油煳干青∈3重慶:元通寺の階段4∋糟酸麻蒜

※ ここの行程は,Googleマップではまるで取れませんでした。行程からして当然とも言えますけど。

鼓楼?中心の分からない街

▲1237人和街

うけどそのまま進む。1237,北東行。
 鼓楼人和街小学という学校。
「人和門」の場所はともかく,道としての「人和街」はここ,储奇門の東らしい。
 それと──鼓楼?通常,街の中心の時計台を意味するこの名称がここにもある。百度地図で検索すると確かに,通遠門辺りとこの人和街の二ヶ所ある。とすると重慶の鼓楼は元々どこにあったんだろう?
 つまり,城壁ラインは分かるのに古い街の中心点が分からない。こんな中国の街は初めてです。

▲1245中国民主建国会成立記念碑旧址博物館

東へ抜けれそうな気配になったので道を渡る。
 洋館が現れた。中国民主建国会成立記念碑とその旧址博物館。「沦白堂事件」のプレート。愛国主義教育基地という怖い金プレートも。
 事件自体は,共産党を含む「重慶民主勢力」が会議してたら国民党側の特務警察が乱入してきた,というもの。ただそうなると,その頃,1946年にはあった建物,ということになる。
※ 百度百科/沦白堂事件

唐突に現れた騎楼の街は…ここも白象街?

▲1247騎楼のある小道「白象街」

っと南東に入れた。
 騎楼のある小道。住所表示は…白象街?まだこの地名が続いてるの?
 それはともかく,なかなかの風情です。南岸に出てから初めて好い街並みになってきた。

▲1251白象街の騎楼,概観。

▲1252せっかくの騎楼をごちゃごちゃに埋めてる店。

んか…後から見たら南側のこの建物だけなんじゃないか?とも思えてくるけど,まあ確かにいい雰囲気の通りになってました。

▲1253騎楼を歩く…ってもうすっかり騎楼マニアです。

吸い込まれるように158段

楼の途絶えた辺りから,さらに南東へ右折。1254。
「あ!湖広会館520mのプレートがある!」
とメモってる。──まっすぐ行けばそんなに近くだったんだろうか?と地図を見ると…確かにそんな近さ!
 だから,以下のコースは単に湖広会館を目指すなら明らかに遠回り。何でそんなコースを選んだのか?

▲1255,魔の坂への入り口

通寺」とある凄い坂道が南へ現れたからです。
 繰り返すまでもないけれど,坂道マニアである。
 下からお姉ちゃんが「阿~!累死了!」(疲れて死にそう!)と呻きながら上がってくる。

▲1256,魔の坂への降下開始

いこまれるように下り初めてしまった。
 凄いぞ!
 傾斜も人の世の坂とは思えないけれど,左右の家屋の古さも半端じゃない。そりゃそうだ,ここ,ここ再開発のしようもないだろう。ざまあみやがれである。
 何だか興奮してきたけど,同じくここで写真撮りまくった方のプログを悔しいけど以下に挙げておきます。
※ 每日头条/走完重庆“元通寺”,我用了158步!

▲1259思わず怯む急坂。怯んでても,ここを上がってくお爺ちゃんは尊敬するぞ。

っくりと噛み締めつつ降りた先は,東水門長江大橋の南西側でした。
 川辺らしいのびやかな場所です。
 とりあえずトイレへ行って1302。

南岸に残る幻の門

▲長屋ではなくトイレ。重慶方式か?でも「无人」(無人)とあるドアも閉まってますけど?

にかく,今度こそ川岸です。
 南から東へ回りこんでる河の水塊。その対岸にもビル群が並び立つ。そちらとこちら中洲側の間には,観光用らしきケーブルカーが行き来してます。

▲1306。こちらの岸にはこんな場末感満点のアパート。

いで降りちまってから実感する。
 町の中心部は,結構な高台にあるらしい。
 で?それにどこから登り直せばいいんだろう?

▲1307。観光用なのか真っ赤な車両が並ぶ向こうに東水門長江大橋

▲1309「残疾人社区服務站」。障害者の意味か,それとも戦闘での傷病者か。

▲昼間見る金西梅も美しい。

望竜門というバス停を過ぎる(→巻末小レポ:望むべき龍門は何処?)。
 城壁址が工事現場の中に見えた。1310。あわよくばこんな城壁の残址が幾つか見つからないかな…と期待してたんだけど,流石は現代中国,水も漏らさず撤去してます。ここと,下洪学巷の奥の二ヶ所の他にはらしきものは見当たりません。
 観光用っぽいけど西への石段を登る。八省会という楼台に出ました。

▲1310南の城壁址らしきもの

■小レポ:望むべき龍門は何処?

 重慶十七門にない「望龍門」とは何か?という疑問は,何人もが抱いたものらしいく,二説が語られる。
 一つは,龍が住んでて対岸の大岩の間を抜けて家路につく…ように見えたから「龍門」と呼ばれる地形があり,そこを「望」む地点が「望龍門」と名付けられた。
 ──苦しいなあ。
 もう一つは,南対岸に山並みが異様に途切れた入江があり,これが観月の光景として有名になって「龍門浩」(浩:広々とした水域の意)と呼ばれ,そこを望む中洲側が「望龍門」と名付けられた。
 ──それ説明になってるか?
 ピンと来ない理由を図式化すれば,次の両者が並び立たないからです。
①まず「龍門」がなければならない。
②でもいずれにせよ「門」はない。
 それともう一つ,南対岸にある「龍門浩」という古い埠頭。この③「龍門浩」と「望龍門」の関係も語らないといけない,という難題。
 ちなみに「龍門浩」の地点には,少し前まで「老重慶」と讃えられる街並みが辛うじて残ってたらしい。
▲ABROADの掲げる最末期の龍門浩老街

1「龍門」の場所

 ③からシンプルに考えると,「龍門浩」,つまり龍門の波止場も,「望龍門」,龍門を望む場所も「龍門」の存在を前提にしていなければならない。
 そうすると,「龍門」の場所は,二つの地点を結ぶ直線上のどこかだと推定するのが自然です。
 そして,重慶に「龍門」を含む地名は,この長江近辺にしかない。
 両地点の延長線上にあるなら第三の「龍門」があってもいい。だから最も自然なのは,両地点の間,つまり河の中です。

2 龍門はいつ在ったのか?

 重慶中洲の東南,長江の東岸のラインは,のたうつような水流です。
 龍門浩の説明に,每日頭條は山並みが「中間不知何故又被攔腰截斷」(中間で何故か裁断されている)地点と書いています。
「龍門浩」の南北には山並みが直線で伸びているのに,ここだけが途切れてる。この二本の山容はかつては繋がっていたとしか思えない。それが長江の蛇行の過程で崩されたのでしょう。
 それは,人類史上最も古いかもしれない巴国にあって,有史以前の出来事だったのでしょうか?
 ここに一筋の山容があったとすれば,中洲側との間はまさに「門」のような様だったでしょう。そこを削りとりながら流れる原始長江は「龍」にも見えたでしょう。
 さらに,「龍」が「門」を破って二つに裂く情景を目の当たりした古代人がいたなら,それは「龍門」として伝えられても可笑しくない強烈な記憶を残したはずです。
 太古にあったパワースポット「龍門」を挟んで地名が残り,それが何だか分からない様に長江が落ち着いても残り続けてる。そういう夢想をしてみるのですが,地質学的な根拠はもちろんありません。
 あえて言えば…重慶市中心から東へ2百km,カルスト地形で有名な武隆県の天生橋には,天然の三重橋があります。それらは天竜橋,青竜橋,黒竜橋と呼ばれている。
※ 四川の大地形について→別章巻末小レポ:異様な四川盆地の地形とその生成
※ 每日頭條/重慶望龍門:到底是「望龍門」還是望「龍門」
「對面長江邊上兩塊大石倒映在水中,很像一座「龍門」。那龍望見了龍門就好像望見了自己的家。於是,人們就把長江北面的地方叫做「望龍門」,而把對面叫做「龍門浩」。
所以說,望龍門是望「龍門」而不是「望龍門」」
「龍門浩在南岸長江里,一條數公里長的磧石從瓦廠灣延伸到野貓溪,中間不知何故又被攔腰截斷,形成一個浩口。」
※ ABROAD/海外旅行中国編2018/おすすめ! 老重慶を求めて、今しか見られない「下浩老街」を歩こう!
※ コラム•世界遺産めぐり/
重慶市・武隆県 億万年の地質変動に触れる

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