ヰ 紹興編・星期六1ヰ
長橋直路まで\紹興老城水郷に三度遊ぶ

[前日日計]
支出1500/収入1450
     /負債 50
[前日累計]
     /負債 383
§
→十一月二十四日(六)
0652同心美食
東ポー肉面,包子400
1213喜羊羊快餐
干物汁浸しのひき肉煮
のりの佃煮の三枚肉
筍と硬い葉っぱの水煮550
2048読酥世家
宮廷桃酥250
2200会ケイ山400
ウイキョウ豆150
[前日日計]
支出1500/収入1750
負債 250/
[前日累計]
     /負債 133
§
→十一月二十五日(天)
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
Googleマップ(経路)

孫文のお母さんではなかった秋瑾

634に出走してます。
 まず,東街から清道橋便利店の東側の小道を辿る。
 この店の後ろが昨日の臭豆腐店でした。よく見ると,こっちの裏通り側が正面になってる造りです。かつての表通りがこちらであることを,やはり匂わせます。

▲解放路東裏道

后街。
 通りの名前の表示も見つけた。朝歩いても,微かな厳かさが好い道です。
 道の名前は,何かの北の裏道,というニュアンスです。でも何の?なのかは判明しませんでした。
 
▲北后街を行く。振り向かれとる。

興市老幹部活動中心に出る。「何をやるところ?」と不思議に感じたメモを残してますけど──今からすると,現在各地に出来てる施設の一つでした。
 2枚後の写真の「女傑」に象徴される,ここ浙江は近代革命の中心だったわけで──

▲老幹部活動中心。だから何の活動?

0647孫文の廟」とメモしてる。
 全く分かってなくて,孫文のお母さんか誰かの像で,少年・孫文の孝行話か何かだと勝手に想像してました。
 彼女の真相は──予告編動画(youtube/映画予告編)を見てからチェックしてみてください。→巻末リンク集:秋瑾略歴

▲孫文碑のとこの「お母さんの背中」

変なもん入っとんじゃないか?

后街の北の突き当たりに出た。
 あれ?もう開いてるの?
 裏手も忙しそうな気配。表に回ってみると,既に売り場は合戦場です。ただ,なぜか地下のイートインはさほどでもない。よし,入ろう。
0652同心美食
東ポー肉面,包子400

▲県前街への出口,ということは同心美食の裏

憶以上!並んでるだけありました。
 まずは包子の…この肉汁のじっとりした染み方!
 湯包ならぬ「湯マントウ」という感じです。マントウの生地に肉汁がじんわりと染みてる。で,この汁が──これどうなってるんだろ?じ~ん!と脳髄に滲みるような肉汁です。
 変なもん入っとんじゃないか?

▲肉まん!

いで感覚だった湯(スープ)。
 この野菜スープの豊かさ,確かさは何なんだ!
 軽やかなのに妙な実体感があるというか──

▲同心美食の面

肉ポーそのものは標準の旨さです。
 だけどスープが驚嘆の味覚!椎茸,レタス,瓜,トマトなどがトロけまくってる。
 昇天の旨味です。これは…八角の微かなアクセントが効いてるのか?どうも上海料理とは,やはり少し違う素朴さがある。

▲野菜湯

県前街の半分橋

心の店は半地下になってます。
 位置は県前街と解放路のT字路南東角。西は公園だから元々は十字路でしょう。

▲朝から行列な同心美食店頭

前街はこの店の北側に走るわけだけど,この県前街から南へ眼鏡橋の片側が残されてます。
 つまり,県前街の南沿いには元々は運河があった。その名残でしょう。
 橋の壮麗な装飾からすると,この十字路の界隈は官庁街の中心のような場所だったのでしょうか。

▲同心美食北の半分橋

725,その県前街を東へ。
 突き当たり新建北路を左折北行。さらに労働路を右折東行する。

不規則さが心地好い

▲木漏れ日の朝日

働路は湾曲のある道。
 この曲がりに沿って照る,朝日が美しい。
 道の方向は東西の線から僅かに外れます。この不規則さが好い効果になってるように見えます。

▲労働路へ入る

に続く長橋直街の水路を見ると,おそらくこの水路が労働路の南にも流れていたんでしょう。今は暗渠になってるんでしょうか。
 そうだとすれば,この市内の水路,おおよそ北西~南東の傾きを帯びてるようです。府内公園の高みを避ける以外に,断層の向きがその方向なのかもしれません。
 城の菱形と同方向です。

▲ビルと石門

738,北側に賀秘監祠,学士坊,周恩来祖居と続く。南は前回の居住区。
 0743,中興中路。BRTが行く道路。

▲中興中路を今回はきちんと超えて

興中路は紹興市内の縦貫道。広い。沿線も整備されてる。
 初回もこの道を東へまたぐに躊躇した記憶がある。二回目は,BRTを確認して西へ折り返してしまった。
 今回は,ターゲット位置を確認してる。惑わず東へ渡ります。

▲川辺に入る

745,そのまま長橋直路を東行。
 南に運河を見て進む。
 公厠あり。道は普通の中国です。
 しかし0748。「韻幽巷委」とある石門。漢字の並びは逆かも?ですけど,とにかく石門をくぐる。すると突然,石畳となり,にわかに──記憶の中のソレに重なってきました。

▲石畳の始まる石門

■リンク集:31歳で処刑された革命専門学校長

 秋瑾さんの女傑ぶりは,日本では,竹田泰淳著「秋風秋雨人を愁殺す」の後,山崎厚子著の秋瑾伝「秋瑾 火焔の女」で紹介されてる。香港で映画化(競雄女侠 The Woman Knight of Mirror Lake)もされた人です。
 清打倒の革命家になったのは日本留学時。実際は決してスーパーヒロインだったわけじゃなく,清朝末期の激動に呑まれて四苦八苦した末の犠牲者,という印象の略歴ですけれど,それでも破天荒なパーソナリティは伺えます。

※ wiki/秋瑾
「秋瑾(しゅうきん、1875年11月8日-1907年7月15日)は、清朝末期の女性革命家。詩人。原名、閨瑾(けいきん)。日本留学時(1904年)に「閨」を削って「瑾」とした。幼名は玉姑。字(あざな)は璿卿(せんけい)、号は旦吾。紹興の人物。秋瑾とは、「秋の美しい玉」の意味である。」
※ 漢詩と中国文化/秋瑾伝を読む:山崎厚子著「秋瑾 火焔の女」
※ 同/對酒:秋瑾を読む
「不惜千金買寶刀  千金を惜しまず寶刀を買ひ
 貂裘換酒也堪豪  貂裘 酒に換ふれば 也(また)豪たるに堪へん
 一腔熱血勤珍重  一腔の熱血 勤めて珍重せば
 灑去猶能化碧濤  灑ぎ去りて猶ほ能く碧濤に化すが如し」
(和訳)
千金を惜しまずに宝刀を買い,貂裘を酒に換えれば豪傑の名に値しよう。満腔の熱血を大事にしておけば,いつかはそれを灌ぎだして碧血の波頭と化すこともあろう。
※ 百度百科/秋瑾烈士纪念碑
「秋瑾(1875-1907),近代民主革命志士,原名秋闺瑾,字璇卿,号旦吾,乳名玉姑,东渡后改名瑾,字(或作别号)竞雄,自称“鉴湖女侠”,笔名秋千、汉侠女儿,曾用笔名白萍,祖籍浙江山阴(今绍兴),生于福建厦门。秋瑾蔑视封建礼法,提倡男女平等」
※ 我的捜狐/大通学堂:秋瑾操练革命军的地下据点(中国語) ~秋瑾が校長を務め,武装蜂起した紹興市内の学校跡。場所→勝利西路563:GM.
「秋瑾是那个时代千千万万普通女子中的一个,又绝不属于那千千万万之中,为了千千万万的普通人,她把生命献给了心中的自由!」

■小レポ:紹興城の菱形

「呉越同舟」の越国の府というから積まれた歴史は途方もないんであるけれど,中世の町割の記録や痕跡は少ない。下記サイトに城壁図もあるけれど,ポイントがはっきりしない。だから専ら地理的に考えておくと──
・水路が町割の基本線である。農業用水路の網がまずあったと考えるべき。
・紹興城は,その結節点で,かつ現府内公園を中心とする場所を選んである。つまり元々は湖沼中の島のような場所で,軍事的にはこの湖沼地域そのものが掘になっていたろう。
・そのため,都市計画もこの水路に沿って線引きされた。城壁のラインも,方型の区画に似せてあるけれど,北西と南東に長い菱状である。
・分からないのは,城壁の撤去は日中戦争時に中国側によって行われていること。壁がない方が防御に有利,となぜ考えたのか,その点は不可解です。
※ 世界の城壁・市壁/紹興城壁

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