油煳干青∈9烟台&長州:南巡2∋糟酸麻蒜

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

スタバ南からホテル対面へ

▲0928スタバ南の社区にて

の山手へ回ろう。
 0926,スタバの南の道から西行すると,駐車場の中を通って社区の中を南行。

▲0931社区の水の自販機。というか社区のだから身分証とかあればタダっぽい。

──まった!今朝諦めた路地からホテル対面に出てしまいました。
 歩道橋から南へ。同じく歩道橋から撮った下の写真は,悔しいので東向きです。

▲0932歩道橋から東を悔しいから望む。

毓璜頂西路──日本語でも中国語でも読めない…

璜頂街道毓璜頂西社区党群服務中心」という施設名をメモってます。0938。
 この限られた時間でこんな長い漢字をメモってるのは,この時たどった「毓璜頂西路」という登り道の雰囲気からです。
 何でもない団地の道に見える。でもどこか穏やかな空気がある。北の海辺の街並みと,全く空気が一転してました。

▲0939坂の登りきり前辺りの街路樹

線近くの道を西行に転じたのが0940。
 この入口の特徴的な道配置は記憶してます。この位置です→GM.
 で,前記の見たこともない「毓璜頂」という漢字は,ここを曲がらず南に行くとある公園の名前。蓬莱を象徴するような目出度い漢字らしい。
※ ふれあい中国/毓璜頂公園
「元の時代、『玉皇廟』として建てられたが、清代の増築の際、文化人らによって毓璜頂と改名された。赤い門の『毓秀钟灵地不爱宝,璜琮璞玉山自生辉』と刻まれた対聯は、『大自然の気がここに集まり、様々な宝石を生み出した。』という意味だ。」

▲0942文化路への分かれ道辺りの街路

文化路群での10分間

順記。開いてるのかどうか?」とメモ。市内に何軒かある鍋貼の店でしたけど,時間が時間です。
 時間と言えばもう滞在のリミットが近い。10時半のリムジンバスに乗る予定だったので…もう引き返すべき頃合いでした。
 なので,以下6枚の写真は10分余の間のものです。

▲0947周順記付近から東を望む。

化路に入ったのは0948。
 明らかにこの奇妙な分岐から,街並みの質が転じてます。毓璜頂西路から東の,雰囲気はあるけれど現代の新市街という光景から,地味だけど天津や青島のような居住区の洋館の風情。

▲0949文化路東端のアパート

の建物など典型的です。路面から数段上がる階段と石積み。上屋が近代のものなので洋館と決めつけるのも苦しいですけど,ここまでの烟台歩きでは考えられない光景でした。

▲0953文化路を西へ

浴の建物がえらく多い。
 生活感からは社区に見えるけど下町風情が否めません。
 あと,路側が異様に広い。解放後の早い時期に再開発された気配です。

▲GM.:文化路群エリア

oogleマップをご覧下さい。
 緑色のマークはアジアホテル。その南のエリアは「文化…」なる道だらけです。いくら烟台でも,こんなところは他に見つからない。
 推定される開発時期と建物の古さから考えて,このエリアは共産思想から見て「文化」的でなかったから教育的な意図を込めて再開発した。そう見えます。

▲0954文化路上の朝,仄かな賑わい

化宮南街へ右折北行したのが0954。
 それなりにネットを掘ったけど,このエリアの沿革らしきものは見当たりません。それどころか,青島以前の開港地だった痕跡は,北東の烟台山付近の領事館街の他には書かれたものがない。
 そのことと,中華民国設立時の強力な革命拠点だった経緯を状況証拠とするなら──このエリアは欧風の居住区があり,半租界の状態で一時やや猥雑さも含んだ繁華街だったけれど,いずれかの時期の革命勢力に矯正された。そういう想定も朧気にできます。
 
▲0956北への帰路

一つの僅かな傍証は,この街路樹の見事さです。
 解放後に植えたとしてもこの位の太さと高さにはなるかもしれないけれど…どうも自然過ぎる。機械的に植えただけじゃない疎らさ,ネジ曲がり度合いがあるように見える…のは穿ち過ぎでしょうか?

▲0958亜細亜ホテルの南道

烟台蓬莱空港へ160km/h

道から亜細亜西の駐車場へ出たのがジャスト10時。
 1007退房。十分な時間は余してたんですけど…古いホテル故か手続きがえらく長引きました。

▲漢口餐庁の文字とハングル

なり走ったんですけれど──ギリギリで遅れる。1035。
 バスはやはり30分毎です。1030のバスを逃して,残り140分か──。
 ここはどーんとタクシーにしよう。運ちゃんの言い値は150元とべらぼう。仕返しと言ってはナニですけど,実際より30分前の離陸時間を言ってカマし,爆走して頂くことに。

▲「正宗日本料理 清水日本海」正統日本料理──でも清水寺は日本海にゃないぞ?

クシーの車窓は土漠。
 緑色に乏しい南への緩い坂が,この辺りでも緩く大きくうねりながら続く。山並みは見えるけどかなり遠い。
 葉を落とした寡黙な街路樹が寂然として美しい。
 左手に2本煙突の工場を見て,高速への分岐へ。只楚路という表示。青島までの距離表示。
 1051,ロータリーを登った。大きな河をまたぐ。この辺りが時々出てくる「福山」なる町らしい。「福山区 開発区」との交通表示あり。──当初は狼煙台だった烟台(煙台)からの第一報を受けていた,古い城市。

 晴天。天に雲を見ず。つまり今朝のは放射冷却だったのか。
 物凄いスピードを出してる。160km/h位出てね?行き先に青島,济南と出てる。
 高速に入る。料金支払はETC。
 大地は緩やかにうねり,登り下る。高速は微かに左右に左右に頚を振りながら灌木の林を縫っていく。
 旅順を幻視するような凄絶な眺めです。
 残雪まとう南の山裾へと伸びる一本道。対する海側には焦げ茶の大地の向こう,海岸線沿いにマンションが延々。
 左手山沿いに風力発電30基ほど。
 1110,机場2km表示が路側に出ました。「莱州」との表示も普通にある。ある看板に「現代莱山烟台」(現代の蓬莱山・煙台)。
 1119空港着。尾根のような台地を利用した空港らしい。──これだけ飛ばしても所要45分でした。
 さてあとはこの空路を残すのみ。

■論点整理:煙台地名は倭寇襲来の狼煙台から…

──というのが,ほぼ唯一の地名由来として定説化してます。
 ただ,ネットでのこの表現があまりに似通ってるので不思議に思い,一次資料を探してみた。するとこれがよく分からない。どこにも典拠が記されてなくて,出典を辿ると元の資料に戻る感じです。
 確かに何かの記述はあるんでしょうけど…これは,どうもバイアスがかかってる。烟台のドイツ領に第一次大戦で日本軍が侵入し,それが結果的に中国侵略の初手になってから「攻めて来る日本」のイメージと地名が結びついた──あるいは政治的に結びつけたのでは?
 と推測する一方で,どうも倭寇被害のあった地名として山東が名を連ねることは珍しくはないようです。主に第二次倭寇(日本の室町期),メインだった浙江と朝鮮南岸に次ぐ形で名前が出てくる。ただどこが?と言うと疎らで判然としない。
 山東と倭寇,単に全体の中でマイナーなのか?それとも…むしろ中国側の目が届かないからこそどこかに拠点があったのか?
※wiki/烟台
「今日の『煙台』という名は明の洪武帝の治世だった1398年(洪武31年)に初出する。この年、倭寇対策のために奇山北麓に城が築かれ、その北の山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる塔が建設された。これが簡単に『煙台』とよばれるようになった。」
「中国の革命史上でも煙台は重要な役割を果たした。1911年11月12日、中国革命同盟会の山東支部は煙台で決起し、辛亥革命に合流した。翌日には山東軍政府が創設され、その翌日には山東煙台軍政分府と改称した。1914年、煙台を中心とする膠東道が設置され、1925年には東海道と改称された。煙台はこの時期までは膠東道および東海道の福山県(ふくざんけん)に属したが1934年に煙台特別行政区が発足し山東省の直轄地となった。もとは煙台を含んでいた福山県は以後煙台の街の拡大とともに範囲が削られ、現在の福山区となっている。1938年1月19日、日中戦争の最中、膠東軍政委員会が設立されこの地域の抗日運動の中心となった。」
※ 百度百科/烟台山景区
「1398年(明洪武三十一年),为防倭寇袭扰,在奇山北麓建奇山守御千户所城的同时,在“北山”设熨斗墩,亦称狼烟墩台、烽火台,发现敌情,昼则升烟,夜则举火,以为警报,简称烟台。当地有人称“熨斗山”“烟台山”。」
(出典:“烟台”的由来.大众网)
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