FASE90-1+@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#喃語聞く神屋 水臭う九月\【特論】首里の生まれた時空

■HAKEN1:全く分からない首里大名

+:首里大名一丁目上ぬ・下ぬ御嶽付近〔地理院地図・淡色地図〕

図の[+]がこの時に向かった「上ぬ」・「下ぬ」御嶽です。中点で繋いでるのは、見る資料や地図によって表記が変わってるからで、後掲角川などによると多分墓が多過ぎて広い意味ではそこら中が御嶽、という土地だからなんだと想像します。
 不思議な土地だということを共感頂けるよう、下記の、同じ位置の色別標高図を先にご呈示します。

+:同首里大名一丁目〔地理院地図・色別標高図〕

の安謝川と北の浦添川の間の高地部です。両河川の北側の東西の尾根だけでなく、南北の高地にも縁取られた方形の桝のような地形です。首里が王都であった時代、その奥の隠れ里のようなエリアがあった…ということなのでしょうか?例えて言えば、京都の化野や蓮台野、鳥辺野のような。

大名は化野ではない

 いや、違うでしょう。首里大名は、那覇の霊的な「異界」・化野ではありえません。
 まず、京都の化野ほかは葬送地で、例えば鳥辺野には中世の京都人一般の死屍が捨てられました。貴族も同じです。この「野辺送り」には、階級別はなかったようです〔後掲日本史勉強中。〕。よく考えれば当然ですが、埋め墓、またはせめて詣り墓など、特定空間に固着させる墓制が発生するまでは、その空間を階級化することなど感性的にあり得ないでしょう。

人の申すに従ひて、いかめしきことどもを、生きや返りたまふと、さまざまに残ることなく、かつ損なはれたまふことどものあるを見る見るも、尽きせず思し惑へど、かひなくて日ごろになれば、いかがはせむとて、鳥辺野に率てたてまつるほど、いみじげなること、多かり。
[現代語訳]人の忠告に従い蘇生の術として、それは遺骸(いがい)に対して傷(いた)ましい残酷な方法で行なわれることまでも大臣はさせて、娘の息の出てくることを待っていたが皆だめであった。もう幾日かになるのである。いよいよ夫人を鳥辺野とりべのの火葬場へ送ることになった。〔後掲Nora〕

 また、「大名」という地名は、音の漢字訳ではなく、日本で言うのと類似して武士階級を示す「大名」です。

 大名町は元々、西原村平良の小字でしたが、1879円(明治2)年の沖縄設置により職を失った士族たちが移り住み、屋取ヤードウイ集落を形成していきました。 1920 (大正の)年西原村から石額・末吉の2つの町を首里区へ編入した際、同時に真地原マージバル大名原ウフナーバル後原クシバルの3つを合わせて大名町としました。歴史的には若い町ですが、琉球競馬が行なわれていた平良真地跡など見どころがたくさん。〔後掲首里まちづくり研究会(すいまち研)〕

 南風原町の大名も含め、武士階級の屋取集落を呼んだ呼称です〔沖縄県立博物館・美術館 WEBアーカイブ ウチナーの民話〕。もしかしたら揶揄するようなニュアンスの蔑称だったかもしれません。

首里大名≒鹿児島上町

 前掲すいまち研の紹介でもありましたけど、観光パンフ一般には、首里大名と言えば「大名馬場」のあった土地です。

那覇(なは)市首里大名町1~3丁目にあった馬場。もと西原間切平良(たいら)村の真地原の地で、方言ではテーラマージ(平良真地)といい、また平良馬場・平良馬追いとも呼ばれた。首里台地の北端にあたる。創設は康煕34年(1695)で、「球陽」によれば従来首里には戯馬場がなく、人々は各地で騎馬の法を習っていたが、この年平良村の西に馬場を造り、平良真地と名付けた(尚貞王27年条)。騎馬の目的でつくられてはいたが、普段は集会その他にも使われた。東西にのびた馬場の両側には老松の並木があり、名勝地でもあった。この馬場とほとんど同形の馬場が首里の南の識名台地にあり、識名真地と呼ばれた。<王府時代、国王一代に1度催された綾門大綱引きの雌雄2つの綱は、両馬場で作られた。また大正期から昭和12~13年頃まで、毎年10月20日の沖縄神社の祭りに奉納される競馬は大名馬場で催された。昭和19年にこの地域に日本軍が進駐し、馬場の北側に兵舎を建てるため、馬場の並松はすべてその資材として伐採された。跡地は現在舗装道路となっている。〔角川日本地名大辞典/大名馬場【おおなばば】〕

 創設年として伝わる17C後半は、つまり薩摩侵攻(1609年)から約1世紀。個人的には--沖縄ナショナリズム的には琴線に触れそうですけど--、かつての首里大名町が、鶴丸城(現・鹿児島城)築城前の城下、縦横に馬場が設置された武士の町・鹿児島市上町に似ている感触がします。

歴史ゾーンマップ1~かごしまの城下町「上町(かんまち)」(部分)〔鹿児島県2021〕

 歩くと割と無造作に感じられる鹿児島城下は、150°の柔らかい角を三回重ねた巧緻に計算されたものとする見方があります〔→内部リンク:m175m第十七波余波二波mm清水2/鹿児島県/併記 150度×3回屈折説〕。個人的には、薩摩人の性格からして、多分それは高度な計算によるものだと予想てます。

(再掲)鹿児島城下の町並〔後掲東2014、第七図〕

 このような「計画都市」色を想定した場合、そうしたエリア形成は、真珠道-首里城-平良-大名-浦添(城)のライン又はベルトの一円に共通したものだったと考えられます。

沖縄本島、首里台地の北端、安謝川中流域に位置する。方言ではウフナといい、広い野を意味する。西部の真地原の馬場は、康煕34年(1695)に造られたもので、大名馬場・平良(たいら)馬場または平良馬追い・平良真地と呼ばれ、古く平良の地籍内であったことを物語っている。平良馬場南方の丘陵内には、100坪以上の墓域をもつ王府時代の権力者層の墓がいくつも並んでいる。地域のほぼ中央を南北に貫く石畳の古い道は、浦添(うらそえ)城と首里城を結ぶ要路であった。この道づくりには宮古島の人が使役されたと伝え、東部にはナークガー(宮古川)という井戸がある。また宮古島の人を葬ったと伝えるナークガマがあった。〔角川日本地名大辞典/大名①【おおな】〕

裏口に侍らせて小皇帝

 もう一つ比定をしてみます。前章で触れた行脚村(アンニャムラ)と似た事象として、上記引用で「宮古川」「ナークガマ」(宮古ガマ?)が出てきました。これは、京都周辺の隼人舞伝承地=隼人強制移住地を連想させます〔内部リンク:m17e@m第十七波余波mm阿多【特論2】隼人東征/鹿児島県 (兼009-1@豆酘\対馬\長崎県)/隼人の畿内「強制移住」〕。

(再掲)畿内における隼人の移住地〔後掲鹿児島市郡山郷土史〕

 階級差別は、下だけでは成立しません。「皇帝」は、どれだけ「小皇帝」でも同じです。むしろ小皇帝ほど侍る集団を求めるものです。 ※中国のかつての一人っ子政策時代、過保護に育てられた一人っ子を「小皇帝」(シャオホワンディ)と呼んだ。2026年現在、社会問題になっている。
 「宮古川」「ナークガマ」は普通のヒットはありませんでしたけど、下記浦添市「浦添街道」図が、右下に「宮古ガー」「宮古ガマ」を表示してます。

「浦添街道」地図〔後掲浦添市/浦添の歴史散歩 p14〕

 大名町の表記もあり、かつ左上「浦添ウドン墓」は沢岻公園内(→GM.)です。地図の状況以降の区画整理と再開発が激しく道の形からの詳細な特定が難しいですけど、「宮古ガー」「宮古ガマ」は大名町三丁目(→GM.)域北辺境界か、宮古ガーは経塚側に入った辺りに所在するはずです。多分、この付近に、宮古島からの連行された又は移住した人々の集落があったと予想されます。
 下記は真珠道なので首里城から南側ですけど、敷衍するとこの道の敷設にも宮古人が使役された可能性があります。

「真珠道」の石畳が、道の起点となる那覇市首里の守礼門近くで発見されました。首里城内での真珠道の石畳の発見は初めてで、調査する県立埋蔵文化財センターは「起点から最も近い石畳。真珠道の道幅が確認できたという意味で大きな発見だ」と報道発表しました。
今回は、平成30年6月から実施した外路整備に伴う発掘調査で発見されたもので、石畳は幅約3.5メートル、長さは4~5メートルで、両端に排水路の溝があります。これまでも守礼門近くや首里城内で発掘調査はされてきましたが、石畳は開発などで破壊されており、残っていないと思われていました。今回、発見した遺構は、調査、記録した後、埋め戻して現地保存すると新聞に出ていました。(略)目隠しの隙間から撮影してきました。下の写真が500年前の真珠道です。〔後掲ハイホー〕

守礼門近くから発見された石畳の遺構。真珠道の起点となった部分〔後掲ハイホー〕

(王国にとって)「安全地帯」という意味付けもあったと思われます。前掲(→角川/大名馬場)の国王一代一対の「雌雄2つの綱」は、この大名馬場で造られ、綾門大道(→GM.)で曳かれました。

2007年復活した綾門大綱の綱〔後掲QAB〕

27日に109年ぶりに復活する那覇市首里の伝統行事綾門大綱を間近に控え地域の人々が製作した大綱がきょう21日お披露目されました。綾門大綱は琉球王朝時代から国王の即位を祝い、国の繁栄を願う行事として行われ、1898年、明治31年を最後に途絶えていました。
109年ぶりの今回は首里城公園の開園15周年の記念と地域の活性化を目的に開かれます。製作された綱は雄綱・雌綱合わせて216メートル。4本の大綱を3つの頭貫棒でつなげて挽き、勝負は2回行うユニークな綱挽きです。綾門大綱は今月27日に開催されます。〔後掲QAB  2007年10月21日〕

 この一件からは、まず、国民に対する表舞台としての綾門大道に対し、裏方作業場としての大名(馬場)という色彩を暗示させます。この地域は平良と一体的に「てーらうふな」「たひらおほな」と呼ばれており、琉球処分後の武士の屋取以前は、ただの「平良の郊外」でしかなかったと推測されます。

方言ではテーラという。「おもろさうし」にも「たいら」と見える。沖縄本島、首里城の北方、虎瀬(とらず)山の北、安謝川(平良川)流域に位置する。東低西高の地形で、西の最高所は高平良タカデーラ・高平良グシクと呼び、組踊「高平万歳」の舞台。北の大名(おおな)と併称して古くからテーラ・ウフナという。万暦25年(1597)の「浦添城の前の碑文」にも「たひらおほな」と見える。〔角川日本地名大辞典/平良②【たいら】〕

 最後になって、ようやくエリア名にだけはたどり着けました。平仮名は混乱するので、以下「平良大名」と呼びます。

■HAKEN2:さっぱり分からない沢岻

 その後に向かった沢岻も、首里大名に負けない、ホールドの全くない土地です。
 大名と同様、地理的に、その異様さをまず視認頂きたいと思います。

方言でもタクシという。沖縄本島中部、首里の北に位置する。標高約100mに達する石灰岩丘陵地にあり、旧村落は沢岻川右岸の傾斜地に典型的な碁盤目状をなして立地する。「おもろさうし」に「たくしたらなつけ(沢岻太良名付け)」という人名が見える。沢岻城跡は祝部遺跡とも呼ばれ、グスク時代の遺物が出土している。所伝によれば、昔、村落は上下の2集落に分かれ、下を呉屋と呼んでいたが、次第に上に集まったのが沢岻だとされる(浦添市史4)。〔角川日本地名大辞典/沢岻【たくし】〕

沢岻一丁目の道割(2本線)と地割(1本線)〔MAPPLE〕

 沖縄の町並みを、例えば壺屋などを凝視したことがある人なら、この驚きをご理解いただけると思います。標高百mの台地に碁盤目を成す伝統集落。そんなものが琉球に存在するとは信じられず、当時は、米軍施設か何かの経緯で区画整理されたのだと思って疑いませんでした。
 余程の強硬的な領主が存在した土地のはずです。かつ、堂々たる伝統集落であることは間違いない。下記によると、ノロも在住してます。

王府時代~明治41年の村名。中頭【なかがみ】方浦添【うらそえ】間切のうち。「高究帳」では高頭195石余うち田171石余・畑24石余。金城ヨリノハナ森・同小嶽・胡屋森・同小嶽などの御嶽と、沢岻ノロ火の神・上沢岻之殿・金城之殿・ハンタノ殿・呉屋殿が見え、沢岻ノロの祭祀(由来記)。沢岻ノロは、安謝【あじや】村・内間村の祭祀も管掌した(同前)。「旧記」によれば、沢岻樋川と呼ばれる泉があり、村の前に流れる川を沢岻川と記すが、これは現在の内間川である。明治12年沖縄県、同29年中頭郡に所属。明治6年の沢岻親方の作得は20石余(県史14)。同13年の沢岻掟の役俸は米1石余・雑穀8升余、沢岻ノロの役俸は米にして3石余(県史12)。同26年の「石高村別台帳」では百姓地228石余・仕明地4石余で計232石余、惣頭は117人(浦添市史2)。戸数・人口は、明治13年184・751(男407・女344)、同36年215・977(男459・女518)うち士族50・272。明治36年の民有地総反別151町余うち田4町余・畑117町余・宅地8町余・山林5町余・原野15町余(県史20)。同41年浦添村の字となる。〔角川日本地名大辞典/沢岻村(近世)〕

 上記の沢岻親方の作付けは全体の8%程度。士族は戸数の1/4、「惣頭」(上級百姓?)は6割超、かなりの身分階級集落だったと想像されます。にも関わらず、ここがどういう集落なのか、さっぱり分かりません。

たくしたらなつけ

 出身者として、「おもろそうし」に「たくしたらなつけ」=「たるかねもい たくしの大やくもい」があります。「沢岻村の領主」で「三司官」でもあったとされます。

沢岻を謡ったオモロは5首で、そのうちの1つ巻15-7、No.1058には次のように謡われている。一たくしたらなつけ(沢岻太良名付け) おかむすか いやは(拝む者がことあげをするならば) きちやらつは(きちやらつは) きやう かまくら とよませ(京、鎌倉まで〈その名を〉鳴り響かせよ)又よかるたらなつけ(良かる太良名付け)「たらなつけ」は、嘉靖元年(1522)建立の「真玉湊の碑文(石門の西のひもん)」に見える3人の「世あすたべ」(三司官)の1人「たるかねもい たくしの大やくもい」である(浦添市史2)。沢岻村の領主で、中城按司護佐丸の孫に当たる。正徳年間(1506~21)に三司官に任ぜられ、嘉靖元年に中国に渡り鳳凰轎と竜頭をもたらしている。「きちやらつ」は「たくしたらなつけ」の対でその別名。このオモロは、沢岻太良名付けを讃美し、慣用語ながら、遠く京や鎌倉までも名をはせてほしいものだと謡っている。〔角川日本地名大辞典/たくし〕

 明治大学サイトで試みに「たくしたらなつけ」及び「たくし」ワードでのヒットをカウントすると、次の結果でした。やはり分かる点は少ないので、展開内といたします。端的に言うと、流布している地名である、有名官僚を輩出している由緒ある土地らしい、という程度です。

案内板「沢岻親方の墓」〔後掲那覇市観光資源データベース〕

(詳細上記展開内)「たくしたらなつけ」さんは、上記場所の案内板によると唐名は「毛文英」、名乗りは「盛里」、没年1526(嘉靖5)年8月18日。那覇市観光資源データベースのキャプションにないのは、裏付けがないからかも、と思われました※。

※後掲島村(15枚目p99)によると、出典として仲原善忠・外間守善「おもろさうし 辞典・総索引 第二版」(角川書店、1978年)が挙げられています。なお、同島村は「『沢岻太郎(たくしたら)なつけ』が沢岻親方盛里だとすれば、オモロに謡われる人物で国王以外に具体的にその名が特定できる稀な事例になる」として、一応でも名前が特定できる特殊性を特記しています。

□Routeset:首里-前田高地とはどこか?

 ここまで紙面を費やして、分かったことは、首里から北へ3km程度のエリアに、どうにもつかみどころのない時空が存在している、ということです。ぼんやりと言えるのは、平良大名が首里の「裏庭安全地帯」で、沢岻が中国系の首里王権高級官僚の領地だったかも、という程度。
 こうした地道な戦略ではどうにもなりそうにありません。視点を転じ、この狭いエリアがどういう地形なのか、基本に帰ってみます。

[北]浦添-[南]首里付近〔地理院地図〕

 現地に立って移動して、土地勘を呼吸すると分かってくるのは、一般に呼ばれる首里高地(城)と北の前田高地(浦添城)が谷に分断されてはいるけれど一連の高地域だということです。だからこそこの南北に「宿道」(すくみち)※が設置されたのです。

※通常「普天間街道」として有名で、前田高地~普天間間がよく知られている。その南端が「当山の石畳道」であるが、この道の南起点は平良大名、北終点は国頭であると伝えられる〔後掲フィールokinawa〕。

 試みに、上記地理院地図を同位置でアナグリフ(カラー)にしてみます。

[北]浦添-[南]首里付近〔地理院地図/アナグリフ(カラー)〕

 そこで、この高地を「首里-前田高地」と仮称し、沖縄史でどういうエリアなのか、考え直してみましょう。
 意外にも、このエリアが争点になった時空は多くありません。これは、下記時空以外の沖縄史が、首都の手前で攻防を繰り広げるような事態の少ない、穏やかな基調を持つことを意味しています。
 ただし、それぞれ極めて自明なものですけど、明らかにここで行われた戦闘が2つあります。
 1406(永楽4)年2月頃まで
 【攻】(後の第一尚氏二代)尚巴志
  →【守】中山王・武寧
 1945(昭和20)年4月末~5月末
 【攻】米軍→【守】日本軍
 この二時空を連想することで、以下、この間のエリアの性格が1406年に基礎付けられたと想定し、その性格を仮想してみたいと思います。
 大まかな発想は、こうです。──米軍は、最後の戦闘のつもりで死に物狂いにハクソー・リッジ(前田高地≒浦添)を奪ったけれど(5/9)、そこから首里城陥落(5/31)までさらに三週間の地獄を見ました。けれど逆に、首里城から浦添への攻撃ルートは、特に沢岻に支援勢力があれば、意外なほど容易だったのではないか?

浦添-首里の直線断面〔地理院地図/断面図〕

密輸用の仕切りの中に貨物を積み込む密輸業者ハン・ソロとチューバッカ
「広い銀河だ。いつだって、どこかの誰かが探してるぜ…密輸業者を」byハン・ソロ

□AdditionalLine1:15C琉球冒険商人群

 先に尚巴志の北山侵攻について、創作で作業仮説を提示してみました。
(FASE85-5@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#\ 【作業仮説】今帰仁へ上るJ-2/15C初[創作]ジルーの光景
 本稿では、短くは「三山統一」、長くは以後「第一尚氏」代を主に経済戦争の行われた時代だと見ています。その理由は、基本的に琉球列島の位置と、周囲の陸人国家の富の蓄積から考えて、冒険商人が蓄積できる経済的優位の方が、島嶼内で陸人が蓄積できる軍事的優位よりも大きいことが多いと考えられるからです。このことは、直近では戦後の「大密貿易時代」が実証しています。あの時代に起こったことは、密貿易であって、武力的な騒乱ではありませんでした。



中山「あらんぽう」とゆかいな豪傑商人たち

 後代の琉球王国のおかかえ歴史家たちが創造した武力闘争劇としてのそれではなく、以下探ろうとするのは、商戦としての「琉球三国経済志」です。--戻れるように先に言い添えると、「沢岻たら名付け」さんはその豪傑商人群の一人、しかも歴史的には「琉球王朝」を作ってしまった重要人物だったのではないか、という仮想です。
 まず、尚巴志の中山攻略譚の中に登場する、中山国相「亜蘭匏」(あらんぽう)という人物のことです。

察度王の頃から仕えていた国相の亜蘭匏は中山での貿易を独占したことで、華人街・久米村(クニンダ)の他の華人たちとの間に軋轢があったとされる。(略)
降伏後の武寧王と世子・完寧斯結のその後の行方は分かっていない。国相・亜蘭匏は、その後の尚思紹王、尚巴志王の治世で名前が見られないことから失脚したと思われる。〔wiki/尚巴志の中山侵攻〕

 虐殺劇がかなり長期に渡ったと語り継がれる第一尚氏の滅亡と異なり、その第一尚氏が「禅譲」した中山王権の「その後」は全く語られません。多分、実質を伴うほどの規模ではなかったのだと想像されます。
 にも関わらず、そのお抱え商人として亜蘭匏が語られるのは、逆にこの商人の存在感の大きさの証査でもあります。

亜蘭匏 は華人(中国人)で、琉球に渡ってきた華人たちは1つの集落を作り、それが久米村(現在の那覇市久米)です。
亜蘭匏はその久米村のリーダー的存在でもあり、三山統一前の中山王察度に仕え、初代の国相でもあり国のナンバー2とも言える存在でした。(略)
この時代の中国との冊封で主要な役割を担っていたのが亜蘭匏(あらんぽう)、王茂(おうも)、懐機(かいき)の3名なのです。
その亜蘭匏 について、長崎純心大学の石井先生は「亜蘭匏 は中国人ではない。彼の名は福建読みではエラブと読む。よって彼は沖永良部のその時代の主要な人物であった永良部世之主もしくは後蘭孫八であったのではないか。」との説を発表されています。〔後掲「先祖を探して」〕

「えらぶ」音の可能性から、彼が(純粋な)中国系ではなく沖永良部島の血統だったのではないか、などの説があります。個人的には「エドガー・アラン・ポー」の連想からEIC(イギリス東インド会社)の前衛的なケルト人だったら楽しいな、とは思いますけど、少し時代が早すぎるようです。
 さて、上記引用では亜蘭匏のほか王茂・懐機の計3人の久米商人の名前が挙がりました。

勝ち組交易商代表 王茂・懐機

 正体はともかく亜蘭匏が負け組の交易商だったのに対し、尚巴志側についたのが王茂・懐機とされます。
 久米村の存在は、その名がそのまま記されたものは少ないようですが、唐営・唐栄として掲載される地名が久米村に当たるとされています。語感的には「中国人村」という感じの、身も蓋もない表現です。

近世史料には唐営とうえいともみえ、のち唐栄(唐栄邑)に改めた(「琉球国由来記」、「球陽」尚質王三年条)。冊封使録類では営中えいちゆうと称し、ほかに朱明府・枯米所ともみえる。〔コトバンク/久米村(読み)くにんだ〕

琉球への中国人の往来は初めの頃は当時東南アジアに展開した華人社会の様相と類似し、王府公認の下で独自の交易活動を行っていたものとみられる。〔コトバンク/久米村(読み)くにんだ〕

 定説的な書かれ方では、尚巴志出世代の経済参謀が王茂、それをほぼ第一尚氏代前半に渡って引き継いだのが懐機という形です。論拠に当たっていないので、本当にそうなのかどうかは不詳。

(引用者追記:尚巴志は)懐機(かいき)という久米村の明人を参謀として登用し、内政、外交の担当として重用した。〔後掲南城市3枚目p35〕

(懐機)生没年未詳。国相。…懐機は久米村人と同様に、中国から来たと考えられる。『中世世譜』には、尚巴志王代に、王茂につづいて国相となり、尚金福王代まで仕え、当時の人は、彼を尊んで『国公』と称したことを記している。…琉球の正史『球陽』では、尚金福王代に長虹堤を築いたことだけを記録している。〔『沖縄大百科事典 上』(沖縄大百科事典刊行事務局、沖縄タイムス社、1983年)p652 「懐機」の項←後掲国立国会図書館 レファレンス協同データベース Q懐機について書かれた資料があるか。〕

 問題なのはその性格です。「国相」という役職を疑う論者もいますが、この点も含め、少なくとも王茂については、どれかの勢力の臣下ではなかったという見方が有力です。
 懐機の方は第一尚氏に仕えたような書き方が多いですが、対抗勢力がなくなったからでしょう。亜蘭匏と同様に、特定の勢力の伸長によって浮沈しないよう、一定距離をとった「ブローカー」だったと考えるべきでしょう。

王茂 (おうも):生没年未詳 三山鼎立期に琉球の長史、国相となる。当初は中山、山南の双方の外交文書を作成したり、使者となっていたが明確な所属関係はなかった様である。尚巴志が中山を掌握した後は、これに所属していたと思われる。〔後掲琉球新報社〕

※中国哲学書電子化計画でヒットする「王茂」記事中に、明実録等を含め該当無

 その傍証としては、次の中国語wikiの記事を見ると、王茂・懐機の二人の久米商人の名は中国史料には登場せず、「歴代法案」「中山世譜」の実の記載人物のようです。後代の久米三十六姓のように、朝貢上の役割を与えられた人々ではなかったと推定されるのです。

王茂(生卒年不詳)是琉球国第一尚氏王朝時期的国相。
王茂的早年事迹和来歴不詳,唯知他是中国明朝的移民,[シンニョウ+千]居琉球后居住在久米村。王茂在《中山世譜》中最早登場的年[イ分]是1398年(洪武三十一年),当時王茂奉中山王武寧之命,前往明朝朝貢。[1]而根据《歴代宝案》的記載可知,王茂同時為中山、南山国撰写外交文書。1403年,奉中山王武寧、南山王汪[ガンダレ+ツ/一]祖之命出使明朝。故而他究竟服属于個国家至今[イ及]是個謎。
在第一尚氏王朝建立以后,王茂被尚思[糸召]王任命為右長史。1411年(永楽九年),国相程復辞職[リヨ]国,王茂継任国相之職,同時兼任長史,成為尚思[糸召]王的心腹。宣德年,杯机取代了王茂,成為国相。〔維基百科/王茂 (琉球)〕

※原注 1《中山世譜巻三》:本年【洪武三十一年】,世子武寧遣長史王茂等奉表貢方物。

中山「あらんぽう」は何を成したか?

 振り返ります。懐機が運営した琉球朝貢体制を、王茂がそれを完成させたなら、亜蘭匏は「琉明朝貢」を最初に流行らせた人、という…いわゆる信長-秀吉-家康の関係に相当すると仮想することができます。

「三王」名義の朝貢は名前の不明な使節が多いながらも1384年まで頻繁に継続し、それぞれ同程度の頻度(2回ずつ)で行われることになる。即ち1383年12月には山北王[小白]尼芝が臣摸結習を派遣して方物を進貢し衣を与えられている(『太158』)。結果から見て亜蘭匏は泰期から始まる琉明通交を「三山」に拡大させた当事者であることになる。〔後掲大西、7枚目p111〕

「琉明朝貢」事業は、もちろん売り手側だけの功績ではありえません。むしろ、買い手の明帝国の経営状況を原因とし、その「苦境」に琉球側、特に経済情報通の亜蘭匏ら久米商人が食い込んだ、という点がポイントだったはずです。

□AdditionalLine2:背中から琉球倭寇

「琉球王国」※が成立したと世界史に記されるのがなぜこの時期だったのか、という点は、もっと重視して認識せらるべきです。
 それは大陸中国から見て「琉球株」が急騰したからで、それを見た久米の中国系海商群が、従来の対中交易を「琉球王国」の神輿を担いで朝貢という大規模貿易へ拡大させようとしたからです。
 つまりトリガーになったのは「琉球株」高騰です。それが起こった1370年+@の時期※とは、漢民族にとっては、明初の元朝との睨み合いの時期でした。

※史料上の琉球発進貢∶1372年12月琉球の中山王・察度
北元-南宋-李氏朝鮮-新興・琉球王国
※四者が併記された図がないので、後掲戦国ヒストリー及び時間探偵の挿絵を引用者が貼り合わせた。

 明側が外交的に食指を動かしたのは、モンゴル人勢力の減退に付け込んだ北上と朝鮮半島再奪取のベクトル上、東シナ海の制海権の取得又は安全航行状態の構築だったと、後掲大西さんは述べます。もっともな見解です。

琉球への洪武帝の招諭はそれに先立つ日本への遣使の直接の結果である。即ち、1369年と1370年の二度に亘り楊載が派遣され、楊載は1371年10月に日本から帰国した。直後に慌ただしく楊載は琉球に派遣された。実は明当局はこの時点で琉球と朝貢関係に入れると期待してはいなかった(『太68』所収の1371年9月の戒諭を解釈して)。しかし楊載が日本で得た情報から沖縄が琉球であると知ることになった(石井3-4)。(注4)
 これも琉明通交への期待が実は大陸側にあったことを示す主張であろう。但し明側に警戒感もあった事例も示している。即ち、洪武帝は琉球を「民乱の源」と考えていた(隋の煬帝を引用した1371年9月の条にある戒諭)のであり、また、1372年の春夏の間に楊載が琉球に行く途上の福州で、福州鎮守王恭が胡翰の「楊載に贈るの序」を引用して、楊載に対して琉球(日本)による贈賄を戒めたという事例もあった、と(石井3-4)。ただ福州鎮守のこの理由から考えれば、古琉球は単なる蕃国と見られていたというよりも、明の統制の及ばない経済活動の盛んな地域だと既に認識されていたことになる。石井によれば、宮古・八重山から琉球弧に拡がるビロースク式福建粗製白磁器の流通に見られるように、古琉球には既に当時白磁を購入できるだけの資金が夜久貝貿易で蓄積できていて、それに支えられた沖縄=福建間の密貿易に使者が取り込まれるのを警戒していたのだと言う(石井8)。
 石井に拠れば、この時期の楊載来琉は実は壮挙だったのであり、胡翰でさえも沖縄と台湾を区別できていない。要するにこの時期、福建側よりも琉球側が航路を熟知し、船隻も擁していたという判断である(石井6-8)。
〔後掲大西5・6枚目、p109-110〕

※原注 石井:石井望 『尖閣島名の淵源(下)』2021年

 現・中国全域相当の国としては漢朝以来、千二百年ぶりの漢民族の帝国・明は、少なくとも三代・永楽帝までの血みどろの歴史を経て成立しました。「北元」と総称される勢力は長く捉えると17C前半の女真族進出まで継続しましたけど、特に、1368年の元の大都※放棄から1388年の大ハーン・トクズ=テムル対明反攻失敗までの20年は論者によっては実質的な南北朝時代と捉える向きもある、一触即発の均衡状況でした。

※開平府=現・内モンゴル自治区のドロンノール

勢力を温存できた朱元璋は、1368年に南京で自ら皇帝と宣言して明を建国した。
 朱元璋の明軍が大都に迫ると、順帝はモンゴル軍閥に来援を要請したが、諸軍は動かず、8月、やむなく大都を放棄して内モンゴルに逃れた。大都は明軍の略奪・暴行・破壊に晒され焼け落ちた。
(引用)これをもって、中国史では「元朝滅亡」と言う。そして、少なくとも中国本土では、明朝が揺るぎなく確立したかのように言われがちである。だが、それは中国伝統の「王朝史観」の産物にすぎない。明朝にはいまだ、漢族士大夫層の人々は出仕しようとはしなかった。長続きするかどうか、疑問視されたからである。これ以後およそ20年間、北の大元ウルスと南の大明政権とは、華北を間において拮抗状態となった。一種の「南北朝」の形と見て良い。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』下 講談社現代新書 p.223>〔後掲世界史の窓〕

 つまり、朱元璋は全力で旧元朝勢力と対峙する必要がありました。そのためには、東側の海洋世界の朝鮮と琉球を外交戦又は海上戦力で征しておく、最悪でも均衡させておくことが不可欠でした。──外交感覚に富んだ漢民族ならこの計算はかなり自明だったでしょう。

(理想状態)
 北元  ←対立→  朝鮮
↑対立↓      ↑支援↑
 明朝  ←朝貢←  琉球
(リスク状態)
 北元  →服属→  朝鮮
↑対立↓      ↑支援↑
 明朝  ←争乱→  琉球

 シンプルに言えば、四者構造の中での孤立を避ける必要がありました。明末には「北虜南倭」として現実化した状況です。 
「琉球はそれほど大明帝国にとって脅威たりえたのか?」という点は、陸人国家にとって海民が理解不能だったための妄想性のほか、琉球人の海民としての「実力」によるものだった、と大西さんは記します。

(注4) 石井は漢文史料に則って琉球人は粗暴な人間だった(琉球倭寇)と考えている。「琉球人が福州に逗留して朝貢を準備していた際、福州の接待者を常に罵り殴り合っていた」とか、四川の「チベット人と琉球国人が北京の会同館で殴り合い、重傷者を出したため、皇帝が殺人罪は死刑に処すると命じた」ことなどを紹介している(それぞれ『英宗実録58』1439-8の条【A】と『同162』1448-1の条【B】)。海外貿易従事者に対するこのような認識は一般的で、例えば1475年に起こったこととして、占城の頭目波籠阿麻が風に流された琉球国海船の乗員を使って侵掠し、損害を被ったとの安南国王の上奏が明側史料に記載されている(『憲宗実録』巻176【C】、1478年3月の条)。豊見山はこの記事を次のように説明している。「1475年にベトナム近海(トンキン湾か)に漂流した琉球船が、チャンパ国の頭目の軍勢に荷担して安南国を攻撃したものの、安南国側に撃退されるという事件」についての安南国王から明国皇帝への上奏文の中での言及であり、当時、圧力をかけられていたのは占城の側であったことから文面通りに受け止めることは問題」であるが、「琉球人がなぜ占城軍に加勢したのかもまったくの謎であるが、戦闘活動に参加したことが事実とすれば、漂到した琉球人らが単なる交易活動にのみ従事する商人的な存在などではなかったことを示す事例」(豊見山47)だ、と。
〔後掲大西5枚目、p109〕

※【】は引用者追記、下記との対称関係を示す。



■PEAK1:フィクサー「あらんぼう」の時代

 先ほど、懐機・王茂が史書に記されないと紹介しました。ところがです。先述の三人の久米村海商のうち「亜蘭匏」の名だけは、中国哲学書電子化計画「大明太祖高皇帝實録」(以下単に「明実録」という。)中、何と21ヒットします。
 その初出は1382(洪武15)年。

378 洪武十五年二月辛亥朔(略)
391 ○松潘安撫司酋長占藏先結等來朝貢馬一百三匹詔賜文綺鈔有差
392 ○己未以通政使司試左通政張?為雲南布政使司左參政儀鸞司大使宋昱為右參政通政使司左參議韓口至乞列憐一百九十里自佛出渾至乞列憐皆舊所部之地願往諭其民使之來歸詔許之賜以織金文綺(略)
395 ○琉球國中山王察度遣其弟泰期及其臣亞蘭匏等奉表貢馬二十匹硫黄二十斤則察度織金文綺紗羅十二疋帛如之泰期亞蘭匏等綺帛有差並遣上佩監奉御路謙送其使者歸國〔後掲中国哲学書電子化計画/大明太祖高皇帝實録卷之一百三十四至五十一〕

※洪武15年=1382年

 この初出史料については、大西さんが詳しく分析されています。雲南への使節派遣に並列する賑やかな記述ですけど、意外にも「あらんぽう」は単なる臣下として記されます。意外というか、中華側の朝貢原理から言うと全く正統な記述です。
 逆に、中国正史における朝貢の光景描写で、正使以外を特に記す事例がどれだけあるでしょうか?これは、「あらんぽう」がその肩書・役柄に関わらず、否定すべからざる「大物」だったことを暗示させないでしょうか?

(略)前後の経過を考えると、当初から琉明通交関係の事実上の当事者だった泰期が、この時から亜蘭匏に主役が交代したということになる。ところで、この条文に言う路謙が送った使者とは誰のことなのか。この明史料においては、亜蘭匏は臣となっていて察度(もしくは泰期)の臣であるように表現されているので、使者は泰期を指すようにも思える。もちろん単数・複数を考慮せずに亜蘭匏等一定数の陪臣も合わせて指していると解釈することも可能ではある。
 琉球側の史料ではどう表現されているだろうか。蔡鐸版『中山世譜』ではそもそも1382年にこの渡航はない。蔡温版『中山世譜』では1382年の項に陪臣として亜蘭匏等が現れるが、路謙に送られた人物については泰期等とあるのみである。この「等」は蔡温がはっきり分からないので、こう書いたのではないだろうか(そしてこの『中山世譜』ではこの記事に続いて路謙が琉球での三王争乱を知ったことが示され次年度への繋がりが明らかにされている)。『球陽』では1382年の項に「貢使泰期等」とあるので微妙である。そもそもここには亜蘭匏の名が出てこない。亜蘭匏が出てくるのは翌年1383年の元旦表賀の遣使においてである(ここで三山諭知が記される)。
 要するに、明示されてはいないが『太祖実録』を厳密に解釈すれば、亜蘭匏については帰路については自力で戻ったかのようである(使者が泰期であったとして)。そうであれば亜蘭匏は自由に明との間を往復できる人物であったことになるし、実際そうであったろうと思われる。〔後掲大西〕

 大西さんの「あらんぽうは勝手に帰った」説が正しいなら──換言するなら、琉球中山王進貢の場に、「あらんぽう」は「立ち会った」だけで、一緒に琉球から往来したわけではないことになります。
「あらんぽう」最終出は1398(洪武31)年。

1 洪武三十一年春正月己酉朔(略)
2 ○雲南?江府四川東川府並諸州宣慰司土官來朝貢馬(略)
6 ○丙辰琉球國山北王攀安知遣其臣進表貢馬(略)
19 二月(略)
49 ○賜琉球國中山王察度冠帶先是察度遣使來朝請中國冠帶 上曰彼外夷能慕我中國禮義誠可嘉尚禮部其圖冠帶之制往示之至是遣其臣亞蘭匏等來貢謝恩複以冠帶為請命如制賜之並賜其臣下冠服〔後掲中国哲学書電子化計画/大明太祖高皇帝實?卷之二百五十六〕

※洪武31年=1398年

 つまり「あらんぽう」はこの12年間は、継続的に中国正史に名を記される要注意人物、多分経済・外交のフィクサーだったと考えられるのです。

対北元戦末の三年の空白

 大西さんはこの12年中、「三年の空白」がある点を重視しています。

1 洪武十九年春正月戊午朔 上御奉天殿受朝賀大宴群臣於謹身華蓋二殿皇太子宴外戚東宮官屬於文華殿
2 ○辛酉琉球國中山王察度遣其臣亞蘭匏等上表貢馬百二十四匹琉?萬一千斤賜亞蘭匏等宴及鈔有差〔後掲中国哲学書電子化計画/大明太祖高皇帝實?卷之一百七十七〕

 前記のようなこの人の自由度から考えて、本人には「空白」感は全くなく、単に明又は琉球、もしかするとシャム側から「フィクサー」としての顧問参加を求められたのだと考えるのが自然です。ただ、大西さんの見解は、少なくともこの時期までの「あらんぽう」の交易物資が、初期明軍の特徴だったとされる新兵器火力の必需物資=硫黄に特化していると見て、北伐そのものに加え、朝鮮への流入硫黄の買占めが明の経済戦争上の企図ではなかったか、とするものです。それが事実なら──即ち、東シナ海での兵站戦を本当に戦っていたのは「あらんぽう」であって、三山王も久米海商もそこに汁を吸いに集まった有象無象でしかないことになります。

C)二度目の亜蘭匏(1386-1387年)と暹羅國の南海物資入貢(1386-1389年)
 三年の空白の後、『明実録』1386年1月の条に再び亜蘭匏が124匹の貢馬、硫黄11000斤(琉球史料では12000斤。1000斤はどこに?)と共に現れ、太祖から宴会と紗を得る(表賀である一方で前年の海舟賜与と関係あるかもしれないが、琉球史料にはそのような表現はない)。明朝廷(おそらく金陵)での宴会は単なるパーティではなく情報交換の場であった筈である。前年の海舟賜与は多頭数の馬と多量の硫黄の進貢を容易にした筈だが、以後の進貢に琉球からの進貢馬の頭数が増えた形跡はない。むしろ大きく減少していると言った方が良い。それでもこれ等の物資が進貢物とされていることは、この時期の亜蘭匏の活動が依然明の遼東経略に関連しているものと推測される。即ち、遼東を脅かしたナガチュの勢力は1386年冬から1387年6月にかけての明将馮勝の大軍遠征によって駆逐され、この結果満州・東蒙古の形勢が大きく変わることになった(和田 B24)。戦わずに投降したナガチュは海西侯となる。他方明は逆に高麗に対して11月に朝貢禁止とした(陰木10)。この戦いが明の大勝に終わったことが、従来元と朝鮮半島の通交を媒介していた満州が明の支配下に入り、高麗は明の支配圏に入る結果(李氏朝鮮の成立)をもたらしたのである。〔後掲大西8枚目p112〕

※蔭木原洋「洪武帝初期の対琉球政策」(兵庫教育大学東洋史研究会『東洋史訪』第14号2008年)
 和田清B『東亜史研究(蒙古篇)』1959

 後半にある通り、この1386年時点では明-北元20年戦争は決着がつきつつあります。即ち「琉球株」としては最高値から下降に入りつつある。「あらんぽう」が企図したのは、対明交易を縮小しつつ安定化させた形、つまり定期の明-琉球進貢貿易だったのでしょう。
 なお、1387年の高麗朝貢停止は、明が東シナ海の制海権の中華的主権を高麗主体から琉球主体に切り替えたとも思えます。また、もしこの時期に琉球が明に歩み寄らなかったなら、高麗同等の「経済制裁」に晒された可能性も示唆します。
 先の大西引用(→前掲)に「前掲亜蘭匏は泰期から始まる琉明通交を『三山』に拡大させた当事者」とあったのはそういう意味です。「あらんぽう」はまだ帰趨の定かならぬ明の北伐戦に、自称・三山の王の琉球の地方領主どもを煽って硫黄ほか軍需物資を「朝貢」と称して送らせた。それによって明は実質的な勝算を上げ、琉球王たちはそれらしい風格を得てには三山鼎立の風体を整えるまてになりました。そういう意味で、「あらんぽう」は東シナ海に新マーケットを、琉球史的には「琉球進貢」を構築したのです。
 ところがこの人物が、歴史書には記されず、それどころか尚氏王権には用いられず「いなかった」ことにされてます。
 なぜでしょう?

■PEAK2:「てどこん」のおおひや 王の端に立つ

 いつものように本論から離れてるという疑いのため確認すると、本稿で追ってるのは、14C後半の冒険海商たちの姿です。彼らは戦国大名さながらの激烈な浮沈を繰り返しました。いや、後代の倭寇や蘭・英インド会社を海賊と呼ぶなら、彼らは海賊そのものだったでしょうから、琉球三山鼎立時代とは、本来は彼ら「海賊」どもが陸人勢力の尻を叩いていた時代だったというのが実態に近いと思うのです。なぜ尻を叩いたかと言うと、陸人勢力の方が兵隊の人数は多かったけれど、海商=海賊たちの方が何桁も多額の経済力を有したからです。
「沢岻たら名付け」もその一角だけれど、その前にもう一人、「手登根の大屋子」に触れておく必要があるのです。──「あらんぽう」が琉球側史料から抹殺されたのは、琉球正史側、つまり尚氏王権側についた「沢岻たら名付け」「手登根の大屋子」らが「あらんぽう」と対立し、最終的にはマーケットから排除したからでしょう。
 うち佐敷の地方勢力だった尚巴志を、神輿に担いだ海商が、多分この「手登根の大屋子」です。

尚巴志の拠った佐敷上城跡には多量の青磁破片が拾得され、「宮古島上比屋城跡や、八重山島仲間丘附近から拾得されるものと量も質も同じ」である。この佐敷上城に遺っている南支地方との交通の遺物である青磁類は、彼が中山王として首里に王城を移した(1406年中山討滅)後の彼の海外通交とは無関係の筈である。そしてこの量は数回や十数回の通交では持ち込めない程の大量である(稲村21)と、尚巴志以前の佐敷近辺の商取引の繁栄を強調する。
 そこで稲村はこの青磁の動きを担った中山系統とは別の具体的な人物に考えを進める。「第一尚氏の背後にあって、こうした南支との密貿易や日琉間の交易に当っていたと思はれる人にてどこんの大比屋という人がいる」と尚巴志の身内(伝説上は手登根の弟、『沖縄一千年史』では伯父)にあたる人の遺跡を示す(稲村22)。手登根のフナクブ洞には彼が福建から持ち帰ったと伝えられる「フッチャ石」がある。〔後掲大西16枚目p120〕

※原注 稲村賢敷「史跡に現れた三山の争乱とその統一」(『琉球』11号1959年 5-13。12号1960年 11-27)
佐敷城跡で発掘された青磁〔後掲文化庁〕

出土遺物として、中国産陶磁器類が多く、特に佐敷タイプと称される無文外反青磁碗の量が突出し、中国を中心とした活発な交易が推測される。また、高麗青磁、龍文を描く青磁碗、鉄鏃や銛、鞐、鉄釘等も出土した。〔後掲文化庁〕

 詳細な点ですけど、高麗青磁が含まれてるのは注目してよい。また、龍文青磁は福建南部の輸出用磁器か安南(ベトナム)のものの可能性かあるとおもいますけど、多分そこまで断定できてないのでしょう。

中山世鑑・球陽の記す進貢経緯の外側

 下記大西さんの論によると「佐敷城の実力は三山を凌駕」したと推定してます。

 稲村はこの史跡・伝説から『中山世鑑』・『球陽』の説明を信用できないと断定した。即ち、1372年に明国の招諭に応じて、察度が王弟泰期を遣わして朝貢したのが始めであるという通説に対して、「泰期盛は・・(中略)・・国交の初めであるけれども、それ以前から私かに商人の間に琉明間の交通は開かれておったので、その個人としての琉明貿易を開いたのは「てどこんの大やく」である」(稲村25)と、島尻東部の旧佐敷上城主を真実の貿易開拓者だと提言する。(注13)
 要するに、「てどこんの大やく」一党によって、「南支地方から持込まれた支那物資は暫く佐敷城内に集積されて、彼等は又時機を見てこれを日本に売り出し其の代償として、刀剣類の武具を初め鉄製の農具を輸入し又軍糧としての米も運ばれたことであろう」。従って小城郭にすぎないが集積拠点としての佐敷城の実力は三山を凌駕していたという。このような背景があるので、1314年から1406年まで続いた「三山」の争乱も、日明私貿易を媒介した佐敷勢力(尚巴志)によって武力革命で終焉したのであった(稲村25-26)。〔後掲大西16-17枚目p120-121〕

 けれどもこの「てどこん」もまた、中国史料には記されません。何故か?中華思想上の「正規交易」ではないからです。陸上勢力が安定化してくるにつれ、つまり元→明交代劇が終結して漢人王朝・明朝が長期政権と信用されるにつれ、「てどこん」の交易はいかに規模が大きくても中華思想上は「密貿易」になってしまうのです。

「ナツコ」画像

(注12) 稲村は、勝連城跡北方最高所の物見台跡付近において多くの青磁破片を拾得する。勝連城について、「何時頃誰によって築城されたかは不明であるが、守備のための城としては難攻不落の堅城であろうし、三山時代の争乱を避けて遠く勝連半島の一隅に占拠している所などから見て、宮古の上比屋城や、西表島の租納半島にも類似する所があり、遠く海外に発展するための暫時の足溜りとして又は隠棲所として築城されたものであろうか、北方の諸部落を支配し統治するための政治をする城として造られたものとは思われない。しかし城跡から拾得される可成の量に上る青磁破片は、この城と南支地方との交通量を物語っており、城主は青磁を日本に持出して、その代償として刀剣類をはじめ多くの物貨を取り入れ」(稲村17)たと考えた。更に同様に尚巴志が拠った佐敷上城の多量の青磁破片についても南山城や大里城、首里城等よりずっと多量であることから僧と称する仲買人や倭寇の密貿易も含めた日本との繋がりを強調している(稲村21-22)。
(注13) 稲村は「てどこんのオモロ」を見れば、てどこんの方が泰期より唐商いが先であるように表現されているとし、通説と彼のてどこん説を次のように比較する。通説は「泰期に対しては察度王の寵愛をうけて栄えた泰期盛よと賞賛しているのに対し」、手登根については「唐との交通を始めたばかりではなく、日本とも交通して有名になったと」表現されている。そして、「琉明間の密貿易に依って支那の物資は一応彼等の秘密の根拠地に運ばれて、それが適当な時機に日本に持出されて、日本の堺、兵庫、博多、坊津等の港市で高価で取引された」が、「てどこんの大やく」もその一人であった(稲村25)ことをオモロが示しているのだ、と言う〔後掲大西16枚目p120〕

 稲村さんと同様に、泰期(と亜蘭匏)と「てどこんの大やく」のおもろ原文の記述を比較してみます。

【泰期】(中山側)

15-1117(66)
ふるけものろの節
一宇座の泰期思いや/唐商い 流行らちへ/按司に 思われゝ/又意地気泰期思いや
一おさのたちよもいや/たうあきない はゑらちへ/あんしに おもわれゝ/又いちへきたちよもいや〔後掲明治大学〕

【手登根】(佐敷側)

14-1018(37)
一手登根の大屋子/唐の道 開けわちへ/手登根す/日本内に 鳴響め/又手登根の里主
一てとこんの大やこ/たうのみち あけわちへ/てとこんす/にほんうちに とよめ/又てとこんのさとぬし〔後掲明治大学〕

 泰期(と亜蘭匏)は「唐商いを流行らせた」、つまり大西さんの言い方ならば「琉明通交を『三山』に拡大させた」創始者である。「按司に思われれ」というのは、三山の政治勢力を手玉にとって、という政治力を表現しているのかもしれません。
 けれども、「唐の道 開けわちへ」、多分「ビジネスとして確立させた」又は「航路を確立した」のは「てどこん」だった。そう表現を使い分けているのではないでしょうか?

補記∶大西「あらんぽう」-宮古「マサク」集団連携説

福州東南海にある牛山島から「琉球大洋」まで倭賊を追いかけた事実(1373年『秘閤元亀政要』巻九、他)、そして「琉球大洋」で倭寇の人船若干を捕らえたという事実(1374年『國朝献徴録』通行本巻八)が記載されている明史料があり、それは次のように説明されている。
 反朱元璋の残党が福建沿岸で倭寇と連合するのを明朝廷は恐れていたので、これらは当時重視された事件であった。この動きが意味するのは、首里方面の主力倭寇は朝貢の利と引き換えに休戦したが、宮古・八重山にいる残党が台湾海峡(「琉球大洋」とは石井によれば台湾海峡を指す)まで撃退されのである、と。即ち、「八重山で出土する白磁等」と関連させれば、「倭寇は八重山乃至沖縄諸島に根城を持っていたがゆえにこの方向に逃げ」た(石井19-20)。
 これらの史料からは、亜蘭匏等の南海商人集団は宮古・八重山を含む領域で本格的な商業活動を営んでいた可能性を窺い知ることができる。この諸事実によって、1390年における琉球から明への蘇木・胡椒の導入は経路のミッシング・リンクの大きな部分を解決できることになる。明体制に包摂されない彼等を久米島・宮古・八重山を活動領域に含む「マサク集団」と名付ければ、日本を経由しない暹羅國からの流通ルートとして明らかにできるのではないだろうか。或いはむしろこの「マサク集団」が亜蘭匏を中心仲介者として、てどこんを中心とする南山勢力に結びつき、尚巴志への権力以降の重要な役割を果たしたのではないか。〔後掲大西19・20枚目p123-124〕

※原注 石井:石井望 『尖閣島名の淵源(下)』2021
※マサク集団 後掲大西2枚目p106「宮古島と古琉球を最初に繋いだとされる与那覇勢頭(以下ではマサクと表現する。実質的には彼と行動を共にした十数人とされるマサク集団を指すが、慣習化している単数代表名で示す)が進貢したのは本当に上述の年の出来事だったのか、彼等の本当の目的は何だったのか等の具体的な様相についてはあまりにも不明なことが多い。」


 本稿で追っているこれら海商たちの軌跡は、単なる例です。本当に重要なのは、グスク時代という交易都市国家の分立時代に、本質的には武力抗争ではなく●●●●●●●●経済戦争を続けてきた海商の群があったこと。加えて、それらが明-北元20年戦争を「商機」として再構築したより中華思想に親和的なより大型の貿易構造、それが「琉球王国」だったということです。
 換言すれば、三山統一運動の本質は、政治・軍事ではなく、経済の統合、いわば琉球全島ギルドの結成だったということです。

■Terminus∶沢岻たら名付けの拱手

 上記大西さんの推定は、流石に文体を軟化させておられるように、かなり作業仮説的です。結果から言って、久米村海商圏の非「あらんぽう」派=王茂・懐機と、「てどこん」は連合した。連合して掲げた経済デザインは、「あらんぽう」の掌に転がされている三山王ではなく●●●●●●●──経済・軍事的実力で三山を凌駕する佐敷王による「琉球征服王朝」プランでした。南部交易都市群間の血で血を洗う小規模戦術戦でしのぎを削った佐敷軍が、手登根による硫黄とヤマト移入の実戦兵装を纏ったとき、兵数も装備も乏しい形ばかりの三山王国軍は軍事的には一桁劣るものだったのでしょう。

佐敷〜首里と15C勢力図〔後掲みどりの木〕

 とはいえ南山の大里城をようやく陥とした(伝・1402年)佐敷の尚巴志は、1406年時点で三山を津波のように飲み込むほどの勢力を有してはいません。そこで「中山王権の禅譲」という形でまずは三山王同格となり、二次的に三山統一を果たした──てな後世に伝わる経緯が創作された、ということでしょう。
「沢岻たら名付け」さんは、「手登根」や王茂が描いたグランドビジョン「琉球王国」の第一パート「浦添陥落」の助監督だったというところでしょうか。
 再度、前田-首里高地のマップを見てから、1406年のある日の「首里城」の様子を夢想してみます。

(再掲)+:首里大名一丁目上ぬ・下ぬ御嶽付近〔地理院地図・淡色地図〕
(再掲)+:同首里大名一丁目〔地理院地図・色別標高図〕

❛1406年 ショーハシの見た光景❜

に粗末な、新築の小屋が「上の毛うぃーのもー」の丘の上に建ったのを、山深い土地ゆえに那覇湊のほとんど誰も知りませんでした。
 西の首里御嶽、後に「京の内」と呼ばれる森に住まう祝女が唯一の「先住者」です。この女はどういう訳か、突然来たて佐敷と沢岻の衆に霊感を得て、慄きつつ東尾根の「上の毛砦」の建設を許し、けれどちゃっかりと現・御嶽の領域維持だけは兵隊長に認めさせたのでした。
 兵隊長はショーハシ(尚巴志)と呼ばれましたけど、これは南山や中山の王を名乗る領主より「小按司」(小さな領主)、即ち「成り上がり」という程の蔑称を、実利を重んずるこの男が面白がって自己保身のため自ら名乗るようになったものです。今日もショーハシに従っている海商・テドコン(の大屋子)は、この男が自分を用いて戦費を稼げればそれで満足な損得計算で動いていることをよく知っていました。
 テドコンはため息を吐きました。だからこそ、ここでの戦の利を理解させるのは難しいぞ。
 坂を登って来る影二つ。ショーハシの父ショーシショ(尚思紹)と唐服の男。いかにも慇懃な商売人らしく、本音の読めなさそうな面構え、するとこれがタクシ(沢岻たら名付け)という男か。
「オヤジ、今日はまたご機嫌だな」ショーハシはやや嫌味を込めます。
「やー、ぐぶりい(御無礼)さびら」父王はおどけてシャックリを一つ。もろに酒臭い。「タクシの家の唐の酒は誠に好い」
「先日の浦添へのお運び恐縮です」父王を質にした事をおくびにも出さず、タクシはショーハシに拱手します。
「言うておく。我は父祖より利を選ぶぞ」父王本人の前でショーハシはそう吐いて見せます。「だから未だ分からぬ。浦添の王権を継ぐのは、それほど儲かる話か?」
 テドコンとタクシは一瞬目を合わせました。
「だから王子よ」テドコンは乗馬を促しつつ、何度となく説いた説明を繰り返します。「明帝への進貢は、我らの商いの百倍の利を生じ」
「だからそれと浦添がどう繋がる?」北の森へと駆ける馬上で、なおもショーハシは問い続けます。「お主の言に従い、我は先日、浦添王に首里の森端に砦を築き、浦添の南を守ることを願い出た。」
「傑作だな」戦の話が出ると、如何に深い酔いの底でも、ショーシショの眼はギラリと光ります。「あのお気楽な王様には、我らを首里に置くのが、泥棒を招き入れたようなものだと分からんらしい」
 王子が吹き出しました。「我らは泥棒か?」
 4頭の馬は、北の眺望が開ける場所に出ました。後の首里大名の高台です。

「まだむずがるならば息子よ」ショーシショの眼はもはや完全に狼のそれです。「今夜、佐敷から忍んで来る兵二千、ワシが率いて浦添を盗ってやろう」
「ああ」ショーハシはやはり興味なさそうに頷いてからタクシに顔を向けます。「お前の領す沢岻という丘は、あれだな」
「御意」ショーハシの指の差す北西、海側の高地を一瞥し、タクシはまた拱手します。
「確かにあの場所をお主が押さえ、かつこの襲撃路の側面を支えるから、明朝のオヤジの攻撃に勝算が出る」ショーハシはタクシの眼を見据える。「お主が閩から来てあの地を領する許しを得たのは十年も前であろう。その時から、この日を見越していたのか?」

「御意」タクシは平然と応えます。「佐敷王の如く利に聡く血に飢えた軍団を、待ち続けました」
「望みは?」ショーハシは、一応、という軽い調子で問いました。
「首里に王城が続く間、沢岻の丘に我が一族を置かれんことを」
「承知」ショーハシは唐突に一人、踵を返しました。「我はお前の絵を信じぬし、利も予想しない。浦添は勝手に陥とせ。だがタクシとテドコン、二人が二人ともそれほどその絵に賭けるなら、最後まで見届けてやる」
「絵の末は琉球王国ですぞ?」テドコンは、王子の渋い口調につい突っ込んでしまった。
「琉球王だと?タクシよ」ショーハシは呆れた声で「中山の次は北山まで陥とすつもりか?」
「御意」タクシはまた同じく拱手。「されどその算段は、久米村の別の者、恐らくは王茂殿が、伊是名島のジルーとか申す者と企てるものと聞き及びます」
 父王もこれには笑いを炸裂させました。「末がどうなろうと好い。明日の先にも戦が続くなら、それも好い」
「テドコンはここで見届けよ」ショーハシは冷めた眼のまま言い捨てて、馬を南に向けました。「我は手薄になる大里城に帰る。本城の守備こそ肝要」
 息子の馬脚が遠くなるのを待って、酒臭い父王が一言。「真面目な男よ」
 タクシは擽るのを忘れません。「しかしその分、王には夢を見て頂けまする」
 父王は当然のようにもう一言。「いやワシも信じてはおらんがの」
 テドコンは思わず王を睨みました。その顔に、王はまた大笑。

1522年の無駄遣い

 沢岻親方の一族は、少なくとも第一尚氏の期間中は準王族的な扱いであったらしい。
 下記前段は進貢時の無駄遣いが問題視された一件です。国王がとりなしてます。
 なお鳳凰轎は「鳳凰柄の車」、吐水龍頭は龍口を模した蛇口で、まさに無駄遣いの最たるものです。

吐水龍頭〔後掲阿里巴巴〕

 1522年(嘉靖元年)に嘉靖帝の慶賀使として明国に渡った際、尚真王の許可なしに国費で鳳凰轎と吐水龍頭を購入した。
 帰国後、高級品を許可なく購入したということで周辺からの批判があり、しばらく港に留め置かれていたが、尚真王は沢岻親方が購入したものを気に入ったことで許され、それのみならず沢岻親方の生存中に墓地を与えた。墓の前面上の石碑は「王舅達魯加禰国柱大人寿蔵乃銘(おうきゅうたろかねこくちゅうだいじんじゅぞうのめい)」といい、天王寺の瑞興が書いたもので、沢岻親方が墓を与えられた経緯が記されている。
 沢岻盛里の墓は現在、第2の入り口と墓庭が残っているが、以前はその前(現在、住宅地)に第1の入り口と墓庭があり、玉陵に似たつくりになっていた。(略)沢岻親方の次女は尚清王の長男、尚禎に嫁ぎ、豊見城按司加那志と号された。〔wiki/沢岻盛里〕

 沢岻盛里墓は後代、研究者により記録されています。石碑銘には「王舅」とあり、父系社会の論理としては王よりも上位者に見えます。

第6図 上里墓写真11 上里墓墓屋根墓碑ほか〔後掲宮城29枚目p26〕

※詳細はpdf∶原論文転載図参照

上里墓は古琉球期における造墓年代が明らかな数少ない墓であり、墓室の納骨室に浦添ようどれタイプの台座の羽目部分を嵌め込み、昭穆の思想に則ったイケ(収骨所)を設え、墓屋根に棺身と台座裾を加工して寿蔵銘(墓碑)を据えた類例をみない墓である。このような特異な墓が沢岻親方へ下賜された理由を考えてみたい。墓屋根に据えられた墓碑『王舅達魯加禰国柱大人壽蔵之銘』には「上は国王を補佐し、下は蒼生〈人民〉を鎮撫〈しずめなだめる〉す。君の志を致すに孜々<つとめ励む>として怠ることあらず、誠を立つの節は侃々<まっすぐ>として屈する所無し」と記し沢岻親方を称えている。〔後掲宮城ほか〕

「沢岻たら名付け」がその名のとおり名付け親になったのは、第二尚氏●●●●四代尚清であるとされます〔日本歴史地名大系 「沢岻村」←コトバンク/沢岻村〕。尚巴志の第一尚氏が追討された後までも沢岻親方の一族がなぜそれほどの権威を有し続けたものか、上記の仮説及び空想ではなお説明できていません。前記はただの作業仮説です。
 久米村に合流せず孤高の領地を維持した沢岻と、そこに連なると思われる平良大名は、なお謎の土地です。

〉〉〉〉〉参考資料 

(NOR)Nora 源氏物語の世界 令和再編集版/源氏物語 テキスト全文検索/第九帖 葵
URL=https://www.genji-monogatari.com/volumes/volum
(ありば)阿里巴巴/牆壁式水龍頭圖片 – 海量高清牆壁式水龍頭圖片大全
URL:https://tw.1688.com/pic/-C7BDB1DACABDCBAEC1FACDB7CDBCC6AC.html?beginPage=12
(おおに)大西威人 2025「亜蘭匏と稲村賢敷の古琉球」『宮古島市総合博物館紀要』第29号(2025年3月号)
※宮古島市 > 市の組織 > 教育委員会 > 生涯学習部 > 総合博物館 > 刊行物のご案内 宮古島市総合博物館紀要 第29号(2025年3月) URL=https://www.city.miyakojima.lg.jp/soshiki/kyouiku/syougaigakusyu/hakubutsukan/kankoubutsu.html
 PDF URL=https://www.city.miyakojima.lg.jp/soshiki/kyouiku/syougaigakusyu/hakubutsukan/files/mcm2025_29_p.105-128.pdf
e_9/index.html
(おきなわけ)沖縄県立博物館・美術館 WEBアーカイブ ウチナーの民話/大名の始まりと名の由来(共通語) レコード番号:47O378252 話者名:真志喜朝吉 話者名かな:ましきちょうきち 生年月日:19080623
URL=https://okimu.jp/museum/minwa/1582431427/
(おきなわや)沖縄八重山日報 2024/06/16 「統一独立の琉球なかった」 石井氏が新説、第一尚氏も否定
URL=https://www.yaeyama-nippo.co.jp/archives/23433
(かごしまけ)鹿児島県 2021年11月22日/歴史ゾーンマップ1~かごしまの城下町「上町(かんまち)」~を作成しました
URL=https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/rekishi-map.html
PDF URL=https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/documents/24512_20120330162509-1.pdf
(かごしまし)鹿児島市郡山地区郷土史編纂委員会「郡山郷土史 第五編 古代」2006(平18)
※鹿児島市HP URL:https://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/koriyama.html
(こくり)国立国会図書館 レファレンス協同データベース「懐機について書かれた資料があるか。」 登録日時2012/03/28 更新日時2014/02/27 提供館 沖縄県立図書館 (2110045) 管理番号1000000662
URL=https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000104346&page=ref_view
(じかん)時間探偵 モンゴルの歴史 本当の世界史の始まり
URL:https://artworks-inter.net/ebook/?p=5592
(しまむ)島村幸一 2020「『おもろさうし』「地方オモロ」論―排列と『琉球国由来記』「各処祭祀」の記載から―」『大学院紀要』36号, p.85-157,発行日2020-03-31
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(せかい)世界史の窓/元の滅亡
URL:https://www.y-history.net/appendix/wh0403-069.html
(せんご)戦国ヒストリー 2023/12/21 南北朝/
「日明貿易、日朝貿易、勘合貿易」とは? それぞれの特徴、違いがスッキリ分かる!
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(せんぞ)先祖を探して 2023-09-24 Vol.374 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ④亜蘭匏 が再浮上
URL=https://yononushi.hatenablog.com/entry/ad01999d48f847a656499ff655868a6b
宮城弘樹(研究代表者) 令和7年(2025)1月 「葬墓制からみた琉球史(葬墓制資料に基づく近世琉球社会史の学際的研究 成果報告書)」令和3(2021)~令和6(2024)年度科学研究費補助金(基盤B)研究課題番号 23K20525
pdf URL:https://okiu1972.repo.nii.ac.jp/record/2000165/files/%E8%91%AC%E5%A2%93%E5%88%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E7%90%89%E7%90%83%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E8%AB%96%E6%96%87%E9%9B%86.pdf
(ちゆう)中国哲学書電子化計画/大明太祖高皇帝實録 (明)監修官戸部尚書臣夏原吉即進表 維基文字版:開放共同編輯的資料
URL=https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=555283
※ 番号は全て中國哲學書電子化計劃付番
(なんじ)南城市「第3章 尚巴志とは誰か?の整理」
URL=https://www.city.nanjo.okinawa.jp/userfiles/files/kanko_bunka/375/03.pdf
(にほん)日本史勉強中。 2022年8月1日 日本史あれこれ/【鳥辺野】京都にあった地獄と言われる平安京三大葬送地筆頭
URL=https://love-japanese-history.com/kyoto_toribeno/
(ひがし)東(ひがし)和幸 2014「鹿児島(鶴丸)城下の計画性」鹿児島県立埋蔵文化財センター研究紀要・年報『縄文の森から』第7号
※同センターHP URL:https://www.jomon-no-mori.jp/kiyo7/
(ふいー)フィールokinawa 2020/沖縄の神社「琉球八社」の歴史巡り!普天満宮編
URL=https://feeljapan.net/okinawa/article/2020-12-11-19204/
(ぶんか)文化庁 文化遺産オンライン 佐敷城跡
URL:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/232551
(みどり)みどりの木のブログ 2023年08月10日(木)/南山城(島尻大里城) 2 南山王と尚巴志の関係
URL:https://ameblo.jp/idryou/entry-12815400271.html
(めいじ)明治大学 生田情報メディアサービス 『おもろさうし』テキストデータベース
URL=https://www.isc.meiji.ac.jp/~meikodai/datebasa/omorosaushi.txt
(りゆう)琉球新報社 沖縄用語辞典/王茂 (おうも) 公開日時2003年03月01日
URL=https://ryukyushimpo.jp/okinawa-dic/prentry-40491.html

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