる高い水準の教育風土はどうなったのかというと──2021年の小学校統合時の反対論の記述に次のようなものがありました。

 明治の学制以前に寺子屋私塾が{の?}手習いが山川郷の正龍寺や末寺で行われていた記録が残っています。寺子屋私塾の学則が文政11年1928年のものがあるのです。(略)
 また、士族の山川郷校があったのです。この幕末の子弟教育の基盤のうえに明治になって山川小学校をはじめ各地域に小学校がつくられていくのです。
 山川郷校、村落小学校として、明治7年に設立するのでした。村落小学校は従前の青年夜学校に起因するものでした。その後に、教科に農業や水産業を設けて地域の産業発展との関係での教育も充実していくのでした。〔後掲歴史文化の旅〕※{引用者追記}

 少なくとも地元には、正龍寺→山川郷校・寺子屋→青年夜学校・村落小学校と続く教育風土が認識されていたようなのです。でもどうやら明治の近代教育組織へは、鹿児島の他の郷中教育ほどには発展的に接続していけなかったらしい。

旧山川小学校閉校式典,2021〔後掲指宿市教委〕

戦災指定都市 山川

 けれども、この経緯は山川住民の失策という類ではなくて、戦禍による可能性もあります。山川市街の地理的な中央部は、WW2末期の空襲で焼かれたようなのです。
 昭和20年3月29日の一回らしいけれど「山川・成川空襲」と呼ばれる空襲です。「成川浜の『前ん浜』と呼ばれていた今の造船タクシーから海までのメインストリートを焼き払った」〔後掲てくてくブリリアン→後掲全文〕という伝えがあります。後掲POW研究会に、同日午前10時頃、山川の「福本鳥越の畑」へ空襲時に「空母カボットから飛来したTBM3」(航空機)が日本軍の対空砲火により墜落した記録もあります(総務省記録の計8回の鹿児島市街爆撃。→原文再掲)。
 確認してみると、国土地理院のマップにも「戦災都市指定」(■)として表示されています。

陸・海軍航空隊等と戦災罹災都市(鹿児島県内(離島を除く))〔後掲国土地理院〕

 ワシも実は言葉は聞いてても制度を知りませんでした。この「戦災都市指定」とは──法制上は特別都市計画法※第一条第三項に基づく、市町村指定告示(昭和21年内閣告示第30号※※)のことです。

※昭和21年9月11日法律第19号。旧大日本帝國憲法下でも同名の法律が1923(大正12)年12月24日に公布されていますけど、これは同年9月1日発生の関東大震災による東京市・横浜市の被災からの復興を促進する目的のもので、現憲法下でもこの旧法措置に倣った法制がなされた。
※※原文:「特別都市計画法第一条第三項ノ規定によつて市町村を指定する」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A13110748000、公文類聚・第七十編・昭和二十一年・第七十四巻・地理二・都市計画二・市街地建築物二・住宅・雑載(国立公文書館)
URL:https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A13110748000

昭和21年内閣告示第30号(抄)。左上部に「山川町」が指定されている。〔前掲JACAR〕

 実際に何が起こったか、という記述は、けれども上記のような断片的なものしか見つかりません。
 推して知られる結論を先に書くと──当然に本土上陸の真正面と考えられ、実際にオリンピック作戦で最初に拠点化すべき地点とされていた山川では、極秘裏の何事が行われようとしていたと考えられます。
 維新の経緯や精神風土的に、薩摩はそんな体制を構築しやすい土地だったでしょう。またそういう場所では、基本的に記録をとることはタブーだったはずです。
オリンピック作戦の原型を示した図(1944年7月に作成されたもの。米国立公文書館蔵)〔後掲静岡平和資料センター〕

昭和20年3月29日の山川

 概観が長くなりました。まず昭20.3.29山川空襲について、知り得る情報を合成してみます。
 この空襲は「山川・成川空襲」とも呼ばれ、西隣の成川にまたがる被害地域が伝えられます。以下は「てくてくライブラリアン」さんが戦時中山川・成川浜在住のkamizonoさん(2011年当時81歳)から聞いたライフヒストリーの一部、山川空襲に係る部分です(前掲内容と重複)。

灯台の方向から低空飛行機( 米海軍空母艦載機)がやってきて,シュ―――と空中を切るような音をさせて火炎爆弾が落ちてきたそうです。おばさんは怖くてもう後ろも振り向かず線路側の山手の防空壕に走って逃げたそうです。その爆弾は落ちて破壊したうえに焼き広がる性能があり成川浜の「前ん浜」と呼ばれていた今の造船タクシーから海までのメインストリートを焼き払ったそうです。時間帯はおひるごはんを食べたあとだから午後すぐだったそうです。〔後掲てくてくライブラリアン〕

 爆弾は焼夷弾でしょう。被爆範囲は少なくとも成川「前ん浜」。ここは山川駅の西隣の大川駅から南に行った辺りです。
 一方、先に触れた「山川福本鳥越の畑」への米軍機墜落記述の全文は次のようなものです。

1945年3月29日午前10時頃 鹿児島県指宿郡山川村(現・指宿市山川町)福本鳥越の畑
空母カボットから飛来したTBM3(機体 番号23265)が墜落。
 山川港を爆撃後、対空砲火により撃墜された。〔後掲POW研究会〕

 この「対空砲火」は日本軍がどこから行ったのでしょう?──最も疑われる施設として、山川防備衛所という軍施設があります。

 太平洋戦争中、日本海軍は重要な港湾や海峡への敵潜水艦侵入に備え、要所に防備衛所を設置した。鹿児島県内では薩摩半島に「山川防備衛所」、大隅半島に「大浦防備衛所」、種子島に「喜志鹿防備衛所」と「島間防備衛所」を設置し、鹿児島(錦江)湾、大隅海峡、種子島海峡の監視に当たった。〔八巻聡(鹿児島の戦跡を探る会)←後掲南九州新聞社〕

 この施設の概要は、戦後に財務局移管資料「引渡目録」には次のように記されます。

海軍大臣甲 引渡目録 山川防備衛所 (佐世保防備隊所属) 山川防備衛所 所在地鹿児島県指宿郡山川町山川 (表)営造物 構造 敷地 記事 兵舎 木造建 二三五平方米 監視室 〃 一三〇〃 見張所 〃 四〃 電信室 防空壕 一八〃 発電機室 〃 用地(借地) 一五〇〇〇 平方米 暴風寸ニテ破壊スルモ或程度ノ修理ヲナス (終) 山川防備衛所 (表) 品名 数称 数量 記事 六K発電機 台 一 部分品ナシ (終)〔後掲防衛省防衛研究所〕

 武器は記されないのでしょうけど、235㎡≒15m四方で暴風で破壊されたのですからそんなに大きな規模ではありません。住所は山川町山川、つまり山川中心市街地です。現・金生町付近でしょうか?──ここが攻撃地だったと仮定すると、TBM3機は山川港を爆撃中、山川市街からの攻撃で「福本鳥越」に落ちた。この墜落地地名もヒットしませんけど、現・山川福元と仮定すると、位置関係は次のようになります。

成川「前ん浜」-山川福元-山川防備衛所 位置関係図

 上記の三地点は少なくとも被爆地だったわけです。かなり広範囲、ということ以上に、米機が山川-成川前之浜のラインを基本に爆撃を実行していたことが予想できます。
 米機側の作戦指揮者になったつもりで考えると当然な発想です。次のように鹿児島市が全九州爆撃の通路として「安全」を確保したのと同じ発想で、鹿児島市空域へのさらに入口になる山川空域は「徹底的に安全」にしておく必要があったわけです。

 鹿児島市が直接の攻撃目標となったのは、昭和20(1945)年3月18日から8月6日の計8回の空襲であるが、北部九州ほか、九州全域への攻撃のため、鹿児島市は米軍機の通過地点に当たり、機影を見ない日はほとんどないという状況であった。
 また、特攻機が鹿児島から飛び立っており、特攻基地は鹿児島にしかなかったので、米軍の鹿児島に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさであった。〔後掲総務省〕

戦時中の山川に出没した御用船とは?

 さて、最も分からないのが次の、最後の引用となる「御用船」に関する記録です。
 薩摩、特に山川でのこの語は、公には幕府、実感的には薩摩藩から任務を与えられた船を指したようです。浜崎家や河野家の密貿易任務を含む船舶もそう呼ばれたでしょう。
 戦時中に同じ名で呼ばれたのは、各地から軍事徴用された船だったようです。ある意味当然ながら、怖いほど全く記されたものはないのてすけど……次の状況から考えて山川を起点に、あるいは最終補給地として、南方海域との往復を行っていたのではないでしょうか?

 御用船と呼ばれる船が3,4隻入ってきて,その船には食べ物がたくさん積んでいて(ママ),その船を狙って海軍の飛行機が爆撃すると,缶詰が海に流れて,その浜に流れ着いた缶詰を拾おうとして撃たれた人たちもいて神園さんのお父さんが「どげなこっがあってん かんづめをひろめど!(拾ってはだめだよ!)」ときつく叱ったそうです。でも,やはりひもじくて真夜中に暗くなってから海に行って手探りで拾ってきては近所の人達に配ってあげたそうです。果物の缶詰やさばの缶詰とかあったそうです。
 今回,私たちが聞き取りに来る話をkamizonoさんが知り合いに話したところ,「御用船の船乗りの家族が京都から会いに来て機銃掃射に撃たれ死んだがね,船乗りさんだけが生き残ってぐらしかったよぉ~(かわいそう)」と話してくれたそうです。〔後掲てくてくライブラリアン〕

 前段の「海軍の飛行機」というのは、米軍機でしょうか?書き方からして日本軍機のようにも読めます。海に投げ出されたとは言え食料品など輸送軍需物資の「盗難」を、防ごうとした部隊がいたのでしょうか?
 また「京都から会いに来」た「御用船の船乗りの家族」が山川で撃たれた、という話も、色々な想像をかき立てられます。御用船の寄港密集地だったことはまず極秘だったはずで、そこに家族がわざわざ西日本を横断して訪れるほど、軍需港・山川は公然の秘密港湾だったのでしょうか?山川(又は指宿)には、徴用船乗務員やその家族が宿泊できるほどの収容数の宿屋があったのでしょうか?
 米軍側は山川を節にした軍需ルートを認知し、特にその切断を図っていたように思えます。にも関わらず米軍制海権に入った後も使用が続けたらしい日本軍のこの軍需ルートは、単に南方一般へ伸びていただけだったのでしょうか?
 広島県の現・安芸高田市(旧八千代町)上根から北東に伸びる浜田八重可部線部分の長い直線(→GM.)は、敗戦間際に突貫工事で造られた海軍特攻機発進専用の飛行場跡です。山川付近の敗戦直前の異様な数量の彼我の往来は、本土決戦での何らかの戦略と関わっていたような気がしてならないのです。