油煳干青∈3重慶:江北城7∋糟酸麻蒜

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路:前半・江北城)
GM.(経路:後半・新華路)

江北城へ。うわ~い💕

下鉄にて動くことにした。1528。
 重慶城図を再掲する。嘉陵江と長江の中洲たる中心部を巡る環状の城域とは別に,嘉陵江北対岸にも小さな陣地がある。小さなと言っても日本なら単独で城と呼ぶ大きさです。
 昨夜迷いに迷って通った地下鉄路線のこのエリアの駅名に,こんな名前があれば気になるのはご理解頂けよう。
 1551,「江北城」駅の地上へ上がる。

りにしたのはこの駅名だけ。
「沖縄X」手法で衛星画像を見ると,ドットも大きいしブロックの輪郭も明瞭過ぎる。普通なら足を運ばない場所ですけど,それでも一度は歩いてみよう。
 とやって来たのですが──うわ~い,華やかな街だなあ。

▲1600江北城の地上に出る。

縄Xの感触そのもの。
 ビル街以外の何でもない。
「城」というのは一意に現代中国語のそれらしい。
 しかもそれが工事中。大陸西遊記の記す2014年にはまだ城壁跡があったとあるから,この間5年にこうなっちゃったみたい。

▲1602大晦日のとても賑やかな江北城

めきれず,というか諦めてはいるけどある意味で貴重な機会なんで(つまり前述通り普通は来ないので),江北城西大街を東行。
 南大街に入り南東行。

▲1612車両の行き交う道路上に橋の実況映像が流れてる。

道にもほぼ走る車はない。そりゃそうだ,営業してる店も事務所もないんだから。
 上の写真の電光表示は,通行車に中洲への橋の混雑状況を知らせる目的らしい。でも当面今は…誰が何の情報を求めてんのか分からん。
 ただ,橋の映像では,歩道にのみ驚くほど人影がある。結構皆さん橋を歩いて渡ってるらしい。

▲1617橋近く,地下鉄入口

下流から来た軍兵の目には…

616,重慶科学館を過ぎて,ようやく諦める。帰ろう。
 橋の北口に当たる地下鉄駅・大剧院に降りる直前,こうなりゃそこらの荒れ地でタバコ吸って帰っちゃる!と橋を見下ろす工事現場に侵入。どうせ誰もいないから中国とは言え怖さはない。
 すると──

▲1624土塁の痕跡と大橋,中心市街地

っきりとした城壁址が僅かに遺されてました。
 間違いない。崖の歪みのような土塁が,岸に沿って西へ延びてる。
 橋の向こう,対岸によく目を凝らせば,同じ壁が残ってる。そこは古い家屋が埋めてるように見えます。ただ,西からはマンション群が迫ってる。それを物差しにすると,壁の高さは15階位の高さか?
 これを陥とそうと下流から来た軍兵には,悪夢の城に見えたでしょう。
 目眩のしそうな城の姿が,朧気に現れてます。でもそれは,まさに今,夢幻のように消失しかけてるわけですが。(→巻末小レポ:なぜ北に「前衛砦」があるのか?)

賑やかにも程がある

什字の地下鉄駅まで戻ってきました。1640。
 5B出口から出る。ここから新華路を南行してみよう。
 左手に「長江索道」と書かれた建物が現れます。ここが長江を渡ってたケーブルカーの乗り場か。人気らしく,乗車客でごった返してます。

▲1646ケーブルカー乗り場辺り

の新華路,要するに尾根道になるらしい。道は左右に下ってます。今通ってる金雅蘭酒店辺りがそのうちでも一番高台。解放碑というランドマークもこの辺りにあります。
 そこから南は問屋街になる。高台までのビル街とは打って変わって古い家屋が続きます。このモザイクぶり,やはり面白い町です。

▲1653新華路の問屋街

に賑わってきたかと思ったらもう邹容路です。1654,右折西行。
 って?何なんだこの人混みは?賑やかにも程があるぞ!

▲1656邹容路の南入口辺り

宿からワンブロック,不穏なるこいつら

▲1659解放碑近く

ラギラ光る電光グッズをあちこちで売ってます。
 看板類を見て冷や汗。どうやら…この解放碑の交差点が,新年カウントダウンの会場になるらしい。
 まだ7時間も前なのに,人が集まり始めてるんである。

▲1701同じく,もう通れない位の人出

げっである。カウントダウンの広場は,宿からワンブロックしかないではないか!
 素直に年越しを祝ってもいーんだけど…不穏なのはこいつら。

▲1703ポリが万全の人員数であちこちに

▲1704同じくポリ。その背中には──

リだらけじゃないか!
 これ見よがしに打ち合わせとかやっとる。
 でもそのベストの背中には「重慶安保」と書かれとる。こいつらがアンポ,ウーウー,ハンタイとかやりだしそうで…とにかく何か起こりそうな雰囲気ムンムン。

▲1751同じくポリスの指揮車両らしきもの。注:こういう写真は撮らないでください。

重慶年越しそばに…むせる

▲1716碗雑面

分を盛り上げようと思ったわけじゃないけど,年越しそばを食して旧年を締めることにした。
1713秦雲老太婆摊摊面
碗雑面300
 湯のないタイプの辛麺です。──今調べると,これがまさに旧四川食文化の生き残り,万州の伝統食とのこと。
 当然ながら,乾面のこっちの方が辛味が面に直接絡みついてきます。

烈!!!
 麺がボソボソしてるから,この激辛が混ぜこむほどに絡んでいく。熱干の重慶版──という印象なんですけど,それを言ったら重慶人,いや巴国人は怒るかも知れない。
 おそらく,熱干面こそこのプロト・四川料理を今に伝える後継なんでしょうから。

▲1743沁園前

晦日の飲茶のアテに,ここのを買い求めました。
2300沁元 桃酥300
 重慶のモザイク模様,この繁華街でも見られます。沁元の辺りも雰囲気よかったんですけど,惚れ惚れしたのはこのお店の陰影。
 漢族のセンスって,ここ数年ぐんぐん尖ってきてると思うのはワシだけでしょうか?
 表通りではカウントダウンしてる裏通りではあるんですけどね。

▲1749裏通りのパン屋

■小レポ:なぜ北に「前衛砦」があるのか?

 気になってたのは,なぜ中洲の本城の北に突出した砦状の城があるのか?という点でした。
 重慶城の「出城」はこの北のものの他,西にもある。前掲「大陸西遊記」は国際村を比定していて,形状として国際村公園がそれらしい。敵勢は西から来るしかないし,事実元軍も清軍も西から侵入したんだから,ここならまさに前衛基地です。
 分からないのは,嘉陵江向かいの北側の「砦」が,軍事的に意味を持ったのか?という点です。
「大陸西遊記」はやはり前衛基地としている。でも武漢のように穏やかな地形ではなく,高所にある本城の北です。
 しかも嘉陵江は,長江の支流中,最大の流域面積の大河。利根川の十倍です。長さ1,119km,流域面積16万平方km。
 これでは全然連携できないじゃないか。

 そこでもう一度,このエリアの大地形を見てみた。
 一点目。重慶のエリアでは,南北に延びる稜線を長江と嘉陵江が無理矢理分断した盆地です。何本もの南北稜線ただ中にあって,この重慶エリアだけが途切れてる。この2本,特に嘉陵江がこの稜線と格闘して拓いてきた地形らしい。おそらく重慶中洲は,このかつての稜線を二本の河が崩し尽くす前に,最後に残った残趾です。
 もう一点。江北,重慶北駅のあるエリアには,九龍湖を初めとする湖水が点在してる。これは開封や济南で見た地形です。つまり,明らかな旧河川の痕跡。
 かなり調べたけど,なぜかこの点に触れた地学情報がない。
 素人的に見た推論ですけど──この嘉陵江という大河は,重慶南北稜線を崩す過程で何度も細かく流域を変えてる。巴国の時代のどこかでは,江北城の北,現在の湖水域を流れていた時代があるのではないか?
 重慶中洲の北の崖の急峻さからして,現・嘉稜江のラインに水流がなかったわけではないでしょう。ただ支流だったのではないか?
 そうすると,重慶中洲が2つあった状況が想像できます。両者の間の水流が水路で連携出来るほど少なかったなら,重慶城は今よりもっと強固な浮き城だったことになる。
 重慶城は,巴国の砦を秦以降の全国権力が本格化したものです。巴国がそのような時代に残した砦配置が,対元・清戦時まで引き継がれた。そんな想像をしてみたんですけど,地学的根拠は前述の通り得られてませんのでこの辺までで。

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