油煳干青∈3重慶:解放西路3∋糟酸麻蒜

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

北の路地を諦め解放西路を進む

隆街バス停の少し下に地下道を見つけたけれど,よく見つかったもんです。なぜか人の流れもほとんどない。そんなにうらぶれた地区なのか。
 やっと南の河面を見る。
 大工事をしてる区画でした。目標にした「風凰佳居酒店」も営業してるかどうか怪しい雰囲気。酒店の北は既に掘り返しててとても入れない。すぐ南を過ぎるしかなかった。

▲1136解放西路

の塀の隙間からそっと覗くと──爆弾でも落ちたんじゃないかと思わせる,物凄い破壊の仕方です。
 ここ,香港城みたいなとこでもあったんでしょか?
 それはもう世の知ることのない事実でしょう。来るのが遅すぎたんである。
 1133,解放西路小学。
 道はそのまま解放西路と書かれてます。

重慶肥腸面に悶絶するも箸は止まらず

▲小店の小面

135洪記特色面
精品肥腸面300
 小学前の小さな店。客は常連っぽい人が多い。そのさりげない地元密着ぶりに惹かれて腰を据えました。
 碗はすぐに出た。
 この辛さの重み!これは発酵から来てるんだろうか?ずっしりとした辛さがホルモンの重厚な出汁に物凄くマッチしてる。

▲どアップ

鹿児島の「こむらさき」みたいなヘロヘロの細麺です。これがこのベビーメタルな汁に最高に絡む。
 辛味としては麻はやや控え目。ひたすらに辣が泣きたくなるほどストロング。なのにこの重振動が箸を止めさせてくれない。
 シェンツァイも物凄い量が入ってるのに,後から気付いたほどです。もはやBGM。
 肥腸面と言いつつ貴陽のとは全く違う。貴陽のが立体的な造形美とすれば,重慶のこれは二次元の墨絵のよう。
 いや,凄い麺を作るもんです。

本土決戦の根城にうかうかと

▲1158解放西路小学の露天市場っぽい光景

色い梅のような可憐な樹枝を売ってます。
 段々に街が華やぎを増してきた。北の掘り返しエリアも途切れたらしい。それでもやはり北には入る道がない。
 1207,巴渝文化博物館。──百度地図には「蒋介石重慶行营旧址」とあります。蒋介石が重慶にいた時代というと──つまり,ここが対日帝の本土決戦の根拠地?
 もちろん全く調べてはいませんでした。ただ,中洲南の窪地状の地勢になってるここなら,確かに空爆が一番難しい場所だったでしょう。

▲1211青地に白字は「复旦」の文字らしい。

旦中学。マークの中に1935年何とかと付記がある。
──なるほど。この町は単純にストーリー化するなら対日抵抗の拠点,偉大な勝利を象徴する場所です。でもそう単純化すると,共産党が脇役だった時代の情勢が露骨になる。だから讃え方が難しいわけです。(巻末小レポ:复旦大学小史)

重慶河岸の白い象さん

▲1216重慶白象街の白象像…って書きにくい!

へ渡って少し進むと,唐突に洋館の並ぶ界隈に出た。
 歴史文化風貌区重慶白象街とある。何じゃそりゃ?
──ガイドブックをよく読んでる方には明確な通り,開港後に諸外国の商社が並んだ「重慶金融街」跡でした。
 ちなみに「白象」というのは,ここらに白い巨石があって「象さんか?」と見間違えた人がいたからという。何じゃそりゃ?

▲1220白象街のちょっといい感じの洋館街

行。
 白象を過ぎるといきなり道がうらぶれてきた。おおっ,やっとのことでいい感じ!

▲1224こんな感じでいい感じ!

不可思議にモザイク状の賑わい

だこれは…。
 もう少しで廃屋になるような家屋もあるぞ?
 開港当時の賑わいが去り,本土決戦の都になれば,ここの洋館群は一種の恥部扱いされてきたのでしょう。一部が観光用に整備されたのはごく最近のようです。

▲1226白象街東のやや廃屋感のある店頭群

▲1226覗きこんだ路地裏。建物もだけど地面の不可解な段は往時の名残でしょう。

慶のこの複雑なモザイク状は,実に面白い。
 再び街並みが活況を呈してきた。バス停は储奇門。何て漢字だ?
 バス停脇には結構な賑わいの食堂街がある。しかもこれは騎楼です。

▲1228バス停储奇門の裏辺り

確認すると,十七門の中に「储奇門」という門が確かにある。
(再掲)重慶十七門
 分からないのは,図の門の並びでは人和門より西にある門のはずが,実際には東に現れたことです。
 白象街の辺りが人和門のはずなんだけど…あるいは,門前道の方向が並列でなかったんでしょうか?
 なぜかGoogleマップ等では储奇門はヒットしない。なのでこの点は分からず仕舞いです。

▲1234「储奇門」界隈の賑わい

■予習:重庆风味小吃

※百度百科「重庆风味小吃」(1分間動画あり)
「《重庆风味小吃》是2006年金盾出版社出版的图书,作者是沈智敏。该书主要详细讲授了五大类150余种重庆名小吃的用料配比、操作步骤及诀窍,并对每种小吃的来历、风味和特点都做了赏析和介绍。
韭香面/双色麻花面/长寿鱼面/鲫鱼青菠面/荣昌兰氏铺盖面/涪陵挞挞面/万州海螺面/麻辣小面/渝中素条面/万州素条面/汪氏宜宾燃面/豆花面/素三鲜面/丘三冬菇鸡汁面/九园过桥稀卤面/重庆鳝鱼面/胖娃牛肉面/铜梁红烧牛肉面/彭水棋子面/滨楼三鲜酸菜面块/长寿蹄花米粉/扶欢巷内米粉/彭水猪肺米粉/炖鸡银丝粉/炮菜沙锅米线/黔江绿豆粉/民生酸辣粉/盐菜尖荞面条/纯真荞面豆花/吴抄手红油抄手/鬼城抄手/牛肉包面/荠菜水饺/民生豆腐脑系列/川味酥油茶/玉米油茶」

■小レポ:重慶复旦中学小史

 1935年創立。重慶に民国の首都が移された1938年の直前です。
 ほぼ同時期の1937年に上海から「疎開」してきた复旦大学が,同年に附属中学にしてる。つまり复旦大学とは別途に同趣旨で創設され,対日帝対抗体制の整備の中で「复旦繋がり」でグループ化されてる。
 1954年に「重庆第十二中学校」に改名,一旦「复旦」名が消えてる。共産党指導下と思われるから,「复旦」名は国民党臭のする語なのでしょう。
 ところが40年以上を経た1995年,現在の「重庆复旦中学」の名前に再度改名。件の二文字を奪還してる。よほど誇り高い二文字だというのは察するに余りあります。

「复旦」の語義

 この経緯から「复旦」(ピンイン:fu4dan4)の二文字が,当時何を象徴していたのか気になってきた。
「恢复震旦」から採られているという。「震旦」を回復する。
「震旦」の「旦」字は「夜明け」の語義の漢字。
 日本では地震を連想させる「震」字は,何と易経の専門用語という。八卦の一つで,雷の意。象徴するイメージは,陽気がようやく動き出そうとする象を示しているそうです。季節では春。
 だから「震旦」の二字で通常は「夜明け」を意味する。
 ただ,「复」も易経上の意味を持つ。「震」雷の八卦は「三」の一番下だけ繋がってる形で,六十四卦としては上卦・下卦ともそれが重なってるものだけど,同じく六十四卦の「复」は上卦のみ一番下も途切れてる(最下部:六十四卦参照)。
 ぐだぐだ書いたけど,要するに「同じ震卦だけどちょっと違う」ということです。

「复旦」の象徴するもの

 复旦大学の前身・复旦公学が創設されたのは1905年。
 百度百科はあえて伏せているけれど,これに先立つ1903年に震旦大学が創設されてる。
 日本語wikiによると,これが何とイエズス会の学校だったという。たった2年で分離独立した大学が复旦大学。つまり「回復震旦」,我々が本来作ろうとした「夜明け」のための大学を回復する,という意気込み。ただ,中国人にとっては易経上の「ほんの僅かに違う道」という意味合いの漢字用字ではなかったでしょうか。
 結果的に,創設のためにイエズス会を利用した形になった経緯への悔恨も窺えます。
 なぜ分裂したのか,詳しく書かれたものがない。おそらく,現代中国を支える最高学府の一つの由緒に傷を嫌うのでしょう。でも,その後の両校の経緯を辿れば明らかです。
 复旦大学は1911年の辛亥革命に学校ぐるみで参加,学生もほとんどが参戦し,学生校舎には司令部が置かれた。つまり中華民国にとっては,松下村塾が存続しているような学校なんだと思います。
 対する母体たる震旦大学は,分離直後の1906年に革命活動を禁止。つまり辛亥革命から距離を置く。もちろん重慶への疎開もなし。そうした政治色の除去の結果,と言ってほぼ間違いないでしょう,
1952年に上海第二医学院に統合されて「震旦」名は消える。2005年には上海交通大学に再吸収。同大学の医学部がおおよその後継と言えるらしい。
「复旦」「震旦」両校とも,随分と豪快な校史を持ってるなあ…というのが本音の感想です。ただ暗部だからって,校名を消すのはどうかという気がするけれど。
公式HP
※ 百度百科/重庆复旦中学
「重庆复旦中学创办于1935年,1937年更名为复旦大学附属中学;1954年更名为重庆第十二中学校;1995年恢复“重庆复旦中学”校名;2004年,原重庆复旦中学与重庆市第五十三中学合并,成立今之重庆复旦中学。」
※ 同/复旦大学
「1905年,于右任、邵力子等原震旦公学学生脱离震旦,拥戴马相伯在吴淞创办复旦公学。6月29日,原震旦学院教师于《时报》登载《前震旦学院全体干事中国教员全体学生公白》,是为“复旦”校名之始。」
「1911年,辛亥革命爆发,复旦学生多数参加革命军;加上经费停发,校舍又为光复军司令部占用,学校一度停办。」
※ wiki/震旦大学
「1903年2月27日、中国人教育家の馬相伯とフランスのイエズス会によって震旦学院として設立された。」
「「夜明け」または「朝日」の意味の「震旦」に馬相伯の思いがこめられていた。」
「キリスト教系の学校であったが、馬相伯は宗教教理の議論や宗教教育に反対した。」
「1904年9月にイエズス会の神父、フランソワ・ペラン(François Perrin、中国名:南從周)が副校長、教務長となり、馬相伯とイエズス会は教育の方法で対立することになった。1905年8月に馬相伯と一部学生は震旦学院を去り、復旦大学を設立した。
その後、震旦学院はイエズス会の管理下で発展、改組され、1906年には172人の学生を有し、革命の活動は禁じられた。」
「1952年に共産党政権下で聖ヨハネ大学などと統合されて上海第二医学院となり、2005年に上海交通大学と統合され上海交通大学医学部となった。」
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