m17e@m第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m阿多再創造【特論1】withCOVID/鹿児島県

「AMU READY?」

原敏昭(→後掲「教員のよこがお」)という人は東北大学を地場にしている日本史学者さんですけれど、1990年代に鹿児島大学に赴任されています。この時の縁からでしょうか、東北に加え南九州視点での、いわば複数周縁からの複眼的史学観を特色とする論文を幾つか残されています。
 前章の金峰町の不可解と言ってよい行程での見聞に、この柳原さんの論文(「中世初期日本国周縁部における交流の諸相」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報第3号2017年3月,URL後掲)を軸としてもう少しだけしがみ付いてみます。

目録

❝Ⅰ❞ 湾奥の浦之名

 まず明確にしておくべきは、かなり長期の歴史上、特に古代において、海民がなぜこの土地を寄港地に選んだのか?という点です。畢竟、海から見て万之瀬川流域はどんな特異点だったのか?
 柳原さんはこの複雑な地域の概況を、次のように簡潔にまとめます。

 万之瀬川下流地域は、鹿児島県南西部に位置する。万之瀬川は薩摩半島中央部の山地に源を発し、西流して東シナ海に注ぐ。下流域には鹿児島県では有数の沖積低地が形成され、海岸には吹上浜と称される砂丘が続く。標高636 メートルの金峰山は、この地域を象徴する秀峰である。
 中世には薩摩国に属し、万之瀬川右岸(北岸)が阿多郡、左岸(南岸)が加世田別府であった。〔後掲柳原,2017〕

 万之瀬川は、薩摩半島最大級の河川です。その形成する「鹿児島県では有数の沖積低地」には、南九州最大規模の河口干潟が発達しています。その地質は泥質干潟で、現在でも約1kmにわたる千株以上のハマボウ群落が生育し、これは日本最大規模です〔後掲南さつま市観光協会〕。

(上)万之瀬川のハマボウ群落〔後掲南さつま市観光協会〕
(下)万之瀬川河口干潟の全景〔後掲柳田(かごしまネイチャー)〕

 万之瀬川の歴史地理の研究者が強く主張する点に、万之瀬川河口が現在より南だったという推定があります。──直接には、議論の出発点となった持躰松遺跡を万之瀬川流域に特定するための理屈ですけど──通常の河川、あるいは中世以降の一定の水深を必要とする大型船での交易を考えるならば、この点は確かに重要です。
図1 12~13世紀の万之瀬川下流地域〔後掲柳原〕※原図:柳原「中世日本の周縁と東アジア」(2011)本文註1より

万之瀬川の流路が現在と中世とでは異なっていたことに注意しなければならない。19世紀初めに起こった大洪水によって河口が約2 キロメートル北に移動したのである。中世の港は旧河口付近にあったと推定される。
 南北朝期の古文書では、現在の南さつま市加世田の地頭所に市場があったとされている(永和元年10 月1 日「加世田別府半分坪付注文」島津家文書)。また、そこからほど近くの万之瀬川沿いには倉町という地名が残る。この付近には、薩摩半島を縦断する道が通っており、河川交通と陸上交通の結節点でもあった。そこに商業地、物資の集散地が形成されたと推定できる。持躰松遺跡もこのエリアに立地している。
 宗教施設も存在した。中でも金峰山麓にあった観音寺は、平安時代後期、保延4 年(1138)の古文書にあらわれている(保延4 年11 月15 日「阿多郡司平忠景寄進状案」二階堂家文書)。阿多忠景が土地を寄進しており、地域の中心的寺院であったと考えられる。[後掲柳原,2017]

 柳原さんの上記記述の中で、論旨が、地点的に少しブレているのに気がつかれたでしょうか?
 持躰松遺跡からこの日にバスを降りた金峰支所付近、尾下から高橋付近には、考古学又は地名の万之瀬川流域の痕跡は多数見られます。なのに、中世以降の歴史的遺構はそこから1〜2km東、即ち万之瀬川流域ではない●●●●●●●●●●浦之名付近にあります。
 万之瀬川の交易地点の議論で最も奇妙なのは、この点だろうと思います。中世以降の「港町」の姿が浮かんで来ないのです。これを本章の中心的な課題としていきますけど──ともかく、中世初めの観音寺に関する史料として、上記記述にある1138(保延4年)の「阿多郡司平忠景寄進状案」原文に触れておきます。

阿多郡司平忠景寄進状案(1138年)

阿多郡司平忠景謹辞
  奉施入観音寺四方四至内相伝私領当郡内牟田上浦壱曲荒地事立券四至
  限東御堂東小谷、限南神狩蔵峯井利川、
  限西船田頭野馬大路、限北不志綺長尾、
右件山野荒地雖相伝私領、依為日羅上人建立寺、為不絶後代仏法堂舎、勤聖朝府国万民現世後世祈祷料、限永年、所奉施入観音寺如件、
  保延四年十一月十五日
    財久吉
    領主郡司平忠景
         在判
〔後掲鹿児島県〕

 平忠景とは、1138(保延4)年の薩摩国阿多郡司だった阿多忠景です。12年後の1150(久安6)年には阿多権守を称し薩摩平氏の総領となります。女婿の源為朝、兄弟の阿多忠永(薩摩・頴娃・揖宿・知覧郡司の祖)と連合して薩摩一国を「押領」し,大隅・日向の在庁に関与、即ち南九州を実効支配したけれど、保元の乱(1156)での源為朝の敗北とともに忠景も没落、喜海(硫黄)島に逃亡したという〔朝日日本歴史人物事典 「阿多忠景」←コトバンク/阿多忠景〕。
 この人物が観音寺に対し、「相伝領地」を安堵した文書です。
 東:御堂東小谷
 南:神狩蔵峯井利川
 西:船田頭野馬大路
 北:不志綺長尾
と具体の地域を示してます。現代の地名との対照は不明ですけど(野馬大路:後掲柳原図に推測有)、相当広域、おそらく金剛山西麓一帯を渡ると思われます。ただ「山野荒地」と雖えども、とありますから耕地には不向きだったでしょう。

古代「浦之名湾」の様相

 ではその当時の観音寺領域は、どんな地形にあったのでしょう?そこは、万之瀬川中流の湾の最奥部だったと想像できます。

図1 12~13世紀の万之瀬川下流地域〔後掲柳原〕の一部拡大及び水域推定(引用者)

 これは、前章で見た灌漑施設の区域(排水機場の直線路の地域)を中世以前の水域と見立てれば簡単にできる推測です。自然形成の潟湖ですからそれほど水深のあった湾とは思えませんけれど、小舟又は平底船は停泊可能だったでしょう。
 前章の亀城神社(亀ケ城跡)は、湾最奥・浦之名を抑える地点に当たります。
 観音寺そのものの宗派は修験道、密教系の系統で、中世の禅宗外交僧に類似する活動は想定しにくい。けれど、後述の五大院領(推定・五大明王崇拝の密教系寺院)→後掲)での交易活動との連携が想定されます。また実際、以下の創始伝承から対朝鮮の交通はあったと想像できます。

日羅上人建立(観音)寺

 前掲保延4年阿多忠景寄進状案中、相伝(先祖伝来)というのは「依為日羅上人建立寺」、日羅の寺院建立に起源を持つとされます。──日羅は6C後半の「日系百済官僚」の一人で聖徳太子が師事した高僧、敏達帝に対百済策を建議した旨が日本書紀(敏達十二年是歳条)にも記されます〔後掲仁藤など参照〕。墓は熊本県八代市に現存し(坂本町百済来下の地蔵堂前。日羅公伝他に記載も有)、坊津に龍厳寺(真言宗一乗院前身)3坊を創建した〔wiki/日羅〕とされるので、その実在と金峰の活動歴に不自然はありません。
 つまり、観音寺の伝・6C起源はかなり信憑性があります。仮に聖徳太子の時代の日本で著名だった高僧の名を箔付けに借用したものだったとしても──南九州一円に朝鮮系の渡来民(≒百済系難民)が流入し、後世の「唐人町」類似というより、朝鮮系海民しか●●●●●●●いない土地●●●●●だった情勢を想像させます。
 この海民の濃度の濃さとそれ故の他地域との共通性は、多布施神社で見た儀礼「浜下り」からも民俗的に推測されます。

多布施神社の浜下り儀式

(前章再掲)かつては浜下りと呼ばれた大祭が行われ,白装束の若者二十数名が交替で神輿を担ぎ(略)一団が高橋潟蔵の峠まで出向き,再び帰還した。〔多布施神社由緒書〕

 浜下りは、その名の通り海浜へ下る儀礼です。高橋「潟蔵」が土地勘なくて分からないけれど、金峰支所から西1.5kmの貝塚矢石(リンク:共にGM.)のある高橋でしょう。
 市教委の案内によると、祭礼日は4月3日。

例祭 大祭は次の年三回である。
祈念祭 二月十七日
例大祭(浜下り) 四月三日
神嘗祭 十一月二十三日
(南さつま市教育委員会:平成五年)〔案内板,後掲古代文化研究所〕

 浜下り民俗は鹿児島県各地にあります。最も有名なのは鹿児島神宮(霧島市隼人町内)の神事です。

鹿児島神宮の浜下り〔後掲かごしまの旅(鹿児島県)〕

年に1度の神幸祭、御祭神彦火火出見尊(山幸彦)が、綿津見国(海の国)から生還されたと伝えられる隼人漁港近くの浜の市神幸地まで神輿に乗って氏子町内を巡り家内安全や地域の発展を祈るお祭り。毎年10月第3日曜日に行われ、鎧兜の武者など凡そ1,000人もの行列は圧巻です。〔後掲かごしまの旅(鹿児島県)〕

 この神事は、伝承では宇佐神宮の託宣に由緒を持つとされます。①上記由緒では山幸彦の生還地という属地的な性格を帯びながら、②隼人の鎮魂という趣旨も交えた混濁が見られます。

隼人族の霊を慰めるため放生会をするようにという宇佐神宮の託宣により始まったといわれる。五穀豊穣・豊漁祈願、世界平和を願い、鹿児島神宮から隼人塚、御神幸地へとお下りする大隅一ノ宮鹿児島神宮御神輿行列。〔後掲鹿児島ビジターズガイド〕

 確かに宇佐神宮に隼人鎮魂の祭りはあるけれど、それはいわゆる「放生会」で、実施時期も10月です。

 今年も10月6日から8日にかけて、放生会(仲秋祭)が行われます。宇佐神宮の神輿が和間小の児童が奏でる笛や太鼓の道行き囃子に先導され、寄藻川の河口付近にある和間神社の浮殿へ御神幸。神職による祓詞と僧侶による読経の中、蜷を放流して隼人の霊を慰めます。養老4年(720年)、朝廷軍とともに隼人の乱を鎮圧した八幡神でしたが、その後、宇佐地方では疫病や凶作などが起こり、隼人のたたりと恐れられました。八幡神が仏に相談したところ、生き物を放って隼人の霊を供養する放生会が始まったとされています。
 開始時期については諸説ありますが、天平16年(744年)が有力です。その背景を考察してみます。725年、八幡神が現在地に移り一之御殿が、733年に二之御殿が建立され、738年、弥勒寺が日足から境内に移され、初代別当に法蓮が就任します。八幡神が着々と力をつける中、743年に大仏建立の詔が出されると、法蓮を中心に世の中を仏の力で治めるビジュアルな儀式として放生会が企画されました。この企画は大ヒット、全国に広まります。八幡神は軍事面のみならず神仏習合面でも時代をリードしたのです。〔後掲宇佐市,平成30年10月〕

令和元年度放生会の様子(2019/10/12~10/14)〔後掲和間地区まちづくり協議会〕

  宇佐神宮における二大祭礼ともいえるのが、行幸会(ぎょうこうえ)と放生会(ほうじょうえ)です。行幸会は今は中断していますが、放生会は「仲秋祭(ちゅうしゅうさい)」と呼び名を変えて今も続けられています。
 放生会は宇佐宮における最古の祭礼ともいわれています。諸説ありますが、一般的には養老4年(720)に始まったと考えられています。『八幡宇佐宮御宣託集』は、同年に大隅(鹿児島県)・日向(宮崎県)で隼人[はやと]の反乱がおき、その鎮定に八幡神が寄与したことが契機となったと伝えています。(略)
  宇佐神宮の放生会においては蜷と蛤の放生会が行われます。蜷を放つのは、殺された隼人の霊が蜷にやどったためとも伝えられます。隼人鎮定後に蜷が大発生し、病気のまん延や農作物の不作に至ったことを、隼人の霊の仕業とし、それを鎮めようとしたというのです。〔後掲和間(わま)地区まちづくり協議会〕

 つまり、多布施神社の浜下りが宇佐発祥とは、どうも想定しにくいのです。ただし、隼人鎮魂という趣旨やその霊を宿す蜷など装置がいちいち詳細で、南九州と関係がないとも考えにくい。南九州から伝わった民俗が宇佐神宮で儀礼として整えられ、各地に再輸出された。なかんずく南九州には再輸入されたと考えられそうです。その際、鹿児島神宮までは宇佐型に再編されたけれど、多布施には影響を受けなかった。
 では、多布施神社の浜下りはどの共通域に属すと想定できるでしょう?
 最初に考えたのは串木野の照島神社と同様の、媽祖信仰との関連でした。照島神社のホゼ神事でも、下向部を「浜下り」と呼んでおり、この挙行日9月9日は媽祖昇天日に当たっていました。

内部リンク→m176m第十七波余波mm照島/鹿児島県/■レポ:照島に乱反射せし氷面鏡/宗教:センソウマ 媽祖様とホゼの御対面
旧暦9月9日 ホゼ祭りの浜下り(2012(平24)年)〔後掲いちき串木野市教委〕
※いちき串木野市教育委員会「いちき串木野市郷土史料集1民話・祭り編」川内新生社,2015
※全国遺跡報告総覧 URL=https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22057

 3月は──媽祖の生誕日は旧暦3月23日とされ、台湾での「三月瘋媽祖(サンユェ・フォン・マーズー)」の開催シーズンです。媽祖との繋がりが想定されるのは、同じ3月挙行であることだけです。決めつけにくい。
 はっきりと共通すると思われるのは、沖縄の浜下りです。

 浜下り(ハマウリ)は、沖縄県や鹿児島県の奄美群島で旧暦3月3日に行われる伝統行事です。
 地域によって呼ばれ方が異なり、沖縄本島では「ハマウリ、ハマオリ」、宮古諸島では「サニツ」、八重山諸島では「サニズ」とされています。
 3月3日といえば「ひな祭り」にあたる女性の節句ですが、旧暦3月3日は干満の差が一年でもっとも大きい大潮の干潮時にあたります。この日は海浜や干瀬がふだん以上に広がるため、海岸に出かけて潮干狩りし、海草を採る風習があります。
 地域によってはご馳走(三月菓子)を持って海に出かけ、女性が手足を海水に浸して身を清めます。これが浜下り(ハマウリ)です。〔後掲OKITIVE〕

 年で最も表情露わな海を見に行く。それだけといえばただそれだけです。
 集団で行う民俗ではなく、個人単位での、非常に素朴な民俗です。
 ただそこに、少なくとも沖縄人は、異界との交合を見たようです。──女性、特に妊娠中の方にはショッキングな要素を含むので、伝承本体は展開内に収めました。

浜下り/©琉球村〔後掲オリオンストーリー〕

アカマターの夜這いと浜下り ▼展開

妖怪としてのアカマター〔後掲妖怪図鑑〕



「浜下り」の名称と祭祀日と行為の性格から考えて、これが沖縄周辺の南東海域の海民風俗の南九州土着形態であることは間違いないように思えます。
 そうだとすれば、自らが百年もかけて虐殺し蹂躙した隼人の怨霊を、おそらく隼人が行っていた「浜下り」儀礼類似の祭事で慰める、という風習が宇佐神宮で作られ、各所に(再)伝播した可能性は否定しにくい。
 では万之瀬川地域に沖縄からの民俗伝播があったかと言えば、これも可能性はあります。ありますけど、沖縄での浜下り慣習の広がり(奄美〜宮古)を考えるならば、琉球島嶼に広く住んだ海民が万之瀬川エリアにもまた住んでいた、と単純に考える方が自然だと思われます。
 中世までの万之瀬川流域は、南に広く分布する荒ぶる海民の土地でした。この光景を前提にしないと、この土地が理解できないと思います。

浜より海〔Poor Things〕

❝Ⅱ❞ 阿多という地名

 地名としての「阿多」の不思議なところは、早い時期に古代の闇に消え、にも関わらず近代まで浮き沈みして現れる事です。

本報告の主要なフィールドとなる鹿児島県万之瀬川下流地域について概観しておく。(略)阿多郡の「阿多」は、たとえば「大隅隼人」に対応するのが「阿多隼人」であったように、薩摩国成立以前に後の同国の範囲を示す広域地名であった。その中心であった万之瀬川下流地域は、薩摩国北部の高城郡(現薩摩川内市)にできた国府に対する在来勢力の拠点であったといえる。〔後掲柳原,2017〕

忌まれてないのに幾度も消されて尚残る「アタ」

 端的に言えば、
(江戸期)薩摩=(古代)阿多
だった、ということです。
 経緯だけからすると──古代後半から拭い落とすように、半ば忌まれた末に「薩摩」という全く異なる地名に挿げ替えられたように思えます。でも用字にも伝承にも、「阿多」が忌まれた気配はありません。(忌まれたならば、後述のように皇祖の神名として語られることはありえないはずです。)

薩摩国の郡名。「薩摩国風土記」逸文には閼駝郡と見え,「日本書紀」神代下には吾田と見える。古く薩摩国創置以前,阿多は大隅と並称され,薩摩半島地方の総称であった。古代阿多郡は薩摩半島西海岸地帯,すなわち万之瀬川下流域から吹上浜の南端に突出した小半島野間岬に及ぶ,現在の日置郡南部金峰町,川辺郡西部および加世田市の地をさしていたが,中世では万之瀬川の右岸地域,現在の金峰町域だけに限られ,近世になって北隣の伊作郷(現在吹上町)を加えたが,明治29年に廃されて,所属村は日置郡に編入された。
(古代)建置の年代未詳。
(中世)建久8年の薩摩国図田帳によれば,阿多郡250町,そのうち寺社領54町6反,公領195町4反で,公領は久吉145町4反,高橋50町から成り,いずれも「没官御領地頭左女島四郎(鮫島宗家)」とある。
(近世)鹿児島藩直轄領。
(近代)明治4年鹿児島県に所属。〔後掲角川日本地名大辞典/阿多郡〕

「閼駝」や「吾田」の用字があるので、漢字がなく音だけがあった時代が長かった……と推定できるかと言えば、行政地名から消えつつあるはずの平安期にも「阿多」字の刻字土器が発見されています(下写真)。「阿多」字そのものも古くから継続して用いられてきてるらしいのです。

小中原遺跡出土土器片(上)報道全体 (下)刻字部拡大〔新聞記事/「古の美術品 刻書土器 平安時代」県立埋蔵文化財センター〕

「阿多」と刻まれた平安時代の刻書土師器が出土。鹿児島県道20号線鹿児島加世田線(南薩横断道路)の改良工事に伴う平成元年・2年の発掘調査で出土したもの。〔後掲南さつま歴史遺産〕

井上雄彦(鹿児島県出身)の描く薩摩隼人

アタの史料初出は民族名として

 興味深いのは、「阿多」字が単に地域名だけではなく、広義の民族名としても用いられている点です。つまり、普通の日本史の定説からすると、中央に対抗する在地の「抵抗勢力」だった可能性があります。

 阿多郡の「阿多」は、たとえば「大隅隼人」に対応するのが「阿多隼人」であったように、薩摩国成立以前に後の同国の範囲を示す広域地名であった。その中心であった万之瀬川下流地域は、薩摩国北部の高城郡(現薩摩川内市)にできた国府に対する在来勢力の拠点であったといえる。[後掲柳原,2017]

 これは、阿多の史料初出とも言われる書紀の記述に現れています。次章でも触れる相撲取りの記事です。朝廷のお公家様にとってはさながらファイトゲームのような感覚だったでしょうから、やや滅入る光景ではありますけど──

 書紀(720)天武一一年七月(北野本訓)「是の日、大隅隼人と阿多隼人(アタノハイトン)と、朝庭に相撲(すまひと)る」〔精選版 日本国語大辞典←コトバンク/阿多隼人〕

 ちなみに原文(漢文)はこうでした。

秋七月壬辰朔甲午、隼人、多來貢方物。是日、大隅隼人與阿多隼人相撲於朝庭、大隅隼人勝之。〔後掲日本書紀について/日本書紀巻29/十一年秋七月壬辰朔甲午〕

 南九州の服属を象徴する事件として、書紀はこの前後の「入朝」についても記載しています。注目されるのは、この記述では国の地名には「薩摩」、民族名には「阿多」を併記していることです。

和銅2年(709)6月条※に薩摩・多褹両国司とみえ,10月条に薩摩隼人郡司已下188人入朝とある。薩摩半島南部吾田(あた)の地名は薩摩以前の総称にも用いられ,住人は阿多隼人(はやと)と呼ばれたが,後には薩摩隼人,甑隼人の称が頻出し,朝廷への上番の制も整えられた。《和名抄》によれば薩摩国は出水(いつみ),高城(たかき),薩摩,甑島(こしきしま),日置(ひおき),伊作(いさく),阿多,河辺(かはのへ),頴娃(えの),揖宿(いふすき),給黎(きひれ),谿山(たにやま),鹿児島(かこしま)の13郡を管し,《延喜式》も同様13郡をあげる。〔世界大百科事典【薩摩国】←コトバンク/阿多隼人〕

※続日本紀和銅二年(七〇九)十月戊申(廿六)条 ※六国史 続日本紀 URL:http://www.kikuchi2.com/jodai/shokuall.html

 一方で和名抄以下には、郡名として「阿多」が記されます。つまり8C初、南九州の律令体制帰属時点までの段階で、阿多は国から郡に「格下げ」されています。
 これが、阿多地域の「衰退」を意味するのか、あるいは政治的に意図して「矮小化」する意味を持つのか。──どちらとも判断しかねます。

日本発祥の地 第一回阿多隼人祭り〔後掲石堂〕
「 高千穂に降臨したといわれる邇邇芸命(ニニギノミコト)が笠沙の岬で絶世の美人、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と知り合い、3人の皇子をもうけました。1人が山幸彦(初代神武天皇の祖父)、1人が海幸彦です。この海幸彦こそが、私たち阿多隼人の祖と言われています。そして家族でくらした宮を日本発祥之地とよんでいます。」

阿多隼人は大隅と共闘しなかった

 しかも、この相撲取りの記事の直後、大隅隼人の大反乱、あるいはジェノサイドが起こっています。

内部リンク→m178m第十七波余波mm志布志前川/鹿児島県/■転載:続日本紀 大隅隼人百年戦争記
原文表記〔後掲国立国会図書館デジタルコレクション/国史大系 第6巻 日本逸史 扶桑略記 /日本根子皇統弥照天皇紀 恒武天皇- 同HP49/438〕

 この大隅隼人の記事には、阿多隼人がそれに同調した記録が一切ありません。──大隅隼人単体でその「慰撫」に半世紀から一世紀を要したわけです。両隼人、あるいはさらに甑隼人が連合していれば、新興律令ヤマトは鎮圧し得たでしょうか?
 なぜ阿多隼人は、ヤマト王権に抗しなかったのでしょう?
 律令ヤマトの読みからすると、阿多隼人がヤマトに帰属することが確実視されたからこそ、大隅隼人の弾圧に踏み切ることが可能だった、とすら思えます。また、次の皇室阿多譚の豊富さから最も安直に想像するなら、阿多はヤマトの原郷であり「親藩」であり続けたから、とも考えられるのですけど──そこまでは決めつけず、日本神話を少し読んでいきましょう。

縋り立つベラ〔Poor Things〕

❝Ⅲ❞ 阿多に居た頃の皇祖

『記』で、海幸彦が「此者隼人阿多君之祖」と割注されるのはなぜであろうか?〔後掲宮﨑〕

 海幸山幸の神話を単純化すれば──高千穂に天下って阿多で奥様を見つけた皇祖神・ニニギさんの、息子二人・海幸と山幸が大喧嘩。賢い山幸が勝って、海幸を従わせました、という始末です。
 記紀神話中の登場人物に「この人は◯◯家の先祖です」と割注(注釈書き)を付すのは、珍しくないどころか煩わしいほどです。おそらく「ウチの祖先も登場させてくれ」と要望が殺到したのと、傘下の豪族らを「お前たちはこんなに昔から天皇の臣下なのだよ」と諭すためだろうと思われますけど──上記宮﨑さんは、ここの記述はニニギさんの阿多入域を意味しない、と否定する論旨で書かれてます。

阿多譚を認めると東征しにくい

 宮﨑さんを含め、阿多経由の否定説の論拠は、その後の東征の起点・日向に繋がりにくいことです。阿多とは九州島の逆サイドなのです。──従って阿多経由の賛否論の本質は、阿多→日向移動への賛否なのです。

(続)逆に言えば、この一文のために、「邇邇藝は隼人の国の阿多に天降りし、隼人の女神、神阿多都比売(木花之佐久夜毘売)と結婚した」と解されていると言える。私はこの解釈は誤りと見る。正しくは、山幸彦と兄弟喧嘩の末、喧嘩に敗れた海幸彦が、後に日向の南端(大淀川がつくる沖積平野)に逃れ、その地にいた原住民の女と結婚して家族を成し、原住民の魁帥(ひとごのかみ、首長)となったとしたい。〔後掲宮﨑〕

 では、皇祖神ニニギさんは阿多に居たのでしょうか?
 客観的に見て、阿多に居なかったと推定するには、この段階の物語にあまりに多くの「阿多」名が書かれ過ぎてます。日向はもちろん、古代に日向も含んだ大隅の地名さえ書かれないのです。

過剰なる阿多皇祖譚

 下記原口耕一郎さんは、具体に検索した「阿多」名を挙げておられました。

和銅五年(712)の『記』「日向神話」は阿多(薩摩側)を中心に取り上げており,大隅に関すると考えられる地名等にはあまり触れない。[前掲原口]

*天孫降臨・火中出産譚中の「阿多」
●記(古事記)
○紀(日本書紀本文)
【ホノニニギ:至った場所】
● –
○「吾田の長屋の笠狭の碕」
【コノハナノサクヤヒメ:会った場所】
●「笠沙の御前」
○ –
【コノハナノサクヤヒメ:名前】
●「カムアタツヒメ」
○「カシツヒメ」
【コノハナノサクヤヒメ:別名】
●「コノハナノサクヤヒメ」
○「カムアタツヒメ」
「コノハナノサクヤヒメ」
【両者の子:長男】
●「ホデリ」
割注「隼人の阿多君が祖」
○「ホノスソリ」
割注「隼人等が始祖」
〔後掲原口〕※表1 天孫降臨・火中出産譚(第九段)表より抜粋

 単に「阿多」名が多い、というだけではなく、パターンがありそうです。以上の阿多表記を家系図に書き込んだのが、下図です。

瓊瓊杵尊〜神武帝系図〔後掲香椎うっちゃん〕※朱書きは引用者

 神代天皇家の行動に極めて政治性の強い点は、イデオロギー的に冷静な識者がまま語ることですけど、ニニギから神武の段階のその傾向は突出してます。ニニギの天下り直後は、自身のコノハナサクヤ姫との婚姻、子(ホオリ=山幸彦)、孫(ウガヤフキアエズ)と在地の海民系との政略結婚を続けてます。阿多で出会ったコノハナサクヤとその子ホデリが「阿多」名であるのは、少なくともニニギから海幸山幸の二代まで、天皇家が手管を駆使して浸透しようとした対象地域が阿多だったことを示唆します。
 この時代の天皇家は、つまりそれほどにローカルだった、と考えるのが妥当です。
 記紀は官製史書なので、そもそも後世の蛮族たる隼人の出自を隠蔽することも出来たはずですけど──その点は原口さんに以下のような解釈がありました。

史料1『芸分類聚』巻十一 帝王部一 帝夏禹
帝王世紀曰。伯禹夏后氏。姒姓也。(中略)長於西羌。西羌夷人也。(略)
『帝王世紀』によると,禹は「西羌」に長じた「夷人」だという。晋・皇甫[言必/皿]『帝王世紀』は,特に『書紀』編纂に際して参考にされた可能性が高い史書として,最近注目されている。したがって,隼人が夷狄であること,隼人が天皇と同祖であること,天皇家が「蕃夷の地」に出自を持つことは,禹という「偉大なる聖帝」の類例が中国にあるため,異とするには及ぶまい。[前掲原口]

みすぼらしい東征なら阿多譚と矛盾しない

 おそらく、異民族出身あるいは蛮地由来であることは、ある種の神秘性を持つ、という観点が記紀記述時にはあり、手本となる中国史書にもあったから容認されたのではないか、という見解です。前大戦時のような純粋な民族国粋主義ではなく、多民族同居の実態があった古代にはそれも頷けます。
 それでも宮﨑さんのような皇室阿多譚の矛盾が感じられるのは、ニニギから3代後に神武東征軍団が日向から出港した、という物語と、阿多のローカルな政略婚の物語が不整合だからです。皇室阿多譚を否定しないなら、「神武東征軍団日向出港」譚を否定するしかなくなります。
 何が言いたいのかと言うと──神武帝は日向から、少人数の「難民」あるいは「流浪者」としてあてもなく出港した。それならば皇室阿多譚と矛盾しません。また、阿多でのローカルでセコい振る舞いの延長として日向時代があったとすれば、そのような「神武東征」像が自然な想像だと思われるのです。
 この前提に立った東征物語は、次章で改めて展開させてみます。本章ではもう少し阿多に腰を据え、持躰松遺跡の物語る12C頃を想像していきます。

首から出てきたベラ〔Poor Things〕

❝Ⅳ❞ 「万之瀬川の交易」を実証するもの

 上記海幸彦の流れとも言える土着勢力・阿多氏は、遅くとも鎌倉時代には万之瀬川より北まで撤退を余儀なくされています。

(再掲) 中世には薩摩国に属し、万之瀬川右岸(北岸)が阿多郡、左岸(南岸)が加世田別府であった。〔後掲柳原,2017〕

 複数領主によって両岸の使用権が分かたれていたとすれば、この場合は、万之瀬川流域が単に交通路として確保したい対象だったということでしょう。即ち、万之瀬川にその河川両側に及ぶ程度に流域両岸にまたがる都市又は集落は存在しなかったと考えられます。
 先に見たように、自然の潟を利用するタイプの港は、中世の中型以上の船は入港できなかったでしょう。
 持躰松遺跡と関連する遺跡群での考古学的発見はまだ続いていますけど──後に見ますが、やはり港町の遺構ははっきりとは見つかっていません。考古学の主攻面での決め手はもう少しその成果を待つしかないようなので──ここはまず歴史上の状況証拠から攻めてみましょう。

清盛西征から浮かぶ平安末三大経済ブロック

 阿多氏の直接の没落は、平清盛の露骨な攻撃によるものです。歴史上は「阿多忠景の乱」(前掲)と呼ばれる内戦は、清盛による阿多氏勢力の崩壊を平氏側が理由づけた「物語」だと見る説があります。実証はともかく、対局的には確度は高いでしょう。

 その頃中央では平清盛の権勢が伸長した時期であり、朝廷より薩摩、大隅、日向の三国で専横したかどで追討の宣旨を受け、清盛郎党平家貞に攻められ平治年間(1159年 – 1163年頃か)には硫黄島(鬼界ヶ島または貴海島)に流れたと伝わる。忠景の所領(久吉名(みょう))は薩摩国府の大蔵氏に与えられた。
 阿多郡(現・南さつま市)は12世紀当時天然の良港(坊津港、万之瀬川河口)を備え南九州の交易の中心であった。日宋貿易やそれに伴う高麗貿易、南島交易の最重要拠点であり、また同貿易が朝廷の統制を受けない私貿易であった。川辺・阿多一族も交易利権で勢力伸長しており、大宰府を含む交易利権を巡る平氏政権との衝突が背景にあった。〔wiki/薩摩平氏〕

 上記wiki記述は出典を欠くけれど、前段の経緯は後段冒頭の、阿多が「南九州の交易の中心」だった事実を前提にしなければ考えにくいことは自明です。
 清盛が博多を交易拠点としたと推測される1158年*時点は、阿多忠景の乱(推測:1159年)と重なり過ぎており、博多拠点の清盛交易網の障害として阿多交易網が除かれたとする説明は説得力があります。

※ 清盛主宰の交易網の九州での実態は、現・博多区呉服町周辺と推測された袖の湊が1980年代の発掘調査で否定された(当時既に陸化していたと判明)〔後掲福岡市政だより〕ことで不明瞭になってます。ただし、

1158年 平清盛、大宰大弐に任命
1166年 平頼盛(清盛の弟)が筑紫に派遣
§ 伝承 博多松囃子(はかたまつばやし、「博多どんたく」の前身)を「平重盛(清盛の長男)の恩恵に感謝」するため開催〔筑前国続風土記〕

という経緯から、清盛サイドによる同時点での博多の交易拠点化自体は疑いにくいと思われます。〔後掲福岡史伝〕

 下記はこの点をややデフォルメした図と解説になります。

1180年頃の勢力図〔後掲時のうねりのはざまにて〕※阿多氏のもののみ1160年以前の勢力圏イメージを引用者が追記

 大陸との貿易に有効な港を有していなかった奥州藤原氏に対し、阿多氏は、「万之瀬(まのせ)河口」という貿易港を持っていました。薩摩半島南部、東シナ海に面する万之瀬川の河口付近は古くからの自然港です。最近の調査では中国製の陶磁器が発見され「1150年頃から中国との貿易が盛んになった」とみられています。
 これに対し、1158年に大宰大弐となり博多港を押さえた平清盛は、「万之瀬河口はいずれ博多港の地位を脅かしかねない」と考えます。
 万之瀬河口は、博多港に比べ規模は小さいものの、宋の貿易港・寧波からより近い場所に位置していました。そのため清盛は、リスクを敏感に察知したのでしょう。〔後掲感じる存在感〕

 自分で掲げておいて恐縮ですけど……上記の12C後半日本経済「三分之計」みたいな図が当たるほどの広域性、取扱数量又は財政力を、阿多交易網が備えていたのかどうか、ほぼ根拠はありません。中国に加え琉球圏の土器も産することからは南東海域や東シナ海をまたぐ大きな絵も描けるけれど、現地形から考えて宋船が停泊できるような水深の港があったとは思えません。でも清盛が対大陸交易に先がけ潰しにかかったのも確かで──これらを全て満たすような像に焦点が合わないのです。

椿説弓張月続編表紙

阿多忠国と源為朝と白縫と舜天と

 琉球王朝譚の創始期の記述に源為朝が繁く語られるけれど、あの物語で言う「為朝」とは阿多の海民を指していたのではないか──という妄想を綴ってみます。
 この話は、薩摩島津家を中心とする日本内地の琉球支配の動きとともに、歴史の表舞台に出てきた記述と見られています。それ以前の琉球古来の史料に記述は見つかっていません(1650年成立の中山世鑑には相当文字数の記述有→wikisource/琉球國中山世鑑/卷一)。

 源為朝琉球渡来伝説が最初に確認されるのは、「鶴翁字銘井序」においてである。これは、建仁寺・南禅寺などに住した五山僧である月舟寿桂(〜一五三三年)が琉球出身の僧、鶴翁智仙から聞いた琉球の情報などを記したものである。(6)(略)
(略)吾国有一小説、相伝日、源義朝舎弟鎮西八郎為朝、齊力絶人、挽弓則挽強、其箭長而大、森々如矛、見之勇気彿贋、儒夫亦立、嘗興平清盛有隙、雖有保元功勲、一旦党信頼、其名入叛臣伝、人皆惜焉、然而竄謫海外、走赴琉球、駆役鬼神、為創業主、厥孫世々出于源氏、為吾附庸也(略)〔後掲矢野〕※朱書:引用者

※原注 ( 6 ) 塙保己一原編纂・太田藤四郎補編纂『続群書類従 第十三輯上』(続群書類従完成会、一九五九年)三五五頁。

 その後本格的に源為朝の琉球入りの物語が内地側で流布したのは、曲亭馬琴の「椿説弓張月」(ちんせつ ゆみはりづき)によるところが大きい。この下作本は馬琴の歴史もの一作目で、葛飾北斎の画が付され、1807〜1811(文化4〜8)年にかけ刊行〔wiki/椿説弓張月〕、当時はその後の里見八犬伝以上に流行したと見られています。
 ではこの物語に、ある程度の史実性があったのかどうか?
 馬琴は、保元物語を種本にした内地編に、水滸後伝の混江龍李俊が「暹羅」(タイ王国旧称ではなく架空の南海国)国王になる〔wiki/水滸後伝〕ストーリーをモデルに、為朝琉球渡来譚をドラマチックに再編し、これらを合成したものとされています。

 馬琴が「椿説弓張月」を書くにあたって、琉球に関して直接利用した資料は、新井白石の『琉球国事略』、正徳三年(一七一三)に上梓された寺島良安の『和漢三才図絵』や明和二年(一七六五)にでた和刻本『中山伝信録』(徐葆光)、寛政二年(一七九〇)に上梓された森島中良の『琉球談』等であるとされる(14)。このうち、『弓張月』を書くに際して馬琴が特に利用した資料は、和刻本『中山伝信録』とそれを抜粋し読みやすいように書き改めた『琉球談』であると考えられる。(略)
『琉球談』は「大里按司朝公」について、割注で「大里按司は為朝の舅なり。もしくは、聟に官を譲りたるならんか」とし、本文で「朝公」は、「為朝の「為」を省きて称したるなるべし」とわざわざ記して、「舜天」が為朝の「男子」であることを明示している。しかし、「弓張月」では「舜天」が「大里按司ノ妹二通ジテ」誕生した「男子」(「中山世鑑」巻一)(17)であることは記していない。「舜天丸」(すてまる)は妻「白縫」(しらぬい)との子で、「白縫」(しらぬい)は為朝が九州に追われた時に世話になった「阿曽三郎忠国」(あそさぶろうた丶゛くに)(阿多忠国)の「女児」(むすめ)とある。この違いが、「弓張月」の基本的なテーマに繋がる重要な問題である。〔後掲島村〕

※原注 ( l )後藤丹治校注『日本古典文学大系椿説弓張月』上、岩波書店、一九五八年「解説」。
(14)(1) に同じ。「琉球方面の書としては「琉球神道記』「中山世賛図」『中山世譜」「琉球聘使記」「定西法師物語」などの書名が弓張月に現われているが、馬琴はこれらの諸書は間接に琉球談もしくは中山伝信録から孫引していて、直接にはその原本を見てはいないようである」とある。
(17)沖縄県教育庁文化課「重新校正中山世鑑」沖縄県教育委員会、一九八三年。
※※下線は引用者

歌川国芳《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》嘉永4年(1851)頃
「基本的なテーマに繋がる重要な問題」というのは、弓張月が結局は「大和人による琉球王国征服の物語」だという主張ですけど、少なくとも当時の江戸のサブカルチャー作家・馬琴にそんな政治的意図があったとも考えにくいでしょう。要するにまだ駆け出しの下作者だった馬琴は、面白くてウケる話ならそれで良かったはずです。
 上記記述の「白縫」は、弓張月の後半で次のような重要な役を演じます。琉球王女に転生するとか、もうかなりファンタジックです。

肥後の山中で為朝は巨大な人食い猪を素手で退治する。そこで猟師に痺れ薬入りの酒を飲まされ連れて行かれた館で、為朝は長い事行方不明だった妻の白縫姫と息子の舜天丸に再会する。姫は源氏の再興を図って武士を集めていた。(略)
為朝たちは平家を討つ為に船出する。だが大嵐にあい一人又一人と波にさらわれる。そこで白縫姫は嵐をしずめるために生贄となり海に飛び込む。すると姫の霊は黒揚羽蝶になりとびたつ。海をただよう息子の舜天丸と紀平治が大きな魚に襲われた時も現れて魚を静かにさせ、魚は背中に二人を乗せて陸に送り届ける。(略)
嵐で為朝一行は琉球へと流される。琉球の王家では王寧女(わんねいじょ)と家来の陶松壽(とうしょうじゅ)が王子の乳母阿公(くまぎみ)の悪巧みによって窮地に陥れられている。為朝が助けに行くが一足遅く王寧女は殺されてしまう。するとそこに白縫姫の霊である蝶が飛んできて王寧女は白縫姫としてよみがえる。〔後掲椿説弓張月 三島歌舞伎〕

 それにしても……①募兵、②人柱、③転生と、為朝の琉球征服の要所で神がかり的な働きを見せる──というダイナミックな行動は、完全に馬琴の創作でしょうか?③転生はともかく、②人柱には媽祖の物語を連想しますし、①募兵は海賊行動に近い。
 では上記でこれと比較された中山世鑑の記述の方は、どうなっているでしょう?

為朝宣ケル我清和天皇ノ後胤トシテ八幡太郎ノ孫ナリ爭カ先祖ヲハ可失是コソ公家ヨリ給リタル領ナレトモ大嶋ヲ管領スルノミナラス都テ五島ヲ押順タリ去程ニ昔ノ兵共尋下テ付順シカハ威勢漸ク盛ニソ成ニケリ永萬ノ比嶼ヲ征伐シ給ノ次ニ舟潮流ニ従テ始テ流虬ニ至リ給依テ流虬ノ字ヲ更テ流求ト名付給流求ノ者トモ音ニモ不聞日本人ヲ鎧著弓箭ヲ帶シタル勢ニ僻易シテ從之事草ノ風ニ靡ク不異爰於テ為朝大里按司ノ妹ニ通シテ男子誕生有リ尊敦トソ名付ケルサレバ越鳥南枝ニ巢クセ胡馬北風ニイハフト云事有レ為朝公故鄕ヲ慕心ヤ出来ニケン〔wikisource/琉球國中山世鑑/卷一〕※下線は引用者

 伝初代琉球国王・舜天(中山世鑑:尊敦)の出生の記述「為朝大里按司ノ妹ニ通シテ男子誕生有リ尊敦トソ名付ケル」の「通シ」は、あまり穏便な婚姻ではないという書き方です。
 その為朝の名乗りには「大嶋ヲ管領スルノミナラス都テ五島ヲ押順タリ」──内地時代の為朝は、阿多忠国の娘・白縫を妻にし、同忠国の子・忠景と共に九州の海域を勢力圏にして、清盛の拠点・博多を脅かした訳です。ヤマト内地側からは為朝は奄美大島に遠流され、五島列島には為朝死没地の伝承があるに過ぎないのですけど、この海民勢力の実効域の広さを彷彿とさせます。
 ここまでの写像は、もちろん実証性はないし焦点も結んでないけれど──西日本に残る為朝や白縫の伝承を含め──これだけの影を落とすからには実体の実在性に一定程度は信憑性があると考えてよいと思います。
 現実の源為朝は、おそらく、正史通りに伊豆で斬首されてなくても、この広い海域の何処かで人知れず果てたでしょう。ただ、その海上勢力の残党が、最も高名な「為朝」名の旗を掲げて各海域に相当長期に渡り出没したのではないでしょうか?そして、この海上勢力の主力は、経緯から考えて阿多の海民集団だったと推測できるでしょう。そのうちの一団が、あるいは琉球に流入・定着して王様にはともかく琉球王朝の萌芽となった可能性は否定でぎせん。
(参考年表:
1156年 保元の乱
1159年(推測)阿多忠景の乱
1187年 舜天王統創始 )

 中山世鑑著者・羽地朝秀のブレーンは南海に散らばる微記憶を収集したのかもしれません。それを種本に持ち前の奔放な想像力を羽ばたかせた馬琴は、案外に七百年前の阿多海民の最後に開花した史実を描いてしまったのかもしれません。
 ややファンタジックなお話になってしまいましたので、考古学的事実の世界に帰ろうと思います。

第一図 持躰松遺跡の位置図〔後掲鹿児島県埋文2007〕

持躰松遺跡の多種多量の陶磁発掘

 発掘品の語る万之瀬川下流域の交易は、率直に言って、朧な姿しか見せていません。

 万之瀬川下流地域は、弥生時代より南西諸島と北九州とを結ぶ海の道の中継点となっていた。高橋貝塚から出土したゴホウラ、オオツタノハなど南西諸島産貝類の半製品がそれを物語る(完成品は北九州で出土する)。当該期の南九州の墓制とは大きく異なる甕棺墓(阿多貝塚・下小路遺跡で出土)の存在も、北九州文化の飛地的流入を物語っている。[後掲柳原,2017]

 琉球諸島の交易品の出土、それと墓制から想像される北九州との関係性。考古学的な特異性はそこまでで、「ちょっと変」な手応えだけだった金峰町で、平成5(1993)年に万之瀬川改修工事に先立つ町教委の発掘調査が開始されます。調査は平成8(1996)年に県埋文に引き継がれました。──つまり徐々に、手に負えない遺跡と気づかれていったのです。

 万之瀬川下流地域が研究者によって本格的に注目されるようになったのは、1996年から始まった持躰松遺跡の発掘調査による(金峰町教育委員会ついで鹿児島県埋蔵文化財センターが担当( 3 ))。この遺跡は、現在の万之瀬川河口から約5 キロメートルさかのぼった、同川右岸に位置する。12・13 世紀を中心とする中国陶磁が、鹿児島県内では最大量発掘され、しかも器種の多様さが際立っていた。東海産の常滑焼(西日本ことに九州での出土例は少ない)、畿内およびその近国産の東播系須恵器・和泉型瓦器・楠葉型瓦器、西彼杵半島産の滑石製石鍋、奄美諸島徳之島産のカムィ焼など、日本列島各地で生産された多種多様な焼物も出土した。
 こうした発掘成果は、12・13 世紀、この地域に海外とも連絡する港があり、それを中心とした経済活動が活発に行われていたことを示唆していた。それを踏まえて、当該期の地域像の復原を試みたのが図1(※→前掲図)である。中世文書(二階堂家文書、島津家文書など)、近世の地誌・地図、字切図、聞き取り調査結果などを用いて作成したものである。[後掲柳原,2017]
※( 3 )金峰町埋蔵文化財発掘調査報告書10『持躰松遺跡 第一次調査』(1998 年)、鹿児島県立埋蔵文化財
センター発掘調査報告書120『持躰松遺跡』(2007 年)。なお金峰町は、2005 年秋に市町合併により南さつま市となった。

「12・13世紀を中心とする中国陶磁が、鹿児島県内では最大量発掘」されたのみならず、その産地が中国、国内でも東海から南海の広範囲に渡っていたのです。

中世の輸入陶磁器〔後掲鹿児島県埋文2007〕

 持躰松遺跡の「勿体ない」ところは、これだけの遺物を出土させながら、文字を書かれた遺物が古銭以外にないことと、遺構にパッとしたものがないことのようです。阿多氏その他、どんな集団が運営したものか実証はありません。遺構は柱跡などが主で、公的な役所とか建物機能が分かるほどの形跡は土器集積場らしきもの以外には出てません。これだけから考えると、単に船荷の積卸場だったということになりますけど──
報告書抄録:主な遺構・遺物×(縦)時代区分〔後掲鹿児島県埋文2007〕

 ただ先に触れたように持躰松遺跡は、誰も予想しなかった珠宝を偶然掘り当てたものです。これも先述通り中世以前の万之瀬川の潟は巨大でかつ時代毎の輪郭が不明で、従って今後、金峰町のどこで何が出るかは分かりません。この地域に港町が無かった、と決めつけるのは全く早計なのです。
現在の万之瀬川(加世田平野内)〔wiki/万之瀬川〕

付録:万之瀬川交易拠点説の主な先行研究
〔後掲日隈 注11より転記〕
◯宮下貴浩「持鉢松遺跡の遺物から見た中世の南薩摩について─十二世紀から十年五世紀を中心として─」(『鹿児島県中世史研究会報』52,平成9年)
◯.村井章介「中世国家の境界と駐球・蝦夷」
◯柳原敏明「西の境界領域と万之瀬川」(村井章介・佐藤信・吉田伸之編『境界の日本史』(山川出版社,平成9年))
◯宮下貴浩「中世前期の持躰松遺跡~まとめにかえて~」
◯柳原敏昭「中世の万之瀬川下流地域と持躰松遺跡」(「金峰町埋蔵文化財発掘調査報告書⑩ 持鉢松遺跡 第1次調査(金峰町教育委員会,平成10年))
◯宮下貴浩「鹿児島県持鉢松遺跡と出士陶磁器」(「貿品陶磁研究」18,平成10年)
◯柳原敏昭「中世前期南薩摩の湊・川・道」(籐原良章・村井章介編「中世のみちと物流」(山川出版社,平成11年))
◯大庭康峙「集散地遺跡としての博多」
◯柳原敏明「中世前期南九州の港と宋人居留地に関する一試論」(「日本史研究」448,平成11年)
◯拙稿(日隈正守)「新田八幡宮の阿多郡支配に関する一考察」(「鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編」52,平成13年)
◯柳原敏明「「北からの日本史」と「南からの日本史」と」(村井章介・斉鹸利男・小口雅史編「北の環日本海世界─書きかえられる津軽安藤氏」(山川出版社,平成14年))
◯市村高男「11~15世紀の万之瀬川河口の性格と持鉢松遺跡─津湊泊・海運の視点を中心とした考察─」
◯大庭康時「博多遺跡群の発掘調査と持鉢松遺跡」
◯中村和美・栗林文夫「持鉢松遺跡(2次調査以降)・芝原遺跡・渡畑遺跡について」
◯宮下貴浩「山岳寺院と港湾都市の一類型─小薗遺跡と観音寺の調査を中心として─」
◯柳原敏明「平安末〜鎌倉期の万之瀬川下流流域─研究の成果と課題─」(「古代文化」55-2,平成15年)
◯江平望「阿多忠景について」
◯山本信夫「12世紀前後陶磁器から見た持鉢松遺跡の訴価─金峰町出土の焼き物から追求する南海地域の貿易・流通─」(「古代文化」55-3,平成15年)
◯柳原敏昭「中世日本の北と南」(歴史学研究会・日本史研究会編「日本史講座④中世社会の構造J(東京大学出版会,平成16年)
第1図 渡畑遺跡の位置〔後掲鹿児島県埋文2010〕※朱書は引用者

渡畑遺跡に建っていた寧波祠

 持躰松遺跡発見の端緒となった同じ河川改修の予定地、ほとんど持躰松遺跡の南隣で渡畑遺跡、さらに東隣に芝原遺跡が発掘されています。
 渡畑遺跡は平成8(1996)年に町教委が下調査、平成12(2000)年に県埋文が本調査。芝原遺跡の方は平成11〜16(1999〜2004)年にダイレクトで県埋文が調査を行ってます。持躰松遺跡の発掘作業から足掛け10年、ほとんど継続した作業をなされてます。

 万之瀬川沿岸では、持躰松遺跡の発掘以後も鹿児島県埋蔵文化財センターによって調査が続けられた。渡畑遺跡(10)、芝原遺跡(11)などである(位置は図1 参照[※→前掲図])。(略)逸してならないのは、次に述べる渡畑遺跡の出土遺物と遺構である。[後掲柳原,2017]
原注(10)鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書151『渡畑遺跡』1(2010 年)、鹿児島県立埋蔵文化
財センター発掘調査報告書159『渡畑遺跡』2(2011 年)。
(11)鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書170『芝原遺跡』3(2012 年)。

 両遺跡とも、持躰松遺跡に匹敵する多量かつ多産地の陶磁類が出土し、鹿児島県の埋文専門家を益々途方に暮れさせています。ここでは持躰松・渡畑・芝原の一連エリアの遺跡(以下「持躰松遺跡群」という。)全体の「勿体なさ」視点から、渡畑遺跡で出土した推定「祠堂」遺構に注目していきます。
 けれどその意義を理解するには、渡畑・芝原両遺跡出土の遺物中、寧波系瓦を前提にしなければなりません。──詳細は以下展開に収めましたけど、21Cに入ってからの科学的新手法により、博多や金峰の中国様式の瓦が寧波と同一物と確定されました。
 つまり、似たものがあるだけではなく、大陸中国から直接に建材が輸送された事実、そこまでは確定したのです。

寧波系瓦の同一組成確認 ▼展開

同笵の可能性のある瓦の三次元計測画像 (上段:テクスチャ表示 下段:レンダリング表示)〔後掲福岡市経済観光文化局文化財部〕


▲図4 渡畑遺跡出土の総柱建物跡[後掲柳原,2017] ※鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書159「渡畑遺跡」2のp125第95図を転載

 持躰松遺跡群の遺物が寧波製瓦であることが重要なのは、渡畑遺跡の場合、94%が一棟の遺構建物の周囲で発見された点です。

 遺構では、図4に掲げた3間×3間の総柱の建物(南北5.5メートル、東西5.0メートル)が注目される。これは同じ遺跡の他の建物跡とは異なり、柱が等間隔に配され、しかも配列方向が真北・真西を向いている。柱穴内に詰石しているものもあり、非常に頑丈な作りとなっている。また、上述の寧波系瓦はこの建物の周辺に集中し(出土地点が明らかな187点の内、175点)、鴟尾もこの建物の周辺で出土している。つまり、この建物の屋根を葺いていた可能性が高いのである。小畑弘己氏は、中国の宋時代の建物模型との比較から祠堂ではないかと推定している(14)。祠堂とは、中国で祖先の霊を祀るための建物で、そこで航海安全なども祈ったという。[後掲柳原,2017]
(14)小畑弘己「寧波・博多交流の物証としての寧波系瓦の化学分析」(前掲)

祠堂イメージ:慈城刘家祠堂(2017,宁波市江北区慈城镇,明代建)〔維基百科/刘家祠堂 (宁波) 浙江省宁波市江北区慈城镇祠堂〕

 即ち、この建物の建造主は、寧波からわざわざ瓦を運んで建てた訳です。先祖か海神を祀るために中国人が移送したのか、日本人の船持ちの富裕者が自らの威信をかけて輸入したのか、とにかく当時の阿多に多量の交易物流が無い限り、自然には建たない建造物が持躰松遺跡群の位置に存在したことは確実視されることになりました。
 個人的には厦門の江夏堂(:m081m第八波mm江夏堂/■小レポ:私設・イミグレーションとしての江夏堂)や淮水域に多く見た「公所」≒私設商工会のような建物を想像します。
タイ側ノーンカーイから対岸のラオスへ渡るフェリーの乗り場付近:ターサデット市場 Ta Sadet Market〔後掲タイ国政府観光庁〕

 いずれにせよ、これだけ学者が寄って集って十年かけて河岸線にして約1kmを調査し確認できた港町集落の痕跡は、祠が一つあった、という事実だけなわけです。
 交易拠点には、常に大きな町が出来るわけではありません。支配者層が公式には関わらない場合、漳州月港(:m065m第六波mm北京路台湾路/■基礎資料/[漳州前史]月港の盛衰)の例のように、機能停止後は現在の都市の位置と無関係な場所のまま無人化していくのは有り得ることに思えます。
 金峰にあったのは、実質的な国境の荷揚げ場とバザールだけで、集落は最小限のものだった、という可能性も考えておいた方がよいと思います。──現代の我々が、ある程度安全に見聞できる国境の自然発生的バザールとして、タイから隣接国への国境のものがありますけど、ああいうイメージの場所です。
 あるいは、本章冒頭で想像したような潟の湾入があったなら、現・河岸よりもっと離れた金峰支所から東西のライン辺りに港町はあったのかもしれません。
 この点はやはりやや迂遠ながら、状況証拠を確認できます。通常は迷信深い海民の集落があれば、祭祀施設が設けられます。持躰松遺跡群周辺の寺社は、ほぼ和多利神社しか見当たりません。──ここには廃仏毀釈前、水晶山花蔵院上宮寺がありました。相州島津家が伊作家を吸収した島津運久(忠良:日新斎・日新公 の義父※)が再興した寺です。創始は観音寺と同じく日羅、その年は社伝に曰く594(推古天皇2)年。その間、建久年間(1190~1199年)に阿多郡司・二階堂土佐守が「鎌倉大将軍の命令」で再興と伝わる(ただし史実の二階堂氏の阿多郡北方地頭職就任は13C半ばで不整合)〔後掲ムカシノコト〕。
 つまり古くからの外港、船舶集結地点だけれど、集落ではなかった。例えば、内潟の集落側へは持躰松遺跡群地点で荷を船底の浅い舟に積み替えて輸送したのではないでしょうか?

川内五大院の阿多領

 鎌倉幕府は建久年間(1190~99)という各国の土地台帳を作成してます。これがなぜか薩摩・大隅・日向のもののみ写しが伝えられてます〔ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「建久図田帳」←コトバンク/建久図田帳〕。
 以下はそのうち五大院(→GM.:五大院跡)というお寺が阿多に領した土地を記すものです。五大院は鹿児島県薩摩川内市五代町にありました。

薩摩国
 注進 □□事(略)
阿多郡二百五十町
 寺領四十四丁(ママ)八段弥勒寺 下司僧安慶
 社領四町弥勒寺 下司僧経宗
 寺領五町安楽寺 下司僧安静
 社領八段正八幡宮論一宮,府本撫,
 公領百九十五町四段内 没官御領地頭佐女嶋四郎
 久吉百四十五丁四段 本名主在庁種明
 高橋五十丁 同地頭佐女嶋四郎
 已上四ヶ郡,就被府領,有国司訴訟,
〔後掲日隈、薩摩国建久図田帳写し〕

 五大院は八幡新田宮(→GM.)の神宮寺で、同宮は宇佐弥勒寺の末社なので、阿多の図田帳中の「弥勒寺」領は事実上五大院領と考えられてます。
 同じ要領で追った五大院の所有土地の位置が、専門家内で議論になっています。次の図表はその全体像です。

図・表① 薩摩国内の五大院領〔後掲日隈〕
図・表② 薩摩国内の五大院領〔後掲日隈〕

 91町余の土地のうち約45町が阿多にあります。他の土地は薩摩川内市付近、つまり寺の近隣にあるのに、遠隔の阿多になぜそれほどの領地を持ったのか?という点が議論になるわけです。

五大院領全体の半分近くは.五大院が存在する高城郡から離れた阿多郡に存在している。郡・院・別符毎の五大院領面積では,阿多郡が最も多い。五大院領が阿多郡に多く存在する理由は,阿多郡が日宋交易の拠点である可能性を有している事(11)と関係が深いと考えられる。五大院領分布の特徴は,五大院から離れた阿多郡に集中している事が指摘できる。後述の様に阿多郡は鎌倉前期に阿多北方と阿多南方とに別れるが,五大院領が存在していたのは後述の様に阿多北方であったと考えられる。〔後掲日隈〕

※原注11:前掲主な先行研究
 阿多北方とは万之瀬川よりも北側です。なぜ北方と推定できるのかは後揚することとしまして、日隈さんによる五大院領の阿多偏在の推理は以下の通りです。八幡宮の内部の支配権抗争と平氏の政治権力が複雑に絡んでいるようで、俄には理解し難い。

 平安後期阿多郡司であった平忠景と密接な関係を有す寺院は,観音寺である。観音寺の宗派は,天台系であると考えられる(44)。五大院は,観音寺を介して平忠景等阿多郡の郡司クラスの有力者と関係を結んだと考えられる(45)。この時護国祈願や調伏を行う五大院を庇護していた薩摩国衙は.交易拠点として重視していた阿多郡(46)内に五大院が所領を獲得する事を承認したと考えられる。
 日宋交易の利潤に強い関心を有す石清水八幡宮は,九州に対する拠点作りを意図し具体的に動き出している(47)。石清水八幡宮は,大治3年(1128)八幡字佐宮の神宮寺である宇佐弥勒寺の支配権を掌握した(48)。前掲保延元年(1135)10月25日付五大院院主石清水権寺主某下文写に示されている様に,石清水八幡宮権寺主である社僧が五大院の院主の地位にある。保延元年(1135)の時点で社大院が石清水八幡宮の支配をうけている理由は五大院が宇佐弥勒寺の末寺化していた事によると考えられる。〔後掲日隈〕

※原注(44)柳原敏昭「中世前期南九州の港と宋人居留地に関する一試論」,宮下貴浩「山岳寺院と港湾都市のー類型─小薗遺跡と観音寺の調査を中心として─」。(45)観音寺と五大院との宗教的ネットワークの実態、又冠嶽や関聞岳、霧島等との関係分析は,今後の課題である。
(46)柳原敏昭「中世前期南九州の港と宋人居留地に関する一試論」。
(47) 11世紀後期の永保3年(1083)以前,石清水八幡宮権別当頼清は大山寺別当職を確保している。また頼清の子である光清は白河法皇の院宜により大山寺別当に補任されている。以上の事については.飯沼賢司「権門としての八幡宮寺の成立─宇佐弥勒寺と石清水八幡宮の関係─」(十世紀研究会編「中世成立期の歴史像」(東京堂出版,平成5年))を参照。
(48)小田富士雄「宇佐弥勒寺所職相承考」(「大和文化研究」8-6, 昭和38年,昭和52年に同「小田富士雄著作集1 九州考古学研究 歴史時代編」(学生社)に再録),中山重記「石清水八幡宮宇佐宮弥勒寺の本家となる」(「大分県地方史」90,昭和53年,昭和60年に同「宇佐八幡宮の研究」(私家版)に再録)、飯沼賢司「権門としての八幡宮寺の成立─宇佐弥勒寺と石清水八幡宮の関係─」等。

五大院跡に残る仁王像

 五大院の宗派は明確ではありませんけど、その寺名からして本尊は五大明王が疑われます。(1247(宝治元)年11月付け新田宮所司神官等解文(神代三陵志)の「五部神」表記からも推定可〔日本歴史地名大系 「五大院跡」←コトバンク/五大院跡〕) 日隈さんは観音寺を天台宗と推定してますけど、金剛山麓という立地的にも、また江戸期に真言宗寺院だった(日本歴史地名大系 「観音寺跡」←コトバンク/観音寺跡)ことからも、仮に天台宗としても天台密教化して五大院と宗派的距離は近かった可能性があります。
 石清水八幡宮の獰猛な経済活動については、あまり知りませんでしたけど……下記の博多の事例からして有り得る話のようです。全国の八幡宮ネットワークは、(神宮寺の仕組みを通して)あらゆる社寺に浸透してギルド(結社)化し、実質的な中世の「商社」網を成していた疑いがあるようです。
 つまり石清水八幡・中央はその経済戦略に沿い、政界に働きかけて五大院領をセッティングした。五大院は、阿多に対宋利権に喰い込む駐在員派遣を命じられた、という見方もできるのです。

『日本風土記』巻二、商船所聚には、 「我国海商聚住花旭塔津(博多津)者多。此地有松林、…。有一街、名大唐街。而有唐人、留恋於彼生男育女者、有之。昔雖唐人、今為倭也。」すなわち博多には「大唐街」があり、海商が多く住んでいたが、16世紀終わり頃には倭人と同化していたという。この唐人を、宋代海商とする説(森克己1975、佐伯1988、川添1988、林1998)と、明代海商とみる説(榎本渉2005)の両説がある※。
(略)彼らの財力と技術は、荘園開発をもくろむ寺社勢力からも注目された。
 当時、比叡山延暦寺や石清水八幡宮など関西の権門寺院から九州に入ってきた僧侶たちは、まず観世音寺などの古代以来の大寺院に学僧などの形で入り込み、中央の最新の教学で地方の古い教学を論破・屈服させて主導権を握り、次に如法経信仰を唱導する天台浄土系勧進聖を中央から呼び込んだ。彼らは旧郡司層などが独占する利権から閉め出されていた新興武士・名主層や中国商人を、自らが主催する経塚造営や寺社興業に結縁させることで寺院やそこが保有する荘園経営の利権に呼び込んだ。
 中世景観を特徴付ける港湾・都市→農村・居館→山岳・宗教権門という重層的構造ができあがると、相互の連携が前代にない効率と収益をもたらした。こうした合理的なシステムは、仏教的な勧進システムと中国商人の財力・技術力を結合することではじめてその枠組みがつくられたと考えたい 中国商人たちも檀越として寺社経営に参加するようになり、その枠内で各種開発を展開し、両者の共生関係が成立していった。〔後掲桃﨑〕

※「日本風土記」は侯継高「全浙兵制考」(1592年成立の)附録を指すけれど、中國哲學書電子化計劃(→全浙兵制考)で検索する限り上記の記述は見当たりませんでした。

 ここで言う博多の「大唐街」がどこなのか、分かりません。ただ……「唐人町」の漢訳のような気がしてなりません。「港湾・都市→農村・居館→山岳・宗教権門という重層的構造」は、社会階層に置き直せば「海民-(日中)海商-寺社」とも捉えられます。この点は後述するとして、話を南九州に戻し、先の日隈さんの五大院領阿多北方所在説の根拠に触れておきます。

 阿多郡の五大院領については.他の郡院別符の場合と異なっている。阿多郡の五大院頷に関しては,鎌倉中期阿多北方地頭鮫島家高が五大院領・八幡新田宮領押領や年貢収奪行為をした事に関する前述宝治元年(1247)10月25日付関東下知状案を素材として考察する。猶前述薩摩国建久図田帳には.阿多郡内に五大院領・八幡新田宮領の存在が記載されている。鎌倉初期鮫島宗家が阿多郡地頭に補任され.その後宗家は阿多北方を嫡子家高に.南方を次男宗景に譲与した(68)。阿多郡内の五大院領・八幡新田宮領は.鮫島家高に押領されるので阿多北方に存在していたと考えられる(69)。〔後掲日隈〕

※原注(68)東郷義弘「薩摩国の鮫島氏と二階堂氏について」(「史創」6. 昭和38年)。
(69)勿論阿多郡内の全ての五大院領・八幡新田宮領が阿多北方に存在していたと断言する事は,難しいと思う。阿多南方に関しては史料が乏しく,阿多南方に五大院領・八幡新田宮領が全く存在していなかった事を証明する事は出来ない。取り敢えず本編では,五大院領・八幡新田宮領が阿多北方地頭鮫鳥家高に押領される事から考えて.五大院領・八幡新田宮領の殆どは阿多北方に存在していた可能性が強いと考えて論を進める事にする。

「押領」を働いた鮫島家高さんがどうなったかというと、地頭職は解任、領地は没収されてます。ただその後へは中央から二階堂氏が来てますから、五大院に領地所有が復したようには見えません。かつ、南方の次男宗景は罰せられてません。さらにその後に鮫島・二階堂両氏を傘下にして加世田一帯を征するのが、伊作島津氏です。
 本稿の立場では、五大院領が北方にあったか否かはまあどちらでもよい。重要なのは阿多北方の私領の所有者が、五大院(八幡宮勢力)→鮫島→二階堂→伊作島津と目まぐるしく変わったという点です。鮫島と伊作島津は武力で、二階堂は中央の政治力で手中に収めたのですから──鮫島押領事件は事の成行きから察して八幡勢力と幕府の暗闘が察せられます──その交代劇はかなり過激な強制です。中央に伝わった史書の記録がそうなのですから、現場の実態はより過激だったでしょう。つまり、阿多は全国から寄って集って奪い合う土地だった。
 その争奪の過酷は、いわばこの蠱毒の壷のような土地の最終勝者・伊作島津がその代のうちに九州を征するほど凶暴だった、という事実からも推して測れます。
 かつ、阿多南方はその争奪戦から漏れてます。北方だけが奪い合われた。これは争奪の対象が、阿多という広域エリアではなく、万之瀬川北岸の特異点だったことを示唆します。
 本章はそれが、本章初めに推定した中流湾入部(→前掲図)であったと推定します。

五大院阿多領48町の所在

 この五大院領の所在については、直接には、(弥勒寺領を合わせ)48町という数字(←建久図田帳前掲部)しか我々に残されていません。
 この二桁の数字は、何かを語るでしょうか?……という、まあ地図上の遊戯と思って気楽にお聞きください。
 48町という領地面積は、メートル換算で48ha(1町=10050㎡(約1ha))〔後掲更科日記紀行〕。方形で692m四方、円で半径391mに相当します。
 そう巨大な農業地ではありません。けれど、現代の水利の行き届いた金峰町ではなく、先に見たような潟地が所在したと前提をとるならば──今回歩いたワシ自身足腰で納得させられたところですけど──現・金峰支所付近の史跡がほぼ高台にあることからも、尾下以南に中世の農地はなかった(湾又は泥濘地だった)、ともう一つ推量を進めることが出来そうです。
 さらにもう一つ、日隈さんも「南方にもあったかも」としていたように、五大院領が阿多に分散していたかどうかという点です。これは、石清水八幡宮の戦略目的から考えて、八幡「本部」は交易拠点として使えるまとまった土地を政治的に確保した可能性が強いでしょう。五大院側の駐在員も、だからこそ派遣に同意した。つまり北方の万之瀬川岸・当時の湾入に近い一箇所とするのが、無理のない想定です。
 尾下以北かつ川岸湾入に近い48町一箇所の耕作地──となると、選択の幅は狭くなる、どころかこの平坦部しか取れないように思えました。

(上)金峰町池辺住所区域 (下)合条件の48町所在想定地〔いずれもGM.〕

 歩いた当時は不覚にも全く気にしてませんでしたけど──池辺という住所区域は、上図のように東西に細い。これは元の呼称区域が相当に広かった、おそらく狭義の北方と重なるほどの広域だったけれど、後代の集落地名に「喰われた」痕跡に思えます。つまりかなり古い。
 何より、前掲鮫島家高さんによる押領訴状に(五大院領ではないけれど)池辺村の地名が書かれています。角川日本地名大辞典の転記に近くなるので、出典は下記展開としますけど──石清水八幡宮「本部」の戦略を前提にすれば、この池辺が交易中心だったとする仮定は、以上一応成り立たなくもないかな?と思って書いてみました。

金峰町池辺の中世記述 ▼展開

牟礼ヶ城跡案内板〔GM.〕


広く分布する地名「トウボウ」

 とまあ色々ありましたけど宣言通り柳原論文に戻ります。もう一点、地名についてです。
 先に侯継高「日本風土記」の博多「大唐街」が唐人町の漢訳ではないか、と疑いました。

(再掲→原文)我国海商聚住花旭塔津(博多津)者多。此地有松林、…。有一街、名大唐街。而有唐人、留恋於彼生男育女者、有之。昔雖唐人、今為倭也。〔後掲桃﨑 日本風土記\侯継高「全浙兵制考」(1592年成立)附録 ※中國哲學書電子化計劃

【引用者和訳】我が国の海商で花旭塔津(博多津)に住み着く者が多い。この地には松林があり、…。一街あり、名づけて大唐街という。中国人のうちには、そこで男を生かし、女を育てようと願い留まる者がいるのである。昔は中国人だったが、今は倭人に同化してしまっている。

 かつては「天孫降臨」がそもそもそうだったと疑われた※ように、徐福「難民団」が九州に渡来したように(濵田博文「邪馬台国は、近畿にも北部九州にもなかった」文芸社,2019など)、異民族支配の続いた中国史から考えて、古代より後も漢族系海民の九州渡来は継続したと見るのが自然です。彼らの住み着いた土地は、中世後期から近世には唐人町と呼ばれた。それがより古くは「唐坊」と呼ばれた、とひとまず仮定しましょう。──なぜ呼称が異なるかと言えば、前述のように古い時代にはその外国人しかいない土地があったと推定されるからです※※。唐人町のように、日本人の町の一画ではなかった。

※イデオロギー的に感情的な議論が多いけれど、2010年発表の研究(オクスフォード大学遺伝学研究チーム クリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及びカラー・レッド(Color Red))で、天皇家のY染色体ハプロタイプはD1a2a1a2b1a1a(D-CTS8093)系統と結論づけ(一塩基多型(SNPs)及び縦列反復数(STRs)解析結果)、古い(沖縄でメジャーな)縄文系タイプと推定されています。

D2/O3/O2b*/O2b1 が豊富な沖縄県人をベンチマーク分布として使用すると、O3/O2b* 人口の一部が縄文人の子孫である可能性があるため、推定は日本の縄文人の子孫として日本の天皇の確率が 80% にも達する可能性があります。〔カラーレッド発表転載←後掲日本の生活と旅行ガイド〕

 ちなみに、縄文系であることと海民であることは矛盾しません。それどころか上記推定が、沖縄人をベンチマークしていることからも海民である蓋然性すら示唆します。なぜかイデオロギー的な記述は記しませんけど……短絡的に言えば、天孫降臨は沖縄諸島から九州への渡来だったかもしれないわけです。
※※「坊」の原意:方形にくぎられた町の区域〔坊の解説 – 小学館 デジタル大辞泉←goo辞書〕

 持躰松遺跡から西南西約3km、当房という地名があります。「唐坊」と漢字は二文字とも違いますけど、柳原さんはこれを中国人居留地の痕跡として取り上げてます。

当房公民館と同名バス停〔GM.

 万之瀬川旧河口部左岸に現在、当房という地名がある。読みは「トウボウ」である。延文6 年(1361)4 月20 日「島津道春譲状」(下野島津家文書)などには、「唐坊」という表記であらわれる(中世には加世田別府内にあったので加世田唐坊と呼んでおく)。(略) 報告者は、先に見た立地や博多との地名の一致から、加世田唐坊も中国人居留地であったと推定している。(略)博多以外の唐坊が存続した時期については、これらが博多唐坊の支店的存在であったととらえ、12 世紀半ば~ 14 世紀初めと推定している。[後掲柳原,2017]

トウボウ地名分布図[後掲柳原,2017]※原図:柳原「中世日本の周縁と東アジア」(2011)本文註1より
──確かにこの分布は、西の海を渡って流れ着く場所、としか考えようがありません。
 土地勘のないまま、敢えて補記してみます。前回のバス行で、当房の他にも唐仁原などの地名を確認しています。

内部リンク→m171m第十七波mm野間岳/山下さんの昔話/唐仁原・唐仁塚川・当房

私の出身はこの万世の「唐仁原」ですが、字の通り中国からの渡来人による由来といわれています。一帯は万之瀬川の河口港として中国や南方からの船でにぎわった歴史があり、唐仁塚川という名称の川が流れ、ふなを取っては遊んだものです。〔同頁掲:こんな校歌を歌っていました。万世小学校、万世中学校、加世田高校 – 平和とくらし※〕

※URL:https://blog.goo.ne.jp/genki1541/e/f74726af13ecf9185f0e5b1472c7ed1a

 この当房は、GM.上は前掲の「当房公民館」しかヒットを見つけられませんてした。また、本稿で想定したように万之瀬川北側が交易の中心だったとすれば、此の地点はちょっと距離があり過ぎるようにも思います。ただこの公民館地点のすぐ北東が、住所「唐仁原」のエリアです。偶然にしてはあまりに近接し過ぎているのです。

当房公民館と字・唐仁原〔GM.〕

続々「発見」される薩摩塔

「当坊」地名と「分布」アプローチでの繋がりとして、柳原さんが並列して見ているのが薩摩塔でした。

昭和33年、初めて清水磨崖仏を訪れたその次の日、7月11日には、齋藤は坊津へ調査に行った。そこでもう一つの「発見」をすることになる。齋藤が「薩摩塔」と名付けた異形の仏塔と出会ったのだ。(略)清水磨崖仏と同様、ここから「薩摩塔」研究がスタートする。〔後掲南薩日乗〕

坊津で最初に「発見」された薩摩塔(坊津歴史資料センター輝津館(南さつま市坊津町)所蔵)〔後掲高津〕

「薩摩塔」は中世から名も無くして立っていたのが、戦後になって特異な建造物として認知されたものです。当初は鹿児島下のもののみが知られていたからこの名がつきました。その後、鹿児島県のほか長崎県、佐賀県、福岡県でも「発見」され現在は30余基を数えます〔後掲高津〕。
 製作年代は2024年現在の研究段階で、12〜14C、ほぼ鎌倉期と見られています(詳細下記展開参照)。──ここでは石材産地・中国浙江省麗水市霊鷲寺石塔の紀年銘・南宋嘉定9~11(1216~18)年から、メディアンは13Cと捉えておきます。


 さて、万之瀬川流域に関わるのは、この薩摩塔の分布です。そもそも齋藤が発見した薩摩塔は、初見の坊津とそれに続く南九州市と以後の南さつま市の計4例でした〔後掲高津,2015〕。※霧島市隼人町の一例を加え計5

図1 薩摩塔分布図〔後掲高津,2015〕

 この一覧は後掲高津4頁目(PDF内p216、図1)にあります。
「薩摩塔」が注目され、定義されるに従い、数の上ではその「本場」は北九州、主に博多と平戸周辺に発見が相次いだわけです。意地悪く言えば、北九州ではそれほど珍しくなかったことになります。
 そこで鹿児島県側も「努力」したものらしい。具体的には後掲橋口2013(→高津原注9)で「加世田唐坊遺跡地の当房や持躰松遺跡に隣接する芝原遺跡、加世田の地頭所でも発見され」たためのようです。追加した地図が下記です。なお、この一覧はみつかりません。
図3 薩摩塔分布図[後掲柳原,2017]※高津孝氏作成・提供

(薩摩塔が)12 ~ 14 世紀前半に中国で制作され、九州各地に舶載されたという共通理解が得られていることは重要である。そして、報告者にとって最も注意されるのが、薩摩塔の分布である。上述のように福岡県、佐賀県、長崎県、鹿児島県と、九州北西部および鹿児島県南西部に偏在しているのである。これは、トウボウ地名の分布と大枠において重なると言ってよい( 8 )。制作された時期も唐坊の推定存続時期とほぼ一致する。
 そして薩摩塔は、鹿児島県では万之瀬川流域に集中している(9 基中7 基)。このほか同地域では宋風獅子も2 件4 体確認されている。特に橋口亘氏の調査によって、薩摩塔が加世田唐坊遺跡地の当房や持躰松遺跡に隣接する芝原遺跡、加世田の地頭所でも発見されていることの意味は大きい( 9 )。加世田唐坊居留の宋人によって建立されたり、持ち込まれたりした可能性があるからである。[後掲柳原,2017]

 なるたけ素人の読者にこそ判定して頂きたいんですけど──数年を経ずしてドットを追加された上記二つの地図を見比べて、どう思われるでしょうか?将来、専門的にはどんな通説に落ち着くか分からないけれど……専門家にしか判別できない定義で、専門家が努力すればある地域に多く発見されるというのは、どうも恣意的な感を受けます。
 殊更に長い議論にするつもりはないんですけど──この点をより公正(科学的)にするためには、高津さんの提示されている浙江石材の一石型碇石の分布を比較するのが有効と考えます。
 碇石は読んで字の如く船の「イカリ」です。──鉄錨鋳造技術がまだなかったからでしょう、中世には木製の爪の碇に重りとして石を取り付けて、投錨していたものらしい(詳細は下記展開内)。水中考古学と呼ばれる分野の急速な発展で、この重り石が発見されるようになったのです。

海中碇石の考古学事始め ▼展開

一石型碇石模型〔後掲松浦市〕



 この遺物群にさらに岩石学のメスを入れ、一石型の浙江石材のみを高津さんがマッピングしたのが下図です。

浙江石材の一石型碇石の発見地分布

 ここで浙江石材のみを分離する必要があったのは、日本国産と思われる石材が相当あり、かつそもそも石材の検討がなされていないものも多いからのようです(後掲當眞中一覧表参照)。後掲高津によると、上記16点は、日本で確認された一石型碇石70中、石材報告のある52点から選択したものです。
 さて、問題はこれらのマッピングをどう読むのか、という点です。──前述のトウボウ地名と薩摩塔の分布の重なりについて、柳原さんは前掲箇所(→元記述)での(8)トウボウ地名と薩摩塔の大枠での重複、及び(9)薩摩塔の阿多中心部での追加発見についめ、次のような注記をされています。
(8)は、地名と「宗教的装置」との性格の違いによるブレについてです。これは、薩摩塔が現・南さつま市で発見されているとは言え、厳密には清水や知覧など金峰町当房からはかなり遠い場所にある、との反論を予期してのものでしょう。(9)の追加発見記述は、その点のさらなる補完説明とも言えます。

( 8 )「大枠」と言ったのは、居留地と宗教的装置の立地は自ずから異なるからである。たとえば、後者は居留地内部に作られるとは限らず、山上など勝地に作られることも多い。なお、トウボウ地名の分布と薩摩塔の分布の重なりについては、中島圭一「中世社会の変質と南北朝内乱」(五味文彦・佐藤信編『日本古代中世史』放送大学教育振興会、2011 年)にも指摘がある。
( 9 )橋口亘「中世前期の薩摩国南部の対外交流史をめぐる考古新資料」(『鹿児島考古』43、2013 年)、橋口亘・松田朝由「南さつま市加世田小湊「当房通」の薩摩塔―万之瀬川旧河口付近「唐坊」比定地の中国系石塔―」(『南日本文化財研究』20、2013 年)、橋口亘「九州南部の薩摩塔と宋風獅子」(2011 ~ 2013 年度科学研究費補助金基盤研究(B)研究成果報告書『西日本における中世石造物の成立と地域的展開』〈研究代表者:市村高男〉2014 年)。橋口亘氏は、薩摩塔の流入について、①中国から肥前・筑前の沿岸部を経由して薩摩へ至るルート、②中国から薩摩への直接ルート、③中国から南西諸島を経由して薩摩へ至るルートの三つを想定し、最も蓋然性が高いのが①、次が②あるいは③としている。また、薩摩半島南部に薩摩塔が多い理由を、硫黄島(現鹿児島県鹿児島郡三島村)で産出する硫黄の輸出との関係に求めている。
なお、今回のシンポジウムの討論の中で田中史生氏より、中国船は博多入港とそこでの手続きについては国家的な管理を受けているが、帰路についてはそれが及ばなかったのではないかとのご指摘をいただいた。とすれば、博多で日本への輸出品の大部分を降ろした中国船が、帰路、九州西海岸を南下して薩摩にいたり、硫黄を積載してから中国に戻った、その際の寄港地が万之瀬川河口部だった、ということも考えられるということになる。〔後掲柳原〕※下線は引用者

(9)後段で紹介される橋口さんの指摘が、むしろ本質的なように読めました。この予想が正しければ、博多が正規交易のメイン港で、阿多は帰りに寄るサブの港、あるいは「バックドア」のように思えるからです。
 つまり、国際港湾都市・阿多が次第に主役から退いていったと想定すれば、無理なデータの読み方をしなくても済むのではないでしょうか?
 上記「トウボウ」地名・薩摩塔・碇石の分布は、性格の違いはあれ、その当時の中国からの航跡跡と言えるでしょう。そしてそれは、粗く12C・13C・14Cをメジャー値とする航跡と推測できました。そう捉えれば、各マップの重なりの指摘から一歩進んで、三者を「アニメーション」的に同一地図面に置くことは全く無謀なことではないと思います。
 どうせ素人なので……試みに一枚にしてみたのが下図です。

赤:トウボウ地名[≒12C]
黄:薩摩塔[≒13C]
青:浙江石材碇石[≒14C]
の各分布海岸線

 前期倭寇とも重なるこの12-14Cの時期の初め、中国大陸では漢族が女真族とモンゴル族の凄まじい侵略に曝された時代、九州西岸各地に難民交易村・トウボウが点在して成立した。その頃の交易拠点は北九州と阿多が南北で拮抗したけれど、中央権力の意向と資本の蓄積により次第に博多一極に中枢化された。博多交易が爛熟すると交易経済はネットワーク化する段階に入り、技術的向上もあって琉球島弧が主要中継地として浮上していく。
 阿多のワンスポットで見れば、
12C:本店
→13C:(博多の)支店
 →14C:支店機能も劣化という段階的衰退を辿ったと読めるのが、前掲三尺度の分布なのではないかと考えます。
 これは実は、持躰松遺跡群のこれまでのところの発掘結果とも整合的でもあります。商取引機構を欠いた物資集積場としてのみの機能は、膨大な遺物と集落地の未発掘(不存在?)と整合します。
 阿多は、現在のところ、プレ大交易時代で機能を停止した自然港だったと考えるべきでしょう。
デッキを歩くベラ〔Poor Things〕

❝Ⅴ❞ 大山祇メンヒルから幻視されるもの

 そういう訳で、阿多の時空のうち焦点を合わせるべきは古代、遅くとも阿多氏の交易時代12C半ばまでであるはずなのですけど──やはり「大きな物語の影」が幻視できるだけです。
 そこが堪らなく面白い土地だとも言えるのですけど──以下は前章初め、矢石の由緒の再掲です。古代の阿多の歴史風景は、朧にはこの物語に象徴されている、ような気がしています。

 大昔、金峰山の神様と、野間岳の神様が戦いをした時、金峰山の神様はススキの穂を矢のように投げられた。金峰山から投げたススキが野間岳の神様の目にささって野間の神様は片目になった。また野間あたりの伝説では、野間岳の神様の投げた石が金峰山の肩にあたって、(三の嶽の方)そちらの肩が落ちていると云う話がある。

尾下の矢石(尾下農村研修センター前)
 その投げた石が金峰山まで届かず、途中で落ちたのが矢石だと云う。その矢石は、高橋の室屋商店前の曲がり角に一基、尾下の農村研修センター前道路に一基、中津野の加治屋英二氏所有の山の下に一基、計三基ある。〔後掲南さつまの観光案内/上古 伝承〕

 一方が片目を、他方が肩を失うほど激しい争乱があった、というのです。それは野間岳と金峰山の間で戦われた。戦ったのはおそらく古代海人族でしょう。その中に皇祖神もおり、大山祇神もいたのでしょう。

山角ヶ岡山頂の大山祇神霊跡

 この日の歩きでは遠目にスルーいたしました金峰町新山・大山祇神社(→GM.:地点)は金峰山最西麓。以下引用前段の伝承によると、元はより奥山にあって「南方」を合祀したという。──この日に訪れた中津和・南方の建御名方と事代主の両神は、かの山中から移された可能性もあるわけです。
 なお大山祇神は、西日本一般には愛媛県大三島の神社が有名だけれど、より記紀神話の故郷に近い西九州ではその名(大山祇=大いなる山霊)の通り明らかに山岳神です。

 創建年代は不詳であるが、はじめ新山東の山中にあり、明応五年島津某により再建され、天保三年頃現在地に遷座した。当時は諏訪神社も祀っていたが、諏訪神社は明治五年に中津野の南方神社に合祀され、(略)
 当社の後方山角ヶ岡二〇〇メートルの山頂には大山祇神霊跡があって、古代人が信仰崇拝した盤座(メンヒル)とされ、直下の平坦地は命を祭った神社の跡(盤境)とされる。大正初期の頃までは円墳があり、標石として自然石の塚が建てられていた。またこの周囲には多数の巨石が分布し、天保以前には南面の崖の巨岩の下にお宮があって横穴殿と呼ばれ、命が都した跡と伝えられる。ここに紀元二千六百年を記念して「神代遺蹟大山祇神遺趾」の石碑が建立され、昭和十五年十一月十日県指定史蹟となっている。
 神社付近には、大山祇命の御営田と伝えられる宮田、御衣祓田、一町田、木花咲耶姫の遺蹟・狹田長田、及び山幸の遺蹟・山崎があり、また同所を流れる川を鳥居川と呼んでいる。〔後掲鹿児島県神社庁〕

「大山祇神霊跡」などの元の神社は、GM.はもちろんほぼヒットがありません。おそらく沖縄の御嶽のように、地元でひっそり管理される秘地なのではないでしょうか?
 それにしても、各地のオオヤマツミ系の神社にこんな古代呪術の臭いのする盤座(メンヒル)を伴うものがあるでしょうか?

大山祇命の霊跡は、新山字山角の山頂約200mにあって、巨岩怪石が積み重なっており、これが神代の霊跡地として今に伝えられている、即ち盤座で古代人が御神霊として信仰崇敬した。この盤座の直下の平坦地は、往昔命を祭った神社の跡と伝えられ、大正初期の頃までは円墳形の古墳があって、標石として自然石の塚が建てられていたそうである。またこの周囲には多数の巨石が布置してあり、南面の崖の巨岩の下には、横穴の埋没した形跡があって、ここを横穴殿と呼び、天保以前まではお宮があって、命が都としたところと伝えられている。〔後掲南さつまの観光案内〕

「命が都としたところ」?……というと、大山祇の国●●●●●があった、という伝承になります。考えてみれば──神道で冠される「日本総鎮守」の尊称、日本全国で44百※という広がり、この割と身近な感のある神サマは物凄い大きな勢力の象徴ではないでしょうか?

※1972年8月神社本庁調査による①大山祇神社(山積神社/大山積神社/大山津見神社含む:897社),②三島神社(三嶋神社含む:402社)及び②山神社(山神神社含む:3075社)の合計〔『大三島宮』大山祇神社発行←wiki/オオヤマツミ〕

最強呪術神としてのオオヤマツミ

 記紀に、大山祇は直接にはあまり登場しません。系図上はイザナミ・イザナミの子です。我はオオヤマツミの娘なり、という名乗りばかりが多い。まるで「◯◯出身」ですと名乗るかのようです。
 ほぼ唯一の登場箇所は、天孫降臨したニニギ神の呪詛者としてです。ちなみにこの箇所は書紀では、主体がイワナガヒメ、つまりフラれた逆恨みに単純化されてて、つまり発禁になってます。

 爾大山津見神、因返石長比売而、大恥、白送言、我之女二並立奉由者、使石長比売者、天神御子之命、雖雪零風吹、恒如石而、常堅不動坐。
 亦使木花之佐久夜毘売者、如木花之栄栄坐、宇気比弖貢進。此令返石長比売而、独留木花之佐久夜毘売。故、天神御子之御寿者、木花之阿摩比能微坐。〔後掲古事記の原文〕

【読み下し文】 ここに大山津見神、石長比売を返したまひしによりて、大(いた)く恥ぢて、白し送りて言ひしく、「我が女二(ふ)たり並(なら)べて立奉(たてまつ)りし由(ゆゑ)は、石長比売を使はさば、天つ神の御子の命(いのち)は、雪零(ふ)り風吹くとも、恒(つね)に石(いは)の如くに、常(とき)はに堅(かき)はに動かずまさむ。
 また木花の佐久夜毘売を使はさば、木(こ)の花の栄ゆるが如(ごと)栄えまさむと誓(うけ)ひて貢進(たてまつ)りき。かくて石長比売を返さしめて、ひとり木花の佐久夜毘売を留めたまひき、故、天つ神の御子の御寿(みいのち)は、木の花のあまひのみまさむ」といひき。〔後掲古事記の原文〕
【現代語要約】ニニギが容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返すと、『古事記』ではオオヤマツミはそれを怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。〔wiki/オオヤマツミ〕

オオヤマツミのイラスト画像
 皇祖神の神話上の寿命には諸説あり、史学的な記紀観の問題となってきたけれど、とにかくニニギに娘を出戻らされたオオヤマツミが怒って呪ったから人並みの寿命になった──ということはこの呪詛は、皇祖神をカミからヒトに転位させた、神学上画期的なものです。
 しかも最後の呪詛本文が面白い。
「此令返石長比売而、
 独留木花之佐久夜毘売。
 故、
 天神御子之御寿者、
 木花之阿摩比能微坐」
 寿命を短くしてやる、という表現は古事記本文には「木花之阿摩比能微坐」(木の花のあまひのみまさむ)、花の咲く間ほどしか生きられない、と言うのですけど、これは構文上明らかにコノハナサクヤ姫(木花之佐久夜毘売)の「木花」と対になってます。ということはコノハナサクヤの名前そのものが、この呪詛の依代として名付けられているように読めるのです。
 合わせて読むと面白いのが、次の天孫降臨譚です。主人公は同じくニニギですけど、神話上の順序は上記コノハナサクヤ嫁入譚よりもちろん前。でもこれを、オオヤマツミの強力な呪詛の後と考えると……「天磐座」がまさに金峰山頂のメンヒル、俗に言えばコノハナサクヤ姫とともにニニギが駆落ちして逃れた、あるいは追放されて落ちた情景に読めるのです。

于時、高皇産靈尊、以眞床追衾、覆於皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊使降之。皇孫乃離天磐座、天磐座、此云阿麻能以簸矩羅。且排分天八重雲、稜威之道別道別而、天降於日向襲之高千穗峯矣。既而皇孫遊行之狀也者、則自槵日二上天浮橋立於浮渚在平處、立於浮渚在平處、此云羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志。而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、頓丘、此云毗陀烏。覓國、此云矩貳磨儀。行去、此云騰褒屢。到於吾田長屋笠狹之碕矣。〔後掲日本書紀について/日本書紀巻2瓊瓊杵尊〕

【現代語訳】 時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)(玉座を覆う襖)で、瓊璦杵尊(ににぎのみこと)を包んで降ろした。
 皇孫は天の磐座(あまのいわくら)を離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道を踏み分けて進み、日向の襲(ひむかのそ)の高千穂の峯(たかちほのみね)にお降りになった。
 皇孫はお進みになり、槵日の二上(くしひのふたかみ)の天の梯子(あまのはしご)から、浮島の平な所にお立ちになって、瘦せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて、吾田国(あたくに)(南九州・阿多地域)の長屋の笠狭崎(かささのみさき)にお着きになった。〔後掲古代日本まとめ/日本書紀・日本語訳〕

 実は書紀のこの箇所は、記紀で唯一、阿多に該当する地名が書かれる記述です。皇祖が阿多にいたとする解釈はこれを根拠とし、戦前には笠狭宮跡碑(→GM.)が建てられました。
 以上を前提とすれば、

①オオヤマツミの「金峰山王国」があった。
②ニニギはオオヤマツミの下位者だった(になった)。
③オオヤマツミは(コノハナサクヤ譚に類する紛争で)ニニギを追放した。
④パトロン(上司)を失ったニニギは、新たな勢力(豊玉彦)へ必死に取り入った(その子ホオリ・孫ウガヤを異形の豊玉彦の娘と結婚させた)

……という話の続きが、「神武東征」と言われる皇祖流浪だったかもしれません。その先はもう紙が尽きまして次章に移しますけど──個人的にどうしてもダブルイメージになるのは、渡畑遺跡で唯一見つかった寧波製瓦の小屋(→前掲)と、異形の母が皇祖ウガヤを産んだ「海辺波限以鵜羽為葺草造産殿」(古事記 上-7→009-4@豊玉【特論】異類婚姻譚/■レポ【古事記】異類の連続押掛け女房・豊玉-玉依姉妹神伝):波打つ海辺に鵜の羽を葺草とし造った産屋です。普通に考えて、阿多での皇祖は酷く困窮していたと捉えられます。

(再掲)祠堂イメージ:慈城刘家祠堂(2017,宁波市江北区慈城镇,明代建)〔維基百科/刘家祠堂 (宁波) 浙江省宁波市江北区慈城镇祠堂〕

 いずれにせよ、前掲金剛山のメンヒルを初め観音寺や清水磨崖仏エリアなど、通常の日本史からして桁外れに古い山岳信仰の痕跡が阿多地域には異様に多いのは、古代の何らかの政治的勢力の残存とうっすら想像することができます。
 ここもスルーしてますけど……齋藤彦松(→前掲展開参照)が発見した清水磨崖仏は、なぜか国の文化財からは外れているけれど、訳の分からない古さを伝えてます。地元伝承では平家の落武者起源を伝えますし──

『川辺名勝志』によると,月輪大梵字横に弘長4(1264)年彦山住侶の刻銘のあったことが記されている。また,左方に離れて刻まれている宝篋印塔には永仁4(1296)年平家幸,平重景が比丘尼清浄の供養の目的で刻んだ旨が記されている。〔後掲鹿児島県〕

 サンプル2つではあるけれど同一年代を指すので、当面13C創始と考えてよいでしょう。
 これが、明治に至るまで脈々と彫り続けられているのです。一体、何に発する宗教的情熱がこの磨崖仏群を生み出してきたのでしょう?
 淡く想定される仮定で、章末を汚します。オオヤマツミは大山祇神(85%)、大山津見神(9%)、大山積神(5%)と用字は違うけれど(大山祇神社「大三島宮」1972年8月調査の同神社本庁傘下10,318社中)、音は同じです。この音は

オオ:大いなる
ヤマ:「山」
ツ :助詞相当「の」
ミ :「神霊」

と解されてますけど、古事記神生み神話では他にイザナミを死に至らしめ斬られたカグツチの死体から生まれた八神に、(正鹿(まさか)・淤縢(おど)・奥・闇(くら)・志芸(しぎ)・羽山・原・戸)「ヤマツミ」があります。つまり分離できないように見える「ヤマツミ」の4音は、「ヤマト」(日本)及び「ヤマタイ」(邪馬台)と通じてはいないでしょうか?

清水磨崖仏の宝筺印塔〔後掲ワシモ〕

 邪馬台国議論は、現在の陸人の感覚から陸の広い耕地を無意識に前提としていますけど、古代の島国では海人の「広い海域」を指してもおかしくないと思います。金剛山を中枢としたオオヤマツミ=大「ヤマタイ」を主とする南九州海域が、即ち邪馬台国、かつ大「ヤマツミ」国だったからこそ、小「ヤマツミ」国=大和朝廷の領域各地、なかんずくその主要交通路たる瀬戸内海に「日本総鎮守」として祀られてきたとは考えられないか?
 つまり、古代呪術国家・邪馬台国の文化的風土が、その宗教的中枢域たる阿多各地に山岳信仰として残存し続けたのではないかと疑うわけですけど──やはり末尾を濁し過ぎました。
ブルーバックのベラ〔Poor Things〕

■レポ:水滸後伝の描く日本人

 李応(李應)は、水滸伝の描く梁山泊百八星中、序列第十一位の豪傑。鄆州(山東省西部)独竜岡の李家荘の経営者から縁あって梁山泊に与騎し、戦役を通じ柴進と並び金銭糧食等兵站を担う。戦後、中山府(河北省定州市)の都統制、富を成す。
──というキャラクターが、曲亭馬琴が「椿説弓張月」(ちんせつ ゆみはりづき)の種本とした水滸後伝、つまり水滸伝外伝では、主人公・混江龍李俊の暹羅(タイではなく架空の南島国)渡航に加勢せんと航海中、何と間違って日本に着いてしまう──というストーリーが描かれます。
 水滸後伝は明末清初の陳忱の著ですけど、同時期にあたる秀吉朝鮮出兵(中国:万暦朝鮮役)か台湾乞師(鄭氏台湾から日本への援軍要請)の残像か、殊更に獰猛な姿が描かれてます。
 李応が着いたのは日本の薩摩とされますから、事によっては実態に近かったのかもしれません。──現在の中国ですら「日本鬼子」(鬼のような日本兵)の語は根強いイメージですけど、あるいはそれは日中戦争以前から固着したものだったかもしれません。

明官軍と戦う倭寇 「明仇十洲台湾奏凱図」(倭寇図巻)東大史料編纂所蔵(一部)

12 到得天明,掌針的水手叫道:「不好了!這裡是日本國薩摩州,那岸上的倭丁,專要劫掠客商,快些收舵!」誰知落在套裡,一時掉不出。那薩摩州倭丁,見有大船落套,忙放三五百小船,盡執長刀撓鉤,來劫貨物。扈成叫各船上頭領,都拿器械立在船頭,提防廝殺。那倭丁的小船,團團裹攏來,東張西望,思量上船。眾頭領盡把長槍抵開。當不得船多,七手八腳,不顧性命的鑽來。近船的砍翻几個,只是不肯退。燕青叫凌振放炮,凌振架起大炮,點上藥線,震天的響了一聲。那炮藥多力猛,若沿一里半里,無不立為齏粉,只因近了反打不著,都望遠處衝去,倭丁全然不怕。眾頭領無可奈何,只好敵住。相持了半日,燕青道:「大炮打不著,做起噴筒來。」將竹篙截斷,裝上火藥鐵砂,只有三尺多長,圓木塞了筒口。不一時做了一二百個,叫眾兵一齊點火,直噴過去。濺著皮肉皆爛,倒打傷了好些,方才害怕,都退到套口,一字兒守住。倭丁倒也狡猾,將生牛皮蒙著,噴筒就打不進,只是不放出套。李應道:「陸地可以施展,這水面上不可用力。這些倭丁又不顧性命,怎麼處?」喚水手:「問他可有通事?叫一個來!」水手叫著。(下に続く)〔後掲陳忱(ちんしん)/水滸後傳:第三十回陰陽設計鐵扇離殃 南北兩寨金鼇聚義〕※番号は中國哲學書電子化計劃付番

 和訳全文は一応出版されてるので、中国語が読めずどうしてもという方はお買い求め頂きたいけれど※、概略は──薩摩に着いてドギマギしてるうちに現地人と不穏な空気になってきた、というところです。気になる薩摩描写の箇所だけ抜きます。
※文庫:鳥居久靖訳『水滸後伝 1~3』 (1966年、平凡社東洋文庫)
最新:寺尾善雄抄訳『水滸後伝』 (2006年、秀英書房) 

倭丁貪婪無厭不要性命不怕殺:倭人は強欲で命知らずで殺しを恐れない

 日本に着いたと知るや、水夫は叫びます。「那岸上的倭丁,專要劫掠客商」──岸にいるのは日本人だ!奴ら絶対、交易人から略奪する気だぞ!
 水夫の予想通り「忙放三五百小船,盡執長刀撓鉤,來劫貨物」──わらわらと数百の小舟に乗り、おもむろに長刀(日本刀?)や撓鉤(熊手?)を手に、貨物を襲いにやって来た。
 そこからは戦闘描写です。でも流石は島津、いや架空ですけど薩摩勇人、という戦闘が描かれます。

戸次川合戦で神がかりの反撃を始める島津兵〔宮下英樹「センゴク」〕

「那炮藥多力猛,若沿一里半里,無不立為齏粉,(続)」──その(李応側の)火力は猛烈で、5百mやそこら四方は、潮煙ばかりになった。
「(続)只因近了反打不著,都望遠處衝去,倭丁全然不怕。」──ただし見渡すばかり遠くまで殲滅されたけれど、近くはかえって当たらず、倭人は全然恐れることがない。
 そこでついに大砲まで打ち始めます。ところが「倭丁倒也狡猾,將生牛皮蒙著,噴筒就打不進,只是不放出套」──倭人は攻撃されてもなおずる賢く、生の牛皮で偽装して、発砲中は待機し、砲が途絶えた時だけにじり寄る。
 李応は「不顧性命」──命を顧みない倭人を見て、とうとう通訳を探し交渉をしようとします。

(続)倭丁放一個小船攏來,一人搖手道:「不可放火藥!」說道:「小的是通事。這薩摩州上都是窮倭,不過要討些賞賜。」李應道:「我們是征東大元帥,要到金鼇的。要求賞賜,不過一二船到來,怎用這許多?」通事道:「倭丁貪婪無厭,只要東西,不要性命。不怕殺,只怕打。若見客商貨物,竟搶了去。爺們有準備,便是討賞。」李應道:「還是要銀子,要布帛,不知有多少人?要多少賞賜?」通事道:「銀子這裡賤,專要綢緞布帛,約有一千多人。隨爺賞些罷了,哪裡敢計多寡。」李應道:「你是哪裡人,與他做通事?」答道:「小的漳州人,泛洋到這裡,翻了船,回去不得,沒奈何混帳。」李應叫取五百匹綢緞五百匹棉布,分給倭丁。又是四匹綢緞,四匹棉布,賞了通事。小船投過去,通事叩謝道:「此去轉西北,兩日路程,便是金鼇島了。」通事搬到綢布散與倭丁,稍有不均,便廝殺起來。放開套口,大船得出,向西北而去。〔同 後掲陳忱(ちんしん)/水滸後傳:第三十回〕

 通訳の存在が仮想されているのも面白いけれど、この通訳曰く「這薩摩州上都是窮倭,不過要討些賞賜」──この薩摩はどこも困窮した日本人ばかりなので、少しばかりの施しを、と堂々と金品を要求します。
 李応が遠征中で金は要るのだと渋ると「倭丁貪婪無厭,只要東西,不要性命。不怕殺,只怕打。」──倭人は限りなく強欲で、命を投げ出してまで物を欲する。殴るのを恐れるけれど殺すのを恐れない(?)。──と脅します。
 とうとう李応「不知有多少人?要多少賞賜?」と金品の量の交渉に入りますけど、その合間に通訳に出身を尋ねます。すると通訳「小的漳州人,泛洋到這裡,翻了船,回去不得」──拙者は漳州人だ。漂流してここに着いたが、船は転覆し帰れなくなってしまったのだ。
 絹織物を通訳が倭人にびらまくと「稍有不均,便廝殺起來」──という箇所がよく解せないけれど、どうも……奪い合って殺し合い始めた、ということでしょうか?

薩摩大隅二州之兵共是一萬三百號戰船:薩摩大隅二国の一万の兵と三百の軍船

 さて、著者・陳忱は以上の「強欲で残忍な日本人」描写を、クライマックスシーンの伏線として取り入れたのかもしれません。

43 那日本國(略)其人雖好詩書古玩,卻貪詐好殺,又名倭國。那倭王鷙戾不仁,黷貨無厭。十二州共有十萬雄兵,虎踞海外,高麗國與他附近,常過去搶掠,每想暹羅繁富之國,要來吞並。當下報有革鵬來借兵,著進來見。(略)倭王道:「我海外之邦,豈容中國人所占!就差關白領一萬兵隨你去,必要殺那李俊,取暹羅國土。」原來關白是日本大將的官號,取每事都要關白他的意思,不是姓名。那關白身長八尺,勇力過人,領倭王令旨,點薩摩、大隅二州之兵,共是一萬,三百號戰船,祭旗開洋。其時九秋天氣,正是小汛,東北風順,便同革鵬到了青霓島。鐵羅漢接見,將牛羊酒米犒師。佘漏天、屠崆也到了,一同商議進兵不題。〔後掲陳忱(ちんしん)/水滸後傳:第三十五回日本國借兵生釁 青霓島煽亂興師〕※番号は中國哲學書電子化計劃付番。以下同

「其人雖好詩書古玩,卻貪詐好殺,又名倭國」──その(日本)人たちは詩書を好み古い歴史を楽しむけれども、強欲で狡猾で殺すのを好む。またの名を倭国という。……とはさらに凄い記述になってきてます。
 その国の王(倭王)は「鷙戾不仁,黷貨無厭」──猛々しく、仁徳がなく、金銭に飽くことがない。
「十二州共有十萬雄兵,虎踞海外,高麗國與他附近,常過去搶掠」──十二州(?)に十万の精兵があり、虎のように海外を窺い、高麗国ほか付近の国々は、過去常に侵掠されてきた。……というのは朝鮮出兵と後期倭寇のイメージのごちゃまぜでしょうか?
 李俊ら梁山泊百八星の一部がたどり着いた「暹羅」国もまた、かの悪逆なる倭王の食指を動かす富国でありました。そこへ梁山泊遠征側に敵対する暹羅国の勢力が、援軍を要請してしまったものだから倭王は飛びつきます。
 倭王の派兵軍は「那關白身長八尺,勇力過人,領倭王令旨,點薩摩、大隅二州之兵,共是一萬,三百號戰船」──「関白」率いる薩摩・大隅一万と、その座乗する三百の軍船。この「悪の軍勢」と旧・梁山泊の面々の激戦が、水滸後伝の見せ場になってます。

釜山鎮の戦い(1592年)『釜山鎮殉節図』〔wiki/文禄・慶長の役〕

関白 一萬倭丁 五百名黑鬼:関白と一万の倭人と五百の黒鬼

 秀吉は小男の醜男と伝わりますけど、水滸後伝の「関白」は八尺(2.6m ∵清:1尺=1/3m)の巨体の猛将。描き方が面白いのでもう少し見ましょう。次のは最終決戦に出陣する際の描写です。

47 大將軍領眾將出城,關白騎一隻白象,盤頭結髮,手執鐵骨朵,衝殺過來。〔後掲陳忱(ちんしん)/水滸後傳:第三十五回〕

「關白騎一隻白象」関白は一匹の白象に騎乗し、
「盤頭結髮」盤頭(チョンマゲ?)に髪を結いあげ、
「手執鐵骨朵」手に鉄製の『骨朵』を持っている。
「衝殺過來」(この骨朵で)虐殺を重ねてきたのだ。
 チョンマゲまで書かれてる。日本武士像は正確に、かどうかはともかくかなりの情報量が伝わってると見てよいのではないでしょうか?
『骨朵』って何?──と調べて見ると、先端がウリの形をしていた杖状の武器もので、後に儀式的に儀仗に用いるようになり「金瓜」jin1gua1と呼ばれたものです〔中日辞典 第3版コトバンク/骨朵 gu3duo3〕。古代には「椎」、武器としての一般名は「锤」で、中国北方の遊牧少数民族が騎兵作戦で多用したと伝わります〔維基百科/锤 (武器) 〕。
 これは漢字からも形状からも、秀吉のトレードマーク・千成ひょうたんでしょう。何で伝え聞いたのか、中国人はあれを武器と勘違いしたらしい。

中国古代军事著作《武经总要》有关锤的绘图 (中间)〔維基百科/锤 (武器) 〕

 もう一つ、関白軍一万の中には「黑鬼」(以下、引用外では黒鬼と書く。)五百がいたと書かれてます。これはまず間違いなく、忍者が伝わったものでしょう。ただ「那黑鬼可以晝夜在水中,饑餒時就捕魚蝦生食」──黒鬼たちは昼夜を問わず水中にいて、魚や蝦を捕え生で食っている、というのは、単に日本の魚食文化を超えて海民又は水上生活者の様を言っているようにも読めます。

45 原來是關白的計策,一萬倭丁,有五百名黑鬼在內。那黑鬼可以晝夜在水中,饑餒時就捕魚蝦生食。關白叫去鑿穿船底,海水滾進,使他扎不得水寨。這是梁山泊上水軍頭領的長技,反被他著了道兒。(略)
46(略)這暹羅國四面雖然都是大洋,只有南面離海三里陸路,其餘三面也有百里的,也有數十里的。那關白使黑鬼鑿穿了海船,逼他上岸,水寨中只留鐵羅漢、屠崆、佘漏天領三島的兵看守,自同革鵬來圍城。〔後掲陳忱(ちんしん)/水滸後傳:第三十五回〕

 かつて梁山泊の水軍が得意とした「鑿穿船底,海水滾進,使他扎不得水寨」という戦法は、船を沈めて不沈空母に仕立てる、ということでしょうか?この作業を黒鬼たちは自在に行い、海で囲まれた暹羅國をたやすく侵蝕していった、というのです。

倭丁極怕寒冷:倭人極めて寒冷を恐れる

 倭人軍が水上行動に長けた鉄壁の強敵として描かれた後、とうとう旧梁山泊サイドの反撃が始まります。倭人は「極怕寒冷」──関白兵の弱点は極度に寒さを恐れること──この点は、何が曲解されたのかよく分かりません。
 公孫勝は、道術仙人・羅真人の弟子。北京の知事から宰相に送られる誕生日祝いの品(生辰綱)を義憤から奪って梁山泊入り。梁山泊の戦いで多くの妖術使いを破り、五色の竜や大鵬召喚など法力を駆使した激戦を繰り広げ、猛暑に苦しむ自軍に涼風を吹かせ戦意を取り戻すなど気候を自在に操る。

明代木版画に描かれた公孫勝(明 陈老莲 木刻版画 水浒叶子 公孙胜)〔wiki/公孫勝〕

48 (略)朱武道:「關白勇悍,倭兵尚多。若久留城下,倘拼命來攻,當他不起。我聞倭丁極怕寒冷,一見了冰雪,如蟄蟲一般動也不敢動。只是這炎海地方,哪得冰雪?」公孫勝道:「待貧道祈一天雪來,凍死了他,只怕罪孽。」大將軍道:「倭兵犯順,自取滅亡。若被他所破,不唯我等永無歸路,那暹羅數百萬生靈,都要受他茶毒。請先生作起法來。」(略)公孫勝登壇,披髮仗劍,步罡履斗,焚化符篆。一日作法三次,到第三日,只見:
49 彤雲靉靆,黑霧述漫。吼地西風,吹散滿林落葉。撲天柳絮,霎時堆起瓊瑤。鳥群哀噪占枯枝,獸隊怒嗥藏土穴。鬼哭神愁,指枯皮裂。寒威凜凜結冰淅,冷氣蕭蕭連凍雨。(略)
50 那雪下了一晝夜,足有五尺多高。(略)那倭丁只怕冷,不怕熱,從來沒有寒衣。(略)那黑鬼可以在水里過得幾日的,只因雪天,海水都成薄冰,泅了去,如刀削肉一般,又凍死了好些。推得船來,關白同倭兵下船。公孫勝又祭起風來,一時間白浪掀天,海水沸騰,滿船是水,寸步也行不得,只好守在岸邊。三晝夜風定後,海水都結成厚冰。關白和倭兵都結在冰裡,如水晶人一般,直僵僵凍死了。〔後掲陳忱(ちんしん)/水滸後傳:第三十五回〕

 南島に雪が2m近く降り、関白とその兵は「如水晶人一般」水晶の人になったかのように、真っ直ぐ立ったまま凍死してしまいました。
──というストーリーは、旧梁山泊兵は戦闘力では歯が立たない勇猛な軍団として、関白日本軍が捉えられていたことの裏返しです。それが薩摩大隅二国の兵だったというのは、勇人の何がどう伝わったものだったのでしょう?

鹿児島市ライムライトの印象的な珈琲画像

【研究者メモ】柳原 敏昭 | 東北大学 大学院文学研究科・文学部

 東日本大震災から1月ほど、ガスが使えなかったので、自宅を離れていました。4月の終わりに戻ってみると、庭の巣箱にシジュウカラが出入りしていました。巣箱をかけてから2年ほど経っていたでしょうか。過去一度も営巣しなかったのに、留守の間に卵を産んでいたのです。雛が生まれてからの親のエサ運びは、涙ぐましいほどでした。巣立ちの瞬間には胸が高鳴りました。
 以来、「趣味は野鳥観察」ということになりました。たいした庭もないのですが、少し注意すれば色々な鳥が来ていることに気づきます。大学の構内や街の中を歩いていても、鳥の声が耳に、姿が目に入ってきます。だいぶ区別もできるようになりました。以前は、全く気にもしていなかったのに、住んでいる世界が変わってしまったかのようです。
 実に様々なものが我々を取り巻いています。しかし、存在を認識できるのはそのうちのごくわずかに過ぎません。心の中にたくさんアンテナを立てれば、人生を豊かにするものがまだまだ見つかりそうです。〔後掲柳原/教員のよこがお〕

柳原先生と庭の巣箱〔後掲柳原/教員のよこがお〕

Poor Things(原作書表紙)

■おまけ:哀れなるものたち鑑賞後 翌日朝までの鹿児島の光景

【DataMemo】
原題 :Poor Things: Episodes from the Early Life of Archibald
原作者:
Alasdair Gray アラスター・グレイ
原作 :
Bloomsbury Press 1992年発表
受賞 :上記同年Guardian Fiction Prize
(映画)
監督 :
ヨルゴス・ランティモス
ιώργος Λάνθιμος Yorgos Lanthimos(ギリシャ出身)
主演 :エマ・ストーン Emily Jean “Emma” Stone ※プロデューサー兼任
制作 :(総指揮)オリー・マッデン ダニエル・バトセック
    (製作会社)TSGエンターテインメント エレメント・ピクチャーズ フィルム4・プロダクションズ
イギリス・アメリカ・アイルランド合作(2023年公開)

鹿児島中央駅西側にて。上方に観覧車のライトアップ。

鹿児島中央駅西側にて。上方に月。

鹿児島中央駅西側の工事現場。左手中央観覧車。

朝0805、鹿児島電鉄涙橋駅より北方向。

朝0811、鹿児島電鉄宇宿一丁目駅より東側海方向。