m175m第十七波余波二波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m清水2withCOVID/鹿児島県

「かんまち(上町)サンクチュアリ」の赤幟。これだけフラれ続けてるとドキリとする観光幟です。

本日はそろそろ見ゆるか上の町

内部リンク→m175m第十七波余波mm清水&串木野/鹿児島県/■レポ:君は清水城を見たか?
清水城案内図に描かれた曲輪群と大空堀〔GM./清水城〕

単に言うと、前回の清水城(を目指したはずの)歩きでの消化不全から、もう一度出直してきた訳です。
 1325、市内電車を終点・鹿児島駅で下車。ファミマ前から,やはりここは北東へ進むしかない。とりあえず、多賀山公園北麓ぎりぎりを目指そう。
 線路の北側を進む。

2020年2月改築された意外に斬新な鹿児島駅。大正時代の2代目駅舎をモチーフにした外観で、不便だった線路の南北の往来も容易になりました。

331、ad柳町1。バス停栄町。アパートが多いけれど苔むした古い家並みもちらほら。
 柳町の番地が1→2→8と転じます。桜島は、自身の煙と,荒天の低い雲に包まれて何やら不穏。
 1338、鹿児島市交通局のバス溜まり。多賀山の南麓が近付いてきました。ad12。
 1340、ad春日町13。
春日神社〔三国名勝図会←GM.画像〕

いうことはこの地点で,北に春日神社を見ながらスルーしてます。この神社については後でもう一度触れますけど──「鎮座地は東福寺城の船着き場であったと言われ」〔wiki/春日神社,後掲鹿児島市も同趣旨〕、琉球侵攻にはここから出港したとか、この地区から滑川にかけ船頭・船大工・水夫等が集住したとする伝えがあるようです〔後掲鮫島〕けど──今の風景からは、とてもそんな想像は出来ないありきたりの小川なのです。
多賀山(東福寺跡)西側と現・永安橋

安橋西口。
 稲荷川に北東と南東を塞がれた格好の地点なので、これより北へは、西の車道(磯街道)から戸柱橋を北東に渡るか、この永安橋を南東に渡ってから線路沿いを北東へ進むしかありません。後者を選ぼう。そのまま南東へ直進すると旧薩摩砲台跡の公園ですけど,これはもちろん幕末のものです。
 でもその前に橋西口のこの案内です。

永安橋から東福寺→清水→内→鶴丸

永安橋の観光案内板

ヤけててすみません。上が南、下半分に地点の丸付数字を合成したものです。
 本稿が仮想する湾入域は、概ねJR線路を南岸、磯街道を北岸とする長細い三角形です。この太い下流北部に当たる内城が大龍と名付けられたのは、この三角形を龍に見立てたからだと想像します※。

※定説としては、鶴丸城完成後に臨済宗大竜寺が置かれたことに由来。この大竜は15代貴久公「大中」・16代義久公「竜伯」の号から一文字ずつとったものとされます。〔後掲鹿児島ぶら歩き〕

永安橋「1830年頃の上町絵図」(鹿児島県立図書館蔵:西陲画帳より)

のたもとの案内板。上記西陲画帳※図画に付して、次の記述があります。

※西陲画帳: 高木善助「薩陽往返記事」(1828(文政11)-1838(天保9)年の前後六回にわたる鹿児島への往復紀行文)に併せ制作された紀行画帳〔日本歴史地名大系 「薩陽往返記事」←コトバンク/薩陽往返記事〕

南北朝の1341年,当時北薩にあった北朝の5代貞久が,南朝方の東福寺(多賀山公園内)に入って拠点を築き,島津氏はその後勢力を広げるとともに,清水城(清水中学校裏山の一帯),内城(大龍小学校),鹿児島城(鶴丸城:城山の麓一帯)へと居城を移していきました。〔案内板〕

 この島津家の鹿児島での遍歴:東福寺城→清水城→内城→鶴丸城のルート中、最初の3城は先の古・稲荷川の流域を守備する位置だったことが分かります。ただ狭いこの区域でなぜこんなにも次々と、拠点を転ずる必要があったのか、という点はよく分からないのです。

上図河口部拡大

古・稲荷川の幻を追って

たもう一つ。稲荷川の川筋が当時と全く変わってることです。
 絵図では、この時の地点:永安橋の地点から、鹿児島駅方向にずっと川が流れてます。やはり先述通り、現JR線路のベルトが川だった、と考えると想像し易い。
 古・稲荷川は、元は多賀山城北麓をそのまま北へ伸びて,現・稲荷神社から大乗院前の水路に入っていた──ということになります。

永安橋50mの直角曲がり地点

408、永安橋50mの直角曲がり。
 家屋の筆の形を読んでいくと──やはり古い筆はまっすぐ伸び,北側三角地だけが新しい筆になっているように見えます。
南東への踏切と多賀神社への登り口

412。線路の向こうに多賀神社への登り口が見えます。
 adは清水町24と読める。東側の集落面は川より一段高く,その面を線路も走る。だから川は線路西を流れていたはずです。
 踏切は渡らず車道へ出る。
 1416、タイヨー前。バス停・鹿児島純心学園。
線路脇に古い石垣のような構造が伸びてる。

420。R16磯街道とR10の分岐まで200m表示。北東のロータリーへの登り口のことでしょう。
 磯街道の西へ横断。さらに北行しましょう。
南方神社へ登る。

庶民が守った清水城:旧射圃記

425、南方神社。
 本殿は新しいけれど参道に古色あり。清水町公民館併設。
 天保11年庚子8月銘の,これは鳥居か柱の基部でしょうか?

天保11年庚子8月銘の柱基部と本堂

こが通称「お諏訪さあ」らしい。

※タケミナカタ(建御名方神:先代旧事本紀・古事記の表記)を祀る諏訪神社は全国にあるけれど、これを「南方神社」(←日本書紀表記の南方刀美神?)と呼称する事例はほぼ鹿児島のみ。

 鹿児島では「五社参り」が正月行事化していて〔後掲鮫島〕、上町五社を巡るという。この五社とは諏訪のほか八坂、稲荷、春日、若宮。ノボリその他では、うち最も由緒があるのが諏訪……と南方神社は自称してるようです。

南方神社の古びた碑文。拾い読みする限り下記旧射圃記の内容を確認できないけれど──他サイト等でもこれが「旧射圃記」本文と書かれてます。

内に「旧射圃記」と市教委の解説白杭。

応永20年(1413)島津家八代当主久豊が菱刈氏を討とうとして出陣した後,伊集院頼久が清水城を攻めた。清水城が危機に際したとき,上町の篠原新右衛門が人々に呼びかけて防ぎ戦った。激しい戦いで数十人の死者が出た。久豊は市井の人々が困難に殉じたことをほめ,人々に土地を与え弓の稽古をさせた。(略)〔案内板〕

──けれどそのまま省みられなくなっていたのを、寛政8(1796)年に町役人が復活させたものという。

耳川戦で島津軍を迎える大友軍・角隈石宗〔センゴク〕

則男子皆兵だった戦国島津らしいこの「美談」は、「平田信芳選集 石碑夜話」や「鹿児島の金石文」にも詳述があり〔後掲ジージの南からの便り/南方神社の境内奥に「旧射圃記」碑を見る〕、おそらく戦前にもてはやされたもののようです。
 1446、稲荷町バス停。なぜかここに韓国人3人連れ。
 左手脇道へ入る。ad稲荷町16。なぜここに石敢当??
稲荷町の石敢當

清水中に大乗院の在ったころ

し路地を通ってみます。
 迷路感のある路地です。作為的……ということも決めつけにくいけれど……。

稲荷町の路地

荷川沿いに出ました。
 北側の高度は、こちらよりかなり高い。位置的にはこの高地が清水城です。
 そうすると、稲荷川を南へ直線路で流すのではなく西へ、つまり清水城南崖直下への改流に防衛的なメリットを求めた可能性があります。
北方向。右手が磯街道のロータリー、正面が清水城。

458、祝日の国旗をはためかせる稲荷社が見えました。
 稲荷橋を渡る。
 ad稲荷町35。
 泗川戦で鬼島津を救った伝説を持つ島津のお狐様信仰は異常ですけど、ここは時代が違うはずです。
 なのに稲荷ばかり。
稲荷橋と稲荷川

水中学校脇を進む。何かの跡地っぽいけど痕跡伺えず。
 校門に「稲荷馬場」碑と案内板「廃仏毀釈で最初に壊された寺」──なるほど!この清水中学校が大乗院だった場所か。
 三国名勝図絵に掲載あり。ただそれを見る限り構成は普通に見えます。

稲荷川 大乗院 皷川

三国名勝図絵/大乗院〔後掲たけのこ〕

代友厚(1836(天保6)年生-1885(明治18)年没)は30歳過ぎの頃に「坊中馬場」に屋敷を得たといいます。下記記述を見ると、大乗院の「坊」と呼ばれる宗教エリアが、おそらくこの狭い谷一帯を占めていたと想像されます。

五代友厚は、慶応3年4月(1867年5月)に鹿児島郡坂元村坊中馬場に8畝3歩(約240坪)の屋敷を拝領した。坊中馬場は大乗院の前を流れる稲荷川に架かる大乗院橋から大乗院の外門にあたる仁王堂にかけての道筋のことで、大乗院の支院が10坊も並んでいたという。〔後掲たけのこ ※原注参考:宮本又次『五代友厚伝』1980年〕

「探してみませんか 稲荷川の魅力」看板 (上)全体 (下)清水中≒旧大乗院位置拡大〔鹿児島市立 清水中学校Instagram〕

してみませんか 稲荷川の魅力」看板によると,この川は上流の[木青]木川と呼ばれる部分までを含めると延長16.1km。鉄砲水があってもおかしくないほど,意外に大河です。
 1514。ad……これまた難しい「皷」川町5……「鼓」の「支」が「皮」になった漢字です。
 1518、玉龍高校前バス停。前回力尽きたバス停です。今回は時間もいいのがあるけれど……いや今日は先へ行こう。
 1522。ad大竜町12。家鴨馬場(あひいばあ)石碑。

福昌寺 南の塀に家鴨鳴く

家鴨馬場(あひいばあ)石碑

鴨??
 伝承では──一説に、かつて馬場に沿ってアヒルを多く飼う川があって、怪しい者が渡川を試みるとアヒルが騒ぐ一種の警報装置だった言われます〔後掲上町維新まちづくりプロジェクト/アヒル馬場とアヒル川〕。また一説に、20代藩主島津綱貴公が江戸から招いて当地に道場を構えた天真流元祖加藤清風が、晩年に盲目となり自虐的に「家鴨」と号したことからとも〔後掲鹿児島ぶら歩き〕。
 ここには1394(応永元)年、島津7代元久公創建とされる玉龍山福昌寺があり、廃仏毀釈までの五百年間、西日本最大の寺院だったと伝えられてます。往時に1500人余の僧侶が住したとも〔後掲上町維新まちづくりプロジェクト/アヒル馬場とアヒル川〕。家鴨馬場は、この寺域の南辺を成していたらしい。──ということはこの狭い地域に、福昌寺と大乗院の二つの巨大寺院都市が並立したのです。
 なぜでしょう?外交僧のいた事実上の外交機関とも想像出来るけれど、他の根拠はありません。

何はともあれ都の湯


龍小東角交差点を右折。1525。
 ここにも「上之馬場」(うえんばあ)石碑。なぜこれほど馬場が並ぶのでしょう。一種の、郷中教育の中心地のような風情だったのでしょうか?
 訳が分からないので、この地区──池之上町と言っていいらしい──の地名を網羅した記述(→後掲日本歴史地名大系 「池之上町」)を後掲してみますけど、ここには何と①仁王堂・②上(うえ)ノ・③家鴨(あひる)・④竪(たて)・⑤清水・⑥稲荷の6つの馬場が記されます。
 中でも「家鴨」馬場は家鴨馬場郷中として、自治体(≒教育集団)クラスの呼称にもなっていたようです。うーむ──三度目の挑戦にしてようやく軽い手応えを感じられる気がしますけど……どうも土地勘が付いていきません。

地勘が付いてってない証拠に……家鴨馬場碑の薩摩街道高岡筋を西南西に登り切った突き当たりが、何と常泉・みやこ温泉だったのでした。
 一湯。ふう〜。
 1626。桜島桟橋通電停から帰路へ。

■レポ:鹿児島形成史における上町の位置

 という訳で所詮土地勘はないので、大きな図に立ち返ってみます。
「上町」があるなら下町があるはずです。鹿児島の「下町」は、元々は現・朝日通電停辺り※より南を指していたようです。即ち現在、我々外来の観光客が思う鹿児島市街です。

鹿児島市立美術館が所蔵する「天保年間鹿児島城下絵図」によると、昔鶴丸城の堀から流れて名山堀に注ぐ小川があり、その脇に「自是北上云南下云」(意味/「これより北を上といい、南を下という」)と書いてあったとのこと。〔後掲上町維新まちづくりプロジェクト/上町とは〕

※下町は
宝暦期(1751-64)「通昭録」:一〇町
寛政期(1789-1801)「薩藩例規雑集(東京大学史料編纂所蔵):一二町
天保期(1830-1844)「天保城下絵図」:一五町
と拡大している。寛政期一二町の内訳は六日町(むいか)・中町(なか)・呉服町(ごふく)・大黒町(だいこく)・木屋町(きや=のち金生町)・築町(つき)・新町(しん)・今町(いま)・堀江町(ほりえ)・船津町(ふなつ)・納屋町(なや)・泉町(いずみ)とされ〔日本歴史地名大系 「下町」←コトバンク/下町(したまち)〕、電停だと現・朝日通〜いずろ通の金生町(→GM.)が目安になります。また、寛政→天保の+3町は「名山(めいざん)堀(前掲)に至る埋立がなされて成立」〔前掲日本歴史地名大系〕した弁天町(べんてん)・汐見町(しおみ)・住吉町(すみよし)で、現・名山町(→GM.)、即ち鹿児島市役所〜朝日通電停と推測してよい。

 これは、アメリカンな意味でのUpTownとDownTownとはもちろん違います。鹿児島で「上町」「下町」と言う時の感覚は、他での「古町」と「新町」に近いらしい。UpTown、つまり武家屋敷は上下いずれにもあって、「上方限」(かみほうぎり)及び下(下)方限と呼ばれ、単に上町・下町と呼ぶと町家を指したようです〔後掲上町維新まちづくりプロジェクト/上町とは〕。
「方限」は、薩摩で武家屋敷のみが方形ブロックの占用を許されたことの漢字表現と想像します。また、上方限というと大まかに池之上町・大龍町・清水町・春日町・稲荷町の五町を指すようです〔後掲上町維新まちづくりプロジェクト/上町とは〕。

「天保年間鹿児島城下絵図」(鹿児島市立美術館所蔵)部分〔後掲後掲上町維新まちづくりプロジェクト/上町とは〕※ピンク字は引用者

鹿児島城下の描くY字

 従来から注目されてきたのは、上方限と下方限の方向軸の違いです。両者は方向を違え、それが直角ではない。──実際、いずろ通りから朝日通りの北側辺りで両方向軸が混ざった界隈に入ると、ワシのような外来者は気を抜くとすぐ方向を見失ってしまいます。
 両者の角度を下鶴弘さんは(下町)千石馬場と(上町)竪馬場に代表させ、120度と算出しています。

千石馬場と竪馬場の延長線が120度で交わり,その角度を二等分する位置に鹿児島城の御楼門が築かれていることを指摘。〔下鶴2008※←後掲東2014〕

※下鶴弘 2008「鹿児島城の総構えについて」『2007年度鹿児島国際大学生涯学習センター特別講演会報告書 鹿児島の埋もれた歴史遺産に光を』 鹿児島国際大学生涯学習センター

 言うまでもなく、120度は360度を三等分した角度です。つまり上・下方限の方向軸と、両者を隔てる名山堀の三者は等分のY字を構成しているのではないか、という発想が成立します。名山堀から三者の交点の方向に御楼門、鹿児島城、城山が連なっている。そして逆方向の直線上には桜島が煙を上げている。
 本当の時系列では、この人の直感を後代の学者が補強してきたということなんですけど──唐鎌1992は、「鶴丸城」の「鶴」とは次の都市構想だったと指摘しています。

上方限・鹿児島城正面・下方限で角度が変わり,鶴が羽を広げ桜島に向かって舞い立とうとしている様子を指摘。※後掲東2014原注参考文献:唐鎌祐祥 1992『天文館の歴史』かごしま文庫⑤ 春苑堂出版

唐鎌祐祥1992による鹿児島城下町プラン〔後掲東2014〕※ピンク字は引用者

 ちなみに、このY字交点にあたる市役所西口T字路には、西南戦争時に官軍が屯営(≒本営)を置いています(→GM.)。鹿児島市の象徴的な「宇宙の中心」であることが、何らかの形で政府軍側にも伝わっていたとすればこのエピソードは極めて整合性があります。
「明治十年戰役官軍屯営跡」碑(GM.)

鹿児島は風水都市だったか?

 ただ上記は確かに史料上記載された解釈ではないので、我々内地ニッポン人が聞くと冗談、あるいはファンタジックなものに感じられるんですけど──以前触れた、那覇・久米の空間構造に関する高橋説に、この発想法の手触りは似ています。

内部リンク→m19Am第二十波mm2久米天妃散歩(ニライF66)/■地理学的分析:高橋誠一による唐栄久米村景観復元
唐栄久米村と天妃宮(2007高橋改訂版)

*高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」2009
**元研究は高橋誠一「琉球唐栄久米村の景観とその構造」『東西学術研究所紀要』第35輯,2002

 那覇久米人が、仲島大石を龍珠、奥武山を「文案」(風水上の軸線上にある「流れ」の目当て)と見做したのはかなり確実で、そこから現・カフーナ旭橋を龍頭と仮定しました。
 江戸初期当時の都市設計思想と言えば、風水から独立した思考法はなかなか無かったと思われます。中国人知識層を既に多数受容していた薩摩で、忠恒が都市設計の有識者を集めれば、そこには相当の率で風水の専門家が含まれたと考えるのが妥当でしょう。

※原典が明らかでないけれど、後掲東は徳永和喜の記述として「鹿児島城や加治木屋形の縄張りの際は,明国人易学者の江夏友賢が占ったとされる。江夏友賢は博学を修めた学者であり(徳永2008)」〔後掲東2014〕と記しています。
※※徳永和喜 2008 「鹿児島(鶴丸)城築城にみる思想 家久の「城認識」と展開を中心に-」『黎明館調査研究報告』第21集 鹿児島県歴史資料センター黎明館

 久米における奥武山:文案のような発想が、鹿児島鶴丸城の都市構想に混入していたとすれば、桜島を風水上の文案と見た可能性、つまり風水による都市デザインが描かれていた可能性はあるのではないでしょうか。

併記:150度×3回屈折説

 上記とは別に,上町と下町の基本構造は150度ずつ、三度に渡って曲っている、とする解釈もあります。東さんの見解もこれに近い。30度の内折れを三度なので、最終的に90度曲っていることになり、こうなると変則的な条里と解釈されます。

鹿児島城下の町並〔後掲東2014、第七図〕

 大口筋・高岡筋を南北に,出水筋を東西に設定している点は,古代以来の条里の思想が窺える。両方の筋の間を 150°の角度で3回屈曲させることによって,ぴったりと主要街道の東西南北 90°に合わせている。最も狭い現市役所裏に,直線道をもってきていることも見事である。現在の県立博物館前や平之橋を,車で走り抜けても曲がった感覚は少ないことから,佐多氏※が述べるように,知らず知らずのうちに違った方向に向かわせようとしているかのようである。〔後掲東2014〕

 ※の佐多氏見解は、鹿児島城下の湾曲構造を最初に指摘したものです。原文は次のようなやや経験則的なものになりますけど──実際歩いた(迷った)経験からすると、確かにどちらかと言えば……こちらの方が自分の感覚にも近いのです。
「向かわせよう」というのはこの湾曲の見落としが防衛上の意図的なもの、という見解で、佐多原文にはもっと明確に記されます。

城下町の道路の中には通行の際知らす識らす方角を直角に取違ふ如く経始されたるあり 乃ち石灯籠通り重信下駄店より黒松洋品店前に到る道路は南方に通しあるもいろは屋俊寬堀跡より漸次東に円の四分の一を画き本願寺の前通りに至れは東西に通する道路となるあり 是は熊本城下紺屋町の処にも仙台城下にも之れあり 他の城下にも蓋しあるならん 伝へ云ふ敵人の侵入する時知らす識らす方角を取違ふる為なりと〔佐多武彦 1937「戦略戦術上より観たる鹿児島城下」『陸軍中将 佐多武彦述回顧六十年』←後掲東2014〕

 以上の二説は根本的に異なるものではありますけど、実際の都市構造としては似た格好の「緩く折れた町筋」でしかありません。また繰り返しますけど、現代の地理学者による解釈で、史料に書かれたプランではありません。現実に起こり得た事象としては、どちらもの説明が暗になされていたり、あるいはプラン段階と施工段階で理解がズレたりした結果、どちらもの要素を包含してしまったという可能性も捨てきれないと考えます。

忠恒の強行した下町新市街構築

 現実の都市構造としてここで問題になるのは、西の翼・下町、即ち現・鹿児島市街の大部分がなぜこの時代に造られる必要があったか、という点です。18代忠恒(1576(天正4)年生-1638(寛永15)年没。のち家久と改名。義弘の子)によるこれほど巨大な都市構想は、新設部分として見ると、下町の建設とほぼ同義です。
 唐鎌説では、次のように街区の拡大目的としますけれど、これは現代の都市中心形成に繋がったという結果論からの説明の色が強い。

家久が鶴丸城に移ったころは上町が主な町であって,唐人なども居留しているほどであったが,近世的な城下町の発展のためには山の迫っている狭い上町だけでは不十分であるので,家久は鶴丸城を築くとともに下町方面の建設にも力を尽くした。〔後掲東2014による唐鎌1992引用〕

 陸人の居住地としてのこの発想よりも、「海人の寄り付きやすさ」を要請したという考え方がより説得力を持つように思えます。
「城下町としては湾港を中心とした町型態で,今で言えばウォーターフロント都市であった」〔中田勝康・秋山賢治 1992「城下町の比較と街づくりとの関連性」『土木史研究』第12号 ←後掲東2014〕
「間近に迫る深い海は,大型船が着岸できる港として利用。」〔松尾千歳 2005「鹿児島県立図書館蔵「鹿児島城下町割図」について」『南九州城郭研究』第3号 南九州城郭談話会←後掲東2014〕

石燈籠通り※〔鹿児島風流,1860(万延元)年作〕
※≒現在のマイアミ通り GM.:石灯籠通の石碑
 埋立前の鹿児島城南東前面が海底浚渫なしに、どの程度の海深を確保できたのかやや疑問は残りますけど──下町に属するボサド通り(→GM.)や二官橋(→GM.)などの存在は、大型船向けウォーターフロントの機能が一定程度は発揮された結果とも考えられます。
 また、江戸初期の三殿体制(→国分編参照)のポジションから見ると、鹿児島・鶴丸城構想は忠恒(家久)にその父・義弘が同調して建てられてます。つまり義久(忠恒の叔父、義弘の兄)の国分新都構想と、競合関係にあったプロジェクトです。「旧都」上町を織り込みつつ、国分を上回る壮大さと実機能を備える必要があった。結果的に薩摩府は鹿児島から動かず、都としての国分は捨てられてますから、プロジェクトとして多数が将来性を感じたのは鶴丸城だったのでしょう。
 総括すると、旧城下を北側主要部として取り入れつつ、もう一翼に新港を構え、これが結果的に新市街用のバッファゾーンとなって現・鹿児島市街への拡張性となった。それが鶴丸城の都市再編プロジェクトでした。
(再掲)唐鎌祐祥1992による鹿児島城下町プラン〔後掲東2014〕※ピンク字は引用者

鹿児島の下町はどうデッサンされたか?

 こうした江戸期以降の推移を前提に上町が有した機能を振り返っていきたいのですけど、その前にもう一点、忠恒が新市街部・下町を具体にどう構成したかを確認しておきます。
 下町の中心は、江戸末期に天体観測所※が置かれた天文館ではなく●●●●●●●千石馬場と谷山街道の十字路(現・山下小学校西角の三官橋交差点→GM.)とするのが定説のようです。

千石馬場周辺の状況〔後掲東2014、原典第5図〕

千石馬場周辺の状況
ア 尾根の前面は急崖の部分もあり,面をそろえた可能性もある。
イ 城山の地形に平行した方向に,「馬場」を通す。
ウ 「馬場」同士の間隔は,130mを基本としている。
エ 「馬場」間に筋を通す場合は,ちょうど二分する位置に設けている。
オ 「馬場」に直交する方向に,「通」を設けている。
カ 「通」同士の間隔は,130mと180mを基本としている。
キ 谷山街道は,千石馬場をちょうど二分する位置に設けている。
ク 谷山街道の両側は,130m×2と180mの区画から成っている。
ケ 千石馬場は900mの直線である。 〔後掲東2014〕

 ここからとりあえず分かるのは、鶴丸城構想下の「馬場」とは文字通りの馬術の教練場ではない●●●●ということです。この構造はどう取っても、京都の条里制の「河原町」「二条通」✕「烏丸通」「寺町通」とかと同義で、城山からの視界上左右に伸びる大通りを「馬場」と呼んだことになります。
 ならばこの呼称は何なのか、という点を明確に書いたものがないんですけど……(無いんかい!)──「郭」に近いものかと考えるには段差を欠きます。館と当わせ防衛装置として機能した〔後掲konenekoの気まぐれ観光案内所〕と言うには、麓の一部ではともかく少なくとも鹿児島城下のものは多様でとりとめがない。
※もう少し後の時代なら、江戸城下の広小路に似た防火対策とも考え得る。ただ江戸初期にそんな都市構想が想起された形跡はありません。
 設計側の意図として汲み取れる薩摩「馬場」と単なる大通りの違いは、そこが万人の通ってよい公道ではなく、「武士の領域」であることの明示にあったのではないでしょうか?「城の一部」だと言われなくても、当時の薩摩庶民は何となく「馬場」を歩くことを避けてきた、というような。例えばそこに市を立てたり、庶民の路地を伸ばしたり、ましてや掘立て小屋を立てたりすれば即刻武士層に追われたような。
 少なくとも、薩摩「馬場」は等高線ラインに沿った細長い公的領域である、という認識を持って、上町に話を絞っていきます。

【寺域の間の道イメージ】京都(同市東山区下河原町)の高台寺と圓徳院の間の「ねねの道」。名は北政所ねね(豊臣秀吉の母)がこの地で余生19年を送ったことから。〔後掲Yahoo!トラベル/ねねの道〕

上町に二大寺域の並び立つ

 はっきりした領域図を示せませんけれど、江戸期の上町には福昌寺と大乗院の二つの大ブロックが並び立ち、大げさに言えば京の右京と左京のような状態を呈していたと想像されます。

 幹線道路は、大龍寺門前を過ぎた北の角から左に折れて鼓川(つづみがわ)方向に進む。この道は途中から上り坂になって、吉野台地に抜ける。その坂道にさしかかった所の左手が福昌寺であり、右手が大乗院である。薩摩藩第一の大寺と第二の大寺がその幹線の両側に立地していることになる。
 ということは、重富方面から鹿児島城下に入ろうとすると、白銀坂(しろかねさか)を越えて吉野台地に出て、実方(さねかた)太鼓橋を渡り、台地を下った所で左右に両大寺を目にすることになる。おそらく、外部から入ってきた多くの人がその両大寺の規模に目を見張ることになったと思われる。
 その一方が島津氏の菩提寺であり、他方が島津氏の祈願寺と聞かされると、納得したであろう。〔後掲モシターンきりしま〕

 二大寺域を基本構造にして、その周囲に大路が走っていた、というのがこの地域の風景だったと想像されます。
 本文で触れた六つの馬場を記す日本歴史地名大系の原文を、以下挙げます。

天保城下絵図などによると、東は①仁王堂(におうどう)馬場の南端にある黒葛原殿(つづらはらどん)橋から若宮神社の前を進み②上(うえ)ノ馬場に出る線、その途中から③家鴨(あひる)馬場を横切り、④竪(たて)馬場の延長上にある観音(かんのん)坂に出、同坂と福昌寺を結ぶ線が南の上龍尾町との境、北の鼓川町との境は⑤清水馬場(しみずばば)町と⑥稲荷馬場(いなりばば)町の境を西に延長し、深固(しんこ)院へ通じる道と福昌寺を結ぶ線でおよそ区切られる。北西部に福昌寺がある。同寺の東側に士屋敷があり、福昌寺郷中・家鴨馬場郷中がある。〔日本歴史地名大系 「池之上町」←コトバンク/池之上町〕※丸付数字は引用者

 土地勘の欠如から位置関係が想像できません。そこでネット上にあった「MAP上町地区の道路銘碑」を挙げます。ここには11の馬場※を数えることができます。

※他にさらに虎屋・堀之内・茶碗屋の3馬場を記載するけれど、下記地図域外のため略

〔後掲ジージの南からの便り/鹿児島市上町地区の馬場と小路めぐり(その一)〕

 先述の下町と比較して顕著な違いは、馬場の方向が疎らで、にも関わらず概ね直交する傾向があることです。
 上町の統治者側は、やはり京都風の条里構造を念頭に置いていたことは否めないと思えます。ただ上町の発展段階では、「ヨコに馬場を通す」といった発想はなくて、単に広い道を馬場と呼んでいたと想像できます。
 ④坊中馬場は語感から大乗院の中を貫いていた可能性があります。その他の道が、東西で方向は違うけれど概ね平行しているのは、二大寺域の外縁ラインに平行して大路が形成されたから、とぼんやり想像はできます。
 では、おそらくその前の時代と思われる春日神社前に船着があった状況とは、どんなものだったのでしょう?

海水に洗われてゐた春日宮

春日神社位置を中心とした(上)淡色地図 (下)アナグリフ

 二枚の地図は同範囲・縮尺です。右手丸マイナスの高さに突き出した微高地の先が、春日神社になります。
 稲荷川は現在、春日神社の丘を東に迂回して流れています。けれど地勢は、明らかに、東福寺山の西麓直下(清水町・稲荷町の東側、JR線路西沿線)を直線で流れていた時代があることを物語ります。──現流域への改変が自然現象なのか、どこかの時点での堤防設置など人工の操作なのかは不明です。
 その時代、春日町と清水町の間の低地部は浅く湾入した地形だったと想像されます。東福寺時代の島津がここに港を設けた、というのは極めて合理的な選択なのです。
 これらを総括すると、上町地区の海側には、稲荷川というより、現・鹿児島駅の東、おそらく現・小川町から上町の杜公園の間を海口として、北東に伸びる巨大なラグーン(潟)があったと考えるのが妥当なように思えます。
初代永安橋(当時・塩入橋)の位置〔後掲ワラビ〕

 唯一と言っていい物証は、本文最初で訪れた永安橋です。現・三代目のこの橋の初代の橋は、稲荷川南東岸のラインにあったというのです。前記ラグーンを想定すると、南東岸壁の痕跡ということになります。

初代永安橋はなんと現在のJR日豊本線の稲荷川橋梁と全く同じ場所に架かっていました。(略)初代永安橋が現役であった頃には行屋堀という運河が存在し、現在の鹿児島駅の裏手一帯は島となっていました。
 初代永安橋はそんな島と稲荷川の対岸を結ぶ橋だったわけです。
 初代永安橋の痕跡は現地には一切残っていません。鉄道建設時点で既に全て損なわれていたものと思われます。〔後掲ワラビ〕

(再掲)永安橋「1830年頃の上町絵図」(鹿児島県立図書館蔵:西陲画帳より)

 上の西陲画帳図では、現・鹿児島駅の北を通る●●●●稲荷川がはっきり描かれています。永安橋地点から南へ抜ける現行の川筋は、鹿児島駅北の水域幅よりやや狭いほどの大きな海域です。

中世→近世の「上町ラグーン」縮小イメージ

 結論を先に記すと、武士層が東福寺→清水城→内城と根拠地を移していったベクトルは、僧侶層による大乗院と福昌寺の寺域拡大に敷衍したものでしょう。
 後掲三好さんの論文では、中世鹿児島の寺社──二大寺域形成前──の位置をプロットされています。この寺社群の位置が、おそらくラグーンの水際だと思います。

中世鹿児島における地形・城館・寺社・港の立地
(寺社・城館・町は内城期の状況。内城期以外のものは括弧を付けた。)[後掲三好]

 やや見えにくいので左右を拡大します。
同右(西)半分
同右(東)半分

 東福寺北西麓を直流していた稲荷川は、堆積により流れを北回りに転じた後、細くなって現在の川筋を形成するようになったと予想されます。かつての流域が陸化した場所に、その時代毎に寺社が建っていったのでしょう。
 さて本論になります。こうした変遷を経た稲荷川のどこに、中世港湾は設けられていたのでしょうか?

稲荷海口の時代

滑川河口の4m等高線は内陸に入り組んでいる。また滑川の南には近世鶴丸城の大堀が築かれる。この大堀が谷水の河 口に位置していることから,滑川と大堀の周辺は鶴丸城築城以前に周囲の海岸線より入り組んでいたと推測できる。そして,天文7(1538)年に滑川に船が入ったとの記載があるこ とから,ここが港だったとわかる。[前掲三好]

 
 以上から、三好さんは戸柱と滑川の2箇所を港と推定しています。現代に言い換えると、春日神社東側と小川町辺りでしょう。これは「上町ラグーン」の海口と湾奥に当たります。

また,稲荷川河口の祇園神社周辺は戸柱と呼ばれ,大永7(1526)年に島津忠良の船が戸柱に着いている。さらに,東福寺城山の南から東面にかけては田浦と呼ばれ,天文4(1535)年に島津勝久が田浦から船を出している。(略)4m等高線によると稲荷川は河口近くで河道が太くなっており,船着場だったと推測できる。
 以上のように中世鹿児島の主な港として滑川周辺と戸柱・田浦の2ヶ所を推定することができる。
[前掲三好]

 三好さんは、上図の旧寺社群の形成時期を、東福寺北沿いのものに係る初期島津時代と、東福寺から拠点を移した後とに大別して説明しています。これは滑川周辺と戸柱・田浦という港の位置とも対応します。

島津氏が清水城に入る前の鹿児島は,滑川周辺と稲荷川河口周辺に島津氏が関与した寺社が集まっていた。滑川周辺には,島津氏が薩摩国に入った当初の鎌倉期からの由緒を持つ浄光明寺や長田神社等が立地していた。一方で,稲荷川河口では,1350年頃から島津氏が東福寺城を拠点としており,東福寺城の北麓に寺社が集中していた。[前掲三好]

 この寺社群が、島津氏が強大になり清水城を本拠とする時代に、同城南に位置する大乗院寺域を形成していった、ということになるのではないでしょうか。
 この推移は、清水城への移転を原因とすると考えるよりも、ラグーン水域の陸化又は埋立に伴う同寺社群の統合と拡大が、自然に広い平地部として現・清水中学校付近への移転を要求したと想像した方が自然です。島津の清水城移転は、移転後の大乗院寺社群を守護する必要にいわば引きずられて行われたのではないでしょうか。

永安橋「1830年頃の上町絵図」+島津三城・二海港・二大寺追記(鹿児島県立図書館蔵:西陲画帳より)

滑川の時代

 そうなると、内城-滑川が上町の中心になった誘因は、稲荷川ラグーンへおそらく堆積により船着きが困難になったことによると思われます。
 滑川への移動は、外交僧の所属する寺院の移動を伴ったものと考えられています。

桂庵玄樹(けいあん げんじゅ,1427(応永34)年生-1508(永正5)年没。臨済宗の僧。1467年に明に渡海、1478年に大隅・日向入り、島津忠昌薩南学派を形成)〔wiki/同〕

15世紀末頃からは島津氏関連の寺院が滑川周辺に置かれるようになる。特に臨済宗の桂樹院島陰寺は,島津氏が大内氏の外交僧だった桂庵玄樹を招聘して建てた寺院である。当時の島津氏は幕府・細川氏・大内氏らの琉球通交の一端を担っており,そのために必要な外交僧を登用したことになる。島陰寺は元は田浦にあり,長亨元(1487)年頃に移動したとされている。この移動は,島津氏が滑川周辺に新たな対外交易港を設置したことを意味しているのではないだろうか。大内氏派遣の遣明船に関わっていた曹洞宗興国寺も島陰寺と同様 にこの時期に滑川周辺に移動することもその傍証になる。[前掲三好]

残る問題点

①上町期における福昌寺の機能

 ここで意識しておくべきは、寺領1350石と言われた南九州最大の寺院、前掲の福昌寺です。少なくとも南九州域の禅宗の中心であり、中世の禅宗と言えば外交僧の拠点だったわけで、上町の対外外交を取り持った半公的機関と捉えてよい。

また,薩摩・大隅・日向三ヶ国の僧録所として,南九州の禅宗寺院を管轄し,その人事を司った。その末寺は南九州のみならず,北部九州・中国・四国・北陸地方におよび,その数は2000寺とも3000寺ともいわれている。〔後掲かごしまデジタルミュージアム〕
※この文章はPDFのもの。同ミュージアムのHP上の記述からは①南九州の禅宗寺院を管轄、②人事を司ったとの2点が削られている。理由不詳。

 他領から引き抜かれてまでして滑川側に移された外交僧たちが属していたと思われる、この巨大なネットワーク組織は何なのでしょう?ただこの点は──おそらくオイソレと仮説は立てれないでしょうから、課題として付記するに止めまして……。
 三好さんの提起する、今二つほどの「謎」に触れます。

②清水城→内城移動の単独性

内城期には滑川周辺と旧清水城・旧東福寺城の山麓で寺院が増加するものの,全体の立地傾向は清水城期と大きくは変わらない。よって島津氏の城館のみが,それまで空白地だった場所に移転したことになる。[前掲三好][前掲三好]

 先に、水域の変化を基盤とする上町の港湾と市街の変遷に島津氏拠点も引きずられた、という見方を採りましたけど、三好さんの見立てでは清水城→内城の移動にそれが最も顕著と言うのです。即ち島津の城だけが移動●●●●●●●●した。

(再掲)永安橋「1830年頃の上町絵図」+島津三城・二海港・二大寺追記(鹿児島県立図書館蔵:西陲画帳より)
 内城への移転は1550(天文19)年、鶴丸城へは1602(慶長7)年。──九州征伐後も島津義久が在城したところ、平城にも関わらず秀吉の圧力が強く義弘は1595(文禄4)年に富隈城(国分の西)に移転。島津忠恒の居城となったが、忠恒は朝鮮出兵でほぼ城に留まれなかった。──つまり実用されたのは半世紀に足らないのです。
 清水城と鶴丸城の間に、なぜこれほど半端な──けれども島津の歴史としては一番濃い──内城期が挟まるのか?
 広島城の小早川隆景のように、秀吉への恭順の意思表示ではありません。むしろ当初の移転時期は4兄弟の九州制覇期です。近世的な城下町形成を企図したなら、忠恒の鶴丸城構想に類するもっと大きな本拠改造に着手すべきでしょう。かつ、実際に内城付近に市街開発が行われた形跡もない。
 先の「引きずられ」論なら、滑川域の港湾機能の高回転が吸引した、とも考え得ます。個人的にはその可能性が、最も蓋然性が高いと思います。ただそのためには、滑川域の興隆を証する史料が必要で、それは今のところほぼ存在しないのです。

③島津はいつから薩摩の交易を主導したか?

 以下は三好さんの一応の結論的記述になるのですけど──これ自体が大きな、事によると薩摩史に対する根本的な問いかけになっていると感じます。

中世島津氏は対外交易港を,曹洞宗をはじめとする禅宗寺院を介して使用し,自身は主要な港に近い空白地に本拠を構えて港の間を埋めるように都市を形成していったと考えられる。そして,この城下町は,対外交易とは別に領国内の物産が流通する都市だったと思われる。[前掲三好]

 東福寺→清水城→内城の島津氏拠点の「流転」は、中世上町で膨張した対外交易に振り回されて●●●●●●いる印象を与えます。しかもそれは清水城→内城期に最も色濃い。
 本文で触れた南方神社伝・旧射圃記を思い起こせば、上町付近の居住民には自己防衛の意識、のみならずその実力を元々有していた可能性があります。穿って言えば──島津の鹿児島入居は、この自警団による軍事プロ集団の誘致だった、少なくとも相互依存的関係にあったとも想像できます。
 ということは、この時期、島津氏は対外交易のイニシアチブを持ってなかったと思われるのです。江戸期には少なくとも西日本の裏経済を強力に牛耳った「島津商社」が、です。
 即ち、上町での島津は経済集団に雇用された寄生的弱者●●●●●であった、という可能性です。
 本稿は状況証拠的に、琉球侵略時点で島津は「商社」構想を持っていたと推測しています。

内部リンク→m17cm第十七波余波mm国分姫城withCOVID/鹿児島県/■データ:中間的総括としての薩摩マクロ経済試算/島津商社を構想したのは誰か?

 これを前提とすれば、島津商社化の端緒となる時代を、内城移転(1550年)から琉球侵略(1609年)までの60年間に絞ってよいはずです。
 島津が薩摩の対外交易に対し支配権を得る過程と、内城への移転、九州制覇とその挫折、鶴丸城又は国分新城の巨大新都構想、並びにこれらの裏側での三殿(義弘・義久・忠恒)の権力闘争といったトレンドが、何らかの有機的な連なりを持っていると想像されるのです。
 ただ、そこから振り返って一つだけ確実と思われてくる点があります。それは、近世の鶴丸城プランが、島津氏が薩摩経済に対し受け身だった上町での状況からの根本的な脱却を目的としていたであろう、という事です。鶴丸城の下町、即ちほぼ現・鹿児島市街中心部を内実ともに島津の城下として新設するために、忠恒はおそらく鹿児島史上最大の鶴丸城都市計画を実施した。
 このプランは島津商社へのベクトルの、最初の具現化だったと思われるのです。