本編の行程
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1000ジャスト京都駅発琵琶湖線新快速米原経由近江塩津行
1035近江八幡下車
土地勘全くなし。とりあえず長命寺・休暇村近江八幡行とあるバスに乗ってみる。1045
駅周辺は清楚な都会の光景。1047官庁街通り,そのままなバス停名。
1051バス停・中村下車。観光客は誰も降りないけれど道の形からはこの東西のはずです。
一度東へ行きかけて西を選ぶ。
小社。
水路が細かくあるけど古くはない。
道が左へ湾曲したら八幡神社。1057
手前に古い,石に戻りかけた仏像群17。石柱には「薬師如来●●置佛」と書かれてるけど分からない。
鳥居正面は何と南南東,琵琶湖と逆を向いています。
社には入れない。
標縄が特徴的で竹の間にピンと張った縄の中央にミカンが宙釣りにされてるみたい。
えらくドヤ顔の狛犬。
町並みは水平にはえらくクネっているけど垂直のブレはない。引き返して東へ。1109
1114小社。やはり石面は摩耗し顔が読み取れないほど。
深尾プリント工業。ユッタリと右湾曲する面白い道です。
どうやらこの区画は南北の学校の間エリア。
その先に……ここにも八幡神社?やはり南面。
篇額に「正二位公爵徳川家達書」と添書あり。
御祭神 譽田別尊(オムダワケノミコト)(応神天皇)とある。
大林村「八幡神社」
當社は,今から二千年前,三明川一帯に集落をつくり,農耕と狩猟の生活を始めた頃に,田の神として,三明川のほとりに五穀豊穣を祈り「野神」(野上神社)を祭り,また家内安全,村内安寧のため,この「鎮守の森(櫻の馬場)」に「神」を祭ったのが,始まりであると傳えられている。
當社の創建は,応神天皇が大島・奥津島神社(島町)に参詣の帰路,本社「日牟禮八幡宮」に参詣したことから「譽田別尊」を祀ったので,當社も「譽田別尊」を祭神とし「八幡神社」を名乗る。
(略)
村の鎮守であったこの地には,神木の「大杉」が植えられている。この大杉は,牧町の今はなく,その跡のみを残す樹齢八百年といわれた「天狗杉」と並び称された大杉村の「大杉」(幹周り六メートル二十センチ)が,今も聳えている。(ママ)
古くは本社「日牟禮八幡宮」から當社「八幡神社」まで一直線の道路が通じていたが,八幡城下町を建設する際,豊臣秀次により消滅させられた。しかし四月の「日牟禮八幡宮」の十三郷の祭礼には,神輿が當八幡神社で休息し神楽が奉納され,その翌日の太鼓祭の巡行の御旅所となっていた。〔案内板〕
何が元で両八幡がどう関わるのか分からない。樹木などは明らかにこちらの方が図太い。
その東へ。1152出町通り。この曲線はおそらく近世に宿場町として整備された感じです。
知ったかぶりカイツブリbyびわ湖放送
その奥の路地から道に揺らぎが出始めた。1157祠,やはり輪廓ほぼなし。
東へうねうねと進む。もう長い直線道はない。垂直のアップダウンもある。ただ旧家というほどの家屋はない。
1204いこい湯前の灰皿に数人の老人が座談会。
市立八幡保育所裏で一度北へ回ってさらに東北東行……と思ったけれど細道がある。細い水路沿い。
これを抜けると急に古い木造家屋の通りに出た。ここから道沿いに北北西へ。ad.縄手町末。1211
なぜかその30mほどだけでした。
日限地蔵尊の社。
そこからはまた普通のキレイな町並み。行く手にふたこぶの山。
ad.縄手町元。住所表示法が京都とも日本とも違う。
1219左折
やはりこの中間エリアが面白い。家は普通なんだけど道が非常に個性的。
1225ad.御恩寺町上。ここから北ははっきりと下りになる。あえて西へ。
1228ad.博労町上
木造アルミ屋根の社。中はやはり方形石
1234野間清六──邸?
延享年間(1744-1748)に下総(茨城県)結城に開店したと伝えられ,「角大」近江屋久右衛門と称し,醸造業を営みました。西井新兵衛,近江屋太兵衛らと共に,結城御三家と言われ,その中でも清六家の勢力は著しく,結城藩水野家の御用金を承り,名字帯刀を許されました。〔案内板〕
「右 永原町通り」と石柱。この辺が伝統的建造物群保存地区に指定されるらしい。
左手に小社。
1244商店街。右折北行
1251ほたる
C定食(近江牛の肉吸い)450
そうかここ,赤コンニャクがあるんだった!
──と検討してると,ここが要するに地元コテコテのスナックが昼も始めました~的なお店らしく,オバはんたちがシワ伸ばしと整形の詳細な談義を始められ,エラいバカ笑いが炸裂し始めました。
こ……これはスゴい!まさに,まさに関西!
全く休めない……。
──ただ,肉吸そのものはえらく美味。大阪京都的に技巧を凝らしたもんじゃなくて,肉質がホントに良いらしい。牛肉の他は豆腐とネギだけなのに凄まじく本格的でした。
ただ……全然味わえない。
近江八幡駅へ戻り,南口のAEONでモロコを探す。あった!これはありそうで滋賀にしかない。
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