目録
ももへの手紙を出した学校
あれ,この軒先にも花と句。センスの好い流行らしい。
御手洗郵便局。
1554,若胡子屋。ここは観光地らしい。──今調べると,日本残酷物語の「おはぐろ伝説」(巻末参照)由来の遊郭跡とのこと。へえ〜。
▲若胡子屋の横手棟
1555,旧金子家住宅。御手洗条約締結地。
観光案内はパラパラ出てる。地元的には新しく売り出してるエリアらしく,地図やスマホを手にうろうろしてる観光客多数。あ,ワシもか?
天満神社。
1557,海岸線へ戻る。西へ,宇津神社を目指すことに。
▲宇津神社遥拝所
宇津神社遥拝所碑。明治二年記名。──沖縄感覚だと,神社本体に行かずに要拝したことにする「コンビニエンス神社」だけど……御手洗商家側の居住者が要拝所を設けてまで宇津を拝んだのでしょうか?
弁天社前。
1604,呉市立豊小学校。アニメ「ももへの手紙」のモデルという。
▲小学校校庭
大山祇神社領七島
1613,当時は「隣浦」と書いてる。
県内では「大長みかん」で著名な「大長」がここになります。角川日本地名大辞典によると古くは大条浦。鎌倉期からの地名という(巻末参照)。旧国名は伊予とも安芸ともされる〔同/大長〕。
なお,豊町史には室町時代前期に伊予国三島領(大山祇神社領)だったと記載される。「大崎下島は,室町時代前期には伊予国三島領(大山祇神社領)七島の一であり,「下島」と呼ばれていた。当時の七島は,生奈島・岩城島・大三島・大下島・岡村島・御手洗島(「下島」)・豊島と考えられている。そのうち当社(引用者注:宇津神社)のある御手洗島(「下島」)と豊島は,戦国時代以前から安芸国小早川氏の支配下に置かれていたため,江戸時代には広島藩領となった。」〔原典:松井輝昭:第Ⅱ部第二章争奪された島,豊町教育委員会編:『豊町史 本文編』豊町教育委員会,p319-347,2000←後掲山口〕
浜階段がくっきりのこる。
今は静かなる大長の湾
これは確かに……広く大長海域の海底地形〔巻末:みんなの海図〕を前提にしても,瀬戸内海の最奥に隠れて何かをするには最適の土地です。
▲青いベンチ
──と幕末「密貿易」ありきで当時は考えてますけど,前章巻末記載のようにその決めつけから離れると──古代からこの海域の水運のコアにあったのは,この大長港だった可能性が高い。
御手洗は,水深上,近世以降の中型以上の船の便宜から,海域の端に設けられた「外港」だと位置づけられそうです。
▲浦のメイン建物
浦の北側に海際の広いスペースが見えます。大長1分区集会所やJA広島ゆたか本所肥料倉庫とGM.に書かれる場所です。
現在の港機能の中心になっているここは,他の集落の建て込み具合から考えて,古くから港の核だったスペースでしょう。
▲雑貨屋軒先
文明8年に転入しました
湾最奥まで来ました。
宇津神社や本徳寺のラインはもう百mほど奥になります。
集落の筆から読み取れないので確証は置けませんけど,百m程度は,この湾はかつて大きかったかもしれません。
▲参道
1616,宇津神社見る。
神体は次の三柱。
「八十禍津日(やそまがつひ)大神
神直日(かんなおびの)大神
大直日(おおなおびの)大神」(巻末参照)
いわゆる祖神に当たる,かなり稀な神々ですけど,これが──
▲由緒書き
上代は菅原氏,中世には小早川・河野・越智氏の信仰が篤かったという。どうも祟りを祓う,航海無事,さらになぜか武運長久の神様に転じていったらしい。
ただ,その神社がなぜ「宇津」なのかは全く分からない。別称「七郎大明神」,これも不明。「宇津神社本社末社棟札控」という史料に1476(文明8)年に「本郷谷」の南から現在地・石原に移ったとの伝承もあるらしい〔後掲戦国日本の津々浦々〕けど,「本郷谷」がどこかは分からない。
宇津という音は越智に通じるかなあ,と思いつきもするけど根拠はない。
波三本に菱
左手裏神木「ホルトの木」。
樹齢推定1200年。「広島県内最大の巨樹」?──というのは,今調べると「ホルトノキ」という樹種としては県内最大,ということらしいけれど──「宇津神社のホルトノキの巨樹は,この地域にかつては照葉樹林が発達していたことを示す証拠」〔後掲文化遺産オンライン〕という。つまりここは船材の供給地だった可能性もあるのです。
本殿に日本唯一の「龍の立体彫刻」があるとあるけれど,これは視認できず。
▲対聯
さらに奥。対聯?──と驚いてる。
右「神者依人敬増威」
左「人者依神徳添運」
ただこれは,内容的には神社にはよくあるもの。対聯状のは確かに珍しいけれど,なぜか竹原市には時折見かけます。
▲波三本の神社紋
波三本に菱形,これがこの神社の神紋らしい。他を知らず,ちょっと比較し難いけれど──。
奥に四社。表記なし。
その前の井戸に「[王<ソ][シンニョウ<酉]井」の三文字。全く意味不明。
相撲土俵と弓の的3つ。隣に方形池。
▲井戸
東風崎神社になぜか登った件
そろそろ帰路の船の時間が気になります。大長の湾を急ぎ足──の途中,岸の遺構,か何か分からんものを撮影してます。
ここの岸は,どれがいつのか分からない重層的な建造の跡があります。常に実用されて,しかも風雨に晒されてるから,発掘云々ということにもならんのでしょう。
▲船着き場の遺構
1642,豊支所。みかんメッセージ館。
1648,大長港に到る。チケットは買えました。
待ち時間を使いたい。途中,山手に見かけた東風崎神社(→GM.:地点)へ登る。
▲東風崎神社への登り口
この神社の立地は何だろう?
細く長い崖上に参道が続いていきます。このまま続くと船の時間が……と不安になってきました。
佐々木鹿蔵君碑。吉田茂謹書。
1889(明治22)-1950(昭和25)年の呉市の実業家・政治家でしたけど……なぜここにその碑があるのか,碑文を読み切れてません。
▲参道から港
チャドルの女の顔はもう
幸い,さほどでもなく本堂に辿り付きました。1653。
ただ,本堂そのものは写してません。この道そのものが気になったのです。
何とか間に合った竹原行きの船は──何と座席数12席!
ちなみに──これに乗り遅れたら次の便を乗り継いで帰る気でいました。
1812小長→1824明石
1907明石→1945竹原
岡村島。浜階段はここにも随所にある。今はなくなってる集落らしき場所にもある。島に挟まれてるから非常に静かな海です。
1723,すぐに大海。上島までは意外に一海を超える感じ。山系が違うのか,下島の方が歪な山陵線が目立つ。浦の大きさも上島が一つ上。
1726,明石。大長もだけど夕暮れの桟橋はほとんど釣り堀状態で,上下船客とは関係ない地元民で溢れてます。
1740,木江港天満。ここも浜階段が何本もある。ここはそれらが近代設備の中にきちんと取り残されてる。対面には現代のドックがあるのに……何て光景だろう。
1804,竹原港。
港から駅への道中,突然,自転車でチャドルの女が追い抜いていった。夕闇が降りてきてる。顔はもう見えない。
▲「クレばいいのに」
■レポ:【御手洗近世史】「屋敷ゼロ」の御手洗
ここら(御手洗)の人は口が奢っとったけん,ごっつお(ご馳走)をよう食べとった。またここらの人は食べること(調理法)もよう知っとった。私は田舎もんでわけが分からんけん,みんな(近所の同世代の嫁)に聞いたり,姑のを見たりして覚えた〔後掲清水,2009食料品店主AOさん(87歳)より聞き取り〕
「中国無双」と巷説に謳われた近世・御手洗には,例えば食文化において,他地の者を戸惑わせるほどの明確な差異がありました。
後掲清水によると昭和2年の御手洗には,旅館・置屋の集中した地域(築地通り〜蛭子区第1・2班)に仕出し屋の他,カフェが確認出来るという。ビリヤード場が2軒,さらに昭和6年には無声映画の小屋,12年には常設映画館「乙女座」(→GM.:地点)が営業開始。まさにモボ・モガの世相通りで,してみると現代の御手洗に点在するカフェなどは旧屋利用というより往時の復元とも言えるかもしれません。
ところが,この御手洗の市街の歴史は大長の中では新しい。上図を見ても,17C末の集落は天神の尾根(満舟寺の岬)の延長部にしかまだありません。15Cから地名の残る大長・沖友(齋灘側(南方)→GM.:地点)に比し,近世中期にようやく地区として独立。上記図からするとそれは早くとも17C後半だったらしい。
[現在地名]豊町大長・御手洗(みたらい)・沖友(おきとも)
(略)御手洗は近世中期に町として独立した。大長・沖友も早くから開発されており、応永二九年(一四二二)四月二二日付の善善麻女性某連署譲状写(小早川家文書)に「大条浦・興友浦」の名がみえる。「国郡志下調書出帳」には「往古より永禄之頃迄大条村と書来り候、慶長年中より大長村と書申候」、また「当村之義者永享・文明之頃迄者伊与国越智郡之内之由、慶長年中より安芸国豊田郡大崎嶋之内大長村と旧記ニ御座候」と記される。
〔日本歴史地名大系 「大長村」←コトバンク/大長村〕
さらに17C前半に遡ります。1638年に,屋敷数がゼロだったという検地(地詰)帳史料があります。宇津神社に所蔵されたものらしい。
寛永15年(1638)の大長(おおちょう)村地詰(じつめ)帳によると、後の御手洗(みたらい)町分に属する田畠は8町6反余で、屋敷は皆無であった。しかし、この直後から、瀬戸内海の航路は「地乗り」から「沖乗り」へと発展し、御手洗はその要衝にあたるうえに、前方に岡村島を配し、船泊(ふなど)まりとして絶好であったから、人々の来住が始まり、港町として急速に整備されて行った。〔後掲ひろしま文化大百科/若胡子屋跡〕
現物及び原文全文を確認できてませんけど,次の史料によると,大長村全体の田畑は55町。うち御手洗の8町が約1/7ですから,そもそも農地すら乏しい辺地だったと考えられるのです。
寛永一五年(一六三八)の大長村地詰帳(宇津神社蔵)によると、大長・沖友・御手洗の三地域を含めて田方一〇町四反余、畠四四町五反余、屋敷四反五畝余(五四軒)で、村高は三一九・六六一石。〔日本歴史地名大系 「大長村」←コトバンク/大長村〕
ここで考えてみたいのは,この「屋敷ゼロの御手洗」の状態とは何なのか,という点です。
広義の大長は一峰寺山(→GM.:地点)の山麓一円を言うらしい。うち御手洗は,沖友からは3km,大長からも1kmは離れてます。ここに僅か8町(≒8ha)とはいえ,田畑を飛地で設けるのは不自然です。屋敷はないけれど,早くから知られてはいた土地と推定されるのです。
陸に依らない人々の居る場所
上記画像は「おちょろ舟」。最後期には「海上立ちんぼ」のような使われ方をしたから印象が悪いけれど,元は「沖ウロ」全般に広く用いられたと考えられます。
おちょろ舟はかつて夜間港に停泊する船に遊女や物資を運ぶ小型の舟であったといい, 現在では見ることは出来ないであろう。大崎上島よりも, むしろ大崎下島のほうがかつておちょろ舟で有名であったようだ。白幡(1999年)によれば, 瀬戸内では優れた造船技術で廻船をつくり,19 世紀に焚場(ドック)で盛んに造船が行われていたということであり(2), おちょろ舟の活動していた時期には島における遊興, 芸人の移動が盛んに見られたものである(3),という (白幡,1999 年)。宮本(2011 年)によると, おちょろ舟の分布する港は山口県上関, 愛媛県安居島, 大崎下島の御手洗, 大崎上島では木江とメバル, 三原の糸崎などでそれほど多くないとされている(4)〔後掲小河ほか〕
2)白幡, 前掲書, 62頁。
3)白幡, 前掲書, 70-71頁。
4)宮本常一 『私の日本地図⑥ 瀬戸内海Ⅱ芸予の海』 (未来社, 2011年), 120頁。
宮本さんは,陸地にほとんど痕跡を残さない「海人集落」の事例を記述しています。
陸地に上がらない,利用しないという意味ではありません。陸に依存しない,陸に常住しない,という生活形態です。
瀬戸内海にいた海人はその初めから陸の稼ぎをする者はほとんどなかったようである。安芸(広島県)には二つの海人郷があったが、もっとも多く海人の住んでいた東瀬戸内海には、海人郷の名は見出せないばかりでなく、小豆島のような大きな島でさえ郡名もなければ郷名もない。それは人が住んでいなかったためではない。淡路の野島の海人は名高いけれども、そこも海人郷にはなっていないし、播磨の西南隅も海人の多くいたところだが海人郷の名はない。このことはこの地方の海人は漁業専業でほとんど陸に依存することがなかったためであろう。つまり生活のよりどころとして、海岸に家をたてて住みはするが、それ以外に陸に依存することはたいへん少なかったためである。〔(再掲)後掲宮本 8船住まい〕
こうした海人の生活の形態として,先に「沖ウロ」と呼ばれるものを紹介しました。それが海上でなく陸上で行われたのがいわゆる「行商」で,海上で押し売りの度合いが高まれば海賊に近くもなるわけです。
「おちょろ舟」の多かった地点の一つに,既に宮本さんは大崎下島を数えていますけど,「沖ウロ」についても同様です。この二語の前後関係や差異は,所詮いずれも俗語なのでよく分からないけれど,少なくとも主体とニーズについては同一視してよいと思います。
瀬戸内海地方では家船の仲間は帆船の寄港地へ魚を売りにいったり、魚以外の食料品や日用品など持って売りにいくようになる。港につけている船へ小船を漕ぎよせて商売するもので、このような船を沖ウロと言った。沖ウロはたいてい船着場の近くの漁民がおこなっていたが、中には海峡などにまちうけていて通りすぎる帆船に小船をこぎよせて日用品や食料品を売るものも少なくなかった。来島海峡の来島はこの沖ウロの重要な根拠地の一つであったが、そのほかでも大下、小大下、興居島、大崎下島、睦月島なども沖ウロの多かったところである。〔(再掲)後掲宮本 21家船の商船化〕※下線:引用者
次の行動などは,「村上海賊の娘」の最初の辺りに出てきそうな情景ですけど──漕ぎ寄せて来るのは物売りであることが,実際には多かったのでしょう。
その意味では,「海賊と呼ばれた男」の「油持ってきたけえ!」のシーンを想起していただいても遠くはありません。
船をはしらせていると、瀬戸の流のややゆるやかな所に浮んでいる小船が急に漕ぎ寄せて来て、走っている船の胴へぴたりとつける。そして船の必要とするものはないかと聞く。必要なものを言えばそれを籠に入れ、竿のさきにつけて差しあげる。運搬船のものは籠の中の品物をとり、かわりに代価を人れる。金をうけとると小船は運搬船からはなれて、また待機すべき場所へ漕ぎもどっていく。〔(再掲)後掲宮本 21家船の商船化〕
ただ,それがやはり海賊,ということもあったらしい。というより,商談が揉めたら海賊に変貌する,ということかもしれませんけど……。
中世における海賊はこれらの船が物を売るのでなく、逆に大きい船から物を奪ったのである。〔(再掲)後掲宮本 21家船の商船化〕

社と岬と舟との風景
この沖ウロの居た風景を画像で見てみます。稀有なことに,中世の御手洗については,これを描いた絵図が現存しています。
時は1806(文化3)年。描き手は伊能忠敬,……の引きつれた一行の中にいた絵師でしょう。もちろん測量の旅なので,絵図を描いてるのは珍しくはあるのですけど,とにかく当地の伊能忠敬測量絵図館に伝わっているものです(当時は見逃してるので他の方のネット記事ですけど)。
逗留した御手洗の館からの眺めが,以下の右半分です。
解説文「右端に描かれているのが、御手洗の町年寄柴屋政助の屋敷で、ここが本陣であった」「対岸の岡村島を望む構図となっている」〔後掲上総守が行く!〕
面白いのは次の左半分で,大長集落と,この日の帰路間際に何となく登った東風崎神社がモロに描かれています。
解説文「隣の大長集落にある東風崎神社を望む構図となっている」「『梵天』の位置を計測している人たちが描かれているが...」〔後掲上総守が行く!〕
拡大します。神社の岬を取り巻くように,周囲の海を船が停泊しています。江戸後半なのと絵図ゆえに大型の船が多いけど──これが沖ウロやおちょろ舟に置き換えて幻視すると,中世以前から大長地域の海域の姿が見えてくると思います。
目的は異なるけれど戦前頃には「大長地区では近隣の島へミカンの出作を行う為,農船と呼ばれる小型船を使用していた。最盛期は大長の船溜りには400艘を超える農船がひしめいていた」〔wiki/大崎下島〕。
さらに,この神社を,御手洗・満舟寺に頭の中で置き換えてみてください。まさにそれは,「満舟寺」の名前通りに舟の纏わりつく岬を中心にした中世・御手洗の景色だったと想像されるのです。
御手洗の存する場所
海域の中にある御手洗は,上記のような位置に在ります。
大崎の上・下島の間には岡村島があります。この島と下島の間の海峡は,北を中ノ島と平羅島,及びその間の瀬戸に塞がれた湾状の地形(御手洗水道)。湾の南が御手洗の瀬戸ですけど,東西に両島の高い峰※を備え,中部瀬戸内では他にない風と波に強い場所です。
(岡村島)長谷山:標高125m
さらに湾内に小島がある。上記海底地形図で見ると,これが南北に浅瀬で連なり,湾内の波を抑えてます。
湾内,特に大長の港は小舟の溜まりに絶好です。
これに対し湾南縁,御手洗の岬は,海底地形を細かく見ると東に突き出て,さらに南東に折れたような浅瀬が伸びています。あたかも現代の港湾突堤のようですから,波は静かだったでしょう。
この海底突堤の北・湾内側が満舟寺の岬になります。やや浅いから,江戸期の大型化以前の舟が岬に寄り付いていたのでしょう。
北・齋灘側も,海底突堤の曲がりに半円を囲まれた内側に当たります。江戸期の千石船クラスはここに停泊して,良き風を待ったと思われます。
上図にも満舟寺箇所にのみマーキングしました。
細かく見ると満舟寺は,三本の峰の真ん中に当たります。西からそれぞれ「弁天」「天神」「千砂子」の尾根と名付けられてます(前掲集落図参照)。天神はかつて満舟寺の祭神がそれだったことからでしょう。
三本の間の浦も,舟溜まりとしては利用し易かったのでしょう。かつ,天神の尾根の突き出た先はすぐ,やや深瀬になっていますから,中型の船の停泊も可能だったのでしょう。
──という辺りまでは,江戸期より前の御手洗の姿を類推していくことはできました。でもその史料的実証となると……これは大変な困難を伴います。
実証:御手洗の岬に舟は満ちたか?
江戸期より前の現「大崎下島」は,その地名からして不明です。
これは驚くべきことだと思います。前述のように大長の古名「大条浦」は鎌倉期からの地名とされ〔同/大長〕,考古学的にも裏打ちされていますから,遅くとも中世初期には拓かれている土地です。
なのに島の名がないのです。
元は「大崎」でなかった大崎下島
繰返しになりますが広島県竹原市沖には三島,北から大崎上島,岡村島,大崎下島があるわけですけど,間に「岡村」名が来る配置自体が既に変です。では「大崎」という地名の由来はというと,中世の荘園名「大崎荘」です〔wiki/大崎上島〕。これは1523(建長5)年の近衛家領としての記載があるという〔wiki原典:沢井常四郎『芸備の荘園』三原図書館,1941年〕。
併せて,中世以降の名称として「大崎衆」があります。海賊衆だったと言われます。記録されたものは少ないけれど,16Cの小早川文書史料に名がある※。
2)同文書中,天文24年(1555年)(8月末に弘治元年に改元。∴同年厳島合戦(同9月末)の直前),元就が宮ノ尾城(厳島)検分時に陶軍の攻撃を受けた際,大崎衆・金山次郎五郎らが救援しこれを撃退,小早川隆景より感謝状発布
3)同文書中,天生3年(1575)正月,小早川水軍の海将乃美(浦)宗勝に宛てた小早川隆景の書状「大崎衆が早く備中へのぼってくるように早船をもって仰がせるべく」。石山本願寺合戦時の援軍要請と推定される。〔後掲櫂伝馬〕
ただ,文禄・慶長の役において造船港となったのは大崎上島の木江〔wiki原典:コトバンク/大崎上島(web版未掲載部)〕。岡村島には戦国期に別系統だったと思われる村上水軍の城砦が築かれています〔wiki/岡村島〕。また,前述のように下島は,戦国期の小早川支配域に属する前には国域として伊予帰属だったらしい。
「大崎」名称が大崎上島・下島を含む地域名として用いられていると確認できるのは,その全域が小早川領となったことの延長上で,江戸期に両島がともに広島藩蔵入地になってからのようです。伊能忠敬「日本實測録」には「大崎上島,周廻一十二里一十一町七間」「大崎下島,周廻五里二十七町四十九間」〔wiki/大崎上島〕と記述しています。
これらから考えて,現・大崎下島は,小早川時代より前までは「大崎」と呼ばれたエリアの域外だったと考えるのが妥当です。ではどう呼ばれていたかと言うと――――
当島はかつて大長島・御手洗島と称したこともあるが,近年では単に下島とも呼ばれる。〔角川日本地名大辞典/大崎下島〕
「大長島」「御手洗島」というのは,明らかに点的名称「大長」「御手洗」から由来しています。大長のある島,御手洗のある島,という意味です。つまり,江戸期より前の時代,大崎下島には島全体としての名称がなかった,と考えてよいようなのです。
伊予三島縁起の「大長」年号
「伊予三島縁起」という修験道史料に「天武天王御宇天長九年壬子」という一文があります。これが,写本※によっては「天武天王御宇大長九年壬子」と記すものもあります〔後掲古田史学の会〕。
天武天皇在位は673(天武天皇2)〜686(朱鳥元)年とされ,10月1日〈年9月9日〉,天長9年は832年。
これが,「大長」年号の使用例として九州王朝論者の論拠の一つになってます。
九州王朝説ではこの「大長」を九州年号の最後の元号(704-712年)に当たるとします〔原典「伊予三島縁起」〕。それでも天武帝在位年とは整合しませんけど,同説では,九州王朝に親和的な「越智国」がこの海域に存在したと主張します〔後掲古賀,他の論者:合田洋一〕。
同説の掲げる「大長」元号の異表記の一つには,何と「大和」があるとして〔後掲atwiki/九州年号-皇紀対照表〕,この場合,第二王朝たる現国号が「大長」に由来する,ということになるのです──もちろん,大長とは大崎下島の集落名です。
本稿ではせいぜい実質的な二重王国の可能性までは認めるけれど,九州王朝説までは採らないのでひとまず併記に留めます。
角川日本地名大辞典で「大長」を引くと,多くはないけれど関東から近畿に例があります。ただ,中国地方には大崎下島の大長しか該当はありません。九州に近く,原史料が伊予三島縁起という点からは,大崎下島・大長しか関係地名がないのも確かなのです。
宇津社の祀る祖神・禍津日神
この日に訪ねてる宇津神社は,これまた全く底知れない祭場です。
まず,祭神たる禍津日・神直日・大直日の三神を調べると――――筆頭の禍津日は,変貌したイザナミに追われ黄泉を脱出したイザナギが次々に生んだ神のうち,「汚垢」(汚れた垢),つまり象徴的な黄泉の穢れから生まれた二神の一つです(上図参照)。神直日・大直日は「爲直其禍」(その禍(わざわい)を直すため)と訳が分かりませんけど,とにかく禍津日の直後の生成。ちなみに「爲直其禍」で生まれた三神のもう一柱は「伊豆能賣神」,やはり海浜(伊豆半島又はその沖の島々)に関係します。
以下は古事記原文です。
初於中瀬墮迦豆伎而滌時、所成坐神名、八十禍津日神訓禍云摩賀、下效此。、次大禍津日神、此二神者、所到其穢繁國之時、因汚垢而所成神之者也。次爲直其禍而所成神名、神直毘神毘字以音、下效此、次大直毘神、次伊豆能賣神。
【読み下し】
初めて中つ瀬に堕(お)り潜(かづ)きて滌(すす)ぎたまふ時、成りませる神の名は、八十禍津日(やそまがつひの)神。次に大禍津日(おほまがつひの)神。この
二神(ふたはしら)は、その
穢繁国(けがらはしきくに)に到りし時の汚垢(けがれ)によりて成れる神なり。次にその(禍)まがを直(なほ)さむとして、成れる神の名は、神直毘(かむなほびの)神。次に大直毘(おほなほびの)神。次に伊豆能売(いづのめの)神。〔後掲古事記の原文〕
神話上の序列が定説のように造られたものとすれば,最も貶められている祖神です。
禍津日神を祀る神社は少ないけれど全国に散在します※。西日本では福岡の警固神社,東日本だと秩父神社の禍津日社が著名で〔後掲日本の神様〕,分布からは古い信仰が僻地に残った感じです。
神部神社:山梨県甲州市塩山上萩原1415
瀬織津姫神社:石川県金沢市別所町ヲ83
綾戸國中神社:京都府京都市南区久世上久世町446
警固神社:福岡県福岡市中央区天神2丁目2-20
早吸日女神社:大分県大分市佐賀関3336-2
また,宇津神社に残る棟札(一般的には社殿修造の書付)は51枚あり,うち近世のものが40枚(うち1775(安永4)年の大改修時のもの20枚)だけれど,中世のものも3枚あります。それぞれ1318(文保2)年,1440(永享12)年,1476(文明8)年※〔後掲山口〕。
※前掲松井 及び三浦正幸(2001:「瀬戸内における地方大工の出現について――棟札等に見える大工名による考察――」『内海文化研究紀要29』1-8)とも,実際は中世より後代の作とする。
1318年棟札の大願主は藤原久道で,大工は三島大工「友継」。広島県内では3番目に古い棟札です。
※県内最古の棟札:沼名前神社(福山市鞆町所在)「牛頭天王社神輿嘉元四年造営棟札」
同二位:光海神社(竹原市吉名町所在)「八幡宮社正和五年建立棟札」
いずれも国立歴史民俗博物館編(1993:『社寺の国宝・重文建造物等棟札銘文集成――中国・四国・九州編――』)所収
1440年棟札の方の大願主は沙弥圓春で,大工は右衛門尉「越智重正」。
※山口原注「6)ここに見える「圓春」は,小早川徳平の息子とされる圓春(徳鶴)であると考えられている。圓春は沙弥善麻の養子となり,応永二十九年(1422)に善麻から「久比浦」・「大条浦」・「興友浦」を譲与された。以来,徳平の子孫は当社の七郎大明神を氏神として崇めていたと推測されている。〔原文原典前掲松井〕」
両者とも,地元の神人と百姓等が併記されています。
大長地域の歴史が「鎌倉期」からと記載する論者の論拠は,おそらくこの棟札の存在からだと思われます。
なお,二番目に古い棟札の大願主・小早川圓春の所領記述も気になります。圓春に所領を「譲与」したのは「沙弥善麻」ですけど,「沙弥」=僧侶としてはどの寺の所属だったのでしょう。養子になって「譲与」された,というのは実質的に大家が分捕ったということでしょうけど,その領地として久比・大条(大長)・興友(沖友)が挙げられるのに,御手洗の名がないということは,同期の領土的対象としては「御手洗」は存在しなかったことを意味します。また,これらが全て「浦」と記されるのは,これらの土地が「大崎荘」のような田畑地ではなく,漁業又は交易地として認知されていたからでしょう。
蒲刈の海賊首領の朝鮮語
この日の往路に通った,大崎下島の二つ隣の蒲刈島の話になりますけど――――申叔舟による1471(成宗2)年刊行の海東諸国紀に描かれた蒲刈の記述に「其中魁首一僧甚奇異起居言變與吾人異」という,やや理解しにくい漢文があります。
海東諸国紀に描かれる瀬戸内海パートでは,申叔舟は海賊を恐れて可能な限り短期で通過していますけど,蒲刈ではついに海賊に出くわし,その記述が残されています。ここの読み方として――――
広島県蒲刈に着いた時に、海賊に金銭を支払い航行の安全を保証させたことが{老松堂日本行録}162節に示されている。その海賊の首領の一人について「其中魁首一僧甚奇異起居言變與吾人異」という記録があり、この記録は、この首領が朝鮮語を話し、朝鮮人と同じような態度や行動をしていたことを示している。すなわち、この首領は朝鮮人であり、朝鮮人が瀬戸内海で倭人を使って海賊を行っていたことになるが、首領が朝鮮人であっても、仲間が朝鮮語を理解していたということは記録には残されていない。海賊の頭が朝鮮人であっても、彼の配下の者は朝鮮語を理解することが出来ず、日本で生活していた朝鮮人は、たとえ頭となっていても部下との生活は日本語で送っており、朝鮮語の会話は日本では広がっていなかった。 〔後掲鄭〕※{引用者追記}
という信じられない解釈があります。
ただ,図式的に言えば,前期倭寇は対馬近辺の倭人と済州島付近の朝鮮人の集合とされるわけですから,その末端に連なる瀬戸内海海賊にも朝鮮語が「教養」の一つとされた,ということはあり得るわけです。
海東諸国紀は,大崎下島はもちろん中部瀬戸内をほぼ書き飛ばしています。上記の短期素通りスタンス,及び江戸期まで「沖乗り」は航路開発されていなかったことから,それを当然視するのが定説でしょうけど,蒲刈海賊同様の「国際的教養」を村上水軍系や大崎衆,ひいては名のない御手洗・大長の海人が帯びていた可能性も否定できないと思います。
若狭屋「おはぐろ事件」の風景とその原景
御手洗の若狭屋で聞いてた「おはぐろ事件」は遊郭の秘話です。正式というか観光的には「若胡屋お歯黒(鉄漿)事件」と呼ばれます。
お歯黒はかつて,既婚者の身だしなみ。鉄漿という,焼いた鉄屑を濃い茶に入れた液を用います。──遊女を買う際,お歯黒を塗ってもらって疑似結婚ムードを高める「スペシャルサービス」があったらしい。
ある夜もこのサービスを要求された遊女が,禿(かむろ:お付きの女の子)に急かされて準備してるうち,何かが癪に触ったらしい。遊女が鉄漿を禿の口に流し込んでしまう。禿は黒い液を吐き,もがいて辺りに黒の手形を無数に残しつつ息絶えた──という救いようのないお話です。
この禿は,祟りました。
禿は血を吐いて絶命したが,その後,花魁が鏡を覗くたびに死んだ禿の芦が聞こえたという。そのため罪悪感に苦しんだ花魁は遍路に旅
立ったが,それ以来,若狭屋では遊女を100人置くと必ず1人死んで99人になったとされている。〔後掲加藤,原注9〕
「11人いる」ではなく「1人いなくなる」だとリアルです。
御手洗の遊郭は18C半ばから,とするのがマジメな通説ですけど,これは藩にの公許がそのころだったというものらしい。また「おちょろ舟」営業は主に戦後だとします。けれど次のケンペル記述には,17C末に「舟」まで描かれてます。
御手洗における遊女に関する最も早い記録は,元禄5年(1692) にドイツ人医師ケンペルが著した「江戸参府旅行日記8)」と考えられる。伊予の怒和島を出発したのち風待ちのために御手洗に入港したケンペルは,そこで30艘ほどの停泊船の間を「ヴィーナスの姉妹たち」を乗せて漕ぎ回る2般の小船があったことを記述している。これは港町としての開発が行なわれはじめてからまもない時期に,すでにオチョロ舟に乗った遊女の存在があったことを示すものである。〔後掲加藤〕
※※加藤前記の続き「御手洗において,はじめて公式に許可された御茶屋は, 享保9年(1724)に茶屋株を得て開業した若胡屋である。」
以下は遊郭経営者の出自に関する,おそらく「言い伝え」で精度は薄いけれど,いずれも「外資」,けれど瀬戸内海の近隣港町です。
若胡屋は周防上関,堺屋は蒲刈,海老屋は伊予の出身とされており,これらの御茶屋は船に遊女らを乗せて御手洗を来訪し停泊船を相手に商売するうちに定着したといわれている。また,成立時期は不明であるが近世後期にはこの4軒のほかに,扇屋・大坂屋・二葉屋・富田屋・中津屋などが御茶屋として営業していた。
遊女数についてみてくと,そのピークは18世紀半ばごろであったと推測される(第2表)。宝暦5年(1755) には100名であった遊女数はその後しだいに減少し,約100年後の慶応2年(1866)には41名と半数以下になっている。〔後掲加藤〕
加藤さんの「100名」は次のデータからで,この18C末が既に下降期だった可能性もあります。数値の流れ,それからケンペルの見聞を考慮すると,公式な「港町としての開発」史よりそのピークはかなり早いように見えます。17C前半頃ではないでしょうか?
この時点は,秀吉の禁止令から朝鮮出兵を経て「海賊」が陸上がりしたであろう時期と重なると思います。それに連なる流動的海民には遊郭業者も同等の行動を採ったでしょう。
というより,既に類推したように,御手洗が海民の「常住しない拠点」だったならば,沖乗りのルート設定という恒常的に儲かる経済環境が整えば,砂が落ちるように自然に陸上がりしていったのではないでしょうか。
異種を容れる風土
「御手洗の赤線はどこだったか?」みたいな女ッタラシのプログをこの話題についてちらちら見たけど,加藤さんの見解が結局正当らしい。御手洗には,一般居住域と隔絶した「赤線エリア」みたいな場所は,無かったらしい。
築地通り周辺は花街として他の地域社会から隔離されていたわけではなく,派出所や病院など地域住民の生活に欠かせない施設や,米穀店や酒店といった食料品店,燃料店,雑貨店なども混在していた。〔後掲加藤〕
平地が狭いから,という点を差し引いても,御手洗の住民と遊女たちは極めて親しい関係で混住していたようなのです。それは社会階層としても同じことだったらしい。
御手洗において芸娼妓との交流が最も頻繁であったのは,島の青年たちであった。ベッピンと島の青年が恋愛関係になることも少なくなかったようであるが,オナゴヤの主人もそれを咎めることはなかった。島の青年らはベッピンを誘って乙女鹿へ映画を見に出かけ,あるいは料理屋でともに食事をとることもあった。また,ある話者には,ベッピンに服をねだられ,シャツやワンピースを仕立て屋で作らせ贈り物にした思い出もあるという。ベッピンにとっても島の青年を恋人に持つことは誇りであり,仲間内で自慢する風潮もあったという。こうした付き合いから島の青年と結婚し,前借を返還した後に御手洗で生活し続けるベッピンも存在した。〔後掲加藤〕
次の言い方を見ると,遊女(ベッピン)と一般住民の差別化は確実に成されていたと思われます。互いが互いを異種と見ながら,平気て混在している。
この情景は,現代だと沖縄那覇の桜坂,あるいは御嶽と隣り合わせの町の風景に近い。隣り合った淨不浄,闇と光が,互いを侵すことなく併存してる。
御手洗の地域住民にとって花街やそこに生活するベッピンは身近なものであり,ある種の親しみといってもよい感情が存在していた。しかし,一方で「化粧をしたりおしゃれをしたりすると母親から『ベッピンじゃあるまいし』とたしなめられた」という話が複数の女性の話者から得られた。この話からは,ベッピンは身近な存在とはいっても,地域住民,特に女性たちがベッピンを一般の女性とは異なる特殊な女性として認識し,区別していたことをうかがうことができる。〔後掲加藤〕
海民は基本的に,互いに異種です。レヴィナスなら絶対的他者との意思疎通を哲学しそうな情景で,絶対的他者のまま共存してしまう「智慧」を特に努力することなく持ってしまう。
この「風土」こそ,御手洗が海民の寄り集まった町である民俗的に明白な実証であるように見えるのですけど,いかがでしょう。
地域住民の遊女への毅しみや配慮は,昭和期に限定されるものではないと考えられる。現在,御手洗には江戸時代からの遊女墓が100基以上残されている。吉原などの大都市の遊廓ではこのように多数の遊女墓をみることはほとんどなく,寺の門前に亡くなった遊女の遺体を打ち捨てた話なども伝わっているほどである。松岸遊廓においても,遊廓で亡くなった遊女は村の檀那寺の一酉にまとめて葬られ 遊女個人の墓石はわずか1基が残されているのみである。〔後掲加藤〕

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