左手,第三家に有り
この慣習が無くなるのは速かった。90年代までは中国人が必ずしてた「悪癖」,午睡(シエスタ)。
それだけ彼らの時間意識が急速に置き換えられたわけですけど…軟弱な日本人は,午後の部の前に一時間だけお昼寝させてもろときます。
で,再出撃。中華路の最寄りバス停は大十字でした。ここからバスで…と思ったけどやっぱり歩いちゃえ。
すると犬も歩けば何とやら,1402,ノボテルの対面に貫珠路というやはり丸まった道。これは建物の一部なのか?変な形を考えるものです。同心円状のコロシアムみたいな集合店舗群──
ここも後日調べ直すと,面白い事実が浮いてきました。→巻末小レポ参照
記憶通りの良いカフェです。
1415紅茶之翼
鉄観音
特にこの一号店(民権路と中華路交差点の東南角)の二階。充電も出来るしタバコも可。
WifiもOkなのでここは今回3度目の微信払い。
しかし,鉄観音ってこうだったっけ?やや臭み,発酵臭を帯びてる。これが慣れてくると素晴らしく鼻孔を刺激する。柔らかく点てるとこうなるのか?それともこの鉄瓶ゆえか?
いいお茶です。
今一つ,記憶が蘇ってきました。
──そうだった。この店の唯一の難点は…店内にトイレがない!でも!まだこの絶品鉄観音は残ってる。
記憶間違いを期待しつつ店員に訊く。
「在左辺第三家内有」
え?トイレをそんなとこに作ったの?…と言われた通りに出ると…なるほど!「第三家」てのは三軒隣じゃなくて「3号店」か!すぐそこだから帰ってこれました。微妙だけど改善されとるじゃん!
再び席に付き,鉄観音の臭みに酔ったのでした。しかもこの臭み,置くほどにまろやかになってる…。
そんなこんなで今回も入り浸ってしまった後──
1520,紅茶之翼出口から民権路の坂を登る。
陝西路。今回は北行します。
1524,円通街へ右折東行。少し登る。屋台数軒並ぶ。
現在位置が分かってたのは円通街まで
え?木立の雪解けかと思えば…降ってきたぞ。これはみぞれか?
登りきった辺りに木の門。それと,何回か出会した王陽明の碑。なぜここに?──と当時は訝ってますけど,陽明の活動拠点だったからです。
通りの名は,住所表示では堰塘街。
──と落ち着いてメモってるけれど,後で地図を見るとどこを辿ったのかまるで分かりません。この界隈,東西南北の条里と,おそらく元からあった路地が入り交じって,しかもアップダウンもある。ものすごく迷いやすい道の付き方たったんでした。
道なき道の道を抜け
忠烈街。1536。結局ここへ出たか?
1538,文明路。
1539,文笔街。
さて公厠を済ませたらまた電台街にいた。どう歩いたんだ?
大覚精舎の脇に帰って来てしまいました。よく見ると,これまた色んな肩書きのある場所です。
分かった!文笔路を西へ戻ればいいんだ!
──とは書いてますけど,後から見るとどう動いたものかまるで分かりません。
中山路の陸橋から東西
蔡家街から中山東路へ出た。1552。
ようやく前回までの道行きと重なるエリアに出る。
金牌夢記はやはり客がいっぱい。中山路を歩道橋で渡り南へ。
中山東路の地勢は,この蔡家街-炉国路の南北ラインから東で最高所に至る。
ここが城壁ライン,つまり電台街のラインでしょう。歩道橋からはまっすぐに五重の塔。後方には,かなり下った場所にノボテルが見えてます。
今朝,南から入ったブロックに来ました。1604。
ここを,今回は南行し,都司路を南へ越えたい。
東門から南で小高い地勢はぐっと西へ回り込んで,今朝見た電台路付近のアップダウンに連なってるらしい。複雑な地形です。
怪奇!十字路に洋館「廃墟」
炉国路と都司路との十字路。1608。この南西角の廃墟の洋館は何だろう?
ちょうどこの洋館が高みの西端になってる。炉国路自体はぐっと下りになっていきます。
──ということは,不動産的には良い土地。百度地図で当たると「王伯群故居」。戦前の交通大学の校長さんで,上海にも同名建物あり。上海から,日中戦争で疎開した貴陽にも同じのを建てて住んでた,ということみたい。
ちなみに,もちろん「廃墟」じゃない。歴とした観光地です。→百度百科/王伯群故居
炉国路尽きる。
1616,右折西行,全林歩行街へ…ってここも模様替え工事中かい!客が離れるとかそういう細かいことは気にしないのだろう。
実は,「貴陽 自助」で検索したらここの酒店がヒットしたから寄ってみたんだけど…。
フードコートが確かにある。でも酒店は改装中。フードコートは外地ものばかり。
1632出る。こうなったらディナーはリッチに──あそこかな?
■指摘:貫珠巷の旧城内の位置
これは推論の域には達してません。単なる事実の指摘に終わってます。
貫珠巷は,北の中山路から南の市府路まで,南北に伸びる。伸びると言っても周囲にないS字をとる。東の中華路の南北ラインと好対照です。
戯れに…と旧城壁図を見ると,該当するS字は一目瞭然に見つかりました。
だから何?という説明が,繰り返しだけどどうにも思いつきません。
特に避けるべき地形はない平地です。城壁撤去部だとしても,内か外かの壁沿い道路跡だとしても,ここでS字湾曲しなければならない理由が分からない。
参考になりそうなのは,市府路の湾曲です。この道は明代の城壁の内側に沿い,結果湾曲してる。
貫珠巷も,下記1911地図で見ても内城内側沿いです。そして城壁そのものが,三ヶ所ほど認められる内城壁の穴を伝い,S字をいくつも描いている。
けれどそこでまた元に戻る。城壁を波打たせる必要が,なぜあったのか。
下記「每日头条」はかなり厳密に西門の位置を追ってますけど,この疑問を解く材料はついに見つからなかった。
ただ見ていく限り──内城から外城大西門までのエリアは,ただ単に城壁の間というわけではなく,役所や居住区の多い中枢的な地域だったらしい。
むしろ,元代内城と明代外城に並列される第三郭として,このエリアはあったのではないか?という気さえしてきます。
※ 每日头条
/贵阳大西门瓮城 不在大西门遗址碑处
「贵阳建城伊始就一直存在的大西门(圣泉门),准确的位置应该在今星力百货后面通衢街的西端附近。」
/贵阳人应该晓得:“九门四阁”分别在什么位置、都长啥样?