m472m第四十七波m肉焿喰う卯の花血腥き夜m2.豊田東柵欄

▼▲そのまま正午前のバスに乗ろうとしてたんですけど──天后南に案内板を見つけてしまいました。下記を転記してるうち、バスは行ってしまいました。

 内埔老街舊名「陽濟院」、意為「羊聚集之地」。清康煕末年、客家先民沿著龍頸渓畔建立内埔庄、以媽祖廟為中心、老街成為内埔交通、経済、文化之薈萃。〔案内板〕

少し集落に入る。正午丁度。
1205陽濟路。

やっぱり食べて行こう。観光客の多い店の隣ら辺にて。妙に羊肉の文字や歴史が目立つし、おばちゃん一人でやってる店なので。──にしてもガンガンこなしていくなあ。調味は相当細かくやってる風なのに。テイクアウト客はかなり来てます。でもワシのは……まだ?

1209阿ニ゙炒飯(東陽街)
羊肉蛋炒飯
魚丸湯550

びっくりするほど美味かった。卵で焼いた炒飯というだけでなくそこに羊肉の脂身がビシッとハマ
ってる。
後方を見ると客家らしい祭壇かある。味覚が客家、なのかどうか断定し辛いけれど、この実直で丁寧さは客家のものだと信じられるように思いました。

内田村内埔村 祈福祀典會公告「拜天公」の日時公告らしい。
バス停から改めて見ると天后やお隣の弧を描く屋根のラインは美しい。

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1246バス停・内埔で待つ。

1773路 1301発豊田(四駅、一つ前:西溝尾)
ここのバス停には1250発1773路とある。8238路も1257がある。
ここにも小さな紙片の貼り紙。ただ8238路だけはなぜか書いてない……。
1259どちらも来ない。もう訳分からん。恐ろしいことに13時台の便は紙片にない8238路1347のみ。
少し曇ってきたのがお慰み。──本日16-17時に雨の予報。
1773路の始点は何と恆春。現在1311、1250便があるなら20分遅れということになるけど──あっても可怪しくないような、可怪しいような。
お?
1316、1773路に乗る。ということは25分遅れでした。四駅だけ涼を満喫しましょう。
1323豊田下車

1323豊田下車。
中正路259から折れる。いやも一つ先か。中正路251、新東路から南西行しよう。豊田國小と矢印のある方へ。
1329新東路を南西行

1331路地を覗く

新北勢庄 導覧地圖

1332新北勢庄 導覧地圖

「新北勢庄」是位於屏東縣内埔郷的客家聚落、先民為防外患在聚落四周種刺竹為林、設東西南北柵欄為出入的孔道、並祭祀伯公(土地公)。1786年(乾隆51年)建造的柵門「懐忠門」、是六客家重要的古蹟。
 日治時期在此地興建仿巴洛克式洋房雑貨店。以當地信仰中心的國王宮為中軸(略)〔案内板,2017〕

新北勢庄 福德宮

1342福德宮
右聯「東方高聳青山秀」
「東方來紫氣」
左聯「福德合陰陽」
「北向長溝綠水流」
御本尊のレリーフ

御本尊は文字の石「新北勢荘 福德正神香座位」1346
雨がポツポツ来てる。涼しくて好い。
福德祠裏の樹下の祠

裏のガジュマル下に神体を樹木とした祠。
南無阿弥陀仏が併記された交通標語

1352あった。新東路161から右折西行してすぐ、懐忠路2。
新北勢庄東柵門

三級古蹟「新北勢庄東柵門」重修碑記
 居住新北勢庄(現為内埔郷振豊村)聚落的客家人、於清乾隆丰年興建東、西、北等三柵門、且以木柵環繞庄外、防範外族的侵擾、日前僅存「東柵門」。又於清光緒26年(1900年)経由地方士紳捐款重建、門楣留有「懐忠里」匾額、彰顕居民効忠國家的事蹟。(略)〔案内板,代理縣長、中華民国94年8月吉時〕

門そのものはそれほど古くも拝まれてもいない。

東柵の門から西の道

直進西行(1408一枚)?いや左手に折れよう。道はどれもイヤに丸まってます。
東柵の門から南西への道

1408ad.富貴巷。
1410川辺。何だこの落ち着きは。
富貴街の湾曲

橋手前(橋より東側)

橋手前(橋より西側)

川向こうに祠。
1412樹下にやはり神体=樹木の祠。
福德祠裏の高みの樹下の祠

右祠の「南無阿弥陀香位」

右祠は「南無阿弥陀香位」とある石。
本堂正面より

本堂は福德祠。御神体の顔が黒かったり赤かったり。

御本尊のご尊顔

左隣の塔

左隣の塔は、最左に金爐があるからおそらく文字を焼く専用でしょう。
右聯「敬呈文字亭中化」
左聯「聖制規模世上傅」
──これは趣旨的には今帰仁・諸志で見たの焚字炉(→GM.・FASE85-3@\諸志焚字炉)に似ています。
福德祠西のY字路

青壁の道

1426富貴街58の青い壁。
富貴路の風景

富貴路の家並
 
1429富貴街103
新中路83に出ました。「坤協威」とある洋館。
洋館「坤協威」

「坤協威」の上部の文字

上にはアルファベットがあるけど読めない。国王宮とある宮が新中路の終点になっています。
洋館が多い。
対面にも洋館
やや古厝っぽい建物

馬路の湾曲(Y字分岐)にある鎮安宮

1447鎮安宮。ここで太い道は東に湾曲。
右聯「鎮守海疆威遠鎮」
左聯「安全民物◯◯◯(花に隠れてる)」
鎮安宮の賑やかな本殿──客家的な静けさをなぜかこれだけは離れてました。

1780路だったか?
1456、来たバスに慌てて手を振る。15mほど先で止まってくれたので飛び乗る。なぜか満席。
高架下。
とにかく屏東捷運站行きだと電光表示に出てます。
15時。涼しい。
やはり大学では相当の乗車がある。
yamato cafeで美式珈琲

帰着。
1528 yamato cafe
美式珈琲
ここのは味覚が二種選べる本格派です。それだけに少し高いけど、いい空間です。
(46)
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交差点対角から見た大和ホテル

壁に大和ホテル since1939とある。WW2戦前ギリギリに建った大和ホテルなんでしょう。
大和ホテル(左側)と「芳泉堂菓子」

南側の建物は「芳泉堂菓子」と文字が見えます。

1637お洗濯開始、所要55分間

1638洗濯開始。+55min.≒1730までお散歩。百元だから日本よりやや安い程度です。
越南語の店舗と屏東車站(鉄道駅)

駅西門を過ぎて──ここにベトナム語のショップがあるぞ?
屏東儒林補習班の進学実績

屏東儒林補習班の進学実績。やっぱり実名入りで貼り出すのは変わってませんけど──最近は一階への貼り出しをやめたのか、二階の踊り場にありました。

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慈鳳宮天上聖母の南側進入路……この辺から既にガチャガチャしてきてます。

1652慈鳳宮天上聖母
10行中中央2行のみ
右聯「慈心惻隱濟世無私顕赫神威崇海島」
左聯「鳳德昭彰護民有道巍峩聖蹟溯湄洲」
右側の沿革には色々あって1825(道光5)年に淡水から屏東の「崇禮里中山路卅九號面向」の聖地に入ったと書いてあり、よくわからない。
右壇……も媽祖なのでは?

左右に祠はない。
右壇は安瀾護国?これは扁額で神名ではなさそうです。左壇も同じで、要するに全部媽祖らしい。1706中央一枚。
中央祭壇前

中央祭壇前の絵馬みたいなのでワサワサになった柱

中央祭壇の隙間から微かに虎爺

裏へ。やはり台下には虎爺らしきものが見えます。
送子観音が中央に座す?

裏の左壇は文昌帝君。中央は送子観音??
右壇が太歳星君。まるまる仏教でもないのです。
従神の斧も含めてとにかく金ピカな媽祖殿

何人もが使うポエ用に消毒液を配置したらしい。

混雑時のための銀行のカウンターみたいな番号管理方式の社務所

媽祖宮抽選会、最高商品はTOYOTA車!!

明日まで抽選会を実施中。最高でTOYOTAの車が当たるらしく、裏手にその自動車が用意してありました。
どうも台湾(屏東?)の赤信号は待ってる間に告白してキスまでイッてしまうピクトさんが映ってるらしい。
線路付近は回りより少し高い。
1730まだ6分と表示。
1736終了。
夕方の駅裏はお迎えらしきバイクで一杯です。

1756洗濯物だけ部屋に置いて夜市へ。
民族路を東行。
上海素食館というのが0730オープン!ちなみに2000閉店。

屏東の滷味というのは、生野菜を滷汁の中で煮て渡すタイプらしい。

粥道という店に海鮮粥があるけど1030オープン。
高雄焼肉もあったけど同じく1030。

屏東観光夜市のGM.登録 時間:24時間──それは夜市じゃないだろ?

夜市。──歩いてると「屏東民族夜市」と書かれることが多いようでした。

「肉粿」は「東港」料理と認識されてるのか?

単に道(民族路)なのでバイクと人とのグチャ混ぜ感が本格派の夜市です。

飯焿というのがある?
あと旗魚焿!

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──という辺りまでは想像がつきました。でもこれは?

この店の店頭

1814 鮮魚湯 魚丸湯
穌[魚過]魚湯
滷味飯 370
16-2000の4h営業
「鮮魚湯 魚丸湯」さんの穌[魚過]魚湯と滷味飯

「世界最大級のハタ(龍膽石斑)『[魚過]魚』」
〔後掲RIEのアジアンライフ〕
分類
顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ系スズキ目スズキ亜目ハタ科ハタ亜科アカハタ属
外国名
Giant grouper 鞍帶石斑魚、龍膽石斑、過魚、槍頭石斑魚、倒吞鱟、鴛鴦鱠、龍躉(香港)
地方名・市場名 アーラミーバイ 場所沖縄〔後掲ぼうずコンニャク〕
(30)
[魚過]魚湯どアップ

コリコリした食感。かつ味覚も──蛋白で、大味なようで軽妙な味が深い。
東港ではついぞ見なかった文字です。なぜだろう?
帰路──角地の丸い軒の薬局

今回のお宿・時尚旅店(≒今どき旅の宿?)の夜のネオン──はちょっと恥ずかしい。

本日はまた凄い数の少年少女が入居してるらしく、一階ロビーが通れないことも。先ほどはシャワー浴びてたら呼び鈴を鳴らすので、「我哪?」と確認してから最低限着替えて「什么事?」と顔を出すと、部屋を間違えたらしい少女がドギマギしつつ「……没什么。錯的……」と掠れ声。
 やはりこの時期の宿泊はタイトらしい。

宿の壁に貼り出された警句

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■レポ:花蓮豊田村▼▲

1899年、日本の賀田組によって町が建設され、寿豊一帯は製糖業や樟脳事業に取り組んだが、気候などが合わず、成功しなかった。その後、台湾総督府は台湾の調査と評価を実施し、日本からの移民を計画的に進める。農業では、台湾西部の平野は大規模な土地獲得が難しく、しかも台湾人と日本人が同化することも日本政府は好まなかった。そこで注目されたのが台湾東部で、大正初年に豊田、吉野(現在の吉安郷)、林田(現在の鳳林鎮大栄と北林村)に農業移民村が作られた。これは、日本の人口過密を解決するためであり、また、台湾を南洋進出のための試験地とするためであった。現在、豊田には移民村の痕跡が最も多く残されている。〔後掲Taiwan Panorama〕

大正2年盛暑の7月、北海道と四国から農業移民の第一団がやってきた。移民村の建設はまだ完成しておらず、彼らは異なる気候に悩まされただけでなく、伝染病や野獣にもおびえて暮らさねばならなかった。食生活の基本であるコメも、また大量の石灰質を含む水も、彼らには馴染めなかった。〔後掲Taiwan Panorama〕

移民村の最高機関であった豊田移民指揮所は、現在は村おこしの中心的な場である村民センターになっている。地元で「医者の家」と呼ばれる建物はかつての医療所で、玄関の屋根には今でも鬼瓦が残る。人々の心の拠り所だった豊田神社(現在の碧蓮寺※)には、狛犬や参道の石灯籠、鳥居などが残されている。〔後掲Taiwan Panorama〕※GM.

『花蓮港庁下の産業』によれば当時の豊田村には計911名、180戸近い日本人農家が生活し、近隣の吉野村、林田村と合計すると3386名に及んだという。〔後掲Taiwan Panorama〕

日本人が去ったあとは田んぼや日本式家屋が残された。豊田移民村の物語はその後も、75%の客家人、25%の間南人(福建省南部からの移民の子孫)に引き継がれていく。1955年には新たな移民も加わった。中国大陸からベトナムヘと戦争に赴き、フランス軍に捕らわれていた人々が、接収されて豊田村に移住してきたのである。また1980年代に豊田産の台湾玉(ジェイド)が色と質の良さで有名になった時代には、小規模ではあるが先住民アミ人の移住も盛んであった。〔後掲Taiwan Panorama〕

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