GM.(経路∶与那嶺三叉路〜屋部公民館)
目録
仲宗根からの道途絶え九月尽
仲宗根から続いた道が唐突に途絶える三叉路。1206。
この地点から西へ、クリーク状の浅海が見渡せた、と夢想されます。
左折。

与那嶺農村公園の先の水路に沿って右折。
農業用水路らしいけれどがっちりした構造です。調べても水路延長データ程度しか分かりませんでしたけど──少し東に与那嶺構造改善センター(→GM.)があります。今帰仁村農業経営改善支援センター設置要綱は平成7年(要綱第1号)制定で、食料・農業・農村基本法(新農業基本法∶1999(平成11)年制定)による廃止直前に滑り込んだほぼ最終期の農業構造改善事業の対象として、この水路も造られたと推測されます。
ネットへの表出度から考えて、けれど多分、あまり大成功はしてません。少なくとも地元に歓迎されてない。


ユナミ ユナ ユーナ ヨナ 皆海岸地
先史代から脈々とヒトの住んできた、古い土地です。下記角川の遺跡地からの推定が正しいなら、「海側の高み」に寄った集落だったことになります。巻末詳述。
方言ではユナミという。「ユナ」「ユーナ」「ヨナ」などはいずれも海岸地を指す言葉であることから,集落もはじめは海岸に形成されたと思われる。沖縄考古編年前Ⅴ期の東長浜原遺跡,前Ⅳ・Ⅴ期の西長浜原遺跡,前Ⅳ期の仏ン当洞穴遺跡,後期の仏ン当貝塚がある。〔角川日本地名大辞典/与那嶺【よなみね】〕
その湿地域を、農業構造改善事業で広域農地に転じたのが現在の与那嶺北半の景観、ということになります。


右手に丘。──これが上記色別標高図の中央の赤地点でしょう。
ペンションGUSUKUの看板を見て左折。すぐさらに左折。曲がってからさらに左折。……て、諸志の焚字炉の位置情報を追っていったらそうなったんたけど、この継ぎ接ぎを繰り返した感じの道行きは何でしょう。

迷イ家?
何だか、箱庭に迷い込んだかのような集落です。本当にヒトが居るのか?
※今帰仁村字諸志の人口 317人〔タウンチェック 令2人口推計〕

1220。
あった。
諸志の焚字炉。
〔日本名〕今帰仁村諸志69
〔沖縄名〕しょしのふんじろ(ふんじるー?)
〔米軍名〕-
焚字炉は字を書いた紙(字紙)を焼く炉で,別名惜字炉ともいい,1838年(道光18年,尚育4)来島した冊封使林鸿年が,文字を敬重し,字を書いた紙を敬うことを説き焚字炉を設置させたのが始まりで学校や番所などに設けられたという(沖縄大百科事典)。
諸志の焚字炉は字諸志48-1番地の集落内の道路と道路の角にあり,小さな石造物のためなかなか気が付かない。〔案内板〕
何じゃそれは?というエピソードです。まあ当方も、仮目標にしただけでどうしても来る気じゃなかったんたけど……それにしても不思議な「史跡」です。巻末及び次章末参照。

(続)高さが約90cmで,幅は約60cmの方形となっている。側面は4面のうち道路に面した部分のみが確認され,紙を入れる約12cmの円形の穴がある。地元ではイシドゥールーと呼び,また「髪」を焼いたとも言われ今後さらに調査研究していく必要がある。
焚字炉は村内では,現在のところここ一ヶ所ので,県内でも数少ないといわれる。〔案内板〕
分からん!「イシドゥールー」は石灯籠の沖縄訛りでしよう。けれども「髪」を焼いた?最初の、文字を尊重して字紙を惜しみつつ焼く、という話から逸脱してしまってます。要するに、元の用途はよく分からないらしいのです。

確かに……焼却施設にしては煙突に当たる場所がない。要するに、これじゃ構造的に燃やしにくいと思われます。
──ホントに中国進貢使が置いたんでしょうか?
分からないまま、分からないからこそ、拝んで遺す。沖縄らしい「史跡」ではあるんですけど──

監守墓 三世・和賢は今泊
そこから──前回の宿題となっていた今泊の海岸へ。R505をバス停・今帰仁城入口の手前で右折北行。
フクギ道よりも、この微妙なうねりの細道が、個人的には今泊です。
(再掲)墓室内には第二尚氏王統の北山監守(今帰仁按司)の二世(介紹),四世(克順),五世(克祉),六世(縄祖),七世(従憲),そしてアオリヤエなど三十名余が葬られている。一世の韶威(今帰仁王子)は首里の玉陵に,三世の和賢は今泊の津屋口墓に葬られている。〔運天港海岸墓群・大北墓案内板記述〕
即ち、第二尚氏王統の北山監守中、まだ首里に未練のあったであろう一世を除き、唯一、三世・和賢だけが今泊に葬られた。その場所です。
1245。今泊海岸東側奥・津屋口墓と思われる場所を再訪。

蓋然性の高い古墓を拝む

奥から「玉城門中之墓」。横に「ナーファーヤー一門」。──全く情報ヒットはなく、思いつきで言いますと「那覇屋」でしょうか?
岩に穿った墓になっている。

その手前に入口に、榊を備えた古い岩墓。
中程のものが相当古そうです。岩の切り方も、精確に直線をとっています。


一番手前は、石垣のあるガッチリした墓。花瓶と湯呑のお供えあり。
右手前に碑文。石棺と岩の接合部は精緻で、漆喰がつかってあるようにも見える。該当墓は、これが最も蓋然性が高い……と思う。

碑は、最上部の「墳墓記」という三文字の題名……しか読めません。
ただここに碑文を残す形式は、運天港大北墓に相似しています。
浜を後にする。白波はまだかなり立っています。

自営霊地は沖縄名物か?
R115へ左折南行。1309。
今帰仁城を素通りして「クバの御嶽160m」の看板も過ぎる。
え?何と──そちらへ郵便配達のバイクが曲がっていきました。


本部町に入る。1318。
県道115号を南西行。

北之方御嶽へ右折。1325。
ルート上にぽつねんとあるので、気になって寄っただけですけど──沖縄には時々、こういう霊感と実行力を共に備えた人による「自営霊地」があります。

レストランハワイの秋日Aランチ
本当部でガソリンスタンドを見つけて──よし、ガス欠を逃れたぞ。 ※教訓∶何処にでもあると思うな山原GS

かなり遅い昼ご飯のお店に着くと──
え?名前を書け?まだ客待ち?でも……お席はガラガラに見えるけど?
どーも,店内に流れるハワイアンミュージックのように,とてもゆったり時間の流れるお店らしい。
待ちます、書きますよ。Aランチグランプリ初代グランプリのこちらさえ食えれば──

1355レストランハワイ
Aランチ750
まずスープが来るタイプ。沖縄食堂でよく出る薄いコク深タイプです。でもそれをゆったり飲んでも……あ、やっと来ました!

ビビーフカツ、ハンバーグ、エビフライ、ナポリタン、生姜焼き、卵焼き、さらに何故かタコさんウインナー、豚天と──確かに種類は豪華です。まあ中では……ハンバーグは旨かったかも?
今の所、マイベストAランチはやっば「あやぐ」かなあ……。

じょうるんの拝所に呼ばれ秋の虹
名護へ。国道449。
名護湾に入る手前、名護市一般廃棄物処理施設の海側で、ふとバイクを停めました。完全に通りがかりです。
〔日本名〕名護市安和
〔沖縄名〕ジョウルンの拝所
〔米軍名〕-
龍宮神の拝所。1458。
安和の西岬近く。案内板のみから考えると、漢字すらないまま今は消えた集落があったようなのです。
かつて部間には,ジョウルンと呼ばれる小さな集落が国道449号線(旧道)沿いにありました。ジョウルンの拝所は岬の岩です。拝所はリューグ様とも呼ばれ航海を含め海に関わるすべての安全を祈願する神聖な場所です。現在の片側2車線の国道449号線ができる前までは,海岸から海に突出した岩場でした。〔案内板〕
後、この位置の航空画像をみて胸を突かれました。海側道路を通る印象よりずっと激しく、この沿岸は乱開発された非情な土地です。


正面ガジュマル。
碑は多数。鳥居側に海に面して「宇天底神 百五十九の武神 天帝光明神」。小さく「太陽ん当の神々への御通し所」とある。

二番目。
ガジュマル直下に「酉ぬ方龍宮御門神」。小さく「世界の龍宮神に願立を通す神」。
三番目。九十度横を向いて「黄金軸の神 御光御水神」。小さく「黄金ガマ」。

更に海側。海を拝ませる方向で、右から「龍宮神」「御光弥勒神」「底神御水」。
不思議な拝所です。どっちを向いて拝んでいいのか分からない。──状況と数からして、元は集落「ジョウルン」の各所にあったものを、開発の進行に伴い集めた、とも考えられます。でもそれにしては神名又はそのニュアンスが微妙に重複しています。海岸の海民関係祭所のみを集めたのでしょうか?
鈎の路地 スルリと抜けて神アシャギ
名護市街に斯くして入ったんですけど──なぜか屋部の集落に迷い込んでしまいました。
1530。ここにも東屋(後掲寡黙庵さんによると神アシャギ)と、その脇に拝所があります。
正直、工事車両のたまり場みたいな場所ですけど……。
石はない。香炉二つ。

屋部が古・名護地区の海民側の拠点だったことは前々章で推定しました。

只だ、屋部の集落そのものには、この時以来何度か接近を試みるも……今に至るもまだ近づき得てません。今、それがなぜなのか、地図を確認してみました。

凄い。見事な程の鈎状路地です。公民館の辺りはともかく、道を知ってないととても入れない。ましてや通過するのは、無理です。
この日にスルリと公民館に行きつけた縁起には改めて刮目しますけど……道の付き方はこの北方の山中のそれに似た迷路状です。通常それは、琉球処分後の農業乱開発によると説明されます。でも屋部の場合、確実に古いのです。なぜこんな那覇・壺屋のような道が出来てしまうのか──改めて、訳が分かりません。
宮里そばのソーキはソウルフード

正直……決して、びっくりするほど美味くはありません。
でも何か……ここへ行かずに名護を終われない。そんな感じになってきた店です。
1553 宮里そば
ソーキそば 400

ソウルフード的に支持層の広いのは、やはりどこのそば屋よりここに見えます。
家族連れ、仕事中の一人連れとホントに多彩な客層。学生や若い衆が多いように見えるのは……やはり安いからか。
中南部のそばとはどうも違う。かといってトンデモなく繊細なのでもなくて、毎日食べれるユルい味クーターな出汁とぽっと灯を点すような小麦香、ぼさぼさっとした野暮な感じの歯応え。多分、本島で一番、日常食なそば。

※MEMO∶沖縄そばの歴史と系統
基本的には沖縄そばはキラいなので、軽くメモさせて頂いときます。
沖縄そばは、かつて琉球王国だった時代には、中国との交流が盛んで、1534年の琉球王の供養で「粉湯(汁そばの意味)」が献上された記録があり、これが沖縄そばの原型──というのは、どうも沖縄ナショナリズム的な観光ガイドのようです。琉球王朝時代にはそもそも小麦粉が貴重だったので、宮廷料理としてしか食べられなかった、というのが事実みたい。
確からしい定説としては、明治時代中期に那覇で中国人の料理人が「支那そば屋」を開いたのがルーツ。当初は豚の出汁をベースにした醤油味のスープに、豚肉とネギが具材として添えられており、本土の支那そばと似ていたと推測されてます。──岡山に残るあのタイプの支那そばでしょうか。
それが、何より米軍の持ち込んだ──その最初は収容所内でも容易に入手でき、調理できた、という事だったらしい──多量の小麦粉を活用できるという条件下、沖縄人々の味覚に合わせて豚骨と鰹節を使った出汁、三枚肉やかまぼこなどの具材が加わり、現在の沖縄そば独自のスタイルへと発展していった、という経緯のようです〔後掲沖縄生麺協同組合〕。
以下、地域別の差を【北】本島北部-【中】本島中南部-【宮】宮古諸島-【八】八重山諸島-【大】大東諸島に五分して比較してみますけど〔後掲lemon8〕、前記のように主に戦後にガラパゴス化しただけと言えばだけです。。
| ❝麺❞ 【北】太めの平麺、又は太縮れ平麺。一部では「きしめん」に近いピロピロとした食感の麺も 【中】中太縮れ麺又は細麺が一般的。手揉み、手打ちも人気。 /【那覇】ストレート細麺 【宮】ストレート平麺 【八】ストレート細麺だがツルッと柔らかい食感 【大】モチモチした麺 |
| ❝スープ❞ 【北】かつおだしの利いたしっかり濃いめの味。一部では白濁スープも。 【中】商業化してバリエーションが多く一様ではない。 /【那覇】鰹・豚骨のあっさりスープ 【宮】豚骨ガラがベースだが、昆布・鰹節・野菜を加えたあっさり味 【八】鰹節主体で脂分が少ないあっさり・すっきり味 【大】風味が強い。 |
| ❝具ほか❞ 【北】ラフテー(三枚肉)又はソーキ (今日の本島のソーキそばは北部形態の波及とされる。) 【中】かまぼこ、ねぎ、薄焼き卵。薬味として紅生姜が特徴的。 /【那覇】最初の流行地のためとにかく数が多い。 【宮】昔はかまぼこやラフテーを麺の下に隠す形があった(隠し具)。 【八】細切りの豚肉・かまぼこ・青ねぎを少量のせるシンプルな構成 【大】素朴な味わいながら手間がかかるとされる。 |
原料が安価だからそれで大儲けしてやろう、という戦後占領期の逞しい生存競争が磨いた味であり、地域差であるものらしい。
1906年の「伝説」として、中国人経営の「唐人そば」と沖縄人の比嘉さん経営の「比嘉店」(通称「ベーラーそば」)が、那覇人の人気を二分。このとき比嘉店は、卵のヒラヤーチーを載せて勝利をおさめた──という「お話」を後掲沖縄生麺協同組合は伝えています。同組合は激戦区那覇で勇名を博したそば屋の名を、年表に列記します。
沖縄そば嫌いだからこその仮定になり恐縮ですけど──こうした現代史の混沌と生存競争から生まれた沖縄そばは、食文化というよりも沖縄現代史の地層あるいは「生きた化石」として、見守るべき碗なのではないでしょうか。

■助走:今帰仁へ上るJ 序論
全般的に深層の謎にたゆたう今帰仁のそれの中でも、現住所・諸志を巡る地誌情報は、どうにも不可解かつ周囲とは異相です。
では。本編で歩いた与那嶺T字から諸志焚字炉の辺りの表層事象を、次章作業仮説への助走としてまず整理していきたいと思います。
補論1:秀才清末官僚 林鴻年
焚字炉、別名・惜字炉と称する字を書いた紙(字紙)を焼く炉を沖縄各地に置いたとされる林鴻年は、清朝史上、ぼつぼつ有名な役人でした。
ピンイン(漢語読み)Lin Hongnian(日本語読み∶りん こうねん)、1805年生-1885年没。字は勿村。福建省侯官県(現・福州市)出身。

1836年 状元※として科挙に登第
1838年 琉球王国に冊封使として派遣
(帰国後、琉球滞在記録から「使琉球録」著)
1840年 山東郷試副主考官
(国史館協修、文淵閣校理、方略館纂修などの官職を歴任)
1846年 広東省瓊州府知府
1849年 雷瓊道代理(海賊対策担当)
(太平天国の乱で団練を組織し功有)
1859年〜 雲南省臨安府知府、雲南按察使、雲南布政使を歴任
1864年 雲南巡撫
1866年 「賊を恐れ兵を留めた」として解任、帰郷(以後公式記録無)〔wiki/林鴻年〕
中央政界に出た人物ではないけれど、州知事を歴任してます。状元としては不遇だったと言えなくもないし、どういう政争からか敵への内通嫌疑で失脚して失意の晩年を送ってます。
本稿で直接重要なのは、福建、それも琉球館のあった福州出身の状元科挙合格者が、登用3年目にして冊封使、つまり一応の清朝全権として琉球を訪れていることです。林鴻年の経歴に冊封使以前のものは伝えられておらず、つまり琉球冊封使が事実上の役職デビューですから、琉球行で「使琉球録」その他の記録に記される何かの功績が評価されたと思われます。またその評価の方向は、その直後の山東郷試副主考官-国史館協修-文淵閣校理-方略館纂修というルート※から考えて、データ総合能力に長けた天才として10年ほどシンクタンクで脳細胞をフル回転させたようです。政治的出世に興味の薄い、実直で論理的な学者肌の人物だったように想像されます。
※方略館∶類似組織が複数あり特定できず。「清乾隆十全武功档案暨方略匯輯」( 上海古籍出版社の2010年出版が全13冊)という書籍を編んだのが「方略館」という組織であり、軍事史データ編纂のような業務だったとも考えられます。
さて、行きつ戻りつで申し訳ない。琉球時代の業績と高名に話を戻します。
林鴻年さんの琉球160日間
使琉球録は最も著名な陳侃のものから、必ずじゃないけど各代の冊封使が遺す慣例になってるものみたいです。中國哲學書電子化計劃その他に林鴻年さんのはヒットがない※ので次の冊封使らしい趙新の記事(続琉球国志略)から抜くと1838年の林鴻年さんの旅程は──
(原注5 第七篇第一章. 福州市志(第8册). 方志出版社. 1998-12)
_5月_4日 五虎門開洋
_____5日 半架山通過
_____6日 釣魚山・久場島通過
_____7日 久米赤島通過
_____8日 姑米島・馬歯山通過
_____9日 那覇港入港
▼ (160日余)
10月12日 那覇港出港 馬歯山通過
____13日 姑米島通過
____18日 南杞山を見る。
____19日 定海所通過 五虎門に入る。

とは言え、たった160日間です。
にも関わらず──琉球での業績は結構明瞭に記されます。
林鸿年到琉球后,首先代表清廷向已故琉球国王尚灏致祭,而后举行册封大典,宣读诏敕,册封世子尚育为王,并赐御书的“弼服海隅”匾额。难得的是,在这典礼前后的一百六十天内,林鸿年廉洁自守,屏绝馈遗,婉言谢绝琉球国王馈赠的宴金,禁止随从人员携货勒迫销售,而且当他知道琉球人民生活困苦时,还把从出使费用中省下来的240万贯钱一并交与琉球国王进行赈恤,一举赢得了琉球举国上下的真心感戴。〔後掲闽侯县人民政府〕
なお、闽侯县人民政府の元史料と思われる周煌「續琉球國志略」卷之一には、次のようにあります。
まず念頭に置くべきは、林鴻年さんが18代尚育王と書道の実質的な師弟関係にあったという点です。これは、林鴻年ら中国側の高飛車姿勢でも琉球側の偽装でもないことが、尚育の直筆書の発見により証明されてます。

書家としても知られる第18代琉球国王・尚育の直筆による漢詩の書が、このほど神奈川県鎌倉市で見つかった。尚育王の孫に当たる漢那(旧姓・尚)まさ子さんが継承し、その孫の肇さん(73)=鎌倉市=が保管していた。
(略)
書には尚育の署名と冊封使・林鴻年(りんこうねん)の雅号(勿邨)があり、林が沖縄に滞在した1838年、尚育が書の指導を受けていた林に宛てて書いたとみられる。
(略)
末尾の署名部分には「勿邨大人 雅正 中山王 尚育」(勿邨大人=林鴻年=に本書の出来栄えについてご批判、ご叱正(しっせい)を乞います。中山王尚育)とある。漢詩は、唐の詩人・宋之問の漢詩集「苑中遇雪應制」に同じ作品が掲載されており、尚育王がこの詩を書いて林に見せたと思われる。〔後掲琉球新報2014〕
また、林鴻年の「ワイロ受領拒否事件」は冊封正使林鴻年が尚育王に贈呈した詩書巻「林勿屯隅殿撰贈琉球中山王詩書巻」(林勿祁殿撰の琉球の中山王に贈る詩書巻)内に記されてます。これは林鴻年の筆によるものですから、自賛の色彩が疑われなくもないけど、筆致からして自賛というより琉球側に自省を求める趣旨だと採るのが妥当でしょう。
敦撲多醇俗、茄辛少有年。女紅資丼服、男職在瓜田。民尚難鮮食、吾何重韻牽。供需裁尺籍、樽節撤加蕩。〔後掲崎原 2-5枚目 p35-38〕
(現代語訳〔後掲崎原〕)
庶民は純朴で、つつましい生活に長らく耐えている。
女子は鮮やかな衣装を紡ぎ、男子は畠で瓜を植える。
庶民は新鮮な食を確保し難く、我々も食事に贅沢を言うわけには行かない。
供給と需要に応じ、節約のため我々は特別な待遇を取り下げた。
※注釈 餓牽:広く食料、肉を指す。
供需:供給と需要。
この経緯が、琉球側の記録としては非常なる美談として書き残されたようです。
ところで、 林鴻年を迎えた琉球側が道光18年(1838) 8月15日に記した「中山王尚育請存晉穐以努使臣疏」7)に、林鴻年の人柄を知る数行が綴られている。
(前略 筆者)窪惟天使入境以来、裁省供億、約束丁脊。 上證聖主懐柔至意、 厳禁従前滋擾奮規、 學國臣民同臀感頌。 臣育僻慮海隅、 無能隆證、 故於宴欽之際代物以金 。(中略 筆者)使臣屡辟不受、義正詞厳允芙。(後略 筆者)
大意は以下である。 「天使の林鴻年は琉球に入国して以来、供給の節約を図り、脊吏の行動を拘束した。皇帝の懐柔の意を身につけ、 琉球に負担をかけた旧い規定を厳禁した。琉球の国民は同声にそれを謳う。臣下の育は辺鄭な海外に居り、 礼を高めることはできず、 故に宴会で歓待する際に物品の代わりに金を以って献上した。(中略)使臣(林鴻年)は辞退して受け取らなかった。 その辞退の言葉はまことに義正詞厳 8)であった」という。〔後掲崎原 9枚目p42〕
8 道理は正しく言葉は厳格である。
福建の天才のガチガチの「義正詞厳」ぶりが、それほどの美談になるのは、
琉球冊封使を務めた十年後(1849年)に転任された雷瓊道(職名)で、林鴻年は海賊対策に当たったとされてます。他代の使琉球録に対し林鴻年著のそれには、琉球密貿易に関する表裏の事実が隠さず記されたことが想像され、前述のように彼の使琉球録が「消失」しているのは誰かにとって危険な記述があったから、と疑うこともできます。
年代に敏感な方はお気付きかもしれませんけど、林鴻年の訪琉球1838年というのは、林則徐(1785生-1850没)が阿片禁輸の欽差大臣に任命された年で、2年後の阿片戦争(1840-42)の直前です。誰の目にも隠し難い長期王朝の腐敗を、中華思想で純粋培養された科挙フィールドの「知的」な彼ら官僚は、凄まじく嫌悪したのでしょう。
なお、林鴻年は1859年以降の雲南で主敵となった反乱回民に対抗するため、中央に洋式武器を要請した事実があり、いわゆる洋務派に数えられています〔後掲神戸〕。ただ、小物ですけど。

補論2∶「敬惜字紙」焚字炉=惜字炉
小物といえば、「焚字炉」で検索してもらえれば分かります。清末の琉球史における正規に文化財としての焚字炉(フンジロー・フンジルー)は、数えるほどしかありません。ただ、前島(那覇市→FASE105-3@久茂地チンマーサ∶後日訪問)・百名・知念(ともに南城市)・翁長(西原町)と、諸志にのみある、というほどでもありません。
19Cを中心に「文字を粗末に扱った祟り」を避ける軽い宗教として、中国南部から台湾にかけて盛んに行われ、この人々が上陸した土地にも片鱗が残った、というもののようです。
※酒井忠夫『増補中国善書の研究上』(国書刊行会、一九九九、p540-541)の研究によると、惜字風習は中国の宋代にすでにみられ、「明朝末期から清朝初期にかけて、科挙に熱中している受験者の間でも流行し、特に江南・浙江等の地域で盛んであった」とする。〔後掲李〕
ただし、本家と目される中国では、惜字風習と見られるものは壊滅しています。今こうやって、「惜字とは?」という文章を書いてる日本人があるように、日本でも少なくとも意識されるほどに大流行はしてません。
大陸の方を見てみると、敬惜字紙とはどのような意味を持つ習俗・風俗であるのかということを調べるための基礎的資料ともいうべき文字資料を見出すことは難しくはないのであるが、残念なことに、今日の実生活の中にそれを見つけることはできない。新中国、つまり、中華人民共和国になってから(一説によると、中華民国となり蒋介石が表舞台に出て来てからとも言われるが)、更には、文化大革命を経た後は、敬惜字紙・敬惜字亭の類に対する文化認識も一部の人を除いて失なわれてしまったようである。〔後掲川崎〕
翻って、今もそれなりに惜字感覚が残存するらしい台湾のそれは、19C末の文化的運動によるもののようです。少なくとも惜宇亭が盛んに建てられたのはこの時期で、沖縄の焚字炉の時期はこれに重なります。

概略的に述ぺるなら、十八世紀の台湾ではまだ惜字概念は普及しておらず、ただ南部の富豪が個人的に行った善行に関する記述に断片的に見られるだけであった。本稿で明らかにするように、そもそも惜字は、台湾に移住してきた漢族の慣習にはなかった。しかし、十九世紀末には、台湾北部竹壁地方の紳士らが、地方の風俗や秩序を維持するために、惜字行為を重要な規範の一つとして認定した(5)。当時いたるところに惜宇亭が建てられたのは、この惜字の風習が台湾の社会生活の中に深く入り込んだ証拠である。そして、日本統治時代に入っても、惜字の風習が依然として漢族の慣習の一部として認識され、植民地台湾のイメージを形成する露要な要素となっていることが、当時の旧習調査からうかがえる(6)。〔後掲李〕
6)日本による台湾の植民統治の初期に来台した日本人佐倉孫三は台湾において惜字が盛んであることを、驚きをもってのベ、一方日本では「本邦、古昔は亦た字紙を重ずるも、近時は人情澆季にして、之れを視ること塵土の如く、甚しきは則ち廊中に投棄して顧ざるもの有り」と惜字慣習が廃れたことを嘆く(佐倉孫三『台風雑記』「借字亭」台湾文献叢刊第一〇七種、台湾銀行経済研究室、一九六一)。
上記佐倉説にあるように、惜字風習は単なる倫理から規範的運動、宗教といった幾つかのレベルが交差してます。次の梁の記述では文昌帝君信仰一体説までが唱えられており、要するに通説がありません。ただ、儒教的には否定されていて、心理的には道教の色彩が強い、とは言えそうです。
惜字の風習は、正統的な儒教規範から生まれたものではない。むしろ清代に惜字の風習が普及した結果、かえって正統的な儒教規範との問で摩擦が起きるといった事態が生じた。たしかに惜字は科挙制度をめぐる儒教文化の一部ともいえるが、実際には文昌信仰の崇拝行為に属し、精神的に言えば道教により近い。清代中期に借字慣習の普及が直面したのは、文昌信仰の持つ淫祀という性質からくる、正統的な儒教規範との衝突であった。儒教にとっては、惜宇を実践する信者の動機は個人の福を招き、災を避けることにあり、それを儒者は「神様に娼びる」心理の一種だと謗っている。〔後掲李による梁其姿論旨紹介。ただし李は梁主張を否定する。〕
※李は否定説の論拠の一つとして「書物や字紙を大切にすべきときなど、台湾の日常語として良く耳にする、「孔子様が後ろに立って見て居られるぞ〔孔子公摘在肝脊餅後❳」というのは、惜字を含めた神に対する畏敬心の共通の感覚であって、実際には必ずしも惜字を奨励する文畠帝君の神威ばかりが想起されるとは限らない。」とする。

さて焚字炉は、単に字(を書いた媒体)を燃やすだけ施設であるだけではなかったらしい。そこへ媒体を集めて回る人、あるいはその人の雇用組織を有する場合もあり、さらに集める対象がいわゆる「悪書」だったりすることもあったという。
字紙の類を集めると言ったが、これは個々人が字紙を拾い集めるばかりではなく、「惜字」もしくは「惜字紙」という貼紙をした篭(字篭という)をかついで、不要の字紙を集める「お役の者」も存在している。
又、時代や地域によっては、個人ではなく、結社や善会、そしてそれらによって作られた「善堂」の決まり事として、人を雇い入れ、その任に当らせていたこともあったという。同時に「集める」対象も、字紙の類ばかりではなく、「淫書」と呼ばれるものもその対象となり、処分されていったということである。〔後掲川崎〕
下記は分布地最東端の大阪の記述です。戦前の台湾で、新統治者になった日帝が惜字を特に否定せず、前掲佐倉のようにむしろ好意的だったことは、この施設をキリシタンに類する邪教とは見なかったと推測させます。
平成22年4月1日:惜字炉が大阪市指定民俗文化財(有形民俗文化財)に指定されました。
本堂に向かって右側に、二層六角の惜字炉が建っています。
中国では文字を書いた紙や、印刷物を大切に扱い、そのような紙が道路に落ちていた場合、それを踏みにじったり汚したりすると、足や眼が悪くなると云われています。
惜字炉は中国・台湾の各地、韓国のソウル、日本の沖縄の各地、長崎市に2カ所、大阪市は当院のみ現存しています。〔後掲大阪関帝廟→GM.〕
けれどこの沖縄-長崎-大阪という配置は──個人的には媽祖の日本国内分布を想像させます。水戸光圀が普及させた東日本の媽祖を除けば、そっくりです。不思議なのは、密貿易による交流があったと推測される薩摩になぜないのか、という点ですけど──周到に壊したのかもしれません。

※ 高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」
※※ 所在地の原典:藤田明良「日本所在の古媽祖像一覧表(2006年6月現在)」
※※※ 色塗りは引用者
凡例 緑:長崎・沖縄
黄:大阪以東
桃:上記以外
話を戻して諸国の惜字慣習ですけど──ソウルのものは壊されたらしい〔後掲koga〕。長崎のは以前一応通りがかりました(下記リンク)けど、昔は天后堂を含め計4か所にあったと記載されてます。

長崎市内では聖福寺以外に、4つの惜字炉があったという。市内館内町2番地在・福徳正神に祀る土神堂内、門を入ると右手に六角形の金庫と呼ばれた惜字炉があったという。
同じく館内12番地に在った天上聖母を祀る天后堂のそれ、半円形の泮池の北に堂があり、堂から池に向かって左手に赤煉瓦の金庫が存したという。
館内21番地には陳氏所建の福建会館(旧八閩館)があり、その正面に天后堂があり、堂の左手に金庫が存したという。
四つ目は市内新地町の観音堂に在ったそれである。 〔長谷部幽蹊「惜字紙の俗とその流伝」(『黄檗文草』第130号・黄檗山東福寺文草殿黄檗文化研究所・2009年10月・頁9上)←後掲川崎〕
ただ最後にもう一点不思議なのは、「焚字炉」(ふんじろーorふんじるー)という呼称です。最メジャーの台湾は惜字亭等で、長崎・大阪例も同様。調べる限り焚字炉の用字は沖縄のが独特です(維基(中国語wiki)も下記のように沖縄の呼称として焚字炉を紹介)。火や焼よりも「焼き尽くす」語義を用いる必要からでしょうか、あるいは「運玉ジルー」を連想させる音への馴染みやすさからでしょうか?
惜字塔,亦称为惜字楼、焚字库、字库、焚纸楼、文风塔、文峰塔、敬圣亭,在台湾多称为圣迹亭(惜字亭)[1],客家地区称敬字亭[2],琉球称为焚字炉(琉球语:フンジルー)。〔維基/惜字塔〕
同維基は、惜字塔列表として現存する
湖南∶16 福建∶10
【うち4】名称/地点/建造年代
定海古城堡焚纸炉/福州市连江县筱埕镇定海村古城堡/清代中晚期
井门陈氏焚纸炉/福州市长乐市古槐镇井门村祠堂前路大礼堂南侧/清代
龙田焚纸炉/福州市长乐市古槐镇龙田村礼堂大门东侧/清代
琴江村焚纸炉/福州市琴江村/民国
台湾∶32 沖縄∶4(何れも焚字炉)
【全】名称 地点/保护级别
翁长焚字炉/西原町字翁长/町指定文化财
百名焚字炉/南城市玉城百名/市指定文化财
诸志焚字炉/国头郡今归仁村字诸志/村指定文化财
前岛焚字炉/那霸市前岛中公园/-
計69〔維基/惜字塔/惜字塔列表より引用者がカウント整理〕
69の「惜字塔」に沖縄以外の「焚字炉」は

既に前項で、林鴻年さんが侯官県(現・福州市)出身だということをお示ししました。単に中国又は台湾から伝わったというたけでは、大阪や長崎のように惜字亭など焚字炉以外の名称になるはずです。
焚「紙」炉から焚「字」炉への変換は、福建語読みだとまるで違うので、沖縄での普及中に起こったはずです。つまり「焚字炉」というのは、福州独自呼称を元にした沖縄語なのです。
(ピンイン)標準中国語「zi4」
白話字: ji1 / li1
台湾語ローマ字: ji1 / li3
※「紙」
(ピンイン)標準中国語の「zhi3」
白話字: choa2
台湾語ローマ字: tsua2
だとしても、その形態と用字から、沖縄の「焚字」慣習は福州から伝わったとしか解釈しようがない。林鴻年さんが如何に天才で国王の師匠でも、160日滞在しただけでこんな影響を及ぼすのは不可能です。傍証として、焚「字」炉という沖縄語の固有名詞の形成は、林鴻年個人の事業ではあり得ず、かつ年単位の時間を要したはずですから。
つまり、沖縄に焚字炉が存在するのは、民間レベルでの福州人の往来が相当例あったことに起因します。かつ、それは表沙汰にしにくい形態(多分密貿易)だった。たから持ち出されたのが、折から訪れた福州出身の若手天才・林鴻年さんだったのでしょう。林鴻年本人も、多少は焚字炉の普及を呼びかけたかもしれないけれど、

補論3:屋部と久護家と頑固党
「屋部久護」という字名は、ちょっと他に例を聞きませんけど──屋部の久護家から直接来てます。この日の帰路に迷い込んだ屋部には、「
主屋は明治39年(1906)に建築されたことが、文書「本家新築之時日記」によって知られています。
当初、屋敷は石垣で囲まれ、現在も残る主屋・ひんぷん(屏風)・カー(井戸)のほか、かつてはアサギ(離れ屋)・メーヌヤー(物置)・フール(便所)・イキムシヌヤー(家畜小屋)・ムミグラ(籾蔵)が配されていました。昭和26年(1951)までは主屋の西側にトゥングヮ(台所)を附属していましたが、それを解体し、三番座などの改築を経て、現在に至ります。その後、昭和48年(1973)に屋根の葺き替え、平成元年(1989)から平成3年(1991)に半解体修理を行いました。
屋根は伝統的な島瓦を漆喰で固め、屋根獅子がのせてあり、広く典型的な間取りや天井の高さ、周囲に深く回されたアマハジ(軒)などに、地方豪農の建物としての特徴をよく残しています。〔後掲名護博物館〕
ただ、単なる古名家ではなく、(前章の)崎山の按司家直系を名乗ってます。単に名乗ってるだけじゃなく──あまりに関係地名が飛ぶので土地勘のない我々が付いていけないほど──名護湾を股にかけた本当の富豪だったみたいです。
屋部ウェーキ(富農)の久護家は,北山【ほくざん】の崎山按司家の長男から出た家という(元祖歴代日記)。代々地頭代を勤め,特に3代喜瀬御主前が同家の富を築いたといわれ(屋部寺由来記),屋敷地1,500坪・仕明地4万8,000坪に及び,喜瀬村❛→GM.❜の七かや田(ママ)をはじめ,他村にまで土地を所有した(名護六百年史)。喜瀬御主前は,青年時代に凌雲和尚に師事した。凌雲和尚は,康煕38年(1699)竜福寺❛→GM.❜の僧となり,のち屋部村に草庵をむすび,旱魃の時に雨乞祈願をしたという(球陽附巻尚貞王31年条)。屋部寺❛→GM.❜は,和尚の功をたたえて造営されたものと伝え,現在でも住民の信仰を集めている。〔角川日本地名大辞典/屋部村(近世)〕※❛❜内は引用者追記のGM.リンク
喜瀬については、さらに後述としますけど──前に触れた通り(→FASE84-1@/名護を謳ったおもろ集)、名護湾の南東、許田の東。万国津梁館の半島の付け根と言った方が通じる方もあるかもしれません。つまり屋部から名護湾の反対側。この位置関係は、陸人には最遠でも海民には至便の地です。現・名護市街が湖沼地だった時代には特にそうでしょう。

琉球頑固 Komuram Bheemudo
さて、次章で強かなる北山を描かせて頂く助走として、屋部久護が日帝と如何に向き合ったかに触れておきます。
琉球処分時、駐留してきた熊本鎮台歩兵中隊が敵と目した集団として公に記録されるものに「頑固党」があります。次の琉球新報記述は、その解説です。
琉球処分時の親清国派の士族集団。琉球の日本統合に反対、琉球王府の維持・存続を主張した。中心人物は亀川(親方)盛武。「反日親清」「日清両属」の二つの流れがあったが、合体して日本政府に抵抗した。〔後掲琉球新報2003〕
少し前(鞆特論編)で、琉球処分という不思議な「侵略戦争」の推移はレポートしました。この進捗中、(仮の)宗主国・清朝に働きかけて、(実の)占領国に対抗させようという「外交運動」が、頑固党のムーブメントでした。

分遣隊は当初は一部が首里城に移駐したのみで、他は古波蔵村の分営に駐屯していたが、翌13年7月15日、陸軍省は、西部監軍部に「沖縄県下分遣熊本鎮台歩兵ー中隊ノ内、古波蔵村在屯ノ分、今般同県下首里城へ引纏メ駐屯致候様、御沙汰候事」201)と達して全隊を首里城に移駐させた。廃藩後も軍隊を駐屯させたのは、琉球王家の旧臣の一部に清国に働きかけて王朝の再興を図る動きがあったためである。
明治15年2月18日、陸軍卿大山巌は「沖縄県下琉球首里城内地所当省江受領之儀二付伺」202)を提出し、「将来必要之地二付、存城地トシテ其建物生樹等有形之儘官有地第二種二編入当省江受領致度」と願い出て、3月15日許可され、首里城は存城となった。分遣隊は、日清戦争後の明治29年(1896)7月まで21回にわたり交替で首里城に駐屯していた203)。明治26年6月3日、首里城を訪れた笹森儀助は「旧王城を一見ス。今ハ熊本鎮台ヨリ沖縄分遣隊ノ営卜ナレリ。而シテ歩兵第十三聯隊第六中隊之二居ル。隊長ハ陸軍大尉世良田氏ナリ」204)記している。〔後掲森山〕
197)「琉球藩処分着手ノ儀再上申」『公文録』明治8年第106巻明治8年3月内務省伺五
198)「琉球藩内二熊本鎮台分遣隊ヲ置ク」、「琉球藩内ニ熊本鎮台分遣隊ヲ被置実地検壺ノ上着手セシム」『法令全書』明治8年p.856
199)「琉球藩内兵営建築経費金御渡ノ儀伺」『公文録』明治9年第30巻明治9年2月陸軍省伺(二)、「琉球藩内へ兵営等設備ノ地所御引渡ノ儀伺」同明治9年第31巻明治9年3月—4月陸軍省伺
200)「琉球藩へ熊本鎮台歩兵一分隊派遣届」同明治9年第32巻 明治9年5月〜6月陸軍省伺
201)『法規分類大全』第一編兵制門三p.280 202)「沖縄県下琉球首里城内地所受領ノ件」『公文録』明治15年第104巻明治15年3月〜4月陸軍省
203)原剛1992「明治初期の沖縄の兵備一琉球処分に伴う陸軍分遣隊の派遣ー」政治経済史学317pp.1〜11
204)笹森儀助『南嶋探検』1東洋文庫p.30
のちに「頑固党」を成す「亀川党」の筆頭(と伝わる)、旧三司官の亀川盛武という人物は、毛允良という中国名を持ち、多分、久米三十六姓。反・琉球処分の動きの本質が、「沖縄民族」の自律的な独立戦争(運動)ではなく、あくまで清朝を動かすことによる外交戦争だったことは、この点だけでも明らかです。もっと言えば、自分たちが清朝から駐留して統治している島に現れた侵略者に対し、本国の意向通りに対抗しようとした、というのがより正確でしょう。──すみません、現代の「沖縄独立運動」の象徴として崇拝してる方にはお詫びして現実的に申し上げますけど。

頑固党運動は、最終的に「琉球処分後におこった孫盛棟(せいとう)の脱清(しん)(清(中国)に脱出すること)の件で沖縄県警察の取り調べをうけ,転向表明をおこなったが真偽は不明」〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「亀川盛武」←コトバンク/亀川盛武(読み)かめがわ せいぶ〕と伝えられます。
琉球処分から15年近く後、日清戦争後の1896(明治29)年7月まで熊本鎮台が首里城を占拠し続けたのは、まさに北山王国滅亡後に首里側が今帰仁城に監守を置いたのと同じで、そこが
上記亀川盛武の「転向表明」も、キリシタンの踏み絵並みの何か凄まじい強要を伴ったことは、そんなに無理な想像ではありません。
屋部久護家当主も、真偽はともかく頑固党一党として連行されたと記録されます。──北山残党のルーツを持つ屋部久護家は、性格的には必ずしも親首里王権ではなかったかもしれません。だから、あるいは疑心暗鬼の熊本鎮台兵により、単に地域の実力者として「抑え」られたのかもしれません。
明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。丘陵地の上原や山間部の福地原に屋取が形成された。明治12年9月,警察は頑固党の密命を受けて明治政府・県に反抗する国頭地方の地頭代10人を羽地間切番所に監禁,拷問によって服従を誓わせた。当時地頭代だった久護家の当主は,釈放された翌年,これがもとで死去したという。(続)〔角川日本地名大辞典/屋部村(近世)〕
「屋部久護王国」だった一円では、皮肉にも、王国の崩壊を見て劇的な「御一新」が始まったようです。過激に言えば、奴隷解放闘争です。
(続)明治16年屋部村の農民は久護家に対し,阿蘇原仕明地の解放を要求,裁判の結果,1,500坪のうち600坪が解放された。同19年天然痘やコレラが流行し,多数の犠牲者を出した。翌20年は不作で,救荒用の山畑のソテツがことごとく伐採されたほどであった(名護六百年史)。戸数・人口は,明治13年263・1,426(男758・女668),同36年325・1,807(男906・女901)うち士族54・400。〔角川日本地名大辞典/屋部村(近世)〕
3年後に起こった伝染病の流行と食糧難は、多分、同地の経済・政治を含む統治構造が根本的に崩壊し、混乱を極めたことを予想させます。しかも新統治者日帝は、恐らく当時の目的上、その混乱を鎮める意思はなかったでしょう。

祖国との連絡・交通がままならなかった原因としては,地理的原因のほかに,日本政府が脱清者の続出を警戒して取り締まりを厳重にするとともに,大湾朝功・久高盛政等琉球人「探偵」を使って,密航者や不服従者の動向を調査した。脱清者が帰国すれば,警察は彼らを逮捕してきびしく取り調べ,しばしば拷問も辞さなかった。こうした事実は,日本政府が琉球人に対し,清国に去りたいものは去れ,琉球に残りたいものは残れ,という程度の度量と自信すら持ちあわせていなかったことを示している。それには,日本政府が脱清者の続出をおそれたこと,彼らの行動が「琉球処分」を国際問題化することを警戒したこと,などの事情はあるだろう。〔後掲伊東〕
日清戦後までの琉球が、インテリジェンスのレベルでどの程度「危険」だったのかは分かりませんけど──例えば、遼東半島領有に対する三国干渉(1895年)のような外交圧力が、何かの国際動静から琉球に対してかかっていたら、幼い帝国主義国・日本は従わざるをえなかったのではないでしょうか?
wiki/脱清人は、根拠はやや不明ながら、頑固党への同調を最終的に絶ったのが台湾割譲だったという次のような説を採っています。台湾領有のあまりかたられない一側面だと思うので、特に転記しておきます。
決定的な事態は、1894年に発生した日清戦争による清国の敗北と翌年の下関条約に伴う台湾の日本割譲により齎された。これによって、清国が琉球を救援する力が無いどころか、台湾すら守れなかったことが、清国からの救援を一縷の望みとし続けていた脱清人らにも明白な現実として突き付けられたのである。〔wiki/脱清人〕
要するに、日清戦を経るまで、琉球はグレイな日本領だったのです。
屋部久護家は、特に過激だった訳でもない。日清戦の結果を知る時代からは無体に思えても、琉球のコモンセンスからすると帝国主義歴15年生の東海の向こうの国が、沖縄を支配し続ける実力者になりうるとは信じられなかったでしょうから。

補論∶木染月住まておちやる喜瀬の浦
バイクでは毎回通っていたはずの場所で──グーグルアースで確認して……「ああ、あそこか!」とやっと思い出しました。集落を感じなかったのも然にあらん、という河口から腰の引けた位置です。

許田のパートで既に見た「おもろ」にも、登場していた地名でした。何より「きせ」(後掲の通り方言ではキシ)という音が印象的です。
14-997(16)
一吾が思ひぎや/あぐでおちやる/名護の浦/唯一人 遣たもの/おもいはの 肝痛さ/又吾が思ひぎや/住まておちやる/喜瀬の浦
一あかおもひきや/あくておちやる/なこのうら/たゝひとり やたもの/おもいはの きもちやさ/又あかおもひきや/すまておちやる/きせのうら〔〔wikisource/くめすよの主の節 14-997(16)〕
17-1181(7)
一喜瀬の子や 我が弟者/今 有る 庭 居たる/今日から 屡々 見らに/又きちり 越いて 名護の浦
一きせのしや わかおとちや/いみや ある みや おたる/けよから しは〱 みらに/又きちり こいて なこのうら〔wikisource/かねぐすくのろのまぶりよわるおとまり節 17-1181(7)〕
おもろの用いる「喜瀬」地名は、名護と対になっているようです。
それ以上、全く歯が立ちませんけど……「肝痛さ」(心痛)、「吾が思ひ」、「屡々見らに」(気になって何度も見る?)などの語と対応しているということは、何かの要地か、あるいは思い人でもいる土地でしょうか?
地形的には、下記の通り真謝川・真謝福地川の北流合流点に形成された沖積地を基本にしてます。ただ川筋と道があまりに整然としており、現代の土木工事(土地区画整理か圃場整理)により大規模に改変されていると思われます。つまり、元の地勢が想像しにくい。
方言ではキシという。沖縄本島北部に位置し,名護湾に面する。国頭(くにがみ)山地に属する山地や丘陵が大部分を占め,山地から真謝川・真謝福地川が北流し,中・下流域に沖積地をつくる。集落は,沖積低地および砂丘上に立地する。集落の西北西約1kmに,沖縄考古編年後期の喜瀬貝塚がある。ほかに集落近くのクシの御嶽周辺のイシグムイ遺物散布地,南側の小さな谷の喜瀬山田原遺物散布地からは土器片が採集されているが,時期は不明である。「おもろさうし」にも「きせ」と見える。〔角川日本地名大辞典/喜瀬【きせ】〕
下図は喜瀬の遺跡分布です。出典の部瀬名貝塚は300mほど西ですけど、喜瀬山田原遺跡やイシグムイ遺物散布地は、河口S字の両砂州に発達した現集落よりも、南方上流に存在しており、旧代の集落もそうだったとも予想されます。


また、出典・部瀬名貝塚も発掘者の予想以上に既破壊度が激しかったことが記録されます。大水の度に流された可能性のある喜瀬本集落については、歴史的遺物を確認することは難しいでしょう。
今回の調査地では、沖繩貝塚峙代後期の遺物ゃ多量の貝類を含む包含層の確認はできたものの、その上部及ぴ周辺で採砂による大規模な破壊を受けてぃることがわかり、遺跡の広がりや住居跡は発見することができなかった。〔ibid.104枚目 p94〕
さて、「夫地頭」とは百姓の中から選抜された、おそらく地元有志を地頭に「昇格」させた役職のようです。次の文章は、それ以外ほとんど内容が分かりません。
岸本夫地頭の管轄村(名護六百年史)。集落はかつて南東約1kmの,「由来記」ではセカマ森とあるシガマムイ(130m)の山麓から現在地瀬宮に移ったと伝える。5人の兄弟を草分けとする伝承があり,それぞれ旧家で,長男系の屋号ユケニヤー(世界屋)が最古といわれる。康煕54年(1715),首里の房弘徳が堆錦塗の漆器製造を始めて褒賞され,のちに喜瀬地頭職となる(球陽尚敬王3年条)。〔角川日本地名大辞典/喜瀬村(近世)〕
「首里の房弘徳」というのは、18Cに首里から出た工芸家・比嘉乗昌(ひが じょうしょう、生没年不詳)の唐名〔wiki/比嘉乗昌〕。工芸家というか発明家だったようで、1715年に琉球漆器特有の装飾法・堆錦を考案。1717年には祖慶清寄らと芭蕉紙を[注釈 1]を共同開発[4][5]。
球陽
※wiki原注 1^ 新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』編集工房 東洋企画p. 177
2^ 那覇市伝統工芸館
3^ デジタル大辞泉プラス 芭蕉紙
4^ 芭蕉紙 – 『最新版 沖縄コンパクト事典』琉球新報社、2003年3月(琉球新報ウェブサイト)、2017年8月1日閲覧。
5^ 紙漉所跡 – 那覇市歴史博物館、2017年8月1日閲覧。
[注釈 1]イトバショウを原料とする和紙の一種で、沖縄本島、久米島、宮古島などで生産される[3]。
──どっかで聞いたと思ったら、前回学んだ首里山川の紙漉所の実質的創始者の一人でした。
ただ如何に偉人とは言え、山原に全く関係ない人に「ぽん」とご褒美として渡されるのは──首里にはその位に見られてた土地だったのでしょうか。それとも比嘉乗昌が特に望んだ領地だったのでしょうか。
拝所となると、前掲のセカマ森以外、全く分かりません。ともかくも幸喜・許田を含めた三村では最も霊力高かった模様。
拝所に,セカマ森・ミヤトヤノ嶽・喜瀬ノロ火の神・神アシャギがあり,喜瀬ノロの祭祀。なお喜瀬ノロは,幸喜・許田【きよだ】両村の祭祀も司った(由来記)。明治6年脇地頭喜瀬親雲上の作得8石余(県史14)。同12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治16年の調査によれば,地割は年齢によって配当地の割合を定めていた(県文化財調査報告書6)。地割の1地(ママ)は田70坪・畑99坪で,隣接する幸喜・許田両村に比べ面積が小さい(南嶋探験)。集落の北西海岸寄りの砂地には,短冊形に地割された畑が残る。〔角川日本地名大辞典/喜瀬村(近世)〕
名護湾 三五の月 喜瀬の短冊
まず、後半の地割制に注目してみましょう。地割の1地の短冊状の細さは、久高のものが有名ですけど、戦後の一地は360坪〔後掲波平、1979年〕というヒアリング結果があります。喜瀬のものはその1/5ですから、沖縄最小……かとうかはともかくかなり細いのではないかと思われます。


上記は何れも正確には、道路図であって地籍図ではないので決定的な議論が難しいけれど……南北両集落ともに短冊状区画は発達してます。下記Nagopedia記述によれば、中でも古いのが南側洲の基部付近の「瀬宮」地区だという。かつ、シガマムイ山麓からの移動伝承は、喜瀬全体ではなく瀬宮に独占されたものになってます。
集落は沖積地に発達し、喜瀬川を境にして大きく二分される。公民館付近は、セミヤ(瀬宮)と呼ばれ、神アサギやヌルドゥンチなどがあり古い集落である。瀬宮は、シガマムイの山麓付近から移動してきたという。
国道58号線沿いの集落は、大正から昭和にかけて、碁盤目状の集落を形成し、イーマー(上間)と呼ばれる。さらに、国道から北側の海岸寄りの集落をハマバタと呼んでいる。〔後掲Nagopedia〕
南海に三つの喜瀬がある不思議
もう一つ不思議なのは、第二の喜瀬の存在です。
二文字音にしては不思議なほど、喜瀬という地名は日本では珍しい。角川日本地名大辞典では東日本に該当がなく、西日本の内地には兵庫県播磨町の喜瀬川のみ。なのに、九州より南には名護湾の喜瀬を含め三カ所があります。
一つ。奄美大島の北部、笠利湾に面した笠利町の大字喜瀬です。→GM.
日本歴史地名大系は「きしえ」又は「きし」とも記し、かつ「隆慶二年(一五六八)八月二四日の琉球辞令書(「笠利氏家譜」奄美大島諸家系譜集)に「きせ」とみえ」ると記しますけれど〔コトバンク/喜瀬村〕、角川及び行政的には「きせ」と読むみたいです。
奄美大島北端,笠利半島南西部に位置し,北は笠利湾に面する。集落は宮久田川下流域に立地し,弥生前期中葉以後と推定される弥生式土器・紡錘車・磨製石鏃・鉄器破片・鞴口が出土したサウチ遺跡,琉球王朝の役人喜世首里大親職の墓と推定されるサンゴ礁の板石墓,一屯の殿内(とのちゆ)墓がある。〔角川日本地名大辞典/喜瀬〕

位置を見て頂いて……どうでしょう?名護湾の喜瀬と笠利湾の喜瀬、どうも似た立地に思えなかったでしょうか?
なお「一屯の殿内」という霊地は、上記図の緑ポイント=バス停・一屯のある一屯崎にあります。集落の西側の岬、名護湾・喜瀬で言うと万国津梁館のある岬の位置です。
最後になりますけど、残る一つの喜瀬は、ここ→GM.──沖縄本島の恩納村喜瀬武原という場所です。ここは内陸で、海に面しません。
元は恩納村


戦後は、恩納岳一帯の大部分が米軍のキャンプ・ハンセンとして接収されます。上図の通り、ハンセンは集落地を包囲してます。そこは実弾演習場とされ、復帰(昭和47∶1972)後も県道104号を封鎖しての実弾射撃演習が繰り返されて行われ「金武町中川地区から恩納岳裏側に砲弾を撃ち込むため,付近の山々の樹木・岩石も吹き飛ばされ,地肌丸出しのはげ山と化している。」〔角川日本地名大辞典/喜瀬武原〕
喜瀬武原は「きせんばる」と読み、語感からして「喜瀬」の語尾に「武原」が付いたように感じられます。つまり東西海側の臨海地付近が「喜瀬」で、その内陸部をこの地名で呼んだのかも、と疑われます。
西側海岸部の安富祖は山原船による交通が盛んで、かつては個人所有の高倉が並んだと言います。この湊へは山原一円の物資とともに喜瀬武原の物資も集められ、本島南部へ運ばれた、と恩納村誌は語り伝えます〔角川日本地名大辞典/安富祖村(近世)〕。

■まとめ:深海深層水 DeepSeaWaterは好い菖蒲風呂
これまで全く信じてなかったんですけど……この日のスーパーホテルで海洋深層水配合のお風呂に入り、特に──第一湯の後の睡眠の深さで効果を思い知りました。
海洋深層水とは、水深200メートル以深(太陽の光が届かない)の海水を指します。(略)
◇優れた清浄性
海洋深層水は、水深200メートル以深という非常に深い層に存在する海水です。
そのため、海面近くの水とは異なり、産業排水や生活排水の影響を受けず、きれいな水の状態を保っているのが特徴です。
また、水深が200メートル以深になると太陽光が届かず、光合成が行なわれません。
水中の酸素濃度が低く保たれているため、植物プランクトンなどの微生物が生息することができず、その増殖を抑えることができるのです。
海域によっては、海洋深層水の微生物や病原菌の数は、海面付近と比較して10分の1から100分の1程度であるという結果も報告されています。
◇ミネラル成分などの栄養素が豊富
海洋深層水は、ミネラル成分などの栄養素に富んでいることも大きな特徴です。
海洋深層水は、マグネシウムやカルシウムなどのミネラル成分をはじめ、窒素やリン、ケイ素などの無機栄養塩類が豊富に含まれています。
◇低温安定性
海洋深層水は光が届かないため、海面近くの水と比べて水温が低く一定に保たれています。そのため1年を通して水質の変動が小さく、非常に安定している水です。〔後掲Tokaiグループ公式〕
何で、無生物的な水が身体に良いものか、逆に悪そうな気もするけれど──普通は生物が捕食してしまうミネラルが多量に残存している、ということなら理解できます。つまり、食物連鎖の外にある、いわば生物が発生する前のH2Oです。
──ただ……それならば、単に濃い塩水、例えばイスラエルの死海とかは物凄く身体に良いことになってしまいますけど、あそこは本が読める以外には、特にそういう感想は聞きません。
それでさらに調べて──行こうとしましたけど、要するにこの水、販売業者が大層苦労して「身体に良い」根拠を見つけようとしてるだけで、客観的立場からの論文はなく、識者からは黙殺されてる、という印象の物質です。
ただ興味深かったのは──従来の健康飲料としての属性とは別に、この水が構成するもっと遥かに巨大な現象系のことです。

千年で地球を巡る流灯会

──などと言われても文系の人類には全く摂取できないけれど、要するにある面を通過する際のエネルギーのふるまいを言ってるみたいですね。海水面におけるフラックスを「海面フラックス」と呼び、これが地球温暖化の解析上、有効なアプローチとして注目されるようになったようです。知らんけど。
ええと?注目されたのは、「地球温暖化」による熱がどこに溜まるか、ということみたい。熱の溜まりやすさ、つまり物質の温まりやすさや冷めにくさを「比熱」と言うけれど、岩質に比べ比熱が大きく、大気への接触率が高い(∵地球表面の70%)海洋が最も直接的にエネルギーを蓄積していると考えられるようになりました。そこでその蓄積の様態が、そこから気象へのフィードバック上、注目されて、全人類規模の研究対象になったわけです。〔ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「世界海洋循環実験計画」←コトバンク/世界海洋循環実験計画〕
中でもエネルギーの蓄積量変動に重要な影響を与えるとして注目されるのが、やっと帰ってきたけど……深層水。ゆっくりした流れであってもこの深層水は量が膨大なので、例えば「大西洋では深層の冷たい水を南向きに、表層の暖かい水を北向きに輸送することで、地球の気候を決める上での重要な役割をもつ。」「表層から深層への沈み込みが存在する大西洋は、太平洋に比べて北向きの熱輸送量が大きくなり、ヨーロッパの気候が緯度のわりには温暖である一因となっている。」〔後掲岡〕
1980~1990年代に世界各国が協力して世界海洋循環実験計画(WOCE:World Ocean Circulation Experiment)における海面から海底までの高精度の海洋観測が全球で実施されました。近年、当時行った観測ラインの再観測が行われ、その比較から太平洋の底層水の水温が10~15年間で0.005~0.01℃上昇していることが報告されています(Fukasawa et al., 2004; Kawano et al., 2006; Johnson et al., 2007)。海洋データ同化手法を用いた数値モデルによる数値実験の結果、南極アデリー海岸沖での水温上昇による海水の沈み込みの減少を起因とする深層循環の変動が、深層循環の時間スケール(約千年)に比べてはるかに短い約40年で北太平洋まで伝播し、北太平洋底層での水温上昇をもたらしたことが示されています(Masuda et al., 2010)。これらの結果から、北太平洋の底層では、これまで考えられていた約千年という時間スケールよりも短い時間スケールでの変動があることが分かりました。このため、気候変動の予測において海洋深層循環の変動による影響についても考慮することが重要になってきています。〔後掲気象庁〕
こうして「発見」されたのが深層水、専門的には「ブロッカーのコンベヤーベルト」です。即ち、アプローチ上は、物質としての水の流れである以上に、エネルギーの流れとして注視されているわけです。

赤色が表層の海水、青色が深層の海水、矢印がそれらの流れ
の方向を示している。〔後掲原〕
深層大循環は、難しくいうと「熱塩循環」とも呼ばれる水の環(わ)です。この循環を引き起こすエンジンは海水の重さです。南極や北極付近の表層の海水は、大気から強く冷やされるために重くなって沈んでいき、それまでに深層にあった海水を押しのけながら全海洋の深層を巡って、再び深層水は表層水と混じり合いながら上昇して暖かい表層水になります。そしてみたび、深層水のできるグリーンランド沖に戻っていくベルトコンベヤーのように廻る大きな流れになります。
この流れを、提唱者にちなんでブロッカーの深層水のコンベヤーベルトとよんでいます。〔後掲水産業・漁村活性化推進機構〕
これを気象側から、よりマクロの地球史的に捉えると、次のような位置づけになるようです。文系的に喩えるなら、海洋は気候を致命的に変動させるエネルギーの「振り子」で、振り子の周波数(数十年又は千年)として機能するのが深層水の循環時間……というのが通説なわけです。
現在の地球は南極氷床とグリーンランドにのみ大陸氷床が存在する温暖な間氷期にあたる。もっとも最近の氷期(最終氷期)は約11万年前に始まり、約2万年前に最盛期(Last Glacial Maximum、略してLGM)となり、約1万年前に終焉した。氷期の気候を特徴づけるものとして、気候の寒冷化に加え、ダンスガード・オシュガー振動(略してDO振動)と呼ばれる1000年程度の周期で引き起こされる気候状態の「ゆらぎ」の存在が挙げられる。つまり、氷期における寒冷な気候状態が時に急激に温暖化するイベント(DOイベントと呼ばれる)が起こり、気温の指標となるグリーンランド氷床コアの酸素同位体比データによると、最終氷期のあいだに大小含めて20回以上の温暖化イベントが検出されている(大きなものでは10度以上の温暖化イベントとなる;図2)。このDO振動は、数十年程度の短期間で起こる温暖化と、1000年程度の長期にわたる寒冷化で特徴づけられる。このような振動がなぜ生じるのであろうか?そこで中心的な役割を担っているであろうと目されているのが、最初に述べた海洋深層循環である。つまり、氷期においては「コンベヤーベルト」が停止しており、それが急激に復活することによって温暖化イベントが生じるという説が有力視されている。それでは、なぜ氷期には海洋深層循環が止まったり復活したりしたのか?それについては、まだ明確な回答は得られていない。氷期にはDOイベントに同調して、氷床からの融け水の証拠とされる大陸起源の岩石屑が海底堆積物中に見出されており(ハインリッヒイベントと呼ばれる)、海水に比べ密度の軽い氷床からの融解水が流れ込むことで海洋深層循環を停止させるという考えがブロッカーらによって提唱されている。〔後掲原〕
DO振動(文系的に「弩振動」と言ってしまいましょう)という概念は漸く形成されたばかりで、その周期も諸説あり、しかも幾つもに分岐しているような書き方をするものもあり、まだまだ検証中みたいです。
深層水がなぜ弩振動で地球を巡るのか、そもそもなぜ深層に潜るのか、というと、その水塊が冷たくて重いから、とするのが通説です。──地球温暖化について最も過激なカタストロフィ仮説は、この冷たさが温暖化により失われ、弩振動が消滅する、つまり「地球温暖化の進行とともに弱化あるいは停止してしまうのではないか、そしてそれが大規模な気候変化を引き起こすのではないか」〔後掲岡〕というものです。
水深200mよりも深くにある海水。それが海洋深層水です。代表的なものとしては、北大西洋のグリーンランド沖から深層に潜りこみ、およそ2000年の歳月をかけて世界の海をめぐる流れが知られています。〔後掲土佐力舎〕

さて、飲む深層水に話を戻しておきましょう。説によっては千年も深海を流れてきた水塊が、なぜヒトの飲める浅さに上がって来るのか?これも本当のところはよく分かってないらしいけれど、室戸については海底地形に沿って押し上げられてきた、と説明されてます。──そんなことが起こるのなら、深層水は弩振動の間にどんどん容量が損なわれていくはずですけど……総量が大き過ぎるから問題にならないのか、あるいは別の冷水が補填されるのか、その生態は細かくはまだまだ未知の部分があるのでしょう。
室戸海洋深層水はグリーンランド沖からのものとは別の流れで、アラスカ近くのオホーツク海から深層に潜りこんだもの。北大西洋の水深1000mほどの深い海をゆっくり循環していると考えられています。
この悠久の流れが日本列島四国東南端の室戸岬付近に達したところで取水される。そのような深い海の水が、なぜ室戸沖で汲み上げられるか。その成因は地形にあります。
室戸岬は地球の素顔がリアルにわかる「世界ジオパーク」に四国ではじめて認定された地。海と陸が激しく出会い、新たな大地を生むという劇的な現象をつぶさに見ることのできる地です。地形の特徴のひとつとして、室戸岬東方の海中に急角度の崖がそそり立っており、その崖を伝うように「海の底力」は迫りあがってくる。「湧昇流」です。1000mの深海がこの流れによって湧きあがるのです。〔後掲土佐力舎〕
とにもかくにも、凄い水です。
歴史においても、この深層水のような水塊を探り当てたいものです。

〉〉〉〉〉参考資料
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