油煳干青∈3重慶:下洪学巷5∋糟酸麻蒜

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

※ 洪学街~湖広会館のルートはどうしてもGM.で行程が取れないから略してます。

洪学巷:抜ける道なき黉学街

▲1317入口の階段

れはまた,観光用っぽい表示だなあ。
 望龍門から大橋の下をくぐるルートを行くと,ふいに「下洪学巷」というプレートが現れました。観光用にしては,けれど手の入った気配がなくさりげなさを感じる。
 道は西側への傾斜。登ってみよう。

▲1321黄色い門の家屋

初に現れたのは,黄色い門のある掘り返された家屋でした。
 霧が出てきてる。
「書日・明清客線」という旧址の表示が出てる。
 今写真を見ると掲げた表札は「広東公所」と読める。

▲1322苔むしてはいるけれど人の気配はある登り階段

こが何なのかは今もよく分かりません。
 日本語の記事はほぼない。中国語のは,写真がかなり載ってるものがある。でも情報は点的なものが多く,要するに何なのか分からない。
※ 捜狐/重庆老龙门阵丨洪学巷旁说古迹
「为何有洪学巷?是因为有黉学街。黉学街是旧时巴县县学即巴县文庙前的一条街。」
「黉者,古之学校也。因为是县学门口的街,故名黉学街,亦名县庙街。」
「为何今天叫洪学巷?据说,因“黉”字的繁体字“黌”笔画多,书写困难,黉、洪同音,又改黉为洪,名洪学巷。」

▲1323最高部辺りから市街を見る。

まり①巴県の学校と文廟(孔子廟)があり,②「黉学街」ないし「县庙街」と呼ばれた。③「黉」字が「洪」に改められたのは音の相似からだろう。
 他にもここに住んだ人の来歴などの記載はあるけれど,その程度です。
 なのにこの佇まいの重さは何なんだ?

▲1327山側の工事現場に,もしかすると?という城壁跡

側高所へ抜けれないか?と一番奥まで進んだんだけど…1323,迷路のような分かりやすい行き止まり。
 抜け道も丹念にふさいであるから,これは突破すると誰か,あるいは何処かの役所が本格的に怒りそうです。もう20mで上に出れるんだけどなあ?
 途中から見える工事現場には明らかな城壁址…と見えるめのが見えてます。あーあ,壊しちゃったのね。

望龍門-龍門浩ライン:重慶老街は夢の跡

▲1329くすんだ煉瓦越しに対岸のビルディング

の時は気付かなかった。でも,単純なことだと思う。
 白象街からこの洪学巷までのエリアが何だったのか。
 東対岸の龍門浩を念頭に置けば分かる。あるいは武漢の三つの街を連想すれば──
 長江を挟んだ東西の街が,重慶老街だったのだと思います。その中心は,まさに前章巻末で想定した長江の中の龍門。
 河をパティオのように取り巻く街。この形態は水上民の居住域にはむしろ必然のもの。
 この時に気付いていれば対岸に足を伸ばしてたのに…。

▲1331木陰を横切る工事現場の腕章を巻いた後ろ姿

335,湖広会館。結局入らず通りすぎた。一人30元の入場料にげんなりしたのもあるけれど,洪学街以上の光景があるとは思えなかった。
 橋桁くぐる。
 橋真下に「全国重点文物保护単位 重慶古城址 東水門段城門及城址」との重慶市人民政府立のプレート。でもこれは,ほぼ地点を残しただけで,それらしき遺構は見当たらない。

▲1343朝東路の交差点付近

れまたいきなり広々とした場所です。
 交差点になってる。西,河と反対側には巨大トンネル。──今,この高低の構造だともしかして?と地図を確認すると,中心街の台地の下を潜って北の河岸に突き抜けるトンネルでした。つまり重慶の中洲台地そのものを立体交差にしてる。
 歩きではもう少し北へ進むしか道がなさそう。
 中国渝菜博物館(→巻末小レポ:渝菜)の建物が現れた。東水門老街という観光ストリート。ハート型の重慶火鍋のルーを購入してみた。

朝東路:エトロフ特区から急坂を登る

▲1359朝東路のエトロフ特区

のまま北へ。1401。
 問屋街みたいなごちゃごちゃな雰囲気になってきた。さらに…?前方にダムみたいな巨大建築が出現,どんどん近づいてくる。これ,どういう光景だ?
 エトロフ特区を歩いてるような気分になってきた…。

▲イノセント──エトロフ経済特区シーン
※ youtube

の「ダム」は,てっきりそういうインフラめいた構造物と思ってたけど「重庆市规划展览馆」という施設らしい。重慶の発展状況を展示したかなり力の入った建物だけど…どうも人気は今一つっぽくて,だからエトロフ特区の彩光を放ってたみたい。
「ダム下に重慶港售票大庁という小屋みたいな建物」とメモってるけれど,この展覧館の入場料窓口だったみたい。
※ 在重慶日本国総領事館/重慶市規画展覧館

▲1406西への急坂

ム」手前で,これも前触れもなく,登り坂が現れた。
 惚れ惚れする傾斜,荒い造りの階段です。
 位置的には,中心街の台地の北端にかけ上ることになる。好いではないか!北の果てにあるであろう朝天門はどうせ「ダム」の向こうだし──と左折北行して登る。
 坂道に名はなくて,おそら朝東路28か34だと思う。

みに,この時「どうせ…」と決めつけた「朝天門」は,よく考えたら当たり前だけど──現存します。
 中洲の先端,しかも最北。象徴的意味を帯びないはずはない。
「朝天」は皇帝権力の意。朝廷からの書状をここで受けた,というのはやや眉唾な気もするけれど,防衛拠点としても要地だったでしょう。
 もろ観光地らしいけど…見逃しです。
※ 4travel/重慶の朝天門

陝西路:重慶闇市からモール街へ

▲1410重慶の闇市(違うけど)・陝西路


上のやみ市みたいな市場」とメモってる。1410,坂を登り切った先の道。
 多分,陝西路でしょう。重慶にこんなとこあるの?という意外な猥雑な雰囲気です。単に商店街として未発展,ということじゃなくて,新興の街に数年前から市が立ってます,という感じ。韓国の水原の屋台街を思い出しました。
 その空気が,中心街のそれとあまりに隔たってる。
 左折南行。1413。

▲1411商店店頭。この感じなんか,ソウルの南大門市場,とキャプション降っても通りそうなドヤドヤ度です。

然に──とこの文章で何度書いたんだろう?この闇市(だから違うけど)の右手西側に,やはり前兆もなく大融汇朝天門というモールが出現。
 そろそろ西へ抜けたい。やむなく右折西行,というかエスカレーターに乗ってモールを抜けていくことに。
 これもまた…どこまで登るんだ?エトロフ特区(それも違うけど)からどれだけ登ってきたんだろう?

▲1420大融汇朝天門モール

華路に出た。もうワンブロック先が小什字。
 1426,T字路。北に千厮門行街という道が現れました。これまた凄い急勾配の下り坂(→巻末メモ:千厮門)。
 何で覚えてるのか不思議だけど,ここで曲がらず南へ道を下れば小什字だった。ということは──もう一度登るのか?と股の筋肉の悲鳴が聴こえるけど,ここは北へ下る手でしょう!

▲1424新華路。ようやく前回から知ってる重慶に戻ったのに…。

■小レポ:渝菜──アジアの中心に生まれた料理

 本文中で見かけたように「渝菜」というジャンル名があるようです。
 成都もそうだけど明末に一度絶滅したこの地の食文化というのは,それ以前と接続してないと見た方がいい。百度でも「关于“渝菜”的前身,可以追溯到远古时期,不过特别是20世纪30年代抗战时期,重庆作为中国战时首都,国家的中心、亚洲的中心,大批官商涌入重庆。与此同期而至的则是一批技艺超群的大厨,这些大厨除带来了自己的拿手菜外,更是对本地的民俗菜肴进行了大胆的改革,使之登上大雅之堂。」※と微妙な言い方をしてる。
 関羽も食べてた,みたいなイメージを虚構を承知で作ってるようです。
「主次有序为特色,又以麻、辣、鲜、嫩、烫为重点,变化运用,终成百菜百味的风格,广受大众喜爱。」※百度百科/渝菜
 それと「点型的重庆特色菜,很多朋友都说只有在万州吃的才最正宗」と万州の名前が「最正宗」(最も正統的)として出てくる。
 ひょっとしたら,同じ四川でも万州(重慶から北東へ約3百km)のような成都・重慶から離れたエリアでは,壊滅的な措置は採られず,食文化が伝わるだけの規模の生存者が残ったんでしょうか?
 気になって百度で万州を当たる。「民国时期与成都、重庆并称为“成渝万”。」──民国の頃には「成渝万」と称された??全く知らないけど「第三極」のような場所なのか?
 ただ,それ以外には「万州烤魚」という料理くらいしかヒットがない。紀行らしきものもなく,観光地としては限りなくマイナー。三峡の立ち退き者の最大の受け入れエリアともあり,行くのは勇気が要りそう。
 翻って「渝菜」です。「成渝」と言うからには,「渝」は四川全体でなく重慶エリアだけの呼称らしい。成都エリアと並立するものと捉えられてたわけです。
 ただし地名専用漢字かというと,中身が抜けている,変わるという意味もある。「始终不渝」(終始変わらない)という成語もあるらしい。
▲1411陝西路。あんまり趣味の良い写真じゃないけど…赤パン人気は中国ならでは!しかもこんなにギラギラと売ってます。

■メモ:千厮门──綿の花舞うこと白雪の如し

 重慶十七門中の一門。開いていた門の一つです。
 今の読解力で分かったのは──「厮」が召し使いの意味で,詩経の「乃求千斯仓,乃求万斯箱」なる語句に由来する地名だから,千人万人の労働者が行き交った倉庫の街だった?という程度。
 つまりここは,重慶城のメインの物資搬入路だったみたい。
 それと,この坂のまさに真下を,朝東路南からの例の巨大トンネルが走ってます。だからこのラインは,重慶中洲台地の背骨のような重要なものに見えるんですけど──それ以上はちょっと。
※ 百度百科/千厮门
「民谣有云:“千厮门,花包子,白雪如银。”嘉陵江流域的粮棉都在此门卸货入仓,所以说棉花打包的“花包子”,雪白如云,也是千厮门得名的由来。千厮门名称的使用,至少在宋朝就已经出现,在蒙古入侵宋朝的史料中有明确记载。千厮门名取自《诗经·小雅·甫田》:“乃求千斯仓,乃求万斯箱,黍稷稻梁,农夫之庆。报以介福,万寿无疆。”盖以当年城门内有贮存粮棉的千仓万仓而得名,是祈祷风调雨顺,丰收满仓之意,预祝农事丰收。」