Range(粉嶺).Activate Category:香港九次 Phaze:老围

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)


侵攻ルートを仮想した実戦型城塞

圍の門の前に立つ。
 拒むような門構えです。
 対聯は右手に「門高迎紫気」,左手「围老得淳風」(紫気→巻末小レポ参照)。
 入口に「治安不好」との文字?沖縄の「ハブに注意」みたいなもんか?
 でも決めた。入る。

▲1245南側の城壁

ず震撼したのは,完全に実戦型だったこと。
 入口は北側,つまり反対側,谷沿いの侵攻を想定してる。外縁には道が巡ってて用兵を容易にしてる。各辺には凸型部まである。十字砲火を想定してる。

▲1247城壁の凸型の出っぱり部分

北壁,銃眼8

際に闘ってた造りです。
 城壁も家屋も割と新しい。形は方形でなく地形を利用した不整形。一辺50mほど。
 長期対峙を考えてか,各角には小さな井戸まで敷設されてる。

▲1252城壁の向こうはすぐ普通の住宅です。

辺。1252。
 用途不明の石搭の名残石。やや内側に共同井跡。
 北側の壁には銃眼6,北門の櫓にさらに2つがある。

▲1253紛れもなく古い井戸は厳重に囲ってありました。

口の門に戻ると脇に祠。記名は「土主之神」。──可能性としてだけど,突飛な想像もしました(巻末参照)。
 この脇に小さく注釈プレート。老围は14世紀建立の「五围六村」中でも最も古いもので法定古跡に指定されているとある。
──というわけで,専ら軍事の目で見て感嘆した粉嶺老圍だったのでした。

▲1255銃眼と井戸

勿体ないお化け2号

圍を出ると北に松嶺邓公祠という建物。立派だけど入れない。スルーして進む。1305。
──勿体ないお化けが出るぞ!そこ,劉氏の聖地だったんじゃね?それにさらにその間には──悲嘆が大きくなるので巻末に譲るけど,勿体ないお化け2号も出ておるぞ。

▲1312右往左往してるときに見かけた家屋。当たり前だけど美しい。

な空気の町で…道と家との緊張感が,香港ではあり得ない薄さです。
 バス道らしい翠雲路を左折北西行…のつもりだったけどここから先にさらに祠堂村と東閣围がある。直進する。

東閣圍で半端に折り返す

▲1312翠雲路から東への道

に入る。奥手に慈索村公所という古びた建物。
──とこれだけしかメモれておらず,結果的に翠雲路まで引き返してます。
 このエリアをGM.で見ると,次のような迷路状。

▲翠雲路から東の物凄い分岐の道(GM.)

にこの辺りを東閣圍エリアと呼んでおきます。
 次の2枚はその集落内。好きな光景ですけど──これは老圍で集落を撮ってない理由とも重なります──どうも咀嚼し切れなかった。半分は期待薄と判断してですけど,半分は未知に怯えて引き返したわけです。

▲1314侵入。右手の古壁と左手の新しいアパート建物の激しい対比

のエリアの特徴として,建物がほぼ新しい。
 元は古い。記述からすると5~6百年経ってるわけですから。それは道の曲がりや構造に残ってます。
 文化財を守ろう,という意識ではなく,極めて正気でこの土地で生き継ごうとしてる。

▲1314集落内の古壁にキツい色彩のドア

の扉など象徴的です。古い家屋を維持し,かつ風格を保つべく自然な発想で色調も合わせてる。でも文化財的には勿体ないことしてる。
 大陸の老街を楽しむ感覚では「惜しい!」印象しか与えない。けれど,棲み続けてやる,という直球的な執着を感じる。──そんなかつてない印象を不覚にも「期待薄」と判じてしまってました。
 1322,戻って翠雲路を左折北西行。道というか,空き地みたいな隙間を進む。

猛犬とミックス豆

▲1324空き地のような道

の間隙は,要するに圍の間の空き地に,近年──つまり海賊や先住者たちの襲撃を恐れなくてよくなってから──近代家屋が並んだ,という経緯を物語ってます。
 この東閣圍エリアが,如何に圍という防御施設なしでは住めない時空だったか,という事蹟でしょう。

▲1325道端に小さいけれど本気で祀ってる祠

▲1327野の中に明らかに何かが建っていた形跡

寧村公所という建物のある,石垣を巡らした,おそらく围の跡の集落に出た。1329。
 ただし…これは門扉が閉ざされ入れないぞ?生活感はありそうなのに…。

▲1336圍入口の祠

スケットボールコートの北側に門がありました。
 では時計回りに…と思ったけど中はかなり新しい。それに猛犬が吼えてきます。
 入口の神は「護村土主福徳正神」と額。対聯は,右手「護祐一村皆迪吉」,左手「扶持千載永興隆」。1340。

▲1338围入口から中に入りかけ…たら猛犬が!

寧村の圍…かどうか分からない場所を,とりあえず背にする。
 バスはやはりフリーストップだった。1347,乗車,火車站へ。八達卡をかざすと料金表示は4.9HK$。

▲祠にミックス豆

やっぱり分かんワイ(失笑)

路に出て左折。逸峯広場というモール付高層マンション。
 快走。こう車窓を見ると,この町かなりデカいぞ。聯和市場という廃墟の市場。
 和泰街にキリスト教会。
 うーん,こんなに歩いたっけ?
 1357,駅着。やはり元朗行きのバスも走ってます。バスのナンバーは52K──と確認までしつつ,この時はスルーしてます。

,ここは結局何だったんだろう?
 よく分からない。
 広東の平野部から九竜半島の山間部に入る手前の小盆地。元朗と併せ,植民者あるいは「侵略者」たちはここを橋頭堡にしたんだろうか?
 ただ「侵略者」にしては他のどこよりも強固な防御装置です。この地がそれほど危険だった時代というのが,どうしても想像できません。
 だから,分からない。圍を初めて歩いた時の「?」に一周回って帰ってきた思いです。

を,自分がそれほど不思議に感じてるのか,改めて考えてみた。
① 守りが強固過ぎる。
 なぜこれほどの壁を造らなければならなかったのか?それほどこの地域は危険だったのか?
② 民間の軍事施設である。
 同クラスの砦は,例えばイタリアでも日本でもなくはないけれど,いずれも政治権力が造たもの。純民間で,誰に命じられたのでもなく,自主的にここまでの防御を持つ例を他に知らない。
③ そうまでしてここになぜ住んだのか?
 民間でこの城塞を造るには,創始段階で家財を全部投資するほどの費用だったはず。居住者は移民で,土地への愛着があったわけではない。何に固執したのか?
 という訳で,繰り返しますけど,分からない。訪れるほどに謎の深まる圍なのでした。

■小レポ:紫気の何が有難いのか?

 感覚の問題なので明晰なまとめにはなりませんけど──どうも漢民族には「紫の気」というものは有難いらしい。
 何が?──と日本人的には考えてしまう。「紫気」そのものに定義や内容はないから,また厄介です。
 あちこちに「紫気東来」という成語は登場する。意味は,幸運がやってくるよ,転じて「待てば海路の日和あり」と似たニュアンスらしい。
 出典は老子の列聖伝。故事は以下を読んで頂きたいけれど,凄く略すと「紫気」を感じた後でラッキーだった,だけら「紫気」は瑞兆だ,ということみたい。
 と辿ってもどうも分からん。はっきりするのは以下二点です。
①皇帝の色→高貴,という構造を持っていた時期もあるけれど,それは漢末~隋初の混乱期に限られる。
②それ以外ではほぼ,「紫気」を尊ぶのは道教思想世界の中だけと考えていい。
 ちなみにピンインはzi3qi4。
※ ameba/紫気東来 1
「道教には「老子過函谷関、紫気従東而来」(老子函谷館を過ぎ行けば、紫の気が東より来たりぬ)という言葉があります。」
※ 鳳凰楼(改訂版) | 電羊齋雑記 Talkiyan Honin Jai hacingga ejebun
「老子が函谷関を通過するとき、紫気(高貴な気、瑞祥)が東からやって来たという伝説に由来する。」
※ 4travel/紫気東来~朋友夫婦来幇忙理東西
「紫気東来/zi1 qi4 dong1 lai2(ズー・チィ・トン・ライ(「チ」は日本語の「チ」じゃなく有気音です))
 →幸運は必ず来る,待てば海路の日和あり。
(道教の教えで、老子が険しい山岳地の山越えで苦悩して途方に暮れていると、東手から、高貴な役人が乗り捨てたで有ろう馬が迷い込んできて、それに跨って事なきを得た事から由来する)」
※ TANTANの雑学と哲学の小部屋/紫と黄色はどちらの方がより高貴な色なのか?西洋世界と東洋世界における色彩観の違い
「道教思想においては、北極星が神格化された存在である北極紫微大帝(ほっきょくしびたいてい)と呼ばれる道教における至高神の名前に紫の字が用いられているように、紫色をより高貴な色として重視する色彩観が展開されていくことになります。」
「漢王朝の滅亡から三国時代と五胡十六国時代の分裂時代を経たのち、隋による中国の再統一へと至るまでの期間である5世紀から6世紀にかけての中国の南北朝時代においては、王朝に対する道教の影響が強まることによって、道教思想の内において重視され尊ばれている紫の地位が相対的に高まり、皇帝の袍(ほう、儀式などに用いる上衣)にも黄色ではなく紫色が用いられる時期も現れていくことになる」

■メモ:おそらく違うけど「土主」の意味

 まさかそんなことは──と思うけど,なぜかこれしかヒットがない。
「土主:少数民族・阿昌(アチャン)族が廟に祀って信仰する神」
 土地公と同義を,ここを開いたとされる龙跃头邓氏が独特の呼び名で呼んでて,それがたまたま阿昌族の名称に重なったんだろうか?
 龙跃头邓氏は元朗の東・锦田から移ってきたという。锦田邓氏という一族は,江西省吉水県に端を発してる。今は雲南にのみ住む阿昌族と文化的融合の機会を持つ可能性は,皆無ではないけれど。
 それとも,南西部の食文化が想像以上に少数民族のものを吸収しているように,中国の土着宗教にも意外な痕跡を与えてるんだろうか?
※ 神魔精妖名辞典/土主(トゥジュ)
「中国の少数民族、阿昌(アチャン)族が廟に祀って信仰する神。六本の手を持ち上の二本で太陽と月を持ち、全村落の幸福と災害を司っているという。村の安全や家畜の繁殖、作物の保護を祈って年三回の祭りが土主のために捧げられる。」
※ 維基百科/锦田
「锦田(英语:Kam Tin)位于香港新界元朗区东面,具有悠久的历史。锦田古称岑田」
「锦田与屏山、厦村、十八乡、八乡和新田合称“元朗六乡”。」
「锦田由邓氏建乡,始于宋朝。锦田邓族始祖邓汉黻原居江西省吉安府吉水县白沙村,至北宋熙宁二年,其四世祖邓符协考取进士并授广东阳春县令,期间宦游至元朗」
※ 維基百科/老围 (龙跃头)
「龙跃头邓族于14世纪由锦田移居龙跃头,先后建立了“五围六村”,老围兴建日期已不可考,但应是五围中最早建立的围村。」

■メモ:当時は見向きもしなかった老圍天后宮

 松嶺鄧公祠と老圍の間には──天后宮がありました!
 この一年後,追いかけまくってる天后宮です。しかもここのは,GM.の画像の由緒書(下記の通り)によると──松嶺鄧公祠より古いと伝わってる!
 何より,ここの画像から受けた印象が…素朴だ。ギラギラに寄進だらけというのでなく,純粋に祀ってるという天后です。→GM.
 それにしても…これほど山中の,大陸奥地(福建ではなく)に由来を持つ老圍の人々がなぜ,ひょっとしたら祖先より先に媽祖を祀ったんだろう?
※ 天后宮由緒書
「天后宮位於松嶺鄧公祠與老圍之間,其建築年代無法考證,但據村中父老相傳,應較松嶺鄧公祠為早。該廟於1913年及1981年曾進行全面維修。
 天后宫為兩進式建築,正殿供奉天后及其侍神千里眼和順風耳。右殿供奉土地神位,並放置兩口古鐘,其中一口為清康熙三十四年(1695年)鑄造,乃鄧氏族人為子弟投契天后的酬神之物:另一古鐘鑄於康熙三十九年(1700 年),為村內族中子弟出門往省城應試,祈求路上平安的酬神之物。
 天后宫於2002年11月列為法定古蹟。」