留保する勇気(無知と傲慢の石牢)@ことばぐすい

「よいか。多くの人の不幸の一つはの,今は分からぬことにまで,ろくに考えもせずすぐに白黒を付けたがることにある。性急に敵か味方かを見分けたがる。所詮は下司の勘繰り,損得勘定よ。じゃがの,世の中にはすぐに答えの出ぬこともある。時に非でもあり,時に是でもあることがある。

是非を超越したものもある。

それは,状況によって賽の目のように変わることもあるし,立場によっても変わる。死ぬまで答えが分からぬこともある。」
 ひと息ついて,さらに言葉を続けた。
「が,悲しいことに,人は存外その不安に耐えられぬ。揺れ動く自分の半端な立場に我慢ができぬ。

自分でじっくりと考え,事象をゆっくりと煮詰めて判断をせぬ。

その孤独で苦痛な作業に音を上げ,たちまちしびれを切らす。是か非かの,安易な答えを示してくれる者に群れを成して一斉に縋ろうとする。また,そういう者どもに限って,自分の是と異なるものに非を鳴らす。挙句,

無知と傲慢の石牢に入る。

今のぬしがそうじゃ。大馬鹿じゃ」
 才蔵は聞いた。
「馬鹿なのですか,私は」
「馬鹿ではない,大馬鹿だ」和尚は答えた。「分からぬ とは分からぬこととして,当座は受け入れておく。時が経てば分かることもあるし,死ぬまで分からぬこともある。だから,そんなものは文箱にでもそっと仕舞っておく。留保する勇気じゃ。文箱の中の存在を,

分からぬままに受け入れ,尊重する。

ぬしにはその気構えが欠けておる」
「…」
「謙虚であれ」和尚は言った。「未熟な自分を受け入れ,人に盲従することなく,信じよ。間合いを測りつつも,相手を敬え」

 そこまでを思い出し,ふむ,と感じた。
 才蔵は,地面の上にゆっくりと正座した。気恥ずかしさを押し殺し,地べたに両手を突いた。深々と頭を下げる。
「ではお師匠,本日より,よろしくお願い申し上げまする」

(垣根涼介「室町無頼」新潮文庫,平31)

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