暗黒森林@ことばぐすい

〔劉慈欽「三体」大森望、光吉さくら、ワンチャイ訳,早川書房,2024〕
※【本】:本編、【暗】:暗黒森林編、【死】:死神永生

なにもないだと?とてつもなく反動的だ!

「おまえは授業中にビッグバン理論を撒き散らした。それは、すべての科学理論のうちでもっとも反動的なものだ!」男の紅衛兵のひとりが新たな罪状を持ち出した。
「ビッグバン理論は、もしかしたらこの先いつかくつがえされるかもしれない」と葉哲泰は言った。「しかし、今世紀の宇宙論においては、ハップルによる赤方偏移の発見と、ガモフが予測した3k宇宙背景放射の存在、この二つの大きな発見により、ビッグバン理論こそが、宇宙の起源を説明する仮説として、現在もっとも信頼されている」
「嘘よ!」紹琳が叫び声をあげ、ビッグバンについて長々と講義しはじめたが、その反動的本質を深く分析することも忘れなかった。だが、四人の少女のうちのもっとも聡明なひとりは、この理論に強く惹かれ、思わずこうたずねた。
「すべての時間はその特異点から始まったの? その特異点の前にはなにがあったの?」
「なにもない」葉哲泰は、どの少女の質問に対してもそうしていたとおり、そちらに首をまわし、慈愛のまなざしで相手を見ながら答えた。鉄の三角帽をかぶせられ、体に重傷を負った葉哲泰にとっては、大きな苦痛をともなう動作だった。
「まさか……なにもないだと?反動的だ!とてつもなく反動的だ!」少女が怯えたように紹琳のほうを向くと、紹琳は喜んで救いの手をさしのべた。
「つまリ、ピッグバン理論には、神が介在する大きな余地があるのよ」と少女にうなずきかける。
 紅衛兵の少女はしばらく茫然としていたが、ようやく立脚点を見つけ出し、ベルトをぎゅっと握りしめた手を葉哲泰に向けた。「おまえは──おまえは神が存在すると主張するのか?」
「わからない」
「なんだと!」
「わからないと言ったんだよ。きみの言う神が、この宇宙の外部に存在する超意識のことだとすれば、わたしにはそれが存在するかどうかわからない。科学はそれを肯定する証拠も否定する証拠も見出していないからね」じつのところ、この悪夢のような時間のおかげで、葉哲泰イエ・ジョータイはすでに、神が存在しないことを信じる方向に傾きかけていた。
 このすさまじく反動的な主張にグラウンド全体が騒然となリ、壇上の紅衛兵のひとりが先導して、またもスローガンを叫ぶ声が爆発した。
「反動的学術権威、葉哲泰を打倒せよ!」
「すべての反動的学術権威を打倒せよ!」
「すべての反動的学説を打倒せよ!」
 シュプレヒコールが静まってから、少女は大声で言った。「神など存在しない。あらゆる宗教は、民衆の精神を麻痺させるために支配階級が捏造した道具なのだ!」
「その考えは偏見にすぎない」葉哲泰が静かに言う。
 恥をかかされ、怒リに燃える若い紅衛兵は、この危険な敵に対して、言葉でなにを言っても無駄だと判断したらしく、ベルトを振りまわして葉哲泰に襲いかかり、残る三人の少女もすぐにそれにつづいた。
〔【本】第一部1〕

悠久の時だ。なにも感じないかい?

「ねえ、この木の樹齢はわかるかい?」
「数えればいいべ」馬鋼は切リ株の年輪を指して言った。
「もう数えた。三百三十歳以上だよ。きみがこれを切り倒すのにどのくらいかかった?」
「十分もかかってねえよ。おれはこの連隊一のチェーンソー使いだからな。どの連隊に行っても、名誉の赤旗がついてくる」(略)
「三百年以上、十何世代だろう。この芽が出たのは明の時代だね。悠久の時だ。どれだけの風雪に耐え、なにを見てきたのか。それをたった数分で切リ倒してしまったわけだけど、きみはなにも感じないかい?」
「なにを感じろって?」馬鋼には意味がわからなかった。
〔【本】第一部2〕

人類:悪=海:氷山

レイチェル・カーソンが描く人類の行為ー殺虫剤の使用は、文潔からすればしごくノーマルで正当なもの、少なくとも善悪どちらでもない、中立的なものだった。しかし、大自然という観点に立てば、その行為の邪悪さは文化大革命となんら変わりがなく、同じように大きな害をこの世界に与えている。『沈黙の春』は、その事実を文潔にはっきりと示した。
 ならば、自分がノーマルだと思っている行為や、正義だと思っている仕組みの中にも、邪悪なものが存在するのだろうか?さらなる熟慮の末に至ったひとつの推論は、ぞっとするような深い恐怖の底に彼女を突き落とした。もしかすると、人類と悪との関係は、大海原とその上に浮かぶ氷山の関係かもしれない。海も氷山も、同じ物質でできている。氷山が海とべつのものに見えるのは、違うかたちをしているからにすぎない。実際には、氷山は広大な海の一部なのではないか……。
 文潔は、多数派が正しく、偉大であるとする文革の邪悪さに気づいていたが、文潔がノーマルで正当だと考えていた殺虫剤の使用も実は悪だということに、レイチェル・カーソンによって気づかされた。つまり、人類のすべての行為は悪であり、悪こそが人類の本質であって、悪だと気づく部分が人によって違うだけなのではないか。人類がみずから道徳に目覚めることなどありえない。自分で自分の髪の毛をひっばって地面から浮かぶことができないのと同じことだ。もし人類が道徳に目覚めるとしたら、それは、人類以外の力を借リる必要がある。この考えは、文潔ウェンジェの一生を決定づけるものとなる。
〔【本】第一部2〕

and full of unpredicatable facters:(世界は予測不可能な因子に満ちている)

世界を満たす予測不可能

「では、先生のこれまでの人生は幸運だったわけだ。世界には予測不可能な要素があふれているのに、一度も危機に直面しなかったのだから」
 汪淼はしばし考えたが、やはりよくわからなかった。「たいていの人はそうじゃないでしょうか」
「では、たいていの人の人生も幸運だった」
「でも… …何世代にもわたって、人間はそんなふうに生きてきた」
「みんな、幸運だった」
 汪淼は首をかしげて笑った。「今日のわたしはどうも頭がまわらないらしい。つまりそれは……」
「そう、人類の歴史全体が幸運だった。石器時代から現在まで、本物の危機は一度も訪れなかった。われわれは運がよかった。しかし、幸運にはいつか終わりが来る。はっきり言えば、もう終わってしまったのです。われわれは、覚悟しなければならない」〔【本】第一部4〕

アメリカ諸州がアステカ帝国のままの人類史

それから軽い口調でたずねた。「もし三体文明が人類世界を侵略してきたら、みなさんはどう思いますか?」
「うれしいだろうな」はじめに若い記者が沈黙を破って答えた。「この数年に見てきたことで、ぽくは人類に失望している。人類社会にはもう、自己改革するだけの力がない。外部の力による介入が必要なんだ」
「賛成!」女流作家が大きな声で叫んだ。たまりにたまった感情のはけ口がやっと見つかったというふうに、興奮をあらわにしている。「人類は最低よ。わたしは、文学というメスで人類の醜さを暴くことに半生を費やしてきた。いまはもう、暴くことさえうんざり。三体世界がほんとうの美をこの世界に持ち込んでくれることを心から願う」
 潘寒パンハンは無口だった。その目に、また興奮の輝きが宿っている。
 老哲学者はすでに火の消えたバイプを振りながら、 真剣な面持ちで語りはじめた。「この問題について、もう少し深く、みんなで掘り下げてみたい。アステカ文明のことはどう思う?」
「黒くて、血なまぐさい」女流作家が答える。「暗黒の森を通して、不気味な炎に照らされた血の滴るピラミッドが見える。わたしのイメージはそんな感じ」

〔wiki/アステカ Aztec ritual human sacrifice portrayed in the page 141,16C,作者不明〕

 哲学者はうなずいた。「すばらしい。では、想像してみてほしい。もし、スペイン人が侵略しなかったら、アステカ文明は、人類の歴史にどんな影響を与えていただろうか?」
「それは白を黒、黒を白と言いくるめるような理屈だ」IT副社長が哲学者に反論した。「アメリカ大陸を侵略したスペイン人は、ただの強盗や人殺しにすぎない」
「だとしても、すくなくとも彼らは、ありうべきひとつの未来を防いだ。すなわち、アステカが無制限に発展して、アメリカ諸州を血なまぐさい暗黒の大帝国に変えてしまうこと。もしそうなっていたら、いまわたしたちが知っているような文明社会はアメリカに現れず、人類史における民主主義の出現はずっと後年になっていただろう。それどころか、もしかしたら、民主主義など出現しなかった可能性もある。これが、さっきの質問に対する鍵だ。三体文明がどのようなものであれ、彼らの到来は、病床で死を待つだけの人類にとっては、やはり吉報となる」
「しかし、アステカ文明は西洋の侵略者によって完全に滅ぽされた。この事実をじっくり考えてみましたか?」 国営電力会社の役員はそう言って、まるでいまはじめて会った人間を見るように、ゆっくりまわりを見渡した。「 その思想は、とても危険です」
「とても深遠ですよ!」博士課程の学生が口をはさみ、哲学者に向かって、何度も勢いよくうなずいた。「ぽくも同じことを考えていましたが、どう表現していいかわからなかった。あなたの話はほんとうにすばらしかった!」
〔【本】第一部18〕

冷静さと無感覚が最も生存能力を高める

 この二つの報告に対し、元首は狂喜することも、落胆することもなかった。警告メッセージを送った監視員に対してさえ、元首は怒りや憎しみをまったく感じなかった。それらを含めたすぺての感情は──恐怖、悲しみ、幸福、美的センスなどは三体文明が忌避し、排除しようとしてきたものだった。そうした感情は、個人及び社会の精神的な弱体化を招き、この世界の苛酷な環境下での生存にとって不利に働く。三体世界に必要な精神は冷静さと無感覚であリ、過去二百サイクルの文明史からもわかるとおり、この二つの精神的資質を主体とした文明の生存能力がもっとも高い。
〔【本】第一部32〕
※{個人意見}中国文明の特質を語った文章にも読める。
▼▲

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です