油煳干青∈5貴陽:蔡家街-炉国路線4∋糟酸麻蒜

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
 ▼(何か抜けられた)
GM.(経路)
 ▼(ここも抜けられた)
GM.(経路)
 ※実際は炉国路を南行

左手,第三家に有り

の慣習が無くなるのは速かった。90年代までは中国人が必ずしてた「悪癖」,午睡(シエスタ)。
 それだけ彼らの時間意識が急速に置き換えられたわけですけど…軟弱な日本人は,午後の部の前に一時間だけお昼寝させてもろときます。
 で,再出撃。中華路の最寄りバス停は大十字でした。ここからバスで…と思ったけどやっぱり歩いちゃえ。
 すると犬も歩けば何とやら,1402,ノボテルの対面に貫珠路というやはり丸まった道。これは建物の一部なのか?変な形を考えるものです。同心円状のコロシアムみたいな集合店舗群──
 ここも後日調べ直すと,面白い事実が浮いてきました。→巻末小レポ参照

▲1518カフェにて

憶通りの良いカフェです。
1415紅茶之翼
鉄観音
 特にこの一号店(民権路と中華路交差点の東南角)の二階。充電も出来るしタバコも可。
 WifiもOkなのでここは今回3度目の微信払い。
 しかし,鉄観音ってこうだったっけ?やや臭み,発酵臭を帯びてる。これが慣れてくると素晴らしく鼻孔を刺激する。柔らかく点てるとこうなるのか?それともこの鉄瓶ゆえか?
 いいお茶です。

▲紅茶之翼の微信払

一つ,記憶が蘇ってきました。
──そうだった。この店の唯一の難点は…店内にトイレがない!でも!まだこの絶品鉄観音は残ってる。
 記憶間違いを期待しつつ店員に訊く。
「在左辺第三家内有」
 え?トイレをそんなとこに作ったの?…と言われた通りに出ると…なるほど!「第三家」てのは三軒隣じゃなくて「3号店」か!すぐそこだから帰ってこれました。微妙だけど改善されとるじゃん!
 再び席に付き,鉄観音の臭みに酔ったのでした。しかもこの臭み,置くほどにまろやかになってる…。

▲1526妙に雰囲気のある円通街

んなこんなで今回も入り浸ってしまった後──
 1520,紅茶之翼出口から民権路の坂を登る。
 陝西路。今回は北行します。
 1524,円通街へ右折東行。少し登る。屋台数軒並ぶ。

現在位置が分かってたのは円通街まで

▲1529円通街の屋台街辺り

?木立の雪解けかと思えば…降ってきたぞ。これはみぞれか?
 登りきった辺りに木の門。それと,何回か出会した王陽明の碑。なぜここに?──と当時は訝ってますけど,陽明の活動拠点だったからです。

▲1531円通街の尾根辺り

りの名は,住所表示では堰塘街。
──と落ち着いてメモってるけれど,後で地図を見るとどこを辿ったのかまるで分かりません。この界隈,東西南北の条里と,おそらく元からあった路地が入り交じって,しかもアップダウンもある。ものすごく迷いやすい道の付き方たったんでした。

▲1534堰塘街…だと思う,ホントは。

道なき道の道を抜け

烈街。1536。結局ここへ出たか?
 1538,文明路。
 1539,文笔街。
 さて公厠を済ませたらまた電台街にいた。どう歩いたんだ?

▲1546再び大覚精舎

覚精舎の脇に帰って来てしまいました。よく見ると,これまた色んな肩書きのある場所です。
 分かった!文笔路を西へ戻ればいいんだ!
──とは書いてますけど,後から見るとどう動いたものかまるで分かりません。

▲1547全然分からない路地を行く。

▲1549蔡家街に出た。

中山路の陸橋から東西

家街から中山東路へ出た。1552。
 ようやく前回までの道行きと重なるエリアに出る。
 金牌夢記はやはり客がいっぱい。中山路を歩道橋で渡り南へ。

▲1557歩道橋から東を望む

山東路の地勢は,この蔡家街-炉国路の南北ラインから東で最高所に至る。
 ここが城壁ライン,つまり電台街のラインでしょう。歩道橋からはまっすぐに五重の塔。後方には,かなり下った場所にノボテルが見えてます。

▲1558同じく西側は大都会めいた景観

朝,南から入ったブロックに来ました。1604。
 ここを,今回は南行し,都司路を南へ越えたい。
 東門から南で小高い地勢はぐっと西へ回り込んで,今朝見た電台路付近のアップダウンに連なってるらしい。複雑な地形です。

▲1601炉国路を南行

怪奇!十字路に洋館「廃墟」

国路と都司路との十字路。1608。この南西角の廃墟の洋館は何だろう?
 ちょうどこの洋館が高みの西端になってる。炉国路自体はぐっと下りになっていきます。

▲「きようとりようり」と平仮名で書かれると…説得力ない。

──いうことは,不動産的には良い土地。百度地図で当たると「王伯群故居」。戦前の交通大学の校長さんで,上海にも同名建物あり。上海から,日中戦争で疎開した貴陽にも同じのを建てて住んでた,ということみたい。
 ちなみに,もちろん「廃墟」じゃない。歴とした観光地です。→百度百科/王伯群故居

▲1614炉国路南端辺り

国路尽きる。
 1616,右折西行,全林歩行街へ…ってここも模様替え工事中かい!客が離れるとかそういう細かいことは気にしないのだろう。

▲牛肉粉屋はやはり随所にある。

は,「貴陽 自助」で検索したらここの酒店がヒットしたから寄ってみたんだけど…。
 フードコートが確かにある。でも酒店は改装中。フードコートは外地ものばかり。
 1632出る。こうなったらディナーはリッチに──あそこかな?

▲1619

■指摘:貫珠巷の旧城内の位置

 これは推論の域には達してません。単なる事実の指摘に終わってます。
 貫珠巷は,北の中山路から南の市府路まで,南北に伸びる。伸びると言っても周囲にないS字をとる。東の中華路の南北ラインと好対照です。
 戯れに…と旧城壁図を見ると,該当するS字は一目瞭然に見つかりました。

▲湾曲からして上下地点は同一と推測される。

 だから何?という説明が,繰り返しだけどどうにも思いつきません。
 特に避けるべき地形はない平地です。城壁撤去部だとしても,内か外かの壁沿い道路跡だとしても,ここでS字湾曲しなければならない理由が分からない。
 参考になりそうなのは,市府路の湾曲です。この道は明代の城壁の内側に沿い,結果湾曲してる。
 貫珠巷も,下記1911地図で見ても内城内側沿いです。そして城壁そのものが,三ヶ所ほど認められる内城壁の穴を伝い,S字をいくつも描いている。
 けれどそこでまた元に戻る。城壁を波打たせる必要が,なぜあったのか。
 下記「每日头条」はかなり厳密に西門の位置を追ってますけど,この疑問を解く材料はついに見つからなかった。
 ただ見ていく限り──内城から外城大西門までのエリアは,ただ単に城壁の間というわけではなく,役所や居住区の多い中枢的な地域だったらしい。
 むしろ,元代内城と明代外城に並列される第三郭として,このエリアはあったのではないか?という気さえしてきます。

▲「1911年的贵阳地图」

※ 每日头条
/贵阳大西门瓮城 不在大西门遗址碑处
「贵阳建城伊始就一直存在的大西门(圣泉门),准确的位置应该在今星力百货后面通衢街的西端附近。」
/贵阳人应该晓得:“九门四阁”分别在什么位置、都长啥样?

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