油煳干青∈外伝12∈辣辣辣∋Dim 長沙編.Title:初日.Fase:写真集 長沙再訪∋糟酸麻蒜

▲広州南[立占]からさらに南を見る。
 掲出の工程表も見たけど,どんどん開発が進みつつあるエリアらしい。すごい勢いの建設ラッシュが,ここから仏山,順徳方面まで続いてる。──後日談:翌年には既に風景が一変してました。

▲長沙[立占]到着。いずこも同じこのだだっ広さ!
 時々思う。中国政府は将来どういう利用状況を想定してこんな展示会場みたいな大規模建築を連ねてるんだろ?ヨーロッパにはない,ある意味いかにも東アジアの漢人文化圏らしい「建築様式」です。(中国以外でも,台北駅や釜山駅,あと京都駅なんかが似た感じ?)

▲長沙目抜き通り(本編の「H」の横棒)五一路。正直,そんなに活況な通りではないけれど,交通の動脈なのは確かなので車はビュンビュン。というか極端に言えば市内で素早い自動車移動ができるルートはまだこの一本だけかも知れない。

▲歩行街。「H」の左下あたり。

▲路地裏。升目型の車道に区切られたブロック内にはこういう小路が乱雑に伸びてる,という配置は中国一般ですが,河岸段丘上に形成されたらしき長沙の街は,緩いアップダウンを伴うこの類の道が多くて,自分的には楽しめました。

[レポ]長沙作戦
(第一次)
【目的】第9戦区軍の拠点である長沙へ進攻しその戦力を撃砕。(地点の占領や物資の獲得を度外視)
■昭和16年(1941年)9月18日
・第一次長沙作戦(加号作戦)開始
・日本の支那派遣軍所属第11軍:湖南省の重慶国民政府軍に対し攻撃開始
■9月27日
・長沙占領
■10月6日
・戦闘中止
・長沙からは撤退
 ~この撤退を中国側は日本側の敗走として喧伝,戦意高揚に利用
 ~日本軍部内では不満(特に軍司令部司令官阿南中将)噴出
【被害】
(日本軍)戦死者1000人,戦傷者5000人
(中国軍)遺棄死体(確認分のみ)5万4000人,捕虜4000人超

(第二次)
【目的】太平洋戦争の開戦により始まった香港攻略作戦(第23軍) を支援
・あくまでも牽制なので長沙攻略までは不要。旧水北岸あたりまで侵攻(現時点より40キロ)
【投入戦力】第11軍の4個師団が参加。ただし前回参加数の半分程度の22個大隊。補充・療養も不十分なまま。
■12月8日
・第2次長沙作戦開始
■12月30日
・各部隊は火力を駆使,中国軍を撃破
・旧水北岸を確保
■12月31日未明
各部隊に長沙攻略発令。
・元から物資弾薬が不足しがちで,旧水北岸までを目標にして消費していたため,どの部隊も物資弾薬が不足
・これに対し,中国軍は「天炉戦法」という後退戦術を徹底(焦土化,通行路への障害物設置,誘撃及び伏撃地区の縦深配置等)し,日本軍を決戦地へ誘い込み,補給等が遅れ弱体化したところを四方より殲滅する態勢を選択。
・結果,日本軍は激しい反撃を受け,包囲されかけて危うく全滅の危機に陥る。しかし各部隊の決死の抵抗の末,包囲網を突破して命からがら撤退。第40師団師団長青木成一中将「第2次長沙は恐怖の一言に尽きる」。
【評価】長沙攻略への固執は,第11軍司令官阿南中将の私情が混ざっていたとの意見がある。前回の第1次長沙作戦で,中国側が日本軍の撃退と長沙不落を謳い,支那派遣軍司令官畑俊六大将に「反転はあまりにも早すぎた」と評されたことに,阿南中将が反発したとの見方。
【被害】
(日本軍)戦死1591名(第一次の倍),戦傷4412名(第1次の3倍)
\戦力:3個師団+1個旅団,交戦兵力:約20万人
(中国軍)遺棄死体:約3万