外伝03-FASE8-2@deflag.utina
Cocooのネエネエ,デージかわいい!

[単語帳]

ネエネエ:お姉さん

デージ:とっても

 すみません。この章題は@のを少し変えちゃってます。
 さらに,この日だけもう1章追加させて頂いてます。
 んだって,ハマってしまったんだから仕方ない。Coccoにであります。
 最後の夜を壷屋辺りの路地裏に迷ってみようとしてたら,見違えるほど綺麗になった桜坂の映画館の前に出た。――天久のメインプレイスにシネコンが出来ると同時に,この映画館を始め国際通りに結構あった映画館が軒並み閉鎖された頃,ムショーにやるせなく感じただけに,これは嬉しかった。エスプレッソの出るカフェ併設のいい感じの店なんだわ!
 音楽通の人は「今頃Coccoかよ?」って言うかも知れんけど,ホント今日まで知らなんだ。デビューから10年,もう十分全国区らしいね…。
 Coccoのドキュメンタリー「大丈夫であるように」を見たのも…実はオリオンビールのCMに採用されてるCojacoと間違えただけなんです,ハイ。
 かわいいと書いたけど,第一印象は――変な顔!
 ぼこぼこのウチナーグチ。目と口が異常にデカい。
 けどこの歌い手は,美しい。生命体としてって以上に,こーゆーウチナンチュが生存してるウチナーは,やっぱり美しいって思ったわけです。
 
 Coccoファン歴6時間のわしが,ここでCoccoを論じるよな大それたことは考えてません。
 ただ,6時間のインスタントのファンだからこそ語れる,この歌い手の第一印象とウチナー全体についての今回の知見を,大胆かつ直感的につづってみたいわけさあ。
 このドキュメンタリーは,2008年1月前後の全国ツアーを追ったもの。ツアーの最中,黒砂糖しか口にしなかったCoccoは,その直後,拒食症で入院したという。
 わしには…沖縄という地域の危うさ,さらにはウチナンチュという集団の危うさが,この歌い手の立ち様とダブる。特に最近の活動は,それを一身に受難してるよに見える。

 わし自身が行政屋さんとしてミドルに属するようになったことも影響してるのか?それとも体重半減を通して食生活と食感覚に敏感になったからなのか?あるいは佐野さんの本のせいか?
 これまでと異なり,今回は沖縄とウチナー(これまでもだけど,前者は社会制度,後者は人間性や文化のパーソナリティやアイデンティティ)を手放しで絶賛する気にはなれない。それどころか,何かの変化で来年にでも瓦解してしまいかねないほどの危ういバランスの上で揺れてるのがアリアリと実感できた。
 最貧県にして失業率全国一。表経済と同程度の裏経済を模合の形で持つがゆえに,それでもナンクルナってしまうから問題解決の意欲と起業心が生まれない。そんなユイマール意識から一旦外れたら劇情が爆発するから,日本一暴力事件と粗暴犯が多い。
 製造業人口が1割程度なのに,第一次産業が砂糖のモノカルチャー構造で,基地の地代と安保に基づく国補助金,それと観光で食いつないでいるのが現実。けれどアメリカが戦略上のパートナーを中国に乗り換えるに従い基地は不要になりつつあり,観光客は打ち止め状態。
 インドネシアのバリ島のように「芸能と観光の島」を演じきるには,天久新都心に見るように,もう既にシステムがナイチ化してしまってる。
 食文化や健康,環境面での優等生たるには,ウチナーは戦後あまりにアメリカ物質主義の洗礼を直接浴び過ぎた。地産地消の歴史的システムもない。今現在まだウチナー料理が優れてるのは,伝統食のカタチの残像です。その証拠に町食堂で誰も彼もが食ってんのはAランチじゃん!
 沖縄は楽園じゃない。ウチナーはニライじゃない。それどころか,現代の悲痛な断末魔の島です。

 けれど,だからこそわしはこの島にまた来ると思う。
 ナイチャーと比較にならないほど痛切なそういう状況下で,未来をまさぐろうとしてる幾多の声がこれほど上がってるのも,またこの島しかないからです。
 初期のCoccoの歌は,尾崎豊やその後裔と目された橘いずみを彷彿とさせる。――叩き潰してしまえ!本人も二十歳前後で早く死にたかったと映画中で言ってる。
 けれど,活動中止から「ゴミゼロ作戦」で復帰した後。おそらく長男出産後のCoccoは,尾崎や橘と完全に別のベクトルを持ってる。
 そのベクトルとは。広島公演で語ってる映像があった――生きろ!
 この島の断末魔を一身に受難して,この歌い手は生きることを選んだらしい。そんで,それをウチナンチュに語りはじめてる。
 おそらく,Coccoだけじゃない。少なからぬウチナンチュも,そーゆー選択をしてる。
 沖縄じゃ馬鹿高い金払って「だいこんの花」に出向いてくるウチナンチュも,はなはだ稚拙ながら,変わる!生きる!ってベクトルを選択してる。
 どうしようもない絶望と,湧き上がる希望の同居する島。
 この島は美しい。
 美しい限り,この島はいのちの場所であることを止めない。わしは何度でもこの島に還って来るでしょう。

 Coccoの心性は,何の違いもない,ごく普通のウチナンチュです。
 映画の最後,この歌い手が「もののけ姫」を罵倒する。あそこまで人間の醜さを露呈し,自然の怒りの噴出を描いときながら,最後にはドロドロの毒から小さな花が咲いてどーする!ぶち壊す話なら最後まで徹底的にぶち壊せ!!終わった後の酒が不味くなるほど不快に絶望させろよ宮崎駿!
 …言ってしまったぞ!?わしもあのラストは,映画「日本沈没」で中途半端に沈んだ日本列島の次にムカついてた。けども世界の宮崎に,仮にも銀幕上で言っちゃった!?
 …さすがにそれでは終わらなかった。Coccoは続ける。
 「でも,何年かして生まれた子どもとこの映画を見た時,これで終わるのは子どもには強過ぎるぞ!?最後には明るい希望があって!で,ラストで花が咲いた時,拍手しちゃった。良かった~宮崎駿アリガトー!って」
 この真っ暗闇の希望のよなもの。それはウチナンチュの日常感覚に近いと思います。
 昨年発表の「ジュゴンの見える丘」。
 「アイエナーチャースガヤー,ウチナーが泣ちょんどー」と憤怒を露わにする喜納昌吉の「まーかいが」より,真っ白い絶望中に祈り続けるこの歌は,よりウチナンチュの日常感覚に近い。
 ボサノバや垣根涼介風のラテンの自暴自棄な明るさや,アフリカ音楽の無機質な開放感とも異質です。ウチナーの明るさは,茫洋たる悲しみと南海の煌めきの境界にギリギリ踏ん張ってる。
 Coccoの立ち位置の危うさは,ウチナーのその揺らぎに重なる。
 要するに,この孤高の歌い手の貌を通じ,わしは初めてステレオタイプのLove&Peaceな沖縄じゃない,剥き出しのウチナーの地肌に触れた気がしたわけ。

 も一つ感じたこと。それは,ウチナンチュとの共闘感。
 ナイチャーにとって,ウチナーは単なる他者じゃない。東京以上に沖縄は日本の最前線。
 広島公演時にCoccoが原爆ドームを見つめた元安川。その同じ場所に,帰国後すぐ立ち寄ってみたい。


▲スゴく紛らわしい交差点表示。西町の北側交差点ってことらしい。