外伝17-065 県西のソリスト四声なき風に/泉城まで南西行

~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m本編の行程:Googleマップ(経路)~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m

黒虎泉北路から運署街へ

▲全然結構な雨です。黒虎泉北路へ入った辺り。

617,東側へ道が開けた。住所表示は運署街とある。署を運ぶ?意味が分からんけど…この道しかないらしい。右折西行。
 ──もう少しそのまま南行してれば,黒虎泉路の謂われの「黒虎泉」という,济南で一番有名な湧水に着いてたらしい。翌日あれほど井戸にこだわることになる訳ですけど,ここはあっさりスルーしてしまってます。

※[转载]潇洒济南——黑虎泉(中国語ですけどいい写真多数)

▲西へ。運署街に入った辺り。

按察司街にて笛吹きソリストに揉まれる

620,山東黄河河務局。北には山東省济南泉城中学。
 1624,T字に出る。ええと?南にバーガーキングが見えてるけど…北だな。
 右折北行。
 按察司街という官職名そのままの道でした。明代にこの地方官が置かれてたらしい。その後,日帝進出の混乱を経て焼失して,現在に到っている。→小レポ:裕魯當

▲按察司街,大明湖小学前

は和やかな風情の…と思って進んでたら,下校のガキで大にぎわいの界隈に入ってしまった。
 大明湖小学というのがあるらしい。音楽のコンクールでも近いのか,みんな歩きながら縦笛をピーピー吹いてる。
 これを北へ何とかかわ…そうと思ったけど,校門前から西へ伸びる道が魅力的に見えた。左折西行。

▲小学西すぐ,尹家巷。

県前街,県東街,県西街のH字

631,十字路。正面の細くなった道をさらに西行。住所表示は──あ?ここが県前街なの?
「県…街」は,他の町にも多い,かつての地方官庁街を意味する。
 この大明湖小学西には該当する道路名が3つ,県前・県東・県西とあり,基本は南北の県東と県西の間を東西の県前がまたいで,要は「H」字を作ってる(→GM.)。ただ,県前街が東西通りを突き抜け,東は尹家巷と名を転じ,さらに県東街の枝道がこれに接続して,えらく複雑な配置になってます。
 つまりは,それだけ長い変遷を経てきた通りなんでしょうけど。

▲同じく県前街。尹家巷とほとんど接続してます。

逃してますけど──県前街の中ほどに,Googleマップで「老巷口」と書かれてる場所がある→GM.。北へ,明らかに建物の隙間が出来てて,菜園子街手前でははっきり道となり,そのままかなり北まで伸びてます。面白そうな道行きですけれど…全く気付いてません。

▲県前街から県西街への出口辺り。

635,車道に出た。これが県西巷か。
 ここまでの所,割と普通です。──やはり济南は町並みには期待できんのか,という気持ちになってきてました。
 そろそろ南行するか。左折南行。

▲街路樹の垂れ柳

「この道の内部というか裏には何か秘密基地的なオシャレエリアがある。」と謎のメモを書いてます。
 地図で見ても,西側には裏通りっぽい建物の隙間が見えるし,東側には途中で弧を描く枝道があります。
 県前街の東西道への接続部の屈折といい…この辺りはもう少しマニアックな目で吟味してもよかったところです。

蛋蛋,素耕,世茂

▲蛋蛋の??私家衣橱???

の写真の店は難解です。
「蛋蛋」というのは,調べ直しても金●の意味しかない。「衣橱」も記憶通り「洋服タンス」しか意味がない。すると…?何を売ってる店なんだ?
 ただし,「蛋蛋」何とかという中国語のHPはかなり見つかる。後ろめたいページでもなさそうです。俗語らしいけど…どーゆー意味?

▲中国名物,前面完全防備カッパと小型エンジン付き自転車(モペット)

644,世茂国際広場が南東角にある交差点に出ました。泉城路。
 1650,北西角のQ77美食mallというところにトイレを借りに入ったついでに,飯屋を物色。「素耕」という素食自助の良さそうな店を見つける。訊くと,大歓迎ムードで「17点半開!」(17:30オープンだよ)と教えてくれた。
 バスはこの南面のバス停から3路が火車站へいくらしい。じゃあ40分待ってみるか。
 1659。その間の時間潰しに,世茂の南側に入ってみる。

▲霞むビル二つ

■メモ:裕魯當

 状況がよく理解できないけれど,裕魯當という質屋が日帝支配時代にいて,この按察街に御殿を構えて繁盛していたけれど,日中戦争中に焼けてしまったらしい。時代は1937年,济南事件の9年後。
 この前後の期間,日本がこの町を動乱の舞台にしてしまった事は様々な形で跡を留めてるようです。
※ 每日头条/這裡是濟南之老街——按察司街
「作為當時濟南最大的當鋪,裕魯當制定了較為完備的《營業規則》,當期12個月,利息2分。裕魯當的開業,無疑給當時橫行於濟南的日本當鋪以極大衝擊。然而,在那個國貧民弱的年代,等待民族工商業的大多是厄運。1937年底,當日寇的鐵蹄即將踏破這座千年古城以往的寧靜時,韓復榘為保存實力,未放一槍,便帶領部隊向南逃竄。在逃離前,其命令所部放火燒毀了裕魯當」

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